◇聖書箇所: マタイの福音書 27章57-66節◇(3月30日)

「夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。」…マタイ27:57

主イエスが、午後3時ごろ十字架上で息を引き取られると、アリマタヤ出身のヨセフという主イエスの弟子が、イエスのからだの引き渡しをピラトに願い出て許可されました。すると彼は、午後6時以降になるとユダヤでは日が変わって安息日となり、労働を休むことが通例であったため、それまでにすべてを終えるべく、速やかにイエスのからだを取り下ろしました。そして、それを清潔な亜麻布に包み、自分が所有する新しい墓に運んで行って納め、その入口に大きな石を転がして立ち去ったのです。マタイは、このヨセフが金持ちであったとわざわざ記しています。主イエスは、以前弟子たちに、「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです」と告げられましたが(19:23)、主イエスの死後、12弟子ではなく、金持ちであったそのヨセフが、ピラトのところに行き、主イエスのからだの下げ渡しの許可を得、適切な処置をしてそれを墓に納めるという、いっさいのことを行なったのです。イエスの仲間として捕らえられる危険もありましたが、彼はそれを恐れることなく、弟子として行動したのです。金持ちについて主イエスが言われたことの真意…それは、財産の有無自体が問題なのではなく、お金を捨てても、いのちを捨てても、私を愛し、私を第一とし、私に従うことを選び取るか…。そのような者こそ、天の御国に入ることができるのだ…ということであったのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」(16:24-25)。アリマタヤのヨセフは確かにそのような者でした。彼が差し出したきれいな亜麻布も、新しい墓も、主のために用いられたのです。マタイはここでそのことを示しているのです。私たちもまた、弟子としてふさわしく歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章45-56節◇(3月29日)

「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」…マタイ27:54

主イエスが二人の強盗とともに十字架につけられた後、12時から3時まで光が失われ、闇が全地を覆いました。そして3時ごろ、主イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれましたが、それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。本来、罪人である私たちが発すべきその痛みと苦しみを、主は十字架上で味わわれたのです。そうとは知らない人々の中には、「エリ」ということばから、預言者エリヤを助けを求めていると勘違いする者や、酸いぶどう酒を海綿に含ませ、気付け薬としてイエスに差し出し、意識を保たせようとする者もいましたが、そんな中、イエスは再び大声を上げて霊を神に渡され、息を引き取られたのです。ヨハネによればそれは「完了した」と言うことばでした(ヨハ19:30)。十字架上で主は、贖いは完成した、成し遂げられた、人々が罪に苦しむ必要はなくなったと、宣言されたのです。すると、そのとき、神殿の幕が真っ二つに裂け、地は揺れ動き、岩が避け、多くの聖徒たちが生き返りました。その幕は聖所と至聖所とを隔てる分厚い幕であり、それが裂けたことは、キリストの贖いにより、神と人との隔てが完全に取り去られたことを意味していたのです。それらのことを目撃したローマの百人隊長たちは、神を畏れ、イエスが神の子であったと認めました。異邦人である彼らが、そのように、イエスは確かにメシアだと告白したのです。しかし、そのことを主イエスご自身から教えられ、知っていたはずの12人の弟子たちはそこにはいませんでした。すでにユダは脱落し、残りの多くの者たちも逃げてしまっていたからです。では私たちはどうでしょうか…。どのような苦難の中に置かれても、イエスは主と告白し、主イエスに従い続ける覚悟はあるでしょうか…。主に贖われた者として、この受難日、主への献身の思いを新たにしたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章27-44節◇(3月28日)

「「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」」…マタイ27:42

ピラトの兵士たちは、自分たちに引き渡されたイエスに王の格好をさせようと考え、衣を脱がせて緋色のマントを着せ、長いとげを持った茨で編んだ冠をかぶらせ、頼りない葦の棒を右手に持たせました。そして、イエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言ってからかい、その後、元の衣を着せ、ゴルゴダの丘に連れて行き、そこで二人の強盗とともに十字架につけました。すると、そのイエスを見て人々は、神の子だと言うなら、自分を救え、十字架から降りて来い、と言ってののしり、また祭司長たちも、他人は救えるが自分は救えないのか…十字架から降りてみろ、神の子なら神に救い出してもらえ、と言ってイエスを嘲りました。さらに、イエスと一緒に十字架につけられた強盗も、同じように口にして、イエスのことをののしったのです。そのようにイエスは、弟子たちに逃げられ、人々からののしられ、あざけられ、十字架の上で、痛みと苦しみと恥と侮辱を受けられました。しかしイエスは、自分が身代わりとなって神からの刑罰を受けることにより、その一人ひとりの罪が赦され、救い出されるために、十字架にかかられたのです。そしてその十字架は、それらの人々のためだけでなく、もしその場にいたら、きっと彼らと同じようにしていたに違いない、罪深い私たちのため、造られたすべての人のためのものであったのです。もし主イエスが、十字架から降りてしまったなら、人類の救いはもたらされませんでした。罪ののろいの中に閉じ込められたまま、もがき苦しみ続けなければならなかったのです。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした」(1ペテ3:18)。キリストの十字架の恵みがいかに大きく深いものであるか…絶えず心に留めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章11-26節◇(3月27日)

「ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」」…マタイ27:24

総督ピラトは、自分のもとに連れて来られたイエスが、実際には死刑に当たるような悪事は何もしておらず、単に宗教指導者たちのねたみによって捕らえられ、ローマの十字架刑によって殺されるようにと、彼らが願っていることに感づいていました。そこで彼は、ユダヤの祭りのたびに囚人を一人釈放しているならわしにより、イエスを釈放してはどうかと人々に提案しましたが、彼らは、バラバという囚人を釈放してほしい、と願ったのです。一方、ピラトの妻は、見た夢の中で、イエスについて自分がとても苦しい目に遭ったため、イエスには悪いところがないのだと悟り、裁判の席に着いているピラトに人を遣わして、イエスに関わることをやめるように進言しました。すると、それを聞いたピラトは、やはりそうかと考え、再度イエスを釈放するかと人々に尋ねましたが、彼らは、釈放するのはバラバだ、イエスは十字架につけろとますますエスカレートしたため、暴動が起こるのを恐れたピラトは、結局、人々の要求に従ったのです。暴動が起こればその責任を問われ、総督の地位を失うのは明白でした。だからこそ彼は、群衆の前でわざわざ手を洗って見せて、自分には責任がないと言ったのです。また、群衆は、イエスのエルサレム入城の際にはホサナと叫んで歓迎したのに、自分たちが望む政治的な動きを見せないイエスに失望し、祭司長たちにそそのかされ、「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」とさえ言って、イエスの十字架刑をあくまで要求したのです。祭司長たちのねたみ、群衆の自己中心、ピラトの自己保身…。人々の罪深さがここに現わされています。しかし、イエスの血は、その彼らの罪の赦しのために流されたのです。イエスのいのちは、彼らの贖いのための代価とされたのです。そしてそれは、私たちを含む、全人類のためであったのです。そのことを心に留めたいと思います。

主の愛とあわれみを覚えることができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 27章1-10節◇(3月26日)

「そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。」…マタイ27:5

大祭司カヤパの家での夜を徹しての裁判において、死刑に定められた主イエスは、そこにいた祭司長たちや長老たちによって縛られ、連れ出され、ローマ当局がユダヤの総督として任命していたピラトに引き渡されました。一方、イエスを裏切り、彼らに銀貨30枚で売ったユダは、イエスが極刑に処せられることを知って驚き、自らが行なったことをそのときになって後悔しました。彼は、自分の思い描いていたあり方とは違うイエスの歩みに失望してはいましたが、まさかそこまでのことになるとは思っていなかったのです。彼は恐ろしくなり、祭司長たちのところに行き、「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と言って、もらった銀貨を返そうとしました。ところが、祭司長たちはユダのその申し出をにべもなく断り、「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」と吐き捨てるように言いました。そこで、しかたなくユダは、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって自ら命を絶ったのです。それは悲惨な最期でした。ユダは、イエスが死刑に定められたことを知ったとき、自らの裏切り行為がいかに罪深いものかを思わされました。だからこそ、いたたまれなくなり、祭司長たちのところに行ってその罪を告白し、銀貨を返そうとしたのです。しかし、そのとき、彼が自分の罪を告白すべき相手とは、彼らではなく神であり、悔い改めて立ち返るべきなのは、主イエスに対してであったのです。けれども、彼はそうしませんでした。そして、宗教指導者でありながら、愛やあわれみの心のない祭司長たちから、冷たく無責任なことばを浴びせられたのです。その後、彼は神殿に行きました。そこで神に対して罪を告白し、悔い改めることができたはずです。しかし、彼はそうせず、ただ銀貨を投げ込んで、絶望の思いでそこを立ち去ったのです。人は誰を畏れ、誰の前に真実に生きるべきなのか…そのことを思わされます。私たちが主に罪赦され、生かされていることを、あらためて感謝したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章57-75節◇(3月25日)

「ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。」…マタイ26:75

捕らえられた主イエスのあとをこっそりつけて行き、成り行きを見ようと大祭司の中庭に入ったペテロは、素知らぬ顔をして役人たちと一緒に座っていました。しかし、人々に気づかれ、あなたもイエスの仲間だろう、と指摘されると、彼は動揺し、そんな人は知らない…と言ってただちに否定しました。そしてそのようなやり取りは3度も繰り返され、最後にはペテロは、嘘なら呪われてもいい、とさえ言って誓ったのです。そのとき鶏が鳴きました。するとペテロはようやく我に返り、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言います」と自分に告げた、主イエスのことばを思い出しました。その後、彼は外に出て行って激しく泣いたと記されています。ペテロは感情を抑えきれなくなり、人目をはばからずに号泣したのです。なぜそれほどに彼の感情は動かされたのでしょうか…。それは、自分こそ一番弟子だという自尊心、イエスを知らないなどとは決して言わないという自信を持っていたのに、それらがもろくも崩れ、自分のふがいなさを思い知らされたからです。そして何よりも、自分も捕らえられるのではないかと恐れ、主を否んで裏切ってしまった、その自らの罪深さに愕然としたからです。そんなペテロを、私たちは軽蔑することはできません。なぜなら、私たちのうちにもまた、恐れずに主に従い通すことができない弱さ、自分を守ろうとする罪深さがあるからです。しかし、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」(ルカ22:32)とペテロに言われた主は、私たちのためにも、同じように、天の御座においてとりなし続けてくださっているのです。そのことを覚えて感謝しつつ、自らの罪を悔い改め、主の赦しととりなしによって信仰を保ち続け、主に従い続ける者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章36-46節◇(3月23日)

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」…マタイ26:41

主イエスは、弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に行き、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを伴ってさらに進んでいき、あとの者たちはそこで座って待っているようにと命じられました。その後、3人と一緒にいた主は、悲しみもだえ始められ、その悲しみのあまり死ぬほどだと言われ、わたしと一緒に目を覚ましていなさいと彼らに命じ、ご自身は少し離れた所で父なる神にひれ伏して、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と、心を注ぎだして祈られたのです。「杯」とは待ち受ける十字架の受難を意味していました。その痛みと苦しみは、単に肉体的なものではなく、全人類の身代りとして、すべての罪を一身に背負い、神のさばきを受けて死ぬという、筆舌に尽くしがたい精神的、霊的なものであり、それを前にして主イエスは苦悩し、神から見捨てられるという悲しみを味わわなければならないことを思って、心が張り裂けそうであったのです。そのようにして自分たちの主がもだえ苦しんでいる間、ペテロたちは眠ってしまいました。「一緒に」、「ともに」と主は言われましたが(38,40節)、その3人は皆の代表であり、主は弟子たち全員に対して、ご自分と一緒に、同じ思いで、みこころがなることを神に祈り求めるようにと、願っておられたのです。「誘惑に陥らないように」と主は言われました。そこに、祈りを妨害する悪しき者の働きが示唆されています。悪魔にとって聖徒たちの神への祈りは脅威なのです。「別に私が祈らなくなって…」と思わせる、悪魔の誘惑に陥らないために、主は、今も天においてとりなしているご自身に心を合わせて、目を覚まし、神のみこころがこの地の上に、自分たちの内になることを祈り続けるようにと、切に願っておられるのです。「肉は弱い」と言われる私たちですが、御霊に強められ、助けられつつ、目を覚まして主とともに祈り続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章26-35節◇(3月22日)

「ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。」…マタイ26:35

主イエスは、弟子たちとの過越の食事の中で、パンとぶどう酒を取り、神を賛美し、感謝の祈りをささげました。そして、わたしのからだとして覚えて食べるようにと言ってパンを弟子たちに与え、また、罪の赦しのために流されるわたしの血だと言って、ぶどう酒が入った杯を飲むよう彼らに命じられました。教会はこのことを聖餐の起源とし、以来2千年間、それを守り続けているのです。29節のみことばに心が留まります。主は、弟子たちが天の御国に入れられるとき、地上での過越の食事とは異なる「新しく飲むその日」が来ると言われましたが、それは、すべての聖徒たちへの約束でもあります。栄光のからだを与えられ、主とともに永遠に生きる者とされた者たちが、感謝と喜びのうちにそのような時をやがて迎えるのです。それは私たちにとって大いなる希望なのです。過越の食事を終えてオリーブ山に向う途中、主は弟子たちに、あなたがたはみな、今夜わたしにつまずくと予告されました。しかしペテロは、たとえ皆がつまずいても、私は決してつまずかない…と、自信たっぷりに言ったのです。すると主は彼に、確かにあなたは今夜、鶏が鳴く前に三度私を知らないと言う、と告げましたが、ペテロは、そう言われてもなお、たとえ一緒に死ぬことになったとしても、あなたを知らないだととは決して言わない…と、主が言われたことを頑なに否定したのです。「たとえ皆がつまずいても」とわざわざ言ったペテロは、自分には主への忠誠心がだれよりもある…と自負していたに違いありません。しかし実際はそうではなかったのです。「弟子たちはみな同じように言った」。マタイはそう記しています。ペテロだけではないのです。そして私たちも、自信過剰になり、悪しき者の誘惑を甘く見てしまう弱さを持っているのです。そうならないよう、へりくだって、主の助けと導きを求める者でありたいと思います。

絶えず主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章14-25節◇(3月21日)

「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」…マタイ26:24

主イエスの12弟子の一人であるイスカリオテのユダは、主を裏切って祭司長たちに引き渡そうとし、彼らのところに行ってそのことを伝え、銀貨30枚をもらうことでその交渉を成立させました。そしてそれ以来彼は、いつイエスを引き渡そうかと、その機会を狙っていたのです。昨日の箇所である26章8-9節には、ある女性が非常に高価な香油を主イエスの頭に注いだことに対して、弟子たちが憤慨したと書かれていますが、ヨハネの福音書には、ユダがそのとき、なぜ300デナリで売って貧しい人々に施さなかったのか…と発言したこと、そしてその理由は、彼が預かっていた金入れから盗んでいたからである、と記されています。ユダは罪を犯していたのです。主イエスは、過越の祭りの食卓に12弟子と一緒に着き、食事が始まると、あながたのうちの一人がわたしを裏切ると言われました。もちろんそれはユダのことを指していましたが、そうとは知らない弟子たちは驚き、悲しみ、まさか自分ではないでしょう、と一人ひとり自ら否定し始めました。すると主はさらに、わたしと一緒に手を鉢に浸した者が裏切るのだ、その者は生まれて来なければよかったのだ、と言われたのです。それは「死んでしまえ」という切り捨てのことばではありません。「生きる者となれ」という促しのことばです。ユダはそう言われて悔い改め、裏切るのをやめることもできました。しかしユダはそうせず、まさか私ではないでしょう、としらじらしく答えたのです。そして彼がそのようにあくまで主に背を向けたゆえに、その結末はのろいに満ちたものとなってしまったのです。私たちがユダのように主を裏切るようなことはないでしょう。しかし、常に自分を正しいとし、主の前に悔い改めようとしないなら、それは主が喜ばれるあり方ではないのです。絶えず主が願われる道を歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 26章1-13節◇(3月20日)

「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」…マタイ26:12

天の御国について、たとえを用いて弟子たちに語られた主イエスは、さらにご自分について、2日後に迫った過越の祭りの中で捕らえられ十字架につけられる…と告げられました。実際そのころ、祭司長たちは大祭司の家に集まってその相談をし、民が騒動を起こすのを避けるべく、祭りの期間中は避けようと話していたのです(3-5節)。そのような中、イエスがベタニヤのシモンという人の家にいたとき、一人の女性が非常に高価な香油の入った壺を持ってやって来て、その香油を惜しげもなくイエスの頭に注ぎました。想定外の事態に弟子たちは驚き、そのうちの何人かは、何のためにこんな無駄なことをするのか、この香油を売ればそのお金で貧しい人に施しができたではないか…と憤慨し、その女性を非難したのです。ところが主イエスは、なぜこの人を困らせるのか…と、逆に彼らを叱責しました。そして、この人はわたしに良いことをしてくれたのだ、なぜなら彼女は香油をわたしに注ぐことによって、わたしの埋葬の準備を今からしてくれたからだ、世界中どこでも、この人の行為は語り継がれるようになる…と、弟子たちに告げられたのです。この女性のイエスへの行為、それに対して主が与えられた最大限の称賛、そして弟子たちに対する叱責…それらのことを思い巡らす中であらためて教えられること、それは、主イエスに贖われ、弟子とされている私たちにとって、大切であり主から求められていることとは、今がどのような時なのかを正しく認識するということであり、その時に具体的に何をなすべきなのかを知るということなのです。そのように主は、ご自身の計画の中で、「良いこと」をなすようにと、一人ひとりの弟子たちに願っておられるのです。主は、貧しい人たちへの施しが不要だと言われたのではなく、弟子たちが「無駄なこと」と考えたことが、実は意味あること、なすべきことだと言われたのです。今なすべきことは何か…とさらに主に尋ね求め、それを忠実に実行する者でありたいと思います。

主のみこころをなす者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 25章31-46節◇(3月19日)

「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」…マタイ25:40

「タラントのたとえ」を話された主イエスは、さらに、人の子、つまりメシアなるご自分が、御使いたちを伴い、栄光を帯びて再び来られるときのことについて、弟子たちに語られました。その話の内容もまたたとえのように思えますが、そこで語られている王とは主ご自身であり、終わりの日に起こることについての預言とも取れます。主はこう言われました。人の子は栄光の座に着いて王となり、すべての国の人々を御前に集め、王に従う者たちを正しい者、羊としてご自分の右に置いて取り分け、そうでない者を悪い者、やぎとして左に置くのだ…と。その後、王は右にいる者たちに言うのです。あなたがたは、わたしが空腹のとき、渇いていたとき、旅人であったとき、裸でいたとき、病気のとき、牢にいたときに、親身になって関わり、見舞い、訪ねてくれた…。だから、あなたがたは、備えられた御国を受け継ぐことができると。そして、彼らがそんな心当たりはないと答えると、王は、わたしの兄弟である最も小さい者たちの一人にしたのは、すなわち私にしたのだと、驚くべきことを告げたのです。その最も小さい者たちとは、やもめやみなしごのような者たちであり、正しい者たちは、彼らに愛とあわれみの心をもって接し、助け、寄り添ったのです。律法は2つの重要な戒めに集約できると主は言われました(マタ22:36-40)。神を愛すること、また、自分を愛するように隣人を愛することが人には求められているのだと。最も小さい者たちももちろん「隣人」ですが、主イエスは弟子たちに、その隣人への愛とあわれみの行為は王、すなわち主ご自身へのものなのだ、と言われたのです。それは、その2つの戒めは別々ではなくつながっており、私たちの神との関係が、私たちと隣人の関係を形作るということにほかなりません。私たちが日々接する人々と真実に関われるように、主に祈り求めたいと思います。

御国がさらに拡がっていきますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 25章14-30節◇(3月18日)

「主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」…マタイ25:21

主イエスが、天の御国について教えられるために弟子たちに語られた、「タラントのたとえ」と呼ばれている話です。ある人が自分の財産をしもべたちに預けて旅に出ました。5タラント、2タラントを任された者たちは、それぞれ持っている能力に応じ、それをもとに商売をしてもうけ、その額を倍に増やしました。ところが、1タラント任された者はそれを地の中に隠しておき、主人が帰って来るとそれを掘り出してそのまま差し出したのです。5タラント、2タラントを倍に増やしたしもべたちには、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だった…」と主人は評価しました。しかし、1タラントをそのままにしておいた者に対しては、「悪い、怠け者のしもべだ。…おまえはその私の金を銀行に預けておくべきだった…」と言って非難したのです。怠け者…それは、労苦することを嫌い、楽をしようとする者のことです。そもそも「しもべ」とは主人に仕える者であって、タラントを主人から託されたしもべにとって、それを増やすことが任務なのです。そう期待されているのです。それなのにそれを地の中に隠すだけで何もしないしもべにはその自覚がなかったのです。それであれば、主人が言ったように、銀行に預けておけば、わずかではあっても利息がついたのです。増やせたのです。「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです」(1コリ4:1-2)。私たちも、キリストのしもべ、神の恵みと賜物の忠実な管理者として、それらを宝の持ち腐れとせず、主のために活かし用いることが求められています。それは、時間、能力、財産…与えられているすべてのものです。そのようにして増やされたものを受け取ることが主の喜びなのです。神の国のために喜んで労するしもべでありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 24章29-51節◇(3月16日)

「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」…マタイ24:42

主イエスはさらに、人の子の到来の時、すなわちご自分が再びこの地に来られる終わりの日に起こることについて、弟子たちに話されました。その時、太陽、月は暗くなり、星は天から落ち、人の子は天の雲のうちに来られるのです。そして大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わし、その御使いたちは四方から人の子が選んだ者たち、すなわちキリストを信じて救われた聖徒たちをみな集めるのです(29-31節)。それらのことがすべて起こり、ついに天地は消え去り、新しい天と地が打ち立てられます。それが終わりの日に起こることですが、その中にあっても残るもの、消え去らないのが神のことばであって(35節)、人はみな、世のもの、地上の何かに信頼するのではなく、変わらないその神のことばを心に留め、キリストを信じ、人の子に選ばれた者として、終わりの日に備えるべきなのです。「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」(36節)。終わりの日は父なる神が定めているのです。その時は御子でさえも知らないのです。ノアの時代、ふだんどおりの生活をしていて、突然の洪水に呑み込まれてしまった人々のように、人の子が思いがけないときに来て、その時になって慌てないよう、絶えず目を覚ましていなさい、と主は命じられました。45-51節には、どうせ主人の帰りは遅いさ…と勝手に思い込み、食べて飲んでやりたい放題な悪いしもべと、与えられた任務をきちんと遂行する忠実で賢いしもべが、たとえとして語られて対比されています。キリストの再臨はいつになるかはわかりませんが、私たちもまた、与えられている時を漫然と過ごすことなく、眠ってしまうことなく、絶えず目を覚まして、主から任された働きを全うする忠実で賢いしもべでありたいと思います。

主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 24章15-28節◇(3月15日)

「もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」…マタイ24:22

終わりの日はいつか必ず来る…。最後まで耐え忍ぶ者は救われる…。弟子たちに対してそのように語られた主イエスは、さらに、その備えとして、どう注意し、どう対処すべきなのかを教えられました。15節にある、ダニエルが預言した「荒らす忌まわしいもの」とは、誰であれ、イスラエルの神を畏れようとせず、エルサレムの神殿など、聖なる領域にずかずかと入ってそこを征服しようとする、地上的な権威者を意味しているものと思われます。そのような者が聖なる所に実際に立つのを見たら、ユダヤにいる人々はぐずぐずせずに山に逃げなさい、この世に未練を持ち、何かを持ち出そうとするなと、主イエスは警告されました。そのとき大変なのは、主が言われたように妊婦や乳飲み子の母親です。自分一人だけでなく、守るべきいのち、いっしょに逃げるべき愛する者がいるからです。そのときには、かつてなかったようなひどい苦難が起こるようになるからです(19-21節)。「しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます」(22節)。「選ばれた者たち」ということばに心が留まります。神が、ご自分のみこころにかなう聖徒たちを選んでくださり、その者たちのゆえに、大きな苦難の日数を少なくされ、その中で救われる者を起こしてくださるというのです。主は弟子たちに、「あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とも命じられました。私たちの祈りは神との一対一の会話であり、その祈りが神に確かに聞かれている…その祈りによって、神がご自身の計画を変えることにさえつながる…。そのような「祈りの力」について改めて教えられます。主は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです」とも言われましたが(22:14)。私たちは、すでに主に選ばれている者として、さらに多くの人々が「選ばれた者」として加えられるよう、とりなし続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 24章1-14節◇(3月14日)

「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」…マタイ24:14

主イエスは、神殿の建物を指してその荘厳さに感嘆している弟子たちに向って、宮のどの石も崩されずにほかの石の上に残ることは決してない、と言われました。すると彼らは、それが終わりの日のことを意味していると気づき、いつそのようなことが起こるのか、そのときのしるしはどのようなものなのか、と主に尋ねました。すると主イエスは、彼らのその問いに対して、まず、終わりの日が近づくと起こることとして、キリストの名を名乗る偽キリストの出現、民族間の紛争や国家間の戦争の勃発、さらには、飢饉や地震の発生といった具体的な事柄を挙げた上で、しかしそれらはあくまでも前兆、産みの苦しみの始まりなのだから、それらが起こってもうろたえるな、慌てないようにせよ、と言われました。さらに主は、キリストを信じる者が迫害を受け、信仰を棄てる者も出、互いに裏切り、憎み合うようになり、偽預言者により多くの人が惑わされると告げ、それを聞いて不安に感じた弟子たちを励ますかのように、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます」と言われたのです。主イエスが天に上げられた後、使徒たちの働きによって教会が各地に誕生していきましたが、当時においても、終わりの日がいつ来るのか…と人々は議論し、その日が間近であるならこつこつと仕事をするのは無意味だ…と考える者さえ出てきました。しかし、その日は父なる神が定めておられるのであり、何が起こっても聖徒たちに求められていることは、それらに惑わされず、うろたえず、試練や戦いの中にあって、最後まで耐え忍ぶことなのです。そして、御国の福音が全世界に伝えられ、すべての民族、人に証しされるために、置かれたところで、キリストにあって受けた救いの恵みを語ることなのです。それが完了していないうちは終わりの日は来ないのです。それは神がすべての人を救いたいと願っているからです。そのことを覚え、自らの使命を果たしたいと思います。

主の励ましと支えがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 23章27-39節◇(3月13日)

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」…マタイ23:27

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人…」と、彼らの偽善を繰り返し指摘してきた主イエスの非難は、7度目の指摘(29-31節)で最高潮に達しています。それは、彼が預言者たちの墓を建ててさも敬虔そうにしていても、その心は、預言者たちを殺した先祖たちと同じように、反逆と迫害の思いで満ちていたからであり、実際彼らは、メシアである主に敵意を抱き、殺そうとしていたのです。そのような彼らに対して主イエスは、「ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか」と語り(33節)、さらに「正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ」と言って、彼らに対する審判と報復は必ずなされるようになる、と告げられました。そのようにきびしい叱責と審判のことばを語った後、主イエスは「エルサレム、エルサレム」と呼び掛け、嘆きのことばを発せられました。その「エルサレム」とは、律法学者やパリサイ人たちであり、また、彼らにそそのかされて、神が遣わされた者を迫害する住民たちです。そのような者たちを主は見捨てることなく、集め、守り、救い出そうとしましたが、かたくなな彼らは、それを望まず、その招きを、メシアを拒んだのです(37節)。「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」(38節)。その主のことばのとおり、エルサレムの神殿はローマの手によって破壊されました。しかし、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハ2:19)と言われた主イエスご自身こそまことの神殿であり、キリストのからだである教会も、召されてそこに加えられている聖徒たちもまた、聖霊がそこに宿られる霊的な神殿なのです。そしてその外側がいくら立派で美しくても、内側がきよめられていなければそれは「偽善」なのです。主の宮がさらにみこころにかなうものとなるよう、主に祈り求めたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 23章15-26節◇(3月12日)

「おまえたちは…律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」…マタイ23:23(3版)

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人…」、「目の見えない者たち…」。主イエスはそのようなことばを何度も繰り返し、律法学者とパリサイ人たちを非難しています。16節には「だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある」という彼らの教えが引用され、18節にも、祭壇と祭壇上のささげ物についての同様の教えが書かれていますが、それらは、自分が誓ったことの責任逃れの抜け道を作ろうとして、彼らが勝手に定めたものであって、彼らはそのように、自分たちの都合のよいように、律法を曲げて解釈していたのです。そもそも律法では、そのように誓いのことばを軽々しく口にすることは禁じられていました。それは、誓いは神に対してのものであり、主の前に必ず果たすべきであったからです。しかし神を畏れず、形式にこだわり、人との関係の中に生きていた彼らは、その誓いの教え自体も、自分たちの威厳を保つために利用していたのです。23節には、料理などに使われる香りのするものの十分の一を、彼らが納めていることに主イエスが言及したことばが書かれていますが、彼らはそのことで自己満足し、正義とあわれみと誠実をおろそかにしていたのです。そしてそれは本末転倒であって、それもまた、目に見えないもの、しかし神が民に求めている大切なことを彼らが軽んじ、目に見えるもの形にこだわり、事柄をすり替えていることの現われなのです。だからこそ、主イエスは、そんな彼らのあり方を厳しく非難されたのです。目に見えない神を畏れ、みことばに聞き従い、正義とあわれみと誠実をもって生きる…十分の一もおろそかにしない…。目に見える外側ではなく、内面、心の中がきよめられることを主に願い求める…。それが主のみこころなのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 23章1-14節◇(3月11日)

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」…マタイ23:13

23章には、主イエスが律法学者やパリサイ人たちの誤ったあり方を指摘し、彼らを厳しく追及した様子が記されています。彼らは、ユダヤ教の宗教指導者として人々を教えていましたが、その教えは純粋なモーセの律法ではなく、彼ら自身が考え出した教えであって、自分たちはモーセの律法を実行しようとはしなかったのです。また自分たちのその教えが重荷となり、人々が苦しんでいるのを見ても、何とも思わないような者であったのです。そんな彼らにとっての最大の喜びは、人々からの尊敬や称賛を受けて優越感に浸ることでした。そのために彼らはわざわざ、人目につくように聖句を入れる小箱を大きくし、自らの衣の房を長くし、いつも上座、上席に座り、人々から先生と呼ばれて満足していたのです。そのように彼らは、神との関係の中にではなく、人との関係の中に生きていたのです。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(12節)。主は、上着を脱ぎ、腰をかがめて弟子たちの足を洗われました(ヨハ13:5)。主イエスの生涯は、徹底的に自らを低くし、神と人々とに仕えるというあり方であり、それは律法学者やパリサイ人たちとは真逆のものなのです。そして主は、ご自身の弟子たちにも、そうあってほしいと願っているのです。「おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている」。主はそう言って彼らを非難しました。主イエスが宣べ伝えた神の国の福音は、メシアを信じ、罪を悔い改めて神に立ち返るなら救われるという、一方的な神の愛とあわれみによるものでしたが、彼らの教えは、自分たちが作った教えを守るように要求するものだったからです。私たちも、誤った律法主義的な信仰により、他者をさばいたり、自分自身を苦しめたりしていないか、神の国の祝福を遠ざけていないか、自己吟味したいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 22章23-33節◇(3月9日)

「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。」]…マタイ22:29

パリサイ人たちとの問答があった同じ日、今度はサドカイ人たちとの問答がありました。彼らは死者の復活を信じない群れであり、復活を認めているイエスを困らせようとして意地悪な質問をしたのです。それは、7人兄弟の長男が亡くなったため、申命記25章5節の律法に従ってその妻を次男がめとっても、彼も3男以下も同じようになりその妻も亡くなったとしたら、復活の際にはその妻はいったいだれのものになるのか…という内容でした。しかし主イエスは、彼らの罠にはまることなく、あなたがたは聖書も神の力も知らず思い違いをしている…とまず指摘し、さらに、そもそも復活の時には人はもはや地上で持っていたからだではなくなるのであり、めとることも嫁ぐこともない…そのことを理解していないあなたがたの質問は的外れだ…と言って、一蹴したのです。サドカイ人たちはユダヤ教の信奉者の一派でしたが、モーセ五書、つまり創世記から申命記までの書しか認めず、それ以外のさまざまな教えについては、自分たちの考えの枠に入るもの、納得するものは受け入れようとする、かたくなで合理主義的な立場でした。そのような彼らにとって、イエスによってなされていた奇蹟を認めたり、終わりの日に復活があることを受け入れるのは、考えられないこと、信じるのに値しないことであったのです。私たちはもちろん、キリストに贖われた聖徒として、永遠のいのち、復活の希望を持っているはずです。しかし、さまざまな苦難の中で、神は本当に生きておられるのか…と、その存在とみわざを疑ってしまうなら、それは、みことばと神の力を本当に知ってはいない、信じていないということなのです。人間の考えの枠内で神を捉えようとするサドカイ人と同じなのです。そのようなことにならないよう、さらに神のことばを悟り、受け入れ、神の力を認め、日々体験していく…そのような者とさせてくださいと、主に祈り求めていきたいと思います。

霊の目がさらに開かれていきますように。

◇聖書箇所: 詩編 48篇◇(3月8日)

「この方こそまさしく神。 世々限りなく われらの神。 神は 死を越えて私たちを導かれる。」…詩編48:14

「主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方」。前の詩篇47篇の最後には、「神は大いにあがめられる方」とありましたが、詩人はそれに続けるようにして、そのように語り出しています。主は大いなる方、この世界のすべてを創造され、今も統べ治めておられるお方であって、人はその存在を認め、畏れ、神の愛と恵みのあわれみを覚えて、感謝と賛美の声を上げるべきなのです。「神はその都の宮殿でご自分を砦として示された」(3節)。侵略者である敵の攻撃を防いで都を守るために、都の周囲には城壁が築かれ、見張りの塔が建てられ(12,13節)、さまざまなものが備えられています。しかし、真の意味で都やそこに住む民を守るのは、目に見えない神ご自身であって、諸国の王たちはその神の力を見せつけられて、驚き、おじ惑い、慌て、震えおののくのです(5,6節)。その宮殿は、新約の光で見るなら、神の民であると言うことができます。御霊が内に住み、臨在を現してくださる一人ひとりの聖徒たちです。そして、そこに攻めて来るさまざまな敵に対して、主ご自身が砦となって、都を、宮殿を守ってくださるのです。12節では「その塔を数えよ」とありますが、それは無数にあるのです。主は、私たちの日々の歩みの中のさまざまな局面に介入され、気づかないときにも御手を動かしていてくださるのです。シオンを巡り、塔の数を数え、城壁に心を留め、宮殿を巡り歩く…(13節)。それは、そのような力ある神、偉大な主を思い巡らすことです。そして、この方こそわれらの神、わたしの主だと、告白することです。「神は 死を越えて私たちを導かれる」。私たちを贖ってくださる主は、永遠のいのちを与えてくださるお方であり、悪魔に完全に勝利し、滅びることのない聖なる都、新しいエルサレムへと導いてくださるお方であることをあらためて覚えます。その主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 詩編 47篇◇(3月7日)

「ほめ歌を歌え。神にほめ歌を歌え。 ほめ歌を歌え。私たちの王にほめ歌を歌え。」…詩編47:6

「すべての国々の民よ」。詩人はそのように呼び掛けています。イスラエルだけでなく異邦人をも含めたあらゆる国々の人々が従うべき命令として語っているのです。「手をたたけ。喜びの声をもって神に大声で叫べ」と。なぜなら、いと高き方であるイスラエルの神、主は、全地を、すべての国々を統べ治めておられる王であり、偉大なみわざをなされる、大いなるお方であるからです。3節以降では、詩人の呼び掛けは「私たち」、すなわちイスラエルの民へと変わっています。4節の「私たちの受け継ぐ地」とは、主がご自身の民に約束された地、カナンを指しており、主がそこを選び、そこへと導き、先住民たちを退け、そこに住まわせてくださったのです。さらに詩人は、6-7節において「ほめ歌を歌え」という命令を5回も繰り返して強調しています。またその前の5節には、「神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の中を」とあります。おそらく詩人は、契約の箱、主の臨在が、神の民のそのような歓喜の声、賛美の中を進んで行った様子を想起していたのでしょう。そして、その理由が8節に書かれています。それは、神が国々を統べ治めておられ、その聖なる王座に着いておられるからなのです。詩人は、すべての国々に語ったことを(2節)、同胞に対しても再び告げて強調しています。「けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です」(詩22:3)。3版では「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。イスラエルの神、主こそ、賛美を受けるにふさわしいお方、造られたすべての者からの賛美を求めておられてそれを喜ばれるお方、その中に臨在と御力と栄光を現わされるお方なのです。そのことを覚え、私たちもまた、主にほめ歌を歌い、主とともに前進し、敵に勝利していく者でありたいと思います。

主の御名がますます高く上げられますように。

◇聖書箇所: 詩編 46篇◇(3月6日)

「万軍の主はわれらとともにおられる。 ヤコブの神はわれらの砦である。」…詩編46:7(11)

詩人は告白しています。「神は われらの避け所 また力」であると(1節)。避け所とは、私たちが逃げ、隠れ、身を守る場所、すなわち避難所でありシェルターです。その原語には要塞という意味もあります。身に降りかかる災難や、襲ってくる敵など、私たちにとって脅威となるものから、からだ、心、たましいを守ってくれるところ、そこに逃げ込めば安全な場所、それが神なのです。詩人は続けます。「苦しむとき そこにある強き助け」と。襲ってくるものから身を隠す…という消極的な意味だけでなく、強くされ、支えられて、そこから抜け出し、恐れずに進む者とされる…。そのような積極的な意味においても、神は私たちのうちに働いてくださるのです。2節以降において、詩人は、揺らぐもの、変わるものと、揺るがないもの、変わらないものとを対比させています。地が変わり、山々が揺れ動き、水が立ち騒ぎ泡立つ…。国々も立ち騒ぎ、諸方の王国も揺らいでしまう…。地震、津波、洪水といった自然のもたらす脅威、また、テロ、戦争、独裁といった人間が引き起こす脅威の中で、人は恐れ、おじ惑い、右往左往してしまうのです。しかし詩人は、そのようなこの地上の揺らぐものにではなく、揺るがない神の都、そこにおられる神に目を留めています(4,5節)。神の都、エルサレムには本来川が流れておらず、岩盤に穴を開けて「水道」が引かれていましたが、4節の「川」は霊的な意味であり、神に信頼し、困難を貫いてなお進んで行く神の民、またその者たちがささげる神への賛美を暗示しているのかもしれません。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」(7,11節)。詩人は同じことばを繰り返して強調しています。揺らぎ、移り変わる地上のものに信頼するのをやめ(10節)、避け所、砦でである神、ともにおられる主に拠り頼み、力と強き助けを受けて、恐れず揺るがされずに前進していきたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩編 45篇◇(3月5日)

「娘よ 聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民と あなたの父の家を忘れよ。そうすれば 王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。」…詩編45:10-11

この詩篇は、王の結婚を喜び祝う歌だとされています。詩人は、王の麗しさ、優しさをまずたたえ(2節)、真理と柔和と義のうちに敵と戦い勝利を収める王が、その王座を永遠に保つのだと告白しています(6節)。また「それゆえ 神よ あなたの神は」とあり、そのような王に神が喜びの油を注がれたと詩人が語っていることから(7節)、本編での王とは、油注がれた王としてのメシア、イエス・キリストを示していると理解することができます。その王妃として迎えられようとしている娘に対し、詩人は、「あなたの民と あなたの父の家を忘れよ」と命じています。そしてそれは、夫となる王だけに思いを寄せ、愛を注ぎ尽くすためなのです。モアブ人であったルツが、亡くなった夫の母ナオミに告げたことばが思い起こされます。「お母様が行かれるところに私も行き、住まれるにところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1:16)。そのようにルツは、異邦人であるにもかからわず、イスラエルの神を私の神とします、と告白したのです。「そうすれば 王はあなたの美しさを慕うだろう」。顔立ちが整って容姿が麗しいから、あるいは、きらびやかな衣装で着飾っているから、王は王妃の美しさを慕うのではないのです。王は、王妃が自分だけに対して「私の愛する愛しい方…」と思いを寄せ、愛し尽くそうとするその真実な態度を見て、なんと麗しい者よ…と、王妃を喜ばしく、また誇らしく思うのです。この王と王妃は神とイスラエルの関係です。キリストと聖徒たち、教会との関係でもあります。主に贖われた者、キリストの花嫁として、この世と調子を合わせることなく、ますます主を愛し、主に仕えていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩編 44篇◇(3月4日)

「これらすべてが私たちを襲いました。しかし 私たちはあなたを忘れず あなたの契約を無にしませんでした。」…詩編44:17

詩人は、イスラエルの父祖たちの時代に神がなされた、偉大なみわざを思い巡らしています(1-4節)。それは、代々、父から子へと連綿と語り継がれて来たことです。神は、力強い御腕をもって異邦の民を追い払い、約束の地であるカナンに御自身の民を住まわせられたのです。荒野を40年間さまよった民は、その中で多くの苦しみを味わいましたが、神の愛と真実は決して変わることはありませんでした。詩人はそのことを思い、その神の御名をほめたたえ、賛美をささげているのです(8節)。ところが、詩人は、一転して神を非難するようになりました。9-16節には8節以前の内容とは対照的な描写がなされています。神は私たちを退けて卑しめた…敵が戦いに勝利するように仕向け、略奪し放題にさせた…私たちを餌食となる羊のようにして国々の間に散らした…そこで私たちを物笑いの種とした…。なぜ自分たちがそのようなひどい目に遭わなければならないのか…。敵による辱めを受ける中で、詩人は苦しんだに違いありません。しかしそのようなただ中で、神に文句を言う中で、詩人はあらためて気づかされたのです。神は決して私たちを見捨てず、見放さないお方だと。そして、たとえ今の状況が喜べないものであっても、神よ、私たちはあなたを忘れることはありません、父祖たちに与えられた契約、約束のことばを無にしません、そこにしっかりと立ちますと、信仰の告白を新たにしたのです。なおも詩人の心は揺れ動きます。しかし彼は、助けてください、贖い出してくださいと、祈りの叫びをあげたのです(26節)。私たちもまた、試練と困難の中で同じ思いになります。しかし、神は、決して私たちを見捨てないのです。神の愛と真実は永遠に変わることがないのです。主の契約、約束のことばは、必ずその通りになるのです。詩人のように、私はあなたを忘れません、信頼しますと告白し、助けてください、と叫び求める者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: 詩編 42篇◇(3月2日)

「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。なぜ 私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を。」…詩編42:11

「わがたましいよ…」と、詩人は繰り返し、自らのたましいに向って呼び掛けています(5,11節)。「なぜ」と言いつつ、うなだれるな、思い乱れるな、神は確かにおられる、神を待ち望め…と、詩人はたましいに対して叱咤激励を与え、そうせよと命じているのです。そのように詩人のたましいがうなだれていた、すなわち元気を失い、望みを奪われかけていた原因、それは、詩人に敵対する者たちが、「おまえの神はどこにいるのか」と言って(3,10節)、絶えず詩人をそしり、なじっていたからです。それは「私の骨を砕くほど」の耐えがたいものであると、詩人は告白しています。「おまえの神はどこにいるのか」。敵のそのことばは、イスラエルの神を侮辱するものでした。彼らは、異教の神を信じる者たちであったのかもしれません。しかし、悔しい思いの中にあった詩人は、神は決してそのような敵を放置されることはない…必ず彼らの虐げから私を救い出してくださる…御自身の威光を現わしてくださる…と、信じていたのです。だからこそ、「私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を」と告白したのです。「わがたましいよ…」と、詩人は自らのたましいに対して、まるで別な存在として、状況を客観的に捉え、外側から語りかけ、命じています。そしてそれは、否定的な感情に支配されそうになっている自らのたましいとは離れた、神の側に立つ自分がいて、神から与えられている知性の領域から、御霊によって促されて語っているのだ…と考えられるのです。それは、大丈夫だ、心配するな、と自分に言い聞かせることではなく、神の働き、介入なのです。私たちもまた、苦難の中にあっても、主にあって、自らのたましいを励ます者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩編 41篇◇(3月1日)

「私は申し上げます。「主よ あわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」」…詩編41:4

詩人はまず、弱っている者に心を配る人について語っています。わざわいの日、終わりの日のさばきにおいて、主はその人を義と認めて助け出してくださるのです。それまでのこの地上での歩みにおいても、その人を見守り、支え、生かし、幸せな者としてくださるのです(1-3節)。ではその人は、単に他者に親切にし、寄り添う者という意味なのでしょうか…そうではありません。その人は何よりも、神の教えに従い、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するがゆえに、その行動へと導かれるのであって、だからこそ神は、そのあり方を喜ばれるのです。病の中にあるその人を癒し、起き上がらせてくださるのです。4節以降では、詩人は自分のことを語っています。彼自身、自らの罪を覚え、主の赦しによってたましいが解放され、心に喜びが取り戻されるようにと願っていたのです。その苦しみが人に理解されなくても、自分を憎む敵から責め立てられても、主を愛し、主に聞き従って歩んでいる自分のことを神は愛し、喜んでくださっている、御前に立たせてくださると、信じていたのです。「私の誠実さゆえに」と詩人は言っていますが、それは自分を誇ることばではなく、自らの罪深さ、弱さを認め、主にすべてを明け渡すことを告白する、全面降伏のことばなのです。「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」(マタ9:36)。キリストこそ、羊飼いとして、弱っている者に心を配り、あわれみ、守り、支えてくださるお方です。そして主イエスは、ご自身のように弱っている者に心を配る人を、今なお求めておられるのです。主に贖われた聖徒たちは、そのために主に用いられるのです。主はペテロに3度、わたしを愛しているか、と問われ、わたしの羊を飼いなさい、と言われました(ヨハ21章)。それを自分へのことばとして受けとめたいと思います。

主の助けと導きがありますように。