◇聖書箇所: エゼキエル書 36章22-38節◇(10月31日)

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」…エゼキエル36:26

「わたしが事を行うのは…わたしの聖なる名のためである」(22節)。「事を行う」とは、昨日の箇所で見たように、人や家畜が増やされ、廃墟が建て直され、イスラエルを荒らした諸国が恥を負わされる、そのようなイスラエルの回復のことですが、その究極的な目的は、イスラエルの民により諸国の間で汚された神の御名が聖なることを示すためであることが、明確に語られています。つまり、イスラエルの回復は、主ご自身の栄誉の回復なくしてはあり得ないことなのです。25節には、「きよい水」により汚れからきよめる、26節には、民に新しい心、新しい霊を与え、石の心が取り除き、肉の心が与えるとありますが、肉の心とは、かたくなではない柔らかい心のことです。それもまた主が主権をもって事を行われるのです。そしてその結果、民は「自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる(「憎むようになる」…新改訳2017)」(31節)のです。「繁栄の神学」がもてはやされた時代がありました。主を信じるなら、経済が繁栄し、健康が与えられ、抱えている問題が解決し、幸せになる…確かにそれらは「事を行う」主がなされることですが、それ自体が主を信じる目的となってしまうならば、それは明らかにみことばの教えとは反しているのです。「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈られた主イエスに倣う者でありたいと願います。

主の御旨だけがなりますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 36章1-21節◇(10月30日)

「わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。」…エゼキエル36:10

イスラエルを回復させるという主の預言が、今日の36章からさらに明確に語られていきます。1-15節ではまず、土地の回復についてです。それは目に見えるところの物質的な繁栄であり、周辺諸国によって荒らされたイスラエルの地を、神ご自身がそのようにしてくださるのです。具体的には、人や家畜が増え、町に住みつき、さらに子孫が増し加えられていくということです。創世記1:28には「埋めよ。ふえよ。地を満たせ…」とありますが、それは神の祝福にほかなりません。そしてその回復と繁栄は、ご自身の民とその地が、諸国から侮辱され、奪われ、荒らされたことに対し、神がねたみと憤りをもってなされることなのです。「イスラエルの全家に人をふやす」とありますが、それはその回復が、エルサレムを含む南ユダだけにとどまらず北イスラエルまで及び、分裂状態が解消してひとつの国家とされることを指しています。「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ」(21節)。つまり、ご自身の名が汚されたままとならないよう、聖なる御名がふたたびあがめられるようにするため、イスラエルを回復させ祝福を与えるということです。そして、そのために主は、物質的な回復だけでなく、霊的な回復、つまり、イスラエルの民の心を新しくし、ご自身との正しい関係に戻されるのです(22節以降)。「…その人は主のおしえを喜びとし…口ずさむ。…その人は、何をしても栄える」(詩篇1:2,3抜粋)。神から与えられる繁栄は、神にしっかりとつながり、主の教えに聞き従う者にこそ与えられる祝福です。神の国とその義を第一に求めていきたいと思います。

主にあって繁栄する者とされますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 34章17-31節(10月28日)

「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。」…エゼキエル34:23-24a

牧者、つまり羊を飼う羊飼いの役割とは、羊たちを牧場や水辺へと導いて、彼らを養い育てることであり、また、彼らを獲物にしようと絶えず狙っている狼などの外敵から守ることであり、さらに、彼らが弱ったり傷ついたりしたときに介抱し、元気を取り戻すように世話し支えることです。昨日の箇所、34章の前半においては、イスラエルの牧者たち、すなわち指導者たちが、そのような本来の役割をちっとも果たそうとせず、自分を肥やしている悪い羊飼いであったために、主は、「わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」と言われたのです(34:11)。今日の箇所では、主は「ひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす」と言われています。ダビデが実際に王であったのは、エゼキエルがいた時代より約400年も前のことですが、その主のことばは、ダビデのような王、すなわち、民を正しく導き、守り、養う、良き羊飼いを、主が再び立てられるということであり、またその王が、ダビデの血を受け継ぐ者であるという預言なのです。27節には、「わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出す」とあります。それは、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、そこから連れ出された主が、まことの王でありかつ良き羊飼いなる者によって、罪の奴隷となっているすべての民を救い出すという預言のことばです。そしてその、正しい王であり良き羊飼なるお方こそ、ダビデの子孫として生まれたイエス・キリストなのです。「彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない」(28節)。キリストにあってそのような者とされている幸いを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 34章1-16節◇(10月27日)

「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」…エゼキエル34:16

イスラエルの牧者たちに向かって預言せよと、主はエゼキエルに語られました。彼らは、弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、暴力で支配する者で(4節)、王や預言者などの政治的、霊的指導者のことです。一方、主はそのような状況の中に介入され、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」と高らかに宣言されました(11節)。「わたしの羊」ということばが繰り返されています。16節は4節とは逆の順序で書かれていますが、主は、悪い羊飼いである人間の指導者とは真逆の良き牧者であるのです。「失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し」…99匹の羊を残しても1匹の失われた羊を捜し出す、羊飼いのたとえが思い起こされます(ルカ15:3-6)。また、主イエスはご自分を指して、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われました(ヨハネ10:11)。まさに、迷い出た羊である私たちは、良い牧者である主によって連れ戻されたのです。私たちの罪が赦され、病がいやされるため、主は十字架で死なれたのです。「わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う」(13節)。その預言の約束はいまもなされ続けています。主は今もご自身の羊を、彼らの地に連れ戻し続けておられるのです。イスラエルの民が、すべての民が、良き牧者なるキリストに養われる者とされるように、救いと回復のためにとりなしていきたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 33章17-33節◇(10月26日)

「彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。」…エゼキエル33:31

エルサレムの町がバビロンに占領されると、そこからのがれたイスラエルの民が、いったい自分たちはこれからどうなるのか…と、エゼキエルから語られる神のことばを聞くために群れをなして彼の元に来る、と主は言われました。しかし彼らは、自分たちは神に選ばれた民であり、まもなく回復を与えてくださるに違いない…と、それまで行ってきた多くの罪を棚に上げて、自分たちの都合の良いように考えていたのです。主は、そんな彼らの心のうちを見透かして、「彼らは口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている」と非難しました。神を愛すると言っても実はそれは口先だけであって、実際は自らの益を追求する思いに満ちていたのです。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と、主イエスは言われました(ヨハネ14:15)。ヨハネもこう記しています。「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(1ヨハ3:18)。そのことばは前節からのつながりだけから考えるなら、単純に、神の家族、隣人への愛だと理解されます。しかし文脈全体からあらためてそのことばを見ると、同じ3章24節には、「神の神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます」とあり、行いと真実をもって愛するということは、何よりもまず、神に対するあり方として求められていることなのだという、新たな気づきが与えられるのです。主をほめたたえることばが口先だけになっていないか…「自分、自分…」という身勝手な信仰になっていないか…絶えず自らの姿勢を吟味する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 33章1-16節◇(10月25日)

「わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行い、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。」(エゼキエル33:14-15)

ここまでさばきの預言が多く語られて来たエゼキエル書は、33章から一転して、エルサレムとイスラエルの家の回復についての預言のことばへと変わります。今日の箇所の前半、1-9節までは、イスラエルの家の見張り人としてのエゼキエルに対する、悪者に警告せよ、という神の命令です。それはすでに3章17-21節で記されていることですが、イスラエルの回復のために必要不可欠なこととして、主は彼にあらためてそのことを語っておられるのです。そこで強調されているのは、もしその命令に従わず、悪者に警告をしようとしないなら、その悪者の血の責任は、見張り人であるエゼキエルが問われるということです。しかし警告をした上で悪者がその道から立ち返らないなら、エゼキエルはその責任を問われないのです。そこには見張り人の役割と責任範囲が明示されています。また、後半の10-16節では、悪者が自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、死ぬことはなく、生きる者とされることが強調されています。「その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら…」という14節のことばは、取税人であったザアカイが主イエスに対して、「だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と言い、行ってきた不正を悔い改めたことを思い出させます。見張り人とはつまり、神のことばを伝える預言者のことです。私たちも、見張り人として人々に神の国の福音、すなわちイエス・キリストを信じることによって与えられる罪からの救い、やがて来る神のさばきを人々に伝えることが、主から求められているのです。その責任を負っているのです。どんな悪者でも、自分の罪を悔い改め、主に立ち返るならば、その者は必ず生き、死ぬことはないからです。恐れずにいのちのことばを伝える者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 32章17-32節◇(10月24日)

「あなたはだれよりもすぐれているのか。下って行って、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ。」…エゼキエル32:19

エジプトに対するさばきの預言の最後の部分です。ここでは、かつてエジプトと同じように、まことの神を畏れず、自らの力を過信して尊大にふるまい、おごり高ぶって、神にさばかれた諸国が記されています。22節にはその代表としてアッシリヤの名前がありますが、彼らもバビロンと同じように広範囲にわたる帝国を築き、北イスラエル王国の首都サマリヤを滅亡に至らせました。しかしそのアッシリヤも、神のさばきによって剣に倒れ、その集団は墓の回りにいるとあります(23節)。今日の箇所には「墓」ということばが繰り返されていますが、「地下の国」、「穴」という別の表現も意味は同じです。それは死んだ者たちがいくところ、「よみ」を指しています。アッシリヤ、エラム、メシェクとトバル、エドム、シドン人…すでに神にさばかれたそれらの国々の中に、エジプトもまた加えられると、神は預言をされたのです。「剣で刺し殺された者たちとともに横たわる」とありますが、そこでは地上での権力を振るうことはもはやできず、ただ横たわるだけの存在に過ぎなくなってしまうのです。そのよみの中からの語りかけが21節に書かれています。降りて来て自分たちといっしょに横たわれ…と。おまえたちも同じ運命なのさと、あざ笑うようなことばです。一方、ルカの福音書には、そのよみの苦しみの中で思わず訴えた、ある金持ちのことばが書かれています。「私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(ルカ16:28)。聖書はわたしたちに天の御国のすばらしさを伝えています。キリストの十字架と復活による贖いを信じて救われ、永遠のいのちを受ける者となるようにと促しています。と同時に、神を畏れず、従おうとしない者たちへのさばき、苦しみに満ちた悲惨な結末について明確に語っています。すべての人は、そのどちらを選ぶのか、求められているのです。神の国の福音、キリストがもたらした良き知らせを、終わりの日が来る前に人々に伝えていきたいと思わされます。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 32章1-16節◇(10月23日)

「…彼らの王たちも、わたしが彼らの前でわたしの剣を振りかざすとき、あなたのことでおぞ気立つ。あなたのくずれ落ちる日に、彼らはみな、自分のいのちを思って身震いし続ける。」…エゼキエル32:10

エジプトへのさばきが記されている最後の章です。多くの国々の民がそれを見ておののき、おぞ気立ち、「自分のいのちを思って」、つまり、自分たちもエジプトのようになったら大変だ…と、それが他人事ではないと思わされるとあります。そのようにエジプトとパロがさばかれる理由、それはこれまでにも繰り返し語られているように、彼らのうちにあったおごり、高ぶり、傲慢です。31章4節には、そのさまが、雲にまで及ぶ高くそびえるレバノンの杉の木にたとえられ、それが切り倒されるとあり、バベルの塔が倒される記事が思い起こされます。諸国の民の娘たちは、エジプトのその悲惨さを知り、哀歌として悲しんで歌うとありますが(16節)、「若い獅子」(2節)がそのように歌の題材とされる、そのような形で神に「用いられる」というのは、彼らにとって恥辱であり、皮肉に満ちた出来事です。ひるがえって私たちは、私たちを通して神の栄光がこの地に現され、偉大なその神の御名があがめられるために、罪の中から贖われ、遣わされ、用いられる存在です。私たちはそのように、神により御国の祝福の基とされ、人々は私たちを通し、主ご自身からの慰め、励ましを受け取ることができるのです。そのためには、私たちが、キリストにしっかりととどまり、主の戒め、みことばにとどまり続けることが求められます。でなければ、私たちもいつの間にか、エジプトのように、おごり、高ぶる者となってしまうからです。主に用いられる者とされたことをあらためて感謝しつつ、御国の祝福が多くの人々に及ぶよう祈りたいと思います。

主の御名があがめられますように。御国が来ますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 30章◇(10月21日)

「…わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。」…エゼキエル30:21

エジプトの王パロへのさばきの預言が続きます。そのさばきはエジプトの国全体に及ぶのです。パロは「川は私のもの。私がこれを造った」と言い、創造主の立場に自分を置く傲慢な者でしたが、そのナイル川は干上がった地となるのです(12節)。そうなれば大干ばつとなり、人々に飢饉をもたらし、そこに住む多くの魚も死に絶えてしまうのです。20-26節には、その主のさばきが実際には、バビロンの王ネブカデネザルによってなされることが記されていますが、主ご自身がパロ王の腕を砕き、ネブカデネザル王の腕を強くするとあります。その砕かれたパロの腕は何の手当もされないため、2度と剣を取ることができなくなるのです。そしてすべての者が、唯一まことの神こそが、真の主権者、王であることを知るようになるのです。腕ということばは聖書の中にたびたび出て来ます。それは力、主権の象徴として用いられています。それが誤って使われるなら、主に砕かれるのです。同時にその腕は、主による贖い、勝利の象徴です。「…あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない」(申命5:15)。さらにその腕は、主の愛と守りの象徴でもあります。「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(イザヤ40:11)。私たちの敵、悪者の腕は、主によって砕かれます。私たちは確かに、主によって守られ、導かれ、主が与えてくださる勝利のうちを歩む者となるのです。力強く、またやさしい主の御腕の中にある幸いを、しっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 29章◇(10月20日)

「エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った』と言っている。」…エゼキエル29:3

29-32章には、エジプトに対する神のさばきが、エゼキエルに語られた預言として書かれています。パロは「川は私のもの。私がこれを造った」と言っていると、神は彼を非難しています。川とはエジプトを流れるナイル川のことです。多くの魚が住み、肥沃な土地をもたらすその川…それは造ったのはほかでもない私であり、それは私が所有し、私のためにあるのだ…と、「私」を繰り返して強調するパロのことばに、創造主なる神の立場に自分を置こうとする彼の傲慢さが表れていますが、まさにそれが、神がパロとエジプトをさばかれる理由なのです。6節には、「彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかった」とあります。葦は水辺に生える草で、茎が中空で軽いため、乾燥させて「すだれ」の材料にも使われますが、それに人が寄りかかるほどの強度はありません。しかしイスラエルは、周辺諸国の脅威に対して、その「葦の杖にすぎない」エジプトに対して、何度も助けを求めようとしてきたのです。しかし、「彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた」(7節)とあるとおり、そのように頼りにならないものを頼りにすれば、それは折れて、痛手を受けることになるのです。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」(詩篇62:8)。私たちが信頼すべきは、地上のものではありません。人間の力や知恵でもなく、ナイル川を含めた万物を創造され、統べ治めておられる神なのです。神が私たちの助け、避け所となってくださるのです。どんなときにも、ただその主に信頼したいと思います。

おりにかなった主の助けがありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 28章◇(10月19日)

「…あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」…エゼキエル28:2

昨日の27章に引き続き、ツロの高ぶりを非難する神のことばが記されています。「私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている」とツロの王は言っていたのです。神は彼に対して、「あなたは人であって、神ではない」と、繰り返し指摘していますが(2,9節)、人間に過ぎない自分を、偉大な創造主であり、主権者であられる神の立場に置こうとすることは、言うまでもなく主の前に大きな罪であるのです。ツロの王がそのように高ぶるようになった理由…それは、知恵を用いて多くの財宝を蓄えたことが、すべて自分の力によるものだと考えたからです。しかし、人は神の恵みとあわれみの中で生かされ、そのような知恵も神から与えられているのであって、神を畏れず自らを神とするならば、そのような者を神は断固として退けられるのです。主は、最も横暴な異邦の民、バビロンの手により、あなたは刺し殺される…と言われました(7-8節)。私たちがこのツロの王へのさばきを読むとき、自分とは無縁のことだと考えるかもしれません。しかし、日々の歩みにおいて、このぐらいなら別に神の助けがなくても…と考え、自分の力だけで事をなそうとするならば、また、さまざまな判断をしようとするならば、それは、自らを本来神がいるべき所に置くことであり、そのことを何とも思わずに続けているなら、さらに大きな高ぶりへとつながっていくのです。「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴言11:2)。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言3:5)。すべてのことにおいて、へりくだり、神に拠り頼み、主を待ち望む者でありたいと願います。

主の恵みと祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 27章◇(10月18日)

「神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい』とおまえは言った。」…エゼキエル27:3

ツロは自分のことを、「私は全く美しい」と、自画自賛していました。誇っていました。新共同訳では、「わたしの姿は美しさの極み」とあります。ツロは自らをそう思っていたのです。そのツロは海沿いの町で、1キロほど沖合にある小さな島との2つの部分に分かれていましたが、その島は海に囲まれている自然の要塞であり、難攻不落の砦を持つ城が建てられていたようです。またツロは、さまざまな商品を、周辺諸国との間で取引をし、経済的にも豊かで繁栄をしていました。ツロは、商業における優位により、それらの国々に対して実質的な支配権を有していたのです(15節参照)。しかしそのようなツロに対する描写は、26節以降でまったく変わってしまいます。船にたとえられたツロの、あらゆる財宝、商品、商人、全集団は海の真ん中に沈んでしまうのです。「東風は海の真ん中でおまえを打ち破った」(26節)とありますが、東風とはバビロンを意味しています。ツロがそのような悲惨な事態に陥ってしまう理由…それはエルサレムをあざけったこともそうですが(26:2)、「私は全く美しい」と高ぶっていたからです。全くとは完全で非の打ち所がないということであり、美しいとは欠陥がなく整っているということですが、そのような存在は神以外にはあり得ないのです。パウロはこのように言っています(2コリント4:7)。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。私たちは欠けやひびだらけの土の器にすぎません。私たちが誇るべき宝は、私たちを罪から贖ってくださり、私たちのうちに住んでくださっているキリストなのです。主の前に絶えずへりくだって歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 26章◇(10月17日)

「海辺の君主たちはみな、その王座をおり、上着を脱ぎ、あや織りの着物を脱ぎ、恐れを身にまとい、地面にすわり、身震いしながら、おまえのことでおののき、…」…エゼキエル26:16

26~28章の3章にわたり、ツロに対する神のさばきの預言が記されています。エゼキエルに主のことばがあったのは、「第11年のその月の1日」ですが、エルサレムがバビロンによって廃墟とされたのは、ユダ国最後の王ゼデキヤの治世11年目でしたから、預言があったのはその後であったと思われます。「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言ってあざけった」(2節)。そのように、ツロの人々は、アモン人たちと同様にエルサレムをあざけりましたが、それが神がツロをさばかれる理由です。神の民であるイスラエル、神の都であるエルサレム…これらを愛し、とりなし、神を畏れる者となるのか、それともあざけり、神の祝福から漏れる者となるのか…いつの時代にあっても国々はそれを問われています。ツロに対するさばきの目的もまた、アモン人たちと同様、彼らがまことの神を知るためでしたが(6節)、主は、ツロへの神の取扱いを目の当たりにする近隣の国々が、そのことを通し、まことの神を畏れるようになることをも、明らかに意図しておられました(15-18節)。つまりそれは、「人の振り見て我が振り直せ」ということです。ツロへのさばきは決して他人事ではないということです。ツロは「私は豊かになり…」と言ってあざけりました。商業都市であったツロにとって、エルサレムの陥落は、当時の政治的情勢において有利に働いたのでしょう。そこに、ツロの高慢と、まことの神を知ろうとせず、人間中心・経済第一の価値観を持つ姿を見るのです。そしてそれは、この日本においてもあてはまることです。霊的な覆いが取り除かれるよう、さらに祖国のためにとりなし祈る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エゼキエル書 25章◇(10月16日)

「わたしは憤って彼らを責め、ひどい復讐をする。彼らは、わたしが彼らに復讐するとき、わたしが主であることを知ろう。」…エゼキエル25:17

今日からまたエゼキエル書を読んでいきます。25章以降には南ユダ王国の周辺の国々に対する神のさばきのことばが預言されています。今日の箇所では、ユダの民がバビロンの捕囚となり、周辺諸国がそのことをあざけり喜んだゆえに、神が彼らを東の人々に渡すと書かれています。神にとって、彼らへのさばき、復讐の目的は、怒りをぶちまけ、溜飲を下げることではありません。それは何よりも、「わたしが主であることを知ろう」と繰り返されているとおり(5,7,11,17節)、彼らがまことの神を知るためであったのです。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(詩篇46:10)。神はいつの時代においても、すべての者が、まことの神を知るようになることを願っておられます。人々がご自身を畏れ、信じ、あがめるようになるのを、主は切望しておられるのです。また、神がそのような仕打ちをされるのは、イスラエルの民が、ご自身が選ばれ愛しておられる、特別の民であることを知らしめるためでもありました。8-9節には、「モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。それゆえ…」とあり、14節には、「わたしの民イスラエル」とあります。私たちもまた、キリストの贖いにより、霊的なイスラエル、神の所有の民とされた者です(1ペテロ2:9)。それは、私たちが「選民意識」を持って高ぶるためではなく、私たちを、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを」(同)人々に証しし、宣べ伝えていくためであり、何よりも主が、ご自身が神であるということを、私たちを通して人々に明らかにしてくださるのです。

今日の歩みも主の御手の中で導かれますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 21章1-14節◇(10月14日)

「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」…ヨハネ21:6

今日の箇所に記されている主のことばと行動…それはまるで映画の回想シーンのように、以前にあったことを弟子たちに思い起こさせる、そのような主の意図と配慮があるように思えます。「舟の右側に網をおろしなさい」…。主は、かつて、夜通し働いても何ひとつ取れなかったペテロに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われ、彼がその主のことばのとおりにすると、たくさんの魚が網に入りました(ルカ5:4-6)。また弟子たちが陸地に上がったとき、そこには、炭火で焼いた魚とパンが用意されていましたが、主は少年が差し出したわずかな魚とパンを祝福し、5千人以上の人々を養い、満たされたのです。また主は、そのパンを弟子たちに渡されましたが、過越の食事の際にも主は、パンを裂いて彼らに与え、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われたのです(マタイ26:26)。主は、将来への不安の中にあった弟子たちに対し、ご自身のことばに信頼し従順に従うならば、そこに神のみわざが現され必要が満たされるということ…また、「いのちのパン」なるご自身のうちにある者は、決して飢え渇くことがないということ(ヨハネ6:35)…そして、人々を罪から贖うためにご自身を神にささげ、十字架と復活を通してその救いが「完了」したことを、思い起こさせ、励まそうとされたに違いありません。私たちも現実の中で、さまざまな不安に襲われます。しかし、主が何を私たちのためになしてくださったのか…どんな約束をくださったのかをそこで思い起こすならば、私たちの心には平安と希望が与えられるのです。みことばにいつも立ち返る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 20章19-31節◇(10月13日)

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」…ヨハネ20:29

復活された主イエスは、ユダヤ人を恐れ、戸に鍵をかけ中にこもっていた弟子たちに現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。また傷のある手とわき腹を彼らに見せられ、「平安があなたがたにあるように」と繰り返され、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。主イエスのそれらのことばは、その後の彼らの歩みを預言的に示唆し、行動を促す内容となっています。「わたしもあなたがたを遣わします」(21節)。「…罪を赦すなら、その人の罪は赦され…」(23節)。そのとき弟子たちはユダヤ人を恐れていましたが、その後、五旬節の日に聖霊に満たされ、力を受け、神の国の福音を伝えるため遣わされていくのです。そこで人々から迫害も受けますが、主にあって赦し、福音に生きる者となることにより、人々は悔い改め、罪赦され、主の救いにあずかるようにされるのです。復活された主が弟子たちの前に最初に現われたとき、トマスはそこにいませんでした。そして、主を見たという、他の弟子たちのことばを信用せず、自分の目で見、手で触って確めずには、決して信じないと言ったのです。しかし主イエスは彼をあわれみ、再び弟子たちに現われ、「見ずに信じる者は幸いです」とトマスに言われました。その主のことばもまた、預言的です。なぜなら昇天後は、だれも主イエスを見ることができなくなったからです。しかし人々は、弟子たちが宣べ伝えた福音を聞き、聖霊の啓示によってそれを自分のこととして受けとめ、救われる多くの者たちが起こされていったのです。そして試練の中で、神の存在を疑う思いになるときも、主は、ご自身にある者たちに、「平安があるように…」、「見ずに信じる者は幸いです」と語り続けているのです。私たちもまた、主に遣わされている者たちです(21節)。それは、罪の中にある人々がイエスを「見ずに信じ」て、「イエスの御名によっていのちを得るため」(31節)なのです。主から託された働きを忠実に行う者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 20章11-18節◇(10月12日)

「イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』」…ヨハネ20:15

ペテロとヨハネが墓から去った後も、ひとりそこにとどまり泣き続けていたマリヤに対し、ふたりの御使いと主イエスが現れてこう言いました。「なぜ泣いているのですか…」と。それは、「泣かなくてもいいのですよ。悲しむ必要はないのですよ。なぜなら、主(わたし)は死からよみがえったのだから…」という、喜びを彼女にもたらすためのきっかけのことばでした。しかし、悲しみに打ちひしがれていたマリヤには、そのことばは残念ながら届きませんでした。主イエスの死という現実に圧倒されてしまい、彼女の霊の目と耳がふさがれていたからです。心がそのことだけにとらわれていたからです。主が語った真理のことば、なされたみわざの記憶は、心の隅に追いやられてしまっていたのです。ところで、他の福音書の記者たちはみな、主のよみがえりを御使いが告げたと記していますが、ヨハネが同じようにしなかったのはなぜでしょうか。それはおそらく、読者となる者たちもまたマリヤのように、さまざまな現実の中で主への信仰を失いかけてしまう…そしてその霊の目を開き、関係を回復させてくださるのは主ご自身であるということを、強調したかったからなのです。主イエスは、なおも悲しみ続けている彼女に向かって、「マリヤ」とその名を呼ばれました。そしてその瞬間に彼女は、その方が復活の主であることを悟ったのです。主は、悲しみ苦しんでいる私たちのすぐそばにいて、「なぜ泣いているのですか…悲しみに暮れる必要などないのですよ…」と慰め、励ましてくださるお方です。一人ひとりの名を親しく呼んでくださいます(ヨハ10:3)。そして、私たちの霊の目を開き、信仰を回復させ、心に喜びと希望を取り戻してくださるお方なのです。「私は主にお目にかかりました」と、マリヤのように、私たちも復活の主を証しする者でありたいと願います。

主はすぐそばにおられます。主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 20章1-10節◇(10月11日)

「そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」…ヨハネ20:8

主イエスが葬られた墓から石が取りのけられていると、週の初めの日の早朝にマグダラのマリヤから聞いたペテロともうひとりの弟子(著者ヨハネとされている)は、墓に走って行きました。そしてまずペテロが中に入り、続いてもうひとりの弟子も入って中を見ると、確かに主イエスのからだはそこにはありませんでした。「そして、見て、信じた」とありますが、ヨハネは何を信じたのでしょうか…。彼が見たのは、主イエスの頭に巻かれていた布ぎれなどが、そっくりそのままそこに残されていた光景でした。彼は、主のからだは誰かが取っていったわけではなく、主がよみがえられ、墓の入口の石を自ら脇に転がし、墓から出て行かれたことを、そのとき信じたのです。ところが、続く9節を読むと、「まだ理解していなかった…」とあり、ヨハネはまだ信じていなかったようにも取れます。しかし9節には、「よみがえったことを」ではなく、「よみがえらなければならないという聖書を」とあるのです。ヨハネは確かに主イエスのよみがえりを信じましたが、聖書、つまり預言のことばが意味する全体像は、まだ完全には理解していなかったのです。ペテロは、後に、主イエスのよみがえりについて、ダビデのことばを引用してこう語っています。「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる」(使徒2:27-28)。ペテロを初めとする使徒たちは、復活の主イエスから、永遠の御国に続く「いのちの道」をあらためて教えられ、彼らのたましいは喜びと希望で満たされました。復活された主のいのちは、自分たちにも与えられるのだと、そのとき初めてはっきりと悟ることができたからです。そしてそのいのちの道は、彼らを通し多くの人々に知らされ、私たちもまたそこを、喜びと希望をもって歩んでいるのです。すべての人がその道を歩めるよう、とりなしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 19章31-42節◇(10月10日)

「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」…ヨハネ19:34

主イエスが十字架で息を引き取られた後、ローマの兵士の一人がわき腹を槍で突き刺したところ、すぐにそのところから血と水が出て来ました。そのことを目撃した者が真実の証しをしているのであり、それを知った者が信じるためだとヨハネは言っています。そしてそれは旧約聖書の預言の成就でした。ゼカリヤ書12章10節にはこう書かれています(抜粋)。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、…その者のために嘆き、…激しく泣く」。主イエスのわき腹を実際に槍で突き刺したのは、異邦人であるローマ兵の一人の兵士でした。しかしゼカリヤの預言には、「自分たちが突き刺した」とあるのです。そしてイスラエルに対するそのことばは、主イエスにより異邦人である私たちにも成就したのです。それは私たちもまた主を槍で突き刺したということです。私たちの罪のゆえに主が血を流されたということです。ゼカリヤの預言には、自分たちが突き刺した者を仰ぎ見、その者のために嘆き、激しく泣くとあります。私たちも自らの罪の深さを示されるときそれに愕然とし、主がその罪の刑罰を十字架で受けて下さったことを知り、いたたまれない思いになって、嘆き、悲しみ、涙します。しかしそれで終わりではないのです。民数記21:9には、旗ざおの上につけられた青銅の蛇を民が仰ぎ見ると、蛇にかまれた人が死ぬことなく生きたとあります。すべての民は、悪魔の誘惑による罪のゆえに死ぬことなく、十字架につけられた主イエスを仰ぎ見て生きる者とされるのです。しかし十字架を仰ぎ見ても、そこに主のお姿はありません。主を信じ愛する者たちによりそのからだは取り降ろされ、主は納められた墓から3日目によみがえられたからです。全人類の罪の贖いを完了されたその主は生きておられ、いつも私たちとともに歩んでくださっているのです。十字架と復活により私たちの贖いを成し遂げられた主を、霊の目をもって仰ぎ見、生きる者とされたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 19章17-30節◇(10月9日)

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」…ヨハネ19:30

主イエスは全き神であり、同時に全き人でしたが、そのお方が十字架上で発したことばが心に留まります。「わたしは渇く」…。私たちももちろん渇きます。水を飲まなければ一週間も経たずに死んでしまいます。しかし多くの人が、心とたましいが渇いた状態のまま、一週間どころか何ヶ月も、ひからびて死にかけていても、そのことに気づかず、あるいはそれを認めようとせずに、日々の歩みを続けているのです。その主イエスのことばは、私たちを含めたすべての人を代表するものだったのです。主イエスは、サマリヤの女性にこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)。主イエスは私たちの心とたましいの渇きをいやすため、永遠のいのちの水なる御霊を与えるために来られ、十字架にかかってくださったのです。「完了した」…。主はまた、息を引き取られる寸前にそう言われました。それは人類の救い主である神としてのことばでした。すべての罪ある人間の贖いが、確かに完了したのです。アブラハムが、モリヤの山の上において、ひとり子として与えられたイサクをほふろうとしたとき、神は、刀が振り下ろされる寸前にそれを止められました。そしてやぶに角を引っかけていた一頭の雄羊を取り、それをイサクの代わりにいけにえとしてささげたのです(創世記22章)。神に背を向け、自分勝手な歩みをしていた私たちに対し、神は、その罪のさばきを下そうとしていたにもかかわらず、その私たちの代わりに、ご自身の愛するひとり子を、傷のない小羊としてほふり、十字架という祭壇の上にいけにえとしてささげてくださったのです。そのことによって私たちの贖いは完了し、完成したのです。そしてそれは、神の側からの一方的な愛とあわれみによる、私たちの救いのみわざなのです。主の十字架がなければ、それは完成しなかったのです。そのことを覚えるなら、私たちは神に感謝と賛美をささげずにはいられないのです。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 18章28-40節◇(10月7日)

「イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」…ヨハネ18:37

「それでは、あなたは王なのですか」と、ユダヤの総督であったピラトは主に尋ねました。イエスは確かに王であられました。すべてを支配し、統治する権威をお持ちになり、ご自分の国に属する民を守り養うために、あらゆる敵を排除する力を備えた御国の王なのです。また、イエスは真理を証しするために生まれ、たとえを使い人々にわかりやすく真理を伝えられました。それは、しばしばこの世の常識とは相容れない、逆説的なものでしたが、人々はその真理の光に照らされ、主イエスによって、やみの中、滅びの中から、驚くべき光の中、いのちの中へと救い出されました。主は、道であり、真理であり、いのちなるお方であって、イエスを信じてそのことばに聞き従う者は、主とともに永遠に生きる者とされるのです。「真理とはなんですか」とピラトはイエスに尋ねました。それに対する主の答えは書かれてありませんが、「真理とはこのわたしです」と言われたに違いありません。ピラトは群衆に「私はあの人に何の罪も認めない」と告げましたが、それは確かに真理のことばだったのです。しかし結局、彼は、自分の保身のために、イエスではなくバラバを、という群衆の声に負け、真理を曲げて、イエスを彼らに渡してしまったのです。真理に従って永遠のいのちにあずかる者とされるか、真理に従わずにやみの中で滅び行く者となるのか…すべての人がその重要な選択を迫られているのです。私たち自身はすでに真理に属する者とされていますが、道であり、真理であり、いのちなるお方、イエス・キリストを、さらに多くの人々に証しし伝えていきたいと願うのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 18章15-27節◇(10月6日)

「なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」…ヨハネ18:21

ユダの裏切りによって逮捕された主イエスは、大祭司の家に連行され形ばかりの尋問を受けました。真夜中にそのように裁判を行うことは不当でしたが、祭司長たちは目障りなイエスを早く消したかったのです。そのところにペテロともうひとりの弟子がいました。門番の女性から、あなたもあの人の弟子ではないのか、と尋ねられたペテロは、「そんな者ではない」と答え、自分はそんな人物などとは関わりがないと否定しました。そしてそのことは鶏が鳴くまでに3度繰り返されましたが、それは主イエスが予告していたことだったのです(13:38)。尋問をした人物はその年の大祭司カヤパのしゅうとで、すでに現役を引退したはずの、前の祭司アンナスでした。人々からおだてられて彼の功名心が動いたのかもしれません。また主イエスを平手で打ったひとりの役人がいましたが、彼も人から認められようとしていたのかもしれません。自己保身をしたペテロ…、自己顕示をしたアンナスや役人…そこには自己犠牲を貫いて十字架に向かわれる主との強い対比が、ヨハネによって意図的に描かれています。「何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい」。アンナスに尋ねられた主イエスはそう答えられました。主の側近であるペテロこそその適任者であり、彼は裁判が行われている家の中庭にいましたが、そのペテロが、「そんな者ではない」ときっぱりと関係を否定したのです。何と皮肉なことでしょうか…。しかし主はペテロをあわれみ、その大失態を通し、深いところに触れて取り扱われ、高慢さや恐れにしばられていた彼を解放されたのです。そして主イエスが天に上げられた後に、聖霊に満たされ、人々の前で大胆に主イエスを証しする者とされたのです。私たちにも弱さがあります。失敗をすることもあります。しかし主は、そのことを通して私たちを深く取り扱い、主の弟子にふさわしい者として造り変えてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの福音書 18章1-14節◇(10月5日)

「そこで、イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」…ヨハネ18:11

今日からまたヨハネの福音書を読んでいきます。主イエスの逮捕、十字架、復活の記述が続きます。前の17章までには、過越の食事の席で語られた、弟子たちへの主のことばが記されていましたが、その後、主は彼らとともにゲッセマネの園に行かれ、そこに裏切り者のユダの一行がやって来たのです。詩篇41篇9節には、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」とありますが、その裏切りは、預言されていたことの成就でした。また、主は素直にご自分を一行の手に渡され、弟子たちが捕らえられることはありませんでしたが、それは、「彼らのうちのだれも滅びた者はなく」と、主が言われていた(17:12)とおりだったのです。そして主は、剣を抜いて争おうとしたペテロを制止し、「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」とご自分の思いを告げられました。父から与えられた杯を飲むとは、言うまでもなく、十字架にかかって自らの命を捨てることです。しかし主は、それをたやすく受け入れたのではなく、汗が血のようにしたたるほどに苦しみもだえて祈り、父のみこころに従うことを決意されたのです(ルカ22:44)。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」。この凜としたことばに、覚悟を決めて、すべてを父に明け渡して十字架へと進んでいく、主イエスの揺るがない意志を見ることができます。と同時に、自分がその杯を飲むことによって、罪の奴隷となって苦しんでいる多くの人々を、そこから解放し、救い出すことができるのだ…と、もたらされる祝福を先取り感謝する主の喜びをも、そのことばから感じることができるのです。私たちもその救いの恵みに加えられていることを、主に絶えず感謝し喜びたいと思います。

救いの喜びと感謝が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 詩篇 139篇17-24節◇(10月4日)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」…詩篇139:23-24

「神よ。私を探り、私の心を知ってください」と、ダビデは主に願い求めています。このことばは、自分のすべてを主が知っておられると告白した、1-4節のことばと矛盾しているようにも思えます。しかし彼は、自分の中に神が知らないことがある、と言っているわけではないのです。自分が認めようとせず、隠しているものもすべて、あらわにして知らせてくださいと願っているのです。「思い煩い」として抱えていることにも光が照らされ、主の取扱いを受けることを望んでいるのです。「私のうちに傷のついた道があるか…を見て」とも、ダビデは言っています。その「傷のついた道」とは、神への全き信頼が敵によって崩された道です。19-22節には自分の敵となった悪者に対する激しいことばが書かれていますが、彼のうちには、どうして悪者がそのようにのさばっているのか…神はなぜ自分のことを顧みてくれないのか…と、神につぶやくような思いがくすぶっていたのです。そしてそれを主から示され、素直に認め、悔い改め、「とこしえの道」、つまり、どのような状況にあっても、神に信頼して歩む続ける、いのちの道、光の道へ私を導いてくださいと、ダビデは主に願ったのです。私たちも、試練や苦難によって、悪者の攻撃の中で、神への全き信頼が崩されてしまうことがあります。そしてそれを無意識のうちに心に押し込めて、問題がないように表面を取り繕ってしまうのです。弱い自分を素直に表わすのをためらうのです。しかし主はすべてを知っておられるお方です。私たちも日々、その主の前に出て心の奥底を探られ、「傷ついた道」があることを示され、主の前に立ち返り、思い煩いを取り除かれ、回復されることが必要なのです。ありのままの自分を主の前に差し出したいと思います。真実な主は、確かに「とこしての道」に導いてくださいます。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 139篇1-16節◇(10月3日)

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」…詩篇139:16

詩篇139篇もダビデの作とされています。彼はここで、偉大な創造主なる神が、「私」というちっぽけな存在とどう関わっておられるかを歌っています。「あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます」(3節)。1-6節では、「私」のすべてを知っておられる方として、ダビデは主を、驚きをもって認め告白しています。「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」(8節)。ダビデはまた7-12節において、「私」がどこにいても、そこにともにいてくださる方として、主を賛美しています。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(13節)。私は決して偶然にこの世に生まれてきたわけではない…主が、ご自身の大いなるご計画のうちに、意志をもって、私の骨、内臓の一つ一つを母の胎内で組み立てられた…そしてその私の人生の歩みにどのように親しく関わり、ご自身のみわざと栄光を、「私」を通して現すかを決められ、生まれる前にそれを書き記した…とダビデは告白しています。主は決してそれを、十把一絡げにまとめてされるのではありません。一人ひとり、個性豊かな存在としてこの世に生を与え、それぞれにふさわしい歩みを計画して備えられるのです。何という驚くべきことでしょうか。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9:10)。学校での道徳教育の重要性が今また叫ばれていますが、何より大切なことは、自分とは無関係の遠い存在ではない、「私」を母の胎の中で組み立てられ、すべてを計画され、すべてを知り、ともにいてくださる神を知ることなのです。まず私たちがそのことを、日々驚きと感動をもって覚え、遣わされたところで人々に伝えていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 138篇◇(10月2日)

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」…詩篇138:3

私たちが、さまざまなことに恐れを抱くとき、自らの足りなさやふがいなさに落ち込むとき、痛みや悲しみの中から抜け出せないとき、主は私たちを強め、励まし、慰めてくださいます。この詩篇はダビデの作とされていますが、彼が試練と苦難の中で主を見上げ、その主の御名を呼び求めたときに、確かに主はその声を聞いて答えられたのです。「私のたましいに力を与えて強くされました」というダビデの告白のことばが心に留まります。私たちのたましいに与えられる力…それは私たちの存在の中心を強める力です。それは地上のものからは決して得られない、神さまだけが与えることのできる霊的な力です。3節を挟むようにして、「あなたは…あなたのみことばを高く上げられた…」(2節)、「王たちは…あなたの口のみことばを聞いた…」(4節)とあります。私たちのたましいを強めるその力は、神の口から出るみことばによって与えられるのです。「地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう」(4節)。王とは、権威を持っている者たちです。自分の思い通りに国や人々を支配することもできます。しかし、彼らが主を畏れ、自らを低くし、王の王である、主のみことばに聞き従う者となるなら、その治世は主の御手の中で導かれ祝福されるのです。「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます」(6節)とあるとおりです。私たちも、自らの知恵と力に拠り頼まず、祈りの声を上げ、主から語られるみことばに聞き従う者となるならば、たましいに力を与えられて強くされるのです。恐れや嘆きは取り除かれ、確信と希望に変わるのです。

主の祝福が豊かにありますように。