◇聖書箇所:ヨハネの手紙第三◇(10月31日)

「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。」…3ヨハネ11

「長老」(1節)とはこの手紙の著者である使徒ヨハネですが、宛先のガイオという人物は、おそらく、彼から指導を受け、教会の中でリーダー的な働きをし、特に他の所からやって来る人々や巡回伝道者と呼ばれる教師たちを受け入れ、世話する働きを担っていたと思われます(5節)。そのようにガイオが、主のための働きを忠実に行っていることを他の聖徒たちから耳にしたヨハネは、その喜びをこの手紙の中で率直に言い表わしています(3,4節)。それは、主が願っておられるように、真理のうちを歩み、神と人とを愛して仕えるあり方であって、主は、そのようなご自身のみこころにかなう者を喜ばれ、キリストの良き証し人として豊かに用いてくださるのです。一方、教会の中にはディオテレペスという者がおり、彼は群れのかしらになりたがっていました(9節)。人々の上に立ち、権威を振りかざし、群れを自分の意のままに支配しようとしていました。彼は、他からの兄弟を受け入れず、偽教師だと言って巡回伝道者も拒絶し、彼らを受け入れたいと願っていた信徒たちを教会から追い出すという(10節)、きわめて自己中心的な者であったのです。「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい」。対照的なガイオとディオテレペスのことを語ってきたヨハネは、そのようにガイオに命じています。悪とは、自分、自分と、自分の欲求を満たすことを追い求め、他者との間に壁を作って、受け入れることを拒絶する内向きな者であり、何よりも神を認めようとしない、心が頑なな者のあり方です。一方、善とは、神を認め、主の前にへりくだり、神と人とを愛し、仕えることを喜びとする者、主の御声に聞き従う者のあり方であって、私たちにとってのその見習うべき一番のお手本は、主イエスご自身なのです。キリストに贖われ、神の子どもとされた者、主のいのちに生かされている者として、ますます主に倣って歩み、さらに主の似姿へと変えられたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第二◇(10月30日)

「私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」…2ヨハネ6

1-4節で「真理」ということばが繰り返し語られています。「真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにある」という2節のことばが示唆しているように、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハ14:6)という主イエスのことばのとおり、「真理」とは、私たちのうちに住まわれる真理の御霊(ヨハ14:17)であり、いのちへの道を示し導くキリストなのです。ヨハネはまた、真理と愛のうちに、神の恵みとあわれみと平安が、御父と御子から私たちとともにあるように、と言っていますが(3節)、それは、三位一体なる神が、真理と愛のうちを歩む聖徒たちに、恵みと平安を与えてくださるということであり、それは御父が私たちに命じておられること(4,6節)、主のみこころなのです。ではそれは、具体的にどういうことなのか…。ヨハネはさらに、「愛のうちを歩むこと」について語っています(6節)。その「愛」は、「互いに愛し合う」という5節からの流れで考えれば、他者への愛だと理解できますが、その後の7,8節では、私たちが愛のうちを歩むべき理由は、反キリストに惑わされないようにするため、また、神からの豊かな報いを受けるためだとあります。「愛のうちを歩む」とは、まず私たちを愛してくださった(1ヨハ4:19)神の愛を、しっかり受け取って歩むことなのです。神の愛、それは神であり、同時に肉体を持った存在となられたキリストが、罪人である私たちのために十字架にかかり、ご自身のいのちをささげてくださったことに現されています。その神の愛、キリストの愛こそ、私たちが常に立ち返るべきところなのです。当時、偽教師たちは、キリストが肉体を持っていたことを否定していましたが(7節)、主イエスが流された血潮を抜きにするなら、罪の赦し、救いはないのです(ヘブ9:22)。それは時代が移り、科学万能のような世の中になっても、決して変わらない真理なのです。そのことを覚えたいと思います。

みことばにしっかりと立つことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 5章1-12節◇(10月28日)

「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。」…1ヨハネ5:11

イエス・キリストを自分の主と告白し、その名を信じて救われた聖徒たちはみな、神から生まれた神の子どもであると、これまで示してきたことをヨハネはここでも語っています。そしてその者たちは、神が命じておられることを守り行い、自分を生んでくれた神を愛し、また自分以外の神の子どもたちと、霊的な兄弟姉妹という関係にあることを覚えつつ、互いに愛し合うのです。そしてそれは、神の愛へと応答として感謝と喜びをもって行うのであって、それが重荷となることはないのです(3節)。「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです」(6節)。「水」とは御霊であり(ヨハ7:37-39)、「血」とは血肉、つまり肉体を意味しています(ヨハ6:53-56)。当時、偽教師たちが人々に伝えていた誤った教えのように、キリストは、見せかけのからだを取って歩まれた方ではなく、私たちと同じように、確かに霊と肉体をもって歩まれたお方、神の御子なのです。その御子イエスが、ご自身の十字架と復活により贖いを成し遂げられたゆえに、イエス・キリストを信じる者はみな、罪の奴隷から救い出され、罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられているのです。その一人ひとりは、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえり、いのちの源なるキリストによって生かされているのです。そして、いのちが御子のうちにあることを、自らのことばをもって人々に証しするのです。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(4節)。「打ち勝った」と過去形でヨハネは語っています。キリストすでに世に打ち勝ち、再臨して最終的に悪を滅ぼされるのです。その主を信じる信仰によって、私たちはこの世にあってキリストの勝利にあずかることができるのです。それが神の国の祝福であり、神の子どもとしての特権なのです。そのことをしっかり覚えたいと思います。

主にあってますます強められますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 4章13-21節◇(10月27日)

「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」…1ヨハネ4:16b

御父が世の救い主として遣わしてくださった御子は、罪人である私たちの身代りとなって十字架にかかって死なれ、葬られ、よみがえられ、私たちの贖いを成し遂げてくださいました。ゆえに、私たちは罪赦され、永遠のいのちが与えられ、神の子どもとされているのです。それが福音であり、神がもたらされた救いの具体的な内容であり、そのことを私たちは人々に証しするのです(14節)。そして、キリストの証人としてその使命を全うするために、主は聖徒たちに、天からの油注ぎ、聖霊の満たし、大いなる力を与えてくださっており、そのことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられるということが分かるのです(13,15節)。16節以降には、私たちに対するそのような一方的な好意、神の愛があらためて語られています。「神は愛です」という簡潔なその表現をもって、愛が神のうちに満ち満ちていることを、ヨハネは伝えています。神は、ご自身に背を向けていた罪人を愛し、あわれみ、大切な御子をさえ惜しまずに与えてくださいました。愛は神から出ているのです(7節)。神がまず私たちを愛してくださったのです(10,19節)。その愛が私たちをいつも取り囲んでいるので、私たちは何も恐れることなく、神が約束された天の御国に向って歩み続けることができるのです(17節)。神がまず私たちを愛してくださった…。私たちはその神の愛を、日ごとにしっかりと受け取るのです。そして、その神の愛に感謝と喜びをもって応答し、私たちもまた神を愛し、神に礼拝をささげ、神のことばに聞き従う者となるのです。また、神に愛されている自分を愛し、同じく神に愛されている隣人を愛する者となるのです。日々の生活の中で自らの愛の足りなさを痛感する者ですが、ますます神の愛をいっぱいに受け、その愛のうちにとどまり、神の愛が流れ出ていく者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 4章1-12節◇(10月26日)

「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」…1ヨハネ4:4

4章1-6節でヨハネは、神からの霊と反キリストの霊について語っていますが、偽預言者が多く出現しているこの終わりの時代において、霊だからといってすべて信じてはいけない、それが神からのものかどうかをしっかり吟味するようにと、まず命じています(1節)。さらにヨハネは、神からの霊はイエス・キリストを告白するが、そうでない霊はキリストを告白しようとしないのであり、その霊に支配されている反キリストの者は、この世の者たちであって、ひたすら世のことを話し、世の人々も彼らの言うことを聞くのだ、と言っています。そしてそのことによって私たちは、神からの真理の霊と反キリストの偽りの霊を見分けることができるのです。しかし、だからと言って、私たちは世の人々に対して、神のことば、福音を語るのをやめてしまうわけではありません。そして、人々がイエス・キリストを信じ、受け入れ、自らの主と告白するようになるのは、語り伝える私たちのことばの巧みさ、説得力によるのではないのです。それは聖霊の働きにほかならないのです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)とあるとおりなのです。「あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。」「勝ちました」と、すでになされたこととしてヨハネが語っていることに心が留まります。その勝利は、死からよみがえられ、悪魔に打ち勝たれた、キリストの勝利に基づくものであって、キリストによって贖われ、福音を伝える使命を委ねられた聖徒たちは、反キリストの霊に支配されている者たちのさまざまな妨害や攻撃にあっても、勝利することができるのです。私たちのうちにおられる主は、この世のだれよりも大いなる権威と御力をもって、すべてを統べ治めておられるからです。そのことを覚え、ますます主に祈り求め、御霊の力によってキリストを証しし、福音を伝えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 3章13-24節(10月25日)

「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」…1ヨハネ3:18

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です」(11節)。主イエスは弟子たちに、「互いに愛し合いなさい」と命じられました(ヨハ13:34)。また神は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という律法を、旧約の時代からご自身の民に与えておられたのです。「愛さない者は死のうちにとどまっています」(12節)。「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」(13節)。ヨハネは厳しいことばで、主の戒めに聞き従おうとしない者たちを非難しています。キリストに贖われた聖徒たちが、互いに愛し合おうとせず、隣人に愛を示さないなら、そのような者は霊的な死に至る、すなわち、神との関係が断絶してしまうと警告しているのです。実際、兄弟たちが困っていても、あわれみの心を閉ざし、自分の富を分け与えようとしない、自己中心の者たちが当時いたのです。「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」。「愛している」と言うのはたやすいことです。しかし、そのことをことばだけでなく、実際に行動として表さなければ、その愛は真実なものではないのです。そしてその愛の行為は、人から良く思われたいからではなく、何かの見返りを期待してでもなく、キリストに倣って、自らを与え、献げる、そのようなものであることが求められているのです。キリストは、私たちの罪を赦すために、身代わりとなって十字架にかかり、贖いの代価としてご自身のいのちを与えてくださいました。そのキリストを信じて救われ、神の愛を受けて生かされている私たちもまた、その神の愛、キリストの愛、与える愛をもって真実に愛すべきなのです。そして、そのようにして神の命令を守り行う者を、神は喜んでくださるのです(22節)。すなわちそれは、神を愛することであって、神への愛と兄弟への愛は別々のものではないのです。ますます行いと真実をもって、神と人を愛する者とされたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 3章1-12節(10月24日)

「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」…1ヨハネ3:10

「事実、私たちは神の子どもです」(1節)。3章の前半でヨハネは、聖徒たち一人ひとりが神の子どもとされていることを明らかにしています。そしてそれは、キリストに贖われた者が、霊的な意味において、親と子という特別な関係の中に入れられ、父に愛されているということであり、また、キリストを長子とする神の家族の一員として加えられているという、驚くべきことなのです。しかしながら、生まれつき罪の性質を持った私たちは、そのような好意を受けるのに全くふさわしくない者、それに価しない者でした。そのことを可能としたのは、私たちの罪を取り除くために御父から遣わされた、御子キリストなのです。そのキリストこそ、罪のないただ一人の存在であり、そのお方がご自身をいけにえとして神にささげられたゆえに、私たちはきよくされ、罪赦され、神の子どもとされる特権にあずかったのです。その上で、聖徒たちがキリストにとどまることの大切さを、ヨハネはさらに説いています(6-10節)。主イエスご自身がぶどうの木とその枝のたとえで語られたように(ヨハ15:5)、枝はぶどうの木にとどまっていなければ、実を結ぶことはできないのです。無用なものとして取り除かれ、投げ捨てられ、枯れてしまうのです。ヨハネは、9-10節で再び、神から生まれた者、そしてそれで終わりではなく、キリストにとどまる者、神の似姿に造られた者として、神の種、すなわち神のご性質を内に宿す者こそが神の子どもであって、罪を犯さず、義を、神のみこころを行う者となる、そのことによって神の子どもと悪魔の子どもの区別が明確になると言っています。私たちが、神の子どもとされていることを感謝するとともに、キリストにとどまり続け、その身分にふさわしく歩むよう求められていることをあらためて教えられます。そのような者とされることを祈り求めたいと思います。

神の子どもとされている喜びがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 2章18-29節◇(10月23日)

「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます…」…1ヨハネ2:27

「今は終わりの時です」(18節)と言うヨハネは、「今や多くの反キリストが現れています」とその判断の根拠を告げ、人々を惑わす偽り者である彼らがどのような者で、聖徒たちがどう対処すべきなのかを教えています。反キリストとは、イエスがキリストであることを否定し、またその御子を世の救いのために遣わされた父なる神をも否定する者であって、彼らは聖書が示す真理からはずれたことを教えているのです。それに対してヨハネは、「御子を告白する者は御父も持っているのです」(23節)と語り、御父と御子は決して切り離すことのできない密接な関係にあることを、ここで明らかにしています。さらにヨハネは、そのような偽り者に惑わされないために、「初めから聞いていること」、つまり、主イエスによってもたらされた神の国の福音、その真理の教えを自分のうちにとどまらせるように、そしてキリストご自身のうちにとどまるようにと命じています(24,28節)。そうするなら、闇に迷い込まずに光の中を歩み続け、約束された永遠のいのちに至る者とされるのです(25節)。偽り者たちは、終わりの日について人々の不安を煽り、目の前の「キリスト」に従うようにと促していました。しかし、聖徒たちには、御子から受けた注ぎの油、すなわち、知恵と啓示の御霊が内住しておられるのであって、みことばを通し、御霊ご自身による解き明しを受けて、私たちは真理を知り、神ご自身を知ることができるのです。御霊こそ真の教師、偉大なメッセンジャーなのです。私たちが進むべき正しい道を示してくださるのです。だからこそ私たちは、日々聖書を開いてみことばを読み、御霊に教えられ、その真理のうちを歩み続けるべきなのです。そうするならば私たちの霊の目はさらに開かれ、偽りを見抜くことができるのです。真理の教えとキリストに、しっかりととどまる者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの手紙第一 1章(10月21日)

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」…1ヨハネ1:9

使徒ヨハネは、この手紙を、グノーシス主義者の教えに反論するために書いたとされています。彼らは、霊を聖なるもの、物質を邪悪なものとして完全に二分し、からだの行為は霊の聖さに影響を及ぼさないと主張したため、それを信じた人々は、不道徳なことを平気で行ったのです。また彼らは、キリストを見せかけのものとし、その人性を否定する者たちであったのです。ヨハネは1-4節でまず、「いのちのことば」、すなわち、神の御子であられ、人の姿を取って歩まれたキリストを自分が証しし、伝えようとしていること、そして、実際に自分が、弟子としてキリストと生活をともにし、その教えを耳にし、力あるわざを目にし、復活のからだに触れて、「交わり」を持ったことを強調しています。次にヨハネは、神は光であり、闇が全くないお方であって、キリストに贖われた聖徒たちが、その神と交わりを持っていると言いながら闇の中を歩んでいるならば、それは偽りであって、真理を行っていないのだと指摘し、不道徳な歩みを続ける者たちを非難しています(5-7節)。私たちは確かにキリストにあって罪赦された者です。ししかし、その救いはまだ完成していません。私たちのうちにはなお罪の性質が残っているのです。私たちは罪赦された罪人なのです。自分には罪がないと言うなら、それは自分自身を直視せず、欺き、ごまかしているのです(8節)。けれども、私たちが神の光の中を歩み続けるならば、キリストのうちにとどまり続けるならば、流されたキリストの尊い血潮が、すべての罪と不義から私たちをきよめるのです。だからこそ私たちは、しばしば罪を犯してしまう弱い自分に失望・落胆することなく、いつでもその罪を主の前に告白し、悔い改め、赦しを主からいただくことができるのです。そのような者とされていることを覚え、主に感謝と賛美を献げたいと思います。

主に赦されている喜びがありますように。

◇聖書箇所:アモス書 9章◇(10月20日)

「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」…アモス9:11

9章の前半には、主の厳しいさばきのことばが語られています。生き残った者は剣で殺され、たとえ、よみに下っても引きずり出され、天に上っても引きずり降ろされ、海の底に逃げても蛇にかまれてしまうのです。そのように、主から逃れられる罪人は一人もいないのです。「見よ。神である主の目が、罪深い王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする。しかし、ヤコブの家を根絶やしにすることはない」(8節)。「わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ」(10節)。8節以降ではイスラエルの回復が語られています。そしてそこでも、主がふるいにかけて選別される結果、罪人は滅び、正しい者は生きる、ということが示されているのです。12節には「エドムの残りの者」とあります。エドム人はエサウの子孫、ヤコブの子孫であるイスラエルと敵対していた民族です。神は、イスラエルを回復し、そのエドムの残りの者、すなわち異邦人をも、「わたしの名で呼ばれるすべての国々」として、救ってくださるのです。使徒の働き15章16-18節には、主の兄弟ヤコブが、神がどのように異邦人を顧みてくださるのか、このアモス書のことばを引用して語ったことが書かれています。「わたしは、わたしの民イスラエルを回復させる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる」(14節)。「わたしの民イスラエル」…それは、血肉によるイスラエルだけでなく、信仰によるアブラハムの子孫、霊的なイスラエルとされた、私たちのことでもあります。そしてその主の民、教会は、荒れた町々を立て直し、闇に覆われたこの世に主の光を照り輝かせ、福音を宣べ伝え、残りの者たちの救いのために労し、平和と繁栄が回復された神の国の祝福にともにあずかるのです。それが神のご計画、みこころであることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:アモス書 8章◇(10月19日)

「…そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。」…アモス8:11

主はアモスに、一かごの夏の果物を見せられました。脚注のとおり、「夏」と「終わり」ということばは似た発音であり、主は、それを掛けことばとして、イスラエルに終わりが近づいたことを示そうとされたのです。そしてそれが実際に来ると、「多くの屍が、いたるところに投げ捨てられる」という悲惨な状況になるのです(3節)。しかし民は、そんなことは知らず、祭りや安息日が早く終わって自分たちの金儲けが始められることを願う、そのような者たちであったのです。しかも彼らは、欺きの秤を使い、粗悪な商品を売って不正な利益を得ており、また、弱い者、貧しい者たちを労働力とするため、安く買い叩くようなことを平気でしていたのです(5-6節)。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも決して忘れない」(7節)。もちろん主は、そんな彼らの悪事をお見通しでした。何よりも彼らが神を畏れず、偶像に拠り頼んでいたゆえに(14節)、主は彼らをさばき、祭りを喪に、歌を哀歌に変える、と言われるのです(10節)。さらに主は、「主のことばを聞くことの飢饉」が起こると言われました。それは、主のことばを捜し求めても見いだすことができず、たましいが衰え果ててしまうという事態であり、致命的なことなのです。なぜなら、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる」(申8:3)からです。みことばなしには人は生きられないのです。いのちが失われてしまうのです。肉体だけでなく、内にある霊、たましいが満たされなければ、霊的な飢え乾きが生じ、心に貧しさと空しさを味わうこととなるのです。そのことを覚え、目に見える食物を得ることに心奪われることなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物、いのちのパンを求める(ヨハ6:27)者でありたいと思います。

霊的な養いが与えられますように。

◇聖書箇所:アモス書 7章(10月18日)

「しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。」…アモス7:15

いなごが地の青草を食い尽す…。火がイスラエルの割り当て地を焼き尽くす…。そのような幻を主から見せられたアモスは、それらがイスラエルへのさばきであることを知ると、「お赦しください」、「おやめください」、「ヤコブはどうして生き残れるでしょう」と言って、それらが実行されないようとりなしました。すると主は、それを聞いて思い直され、さばきを取りやめたのです。しかし、3度目に見せられた幻では、主は下げ振りを手に持って城壁の上に立たれ、イスラエルの真ん中に垂れ下げると言われました。下げ振りとは、建物が垂直に立っているかを調べる道具ですが、主は、民が正しく立って公義を行なっているかを測ると言われたのです。そして、今度は見過ごしにはしない、民は剣に倒れ、住んでいるところから捕らえられて行く、と告げられたのです。一方、そのような実直なアモスのあり方に対し、王に取り入ろうとしていた祭司アマツヤは、アモスを邪魔者扱いしてユダの地へ行かせようとしました(12-13節)。しかしアモスは、自分は元々預言者ではなく牧者であった…しかし、主が民に預言せよと言われたので、その命令に従って行動しているのだ…だから人からなんと言われてもそれをやめない…と自分の立場を明確にしたのです。「ヤコブはどうして生き残れるでしょう。彼は小さいのです」(2,5節)。それは、弱い羊の群れを世話する羊飼いの心から出ることばです。だからこそ幻を見せられたアモスは、単に預言者としてそれを民に伝えるのではなく、羊たちのことを思って主に必死にとりなしたのです。そしてとりなしは、本来、祭司としての働きであるのです。ここにアモスがキリストの予型となっているのを見ます。主イエスは、群衆が羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てているのを見て深くあわれまれましたが(マタ9:36)、キリストのしもべである私たちもまた、同じ心を持ち、とりなし、福音を伝える者でありたいと思います。

立つべき所に立ち続けることができますように。

◇聖書箇所:アモス書 6章◇(10月17日)

「それゆえ、今、彼らは最初の捕囚の民として引いて行かれる。 大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。」…アモス6:7

6章には、安逸をむさぼり、贅沢三昧の豊かな暮らしに満足する、イスラエルの富裕層の者たちへの非難のことばが書かれています。「サマリヤの山に信頼している」(1節)彼らは、サマリヤの山の高き所にまつった彼らの神が祝福をもたらし、敵から守ってくれると信じ込み、日々の生活を楽しむことに明け暮れていたのです。4-6節にはそのことが具体的に描かれています。象牙の寝台に横たわり、良質な肉を選んで食べ、最上の香油を身に塗り、酒を飲んで宴会に興じる…。しかし、そのようにすっかり身を伸ばしている彼らは、やがて民の中でも最初の捕らわれ人となって引いていかれることになるのです。「今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を興す」(14節)とイスラエルの民全体に対して語られていますが、主はその一つの国、アッシリアを用いて、快楽主義者たちを真っ先に取り除かれるのです。主はご自身の民に対して、禁欲的に生きるようにと命じているわけではありません。問題なのは、主の日はどうせすぐには来ないと楽観的に考え、主の警告のことばにまともに耳を傾けようとはせず、今のときを楽しもうと快楽を追い求め、贅沢な暮らしにどっぷりと浸かり、安逸をむさぼっているそのあり方なのです。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(1ペテ4:7)。ペテロは聖徒たちに対し、身を慎むよう繰り返し命じています(1ペテ1:13,5:8)。私たちが放縦の生活をすることはないとしても、主の日が近いという緊張感を持たずに、ただ漫然と日々を過ごしているとしたら、それは主が喜ばれるあり方ではないのです。ともしびのための油を用意せず眠ってしまった娘のたとえが思い起こされます(マタ25:1-13)。心を引き締め、しっかりと目を覚まし、祈りを絶やさずに日々を過ごしたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:アモス書 5章16-27節◇(10月16日)

「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」…アモス5:24

イスラエルの民は、「主の日」を切に待ち望んでいました。彼らにとってその日は、かつて彼らの祖先が経験したように、神が偉大な御力をもって彼らの歩みに介入され、敵に打撃を与え、勝利を与えてくださる日のはずだったからです。しかしアモスは、主の日はそのような日ではない、その日はあなたがたにとって何になるのか、と告げているのです(18節後半)。主の日、それは、神がイスラエルの民自身にさばきをなされる日となるのです。それは希望ではなく絶望の日です。そこは闇に覆われており光はないのです。民は主の前にささげ物を献げていました。しかしそれは、あくまで形式的なものに過ぎず、自己満足の行為であって、神はそれを、「受け入れない」、「目を留めない」、「聞きたくない」と、徹底的に拒絶されるのです(21-23節)。そしてそれは、彼らが自分たちの手による偶像の神を慕い、また弱い者から搾取して苦しめていたからです。「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ」。主はアモスを通して民にそう命じられました。絶えず流れる谷川…それには水が湧き出る水源、泉が必ずあります。水はそこからあふれ出して流れていくのです。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハ4:14)。私たちが谷川の水のように流すべき公正と義、それは主ご自身がもたらされるものであって、そのために私たちは、御霊が住まわれる宮として、きよめられ、整えられる必要があるのです。そして主は、人々に対して、形式的な神への礼拝ではなく、何よりも自らを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げるようにと願っておられるのです。それこそが、私たちが神にささげるべき真の礼拝なのです(ロマ12:1)。そのことを覚え、神が求めておられるそのあり方へと、ますます進んでいきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:アモス書 4章◇(10月14日)

「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」…アモス4:12

「サマリアの山にいるバシャンの雌牛ども」(1節)とは、贅沢を愛するサマリヤの上層階級の女性たちのことです。彼女たちは弱い者、貧しい者たちを苦しめ、見せかけの儀式を行って自己満足していました(4-5節)。しかし神は、そんな者たちを放置することはないのです(2-3節)。6-11節には「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」ということばが5回も書かれています。そしてそれぞれそのことばの前には、そのような罪深いイスラエルへの懲らしめとしての災いが書かれています。飢饉、干ばつ、疫病…。イスラエルの民を出て行かせようとしない頑ななエジプトの王パロに主が怒られ、さまざまな災いを起こされたことが思い起こされます。「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」。主のそのことばが示唆していること、それは、主は、ご自身の所有の民であるイスラエルが悔い改め、御前に立ち返るのを、心から願い、忍耐をもって待ち望んでおられるということです。そして、それなのにいっこうにそうしようとせず、神に背き続けている彼らに失望して、嘆き、悲しんでおられるということなのです。「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。しかし、主はイスラエルを見捨てられたわけではありません。もう帰ってこない…とあきらめたわけでもないのです。主はなおも深い愛とあわれみをもって、帰ってこない彼らをご自身のもとに連れ戻そうと、自ら行動を起こされるのです。そのように主は、失われた者を捜して救い出されるお方です。そしてキリストは、その神によって遣わされた、全人類ための救い主なのです。「あなたの神に会う備えをせよ」というその呼び掛けが、血肉によるイスラエルだけでなく、神が造られたすべての人に対してなされている、ということを覚えたいと思います。

主の御声をはっきりと聴くことができますように。

◇聖書箇所:アモス書 3章◇(10月13日)

「わたしは、地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。」…アモス3:2

3章でも引き続き、イスラエルに対する神のことばが、預言者であるアモスを通して語られています。まず1-2節で、イスラエルが神に選び出された民族であることがあらためて告げられています。神は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫がエジプトにおいて奴隷となって苦しんでいるのを見、そこから連れ上り、カナンの地へと導かれました。しかし彼らが神に背き、自分たちの手による偶像に心を寄せたため、神は怒りを燃やし、その罪と咎のゆえに、彼らを罰すると言われたのです(2節)。9節には、アシュドデの宮殿とエジプトの地の宮殿に告げよとありますが、アシュドデとはペリシテ人の地にある町のことです。主は、それらの隣国の異邦人の王たちを呼び寄せ、イスラエルの中心地、サマリヤにおいて行われている暴虐と暴行の悪事がいかにひどいものであり、その町が大きな混乱と抑圧の中にあるかということを見せ、彼らをいわば証人として用いられるのです。そしてその後、イスラエルへのさばきとして、敵を送り、王の権威を地に落とし、宮殿が奪われるようにされるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため…」(ヨハ15:16)神の選びと救いは、キリストにあって、イスラエルだけでなく異邦人である私たちにも及ぶようにされました。主に贖われた私たち一人ひとりは、主のご計画の中で特別に選ばれ、霊的なイスラエルとして、良い実を結ぶために生かされているのです。そのように、自分がどのような存在であり、どこから救われ、何が求められているのか、私たちは、そのことをみことばによって教えられ、「選ばれた主の民」としての自覚をしっかりと持ち、主から託された使命を全うする者でありたいと思います。

主の召しに生きる者とされますように。

◇聖書箇所:アモス書 2章◇(10月12日)

「あなたがたをエジプトの地から連れ上り、四十年の間、荒野の中であなたがたを導き、アモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。」…アモス2:10

1章に続き、2章においても同じ表現をもって、主は、モアブ、ユダ、そしてイスラエルに対し、それぞれの罪と咎を責め、それらのゆえにもたらすさばきを、アモスの口を通して語っておられます。主の民である南ユダの罪、それは、彼らが主の教えを捨て、掟を守らず、先祖が付き従ったまやかしもの、すなわち偶像に惑わされ、心奪われることです。主はそのことのゆえに火を送られ、それはエルサレムの宮殿、王の家を焼き尽くすのです。一方、北イスラエルに対しては、人々が自らの欲望を満たすために、貧しい者、弱い者を踏みにじり、虐げることが非難されています。また、彼らの性的不品行や、不誠実で肉を喜ばせるあり方が責められています。それだけではありません。彼らは何よりも、主が主権者、また全能者であられ、偉大な御力をもって多くのみわざをご自身の民になされたことを認めようとしないのです。主を畏れ、あがめ、へりくだって従おうとはしないのです。主はそのことを指摘し、異邦人であるアモリ人を滅ぼし、その地を所有したのは、ほかでもない「このわたしだ」、また「わたしが」、あなたがたの中から預言者やナジル人を起こしたのだ…と、繰り返して強調しておられるのです(9-11節)。しかしイスラエルの民は、そのように主が立てられたナジル人に酒を飲ませ、預言者が語ることを禁じるのです。それゆえに主は、「このわたしが、あなたがたを押しつぶす」と言われるのです(12-13節)。主は、私たちの歩みにおいても、御力をもってさまざまなみわざをなしておられます。そのことを認め、主の御名をあがめて感謝と賛美をささげ、すべての栄光を主に帰す者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:アモス書 1章◇(10月11日)

「彼は言った。主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。羊飼いの牧場は乾き、カルメルの頂は枯れる。」…アモス1:2

アモスは、ユダのテコア出身の牧者、つまり羊飼いの一人であり、ユダのウジヤ王の時代に生きた預言者です。彼は、ユダとイスラエル、またその周辺諸国について主から幻を見せられ、主から語られたことばを語り告げました。2節には「主はシオンからほえ」とありますが、それは、アモスの時代、彼が預言したことが成就するとは思えず、人々が油断していたことを示唆しています。そのような中、主は大声により警告を発せられたのです。まず1章では、5つの異邦の民に対して語られています。「~の3つの背き、4つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが…からだ」という同じ表現で、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、そしてアンモン人に対して、彼らの悪事が指摘され、そのゆえにもたらされる主のさばきが告げられているのです。「踏みにじった」、「捕囚の民として捕らえ移し/引き渡し」、「剣で自分の兄弟を追い」、「妊婦たちを切り裂いて自分の領土を拡げた」…。そのような彼らの行為とはつまり、他国を侵略し、自国の領土を拡げようとするものであり、それが非人道的、残虐なやり方でなされることが「背き」、すなわち神のみこころに反する悪、罪として指摘されているのです。そしてその報いとして主は、「宮殿を焼き尽くす」(4,7,10,12,14節)と、それらの国々の主権者である王を絶ち滅ぼされるのです。今も世界において起こっている国と国との戦い…。その背景には政治的、あるいは宗教的なことがありますが、その根本にあるのは、まことの神を畏れず、肉の思いに従って欲しいものを手に入れようとする、自己中心の罪なのです。私たちは、主に贖われた者、御国の民として、そのような肉の支配からますます御霊の支配へと移され、王なるキリストの主権を認めて歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:コロサイ人への手紙 4章◇(10月10日)

「同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。」…コロサイ4:3

「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」(2節)。パウロは、手紙を書き終えるのにあたり、祈りの大切さをあらためて述べています。2節を直訳すると「祈りから離れないでいなさい、祈りに固着しなさい」となります。「たゆむ」は「弛む」と書きますが、気がゆるむ、油断するという意味です。パウロは、どんなときにも油断せず、またあきらめずに、しがみつくようにして祈りなさいと言っているのです。そのパウロは、テサロニケの人々に対しても、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。…」と言っていますが(1テサ5:16-17)、絶えず祈るとは、四六時中祈りに専念するということではありません。それは、日常のこんな小さなことは祈らなくても…と考えずに、すべてにおいて主に拠り頼む姿勢、主によらなければ何もできないというへりくだりの心をもって、「助けてください…」と、主を待ち望む思いを常に持ち続けることなのです。「また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください」(4節)。パウロはそのように、コロサイ教会の信徒たちに祈りを要請しています。彼は祈りの力がどれほど大きいかを知っていました。そのとき彼は獄中にいましたが、置かれているその現実に決して失望することなく、祈りを通して現される主のみわざを信じ、それを待ち望んでいたのです。12節では、エパフラスという人物が、仲間であるコロサイの聖徒たちのためにいつも祈りに励んでいるとあります。そのように、たとえ離れていても、祈りによって支え合い、励まし合えるのは、主にある者の特権です。私たちも、人々のさまざまな必要が満たされるよう祈ってとりなし、また逆に、「私のこのことのために祈ってください」と、祈りの力を信じ、必要を神の家族と分かち合う、そのような者でありたいと思います。

祈りを通して御国が拡大しますように。

◇聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章12-25節◇(10月9日)

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」…コロサイ3:12

パウロはコロサイの人々に対して3章の前半でまず、「古い人」から出るさまざまなものを殺すように、捨てるようにと命じています(5,8節)。それは、キリストに贖われた聖徒たちは新しい人を着たからであり(10節)、御霊の働きによって、さらに主と同じ姿へと新しくされ続けていくからです(10節、2コリ3:18参照)。聖徒たちは罪赦された罪人であって、罪が消えてなくなったわけではなく、古い人の性質がたびたび現れて日々葛藤するのです。12節以降には、その新しい人が何を「着るべきか」が述べられています。慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容…。それらは御霊の実として結ばれるものであって、聖徒たちは日々主の前に出て、古い自分を「脱がされて」、本来身に着けるべきものを主から「着せられる」のだ、ということをここから教えられます。またその12節の前半には、新しい人とは、神に選ばれた者、聖なる者、神に愛されている者である、と書かれています。私たちが、みことばを通し、自分がそのような者とされているという事実を日々確認し、しっかりと受け取るならば、私たちの内側は、古い人と新しい人との葛藤による混乱や動揺ではなく、キリストにある平安、感謝、喜びによって満たされるようになるのです。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です」(14節)。帯とは、着ているものの一番上に着けるものであり、帯がなければ、動いているうちに着ているものがはだけて脱げてしまいます。「愛がなければ…」とパウロがコリントの人々に対して強調していることが思い出されます(1コリ13章)。そしてその愛もまた、御霊によって結ばれる実なのです(ガラ5:22)。自らの肉のがんぱりによってではなく、キリストにあって、御霊の働きによって、それらが主によってなされるということを覚え、自らが神に選ばれ、愛され、新しい人とされていることを忘れずにいたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章16-23節◇(10月7日)

「これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」…コロサイ2:23

当時、コロサイの教会に入り込んでいた偽教師たちは、飲食に関する規定や、ユダヤの祭りや暦に関する教えなどを持ち込み、それに従わない者たちを批判して裁いていました。そしてその結果、信仰の弱い人たちに罪の意識が生じ、罪赦され救われた者に神から与えられた自由と喜びが、失われてしまっていたのです。しかし、そのような規定や教えは、「来るべきものの影」、すなわち律法を成就されたキリストが来られるまでの期間、人々に罪の意識を与え、救いを求めさせるために用いられるものであって、「本体」、つまり人々が心に留めて従うべき真の教えは、キリストのうちにあるのです。「つかむな。味わうな。さわるな」といった禁欲主義的な誤った生き方は(21節)、主が定めた律法とは異なる、あくまでも人間が考え出した戒めと教えによるものであったのです。偽教師の中には、御使いを礼拝する者たちもいました(18節)。しかし、御使いもまた神の被造物であって、神ではありません。その御使いを礼拝することは、神のみこころに反しているのです。また、「彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって」とありますが、それは、みことばではなく、自分が受けた幻や啓示を強調して正当化する、独りよがりの神秘主義であって、もちろんそのようなあり方もまた、単なる自己満足に過ぎないのです。ともすると私たちも、「主に示された、語られた」と言って、反論を寄せつけない態度を取ってしまうことがあります。しかし、私たちがなすべきことは、教会のかしらであるキリストにしっかりと結びつき、みことばを通して主のみこころを正しく受けとめ、従順な態度でそれに従うことなのです。自らの肉を満足させるのではなく、主を喜ばせる者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章1-15節◇(10月6日)

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」…コロサイ2:11

当時、コロサイやラオディキアの教会に偽教師たちが入り込み、「まことしやかな議論」や「空しいだましごとの哲学」によって人々を惑わし、誤った道へと導こうとしていました(4,8節)。そのことを知ったパウロは、そうならないために、キリストにしっかりと根を張って成長し、信仰を堅く保って贖いの恵みを覚え、感謝にあふれた生活をするようにと、聖徒たちに命じています(7節)。偽教師たちの中には、救われた者はすべて、ユダヤ人のように割礼を受けなければならない、と主張する者がいました。しかしパウロは、それに反論して、あなたがたは、キリストにあって、人の手によらない割礼を受けたのだと主張しています。それは、目に見える身体上のものではなく、キリストを信じる信仰によって与えられるもの、主ご自身によって施される「心の割礼」であって、罪を持った古い私たちの肉は、不要な包皮として、キリストによって取り除かれたのです。パウロはさらに、「債務証書」ということばを持ち出し、キリストを信じる者に与えられた救いを強調しています。債務証書とは、借りるお金などを返済することを約束し、署名や押印により、それが確かなことを示す文書です。律法を自らの肉の力で守り通そうとしてもそうできず、罪の意識がまるで借金のように積み重なり、人の良心を責め立てて苦しめる…。そのように、パウロはここで、律法を債務証書になぞらえて語っているのです。しかしキリストは、そのようにして苦しむ私たちのために、十字架にかかり、ご自身のいのちを代価として支払い、すべての人が持つ借金を肩代わりして返済し、債務証書を無効なものとしてくださいました。キリストこそ律法を成就されたただ一人のお方であり、私たちはその主を信じる信仰によって義とされるのです。何者もキリストにある者を責め立てることはできないのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章21-29節◇(10月5日)

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」…コロサイ1:28

パウロは、コロサイの聖徒たちに対して、かつては神から離れ、神と敵対していた彼らが、キリストの死、すなわち主イエスがご自身をいけにえとして神に献げられ、その尊い血を流されたことによって贖われ、神と和解することができたのだと、あらためて告げています。そして、だからといって慢心することなく、キリストという土台に堅く立ち、福音の望みを失わないようにし、信仰に踏みとどまるようにせよと命じているのです(21-23節)。さらにパウロは、今度は自分のことを語っています。彼は神から重要な務めを委ねられ、キリストのからだである教会に仕える者となったのであり、自分が受けるさまざまな苦難をも、喜びとしているのです(24-25節)。26-27節において繰り返し語られている「奥義」…。それは、キリストにあって聖徒たちに与えられる栄光の望みのことであり、ユダヤ人にも異邦人にも、すべての人に宣べ伝えられるようにと、神が願っておられるものなのです。28節では「すべての人」と3度繰り返し、パウロはそのことを強調しています。そしてパウロの務めとは、そのようにすべての人にキリストにある救いを知らせ、それにあずかるようにと導くだけでなく、救われた聖徒たちが、キリストにあってさらに変えられ、成長し、成熟した者となるためなのです。そのためにパウロは、多くの試練に直面しながらも、キリストの力によって強められ、奮闘しているのです。彼はそのとき獄中の身でした。しかし、手紙を書いて聖徒たちを教え、励まし、祈りによってとりなすことができました。彼は福音宣教の働きを自分だけでなそうとしたのではないのです。「私たち」(28節)とは、救われ、成長し、パウロに与えられた務めを担う、すべての時代のすべての聖徒たちのことなのです。私たちもまた、その一員とされていることを覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章1-20節◇(10月4日)

「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」…コロサイ1:19-20

コロサイ書はパウロがローマの獄中で書き記した書簡の一つです。彼は、コロサイの教会の中に異端の教えが入り込んだことを聞き、聖徒たちが福音を正しく理解して信仰生活を送るようにと、この手紙を書き送ったのです。13節以降には、神の御子イエス・キリストによる創造と贖いと和解のみわざが記されています。「すべて…万物…」と繰り返されていますが、御子は、すべての被造物より先に生まれた方であり、御子が万物を創造されたのです(15-16節)。「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた…」という、使徒ヨハネのことばが思い起こされます(ヨハ1:2-3a)。また、「万物は御子によって造られ、御子のために造られました」という、パウロのことばに心が留まります。万物の創造の目的はキリストにあるのです。私たちはみな、キリストのために生かされ、存在しているのです。そのいのちは自分自身のためにあるのではないのです。しかしそのことは、人間にとって自明のことではなく、すべての者は生まれつき罪の性質を持っているために、自分の人生を自分のやりたいように歩もうとするのです。けれども、そこには真の喜びや生きがいがありません。そしてその罪の暗闇の中から人々を救い出すために、神は御子の十字架の血によって人をご自身と和解させ、御子のご支配の中に移して下さったのです(13節)。パウロは「御子のために万物を和解させる」と言っていますが、その和解の目的もまた、罪人である一人ひとりがキリストにあって神の子とされ、御子の栄光を現す者となり、御子があがめられるためであるのです。そしてそれが、神によって創造された私たちの本来あるべき姿なのです。御子にあって、御子のために贖われ、今日も生かされているということを覚え、神に感謝を献げたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:詩篇 25篇◇(10月3日)

「主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。 あなたの真理に私を導き 教えてください。 あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。」…詩篇24:4-5

「主よ あなたを わがたましいは仰ぎ求めます…」と語り始めた詩人は、さらに、信頼します、待ち望みますと、神に拠り頼み、希望を置く者であることを告白しています。詩人は敵に脅かされて苦しんでいましたが、主の助けと守りがあることを信じ、平安を得ていたのです。詩人はまた、歩みを危うくする敵が、自分の内にいるということも知っていました。それは、罪と咎という目に見えない敵であって、それこそが、人を神の祝福から遠ざけ、破滅の道へと迷い込ませるのです。詩人は自らのあり方を顧み、過去の罪や背き、そしてなお主に従おうとしない頑なさを内に見いだしていたのです(7,18節)。しかし詩人は、神が恵み深く、あわれみ深く、いつくしみに富んでおられることも知っていました。そして、その神が備えてくださる道を歩むならば、神の救いを得る、すなわち、内外の敵から守られて、神の豊かな祝福にあずかることができる、たましいに幸いを得ることができると、確信していたのです(13-15節)。「主は いつくしみ深く正しくあられます。それゆえ罪人に道をお教えになります」(8節)。詩人の切なる願い、それは、その神の道を知ることでした。それは真理の道であり、恵みとまことに満ちた道です。またその道は、主の全き支配の下にある天の御国、永遠のいのちへと続いており、そこを歩む者は死を恐れることがないのです。その道とは、主ご自身です。神のことば、み教えです。詩人は、その主を一日中慕い求め、みことばが示す真理を切に求めていたのです。なぜならそれこそが、自らのたましいが守られ、救い出され、敵に勝利するために、自分にとって必要不可欠なものだと知っていたからです。私たちもまた、そのような者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 24篇◇(10月2日)

「門よ おまえたちの頭を上げよ。 永遠の戸よ 上がれ。 栄光の王が入って来られる。」…詩篇24:7

「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」。詩人はそのように、神の創造のみわざを告げることばをもって、この詩篇を書き始めています。「住んでいるもの」とは、神の被造物、息のあるすべての生きもののことですが、3節以降に「だれが…」、「人…人…」とあることからわかるように、詩人はここで特に、神に似せて造られた特別な存在である人間のことを意識しているのです。「だれが 主の山に登り得るのか…」。その「主の山」とは、神の聖所のあるシオン(エルサレム)の山のことです。そして詩人は、そこに入ることができるのは、「手がきよく 心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人」だと言っています。「たましいをむなしいものに向けて偽りの誓いをする…」とは、人の手で作った偶像を拝み、偽りの神に頼みを置くことです。そのようなことから離れ、ひたすら主の御顔を慕い求める純真さを持つ者には澄んだ心があり、主はそのような人々を祝福してくださるのです(4-5節)。しかし人は、自分のがんばりによってはそうなれません。もとより人はみな罪人であって、聖なる御前に立ち得ないのです。私たちは神から「義を受ける」(5節)必要があるのです。そしてそのために神は、メシアを遣わして、私たちに救いの道を備えてくださったのです。詩人はここで、そのキリストの来臨を預言しているのです。そのキリストは栄光の王です。強くて力あるお方です。十字架にかかって全人類の罪の贖いを成し遂げ、復活し、死と悪魔に勝利されたのです。そしてその王なるキリストは、主に拠り頼む人々のうちに住まわれ、ご自身がもたらされた神の国のうちにある、勝利と祝福にあずからせてくださるのです。「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ」。頭を上げ、心の戸を開き、王なる主を自らの中心、心の王座にお迎えしたいと思います。

主にあって雄々しくあることができますように。