◇聖書箇所: 詩篇34篇◇(12月30日)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる。」…詩篇34:18

この詩篇は、題によれば、ダビデがアビメレク(アキシュ)に追われて去ったとき(1サム21:13)のものですが、そのような苦難の中にあって、詩人は冒頭から、「私はあらゆるときに主をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある」と告白しています。2節には貧しい者とありますが、それは経済的な貧しさではなく、自らの力のなさ、味方がいないことなどを意味しているのです。さらに詩人は、そのような中、主に拠り頼み、主を呼び求めた結果、自分の身に何が起こったのかを証ししています。「主は答え すべての恐怖から私を救い出してくださった」(4節)。「主は聞かれ すべての苦難から救ってくださった」(5節)と。たとえ、目に見える助け手がいなくても、主の使いが、主を畏れる者の周りに陣を張って、その者を守り、助け出してくれるのです。その自らの経験を通して、詩人は確信をもって、主の民に対して命じています。「主を恐れよ(畏れ敬え:新共同訳)。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には 乏しいことがないからだ。…主を求める者は 良いものに何一つ欠けることがない」(9-10節)。「苦しむ者が叫ぶと主は聞かれ そのすべての苦難から救い出してくださる」(17節)。18節には「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ 霊の砕かれた者を救われる」とありますが、主は、「助けて」と言う声に機械的に反応し、その者を救い出されるわけではありません。主は、心が打ち砕かれた、霊の砕かれた者に目を留め、その者たちを救い出してくださるのです。そしてそれは、自らの貧しさ、乏しさ、罪深さをわきまえ知り、ただ主に望みを置いて、主を待ち望む者であり、そのようなへりくだった者にこそ、主はご自身の御力を現わしてくださるのです。そしてそれが「正しい人」(19,21節)、「しもべ」、「主に身を避ける人」(22節)の意味なのです。私たちも、ますます主を畏れ、主に拠り頼み、主に身を避ける者でありたいと思います。

心に平安がいつもありますように。

◇聖書箇所: 詩篇33篇◇(12月29日)

「見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。」…詩篇33:18

「はじめに神が天と地を創造された…神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった」(創1:1,3)。「初めにことばがあった。…ことばは神であった…すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハ1:1,3)。そのように、創世記の作者も使徒ヨハネも、神が、ご自身のことばをもって天地万物を創造されたと記していますが、この詩篇の作者もまた、「主のことばによって天は造られた。天の万象もすべて御口の息吹によって」と語っています(6節)。そして、創造者であり主権者であられるその主を畏れよ、主の前におののけと、世界に住むすべての者に対して命じているのです(8節)。そのような偉大な神、大いなる主が、地に住むすべての者に天から目を注いでおられるということは、驚くべきことです。それは単にその行動を見ているということではなく、罪を犯さないかと常に監視しているということでもなく、一人ひとりの内面、つまり抱えている不安や悩みや苦しみを知ってくださっているということです。そしてそれは、主が一人ひとりの心を形造り、わざのすべてを読み取られるお方だからなのです(15節)。この世にあって、さまざまな戦いの中に置かれ、また多くの必要に迫られる私たちにとって大切なことは、目に見える、地上的、人間的なものをしっかりと集め、備えることではありません。何よりも、目には見えない、しかし力に満ち、奇しいみわざをなされる全能者なる神を畏れ、その恵みを待ち望む者となることなのです。なぜなら、そのような者に対して、主は特別な恩寵をもって、助け、救い出し、生かしてくださるからなのです(19節)。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださるのです」(2歴16:9a)。主が目を留め、御力を現わてくださるのは、主を畏れ、主の恵みを待ち望み、主と心を一つにしている者であることを覚えつつ、ますます主に拠り頼んで歩んでいきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

いつもお読みいただきありがとうございます。
聖書日課の分かち合いは、都合により12/25(月)から28(木)までお休みさせていただきます。
ご迷惑をお掛けしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

◇聖書箇所:ルカの福音書 1章57-66節◇(12月23日)

「すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」…ルカ1:64

ザカリヤという祭司に御使いが現れ、妻のエリサベツは男の子を産む、その名をヨハネとつけよ、と告げたとき、彼はそのことばを信じることができませんでした。彼らはすでに高齢であり、エリサベツは不妊のからだだったからです。御使いはザカリヤの不信仰のゆえに、そのことばが実現するまで彼の口をきけなくしました(1:20)。その後、御使いが告げたとおり、月が満ちたエリサベツが男の子を産むと、近所の人たちや親族は、その子に割礼を施すためにやって来て、当時の慣習に従い、その幼子に父親の名にちなんでザカリヤと名付けようとしました。しかし、エリサベツはきっぱりとそれを拒み、名はヨハネとしなければならない、と彼らに答えたのです。そのような名の者が親族にいないのになぜ…と訝しく思いつつ、今度はザカリヤに尋ねると、彼は板に、「その子の名はヨハネ」と妻と同じことを書いたので、人々は驚きました。そしてそのとき、ただちにザカリヤの口が開かれ、彼は再びものが言えるようになったのです。それらはすべて、神のみわざでした。そして、ザカリヤの口の回復は、神に対する彼の信仰の回復に伴ってなされたことであったのです。だからこそ、そのときの彼の第一声は、神をほめたたえることばであったのです。神にとって不可能なことは何もありません。ヨセフと婚約中の身であったマリヤに、あなたは身ごもって男の子を産むと告げた御使いが、それを聞いて訝しく思った彼女に対して、そのように告げたとおりです(1:37)。たとえエリサベツのように不妊で高齢であっても、マリアのように結婚前の者であるとしても、不可能なことが何一つないお方、真実な神は、ご自身のことばどおりに、必ず事を成し遂げられるのです。すべての者は、この神に信頼し、そのことばの実現を、信仰をもって待ち望むべきなのです。私たちもまた、信仰が強められ、そのように歩むことができるよう、主に祈り求めたいと思います。

ますます主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 31章◇(12月22日)

「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」…箴言31:30

箴言の最後の章です。王への母からの戒めとあります。女性は王をその地位から転落させる存在となり得るのだから、力を費やすなとまず警告しています(3節)。それは王が受ける性的な誘惑を懸念しているのです。それにとらわれると自制が効かなくなってしまうからです。王は強い酒を飲むべきでないとも戒めています(4節)。酒もまたそれに依存する者にさせる危険があるのです。そうなってしまうと、定められたことを忘れてしまうなど、王としての職務をきちんと果たせなくなるのです。本来強い酒は、死の間際にある者、病むほどに心を痛めている者の苦痛を和らげるために用いるもので(6-7節)、弱者を守り、公平なさばきをし、国を治めるべき王が、それに支配されるようなことがあってはならないのです。10節以降には「しっかりした妻」についての描写があります。夫は彼女を称賛し、子どもたちも賛辞を惜しみません。「彼女は…」ということばで始まる各節には、彼女の態度、生き方が記されており、その勤勉さやたくましさに圧倒されるような思いにさせられます。しかし、私たちが何よりも心に留めるべきことは、30節にあるとおり、彼女が主を恐れ(畏れ)ているということです。なぜなら、彼女に兼ね備わっている良きものはすべて、主から与えられている祝福だと言えるからなのです。「主を恐れることは知識の初め」(1:7)。主を畏れ、知恵ある者となり、主の訓戒と教えに従って歩むこと…。箴言は一貫してその大切さを教えています。そして、主を畏れるということは、主の前にへりくだり、自らを主に明け渡し、主の霊に満たされるということにほかならないのです。パウロも「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(ガラ5:16)と言っています。この章に出てくる王への戒め、しっかりした妻のあり方を、自分へのチャレンジとして受けとめ、ますます主を畏れ、御霊によって歩む者とされたいと願います。

主のみこころにかなう者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 30章◇(12月21日)

「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」…箴言30:8

作者は2つのことを神に願い求めています。1つ目は、むなしいことと偽りのことばから遠ざけられることです。「むなしいこと」は、3版では「不信実」と訳されています。また原文を見ますと、「偽りのことば」は「偽りの仕事」とも訳せることがわかります。偽りに満ちたこの世にあって、作者はひたすら真実を求めているのです。神に願い求める2つ目は、定められた分の食物で養われることです。8節後半のことばから思い出されるのが、荒野を旅するイスラエルの民に与えられたマナです。神が天から降らせてくださる食物であるマナは、自分の天幕にいる人数に応じて、たくさん集めた者もそれが余ってしまうことはなく、少しだけ集めた者も足りないことはありませんでした(出16:18)。みな、自分が食べる分に応じてそれを集め、神はそのようにして民を養われたのです。主は私たちにとって必要な分を与えてくださいます。そしてそれは多くも少なくもない、ふさわしい分なのです。ともすれば私たちは、これでは少ない…不安だ…と感じ、もっと余裕を持つべきだと人間的に考えてしまいますが、主は私たちの必要を十分に満たしてくださるのです。もし食べ飽きるほどの分が与えられたらどうなるのか…9節にあるように、神を否定し、主とはだれだ、それを得たのは自分だと言ってうぬぼれてしまうのです。自らの分を越えて神の前に高ぶる、不遜な者となるのです。そのような者のことばはまさに「偽りのことば」なのです。逆に足りなくて、ひもじい思いをしたらどうでしょう…。不平を漏らし、神なんかいないと自暴自棄になり、主の御名を汚すことをしてしまうかもしれません。そのような者の行動は「むなしいこと」、「偽りの仕事」なのです。真実な主にますます信頼して歩みたいと願います。

主の助けと満たしがありますように。

◇聖書箇所:箴言 29章◇(12月20日)

「あなたの子を戒めよ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。」…箴言29:17

29章では、他者や子を叱責すること、また自分が叱責されることの大切さを学ばされます。「叱責されても、なお、うなじを固くする者は、突然打ち砕かれて、癒やされることがない」(1節)。「うなじを固くする」とは、反発し、素直に聞き入れないことです。しかし人は、叱責され、自らの足りないところを教えられ、さらに成長することができるのであり、それは感謝なことなのです。「むちと叱責は知恵を与える。放っておかれた子は母に恥を見させる」(15節)。むちと叱責は嫌なこと、避けるべきことではありません。なぜなら、それによって主の知恵を受けられるように、砕かれ、整えられるからです。人がそのように育てられなければ、野生児のように粗野に育ってしまい、親に恥をかかせることになるのです。子どもや次世代の者を戒め、叱責することは、親や年長者の責任であり、主から求められていることです(17節)。しかしそれは単なる義務ではありません。それはその相手を愛するがゆえの大切な務めであって、そこには真実な愛が伴っていなければならないのです。「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる」とあるとおりなのです(13:24)。そしてその戒めは、世の常識や自分の経験から得た教訓以上のもの、何よりもみことばに基づく教えであるべきであって、それは知恵のある者として育てるということです。18節には「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである」とありますが、「幻」とは夢やビジョンではなく、別訳として脚注にあるように「預言」、神のことばのことです。また「好き勝手にふるまう」という部分を新共同訳聖書では「堕落する」と訳していますが、それは罪を犯し、主の道からはずれることです。そうならないように、子や次世代の者たちを、愛をもって戒め、叱責し、自分もまた主ご自身から、そのように取り扱われたいと思います。

自らの未熟さを認めて歩むことができますように。

◇聖書箇所:箴言 28章◇(12月19日)

「誠実に歩む者は救われ、その道が曲がっている者はただちに倒れる。」…箴言28:18

28章では誠実な人たちの祝福が語られています。6節には「貧しくて、誠実に歩む者は、富んでいて、曲がった道を歩む者にまさる」とあります。「誠実な者」とは、単にまじめで裏表のない人のことではなく、何よりも主の前にへりくだり、みことばに聞き従い、主が備えられた道を、右にも左にもそれずにまっすぐに歩む者のことです。そして、そのような者は、物質的には富んでいても曲がった道を歩む者にまさる、すなわち、神がくださる豊かな祝福にあずかり、本当の幸いを得て、それを他者に受け継ぎ、分かち合うようにされるのです(10節)。18節には、誠実に歩む者は救われるが、そうでない者、つまり曲がった道を歩み、神のみこころを行わない者は、倒れてしまう、と書かれています。その「倒れる」と訳されている部分は、3版では「墓穴に陥る」とあります。それは死に至るということです。それに対して「救い」とは、神がくださるいのちにあずかり、恵みと祝福のうちにこの地上を歩み、その歩みを終えた後もなお、天において神とともに永遠に生きる者となるということです。誠実な者とはまた、将来のその希望を抱きつつ、今の地上での歩みもおろそかにせず、与えられた務め、役割をしっかりと果たす忠実な者です。18節から続く19-20節には、「自分の土地を耕す者は食糧に満ち足り…」、「忠実な人は多くの祝福を得る」と書かれています。その歩みにおいては、しばしば試練があり、忍耐と神への信頼が求められます。近道はないか…と急いだり、なんとかしなければ…と焦るべきではないのです(20,22節)。誠実に歩み、忠実に事をなす者となる…。そのためにはもちろん、常にそのことを心掛け、自らの意志を向けることが大切ですが、それ以上に、神の約束のことばに心を留め、御霊によって助けられ導かれることが重要なのです(ガラ5:22)。そのような者とさせてください…と主に祈り願いつつ、主の道を歩み続けたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:箴言 27章◇(12月18日)

「香油も香も心を喜ばせる。友の慰めは自分の考えにまさる。」…箴言27:9

27章には友についての箴言が多く書かれています。9節の後半は、前の3版では「友の慰めはたましいを力づける」と訳されています。友の慰め、それは私たちを高揚させて心に喜びをもたらす香油のようなものにまさり、たましいを力づける…すなわち励ましを与え、元気にさせるものであり、自分ひとりであれこれと考えて一喜一憂することより、はるかに有益なものだというのです。「慰め」とありますが、それは必ずしも、気の利いたことばを他者に掛けることを意味していません。私たちは、失意や悲しみのただ中にある友を前にして、どのようなことばを掛ければよいのかわからず戸惑うことがあり、とにかく声掛けを…と考えて発した月並みなことばが相手に届かず、逆に心を閉ざしてしまうように作用するここともあります。「寄り添う」という表現がありますが、そのようにただそばにいる…一緒に時間を過ごす…という、ことばではなく「存在」による慰めもあるのです。「近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる」(10節)。「近くにいる」と、そこでも存在の大切さが語られています。私たちが良き隣人、友として関わるためには、時間や思いを共有し、それをささげることが求められます。そしてそれはその人を愛することにほかならないのです。「あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。主は弟子たちにそう言われました。主イエスは、友である私たちのために、ご自身のいのちさえささげて愛してくださり、世の終わりまでいつもともにいてくださるお方なのです。私たちにとっての最良の友と言える主の慰めと励ましほど、私たちのたましいを力づけるものはありません。さまざまな問題が起こると、私たちはその解決を求めてあたふたとしてしまいがちですが、そのようなときこそ、主との一対一の親密な交わりを持ち、祈りを通して思いと願いを率直に伝えるなら、主はそれに必ず応えてくださるのです。真実な友である主がともにおられることを覚え、慰めと励ましを絶えず受け取りたいと思います。

心に喜びと平安がありますように。

◇聖書箇所:箴言 26章◇(12月16日)

「自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」…箴言26:12

26章においても、愚かな者と怠け者について多くのことが書かれています。4節では「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな」とあり、次の5節では「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ」とあって、一見すると矛盾しているように思えます。しかしそれは、本来は愚かな者にまともに関わるべきではないが、その者の愚かさを明らかにするには知恵をもって答えるしかない、そうまでしないと自分の愚かさに気づかないという、愚か者への皮肉を交え、取るべき対応を示しているのです。ある哲学者が「愚かな者は自分が愚かな者であることを知らないのだ」と言いました。それは12節に書かれている、自分には知恵があると思っている者であり、そのような高慢な者より、知恵や知識のなさを自覚している者のほうが、幸いな歩みに至る希望を持っているのです。自分が無知であることを知るのは、知恵を求めるはじめであり、それは主の前にへりくだることであるのです。怠け者もまた、自分を知恵のある者と思うのです(16節)。そしてそれは、本質が愚かな者と同じだということです。すなわち、神からの知恵を求めようとせず、自分の考えに頼り、自分を常に正しいとし、自分の好むことだけを求め、できるだけ楽をして生きようとするあり方です。しかしそのような者には、将来への希望はありません。なぜなら、神からの誉れが与えられないからです(1,8節)。自分には知恵がない、知恵がなくては生きられない…。その自覚をはっきりと持ち、主の前にへりくだり、知恵を求め、知恵をくださる主ご自身を求め、みことばを受け取り、その教えに従って歩む者となる…。そのような者こそが神からの誉れ、義の栄冠を得る者とされるのです(2テモ4:8)。主に贖われ、生かされている者として、目指すべきところをしっかりと見定め、与えられている日々、時間を大切にして歩む者、すべてを主のためにとの思いをもって生きる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 25章◇(12月15日)

「知恵をもって叱責する者は、聞く者の耳にとって金の耳輪、黄金の飾り。」…箴言25:12

箴言には、他者との関わりにおける実際的な教えが多く出てきますが、今日の箇所では、その関わりの中で、私たちがどのように人に語るべきかが示されています。「急いで訴え出るな」(8節)。私たちはともすれば、物事の表面的な事象だけを見てしまい、そこに至った背景について調べたり、そのことが指し示している事の本質までは深く考えようとはしません。特に、自分が正当に扱われていないと感じると、感情的になり、そのことをすぐに訴えようとしてしまいます。しかし、そうするな、とみことばは言うのです。そのような時にも、冷静になり、客観的に状況を判断しつつ行動すべきなのです。「知恵をもって叱責する者は、聞く者の耳にとって金の耳輪、黄金の飾り」。叱責とは、感情的になって怒鳴ったり、相手を罵倒することではありません。叱責とは、その人の成長を願い、失敗を繰り返さないために、自分に与えられている気づきを分かち合うことなのです。そして、相手が前向きな気持ちでさらに取り組めるよう、次に期待しているよと伝えて、励ましてあげることです。そのように説得力のある知恵のことばが語られるならば、それは聞く者にとって高価で喜ばしいものとなるのです。「忍耐強く説けば、首領も納得する」(15節)。忍耐とは、単に我慢するということではありません。忍耐とは、必ず願うようになると心を強くし、何よりも主権者なる神に信頼し続けるということです。何かのことで他者から拒まれても、すぐにあきらめず、忍耐と信仰をもって主に祈りつつ、相手を説き続けるなら、その人はそのことばを受け入れ、納得するようになるのです。また、「時宜にかなって語られることばは…金のりんご」とありますが(11節)、「黙っているのに時があり、話すのに時がある」のであって(伝3:7b)。訴え続けるだけではなく、黙することも必要なのです。すぐに語ったり動いたりせず、主の知恵と導きを常に求めて歩みたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:箴言 24章23-34節◇(12月14日)

「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、その後で、あなたは家を建てよ。」…箴言24:27

箴言において怠け者のことがたびたび語られています。31節には怠け者の畑が描写されていますが、そこはいばらといらくさ(とげがあり皮膚がかぶれる植物)に覆われ、石垣も壊れていて、荒れ果てたものとなっているのです。そして箴言の作者は、その様子を見て心に留め、また、自分の畑をそうしないようにと主から戒められたのです。「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え…」。一方、27節の畑は、勤勉な者が管理する整えられたものです。「仕事を確かなものとし」とは、なすべき仕事を忠実にこなし、自らの責任を果たすということであり、引いては組織や社会全体に対して貢献し、他者に益をもたらということです。そして、そのようにした後で、自分の家を建てる…つまり、住居を整え、楽しみ喜ぶのです。もし自分の家を建てることを優先し、他のことは顧みない自己中心的な態度を取るなら、それは実質的に、なすべきことを行わない「怠け者」なのです。「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる」(箴10:4)。パウロも「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」と言っています(ロマ12:11)。主に贖われた聖徒たちは、与えられた時間、機会、賜物を最大限に用いることが求められています。それが仕事(働き)を確かなものとし、自分の畑を耕し、整え、蒔かれた種を育て、豊かな実を収穫するということなのです。怠け者は、「少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで横に」なります(33節)。しかし「少し」であっても、それが積み重なれば、大きな損失につながるのです。また、眠っている時に絶好の機会を逃すかもしれないのです。終わりの日が近づいている今、私たちは、花婿なるキリストがいつ来ても良いよう、目を覚まして備えていなければなりません(マタ25:13)。預かったタラントを用い、増やして、帰って来る主人を喜ばせるべきなのです(マタ25:21)。忠実なしもべとして主に仕えたいと思います。

日々の手のわざがますます祝福されますように。

◇聖書箇所:箴言 24章1-22節◇(12月13日)

「死に渡されるために捕らえられた者を救い出し、 殺されようとしてよろめき歩く者を助け出せ。」…箴言24:11

11節のことばから思い起こされる新約聖書の箇所があります。それは、ルカの福音書に出てくる、主イエスが語られた「良きサマリア人のたとえ」です(ルカ10:30-37)。ある人が、強盗に襲われ、衣服をはぎ取られ、殴られ、半殺しにされて倒れていましたが、そこを通りかかった祭司もレビ人も、その人を見ると反対側を通り過ぎて行きました。しかし、旅をしていた一人のサマリア人は、その人を見てかわいそうに思い、傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱し、その宿泊代も負担したのです。主イエスはそのたとえを語った後、「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と尋ねられ、それを聞いた人が「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えると、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。11節に続けて12節には、「あなたが『そのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか…人の行いに応じて、報いをされないだろうか」とあります。主イエスのたとえにおいて、祭司やレビ人は、傷つき倒れていた人がいても、見て見ぬ振りをして通り過ぎましたが、主は、彼らの心の思いを見抜いておられたのです。「面倒なことに関わりたくない…自分には神殿での奉仕がある…きっとだれか別の人が彼を助けてくれるだろう…」と、彼らは言い訳をし、自分の行いを正当化していたのです。しかしそれは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という神の教えに反しているのです。「死に渡されるために捕らえられた者」…それはまた、神が備えられた救い、罪の赦しという恵みにまだあずかっていない人々…と、霊的にとらえることができます。キリストに贖われた私たちは、「通り過ぎる」ことなく、人々に実際的な支援をするとともに、救いの恵みを分かち合うべきなのです。そのように行動したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 23章19-35節◇(12月12日)

「わが子よ。よく聞いて、知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ。」…箴言23:19

「大酒飲みや、貪り食う者は貧しくなり、大酒飲みや、貪り食う者は貧しくなり、惰眠を貪る者はぼろをまとうようになるからだ」(1節)。ここでの大酒飲みとは、単に飲む酒の量が多いだけでなく、飲酒という行為の抑制が聞かず、際限なく飲み続けてしまう者(30節)のことであり、それは肉の欲に支配された「貪り」の姿です。そしてそのような者は、貧しくなり、正常な状態でなくなるのに、その悲惨ささえわからなくなるのです(35節)。そのような道に迷い込まないよう、主は、「わが子よ」と民に呼びかけ、ご自身の教え、訓戒を聞いて知恵を得るようにと命じていますが、「あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ」というそのことばが心に留まります。私たちが備えられた道をそれずにまっすぐに進むには、私たちの心が主のみ思いで満たされ、自らの頭脳、手足、口…とすべての部分が主に支配される必要があるのです。昨日の箇所に、「わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び」とありました(15節)。また、モーセを通して主は、「私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい(申6:6,「刻みなさい」(3版))と言われました。主のみ思いはみことばに現わされています。私たちがそれを日々心に留め、刻んでいるなら、肉の欲に支配されることはないのです。性的な誘惑、罠から守られるのです(27節)。そして、私たちの心に神のことばが満ちるなら、主の心は喜びに満ちるのです。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ」(26節)。後半は3版では「わたしの道を見守れ」となっています。ゆだねるとは、明け渡すこと、差し出すことです。私たちの心は、人ではなく、この世のものでもなく、神に向けられるべきなのです。そして私たちの目も、絶えず主の道を見守り、そこをまっすぐに歩むべきなのです。主の助けと導きを受けて、そのように歩み続けたいと思います。

主の喜びが自らの喜びとなりますように。

◇聖書箇所:箴言 23章1-18節◇(12月11日)

「心のうちで罪人を羨んではならない。いつも、ただ主を恐れていよ。」…箴言23:17

「あなたが支配者と食事の席に着くときは、前にある物によく注意するがよい」(1節)。それはどういう状況なのでしょうか…。高い地位と名声を持った支配者が「偽りの食物」でもてなすということは、魂胆を持って近づき、人を利用しようとするのを意味するのかもしれません。ごちそうにつられて安易にその招きに応じることなく、その背後にあることに思いを至らせる知恵が必要です。箴言全体から教えられる重要なことの一つは、肉の欲にとらわれないようにし、今さえ良ければ良いという、近視眼的な考えを持つなということです。17節に「罪人を羨んではならない」とありますが、羨むのはその「罪人」が裕福だからなのかもしれません。しかしその富は悪や不正によって得たものであって、事の是非の判断において、肉の思いが入り込んではならないのです。富を得ようとする努力を分別によってやめるべきなのです(4節)。私たちに求められていること…それは、いつも、ただ主を畏れて歩むということです。それは、人ではなく、神に目を向けるということです。また、地上ではなく、天にあるものを求めるということです。さらにそれは、今にとらわれず、永遠に心を向けて生きるということです。なぜなら、終わりの時が確かに来るからです。そのとき、罪人は永遠のさばきに定められ、義と認められた者は主とともに永遠に生きることになるからです(18節)。「わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに躍る」(15-16節)。私たちが主を畏れ、主から知恵を与えられ、主の教えと訓戒に聞き従って歩むならば、主はそのことを喜ばれ、一人ひとりは主の喜びとなるのです。それゆえ私たちは、主との親密な関係の中に日々歩み、絶えず主のみこころを尋ね求め、それに聞き従う者、主の喜びをおのれの喜びとする者となるべきなのです。この世の富ではなく天からの祝福を求める者、主の御旨にかなう思いとことばを持つ者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:箴言 22章◇(12月9日)

「耳を傾けて、知恵のある者たちのことばを聞け。私の知識に心を向けよ。これらをあなたのうちに保つのは楽しいこと。これらをみな、あなたの唇に備えよ。」…箴言22:17-18

22章17節からは、それまでの2行の対句の箴言ではなく、通常の文章のような少し長い句の箴言となっています。そこには、「~するな」、「~せよ」と命令形で書かれており、神が著者を通して語る実際的な教えを、読者が受け取り、それを守り行うよう求められているのです。そのような文脈において最初に書かれていることが、「知恵のある者たちのことばを聞け」という命令です。「知恵のある」と訳されている原語には、「賢い、洞察のある、思慮深い」という意味があります。神はそのように、知恵のある人を通しても語りかけられるのです。そしてそれを聞いた者はさらに、「私の知識に心を向けよ」とあるとおり、真の知識、すなわち、真理の源である神に心を向けるようにと、命じられているのです。「これらをあなたのうちに保つのは楽しいこと」。「楽しいこと」ということばに心が留まります。預言者エレミヤも、「そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」と言っています(エレ15:16)。神のみことばは私たちに楽しみと喜びを与えるのです。神の真理は私たちに自由と解放をもたらすのです(ヨハ8:32)。「これらをみな、あなたの唇に備えよ」。「備える」とは、いつでも使えるよう準備するということです。受け取ったみことばを、知恵、真理をうちにしまい込まず、日常におけるさまざまな場面でそれを適用するために、そうすることが大切なのです。そしてそれは、約束のみことばを口で告白し、その成就を先取り感謝することであり、また戦いにおいて、みことばを御名によって宣言し、剣として用いて勝利するということです。私たちがどのような状況でも主に拠り頼む者となるため、主が折りにかなうことばを与えてくださる(19節)ことを感謝しつつ、さらに主の知恵と知識に心を向けたいと思います。

霊の目と耳がますます開かれますように。

◇聖書箇所:箴言 21章◇(12月8日)

「王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。」…箴言21:1

王は権力を持つ存在です。自分の思い、計画に従って、時に野心を抱いて事をなそうとします。しかし、その王の背後には、絶対的な主権者であられ、王を正しく導こうとする主がおられ、王の心がご自身のみこころにかなうように、その向きを御手をもって変えられるのです。人は、自分の歩んでいる道が正しくまっすぐなものだと考えます(2節)。悪者でさえもそれを正当化しようとするのです。しかし主は、一人ひとりの心の中にある思いをはかられ評価されるのであり、私たちが重んじ、従うべきなのは、常に、その神の判断、みこころなのです。それは、社会通念でも、組織の規則でもないのです。箴言全体の中に、そして21章においても、偽り、不正、賄賂、不法などの悪事を行う者を主が忌み嫌われるとあり、その一方で、誠実、義、公正、あわれみの大切さが強調されています。そして、人がそのように歩むために必要なのは、強固な意志や、高い倫理感ではなく、何よりも主を畏れ、主の前にへりくだり、主のまなざしを常に意識し、主を喜ばせることを追い求める心なのです。「義と公正を行うことは、主の前で、いけにえより望ましい」(3節)。前の3版では後半部分を、「いけにえにまさって主に喜ばれる」と訳しています。この国の政治家や役人たちの不正、賄賂などの悪事は後を絶ちません。それらの報道を目にするたびに怒りさえ覚えます。その中にあって私たちがなすべきことは、ただ嘆き、憤ることではありません。人の心の向きを、御手をもって、水の流れのように変えることのできる主の前に、それらの者たちのために、とりなし続けることなのです。「公正が行われることは、正しい人には喜び」(15節)であり、主が喜ばれること、みこころであるからです。そして、私たちが、自分自身の歩みにおいて、貧しい者の叫びに耳を傾けること(13節)もまた、義と公正を行うことなのです。そのような者として歩み続けたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 20章◇(12月7日)

「怠け者は冬に耕さない。刈り入れ時に求めても、何もない。」…箴言20:4

怠惰であってはいけない、という教えが4節にあります。箴言では他の箇所でもその警告がなされています。同じ20章では13節に「眠りを愛するな。貧しくならないために」とあり、19章15節では「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、怠け者は飢える」と語られ、さらに13章4節でも「怠け者の心は欲を起こしても何も得ない」とあるのです。なぜ人は怠惰になるのか…。それは、まだ先のことだ…と、計画性をもって取り組もうとしないからです。しかし、語られているとおり、そのような事前の準備をせずに刈り入れようとしても、収穫は得られないのです。寒くても冬の間に勤勉に働くからこそ、刈り入れることができるのであり、その労力を惜しんではならないのです。怠惰な人は労苦することを嫌います。そしてすぐに他者に依存しようとします。しかし、なんでも人にやってもらう、人から与えてもらう…。そのように考えているなら、それは神のみこころにかなうあり方ではありません。パウロはこう語っています。「…私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:34-35)主からの召命をしっかり受けとめて生きている人は、決して怠惰になることはありません。労力を惜しむこともしません。すべてのことを「主のために」と考えて、自らをささげているからです。主が小さな働きを祝福し、大きく用いてくださると確信しているからです。そのように、私たちは、神に選ばれ任命された者であって、一人ひとりの働きを通して、神の国は拡大していくのです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)。そのような者として歩んでいきたいと思います。

良いわざにますます励む者とされますように。

◇聖書箇所:箴言 19章◇(12月6日)

「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。」…箴言19:23

19章には貧富についての格言が多く出てきます。「財産は多くの友を増し加え、貧しい者はその友からも引き離される」(4節)。同じようなことが6,7節にも書かれていますが、それらが伝えているのは、財産があり、贈り物をする者に人は近づき、貧しければ友すら離れていくということです。そしてそれは、この世の価値観に基づく現実、多くの人々のあり方について語っているのです。しかし、もちろんそれが正しいというわけではありません。貧しくても誠実に歩む者は、そうでない愚か者よりもまさっており(1節)、欲望のままに生き、富を得るためには人をだますことさえする、そんなまやかし者よりもまさっていると(22節)、みことばは語っているのです。人にとって幸いなのは、この地上における富や財産を築くことではありません。それが真の豊かさをもたらすのではないからです。たとえどんなに多くの富を所有していても、心に安らぎや喜びがなく、疑問や空しさを覚えるならば、その人は乏しく、貧しさの中にいるのです。そしてそこには、真のいのちはないのです。「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない」(23節)。しかし、人が主を畏れ、その教え、訓戒に聞き従って歩むならば、その道はいのちに至るのです。満ち足りた日々を過ごすことができ、さまざまな罠やわざわいから主によって守られるのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」(マタ16:26)。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい…天に宝を蓄えなさい…」(マタ6:19,20)。主イエスはそのように言われました。真に価値あるものとは、目に見えるもの、この地上でのものではないのです。ますます主を畏れ、みこころを行い、御国の豊かさを味わう者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:箴言 18章◇(12月5日)

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」…箴言18:21

18章においても、愚か者についていくつかのことが書かれています。「愚かな者は英知を喜ばず、自分の心がさらけ出されることを喜ぶ」(2節)。後半を新改訳3版では、「ただ自分の意見だけを表わす」と訳しています。愚か者は人の意見に耳を貸さず、何よりも知恵に満ちた神のことばに心を留めず、ただ自分の考えに従って事を行おうとするのです。自尊心が高いため、自分のあり方を省みて、それを修正することを良しとしないのです。6,7節では、愚か者の唇や口、つまり発することばについて語られています。彼らのことばには他者への愛や配慮がなく、自分の思いをそのままぶつけるようなものなので、そこには常に争いが生じるのです。そしてそれによって、自らの立場を失うこととなってしまうのです。しかし、4節にあるとおり、本来、人のことばは深い水のようであって、渇いた他者の心を潤し、回復をもたらすものであり、また、知恵の泉からあふれ、流れ出て、問題が生じても、その解決のための前向きな提案を述べる、そのような口として用いられるべきものなのです。「死と生は舌に支配される」(21節)。舌は小さな器官ですが不義の世界であり、自分で制御することはできません(ヤコ3:5-8)。舌は主に制御される必要があります。そしてそのために有益なのは神のことばであり、私たちがそれを日々の糧として主から受け取り、しっかり咀嚼して内側に蓄え、口で告白することが大切なのです。そのようにするとき、主の支配がそこに現わされ、神のいのちが注がれていきます。みことばは「生」を生み出す、いのちのことばなのです。今、ネット上で人を誹謗中傷し、死に追いやるような悪と闇が広がっていますが、私たちが人々に対して、主から与えられる、慰めと励ましと生をもたらすことばを語ることが、ますます求められているのです。そのことを覚えて歩みたいと思います。

語るべきことばが与えられますように。

◇聖書箇所:箴言 17章◇(12月4日)

「愛を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる。」…箴言17:9

9節に「背きの罪」とありますが、そこでの「背き」とは、背信、つまり友人との間における信頼や約束を裏切りったり破棄したりすることです。人がそのような目に遭えば、当然、相手に対して憤り、場合によっては、赦せない、もう絶交だ…ということになるのです。しかし、真実な愛を追い求める者は、そのような状況に置かれても、友を非難してさばくのではなく、赦すのです。自分が受けたことに対して、憎しみを持ち続けようとはしないのです。それが「背きの罪をおおう」ということの意味です。また、「おおう」と訳されている原語には「隠す」、「秘める」という意味もあります。友との間のことを他言せず、自分のうちに秘めておくという愛の配慮でもあるのです。そしてそれは、その友の罪をなかったことにする、そのようにして自分をいわば強制的に納得させる、ということではありません。それは健全なあり方ではなく、神のみこころではないのです。そうではなく、その罪は罪としつつ、罪を犯した友を愛し、赦し、受け容れるということです。つまり悪(罪)を憎んで人を憎まず…というあり方です。そこには寛容と謙遜さも求められます。すべての人は神の前に罪人であり、自分も同じ過ちを犯してしまう者だ…ということを覚えるなら、一方的に相手を責めることなどできないはずなのです。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペ4:32)。パウロもそのように語っています。「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださった…」。神が私たちのために主イエスを十字架につけ、そのいのちをもって贖ってくださったかを覚えるなら、私たちはその愛に感謝し、みことばに従う者とされるのです。そのようにして愛を追い求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 16章16-33節◇(12月2日)

「みことばによく通じた者は幸いを見出す。主に拠り頼む者は幸いである。」…箴言16:20

「直ぐな人の大路は悪から遠ざかっている。自分のたましいを守る者は自分の道を見張る」(17節)。直ぐな人、正しい人、神に喜ばれる人は、悪の存在をきちんと認識し、それに近づこうとせず、常に遠く離れるように心掛けます。しかし、日頃から接している隣人さえ、実は暴虐を行う者、良くない道へと自分を導こうとする者であり得るのであって(29節)、そうならないように、油断せず、絶えず自分の道を見張らなければならないのです。そのために私たちに必要なのは神のことばです(20節)。人が自らの意志で悪から遠ざかろうとがんばっても、それには限界があります。人間には罪の性質があるからです。20節の前半を新改訳3版では「みことばに心を留める者は幸いを見つける」と訳しています。みことばを霊の糧として日々摂取し、心の板に書き留めてうちに蓄え、それによく通じるようになるなら、知恵と洞察力が主から与えられ、悪を察知してそこから離れることができるのです。また、なお執拗に迫る悪に対しては、みことばを剣として立ち向かうことができるのです(エペ6:17)。「自分を信じて未来へ進もう。そうすればきっと夢は叶う」。それが、この世が人々に語りかけているメッセージです。しかし信頼すべきは、自分自身ではなく神なのです。神こそが、天地万物、私たち一人ひとりを創造され、今もすべてを統べ治めておられるお方であって、人の歩みを確かなものにされるのは、主なのです(16:9)。主が与えてくださる知恵と悟りとは、私たちが人生をうまく渡り歩いて行くためのノウハウではありません。それは、私たちが創造者である神の前にいかに小さく、罪深い存在であるかをわきまえ知り、その上で、その私たちが主にあって赦され、生かされ、いのちの道を歩むために必要なものであって、みことばは、それを愚かな私たちにもたらしてくれるのです。絶えずみことばを心に留め、ただ主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:箴言 16章1-15節◇(12月1日)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」…箴言16:9

「人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る」(1節)。「舌への答え」とは、人が何かを計画し、心に抱いている思いを他者に伝えるとき、その計画が神のみこころにかなうものであるようにと願うなら、その思いを具体的にどう語ればよいのか、主が教えてくださる、そのことばを与えてくださる、ということです。人は、自分の行動は正しく、純粋な思いからのものだと思い込みがちです。しかし、すべての者は罪人であって、その行動が、自分の考え、この世の価値観に基づくものならば、主の目に正しいものであるとは限らないのです。だからこそ、人は、主の前にへりくだり、自分を明け渡し、正しい道を歩むことができるよう祈り求める必要があるのです。主は、一人ひとりのうちに、そのような心、霊があるかどうかを調べておられるのです(2節)。「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」(3節)。3版では「あなたの計画はゆるがない」と訳されています。また9節には、「主が人の歩みを確かにされる」とあります。自分の思いに固執せず、主にゆだねること、明け渡すことの大切さが、ここでも強調されています。なぜなら、そのようなへりくだった者を主は喜ばれ、その人の歩みの上にご自身のみわざを現わされ、その歩みが確かで、ゆるがない、ご自身の栄光に満ちたものとしてくださるからなのです。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように」(ロマ11:36)。今日の箇所の4節にも「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り…」とあります。私たちたちは、神のみ思いを知り、それに自分の計画、行動を合わせていくべきなのです。そうすれば、私たちの計画、すなわち神の計画は堅く立ち、神が私たちを通してそれを成し遂げられるのです。「すべてのことは主のため」、「主の御名があがめられるように」、「栄光と誉れが主にあるように」。そのように祈り求めたいと思います。

主のみこころがなりますように。