◇聖書箇所:ヨエル書 3章◇(9月29日)

「しかし、ユダは永遠に、エルサレムは代々にわたって人の住む所となる。わたしは彼らの血の復讐をし、罰せずにはおかない。主はシオンに住む。」…ヨエル3:20-21

3章では、イスラエルの民の回復がさらに語られており、同時に、ご自身の民にひどい仕打ちをした諸国民に対する主のさばきが語られています。「わたしの民」、「わたしのゆずり」、「わたしの地」と2節にありますが、ご自身の国民と領土を奪った敵に対して、王であられる主は主権をもって介入し、それらを奪い返されるのです。そのようにさばきを受ける諸国のうち、隣国のツロとシドン、ペリシテへのさばきがまず語られています。彼らはイスラエルの民の幼い者たちを捕まえ、遊女や酒のために売り飛ばすという悪事を行いましたが、主は、その報復として、逆に彼らのこどもをユダの人々に渡し、さらに異邦の民に売られるようにされるのです(7節)。しかし主のさばきはそのことに留まりません。終末における主の日には、神に従わず、ご自身の民に敵対したすべての国の民がヨシャファテの谷に集められ、審判者であられる主によってさばかれることになるのです(12節)。そのように、全能者を畏れず、主の民に敵対する諸国民にとっては恐ろしい神も、イスラエルの子ら、そして、主を信じ、その御名を呼ぶすべての国の神の民にとっては、祝福をもたらし、避け所、砦となってくださるお方なのです。18-20節では、主の民と諸国にもたらされる、救いと滅亡、祝福とのろいが明確に対比されています。そのように主が預言者を通して語られたことは、主が定められたときに、確かに、目に見える形で成就します。実際、歴史において、イスラエルの民は失った国家を取り戻し、散らされた国々からの帰還は続いているのです。そのようにして主のご計画は一つ一つ実現し、今後も続き、やがて完成されるものであるのです。そして、その主の約束、みことばはすべて真実であって、私たちの歩みの上にもそれは確かになされていくのです。神の民とされている幸いを覚え、主を待ち望みたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨエル書 2章15-32節◇(9月28日)

「その後、わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」…ヨエル2:28-29

「断食を布告し、きよめの集会を召集せよ」と、1章14節のことばがふたたび語られています(15節)。乳飲み子から老人まで、民が主の前に出て、心を引き裂いて真実な悔い改めをするならば、ご自分の地をねたむほど愛し、民を深くあわれまれる主は、北から来るものを遠ざけ、砂漠の地や海へと追いやってくださるのです(20節)。18節以降には、主がもたらされる赦しと回復と祝福が語られています。「地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。…シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ」(21,23節)。ヨエルは民に対してそのように呼びかけていますが、それは主が、民を義とするために、初めの雨と後の雨とを降らせてくださり、穀物と新しいぶどう酒と油で満ちあふれさせるからだ、と言うのです(24節)。28節以降は、ペテロが五旬節の日に語ったことばです。「すべての人にわたしの霊を注ぐ」。ヨエルは「その後」、ペテロは「終わりの日に」と言いましたが、それは確かに、主を待ち望む人々に聖霊が注がれるという出来事として、2千年前に部分的に起こりました。そしてまた、主の日が来るときに、完全な形でその主のことばは成就するのです。30-32節にはそのことが暗示されていますが、それには、初めの雨と後の雨、メシアの初臨と再臨とが結びついているのかもしれません。復活された主イエスは、天に上げられる直前、弟子たちに対して、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、…地の果てまで、わたしの証人となります」と言われました(使徒1:8)。キリストに贖われた私たちにも、主の霊が確かに注がれています。そして、キリストの証人として、終わりの日が近づいているこの時代に生かされ、「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(32節)と人々に伝える者として用いられるのです。今日も主に遣わされて出て行きたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨエル書 2章1-14節◇(9月27日)

「衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」…ヨエル2:13

「主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられるだろう」(11節)。ヨエルはそのように、主の日のありさまについて述べています。それは、光が失われる闇と暗黒の日であり、強大で数多い民が襲ってきて炎のようになめ尽くし、彼らが去った後は荒れ果てしまうという、1章にあったいなごの大軍の襲来のように、壊滅的な打撃を受けるわざわいのときであるのです。「しかし、今でも-主のことば-心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ」(12節)と、ヨエルは、民を見捨てない主のことばを語ります。そして、その主に立ち返れ、主は情け深く、あわれみ深いお方であって、そのように立ち返るならば、わざわいを思い直してくださるのだ…と民に告げているのです。「思い直す」とは、考えを改めて計画を変えるということです。民が悔い改めてご自身に立ち返るなら、神がそのようにしてくださるというのは驚くべきことです。主イエスが語られた放蕩息子のたとえが思い起こされます。「立ち返る」とは、本来いるべき場所に戻るということです。人は神のみもとにずっといるべきなのです。しかし、身勝手な人間が神に背を向けて出て行き、神でないものに心奪われ、それを追い求めたゆえに、神は悲しみ、憤り、わざわいを起こされるのです。しかし神は、一方的に突然それを実行するのではなく、警告を与え、民が心を引き裂き、悔い改め、神に立ち返るならば、主のみ元に戻って来るならば、祝福してくださるのです。放蕩息子が父親の元に帰ったとき、父親は駆け寄って彼の首を抱き、口づけし、祝宴を設けて帰還を祝いました。私たちも主の道から外れることがありますが、自らの罪を認め、心を引き裂き、その主の前に立ち返り、愛と赦しと祝福を受け取る者でありたいと思います。

主のあわれみの深さを覚えることができますように。

◇聖書箇所:ヨエル書 1章◇(9月26日)

「断食を布告し、きよめの集会を召集せよ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫び求めよ。」…ヨエル1:14

1節に「ペトエルの子ヨエル」とありますが、その人物の詳細は不明です。また、旧約聖書の中で登場するのは、本書だけです。しかし、「ヨエルにあった主のことば」とあるとおり(1節)、彼は確かに、神のことばを人々に語り伝える預言者の一人であったのです。ちなみに、「ヨエル」とは「主は神である」であるという意味です。いなごの大軍の襲来のことが4節に書かれています。中東の国々ではそれが実際にしばしば起こり、穀物を食い荒らされて飢饉をもたらしました。いなごの食い残しをさらに別のいなごが食い、その食い残しをさらにまた別のいなごが食う…。そのように徹底的に食い尽くすさまが描かれています。さらに6節には、ある国民が敵となって「わたしの国に攻め上って来た」と書かれています。それは、強大で圧倒的な勢力を持つ国であり、「わたしの」ぶどうやいちじくの木を荒らし、木っ端にしたとあります。おそらく、その敵国と4節のいなごの大軍とは、同じものを暗示しているのです。そしてそれは、15節にある「主の日」、すなわち神による審判の前兆であって、ヨエルは、それらのことを通して、人々に対して、自らの歩みを悔い改め、神に立ち返るようにと促しているのです。「主の日は近い。全能者による破壊の日として、その日は来る」(15節)。だからこそ、断食をし、きよめの集会を持ち、すべての者が主の宮に集まって一つとなり、自分たちの助けと救いと守りを主に向かって叫び求めるようにと、ヨエルは命じているのです。自らのありかたを省み、主に聞き従うこと、主に拠り頼むことにおいて十分ではないことを悔い改め、主に立ち返る者となる…。それは、すべての聖徒たちに求められていることです。「主の日は近い…その日は来る」というメッセージは、決して、ヨエルの時代の、イスラエルの民に対してだけのものではない、ということを覚えたいと思います。

主の前にへりくだる者とされますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 13章◇(9月25日)

「私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく、私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。」…2コリント13:7

「不適格」ということばが繰り返し使われていますが、それは「失格とされた」という意味です。パウロの使徒性は偽教師たちによって否定され、彼らに惑わされたコリントの人々も、パウロにそのようなレッテルを貼っていました。厳しいことばで正しい信仰のあり方を説き、罪を犯した者を容赦しないとするパウロのことを(2節)、人々は煙たい存在として捉えていたのかもしれません。しかし、そんな彼らをパウロはもちろん見捨てません。私たちはあなたがたに正しい行いをしてもらいたいのだ、あくまで真理を伝えようとしているのだ、あなたがたが完全な者、すなわち主にあって完成された者となるようにと祈っているのだ(9節)…と弁明しつつ、偽教師たちに惑わされず、神のことばに従い続けてほしいと、パウロは、コリントの人々に対して訴えかけているのです。「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい」(5節)。信仰に生きるとは、さまざまなことに疑いを持たないようにするという意味だけではありません。それは、キリストにあって古い自分に死に、キリストにあって新しくされ生きているという自覚を明確に持つということであり、それはまた、キリストに自分を全面的に明け渡すということなのです。「この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません」(10節)。パウロがコリントの人々に受け入れられなくても、権威をもって神のことばをまっすぐに語り続けたのは、一人ひとりが神の宮として建て上げられるためであり、何よりもそれを神が望んでおられたからです。そしてパウロのことばを通して、神は今、私たちにも語りかけ、聖霊によって働きかけ、コリントの人々と同じように建て上げようとしておられるのです。その神の御思いを受け取りたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 12章1-10節◇(9月23日)

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」…2コリント12:9

「このような人を知っています」と言って、パウロは、第三の天、パラダイスまで引き上げられ、神からのことばを聞いた一人の人物について、第三者のこととして語っています。しかし、実はそれは、パウロ自身なのです。彼はあえてそのように客観的に語ることによって、自分の使徒性を訴えていると誤解されないようにしたのです。「このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません」(5節)。パウロはあくまで「このような人」を自分とは別な人物としつつ、今度は自分自身のことについて語り、弱さ以外は誇らないと告白しています。そしてさらに、神が彼に与えられた「一つのとげ」について語っています(7節)。それがいったい何を意味しているのか…強い光に打たれて視力を一時的に失ったため、目の病気だともされていますが詳細は不明です。いずれにしてもそれは、パウロに苦痛をもたらすものであり、それがなければもっと多くの働きができると彼は考えたのです。だからこそ、それが取り除かれるようにと熱心に願ったのです(8節)。しかし、主のみこころはそうではありませんでした。わたしの力はあなたの弱さのうちに完全に現れると、主はパウロに告げられたのです。そしてパウロは、だから、そのキリストの力が自分をおおうために、大いに喜んで自分の弱さを誇るのだと言っているのです。「おおう」の別訳は「住む、宿る」です。弱い私たちの内にキリストが住まわれ働かれるなら、それは私たちにとって何にもまさる大きな力となるのです。パウロにとげが与えられたのは、彼が「高慢にならないように」されるためだったということに心を留め、私たちも、自らのさまざまな弱さを覚えつつ、ますます、その弱さを主にあって誇り、主に全面的に拠り頼む者でありたいと思います。

キリストの力が現わされますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 11章16-33節◇(9月22日)

「言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。」…2コリント11:21

パウロは、11章の後半において、「愚か者」、「弱い」と自らを卑下するように言いつつ、「誇りましょう」と、偽教師たちに非難されている自分自身について語り、主にあって生かされ守られていることを証ししています。偽教師たちは、ユダヤ主義的な考えを持ち込み、福音をねじ曲げるヘブル人たちでしたが、パウロは、彼らを受け入れているコリントの人々に対して、「私もそうです」と繰り返した上で(22節)、さらに彼らがキリストのしもべだと言うなら、自分は彼ら以上にそうなのだと、キリストのためにいかに労苦し、迫害され、死に直面してきたのかということを、強調して語っています(23-27節)。パウロの苦難と重荷…それはそのような外面的なことだけではありませんでした。「さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります」と彼は言っています(28節)。パウロはコリント教会だけでなく、自らが各地を回って福音を宣べ伝え、人々を救いに導き、教会が生まれてもなお、それらの群れと人々が健全に成長し、さまざまな霊的な戦いに勝ち得ていけるか、そのことを思うと心が安まるときがなかったのです。そのパウロこそ、自らを主に献げ、そのような心づかいをもって主の働きを全うしようと奮闘した、真の伝道者、また牧会者でした。それは何よりも、主イエスに倣い、キリストの足跡に従う歩みであったのです。そして、すべての聖徒たちもまた、パウロのような大きな働きはできないとしても、同じように主イエスに倣い、キリストに従うことが求められているのです。その献身を主は喜ばれ、一人ひとりを尊く用いて、たとえ小さな目立たない働きであっても、それを豊かに祝福してくださるのです。神の国を拡大させてくださるのです。パウロは常に、神のまなざしの中を歩んでいました(31節)。私たちもキリストのしもべとして、そのようでありたいと思います。

主が強く立たせてくださいますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 11章1-15節◇(9月21日)

「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。」…2コリント11:3

パウロは、コリント教会の人々が偽教師たちによって惑わされ、結果として、キリストに対する純潔が失われてしまうのではないか…と懸念しています。パウロは、コリントの人々たちを、清純な処女である花嫁としてキリストに献げるために、福音により救いへと導いたのであって、聖徒とされた彼らが、世の汚れからきよめられ、神のみこころに生きるよう、心から願っていたのです。にもかかわらず、偽教師たちが教会に入り込み、別のイエスを宣べ伝え、異なった福音を語るのを、コリントの人々はきっぱりと拒絶しようとしませんでした。「あなたがたはよく我慢している」とありますが(4節)、それは、「よくもそんな者たちのことばを聞き続けている…」という、皮肉に満ちたパウロの表現なのです。「しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです」(ガラ1:8)。パウロはそのように言っています。福音に反する教えに対し、私たちは毅然とした態度を取るべきなのです。それなのにコリント教会の人々がそうしなかったのには、多様さを認めるギリシャ文化の影響があります。また「サタンでさえ光の御使いに変装します」とありますが(14節)、いかにもそれが真理かのように、偽教師たちは巧みにことばを操っていたのです(13節)。現代においても世の中には偽りの福音、人間的な教えがあふれています。また、有名な説教者の教えがすべて正しいとは限りません。ゆえに私たちは、常に聖書に立ち返り、みことばは何と言っているのか、この教えはそこからはずれていないと、聖書に照らして吟味する必要があるのです。そのように真理のことばに触れているなら、偽りの教えを見破ることができるのです。「霊を見分ける力」を持ち、主の道をまっすぐに歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 10章◇(9月20日)

「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」…2コリント10:3-4

10章からは9章までの語調とは異なり、パウロはしばしば厳しい表現を用いています。なぜなら、コリント教会に偽教師が入り込み、パウロが使徒であることを否定する発言を繰り返し、信者たちはそのことばを鵜呑みにして、彼らに追随していたからです。パウロはそのような者たちを叱責しつつ、彼らがみことばに服従するようにと願い、キリストの柔和をもって戒めているのです。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」(10節)。偽教師たちはそのように言って、柔和で寛容な態度を取るパウロのことを、実際には弱いのに強がっている人間だと嘲っていました。しかしそのような彼らの否定的なことばに対し、パウロは感情的にならなかったのです。肉によって挑んでくる敵の攻撃に対し、肉によって戦おうとはしなかったのです。そうなったら相手の思うつぼだと、パウロは主によって教えられていたからです。「悪魔と策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペ6:11-12)。パウロは別の手紙の中でそのように言っていますが、その神の武具とは、肉と肉との戦いに持ち込もうとする悪魔の策略に対し、霊的に戦って勝利を収めるための武器なのです。そしてそれは、敵の要塞を打ち倒す力があるものなのです。パウロは確かに使徒であり、主から権威が与えられていました。しかし、それは人々をさばくためではなく、愛をもって訓戒し、徳を建てるためのものなのです。彼はすべての者がイエスを主と告白し、キリストに服従するようにと願っているのです。そしてそのために常に霊的な対応をしたのです。私たちもそうありたいと思います。

主が勝利を与えてくださいますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 9章(9月19日)

「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。」…2コリント8:20-21

9章では8章に続いて、飢饉に苦しむエルサレム教会を支援するための献金=「祝福の贈り物」(5節)について書かれています。1節の「聖徒たち」とはすなわち、主にあるエルサレム教会の人々のことです。パウロは、コリント教会の人々が献げたその支援献金を受け取るために、テトスと2人の兄弟を遣わしましたが(8:18,22節)、そのように、コリントをはじめ、アカイア地方の諸教会が昨年から準備しているとパウロから聞いて、マケドニアの教会はその熱心さに大いに励まされ、奮い立たせられたのです。それなのに3人の使者を遣わしてみたら実はそうではなかった…ということになれば、自分は恥をかくし、マケドニアの人々も失望してしまう、だからそうならないようにとパウロは願っているのです。6節以降の後半では、そのような祝福の贈り物、献金の働きは、愛に満ちた良いわざであり、確かに神に覚えられているということが強調されています。それを信仰によって献げ、喜んで与えるならば、神がそれを良しとされ、そのように与える人を愛してくださるのです。パウロはまた、畑の収穫のことをたとえとして、わずかだけ蒔く者はわずかしか刈り入れることができないが、豊かに蒔く者は豊かに刈り取るようになる、働きの実を結ばせてくださるのだ、と言っています。そしてそれは、天におられる神からの祝福にほかならないのです。主イエスは弟子たちに「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました(使徒20:35)。それは神の国における霊的な真理であり、主イエスご自身が身をもって示された神の御旨であり、私たちが実践すべきあり方なのです。そして献金は、どのような趣旨のものであっても、神への信仰をもって神に献げられるものであり、献げる者の心が問われているのです(7節)。そのことを覚え、私たちも感謝と喜びをもって献げたいと思います。

惜しみなく与える者とされますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 7章◇(9月16日)

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」…2コリント7:10

「手紙」とありますが(8,12節)、それは、2章4節で触れている「涙ながらに書いた手紙」のことです。パウロは、コリント教会の人々が偽教師に惑わされて、自分のことを使徒として認めずに中傷しているのを知り、深く心を痛め、そのことを悔い改めてほしいと願って、厳しいことばを用いてその手紙を書き送ったのです。そのような中、コリント教会への2度目の訪問を延期し、代わりにテトスを遣わしたパウロは、マケドニアに着いても心に平安がなく、そこでの宣教の困難も重なって、すっかり気落ちしていました。しかしその状況は、戻ったテトスの報告により一変しました。なぜなら、コリントの人々が自分たちの罪を主の前に悔い改めたという喜ばしい知らせを、パウロはテトスから聞いたからです。10節に「神のみこころに添った悲しみ」とありますが、その悲しみは神が与えるのです。そしてその悲しみは、悲しみのままで終わることなく、悔い改めを経て、全き救いへと至るのです。真のいのちをもたらすのです。リビングバイブルという聖書では、「神様は時々、罪を断ち切り、永遠のいのちを求めさせるために、私たちに悲しみを与えます」とあります。そのように、私たちは、時に自分の罪と向き合うことで嘆き悲しむのですが、そこからの救いが神によって備えられているのです。感謝と喜びをもってそこへ向かうことができるのです。また10節には「世の悲しみは死をもたらします」とあります。世の悲しみとは、社会や他者や自分に対して抱いていた希望を失ったときの悲しみのことです。それは、周りへの非難、自暴自棄へと繋がり、いのちへ至ることはないのです。「死」をもたらすのです。なぜならその中心は人間だからです。しかし主だけが私たちに本当の希望、真のいのちをもたらしてくださるのです。そして罪深い私たちがご自身に立ち返るなら、主は私たちを赦してくださるのです。そのことを覚えたいと思います。

平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 6章◇(9月15日)

「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」…2コリント6:10

「自分を神のしもべとして推薦しています」(4,8節)。パウロは、自分の使徒職に対して異議を唱えて非難する人々に対し、そのように言って強調しています。しかしそれは、彼が自らの能力や知識を誇っているわけではありません。また、自分は神のしもべに確かにふさわしいと、自己評価しているのでもありません。パウロは4-5節において、彼が味わってきたさまざまな苦難を挙げ、そのような中でも主にあって耐え忍んできたことを告白しています。また6-7節では、神が求めておられるあり方、すなわちみこころをなす者として歩んできたことを述べています。自分のことを神のしもべだと認め、人々の救いと祝福のために用い、その務めを全うさせてくださるのは神ご自身であって、それは人から出たことではないのだと、パウロは訴えているのです。8-10節では、人の目に映るパウロたちの姿、外面と、実際にはそれとは違う本当の姿、内面を明らかにしています。コリントの人々がパウロたちの存在は他のところでは知られていないと思っても、実際には、彼らが宣べ伝えた福音の拡がりはとどまるところを知らず、彼らが迫害にあって瀕死の状態にあるように見えても、霊は燃やされ、心から希望と喜びが失われることはなく、たとえ彼らが金銀は持っていなくても、イエスの御名によって多くの人々を祝福し、キリストがもたらされた神の国の霊的な豊かさを、人々に分かち合っていたのです。「神の恵みを無駄に受けないように…今は恵みの時、今は救いの日です」(1-2節)。それはコリントの信者たちへのことばです。偽教師たちに惑わされて福音を正しく受け取っていないなら、神の恵みを無駄にし、真の救いにあずかっていないことになるのだとパウロは指摘し、そこから主に立ち返るようにと彼らを励ましているのです。私たちも、主イエスのしもべとして、人々に福音を伝え、神の国の霊的な豊かさを分かち合いたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 5章11-21節◇(9月14日)

「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」…2コリント5:15

17節は良く知られています。「古いものは過ぎ去って」、古いものとはすなわち、罪の奴隷となって喜びと自由を奪われていた過去の自分です。キリストにあって、私たちはそのような者から、「すべてが新しくなりました」…。いのちと希望を持つ者へと新しく造り変えられたのです。ところが、そのように罪から解放され自由がもたらされたことの意味をはき違えている者たちも当時いました。そして、依然として与えられた人生を自己中心的に生き、神の教えに従わず、他者を顧みようとしなかったのです。パウロはそのことを嘆き、キリストに贖われた聖徒たちは、もはや自分のために生きる者ではなく、自分のために死んでよみがえられたキリストのために生きる者なのだと、ここで強調しているのです。そのように、キリストにあって新しくなった者は、自分のために生き、自分の肉の欲求を満足させることを求める者ではなく、キリストのために生き、主に喜ばれることを追い求めて生きる(9節)者であって、それは180度の方向転換、まったく違う歩みなのです。しかしそうさせまいとする悪しき者の力が私たちに働き、知らないうちにその歩みが、神の道からはずれてしまうのです。「私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません」(16節)。それは人の容姿や態度だけを見て評価や判断をしないということであり、「キリストがすべての人のために死なれた」ことを覚え、神と人との間に立ち、和解の務め、とりなしの働きをするということです。「私たちはキリストに代わる使節なのです」(20節)。キリストの使節とは、キリストの心を持ち、キリストのために生き、神が願っておられるご自身との和解、すなわち罪の赦しと救いを人々に語り、人々に仕えることなのです。古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされていることの恵みと意義を、しっかり心に留めて歩みたいと思います。

神と人々とに仕える者とされますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 5章1-10節◇(9月13日)

「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」…2コリント5:1

4章の最後でパウロは、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」と語りましたが、さらにその「見えるもの」をこの地上でのもの、自分自身、「見えないもの」を天上のもの、神ご自身として、それらを対比しつつ、思いを明らかにしています。1節で対比がなされているのは、私たちの地上の住まい、すなわち私たちのからだと、天の永遠の住まいです。その永遠の住まいは「神が下さる建物」であり、「人の手によらない」ものですが、地上の住まいは「幕屋」、つまりイスラエルの民が荒野を旅したときと同じく、仮の住まいであり、それはあくまで一時的なものなのです。3-4節では、その幕屋を「脱ぐ」、天からの住まいを「着る」という表現が使われていますが、それは、私たちの肉体の死、そしてキリストが再臨される終わりの日に起こる、聖徒たちの復活と栄光のからだが与えられることを意味しています。またそれは、「死ぬべきはずのものが、いのちによって呑み込まれる」ということであり、神はそのために、「そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださった」とパウロは言っているのです(5節)。「私たちを整えてくださった」…それはつまり、神が、罪と汚れに満ちた人類を愛し、あわれみ、ご自身の御子であるイエス・キリストの十字架と復活による贖いによって、救いの道を備えてくださったということです。そのキリストを信じる者は、キリストにあって罪赦され、義と認められ、神の子ども、ご自身の民とされるのです。そしてそのことの保証として御霊を与えられているのです。そのことをしっかりと受け取り、見えるものによらず、主に目を留め、天上のものを目指し、信仰によって歩むなら、私たちは「心強い」のです。確かな希望が与えられるのです。そのような歩みを続けたいと思います。

平安と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 4章◇(9月12日)

「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」…2コリント4:7

4章ではパウロは、キリストの新しい契約に仕える務めを受けた自分が、どのような姿勢で福音を宣べ伝え、どのような信仰によって生きているかについて語っています。2節には「隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず…」とありますが、パウロは偽教師たちのことを考えてそう言ったのでしょう。自分はそのようなことをせず、福音を愚直に語り、真理を明らかにし、それが人々の良心に届くよう願っていると彼は言うのです。しかし実際には、福音を聞いた人々が次々に救われるわけではない…。それは、信じない人々の心に覆いが掛けられ、思いが暗くされ、福音の光が輝かないようにされているからであって、それはこの世の神、すなわちサタンのしわざなのだとパウロは語っています(3-4節)。しかし、パウロは落胆していません。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」。彼のそのことばが心に留まります。宝とはキリストであり、土の器とはパウロを含めた聖徒たち、私たちのことです。土の器はもろく、欠けたりひび割れしたりします。見栄えも良くはありません。この世の者たちは宝をそんな土の器に収めようとはせず、それにふさわしい器に入れるのです。しかし、土の器だからこそ、中に入っているその宝のすばらしさが際立つのです。そして人々は、なぜ宝がこんなところに…と驚きをもって受けとめ、その理由を知ろうとするのです。そしてその宝には人知を越えた測り知れない力があり、宝を入れている器もまた、その力によって神の特別な守りと祝福を受けるのです。それは、見方を変えるなら、聖徒たちは、内に住まわれるキリストと一つとされているということなのです(10-12節)。「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16節)。キリストにある内なる人が日々新たにされ強くされるよう、主に願い求めたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 3章◇(9月11日)

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」…2コリント3:18

パウロは3章で多くの対比を示しています。「(紙の)推薦状」と「心に書き記された推薦状(1-2節)」、「墨によって」と「神の御霊によって」(3節)、「文字に仕える者」と「御霊に仕える者」(6節)、「死に仕える努め」と「御霊に仕える努め」(7-8節)、「罪に定める努め」と「義とする努め」(9節)、「消え去るべきもの」と「永続するもの」(11節)、「古い契約」と「新しい契約」(6,14節)などです。そして6節以降のそれらの対比は、旧約聖書の律法とキリストの福音に関して語っており、それらを民に伝えたモーセと使徒たちの努めの違いを述べているのです。律法=古い契約の栄光は消え去るものであってもキリストの福音=御霊による新しい契約の栄光はそうではないということを、ここでパウロは強調しています。またパウロは、モーセが顔にかけた覆いについて13節で語っていますが、これは出エジプト記34章33-35節に出てくる覆いのことです。モーセが主と会うと彼の顔の肌が輝きを放ち、それは時間が経つと消えていきましたが、彼は、その輝きを主の栄光と受けとめる人々に配慮し、輝きが消えるのを見せないために顔を覆ったのです。自分たちはそのようなことはしないとパウロは言います。モーセのように顔に覆いをする必要はないのです。なぜならモーセの顔の輝きは一時的なものでしたが、キリストがもたらした栄光の輝きは永遠に続くものだからです。そして聖徒たち一人ひとりはその栄光を反映させ、やみを照らす世の光として主に用いられるのです。「鏡のように主の栄光を映しつつ…」。私たちが主の栄光を反映させて光を放つ者となるためには、まず、その主の光の中に自らを置かなければなりません。さらにその鏡は、覆いが取り除かれ、汚れのない状態に保たれる必要があるのです。そのことをなされる御霊に、自らをさらに明け渡す者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 1章12-24節◇(9月9日)

「神の約束はことごとく、この方において『はい』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」…2コリント1:20

パウロはコリントを通ってマケドニアの諸教会を訪問し、その後コリント教会を再び訪れる計画を立てていました。そのようにして人々が神の恵みに2度あずかるようにと当初は願っていたのです(1コリ16:5、2コリ1:15-16)。しかし、パウロの使徒性を認めない偽教師たちの存在によって教会が混乱していることを知ると、パウロは、その2度目の訪問を延期することに決めたのです。そのことを知ると偽教師たちは、パウロは自分の都合で約束を平気で破る不誠実な者であり、使徒の資格などないとますますパウロへの批判を強め、彼が語る福音も不確かなものだと決めつけました。するとコリント教会の人々もそれに同調し、パウロは嘘つきだ、信用できないと、非難するようになってしまったのです。それに対してパウロは、「このように願った私は軽率だったのでしょうか」と、決して人間的な思いで行動したのではない、と弁明しています。彼は、主のみこころを求め、教会全体の益を考え、思いやりをもって決断したのです(23節)。「…あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『はい』と同時に『いいえ』であるような方ではありません。この方においては『はい』だけがあるのです」(19節)。「はい」とは「そのとおり」ということであり、「いいえ」とは「そうではない」ということです。キリストのことばとふるまいにおいて、神の御旨と食い違っていることは何一つない…。そして、神の約束はキリストにおいてことごとく成就した…。だから私たちは「アーメン」、「そのとおりです」と言い、キリストの御名により神を賛美し、栄光を神に帰するのだと、パウロは言っているのです。神は真実なお方であり、ご自身の約束を反故にされることはありません。また「アーメン」とは決まり文句ではありません。そのことばが持つ意味の重さを覚えつつ、「はい」だけがある主にますます信頼したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第二 1章1-11節◇(9月8日)

「私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。」…2コリント1:6

「慰め(る)」ということばが心に留まります。パウロは、3-7節において10回もそのことばを用い、神は慰めに満ちたお方であり、主に拠り頼む者は、その慰めによって、どのような苦難の中にあっても、望みを抱いて進むことができるのだと、聖徒たちを励ましているのです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも…あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます」(4節)。パウロたちは宣教の働きを進める中で多くの迫害を受け、苦難にあってきました。それは耐えられないような激しいもので、生きる望みを失うほどであったと彼は言っています(8節)。しかしパウロは、そのような中にあってもますます主に拠り頼み、主を待ち望み続けました。そして神は、死をも覚悟した彼を、その力強い御手をもって救い出してくださいました。だからこそパウロは、コリントの聖徒たちに、自らのその体験を通し、確信をもって、神があなたがたを慰め、力を与えてくださる、苦難の中から必ず救い出してくださると、証しとして語ったのです。私たちもまた、さまざまな苦難の中に置かれます。信仰が弱り、望みを失いかけることもあります。しかし、先達の信仰者たちを通して語られている神のことばによって、聖霊は私たちの心を開き、たましいに働き、慰めと励ましを与えてくださるのです。もがき苦しみながらもなおも主に信頼する私たちを、主は確かに救い出してくださるのです。そしてその祝福を味わった私たちが、そのことを人々に分かち合うなら、その者たちもまた、神を求め、慰めと励ましを受け、救いと祝福にあずかる者とされるのです。そのことを通して、主の御名があがめられ、主に栄光が帰されるのです。主がそのようにして私たちを用いてくださることを覚えたいと思います。

慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

◇聖書箇所:ルツ記 4章◇(9月7日)

「ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。」…ルツ4:13

ボアズが町の門のところに座っていると、「ちょうど」買い戻しの権利のある親類がそこを通りかかりました。そこでボアズが、その人に事の次第を話し、ナオミが売ろうとしている畑を買い戻す意志があるかと尋ねると、初めは「私が買い戻しましょう」と言ったにもかかわらず、ルツのことを持ち出すと急に尻込みをしたのです。「買い戻し」をする者は、土地の所有者が亡くなったり、親類が貧しくなって土地を手放す必要が生じた場合に、土地を買い戻すだけでなく、その所有者の相続者を起こし、所有者の名を残すことが求められました。それはつまり、土地の所有者であったエリメレクが死に、2人の息子たちもまた亡くなっていたため、そのうちの一人マフロンの妻であったルツを、自分の妻と迎えるということを意味していたのです。親類の者は、買い戻せない理由として、自分自身の相続地を損なうことになるといけないから、とボアズに告げましたが、ルツを妻とすることとそのこととの関係は明確ではありません。おそらくそれは言い訳であり、本当は、モアブ人であるルツを迎えることに抵抗があったのでしょう。結局、ルツを買い戻す権利はボアズが得ました。そしてそれらはすべて神のご計画であったのです。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです」(1テモ2:6)。異邦人であるルツを買い戻し、妻として迎えたボアズ…。彼は、私たちを含めたすべての国のすべての人を、ご自身のいのちをもって買い戻して(=贖って)くださった、イエス・キリストの型です。そして、ルツとボアズの間に生まれた子オベデの孫として生まれるのがダビデであり、そのダビデの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。人の思いを超えてなされた、神の奇しい救いのみわざを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所:ルツ記 3章◇(9月6日)

「ボアズは言った。『娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。』」…ルツ3:10

ナオミはルツに、「あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません」と言いました(1節)が、それは彼女の再婚の世話をするということです。そして、ボアズこそその最適な相手だと確信したナオミはルツに、からだを洗って油を塗り、晴れ着をまとい、大麦の収穫の祝いをするボアズの元に行き、彼の寝床に入るように指示しました。それは大胆な計画でしたが、ルツは言われたとおりに従順に従ったのです。夜中になり、足もとに女性がいるのに驚いたボアズは、それがルツであることに気づきました。そして「あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください」と言って保護を求めるルツに対し、彼女にとって自分よりも近い関係である親類がいることを正直に伝えた上で、その人に意志があるなら買い戻しは彼がすべきであり、そうでないなら、自分が買い戻そうと答えたのです。「今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています」と、ボアズはルツに言いました。「先の誠実さ」とは、ルツが姑であるナオミを愛して寄り添い、故郷を離れ、知らない民がいるユダヤの地に来たことであり(2:11)、「今回の誠実さ」とは、ルツが若い男性を追わず(10節)、ナオミのことばに従い、ボアズとの結婚を願いつつも、性的な誘惑などせずに節度のある行動を取ったことです。そのルツだけでなく、ボアズもナオミも誠実でした。彼らはみな、主を畏れ、人間的な考えで行動しなかったのです。そのような主に対して真実なあり方こそ「誠実」なのです。そして、誰よりも主こそ真実であられ、私たちを愛し、誠実を尽くし続けてくださる、恵みに満ちたお方なのです(エレ31:3)。「主は生きておられます」(13節)。それは、真実な主が最善をなしてくださるという、主への信頼に満ちたボアズのことばです。私たちもまた、真実な主にますます信頼して歩みたいと思います。

主の導きに従順に従う者とされますように。

◇聖書箇所:ルツ記 2章◇(9月5日)

「『主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。』」…ルツ2:12

ボアズという人が登場します。彼はナオミの亡き夫の親戚で、エリメレクの一族に属する一人の有力者でした。ルツは、生活に必要な食糧を得るため、ナオミに申し出て、落ち穂を拾い集めるために畑に出て行きました。早速ルツはある畑で落ち穂を拾い集め始めましたが、なんとそこは、ボアズが所有する畑でした。3節には「はからずも」(「たまたま」:新共同訳)とあります。そして「ちょうどそのとき」、ボアズがベツレヘムからやって来て、落ち穂拾いをしているルツを見たのです(4,5節)。しかし、そのことは決して偶然ではありませんでした。それは確かに、主が「はかられた」ことであり、主のご計画の中で起こった二人の出会いであったのです。ボアズがルツに、ここで落ち穂を拾い続けなさい、喉が渇いたら水がめから自由に飲みなさいと言うと、彼女は、よそ者である私にどうしてそこまで親切にしてくれるのか、とボアズに尋ねました(10節)。すると彼は、あなたが姑にしたこと、両親や故郷を離れて知らない民のところに来たことについて、話を聞いていると答えました。そしてさらに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から…」と、ボアズは、まるで主が立てられた預言者のように、ルツに告げたのです。ルツはボアズに言いました。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます…」。その好意とは、ボアズを通して与えられる主ご自身の好意、恵み、祝福です。そしてそれは、ルツを通してナオミにも注がれ、やがてボアズの家系から生まれるキリストを通して、異邦人である私たちにももたらされることとなったのです。イスラエルの神である主は、異邦人であるルツがご自身の翼の下に身を避けようとしているのを知り、そのことに確かに報いられたのです。好意にあずかった私たちも、御恵みを惜しまない主に感謝をささげたいと思います。

主の祝福がますます満ちあふれますように。

◇聖書箇所:ルツ記 1章◇(9月4日)

「ルツは言った。『お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』」…ルツ1:16

ルツ記の記事は、1節にあるとおり、さばきつかさが治めていた士師の時代の出来事です。ルツという異邦人の一人の女性が、どのようにして神が選ばれたイスラエルの民と繋がり、神の救いの歴史の中で用いられていくのか、そのことを、わずか4章からなるこの書は示しています。ユダのベツレヘム出身のエリメレクは、その地に起こった飢饉のため、妻のナオミと二人の息子であるマフロンとキルヨンを連れてモアブの野に行き、そこに滞在して生活することにしました。モアブは死海の東側にある異邦人の地です。ところがエリメレクはそこで亡くなり、さらにモアブの女性を妻とした二人の息子も亡くなり、ナオミと未亡人となったオルパ、ルツが残されました。痛みと悲しみを抱えていたナオミは、飢饉の状況が好転したことを聞くと、故郷であるユダの地に戻ることを決め、息子の嫁たちには実家に帰るように告げました。するとオルパは、ためらいつつもそのことばに素直に従いましたが、一方ルツは、ナオミが行くところにあくまでもついて行き、そこで一緒に暮らすようにする、自分はそこで骨をうずめる覚悟だと、ナオミに伝えたのです。ルツは、ナオミを一人にしてはおけない…自分が嫁として寄り添い支えなければ…と、そのような愛の配慮、人道的なあり方だけでその決断をしたのではありません。ルツはナオミにこう言ったのです。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」。それは、自分もナオミと同じ民に加えられたい、その民が信じる神を自分も信じたいと、そのような思いから出たことばです。彼女は、「私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように」と、ヤーウェの神の名を出しさえしたのです。試練の中で信仰が弱っていたナオミ(20-21節)に、そのようなルツを助け手として与えられた主の恵みとあわれみを覚えたいと思います。

主からの慰めと励ましがありますように。

◇聖書箇所:士師記 20章36-48節◇(9月2日)

「…ベニヤミンが攻撃を始めて、剣に倒れる者が約三十人、イスラエルの人々の中に出たとき、彼らは『きっと前の戦いの時と同じように、彼らはわれわれに打ち負かされるに違いない』と考えた。」…士師20:39

「きっと前の戦いの時と同じように、彼らはわれわれに打ち負かされるに違いない」…。イスラエル軍との3度目の戦いにおいて、ベニヤミン人たちはそう思い込んでいました。兵の数では劣っているにもかかわらず、前の2回の戦いで勝利した彼らは、今度も負けるわけがない…と、高慢になっていました。自分たちの力を過信していました。敵を侮り、完全に油断していたのです。しかし、実際にはそうなりませんでした。3度目の戦いはそれまでの戦いとは明らかに違っていたのです。イスラエルの部隊は伏兵を設けており、ベニヤミン人たちが主力部隊たちと戦っている間に、その伏兵は難なくギブアに侵入し、町中を剣の刃で討ったのです。そして主力部隊は、事前に決めてあった合図ののろしが町から上がったのを見るとただちに引き返し、町から来た伏兵も合流して戦い、2万5千人のベニヤミンの兵を打ち倒したのです。イスラエル人たちはベニヤミン人に敗北するたびにベテルに上り、契約の箱の前に出て、主の御旨と導きを祈り求めました。3度目のときには夕方まで断食をし、全焼のささげ物と交わりのいけにえを主の前に献げ、その中で彼らは、「攻め上れ…彼らをあなたがたの手に渡す…という御声を聞き、確信を持って戦いに出て行ったのです。そして主ご自身がベニヤミンを打たれたのです(35節)。ベニヤミン人との大きな違いがそこにあったのです。「これ(彼)らはみな、力ある者たちであった」(44,46節)。ベニヤミン人たちには力がありました。しかしそれは人間的な意味での力であって、その力はまったく役に立たなくされたのです。彼らが高ぶり、どうせ最初のときと同じだと油断したからです。私たちはどうでしょうか…。過去の成功体験にとらわれず、高ぶり、侮り、油断することなく、「どうすべきでしょうか…」と、常に謙遜に主に尋ね求めて行動する者でありたいと思います。

主にあって勝利する者とされますように。

◇聖書箇所:士師記 20章17-35節◇(9月1日)

「主がイスラエルの前でベニヤミンを打たれたので、イスラエルの子らは、その日、ベニヤミンの二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」…士師20:35

ベニヤミン族と戦うため、イスラエルの残りの部族の者たちは40万人の兵を召集しました。それは、2万6千人の兵にギブアの7百人の精鋭たちを加えたベニヤミンの部隊に対して、圧倒的に優位な人数でした。そして彼らは、その戦いに際して、神の契約の箱が置かれていたベテルに上り、どの部族が最前線に出るべきかを主に尋ね、ユダとの答えを得て、その指示に従って戦いました。しかし、ベニヤミンの部隊は強く、イスラエルの兵たちのうち2万2千人が打ち滅ぼされてしまったのです。そのように、多くの仲間を失ったイスラエルの兵士たちでしたが、彼らはなお奮い立ち、再び戦いの備えをし、ベテルに上って行って、主の前で泣きながら、再びベニヤミンと戦うべきかを尋ねました。すると主が「攻め上れ」と言われたので彼らは戦いに挑みましたが、またもや劣勢となり、1万8千人の兵が倒れてしまったのです。ユダが最初に戦え…攻め上れ…との主の命令に従ったのに、戦いに敗北してしまったイスラエルの者たち…。けれども彼らは、戦意を失わず、主に拠り頼むことをやめませんでした。三たびベテルに上った彼らは、断食をし、ささげ物を献げて主を礼拝し、戦うべきかを主に尋ねました。すると主は、「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す」と言われたのです。そこで彼らは二手に分かれる作戦を立て、伏兵たちがギブアの町を襲い、2万5千人のベニヤミン人を打ち殺したのです。そしてそれは、主が敵を打たれた結果であったのです。私たちもさまざまな戦いに巻き込まれ、ダメージを受けます。しかし、それでもなお、主に信頼し続けるべきなのです。敗北が続いても、主の前に何度も出て、助けを求め続けるべきなのです。そのことを主は願っておられ、信仰に立つそのような者に勝利を与えられるのです。忍耐と希望をもって主の導きに従い続けたいと思います。

主からの励ましがありますように。