◇聖書箇所: 詩篇 52篇◇(4月29日)

「しかし私は 神の家に生い茂るオリーブの木。 私は世々限りなく 神の恵みに拠り頼む。」…詩篇52:8

「勇士よ なぜおまえは悪を誇りとするのか」と、詩人は悪者に語りかけています。勇士よ、とのその呼び掛けは皮肉であり、自分の富と力を誇り、それに頼っている一方、神の恵みと力には決して拠り頼もうとはしない、そのような悪者のあり方を詩人は批判しているのです。悪者は、その舌をもって偽りを語り、人を欺く者であり、そこから良いものは何も生まれず、ただ破滅をもたらすだけでした。そして、義なる神は、そんな者の存在を放置されることなく、御手をもって打ち砕いて倒し、御前から引き抜き、この地から根絶やしにされるのです。そのように、悪者が必ず神によって滅ぼされることを確信し、神をあがめ、畏れつつ、詩人は、「私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む」と告白しています。そして、悪と偽りを憎み、善と義を追い求め、神を愛して従う者は、「神の家に生い茂るオリーブの木」として、豊かな祝福と繁栄を神から与えられるのだと、詩人は信じて疑わないのです。「その人は流れのほとりに植えられた木…その葉は枯れずそのなすことはすべて栄える」という、詩篇1篇3節のことばが思い起こされます。悪者は悪を誇りとし、自分の富に頼り、偽りのことばを愛していました。しかし、そのような者が神の前に立ち続けることはないのです。破滅のわざを勝ち誇る者は、自らが神によって破滅させられてしまうのです。何を誇りとするのか、何に拠り頼むのか、何を愛して慕い求めるのか…。それはすべての人が神から問われていることなのです。詩人は、「私はあなたにある敬虔な人たちの前で すばらしいあなたの御名を待ち望みます」と語っています。私たちも、悪と偽りに満ちたこの世の中で、生きづらさを感じることがありますが、詩人のように、神の主権を認め、主を誇りとし、ますます主に拠り頼む者、主を待ち望む者でありたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 50篇◇(4月27日)

「感謝のいけにえを献げる者は わたしをあがめる。 自分の道を正しくする人に わたしは神の救いを見せる。」…詩篇50:23

詩人は、神こそが審判者であると告げています。神の御前には食い尽くす火があり、周りには激しい嵐があり、神は、ご自分の民をさばくために、上なる天を、また地を呼び集められ、いけにえによってご自身との契約を結んだ者たちを、ご自身の元に集められるのです(1-6節)。その者たちに対して神は、「聞け。わが民よ」と呼び掛けられ、非難しておられます。それは、民がささげるいけにえのことではありません。確かにいけにえは、全焼のささげ物として、いつも神の前に献げられていました。しかし神は、それでよしとはされなかったのです。では神は、何を問題視されていたのでしょうか…。民は、羊、牛、やぎなどの動物をいけにえとしてささげていましたが、それは神の目からは、形式的にただなされていた儀式であり、そこには感謝の心が伴っていなかったのです。しかし、神が何よりも求めておられるのは、民の内側からささげられる感謝の心であり、また、神の教えを実行し、自分の道を正しくする従順さであり、そのようにしない者たちを、神は喜ばれないのです。そして、16節以降においても、そのような悪しき者、偽善者たちに対して、神は厳しいことばで責めているのです。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サム15:22)。「義と公正を行うことは、主の前で、いけにえより望ましい」(箴21:3)。「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです」(ヘブ13:16)。そのように神は、みことばを通して私たちに、ご自身が喜ぶいけにえとは何か…ということを語っておられるのです。そのいけにえを献げる者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 49篇◇(4月26日)

「彼らの心の中では その家は永遠で 住まいは代々に及ぶ。彼らは 土地に自分たちの名をつける。しかし 人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。」…詩篇49:11-12

11節の「彼ら」とは、自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている者たちのことです(6節)。彼らは人が羨む豪邸を立て、贅沢三昧な暮らしを堪能していますが、詩人は、それはあくまでこの地上でのことであり、その家での住まいが永遠に続くことはないのだと、自己満足している彼らに対して、はっきりと指摘しているのです。さらに詩人は告げています。そのような彼らは、人間的、この世的なものに頼り、神なんか不要だとしているが、その高慢さ、罪深さのゆえに、やがて終わりの日のさばきにおいてよみに下るよう定められ、そこが彼らにとっての永遠の住み家となるのだ…と(14節)。「しかし 神は私のたましいを贖い出し よみの手から私を奪い返してくださる」(15節)。一方、詩人は、自らの将来について、そのように告白しています。たとえ豊富を得ていなくても、贅を尽くした家に住まなくても、全能者であり主権者であられる神に自分は信頼しており、神は自分のたましいを贖い出し、地上の歩みを終えても、肉体が朽ちても、自分は神のみもとに引き上げられ、栄光のからだが与えられ、神とともに永遠に生きる者とされるのだ…と。彼はそのように確信していたのです。そしてここに、メシアによる贖いが暗示されているのです。主イエスも人々にこう言われました。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」(ルカ12:15)。財産のみならず、神以外のものに拠り頼むなら、そのような者は、たとえどのような栄華のうちにあっても、それはあくまでもこの地上での一時的なことであり、そこに永久にとどまれないのです。滅び失せる獣と変わらないのです(12,20節)。その真理を悟り、ますます神に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 18章◇(4月25日)

「いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。」…出エジプト18:22

シナイ山に近づいたモーセのところに、モーセの妻ツィポラと二人の息子を連れたしゅうとイテロが、紅海の対岸のミディアンの地からやって来ました。彼は、主がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださったことや、その後の旅路での主のみわざをモーセから聞いて、「主がほめたたえられますように…主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました」と告白しました。そのイテロは、モーセがたった一人で民の訴えを聞き、争いをさばき、神の教えを民に伝えているのを見ました。すると彼は、それではモーセと民が疲れ果ててしまうと考え、民の中から敬虔で誠実なリーダーたちを任命して、小さい事件は彼らに委ねるよう、モーセに助言したのです。モーセは彼の言うことを聞き入れて従いました。主が、イテロを通し、それをモーセに実行させたのです。「あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。」(20節)。本来モーセが担うべきそのような役割は、彼が重荷をしょい込んだために妨げられていました。私たちも、これは自分がやらなければ…と、一人で抱え込んでしまうことがありますが、結局疲れ果ててしまい、周りにも悪影響を及ぼすのです。「責任を果たす」つもりでも、実はそうなっていない、ということになってしまうのです。初代教会においても同じようなことがありました。食事の配給で一部の人がなおざりにされていたため、使徒たちは御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち7人にその務めを任せ、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専念するようにしたのです(使徒6:1-6)。実際的なことに忙殺されずに霊的なことを優先させること。一人に負担がかからないよう複数で重荷を負い合うこと。私たちもその大切さを覚え、実際に行なっていく者でありたいと思います。

主の知恵と導きが与えられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 17章◇(4月24日)

「モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。」…出エジプト17:11

イスラエルの民は、シンの荒野を旅立ち、レフィディムに宿営しましたが、そこには飲む水がなかったので、彼らは、なぜエジプトから連れ上ったのか、私たちを渇きで死なせるためか…と、モーセを非難しました。それは彼を石で打ち殺さんばかりの激しさでしたが、荒野を旅して喉がからからに渇いていた民にとって、水が飲めないということは、致命的といえる問題であったのです。モーセは主に、この民をどうすればよいのでしょう…と言い、答えを祈り求めました。すると主は彼に、ナイル川を打ったあの杖を持ってホレブに行き、そこの岩を打つなら岩から水が出ると言われ、モーセがそのことばに従うとそのとおりになったのです。主はまたもや、民の必要を奇蹟的に満たされました。しかし彼らはその主を信じて、拠り頼もうとはしていなかったのです。主は本当にいるのか…と主を試みたのです(7節)。けれども、飲み水がないという事態に直面した彼らは何よりも、水を与えてくださいと、主に祈り求めるべきだったのです。なぜなら主は、エジプトに数々の災いをもたらし、民を脱出させ、海を分け、うずらとマナを与えられたお方であって、彼らはそのことを体験していたからです。その後、異邦の民アマレクとの戦いが起こると、モーセは陣頭に立たずに、後方で手を高く上げました。そしてそれは、神へのとりなしの祈りを意味していました(詩63:4)。彼が手を上げるとイスラエルが優勢となり、下ろすと劣勢となったのです。そこで、モーセの両手が重くなって下がらないよう、アロンとフルが彼の両手を支え続け、イスラエルはアマレクを討ち破りました(13節)。試練や戦いの中に置かれると、神はいるのか…と疑い、つぶやいてしまいがちです。しかし、神の民は、どんなときにも主に拠り頼み、祈りの声を上げ、主の介入による解決と勝利を待ち望むべきなのです。祈りの手を下ろすことなく、高く上げ続ける者でありたいと願います。

主が勝利をもたらしてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 16章13-36節◇(4月23日)

「しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。」…出エジプト16:20

荒野での旅路を続ける中で食物に困り、何を食べれば良いのかと不平を言ったイスラエルの民のために、主は、マナと呼ばれるパンを、食物として毎朝与えられました。それは、霜のように薄く地に張った細かいもので、民は、それぞれが主から命じられたとおり、自分の食べる分に応じて一人当たり1オメル、2.3リットル分を集めたので、そのとき過不足が生じるようなことはありませんでした。主はさらにモーセを通して民に命じられました。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない」(19節)と。しかし、彼らの中の何人かはその指示に従わず、翌朝までその一部を残しておきました。おそらくマナを朝ごとに集めるのが嫌で、楽をしようとしたのでしょう。ところがそれには虫がわいて、臭くなってしまったのです。一方、6日目においては、翌日が安息日となるため、それぞれが一人当たり2オメル、つまり翌日の分も合わせて集められるよう、主は、2倍の量のマナを与えられました。そして、民が次の日の分を朝まで取っておいても、それには虫がわかず、臭くならなかったのです。主は、ご自身が定められた安息の日の朝には、民がマナを集めなくても良いようにと、配慮してくださったのです。ところが、そのときも、民の中のある者たちは、そうは言っても少しぐらいはあるに違いないと勝手に考えて、7日目、すなわち安息日の朝、いつものように集めに出て行きました。しかし、当然ながら、彼らは何も見つけることができなかったのです。主はその行動を非難されました(28-29節)。それは彼らが、主の教えに素直に聞き従わず、語られたことを自分の考えで変えてしまったからです。主がご自身の民の必要をご存じで、それを過不足なく満たしてくださると信じず、欲に動かされて多く集めようとしたからです。私たちはどうでしょうか…。そのような過ちを犯さないよう注意したいと思います。

主の豊かな恵みを覚えることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 16章1-12節◇(4月22日)

「「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」」…出エジプト16:12

葦の海から旅立ったイスラエルの民は、飲む水に困り、何を飲んだらよいのか、と不平を言いましたが(15:24)、さらに旅路を進んでシンの荒野に入ると、今度は、食べるものがない、と言ってモーセとアロンに不満をぶつけました。彼らは言いました。「われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ…あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている」(3節)と。主が、エジプトの奴隷として重い労働に苦しむ自分たちを顧みられ、数々の奇蹟を起こしてそこから連れ出してくださったというのに、その主の手にかかって死んだほうがましだったとさえ民は言ったのです。それは、主の愛とあわれみを踏みにじることばであり、主の怒りを引き起こして当然の言動でした。ところが、主は、そんな民の不平を聞かれ、彼らの必要を満たすべく、夕方には食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどのパンを天から降らせると、モーセに告げたのです。今日の箇所において、主が民の不平を聞かれたということが繰り返され(7,8,9,12節)、強調されています。さらに主はモーセに告げられました。「こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る」と。また10節には、雲の中に現れた主の栄光を民が見た、とあります。主は、単に民の必要を満たそうとされたのではなく、彼らをエジプトから連れ出し、荒野で養い、約束の地へ導くのは神だと確信させ、民がさらにご自身に信頼する者となるようにと願っておられたのです。私たちもまた、困難な状況のなかでつい主につぶやいてしまいますが、それを主への祈りとし、主が必要を満たしてくださるという信仰の告白とし、すでに与えられたと先取り感謝する、そのような者でありたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 14章◇(4月20日)

「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」…出エジプト14:31

イスラエルの民がエジプトから出て行くと、ファラオと家臣たちは戦車を準備し、軍勢を率いて追跡し、海辺に宿営している彼らに追いつきました。すると、それを知ったイスラエルの民は、大きな恐怖を感じて主に向って叫び、指導者であるモーセに対して弱音を吐き、なぜわれわれを連れて来たのか…この荒野で死ぬよりはエジプトに仕えるほうがよかった…とさえ言ったのです。そのことばを聞いたモーセは、彼らを叱咤激励するようにしてこう告げました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」(13-14節)と。その後、主は、モーセがどう行動すべきか具体的な指示を出し、「わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す」(17節)と言われました。そしてモーセが主から命じられたとおりに自分の杖を上げ、手を海の上に伸ばすと、なんと海が分かれ、乾いた地面が現れ、イスラエルの民はそこを進むことができたのです。一方、彼らを追って入ったエジプトの軍勢は、戦車の車輪が外され、海の水が元に戻されたため、一人残らず海に呑み込まれ、溺れ死んでしまったのです。その光景を目撃したイスラエルの民は、大いなる御力によってみわざをなされた主を畏れました。もはやモーセに不満をぶつける者はいませんでした。その奇蹟を通して現わされた主の栄光により、エジプトだけでなく、イスラエルの民もまた、あらためて、神である主の偉大さを知り、信じて従う者となったのです。私たちもつい、試練のただ中で焦り、恐れ、心を騒がせてしまいます。信仰が弱ってしまいます。しかし、イスラエルの民を救い出された神は、「恐れてはならない。…主の救いを見なさい…主があなたがたのために戦われる…」と言われるのです。その主に信頼して前進したいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 13章◇(4月19日)

「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。」…出エジプト13:21

「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである」。そのように主はモーセに告げられました。そして男の長子、ろばの初子は、羊で贖う、つまり買い戻すことが求められたのです(13節)。それはエジプトの長子と家畜の初子が主によってみな殺されたとき、羊の血が塗られたイスラエルの民の家をその災いが過ぎ越したことに起因していました。またそれは、神の子羊であるキリストによる贖いの予型であったのです。モーセは民に言いました。「力強い御手で、主があなたがたをそこ(エジプト)から導き出された…」と(3節)。そのことは13章の中に4回も繰り返されて強調されています(3,9,14,16節)。430年という長い間、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しみましたが、主は彼らを顧み、そこから脱出させられたのです。そしてその救いのみわざを覚え続けよと、主は民に命じられたのです。さらに主は、カナンの地への旅路を導くため、昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中にいて、イスラエルの民の前を進まれました。旧約聖書の中にはそのことが繰り返し記されていますが、今日の箇所の21節がその最初の箇所となっています。力強い御手をもってエジプトから導き出された主は、絶えず彼らとともにあり、彼らを守り、導き、闇に満ちた夜も光で照らしてくださったのです。その主は、今も私たちと、世の終わりまでも、いつもともにいてくださるインマヌエルなるお方です。荒野のようなこの世にあって、迷い込むことがないように私たちを導き、かんかん照りの日差しを遮る雲のように、苦難に晒される私たちを守り、暗闇のように思われる状況の中にあって、私たちを希望の光、真理の光で照らしてくださるお方なのです。その主に守られ、導かれて、約束の地への旅路を歩み続ける幸いを覚えたいと思います。

主からの励ましがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 12章37-51節◇(4月18日)

「イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立った。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった。」…出エジプト12:37

ついにイスラエルの民はエジプトを出発しました。その数は壮年の男子だけで約60万人でした。当時は多産だったので、女性と子どもも入れると、全体では2百万人以上はいたものと思われます。さらにそこには外国人や家畜も含まれていました。その者たちが4列となり前後の間隔を1m取って進んだと仮定すると、先頭から最後尾まではなんと500kmにも及ぶ大集団です。彼らは逃げるようにしてではなく、エジプト人の前を堂々と進んで行ったに違いありません(12:35-36)。カナンからエジプトに行ったヤコブの親族の数はわずか70人でしたが(出1:5)、神はアブラハムとの間に立てた契約を守られ、彼の子孫をおびただしく増やしてくださったのです(創世17:2)。そのイスラエルの民がエジプトに寄留していた期間は430年であり(40節)、世代はすでに4~5代目になっていました。そして主は、430年が経過したちょうどその日に、ご自身の民をエジプトから導き出されたのです(41,51節)。イスラエルの民は、世代は変わっていっても、自分たちがいつからエジプトに移り住み、奴隷として苦役をどれけ長い間負わされ続けているのかということについて、親から子へと語り伝え続けられ、常にそれを覚えていたことでしょう。したがって430年が経ったちょうどその日、奴隷から解放されてエジプトを脱出したことを、彼らは特別な思いをもって受けとめたに違いないのです。そしてそれは、神の偉大な救いの計画の中に彼らが置かれ、苦しかったエジプトにおいても主の守りと祝福があり、430年は主が定められた期間であったということなのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。その主は、私たちの営みにも時を定めておられます。主の最善の計画の中に私たちは置かれ、生かされているのです。私たちはその主のご計画をはかり知ることはできませんが、信仰と忍耐をもって、主の時を待ち望む者でありたいと思います。

主からの平安がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 12章15-36節◇(4月17日)

「こうしてイスラエルの子らは行って、それを行った。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」…出エジプト12:28

主はまた、種なしパンの祭りを守るように命じられました。それは第1の月の14日の夕方から21日の夕方までの7日間、パン種の入っていないパンを食べるというものであり、永遠の掟として代々にわたって守り行なうよう、イスラエルの民は求められたのです。エジプトから出る際、民はエジプト人からせき立てられましたが(33節)、発酵の過程を省いたパンはそのことの象徴です。種なしパンの祭りはエジプトからの脱出の記念なのです(17節)。いよいよ最後の災いが起こされる時が来ました。モーセとアロンは、民の長老たちを呼び、すでに主から告げられていたことを伝えました。すると民は、主を畏れてひざまづいて礼拝をささげ、それぞれの家に戻り、二人から命じられたとおりに、傷のない一歳の雄の羊ややぎを屠って、その血を鴨居と2本の門柱に塗ったのです。皆が寝静まっていた真夜中、突然、激しく泣き叫ぶ声がエジプトの地のあちらこちらで起こりました。ファラオの長子、投獄されている捕虜の長子、さらに家畜の初子に至るまで、主がすべての長子を予告どおりに打ち、そのいのちを一瞬にして奪ったからです。すると、心を頑なにしてイスラエルの民を去らせなかったファラオは、その悲劇に直面してついに音を上げ、エジプトからただちに出て行くようにと、モーセとアロンに命じたのです。王は二人に言いました。「おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ…おまえたちが言ったとおり…出て行け…」(31-32節)。イスラエルの民も、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なったとあります(28,35節)。そしてそれは、モーセに語られた主をそれぞれが認め、その主に従順に従ったということであり、モーセが主の御旨を人々に伝える者として用いられたということです。そこに至る過程には信仰と忍耐が求められますが、真実な主はご自身のことばを必ず守られるのです。私たちもまた、その主に信頼して従っていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 12章1-14節◇(4月16日)

「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」…出エジプト12:13

主は、エジプトに対する決定的な最後の災いを起こされるのにあたり、モーセとアロンにいくつかのことを具体的に指示されました。それは、イスラエルの民が、春の季節の「ニサンの月」を年の最初の月とし、その14日の夕方に家ごとに傷のない一歳の雄の羊かやぎを屠り、その血をそれぞれの家の二本の門柱と鴨居に塗り、その日の夜にその肉を焼いて食べるようにとの命令でした。また、その際の注意として、肉とともに種なしパン、すなわち酵母を使って膨らまないパンを、苦菜と一緒に食べること、また、肉は生のままや煮て調理するのではなく、火で焼かなければならないこと、さらに、食べる際には腰の帯を固く締め、足に履き物をつけ、手に杖を持って急いで食べるということを、主は指示されたのです。その上で主は、その夜にエジプトに災いを起こし、エジプトのすべての長子を人から家畜に至るまで打って死なせ、エジプトの偽りの神々に対してさばきを下すと語られました。そしてそれは、モーセがファラオに、そのようになると警告し、それによって、主がエジプトとイスラエルを区別されるのをあなたがたは知るようになる、と告げた(11:4-8)、まさにそのことであったのです。そのように主は、イスラエルとエジプトの長子を区別されました。そしてそのしるしは、家々の門柱と鴨居に塗られた子羊の血でした。「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」(1コリ5:7)。主がモーセに語られた子羊の血は、のちにイエス・キリストが、傷のない神の子羊として、全人類の身代りとなって十字架にかかり流されたその血の予型であり、キリストの血による贖い、罪の赦しを信じる者には、神のさばきが「過ぎ越す」のです。「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハ1:29)であるキリストに、感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 11章◇(4月15日)

「主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」…出エジプト11:3

主はエジプトに対して、第8の災いとしていなごの大群の襲来を、さらに第9の災いとして3日間の暗闇を起こされましたが、主がファラオの心は頑なにされたので、イスラエルの民は依然としてエジプトに留められたままでした(10章)。すると主はモーセに、わたしは決定的となるもう一つの災いを下す、それによってファラオはあなたがたをついに去らせるようになる、と言われたのです。そこでモーセは、その災いが起こることを最後通告としてファラオに伝えました。それは、エジプトの地の長子が、王や国民だけでなく、奴隷や家畜の初子に至るまでみな死ぬという、恐ろしい災害、さばきです。そしてその中にあっても、主が区別されるために、イスラエルの長子のいのちは守られるのです。また、ファラオの家臣たちがモーセにひれ伏して、民とともにこの国から出て行ってくれと頼み込むようになるのです。しかしファラオはモーセのその警告も意に介さなかったため、モーセは怒りに燃えて彼のところから出て去って行きました。3節のことばが心に留まります。ファラオは最後まで心が頑なでしたが、エジプトの民は、イスラエルの民に好意を抱き、王の家臣たちとともにモーセを非常に尊敬していたとあるのです。それは、イスラエルの民が、奴隷として長年働かされている中でも、暴動を起こしたりすることなく、課せられた任務を忠実に果たし、忍耐をもってエジプトに仕えていたからであり、モーセがその民の指導者として、良く治めていたからに違いありません。そのように、主の民は人々から好意を持たれるのです。それは、そのために特別な努力や働きかけをするからではありません。たとえどのような状況、立場に置かれたとしても、神の前に真実に歩むこと、みことばに聞き従うことを願い求め、人々に対しても誠実に関わる者であるからです。主に贖われた聖徒である私たちも、そのような存在であるのです。そのことを覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 9章13-35節◇(4月13日)

「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。」…出エジプト9:20-21

7番目の災いとして、かつてなかったような雹が天から降り、多くの人や家畜が死んだと書かれています。そして主は、その前にファラオに対して、わたしがそのように災害を送るのは、あなたがわたしの民を去らせないからであり、あなたが唯一無二の神であるわたしを認めるためであり、わたしの名を全地に知らしめるためなのだと、モーセを通して告げられました。さらに、その災いとは死に至らせる雹だと予告し、家臣たちや家畜を野から連れ戻して家に避難させよと、警告を与えられたのです。すると彼の家臣のうちで、それまでの数々の災いを思い、イスラエルの神を畏れ、そのことばを信じた者たちは、主の指示に従ったので、しもべや家畜は難を逃れました。ところが、神を認めない者たちは、まともに取り合わず、警告を無視したため、野に残されたしもべや家畜は雹の直撃を受け、いのちが奪われてしまったのです。すると、さすがのファラオも、モーセとアロンに対し、主は正しい方であり、自分とエジプトの民が悪かったと告白しました。そして、こんな災いはもうたくさんだ、雹がやむように主に祈ってくれと懇願し、私はおまえたちを去らせよう、と約束したのです。しかし彼は、「今度は私が間違っていた」と弁明していました(27節)。そのことばに、砕かれ切ってはいないファラオの心、傲慢さが表わされています。事実、その後モーセが主に祈り、雹がやむと、彼の心はまたもや頑なになったのです。イスラエルの神はエジプトの神々よりも偉大な力を持つ方であると、そのように認める者たちがファラオの家臣の中に起こされました。その者たちは主のことばを信じて従い、彼らやしもべや家畜はいのちを得ました。しかしそうでなかった者たちはいのちを失ったのです。今も、終わりの日のことを人々が信じ、いのちを得る者となるように、とりなし、福音を伝えていきたいと思います。

祈り続け、語り続けることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 9章1-12節◇(4月12日)

「ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。」…出エジプト9:7

今日の箇所には、主がエジプトになされた第5、第6の災いが記されています。モーセはファラオに、主から語られたこととして、イスラエルの民を去らせなければ、エジプトの家畜が非常に重い疫病にかかる、しかし、イスラエルの家畜は主が区別されるのでそのようにはならない、そしてそれは明日行なわれる、と告げました。しかし、ファラオはそのことを聞いても意に介さなかったので、主はご自身のことばどおり、翌日にそのようにされました。重い疫病にかかったエジプトの家畜はことごとく死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死ぬことはありませんでした。その事実をファラオは使いを送って知りましたが、なお、彼の心は頑ななままでした。さらに主は、モーセとアロンに、かまどのすすを両手いっぱいに取り、モーセがファラオの前でそれを天に向けてまき散らすようにと命じられました。早速彼らがそのようにすると、それはすべてのエジプト人と彼らの家畜に付き、うみの出る腫れものとなったのです。そのとき呪法師たちは、以前のように秘術を使って同じようにし、対抗することすらできませんでした。なぜなら、彼ら自身もその腫れものによって苦しんでいたからです。それでもなお、ファラオの心は頑ななままでした。それは、主がモーセに告げたとおりであり、ご自身のご計画であったのです。では、なぜ主は、もっとひどい災いにより、即座にファラオが民を去らせるようにされなかったのでしょうか…。それは、じわじわとエジプトの苦しみを増し、またイスラエルとの区別を明らかにすることにより、ご自身が生けるまことの神であることを、エジプトや周辺諸国の民に、またイスラエルの子らにも知らしめるためであり、その神を信じるように促すためであったに違いありません。主は「区別」されますが「差別」はされないのです。主がいつくしみ深くあわれみ深いお方であることを、あらためて覚えたいと思います。

とりなし祈る者とされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 8章16-32節◇(4月11日)

「主はモーセのことばどおりにされた。アブは一匹残らず、ファラオとその家臣、および民から離れた。」…出エジプト8:31

8章の後半には、主がエジプトに対してなされた第3、第4の災いとして、ブヨとアブが大量に発生したことが記されています。ブヨは体長が数mm程度の蚊のように小さい虫であり、アブはブヨよりも大きい数cm程度のハエのような虫です。どちらも家畜や人間の血を吸うものですが、刺すのではなく噛むために痛みと腫れが生じます。アロンが杖で地のちりを打つとそれはブヨとなり、一方、エジプトの呪法師たちが秘術を使ってもブヨを出せませんでした。彼らは自分たちの限界を認め、「これは神の指です」とファラオに告げましが、彼は、それでもなお、イスラエルの民を去らせようとはしなかったのです。その後、さらなる災いとして主が送られたアブの大群は、ファラオや家臣の家の中にまで侵入して来ました。彼らは体のあちこちを噛まれて痛み苦しんだことでしょう。耐えかねたファラオはモーセとアロンを呼び寄せ、イスラエルの民が主にいけにえをささげることを認めました。しかし、なおも民を自分の支配下に置こうとした彼は、モーセとアロンを呼び寄せ、そのことはエジプト国内で行なうようにせよと告げて、妥協させようとしたのです。しかしモーセは、ファラオの命令には従いませんでした。主にいけにえをささげるのは荒野でなければだめなのだ、と即座に反論し、きっぱりとそれを拒否したのです。彼はその理由として、エジプト人が忌み嫌うものをいけにえとして献げるからだ、と言いましたが、それは主から与えられた知恵のことばにほかなりません。そのように堂々とファラオと渡り合うモーセは、もはや、自分は口べただと言って尻込みした弱気なモーセではありません。そのやり取りに、アロンは関わっていないのです。結局、ファラオは、イスラエルの民が荒野に出て行くことを認め、「私のために祈ってくれ」とさえ言ったのです。するとモーセはエジプトからアブが離れるように祈り、主は彼のことばどおりにされました。私たちもまた、主にあって強められ、自らの使命を全うしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 8章1-15節◇(4月10日)

「ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」…出エジプト8:10

ナイル川の水が血に変わり、川の水が飲めなくなるという災いが起こったにもかかわらず、ファラオはモーセとアロンの要求に応えず、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。そこで主は、彼の頑なな心を打ち砕くべく、蛙がエジプト全土に群がり、家の寝室や台所にまで入り込むという、2番目の災いを起こされました。その事態に閉口したファラオは、モーセとアロンを呼び寄せ、エジプトから蛙が取り除かれるように主に祈れ、と命じ、そうすればイスラエルの民をさらせると約束しました。そこでモーセがいつ祈るべきかを彼に尋ね、翌日との要望を受けて主に叫び求めると、主はその祈りを聞かれ、大量の蛙は死に絶えることとなったのです。ところが、その災いが過ぎ去ると、ファラオは約束を破り、イスラエルの民を去らせようとはしませんでした。「主とは何者だ…私は主を知らない」(5:2)と言っていた彼は、蛙の発生に困って「主に祈れ」とモーセとアロンに要求するようになりましたが、それは主の存在を認めたわけではなく、その場しのぎの発言であったのです。彼にとって、直面している苦境から脱することができるなら、そのように主の名を口にし、主に祈るように要請することは、恥でも屈辱でもなかったのです。それはあくまで、問題解決のための便宜的な手段だったのです。モーセからいつ祈るべきかと聞かれ、ファラオは「明日」と答えました。彼は、エジプトの呪法師たちに蛙を除かせようと考えていたのかもしれません。しかし彼は、主を認め、「今すぐ祈ってくれ」というべきだったのです。ひるがえって私たちは、切迫感をもって主に祈り求める者となっているでしょうか…問題を自分の力で解決しようとしていないでしょうか…試練を脱して一息つくと、主に祈り求めることをおろそかにすることがないでしょうか…自らのあり方を吟味したいと思います。

たえず主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 7章◇(4月9日)

「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」…出エジプト7:5

「わたしは…しるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない…そこで、わたしはエジプトに手を下し、…イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す」(3-4節)。神はモーセに対してそのように言われました。私たちは人々に主を証し、福音を伝える際、素直に受け入れて信じてもらえるようにと願います。また、自分自身の歩みにおいても、いつも順調で試練がないようにと望みます。しかし、主のご計画は私たちの思いを越えたものであり、主はしばしば人の心を頑なにし、試練を与え、そこに力強く介入して御力を鮮やかに現し、ご自身が神であられることを人々や私たちに対して明らかにされるのです。しるしと不思議…それはもちろん今でも現わされます。主は今も生きておられ、私たちの歩みの上に力強く働いておられるからです。その主の御力がさらに解き放たれ、しるしと不思議がもっと劇的になされるようにと願います。しかし一方で、今日の箇所において、神がなされたみわざを、エジプトの呪術者たちもまた、彼らの秘術を使って同じようにしたとあるように(11節)、この世の悪しき霊もまた、そのように不思議なことを行い、人々が神ご自身に目を向けることを妨げようとするということを、私たちは知るべきなのです。目に見える現象だけを追い求めるのなら、人々はその罠に陥ってしまうのです。「彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を?み込んだ」(12節)。アロンが自分の杖を投げるとそれは蛇になりました。エジプトの呪法師たちも同じようにして、自分たちの杖を蛇に変えることができました。しかしアロンの杖から変わった蛇は、彼らの蛇を呑み込んだのです。それはつまり、神がこの世の力、背後にいる悪魔よりも強いということです。神こそが主権者であられ、すべての権威を足の下に従えて統べ治めておられるということです。ますますその主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。

主の助けと守りが与えられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 6章◇(4月8日)

「主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」」…出エジプト6:29

モーセとアロンはファラオのところに行き、イスラエルの民を一時的に荒野に行かせ、主にいけにえを献げさせてほしいと申し出ました。しかし、それは労役から逃げるための口実だととったパロは拒否し、彼らにれんが作りの材料の藁を与えず自分たちで集めさせよ、と監督たちに命じ、民の労役を以前よりも増やしたのです(5:11)。一方、同胞であるイスラエルの民は、しかたなくエジプト全土に散って藁の代わりに刈り株を集めましたが、その時間と労力のゆえに、従来と同じ量のれんがは仕上げられませんでした。そのことで監督たちから打ちたたかれた民は、不当な扱いをやめるようファラオに直訴しましたが、王はその訴えを一蹴しました。すると彼らは、そのことの原因はモーセとアロンにあると考え、主がさばかれるように、と言って二人を非難したのです(5:21)。主から遣わされて行動したモーセは、パロが頑なになり、同胞からも責め立てられたことで意気消沈しました。そして、父祖たちとの契約に基づいてカナンの地をあなたがたに与える、と告げられた主のことばを民に語っても、失意と疲労の中にあった彼らが聞く耳を持たなかったため、彼は「私は口べたなのです」と、主に訴えました(12,30節)。しかし主は、ご自身のことばをモーセに告げ、それをアロンが代弁するようにしてくださっていたのです(4:16)。それなのにモーセは、ファラオや民の反応に捕われ、自分にはできない、荷が重すぎる…と、主からの使命を推し進めることに尻込みしてしまったのです。主は、いつの時代にも、そのようにご自身が選ばれた者を通して、人々にメッセージを伝えようとされるお方です。私たちもまた、そのように、いわば神の代弁者として遣わされているのです。福音を語っても聞いてもらえないこともありますが、すぐにあきらめたり、がっかりすることなく、それが主から与えられている使命であることを覚え、忠実になし続ける者でありたいと思います。

恐れずに語る者とされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 4章18-31節◇(4月6日)

「アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」…出エジプト4:30-31

神の召しに応えることをようやく決心したモーセは、しゅうとイテロの承諾を得、妻や息子たちを連れてエジプトの地へ向かいました。彼の手には、神に言われたしるしを行なうための杖がしっかり握られていましたが、羊飼いの働きのために使われたその杖は、神の力が現わされるために用いられる「神の杖」(20節)となったのです。その道中で主はモーセに、ファラオは心を頑なにし、民を去らせない、そのとき、イスラエルはわたしの長子である…わたしの子を去らせるのを拒むなら、あなたの長子を殺す…というわたしのことばを彼に告げよ、と命じられました。神がイスラエルの子らをご自分の長子として深く愛してあわれんでおられることが、断固たる口調でのその主のことばからひしひしと伝わってきます。24-26節の記事は不可解な出来事です。なぜ主はモーセを殺そうとされたのか…。ツィポラが息子に行なったことは「割礼」です。神はアブラハムに、男子はみな、生まれて8日目に割礼を受けなければならない、と告げられましたが、異邦人のチッポラと結婚したモーセは、その主の教えを守っていませんでした。あるいはツィポラが拒否したのかもしれません。いずれにせよ、モーセのいのちが取られる状況に追い込まれる中、ようやく息子の割礼がなされたのです。そしてそれは、モーセが、かつて自分の行為が同胞に理解されずに責められたトラウマから解放され、イスラエルの民としての自己意識を取り戻すために、主が導かれたことであったのです。その後、モーセは兄アロンに会い、主から語られたことばを雄弁なアロンに代弁させました。するとそれを聞いたイスラエルの長老たちは、そのすべてを信じ、自分たちを顧みておられる主をひざまずいて礼拝したのです。モーセはそのように主に取り扱われて用いられました。弱さや足りなさのうちに働く主を覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 4章1-17節◇(4月5日)

「彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。」…出エジプト4:15

わたしはあなたをファラオのもとに遣わす、イスラエルの子らをエジプから導き出せ、と主から命じられたモーセは、なおも、きっと民は「主はあなたに現れなかった」と言うでしょう…と主に答え、煮え切らないままでした。すると主は、彼と民に確信を与えるためのしるしとして、モーセが持っていた杖が蛇になるようにし、また、懐に入れた彼の手がツァラアトに冒されるようにし、それらがすぐに元の状態に戻るという不思議を現されました。さらに主は、2つ目のしるしは1つ目のしるしだけでは民が従わない場合のためであり、それでも信じないなら、ナイル川から汲んだ水を血に変えるとも言われたのです。ところがモーセは、主がなされたそのことを見てもなお、自分が口べたなことを言い訳とし、「どうかほかの人を遣わしてください…」と言って、主の召しから逃げようとしました(10,13節)。それを聞いた主のうちには怒りが燃え上がりましたが、主は、だったらもういい…とは言われませんでした。主はあくまでもモーセを用いようとし、口べただと言うなら、あなたの兄アロンを立てる…あなたがわたしのことばを雄弁なアロンに語れば、彼があなたの代わりにそれを語る…と言われたのです(16節)。そのようにモーセの弱さを知り、それを受け入れられた主は、それをカバーする助け手を備えられたのです。では、私たちはどうでしょうか…。ともすれば、モーセ同様、私ではなくほかの人に…と、主の召しに尻込みしてしまうのではないでしょうか…。しかし主は、モーセになされたのと同じように、私たちの弱さを知り、助け手を立ててくだるのです。主の力は、そのような私たちの弱さのうちに、完全に現われるのです(2コリ12:9)。主はわたしたちの口とともにあるお方であって、何をいつどのように語るべきかは主が教えてくださるのです。そのことばは人のことばではなく神のことばなのです。自らを主に明け渡し、恐れずにその主のことばを語り続け、神に用いられる者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 3章◇(4月4日)

「神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。…」…出エジプト3:12

3章にはモーセの召命の記事が書かれています。主はホレブ(シナイ山)でモーセの前に現われて語られました。わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見た、働けと追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた、わたしは彼らの痛みを確かに知っている…と(7,9節)。そのように主は、民へのあわれみを表わされたのです。さらに主は、民を救い出す計画を明らかにされました。彼らがしいたげられているエジプトの手から救い出す、広く良い地、乳と蜜の流れる地に彼らを上らせる…と。しかしそこは、誰もいない未開の土地ではないのです。そこには多くの先住民がおり、そこに入るためには、それらの者たちとの戦いは避けて通れないのです(8節)。そして主は、モーセに召しを与えて命じられました。わたしはあなたをエジプトの王ファラオのもとに遣わす、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ…と。しかしそれを聞いたモーセは、戸惑い、恐れ、抵抗しました。「イスラエルの子らを…導き出さなければならないとは」という彼のことばに、それが現われています。モーセにとって、自分の行動が同胞に受け入れられなかった過去のことが、トラウマとなっていたのかもしれません。けれども、そんなモーセをとがめずに主は言われました。わたしがあなたとともにいる。わたしがあなたを遣わすのだ…と。民が救われるのは、あなたの力によるのではない。あなたが民から人望を得ているかは関係ない。あなたは私の口、手足となって用いられるのであって、あなたにとって必要なのは、この私に自らを明け渡して、身をささげることなのだ…と。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる」(ゼカ4:6)」。主イエスも弟子たちに福音の宣教を命じ、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われました(マタ28:20)。私たちも、主からのその召しをしっかりと受け取りたいと思います。

ここに私がおります…と応答することができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 2章◇(4月3日)

「神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」…出エジプト2:24-25

イスラエルの民の存在に脅威を感じたエジプト王ファラオによって、生まれたヘブル人の男子はみなナイル川に投げ込まなければならない、という勅令が出されていましたが、そのような中、あるヘブル人の夫婦に男の子が生まれました。両親はその子を3ヶ月間隠し、なんとか育てようとしましたが、それが困難になったので、その子をパピルス製のかごに入れ、だれかがその子を拾って育ててくれることを願って、ナイル川の岸辺に置きました。するとなんと、水浴びのために川に下りて来たファラオの娘がそれを見つけ、中にいた男の子を見てかわいそうに思い、ヘブル人の子だと確信した彼女は、その子を引取って養子とすることにしました。するとそれを知ったその子の姉は機転を利かせ、ヘブル人の乳母をあてがうことを彼女に提案して認められ、結局、その子は、実の母親の手によって育てられることとなったのです。大きくなったその子は王宮に連れて行かれ、ファラオの娘の息子となり、彼女によってモーセと名付けられました。その後、成人になったモーセは、苦役にうめく同胞に心を痛め、ある日、エジプト人を打ち殺すという衝動的な行動を起こしましたが、同胞たちには受け入れられず、ファラオにも追われた彼は、エジプトから逃れ、ミディアンの地で暮らし、やがて、祭司の娘チッポラと結婚して家庭を築くようになりました。そしてその一連の出来事はすべて、モーセがイスラエルの指導者となるための備えとして、主が計画して導いておられたのです。「イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた」(23節)。「神は彼らの嘆きを聞き…」(24節)、「神はイスラエルの子らをご覧になった…」(25節)。神は、ご自身の民に目を注ぎ、うめきと嘆きを聞かれ、御手を伸べて助け出してくださるお方なのです。そのことを覚えたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 1章◇(4月2日)

「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた。」…出エジプト1:17

カナンの地に住んでいたヤコブは、その地に起こった激しい飢饉のために苦しみ、彼の息子たち、その家族とともに、すでにエジプトで王に仕えていたヨセフを頼り、エジプトの地に移ってそこでの生活を始めました。時が経ち、その時代の人々はみな死にましたが、神はイスラエルを祝福されたので、その群れは増え広がり、エジプトの地に満ち、そこで一大勢力となっていったのです。するとエジプトの王は、イスラエルの民が自分たちにとっての脅威となり、他国との戦いの際に敵側につくことを懸念し、イスラエルの民に重労働を課して苦しめることにしました。ところが、彼の思惑ははずれ、民は弱るどころかますます増え広がる一方であったので、王は民に、より過酷な労働を課して苦しめることにしたのです。また王は、さらにイスラエルの民を弱体化する方策を思いつきました。それは、ヘブル人の女性が出産した際、その子が男子であればその場で殺させるという、恐ろしい考えでした。彼は出産を助ける二人のヘブル人の助産婦にそのように命じましたが、神を畏れていた彼女たちは、その命令を守らず、生まれた男の子を生かしておきました。その結果、民はますます増えていったのです。「神はこの助産婦たちに良くしてくださった。そのため、この民は増えて非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた」(20-21節)。王の命令に逆らうなら、王の怒りを買い、殺されてしまう恐れが十分にありました。しかし二人の助産婦たちは、そのことを恐れず、人のことばに聞き従うことなく、何よりも神を畏れて、神のみこころに従ったのです。そして神はそのことを喜ばれ、彼女たちを御手で守り、祝福してくださったのです。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高いところにかくまわれる(箴29:25)。私たちもそのような者でありたいと思います。

恐れずに主に信頼することができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 28章11-20節◇(4月1日)

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」…マタイ28:20

ユダを除く最初に選ばれた弟子たち11人は、マリヤたちから聞いた主のことばに従って、自分たちの故郷であるガリラヤへ戻り、指示された山に登りました。そしてそこで、よみがえられた主イエスとの再会を果たしました。彼らは、死に打ち勝たれた主をあがめ礼拝しましたが、中には、本当に復活されたのか…と半信半疑の者も複数いました。けれども主イエスは、そのような者たちの態度を非難したり、ご自分を置いて逃げてしまった弟子たち全員を叱責したりすることはありませんでした。彼らを赦し、受け入れ、重要なメッセージを語られたのです。19-20節は「大宣教命令」と一般に呼ばれています。「…しなさい」という動詞の命令形が用いられ、人々を弟子とせよ、バプテスマを授けよ、彼らを教えよと、弟子たちがなすべき働きが具体的に指示されています。そしてその19節の始めには「ですから」とあるのです。それはつまり、前の18節の主のことば、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」という事実が、その宣教命令の根拠だということです。またそれは、宣教に携わる弟子たちは、その主の権威の傘の下に置かれているということです。弟子たちを迫害する者たち、その背後にあるサタンの誘惑や攻撃も、すべてその主の権威の下でなされており、弟子たちは、主の御手の中で守られているのです。そして弟子たちは、その主の御名、権威によって人々に洗礼を授け、悪霊を追い出し、病人に手を置いて癒すのです。蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けないのです(ルカ16:17-18)。だからこそ恐れることなく、主の命令を遂行するのです。主は、宣教の働きを弟子たちにバトンタッチしたのではありません。弟子たちは主の手足、口となって用いられますが、その主体はあくまで主ご自身なのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」というその主のことばは、彼らへの宣教命令の最後に語られたのです。そのことを心に留めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。