瀬谷キリスト教会-平安と希望と喜びに満ちた人生を!瀬谷キリスト教会は横浜市瀬谷区にあるプロテスタントの教会です。

2018年10月 今日の聖書日課

◇聖書箇所: 箴言 11章◇(10月16日)

「このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。」…箴言11:19

今日の箇所だけではありませんが、箴言全体の中で、「正しい者」という表現が何度も出て来ます。その「正しい者」が「悪者」と対比されているのです。みことばを読んであらためて思わされることは、その「正しい者」はいったい誰なのか…ということです。世間で言う正しい者とは、偽りのない人、品行方正な人、間違ったことを決してしない人というように、倫理的、道徳的な意味での「正しい者」のことです。そしてそれは人間の判断基準による正しさであるのです。しかし聖書が言う正しい者とは、何よりも、神との関係においての正しさ、つまり、神に喜ばれる者かどうかが正しさの基準なのです。箴言ではある事柄が別のことばでも表現されますが、正しい者とは、「直ぐな人」、「潔白な人」、「真実な者」、「まっすぐに道を歩む者」、「義を追い求める者」…なのです。それはその人のうちに正しさが元からあるわけではなく、主から与えられる義を追い求め、主のことばに聞き従い、主の道を歩み続ける者こそが神に喜ばれる者であり、主によって正しいとされ、いのちに至るということなのです。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される」(24-25節)。「ばらまいても」という部分を2017訳では、「気前よく施して」と訳しています。また「おおらかな人」という部分は口語訳では、「物惜しみしない者」となっています。神のみこころにかなう者、神の目に正しい者とは、惜しみなく与える者でもあるのです。主も、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。その主はご自身のいのちを惜しみなくささげてくださったのです。それは、私たちの罪を赦し、私たちを神の前に正しい者とし、永遠のいのちに至る者とするためであったのです。キリストにあって私たちに与えられているその救いを感謝しつつ、神の義を追い求める者、キリストに倣う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 10章17-32節◇(10月15日)

「正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない。正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚か者は思慮がないために死ぬ。」…箴言10:20-21

10章から15章までは、対照的な対句が2行に並べられる形式で書かれていきます。10章では正しい者と悪者とが対比されており、その中に、「ことば」に関して述べられている節がいくつかあります。昨日の箇所でも、「正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す」(11節)と書かれています。「舌」、「くちびる」、「口」、「ことば」と、表現は違いますが、その意味するところは、私たちの口から出る「ことば」です。私たちの舌、口は何のためにあるのでしょうか…。食物を摂り、味わうというような生理的な目的は別として、それは第一に、主をほめたたえ、神を礼拝するためです。賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実を神にささげるために与えられているのです(ヘブル13:15)。またそれは、人の徳を高め養うために与えられています。私たちのことばで人々を慰め励ますことができるのです。パウロは「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と言っています。さらに、主に贖われた私たちには、御国の福音を宣べ伝え、キリストにある神の愛と救いを人々に告げ知らせるために、それぞれに舌と口が与えられているのです(マルコ16:15)。しかし、舌は自分の意志では制御できません(ヤコブ3:8)。主に制御していただく必要があるのです。そのために私たちは、知恵であり、いのちであり、人格をもった主ご自身である、神のことばを日々摂り入れ続けなければならないのです。そのようにして私たちの内側が神のことばに満たされるとき、御霊によって心と思いがきよめられ、口から出ることばも、主のみこころにかなうものとされるのです。私のことばと行い、全ての領域を治めてくださいと、主に祈り求めたいと思います。

主がそれぞれのところで尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 箴言 9章◇(10月13日)

「『わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい』と。」…箴言9:5-6

「知恵」が前半に、「愚かな女」が後半に登場します。「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と、どちらも同じことばをもって、町の高いところから人々に招きのことばを掛けて自分のところに来させ、それぞれ用意した食事の席でもてなそうとするのです。しかしその食事とその結果は全く異なっているのです。「知恵」の家には7つの柱が据えられています。聖書では7は完全を表わす数字であり、「愚かな女」の家との違いが強調されています。その家の主人である「知恵」がいけにえをほふり、味を調合して良い香りも加えたぶどう酒を準備し、わたしの食事(「パン」:2017訳)を食べなさい…わたしのぶどう酒を飲みなさい…と招待客に促すのです。そしてそれは、その人々が、わきまえのある者とされ、悟りのある道を歩み、真のいのちに生きるためなのです。ここに、主が与えられる、私たちの霊の糧であるみことばと、私たちのたましいの渇きをいやす御霊が暗示されています。一方、「愚かな女」は、自分で食事を用意しようとせずに、どこからか盗んできた水と怪しげな食事でもてなすのです。そしてそれは招待客をよみの深み、死に至らせるのです。「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」という招きのことばに、知恵が得られると人々は期待しますが、そんなまやかしの食事によってそうなるはずがないのです。ここに、悪魔のさまざまな誘惑と罠が暗示されています。「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハ6:35)。主は今日もいのちに至る食事に私たちを招いておられます。感謝をもってその招きにあずかる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 8章22-36節◇(10月12日)

「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」…箴言8:34

22~31節には、この世界の創造のわざを、御父とともにおられ、なされた御子が、「わたし」として語っていることばが書かれています。「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」と30節にありますが、2017訳ではその参照箇所として、ヨハネの福音書1章1節が挙げられています(3版では詩篇104:24)。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」という深淵な真理が、そして、人となって私たちの間に住まわれた、神のことばなるイエス・キリストが、ここにすでに示されているのです。34節において、「見張り」、「見守って」とありますが、いったいどこで何を、見張り、見守るのでしょうか…。2017訳では「わたしの戸の傍らで」、「わたしの門の柱のわきで見守って」とありますが、そこは、主が臨在されるご自身の宮、神殿を意味しています。そこで私たちが見張り、見守るのは、主ご自身であり、その主の御口から出るみことばです。さらに言えば、私たちの心であり、そこから生まれることばと態度です。それが神のみことばから外れていないか見張り、吟味し、みことばに従う決意を日々新たにする者は幸いなのです。「わたしを見失う者は自分自身をそこない…」(36節)。「わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ…」(同、2017訳)。「神の知恵と訓戒など必要ない…」と、人格をもったことばである神ご自身に背を向ける者は、悪に満ちたこの世で害を受け、傷ついてしまうのです。そしてその痛みをなくそうとして、逆に他者を傷つけたり、快楽におぼれたりするようになってしまうのです。そこにはいのちはありません。それは死に向かう道です。神を求めて見いだす者こそが、そこにいのちを見いだし、主の救いと恵みにあずかることができるのです(35節)。主と自らの心を、日々しっかりと見張りたいと思います。

主の恵みと祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 箴言 8章1-21節◇(10月11日)

「銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」…箴言8:10-11

新改訳2017では、10節の前半を、「金(かね)ではなく、わたしの訓戒を受けよ」と訳しています。お金や財産…ともすれば私たちはそれに必要以上に固執してしまいます。また、経済的な状況が厳しくて苦しいとき、「お金がもう少しさえあれば心にゆとりを持つことができるのに…」と考えてしまいがちです。しかしそれは真理ではありません。主は、「金(かね)ではなく、わたしの訓戒を受けよ」と命じておられるのです。それは金が不要というのでなく、財産を持つことが悪いと言っているのでもなく、それを第一とすべきではない、それよりも、主の訓戒と知恵を受けよ、神ご自身を求めよ、それはどんな宝石よりもまさる尊いものであり、世が与える喜びにまさるのだと言っているのです。「富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる」。18、19節にもそのように書かれています。富と宝物は主とともにあるのです。また誉れと義、すなわち私たちに栄誉を与え、義なる者と認める権威は、ただ主がお持ちなのです。この地上にお金や財産をいくら蓄えたとしても、私たちはそれを持って天に入ることはできません。しかし宝を天に積むことができます(マタ19:21)。そしてその宝とは、神から訓戒と知恵を受け取り、それに従って主のみこころのうちを歩み、この地上での歩みを終えて主のもとに行くとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ…」と主の賞賛を受け、義の冠、栄光の冠を、主からいただくことなのです。永遠を思う心を絶えず持つ者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 7章◇(10月10日)

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」…箴言7:2-3

5節以降には、6章の後半に引き続き、遊女による性的な誘惑への警告が書かれています。それは男性だけが覚えるべきものではないのです。遊女の背後で働いているやみの力、この世の霊、神に敵対する勢力であるサタンによる攻撃に対して、私たちすべての者はしっかりと武装する必要があり、そうでないと霊的な命を奪われてしまうからです(26節)。「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ」と主は命じています(1節)。神の教えであるみことばは、守り行なうだけでなく、自分のうちにそれを蓄えることが求められているのです。なぜなら、生活の中でサタンの攻撃に突然襲われても、うちに蓄えられているみことばを剣として取り出し、敵への攻撃の武器として身を守ることができるからです。「私のおしえを、あなたのひとみのように守れ」とあります。瞳は見るために不可欠な器官であり、それが奪われれば、私たちはまともに歩くことができなくなってしまいます。また瞳は砂などで傷つきやすいデリケートなものであって、その瞳のように私たちはみことばを尊び守るべきなのです。「それをあなたの指に結び…」。私たちが手を動かして何かの作業をするときに、指に何かが結ばれていたらじゃまになるように思いますが、事に当たろうとするときに、絶えず神のことばを意識しそれに従って行動するなら、私たちは神の御旨にかなう真理の道を歩むことができ、主の豊かな祝福と勝利を受け取ることができるのです。また、「あなたの心の板に書きしるせ」とありますが、心と指に神の教えが書かれ、結ばれているということは、私たちの思いと行いがみことばにより支配され、きよめられ、導かれていくということであって、それこそが、神がご自身の民に願っておられるあり方なのです。そのような者として日々の歩みを進めたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 6章20-35節◇(10月9日)

「命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」…箴言6:23

23節のみことばから連想される他のみことば…それはまず、詩篇119篇105節です。そこにはこうあります。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。箴言6章24節以下には、性的不品行に対する警告が書かれていますが、それは、悪しき者による罪への誘惑であり、神がくださるみことばこそが、私たちの歩みを確かにし、どんな罪や不法にも私たちを支配させないよう守るのです(詩119:133)。23節のみことばから連想されるもう一つのみことば…それはヘブル人への手紙12章11節です。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」。懲らしめ…訓戒のための叱責は、訓練のためであり、私たちがそれをしっかりと受けとめるならば、御霊により、主の御旨にかなう者へと変えられるのです。義の実を結ばせ、真のいのちへと導いてくれるのです。そのために神は、ご自身の教え、戒めを、聖書を通し、また親を通して私たちに与えられるのです。そしてそれを、いつも心に、首に結びつけるようにと、すなわち、生活のただ中でそれらのことばを思い起こし、実践し、適用するようにと主は命じておられるのです(21節)。「これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける」(22節)。その表現はいわゆる擬人法としてのものではありません。なぜなら、「ことばは神であった」(ヨハ1:1)とあるように、みことばは人格をもった神そのものであるからです。その神は実際に私たちとともにおられるお方だからです。そのお方の御声を絶えず聴き、それに従って歩む者こそ、主が備えてくださっているいのちと幸いを得るのです。この世にあっても決して闇に迷いこむことはないのです。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 箴言 6章1-19節◇(10月8日)

「なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。」…箴言6:9

6~8節のことばから、イソップ寓話のひとつである、「蟻とキリギリス」の物語が思い起こされます。イソップはこの箴言をヒントにしたのかもしれません。…夏の間、蟻たちは冬の食糧を蓄えるために働き、一方キリギリスは、それを見てばかにするかのように、バイオリンを弾き、歌を歌って過ごしていた…しかしやがて冬が来て、野に食べるものがなくなると、腹をすかせたキリギリスは蟻たちのところを訪れ、食べ物を分けてほしいと頼んだ…というお話です。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ」とみことばは命じていますが(6節)、将来への備えを怠ると、いざというときに困るのです。そのときになってから慌てて動いても遅いのです。蟻のように、夏のうちにできることを行なって備えれば、いつ非常事態が起こっても慌てることはないのです。主イエスは、ともしびを持って花婿を迎える10人の娘を、天の御国のたとえとして話されました(マタ25:1-13)。5人の愚かな娘たちはともしびの油を用意するのを怠り、夜中に花婿が来たときにともしびを整えられませんでした。そして、油を入れて備えていた5人の賢い娘たちに油を分けてほしいと頼んでも、断られてしまったのです。どうせまだ先のことだ…と油断してはならないのです。もう少ししてから…と、先延ばしすべきではないのです。終末の日の到来、御国の完成のときは誰にもわからず、自分が地上から去るのは明日かもしれないのです。すべての営みの時を支配しておられるのは神であって、私たちは、今できることを、勤勉に行なうべきなのです。永遠を思う心を持ちつつ、与えられた今日という一日を、主のみこころに従って歩むことが求められているのです。そして主は、そのために私たちにみことばを与えられ、「これが道だ、これに歩め」(イザ30:21)と促されるのです。主の導きに従順に従う者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 4章◇(10月6日)

「訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。」…箴言4:13

「それはあなたのいのちだから」ということばに心が留まります(13節後半)。主の訓戒、教えを手放すなら、いのちが失われてしまうのです。3章18節にも、「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである」と書かれています。私たちが主の知恵と訓戒を堅く握り続けるなら、神のことば、教えに日々聞き従って歩むならば、主が与えるまことのいのちに生きる者となるのです。しかしそれを侮って手放す者は、暗闇に迷い込み、死の恐怖に脅えるようになってしまうのです。22節には、「(神のことばを)見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする」とあり、23節にも、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。それらの節で「いのち」と訳されているのは、すべて同じヘブル語です。それには目覚め、回復、成長の意味も含まれています。神のことばが、私たちの心とからだとたましいの全領域、存在全体を健やかにするのです。捕われから解放し、病をいやし、私たちを生き生きとさせてくれるのです。そしてそのことばは人となって歩まれたのです(ヨハ1:14)。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:25-26)。この世の表面的な楽しさや華やかさを求めるのではなく、そこに喜びと生きがいを見いだそうとするのではなく、主が与えてくださる知恵と訓戒をしっかりと握り、その教えに従って正しい道筋を歩み続けるならば、その道は暗闇に満ちた悪者どもの道とはまったく異なり、夜明けの光のように、どんどんと輝きを増していくのです。そこには本当の喜びと楽しみと希望が満ちているのです。そのいのちの道は永遠へと続いていくのです。主が備えられるその道をまっすぐ進んでいきたいと思います。

主がくださるいのちを受け取ることができますように。

◇聖書箇所: 箴言 3章1-20節◇(10月4日)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」…箴言3:6

箴言を読むときに気づかされることの一つは、「~せよ」…(そうすれば)…「~となる/~される」と、主の教えとそれに従った結果がセットになって書かれているということです。短いことばの中に、神の祝福にあずかるための真理が示されているのです。「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる」(1-2節)。神に愛され、生かされている喜びをもって、与えられているいのちの尊さを噛みしめながら歩む…。困難の中にあっても、天からの平安に満たされ、「大丈夫…」という確信のうちに一歩一歩前進して行く…。それは主の命令、すなわちみことばを受け取り、その真理の中にとどまる者に与えられる祝福なのです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(5-6節)。主に拠り頼むとは、主に信頼するということであり、また、思い煩わずに、全能者なる神に全面的に委ねるということです。「心を尽くして」…。そうできない自らの弱さを覚えつつも、すべてを置いて主の前に出て、主に叫び求めるのです。そして、王なる主の統治が全領域に及ぶのを認めるのです。そのとき主は、私たちの歩む道をまっすぐにされるのです。それは決して見通しの良い直線の道ではありません。紆余曲折、山あり谷ありの見通しのきかない道です。しかし主が、その道筋をまっすぐにしてくださるのです。足を踏み入れ進むべきところをはっきりと示されるのです。私たちは、その道筋に従って一歩一歩進んでいけば、道からはずれて迷い込んでしまうことはないのです。それこそが確かな道であって、永遠へと続く道なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 2章◇(10月3日)

「思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。」…箴言2:11-12

「わが子よ」という呼び掛けをもって、父なる神は、私たちが耳を知恵に傾け、心を英知に向けるよう促し、その結果として得られる祝福を示しています(1-6節)。知恵と英知は高価な銀のように、宝物のように尊く、私たちが探し求め、探り出すに値するものであり、そうするなら、主を恐れ(畏れ)ることをわきまえ知り、神の知識を見いだす、すなわち、何が良いことで何が避けるべきことなのか、どうすれば主に喜ばれいのちの道に至るのかを、悟ることができるのです。そしてそれは、悪と闇に満ちたこの世にあって、私たちがその影響から逃れるために必須のことです。私たちが自分の努力によって悪を避けようとしても、弱い私たちはいつの間にか巻き込まれてしまうのです。私たちにとって何にもまして大切なこととは、知恵と英知そのものであり、それを与えてくださる方、主の御口から出ることばを日々受け取ることなのです。16節に、「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から」とありますが、2017訳では、「また思慮と英知は、あなたをよその女から、ことばの滑らかな見知らぬ女から救い出す」となっています。ヘブル語の原文を見ても命令形とはなっていません。死をもたらす彼女(18-19節)から守られるのに必要なのは、意志を強く保って、自らの力により身を避けることではなく、主から知恵と思慮と英知を日々いただいて、それにより、地上の悪者ども、そしてその背後に働いている悪魔の誘惑と攻撃から守られること、救い出されることなのです。今の天と地は終末の日に新しくされ、そのとき、悪しき者たち、裏切り者たちは地から引き抜かれますが、主にある正しい者たちは地に住みつくようになるのです。神とともに永遠に生きる者とされるのです(21-22節)。

永遠への希望をもって歩むことができますように。

◇聖書箇所: 箴言 1章20-33節◇(10月2日)

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」…箴言1:23

「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う」(20-21節)。まず教えられることは、「知恵」である主は、広場や街角で、大声で叫んでおられるということです。人々が大勢集まっているその場所が騒々しくて、ご自身の声がかき消されそうになってしまうからです。しかし、その主の声は人々の元には届きません。聞こえないのではなく、聞こうとしないからです。主が叫んでいることは、バプテスマのヨハネや主イエスのように、「悔い改めなさい」ということです。それは人々のあり方を正そうとするメッセージです。「叱責」ということばが繰り返されていますが(23,25,30節)、原語であるヘブル語の意味は「懲らしめ、訴え」です。それは、叱り飛ばす、怒鳴りつけるというのではなく、むしろ、同じ節の中にあるように、「忠告」なのです。その主の叱責、忠告に心を留める者は幸いです(23節)。2017訳では「わたしの叱責に立ち返れ」となっています。主の道をはずれてしまっても、罪を犯してしまっても、その主の忠告を聞き入れ、自らのふるまいやことばを省み、その過ちを認めて主に立ち返るなら、主はただちに、ご自身の霊を私たちに注ぎ、悪からきよめてくださるのです。真理の光で照らし、みことばを悟らせてくださるのです。私たちは、この世にあって、喧噪の中を歩んでいますが、そこを離れ、静まって主の御声を聞くことが必要なのです。そして自らのあり方への主の忠告を聞いて素直に認め、日々、主に立ち返り続けることが求められているのです。そのように、たとえ主の道からはずれても、歩みを修正し、主に立ち返り、主の御声に聞き従い続けるならば、わざわいを恐れず、安らかに住まうことができるのです(33節)。そのような者とされたいと心から願います。

霊の耳を主が開いてくださいますように。

◇聖書箇所: 箴言 1章1-19節◇(10月1日)

「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」…箴言1:7

今日からしばらくの間、箴言を読んでいきます。「箴言」という原語には「…のようだ」という「比喩」の意味がありますが、実際には、知恵のことばが集められた書のことです。旧約聖書では、ヨブ記、伝道者の書とともに、「知恵文学」に属しています。その目的は、イスラエルの民が知恵と訓戒を学び、知識と思慮を持ち、洞察を深めるためにあります。7節のことばが心に留まります。私たちの主である神を恐れる(畏れる)ことが知識の初めなのです。知識とは単に多くのことを知っているということでなく、物事の本質を知るということであり、それを初めとして、人生の問題に対処するための知恵が与えられ、悪の道から守られるための訓戒を受ける者となるのです。主を恐れることがどうしてそのことにつながるのか…。それは神がこの世界のすべてを造られたからです。この神のうちにこそ、真理と光といのちがあるからです。しかし人間は、自分が正しい、自分は知っていると、いつでも自分の考えで事を進めようとするのです。神が与えておられる知恵を訓戒を蔑み、素直にそれを受け取ろうとはしないのです。なぜならそれは、自分がいかに無知で足りないかを主の前に認めることだからです。そして、主の知恵と訓戒を拒むそのことこそが罪なのです。私たちは、創造者、全能者である主の前にへりくだり、自らの知恵ではなく、主の知恵により歩むべきなのです。また、神によって立てられている両親や指導者を敬い、その者たちの訓戒のことばにも従うべきなのです(8節)。この世は多くの知識と知恵を私たちに吹き込んで来ます。しかしそれは罪人たちによる惑わしかもしれないのです。それらを鵜呑みにして従ってはならないのです(10節)。私たちが絶えず心に留めるべきは、主からの知恵と訓戒、すなわち聖書の教えであり、一つ一つのみことばなのです。みことばの真理の光に照らされて歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

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