瀬谷キリスト教会-平安と希望と喜びに満ちた人生を!瀬谷キリスト教会は横浜市瀬谷区にあるプロテスタントの教会です。

2019年2月 今日の聖書日課

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 3章1-14節◇(2月12日)

「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」…ガラテヤ3:14

3章でも引き続き「信仰による義」を説くパウロは、ユダヤ人の祖であるアブラハムについて語ります。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました」と書かれていますが(6節)、それは、彼が主に連れ出されて満天の星を見上げたとき、「あなたの子孫はこのようになる」と言われ、彼が主を信じ、主がそれにより彼を義と認められた、その出来事を指しているのです(創世記15:5-6)。さらにパウロは、主がアブラハムとの間に結ばれた、契約のことばを示しています(8節)。創世記12章3節、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。ここで「すべての民族」がイスラエルの民以外の民、すなわち異邦人を含んでいることは明白です。新改訳2017は「すべての異邦人が…」と訳しています。「信仰による義」は、パウロが考え出した新しい教理、神学ではありません。また、イエス・キリストによって人々に伝えられた、新しい神の教えでもないのです。パウロは、星空を見せられ、主を信じて義と認められ、全人類の祝福の基とされたアブラハムに言及して、神がアブラハムに語られたことばに読者が心を留め、真理に霊の目が開かれるようにと願っているのです。私たちは、信仰によって生きる異邦人です。血肉ではなく信仰によるアブラハムの子孫であり、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者なのです。そしてそれは、律法ののろいを受けてくださった(13節)、キリストによってもたらされた神の驚くべき恵みであり、そのキリストの御霊を、私たちは今受けているのです。そのような者とされていることを感謝したいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 2章11-21節◇(2月11日)

「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」…ガラテヤ2:16a

パウロはペテロに面と向かって抗議しました。それは彼が、アンテオケ教会の異邦人キリスト者と食事をともにして交わりを持っていたにもかかわらず、ある人たちがエルサレムから来たのを知ると、割礼派の人たちから非難されることを恐れて、異邦人から身を引くようになってしまったからです。ユダヤ人にとって異邦人は「罪人」であり(2:15)、一緒に食事をすることはあり得なかったのです。それは律法の規定に反する行為だったのです。ペテロに向けられたパウロの憤り、それは何よりも、その行動が、キリストの福音が意味のないものとされ、他の人々をも引き込むこととなっていたからです。13節には「本心を偽った行動」とありますが、その部分の直訳は「偽善を行なう」ということです。キリストを信じているというその心とは裏腹に、割礼派、つまり異邦人にも割礼を強要する者を恐れ、異邦人との食事を避けようとするのであれば、それは信仰と行動の不一致であり偽善ではないか…と。「肉なる者はだれも、律法を行なうことによっては義とみとめられないからです」(16節c、2017訳)。パウロはそのように明確に語っています。すべての人は罪人であって、神からの律法の要求を自分の頑張りによって満たすことはできないのです。私たちは律法を守り通すことによっては神から義とされず、律法を全うされたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされるのです。神の前に罪のないものとされるのです。ここで「信仰によって義とされる」という意味をはき違えると、信じるという「行い」を頑張ることになってしまいますが、そうではないのです。それは、私たちの義認の根拠が、律法を全うされたキリストにあるということなのです。律法に死んだ私たちがキリストにあって生きる者とされた…。それがパウロが伝えようとしていることなのです(19-20節)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章11-24節◇(2月9日)

「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき…」…ガラテヤ1:15-16

15節は「けれども」ということばで始まっています。パウロはそのとき、かつて神の教会、キリスト者たちを激しく迫害し滅ぼそうとしていたにもかかわらず(13節)、ダマスコへの途上でまばゆい光に照らされて倒れ、「なぜ私を迫害するのか…」というキリストの御声を聞き、そのキリストの十字架と復活による罪の贖いという、驚くべき神の恵みが御霊により啓示された出来事を、ありありと思い返していたに違いありません。その「けれども」に続いて、パウロは告白しています。神は、自分が生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださっていたのだと…。2017訳では、「母の胎にあるときから私を選び出し」となっています。パウロは言わずにはおれなかったのです。そのように、人には測り知れない神のご計画の中で、自分はこの世に生まれて導かれてきた…。そして、律法学者からユダヤ教の教えを学び、それに精通し、伝承することに人一倍情熱を燃やしてきた自分が、なんと、迫害していたキリストによって捉えられ、今度はキリストの福音を伝えるため、キリストの使徒として、今もこうして異邦人の元へ遣わされているのだ…すべてが主にあって益とされているのだ…ということを。「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」。詩篇の作者もそのように主に告白しています(詩篇22:10)。私たち一人ひとりもまた、母の胎にあるときから神に愛され、選ばれ、主にあって生きる者となるよう、あらかじめ定められていたのです。それは人知を越えた奇しい神のご計画であって、私たちの人生は、決して、自分が計画し、やりたいように歩むものではないのです。神の御手の中で導かれ、主に用いられるものなのです。そのことを覚え、すべてを委ねる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章1-10節◇(2月8日)

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」…ガラテヤ1:8

パウロは「驚いています」と言っていますが(6節)、原文ではそのことばが文頭にあります(…2017訳)。その驚きがいかに大きいかを強調しているのです。なぜなら、手紙を宛てたガラテヤの諸教会の人々が、キリストによる福音を信じて救われたはずなのに、その福音から急に離れて、それを見捨てて、「ほかの福音」に移って行こうとしているからです。もちろん、「ほかの福音」とパウロが呼ぶその教えは偽りのものであり、神から出たものではありません。それを信じて従っても、そこにはいのちはないのです。それは「福音」…良き訪れの知らせではないのです。それなのにその教えに多くの人々が心を奪われ、そちらに移って行こうとしているのを見て、パウロは、皮肉を込めてそう呼んでいるだけなのです。そのようにガラテヤの人々を惑わしてかき乱す者に対し、パウロは強い憤りを感じて、「のろわれるべきです」と、強い表現で非難し、それを繰り返しています(8,9節)。いかにパウロが、神の恵みによって与えられた福音を守ろうとしているか、福音をないがしろにしようとする者、その背後にある悪魔の思うままにはさせない…という、断固戦おうとするパウロの思いをそこから感じます。「ほかの福音」…。それは、キリストの福音以外のもので、私たちの心を満たそうとすることであり、人生を生きていくための力としようとすることであり、キリストの福音は不要だと思わせるすべてのものです。そしてそれは、いつの時代にも存在しているのです。私たちもパウロに倣い、それを断固として否定し、拒否し、自分や人々がそれらに惑わされることがないように、祈りをもって、キリストの福音を宣べ伝えることによって、立ち向かっていく者でありたいと思わされます。

それぞれの働きを主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 24章◇(2月7日)

「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」…出エジプト24:8

20~23章には、モーセを通して主が語られた、十戒を初めとする律法が書かれています。神はイスラエルの民との間に、ご自身の契約を結ぶためにそのように準備を進められたのです。モーセは、語られた主のことばをことごとく書き記し、全焼と和解(交わり:2017訳)のいけにえをささげ、その血の半分を祭壇に注ぎ、契約の書を読み上げ、それに同意した民に血の残りを注ぎかけました。ついに神と民と間に契約が締結されました。その後、モーセとアロン、ナダブとアビフ、70人の長老たちはシナイ山に上っていきましたが、驚くべきことに、彼らはそこでイスラエルの神をはっきりと見たのです。しかもそこで食べたり飲んだりしたのです(10-11節)。当時、神を見るということは死を意味しました(出33:20)。しかし彼らは確かに神の御足を見たとあります。神が人と同じ姿をしておられたということです。それは受肉前のキリストの顕現にほかなりません。「主があなたがたと結ばれる契約の血である」…。モーセのこのことばから、過越の食事の席において、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と弟子たちに言われた、主イエスのことばが思い起こされます。そこでも主は弟子たちと食事をともにされたのです。イスラエルの民はそのように契約を結ばれたのに、やがて偶像礼拝や多くの罪をおかすことになります。それは初めの人、アダムが犯した罪のゆえであり、私たち異邦人を含む全人類のその罪を赦すために、イエス・キリストは自らいけにえとなって血を流され、私たちとの間に新しい契約を結んでくださったのです。そのように、キリストにあって神の民とされたことを覚え、「聞き従います」(7節)と告白する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 23章18-33節◇(2月6日)

「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」…出エジプト23:20

神は、モーセを通して、イスラエルの民に、あなたの前に「使い」を遣わすと言われました。その使いは荒野での道中を守り、ご自身が備える約束の地、カナンの地に導きいれるのです。そして神は、その使いに心を留めるように、先に立って民を導く声に従順に聞き従うようにと命じられたのです(21節)。その使いが具体的に何を指すのかは不明です。神が立てられた指導者であるモーセのことなのか、それとも御使いのような存在を意味しているのか…。21節には「わたしの名がその者のうちにある」、「その者はあなたがたのそむきの罪を赦さない」とあるので、ヤーウェなる神ご自身やその教えを擬人的に表わしているのかもしれません。あるいは、三位一体なる神の御子としての姿がすでにここで暗示されているのかもしれません。いずれにしても、その使いは、主が民のために遣わしてくださる導き手であり、神のみこころを語られ教えられる存在であり、民がその御声に従順に聞き従ってついていくならば、神が求められることを行なう者となるならば、神ご自身がカナンの地の先住民の敵となられて、彼らをそこから追い払い消し去ってくださるのです。そのようにしてイスラエルの民は、自らの力ではなく、主にあって、確かに勝利することができるのです。私たちもまた、天の御国という約束の地に向かい、この地上という荒野を進み続けている主の民です。そして主は、イエス・キリストをご自身の使いとして、私たちの導き手として遣わしてくださったのです。キリストは良き牧者です。この方が導く声に聞き従い、しっかりとついていく者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 23章1-17節◇(2月5日)

「年に3度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」…出エジプト23:17

14-17節にはいわゆるイスラエルの3大祭りのことが書かれています。主がそれらの祭りを、「わたしのため」守るよう命じたとあります(14節)。日本においても多くの伝統的な祭りがありますが、人々はそれらを神から命じられたものとして、行ない続けているわけではありません。先祖代々伝わってきた慣習としているだけです。しかしイスラエルでは現代でもその3大祭りを、神から命じられたものとして、神のために、その祭りの中心に神をおいて行なっているのです。主はそれらの祭りを通し、ご自身がなされたことをイスラエルの民が覚えるようにと意図されました。種を入れないパンの祭りとは過越の祭りのことです。イスラエルの民に種のないパンを食べるよう命じ、かもいと門柱に血が塗られていない家を見て、わざわいが過ぎ越すようにされたのは主であり、その決定打によって民はエジプトを脱出したのです。そのことを思い起こすのが過越の祭りです(15節)。また、初穂の刈り入れの祭り(7週の祭り)も、神が最初の刈り入れをさせてくださったことを覚え、それに続く収穫を先取りして主に感謝するときです。後に五旬節の日の不思議な出来事として、人々に聖霊が降られたのもこのときだったのです(使徒2:1-4)。さらに、収穫祭は仮庵の祭りとも呼ばれます。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野をさまよい、天幕生活をしたことを覚えるものです(レビ23:39,43)。そのように常に神のなされたみわざを覚え記念する…。主の愛と恵みとあわれみに感謝して賛美をささげる…。これからも守り導いてくださる主への信頼を新たにする…。大きな祭りは年に3回ですが、イスラエルの民は常にその心を持っているのです。そしてその心は、主の民とされている私たちにも求められているのです。

主のみわざを常に覚えることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 22章◇(2月4日)

「…彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。」…出エジプト22:27

呪術を行なう者、獣と性的行為をする者、ほかの神々にいけにえをささげる者に対する、厳しい規定・処罰が記されています(18-20節)。そのような者は殺されなければならないのです。現代における倫理・道徳観からすれば、それは行き過ぎだということになるでしょう。しかし、神は義であり聖なるお方であって、そのようなご性質に逆らって歩もうとする者を、そのまま見過ごすことはなさらないのです。神を神とせず、神でないものに心奪われる…そのような者への怒りは決して小さくないのです。その規定に続き、在留異国人、やもめ、みなしご、貧しい者…いわゆる弱者を苦しめ、悩ませてはならないという戒めが書かれています(21-27節)。「わたしは情け深い」と神ご自身が語られたことに心が留まります。主は、聖いお方であると同時に、愛とあわれみに満ち、情け深いお方なのです。1-17節までは償いの規定が記されていますが、それによれば盗人のいのちさえ守られるのです。また、自分がかつて苦しみを受けた者なのだから、相手の苦しみを理解できるはずだという思想が、奴隷の人権を尊重せよとの教えと同様に(21章)、在留異国人に対しても適用されています(21節)。主イエスは、律法は2つの戒めに集約できるとして、人々にそれを教えられましたが(マタイ33:37-40)、それは、あなたの神である主(だけ)を愛せよ、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、という戒めです。そしてそれは言うまでもなく、私たちも心に留めて日々実行すべきことなのです。神以外のものに心奪われてはいないか…人々への愛とあわれみの心をもって真実に関わり、実際的な助けをし、主の恵みを分かち合っているか…神のみこころにかなう者かを点検したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 21章1-17節◇(2月2日)

「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は6年間、仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる。」…出エジプト21:2

1-11節は奴隷の扱いに関する定めです。ヘブル人の男性を奴隷とする場合には、その主人は7年目には彼を自由の身とし、しかも無償で去らせるようにと命じられています。申命記によれば、さらに奴隷を去らせるときには必ず羊や穀物を分け与えるようにとさえ、命じられているのです(申命15:13-14)。また女性の奴隷はその弱い立場が守られるべく、保護が加えられました。しばしば主人は自分の妻として彼女を迎え入れましたが、彼女が主人の気に入らなくなったとしても、外国に売り飛ばすことはできなかったのです(8節)。また他の女性を迎え入れた場合であっても、彼女の衣食住を満たすよう求められたのです(10節)。当時、奴隷は、イスラエル以外の国々においても、貴重な労働力として重宝されていましたが、イスラエルに与えられた律法が、その奴隷の人格を尊重し、手厚く保護しているというのは驚くべきことです。それは、神の目には奴隷は単なる「労働力」ではなく、7日目の安息にあずかり、神を礼拝すべき民であり(出エジ20:10)、ご自身の愛とあわれみを受けるべき者だからです。そしてそれは、イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷であったことと決して無関係ではありません。「あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる」と主が言われるとおりなのです(申命15:15)。自分も奴隷であったから奴隷を思いやることができる…。「…私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる…」とパウロも言っています(2コリ1:4)。主に贖われた私たちが、その役目を担う者とされていることを覚えたいと思います。

主の祝福を分かち合う者とされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 20章◇(2月1日)

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」…出エジプト20:3

神はシナイ山でモーセに律法を授けられました。「十戒」と一般的に呼ばれている大切な戒めです。主は、それをモーセに告げた際、まず最初に、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と言われ(2節)、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(2017訳)と言われました。さらに主は、偶像を造ってはならない、それらを拝んではならない、それらに仕えてはならないと告げたのです(4,5節)。神を神とする。神でないものを神としない…。当たり前のようにさえ思えることを主は真っ先に語り、何よりもそのことを心に留めるよう命じられたのです。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない…という戒めも、もちろん大切です。しかし、世界を造り、イスラエルの民を奴隷から解放し、エジプトから連れ出された偉大な神のみを神とすること…それを最優先、最重要とせよと神は言われたのです。それは、人はすぐに神でないものを神とするからです。実際、イスラエルの民は偶像礼拝を繰り返しました。目に見えるものに頼ろうとする誘惑は大きいのです。そして、だからこそ、神との関係を確かで太いものとし、さまざまな罪の誘惑が入り込む余地がなくなるほどに、どんなときにも神を畏れ、神を愛し、神の教えに聞き従う者とするために、主は民に、エジプトから連れ出されたときの奇しいみわざを思い起こさせ、そのことを現したご自分にのみ心を向けるよう命じられたのです(20節)。神を神とする。神でないものを神としない…。それは、今を生きる私たちにとっても、最優先すべき教えです。お金、仕事、趣味、家族や友人とのつながり、…。それらが自分の中でどのような位置を占めているのか、神を神とし、神の国とその義を第一に求めているかを(マタイ6:33)、自らに問いかけて吟味したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

お気軽にお問い合わせください TEL 045-302-2937

  • Facebook
  • Hatena
  • twitter
  • Google+
  • LINE
PAGETOP
Copyright © 瀬谷キリスト教会 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.