◇聖書箇所: 詩篇 47篇◇(1月31日)

「まことに神は全地の王。ことばの限りほめ歌を歌え。」…詩篇47:7(2017訳)

どのようにして神を賛美し礼拝をささげるのか…。みことばは具体的にそのあり方を教えています。「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ」(1節)。おごそかな雰囲気の中で静かに神をほめたたえる…。それも神を礼拝するあり方のひとつに違いありません。しかし、「手をたたけ」、「神に叫べ」と、より積極的に、賛美のこころを行動に表すようにと、詩人はすべての国民に対して命じているのです。なぜなら、「喜びの声をあげて」とあるとおり、自分がどこからどのようにして贖われたかを思うとき、湧き上がる喜びがそのような行動として表れるのは、私たちにとってごく自然のことであるからです。「神は上られる。喜びの叫びの中を。主は行かれる。角笛の音の中を」(5節、2017訳)。喜びの叫び、角笛の音…。それは言うまでもなく、神を賛美し礼拝をささげる民からのものであって、それらが満ちている中を神は上って行かれるのです。ヘブル人への手紙の作者は、神への賛美は、いけにえであり、御名をたたえるくちびるの果実だと言っていますが(ヘブル13:15)、神はそのいけにえ、果実を求めておられ、それを大いに喜ばれるのです。「神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる」(8節)。統べ治めるとは、王として主権をもって支配することです。しかしそれは、権威を振りかざすことではありません。民が平和に安心して暮らすことができるように、さまざまな必要が満たされ豊かさを味わえるように、弱く小さな民一人ひとりを愛し、保護し、養うべく、心を配り、目を注ぎ、声に耳を傾けるということなのです。そのような王が全地の王、わたしたちの王なのです。その王にほめ歌を歌えと、詩人は繰り返しています(6,7節)。喜びをもって手をたたき、声をあげて主に叫び、ことばの限り王へのほめ歌を歌う者でありたいと願います。

誉れと賛美が主にありますように。 

◇聖書箇所: 詩篇 46篇◇(1月30日)

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」…詩篇46:1

神はわれらの避け所…。避け所とは、隠れて身を守るところ、シェルターです。使われている原語には要塞という意味もあります。襲ってくる敵や、身に降りかかるあらゆるものから、私たちのからだ、心、たましいを守り防御してくれる、そこに逃げ込めば助かるところ、それが神なのです。神はわれらの…また力、苦しむときそこにある助け…。隠れて身を避けるという消極的な意味だけでなく、力を受け、助けの手に支えられて苦しみから抜け出し、再び力強い歩みへと戻っていく…。そのような積極的な意味においても、神は私たちのうちに働かれるのです。2節以降において、詩人は、揺らぐもの、変わるものと、揺らがないもの、変わらないものとを対比させています。地は変わり、山々が揺れ動き、水が立ち騒ぎ泡立つ…。国々も立ち騒ぎ、諸方の王国も揺らいでしまう…。地震、津波、洪水といった自然のもたらす脅威、また、テロ、戦争、独裁といった人間が引き起こす脅威により、私たちは恐れ、おじ惑い、右往左往してしまうのです。しかし詩人は、そのような揺らぐものにではなく、揺るぐことのない天の都に目を留めています(4節)。4節の「川」とは、後にヨハネも見たものであり(黙示22:1)、その都の中央を流れているいのちの水の川のことです。その流れがなぜ神の都を「喜ばせる」のか…。それはその川の両側にあるいのちの木の実を食べて、永遠に生きる聖徒たちが神をほめたたえているからです。人々の救いと回復こそが神の切なる願いだからです。その幻を見せられた詩人は告白しています。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」(7,11節)。揺らぎ、移り変わる、地上のものに信頼するのをやめ(10節)、永遠に変わらない、避け所、とりでである神に拠り頼むなら、私たちは揺るがされず確かな歩みをすることができるのです。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 45篇◇(1月29日)

「娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。」…詩篇45:10-11

この詩篇は王の結婚を喜び祝う歌だとされています。詩人は、王の麗しさ、優しさをまずたたえ(2節)、真理と柔和と義のために敵と戦い勝利を収める王が、その王座を永遠に保つのだと告白しています(6節)。そのような王を神が愛し、喜び、油を注がれる…(7節)。本編の王は、来たるべき油注がれた王としてのメシア、イエス・キリストを予型として表しているのです。その王妃として迎えられようとしている娘に対して、詩人は、「あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ」と告げています。夫となる王にだけ思いを寄せよ…と。ルツがナオミに告げたことばが思い起こされます。「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1:16)。その前の節には、ルツの弟嫁のオルパは、自分の民とその神々のところに帰って行った、と書かれています。しかしルツは、同じく異邦人であるにもかからわず、イスラエルの神を私の神とすると告白したのです。「そうすれば 王はあなたの美しさを慕うだろう」(11節、2017訳)。顔立ちが整って容姿が麗しいから、あるいは、きらびやかな衣装で着飾っているから、王は王妃の美しさを慕うのではないのです。王妃が夫である王だけを、「私の愛するいとしい方…」と真実に愛する態度を、王は「美しい」とされるのです。この王と王妃は神とイスラエルの関係です。そしてまた、キリストと聖徒たち、教会との関係でもあるのです。キリストに贖われた神の民、キリストの花嫁として、この世に未練を感じてそこに戻ってしまうことなく、夫たる主だけにひたすら心寄せたいと切に願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 44篇◇(1月28日)

「これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした。」…詩篇44:17

詩人は、父祖たちの時代に神がなされた偉大なみわざを思い巡らしています(1-4節)。それは、代々、父から子へと語り継がれて来たことです。神は力強い御腕をもって異邦の民を追い払い、そこにイスラエルの民を住まわせられたのです。そこは主が与えられた約束の地カナンであり、荒野を歩んだ民は多くの苦しみを味わいましたが、神の愛と真実は決して変わらなかったのです。詩人はその神に賛美をささげています(8節)。その詩人は一転して神を非難しています(9-16節)。それまでの調子とは対照的な描写がされています。敵との戦いに敗北して略奪されてしまった…。そしる者やののしる者にはずかしめられた…。詩人はそれが、自分たちを神が拒んだゆえであり、神が物笑いの種としているのだと感じたのです。しかしそのような中で詩人は再び思い巡らします。神がなされた偉大なみわざ、神の愛と真実を…。そして、たとえ今の状況が喜べないものであっても、目に見える現実からは希望が生まれて来なくても、神よ、私たちはあなたを忘れることはありませんと、詩人は、その目を、天におられる主に転じたのです。そして与えられた契約、約束のことばを無にしない、そこに立ちますと、信仰の告白を新たにしたのです。なおも詩人の心は揺れ動きます。しかし彼は主に、非難の声ではなく祈りの叫びをあげたのです(26節)。私たちもまた、試練と困難の中で同じ思いになります。しかし神は決して私たちを見捨てることはないのです。神の愛と真実は永遠に変わることがないのです。主の契約、約束のことばは必ずその通りになるのです。詩人のように、私たちはあなたを忘れませんと告白し、その主に助けと救いを求める者でありたいと願います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 42篇◇(1月26日)

「わがたましいよ なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ 私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い 私の神を。」…詩篇42:11(2017訳)

のどの渇きを覚え、谷川の水を求めているのに、すぐにはおりられずに苦しみあえいでいる鹿…。その様子を見て詩人は、自分もまた同じだ…困難な状況の中でたましいの渇きを覚え、それがいやされるようにと求めているのに、なかなかその願いどおりにはならない…いつ神の御前に出られるのか…と思ったのです。食欲は失せ、止まらない涙が頬を伝わり口に入る…人からは、おまえの神はどこだ…とあざけられる…。しかしそんな中、詩人は思い起こしたのです。喜びと感謝の声をあげ、祭りを祝う人々とともに、神の家へと進んで行ったときのことを。その祭りとは自分たちが楽しむためのものではなく、神殿に臨在される主の御名をほめたたえ、偉大な救いのみわざをあがめるための礼拝です。その神を待ち望めと、自らのたましいに向かって、奮い立たせるような思いで、詩人は命じたのです。「私はなおも神をほめたたえる」。「なおも」という表現に心が留まります。目にうつる現実には希望がない…感情もまた大きく揺さぶられて否定的になってしまう…しかし、そのような中でも、なおも、偉大な神、真実な神、変わることのない神をほめたたえると、詩人は、心に絡みつく思いを振り切るようにして、天を仰ぎ見つつ、主の前に告白しているのです。私たちもまた、しばしば同じような心境にさせられます。しかしこの詩人がしたように、現実に目を奪われず、感情に流されず、「神を待ち望め」と、自らのたましいに命じるべきなのです。「私はなおも神をほめたたえる」と、主に告白すべきなのです。忍耐と信頼をもって、主を待ち望み続ける者とされたいと心から願います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 19章◇(1月25日)

「…あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」…出エジプト19:5-6

モーセは人々に主からのことばを告げました。それは、主の声に聞き従い、主の契約を守るなら、すなわち主から与えられたことばを心に留めて、主の教えを守り通すならば、イスラエルの民は、主にとって宝となり、祭司の王国とされ、取り分けられた聖なる国民となるという約束でした。主はアブラハムと契約を結ばれ、あなたの子孫をおびただしく増やして祝福すると言われましたが、その契約は後の世代にも引き継がれて行き、モーセの時代にそのように明確に語られたのです。そして、その選ばれた民への主の特別な守りと祝福は、今のイスラエルにも確かに与えられているのです。さらにそれは、キリストによって異邦人へと拡げられ、私たちも主にあって、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民とされているのです(1ペテロ2:9)。しかしそれは機械的になされたのではありません。主は「まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」と、はっきり語っておられるのです。しかし、イスラエルの民はしばしば主の教えを破り、他の神々や偶像を拝みました。人間は神の教えを守り通せないのです。だからこそ、神と人との間に立ち、その罪の赦しをとりなす祭司の存在が不可欠であり、この19章から少しずつ前面に出てくるのです(22,24節)。大祭司キリストは、ご自身をいけにえとしてささげられ、罪ある人間が神に赦されるようにしてくださいました。そしてそのキリストに贖われた私たちもまた祭司とされ、神と人との間に立ってとりなす使命を受けているのです。残りの民が神の救いと祝福にあずかることができるよう、その使命をしっかりと果たす者でありたいと願います。

神の民としての歩みが導かれますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 18章◇(1月24日)

「…あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。」…出エジプト18:22

シナイ山に近づいたモーセのところに、モーセの妻チッポラと二人の息子を連れたしゅうとイテロが、紅海の対岸のミデヤンの地からやって来ました。彼は、主が民になされたみわざを聞いていましたが、モーセの口からもあらためてその証しを聞かされて、ミデヤン人が信じる神とは違うイスラエルの神を、「主はほむべきかな…主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました」と告白したのです。そのイテロは、モーセがたった一人で民の訴えを聞き、争いをさばき、神の教えを民に伝えているのを見ました。そして、モーセが疲れ果ててしまうことを危惧し、民の中から敬虔で誠実なリーダーたちを任命して、小さい事件は彼らに委ねるようにせよと助言したのです。モーセはイテロの助言を受け入れて従いました。主がイテロを通してそれをモーセに実行させたのです。「あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい」(20節)。イテロのそのことばは、モーセが担うべき本来の役割が、重荷をしょい込んで妨げられてはならないということです。私たちも、これは自分がやらなくてはいけないことだ…と、何でも一人で抱え込んでしまうことがありますが、結局疲れ果ててしまい、周りにも悪影響を及ぼすのです。「責任を果たす」つもりでも、実はそうなっていないのです。初代教会においても同じようなことがありました。食事の配給で一部の人がなおざりにされていたため、弟子たちは御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち7人をリーダーとして任命し、自分たちはもっぱら祈りとみことばの奉仕に励むようにしたのです(使徒6:1-6)。実際的なことに忙殺されずに霊的なことを優先させること。一人に負担がかからないよう複数で重荷を担い合うこと。それらは私たちにも求められている大切な教えなのです。置かれているところでそれを実践したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 17章◇(1月23日)

「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」…出エジプト17:11

レフィディムまで来た民は、飲む水がなかったので、なぜエジプトから連れ上ったのか、私たちをここで渇きで死なせるためか…と、モーセを非難しました。それはモーセを石で打ち殺さんばかりの激しさでしたが、荒野を旅して喉がからからに渇いていた民にとって、水が飲めないのは致命的といえる問題だったのです。主はモーセに、持っている杖でホレブの岩を打つなら岩から水が出ると言われ、そのとおりになりました。主はまたもや民の必要を奇蹟的に満たされたのです。しかし民はその主に拠り頼もうとはしませんでした。主は本当にいるのか…と、主を試みたのです(7節)。しかしそれは、主が民に与えた試みだったのであり、水がないという事態に直面した彼らは何よりも、水をくださいと、主に祈り求めるべきだったのです。その主は、海を分け、うずらを与え、マナを毎朝降らせ、民を守り、導き、養って来られた方であったのです。そのことを通してモーセは、主に祈り求めることの大切さ、また、人の思いを越えた不思議な方法により、必要が満たされるということをあらためて学びました。そして、アマレクとの戦いにおいては陣頭に立たず、神へのとりなし手として、後方で手を上げたのです。その行為は明らかに祈りを意味しています(詩篇63:4)。またそのモーセを両側からアロンとフルが支えたのです。「手をささえた」とありますが、二人はモーセを励まし、その祈りに心を合わせて、ともに主に求めたのです。主は祈りに答えてイスラエルに勝利を与えられました。私たちも、さまざまな試練や戦いの中に置かれますが、神は本当にいるのか…と疑って不平を言うのではなく、どんなときにも主に拠り頼んで祈り求め、主の御力の現われによる解決と勝利を待ち望むべきなのです。祈りの手を下ろさずに上げ続ける者でありたいと願います。

主の御手により支えられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 16章22-36節◇(1月22日)

「それなのに、民の中のある者は7日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。」…出エジプト16:27

主がイスラエルの民に与えてくださったパンは、ひとり当たり1オメルずつと決められていました。余分に集めたとしてもそれは有り余ることなく、少なく集めても足りないことはありませんでした。そしてそれは毎日、朝ごとに与えられ、前日のものは残しても腐ってしまったのです(16:20)。6日目には2オメル集めました。2倍の量が与えられ、翌日まで腐らずに保存しておくことができたのです。それは7日目が主の聖なる安息の日だからです。その日は、神が創造のわざをいっさい行なわれず、特別な日として休まれ、聖別され、祝福されたように、パンを集めずにそれぞれの場所にとどまって安息し、偉大な神のみわざを覚え、主をあがめる日なのです。それにもかかわらず、民の中のある者たちは、そうは言っても少しぐらいはあるだろうと勝手に考え、7日目に集めに出ましたが何も見つかりませんでした。主はそれを見て、なぜ私の教えを守ろうとしないのか、安息を与えたことに心せよと言われたのです(28,29節)。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジ20:8)。主はシナイ山でモーセに、あらためて十戒の一つとして、そのことを民にきちんと守らせるようにせよと命じましたが、それは、神の民とされている者たちにとってだけでなく、神により造られたすべての者が覚えるべきことなのです。それが「非常に良かった」とされた本来の姿に回復され、神の祝福にあずかるために必要なあり方だからです。キリストによって贖われた私たちは、主が復活された週の初めの日曜日を安息日として取り分けています。その日は単に休む日ではなく、罪の奴隷から解放され、神の恵みをいただき、守られ養われていることを感謝し、必要を満たしてくださる主をあがめる特別な日なのです。すべての人が主の安息の恵みにあずかるよう願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 16章1-21節◇(1月21日)

「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。」…出エジプト16:6b-7a

水がなくてつぶやいたイスラエルの民は(15:24)、シンの荒野でモーセにまたもやつぶやきました。(「不平を言った」:2017訳)。今度は、食物がなく、飢え死にしてしまうと民は恐れたからです。彼らは言いました。「私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに…」(3節)。自分たちが主の御手によって奴隷から解放され、エジプトから脱出して生き延びられたというのに、その主の手にかかって死んだほうがましだったとつぶやくのは、主の恵みを踏みにじることであり、主の怒りを引き起こして当然と言える言動でした。しかし主は、怒るどころか、民の必要を満たすべく、夕方にはうずらを飛んで来させて食べる肉を与え、朝にはパンを天から降らせるとモーセに告げたのです。それはご自身の民に対する、主の愛とあわれみでした。そしてそのことを通して民が主の栄光を見、主が民をエジプトから連れ出し、荒野において養い、約束の地へ確かに導いてくださることを民が覚え、主への信頼を厚くすることがみこころであったのです。それが主が民に願っておられたことだったのです。それは、神の民とされた私たちにとっても同じです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1テサ5:16-18)。主が備えてくださるすべての事について感謝し、愛と恵みとあわれみに満ちた主をいよいよ信頼し、「これがない、あれもない…」と不平を言うことなく、主に積極的に祈り求める者でありたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 14章◇(1月19日)

「それでモーセは民に言った。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。…』…出エジプト14:13

前は海、後ろは追って来たエジプトの軍勢という絶体絶命のピンチです。しかしモーセが杖を持って手を差し伸ばすと、海が分かれて道が設けられ、イスラエルの民はそこを通り、その後に続いたエジプトの戦車の車輪ははずれて進めなくなり、海が元にもどって彼らはみな溺れ死んだのです。パロとその軍勢を通して私は栄光を現し、エジプトは私が主であることを知るのだ、と主は言われましたが、そのような状況の中で、エジプト人はまさにそのとおり、主が自分たちと戦っているのを認めたのです(25節)。一方、イスラエル人たちは、神の民であるのに、主に信頼することができませんでした。追っ手が迫ったとき、なぜこの荒野で死なせるのか、エジプトで仕えていたほうが良かったとさえ言って、モーセに対して怒りと不満をぶつけたのです。その後、彼らは、主がなされた偉大なみわざを見、畏れを抱いて主とモーセを信じたとありますが(31節)、この出来事は彼らにとっても主を知る機会となったのです。モーセは、自分を責める民に向かってこう言いました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われる…」(13-14節)。そして、エジプト人も認めたように、そのことばのとおり、主がご自身の民のためにエジプトと戦われたのです。海を分ける奇蹟を起こし、彼らを救い出されたのです。私たちも試練のただ中で、主を信じ切ることができず、焦り、恐れ、心がかき乱されてしまうことがあります。しかし、イスラエルの民を救い出された偉大な神は、そんな私たちにも同じように語っておられるのです。「恐れてはいけない。…主の救いを見なさい…」と。その主に信頼して前に進む者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 13章◇(1月18日)

「モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、『神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない』と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。」…出エジプト13:19

主が力強い御手で私たちをエジプトから連れ出された…。13章の中にそのことが4回も繰り返されています。過越のわざわいによってエジプトの初子がみな殺され、イスラエルの民はせきたてられてエジプトを出ましたが、それは愛とあわれみに満ちたイスラエルの神が、その力強い御手で民を守り導かれたゆえなのです。そしてそのご自身のみわざを忘れないようにすべく、脱出の日を覚えていなさいと主は言われたのです(3節)。エジプトを出た民は最短コースを通らず、主が導かれる荒野の道を通ってカナンの地へと進んでいきましたが、モーセはヨセフの遺骸を携えることを忘れませんでした。出エジプト記の作者は、ヨセフの臨終のときのことばを、まるでモーセがそれをヨセフから直接聞いたかのように、それに忠実に従って行動したかのように描いています。しかしヨセフはその400年前に亡くなっていたのであり、それは、神への「誓い」として子から子へと受け継がれ、モーセは自分がそれを果たすのだと理解したのです。「これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい」(9節)。種を入れないパンの祭りと過越の祭りはイスラエルにおいて今でも続いています。主が力強い御手で民をエジプトから連れ出されたことをそこで記念し、祝い、主に賛美と栄光をささげるのです。また敬虔なユダヤ人は、祈りのときに、テフリンと呼ぶ、みことばを入れた小さな革の箱を額の上につけますが、そのようにして主の教えを忠実に守り続けているのです。「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。…それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ」(箴言7:1,3)。主のなされたみわざを忘れずに覚え続ける…主のみことばを蓄えて心の板に書き記していく…神の民としてのそのあり方を、実践したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 12章37-51節◇(1月17日)

「430年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。」…出エジプト12:41

ついにイスラエルの民はエジプトを出発しました。その数は壮年の男子だけで約60万人でした。当時は多産だったので、女性と子どもも入れると、全体では300万人以上はいたものと思われます。さらにそこには外国人や家畜も含まれていました。3列となり前後の間隔を1m取って進んだと仮定すると、先頭から最後尾まで100kmにも及ぶ大集団です。カナンからエジプトに行ったヤコブの親族の数は、わずか70人でしたが(出エジ1:5)、神はアブラハムとの間に立てた契約を守られ、そのことばどおり、彼の子孫をおびただしく増やされたのです(創世17:2)。イスラエルの民がエジプトに寄留していた期間は430年、すでに4代目に世代交代していました。そして主は、430年が経過したちょうどその日に、民をエジプトから脱出させたのです。そのことは51節でも繰り返され、強調されていることがわかります。世代は変わっても、他国に寄留している者として、ましてや奴隷となり苦役を負わされている身として、エジプトでの生活がいつ始まり、何年目かということは、先祖から子孫に語り伝えられ、イスラエルの民全体が、常にそのことを覚え続けていたことでしょう。したがって430年が経ったちょうどその日に、奴隷から解放されてエジプトを出るようになったことを、民は特別な思いをもって受けとめたに違いないのです。それは、神の偉大な救いの計画の中に自分たちがあり、苦しかったエジプトにおいても主の守りと祝福があり、430年は確かに主が定めた期間であったということです。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者3:1)。その主は、私たちの営みにも時を定めておられます。主の最善の計画の中で私たちは生かされているのです。忍耐をもって主のときを待ち望む者でありたいと願います。

主からの平安がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 12章16-36節◇(1月16日)

「あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。」…出エジプト12:24

主はまた、種を入れないパンの祭りを守るように命じられました。それは第1の月の14日の夕方から、21日の夕方までの7日間、種を入れないパンを食べるというものであり、永遠のおきてとして、代々にわたり守り行なうようにと仰せられたのです。そのパンは、種が入っていないために腐敗しづらく、罪と悪と堕落からのきよめを象徴していました。また、イスラエルの民が急いでパンを作ったために、種を入れる時間がなかったことも象徴していました。その祭りはエジプトからの脱出の記念なのです(17節)。また主は、過越の祭りも永遠に守れと命じられました。その祭りでは過越のいけにえの小羊をほふるのです。それもまた主がなされた決定的なわざわいによって、イスラエルの民がエジプトを脱出したことを記念し、また苦しめられていた奴隷から解放されたことを喜び、神の民として選ばれ召されたことを覚えるためなのです。その種を入れないパンの祭りと過越の祭りは、主が命じられたとおり、代々にわたって守り行なわれ、現代でもユダヤ人にとって大切なものとなっています。そしてキリストによって贖われた者たちにとっては、教会での聖餐式がその意義を引き継ぐものであるのです。すなわち、過越のいけにえの小羊であるイエス・キリストが、過越の祭りのときの食事の席でパンとぶどう液を取り、それらをご自身のみからだと血を表すものとして覚え、ご自身の贖いによる罪からの救いを代々にわたり記念すべく、守り行なうようにと弟子たちに命じられたのです。そのように聖餐式は、神の恵みとあわれみを受けた者が、キリストによって贖われたことを深く覚えて感謝するとともに、自分たちが主に選ばれ召された神の民だと覚えるときです。そしてそれは聖餐式に身を置いていないときであっても、常に忘れることなく、心に深く刻むべきことであるのです。キリストに絶えず感謝と賛美をささげて歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 12章1-15節◇(1月15日)

「あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。」…出エジプト12:11

主は、最後のわざわいを起こすにあたって、イスラエルの民がなすべきことを、あらかじめ、詳細な部分にわたって指示されました。そのわざわいの月を年の最初の月とすること、その10日に傷のない一歳の雄の羊かやぎを取り、14日の夕暮れにそれをほふって血を取ること、それを家の2本の門柱とかもいに塗ること、その夜、ほふったいけにえを必ず火で焼いて、種なしパンと苦菜とともに食べること…などです。その中心となるのは、ほふられた小羊の血です。その家の住民が主の民だと「区別」される根拠は、あくまでも「しるし」であるその血だったのです(13節)。そしてそれは、キリストが十字架上で流された血の型であり、傷のない、すなわち罪のないお方が、私たちの身代りにいけにえとなってほふられたゆえに、その血による罪の赦し、贖いを信じる者たちの上を、滅びのわざわいが過ぎ越すことを示しているのです。11節に書かれているのは奇妙な食事の光景です。帯を締め、くつをはき、杖を持って急いで食べる…。それは明らかに、今の時代のファーストフードのように、食事の途中でもすぐに出発できるようにするためです。過越のわざわいによってパロが出て行けと命じたとき、すぐに行動できるよう、主は民に準備をさせたのです。私たちはキリストの血による贖いにあずかっています。それを常に覚えて喜ぶことはとても大切です(14節)。しかしその自分の救いで満足すべきではないのです。なぜならパロのように悔い改めない強情な者を退ける、最終的なさばきはすぐそこまで迫っているからです。「急いで食べなさい」という主のことばは、主の残りの民への宣教を猶予してはならないという、聖徒たちに対する促しのメッセージであるのです。切迫感をもって行動していく者でありたいと思います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 11章◇(1月14日)

「主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。」…出エジプト11:3

モーセは、決定的な打撃をエジプトにもたらす最後のわざわいについて、パロに宣告しました。それは、エジプトの国中の初子が、国民だけでなく、女奴隷や家畜に至るまでみな死ぬという、主がなされる恐ろしい災害、さばきです。しかし、イスラエルの民の初子は守られるのです。主が「区別」してくださるからです(7節)。主は、そのわざわいによってエジプトを出る際に、エジプト人たちが所有する金銀の飾りを彼らに求め、それをもらっていくようにとモーセに命じました。そして、実際にそのようになったのです(12:36)。それは、エジプトがイスラエルの民に好意を持ち、モーセもパロの家臣と民から尊敬されていたからです。なぜそうであったのか明確には書かれていませんが、奴隷としての苦役を長年負わせられる中にあっても、与えられた任務を忠実に果たし続けたからであり、暴動を起こしたりしなかったからだと考えられます。いずれにしてもその背後には主が働いておられました。常にイスラエルの民とともにおられた主が彼らを励まし、パロを除くエジプト人の心を、そのようにされたのです。さまざまな試練に遭いながらも主に守られ、宰相となり、エジプトにおいて尊敬を受けたヨセフを思い起こします。「…心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:46-47)。私たちもまた、人々から好意を持たれる民なのです。しかし好意を得るための努力をするわけではありません。私たちはただ神と人々の前に真実に歩むだけであって、主ご自身が人々の心に働きかけてくださるのです。そして私たちを通して祝福と救いをもたらされるのです。そのような存在とされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 9章22-35節◇(1月12日)

「ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。」…出エジプト9:26

主から命じられたモーセが手を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送られました。雹はエジプト全土に降り、野にいるすべてのものを徹底的に打ち叩きました。それは国が始まって以来の激しいものだったのです。しかし、イスラエルの民が住むゴシェンの地には雹は降りませんでした。それは、昨日も見たように、主が区別されたからです。そこを特別な地として取り分けられ、ご自身の民を守られたからなのです。そのように主はご自身の民を特別に扱われます。主の「区別」は、強情なパロや家臣たちに対して、とどめのわざわいとなった「過越し」でもなされました。主はエジプトのすべての初子を打たれましたが、かもいと門柱にいけにえの血が塗られていた家は、ご自身の民の家として過ぎ越されたのです(12:13)。その主は、キリストに贖われた私たちをも顧み、神の民として区別し、取り分け、特別に扱われるのです。さすがのパロも、雷と雹の激しいわざわいに遭い、自分の罪を認め、主が正しい方だと告白しました。そして主に祈ってくれと、モーセに懇願したのです。しかしそれは、本心からのものではありませんでした。そしてそのことをモーセは気づいていたのです(30節)。にもかかわらず、モーセは手を上げて主に祈りました。それは、この地が主のものであることをパロが知り(29節)、主の御名がすべての人々に知られるためなのです(9:16)。目の前のことに心奪われず、感情的にならず、世界的な視野を持ち、主のことばに従って行動するモーセ、また、主と同じ心を持ち、あわれみと忍耐をもって、ひとりでも多くの者が主に立ち返るべくとりなすモーセを、ここに見ることができます。そして、私たちもまた、そのモーセのようになることを、主は願っておられるのです。祈りの手を天に向けて上げ、とりなし続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 9章1-21節◇(1月11日)

「しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。」…出エジプト9:4

次に主が起こされたわざわいは家畜の疫病です。イスラエルとエジプトの家畜は明確に区別され、エジプトの家畜はことごとく命が取られましたが、イスラエルの家畜は一頭も死ななかったのです。その区別は主が定めた完全なものであったからです。その前にも主は、「わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く」と言われました(8:23)。依然としてイスラエルの民を行かせないパロに対し、主は、今度は激しい雹が起こると警告されました。そして、それを心に留めた家臣は人や家畜を避難させ、意に介さなかった家臣はそのまま野に残しました。家臣たちは仕えているパロに追従したのではなく、主のことばにどう応答するかを自分で決めたのです。主は区別を定めどちらかに振り分けられるお方ですが、おのおのが選択する機会を必ず与えられるのです。そしてそれは主のあわれみと忍耐によることなのです。一つ一つ起こる主のわざわい…。少しずつ、少しずつ、かたくななパロの心は確かに変えられていきます。しかし一方で、なぜそんなじれったいことをするのか…初めから最後のわざわいを起こせばいいのでは…と、そんな人間的な思いも、つい私たちに浮かんできます。しかしそれは、自分が救いの側に区別されていると安心し、境界線の向こうにいる者を単純に悪者視するからです。しかし、主はそうではないのです。主はそこにいる者を、ご自分の側に引き入れようと切望しておられるのです。主は愛と忍耐とあわれみに満ちたお方だからです。「主は…あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3:9)。主が完全な区別をなされる日は決して遠くありません。人々が主のことばに応えて正しく選択することができるよう、キリストの福音を伝え、とりなし続けていきたいと願います。

置かれた場所で主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 8章16-32節◇(1月10日)

「パロは言った。『私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。』」…出エジプト8:28

ブヨとアブによるわざわいが記されています。ブヨは体長が数mm程度の蚊のように小さい虫です。アブはそれより大きく数cm程度のハエのような虫です。どちらも家畜や人間の血を吸うものですが、刺すのではなく噛むために痛みと腫れが生じます。アロンが杖で地のちりを打つとそれはブヨとなり、エジプトの呪法師たちの秘術ではできませんでした。そして「これは神の指です」と彼らは言ったのです。アブの大群はパロや家臣の家の中にも入って来ました。体のあちこちを噛まれて痛みに耐えかねたのでしょう、パロはモーセとアロンを呼び寄せ、主にいけにえをささげることを認めました。しかし、なんとか出て行くのを留まらせようとする彼は、それをエジプトの国の中で行なうようにせよと告げ、妥協させようとしたのです。しかしモーセはパロのその作戦には乗りませんでした。荒野でいけにえをささげるよう主に命じられているのだと、パロに即座に反論し、きっぱりとそれを拒否したのです。彼はエジプト人がいけにえを忌みきらうと言いましたが、それは主の御霊によってそのときにとっさに与えられた、知恵のことばに他なりません。そしてそこには、自分は口べただと言う、弱気なモーセの姿はないのです。そのやり取りに、雄弁なアロンは関わっていないのです。結局、パロは荒野に出て行くことを認めました。そして、「私のために祈ってくれ」とさえ言って、主を認めたのです。知恵と啓示の御霊は、私たちにも働いておられます。人々に語るべきことばをとっさに示してくださるのです。人を恐れず大胆に語るための力を与えてくださるのです。主が私たちに命られるとおりに語る者となって(27節)、託されている使命を忠実に果たしていきたいと願います。

主からの油注ぎがありますように。

 ◇聖書箇所: 出エジプト記 8章1-15節◇(1月9日)

「…あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。」…出エジプト8:10

エジプトの水が血に変わるというわざわいにもかかわらず、イスラエルの民を行かせようとしないかたくななパロの心を打ち砕くべく、主は、エジプトの全地に蛙が群がるようにされました。それは寝室や台所にまで入り込むほどだったので、閉口したパロはモーセとアロンを呼び出しました。パロは以前、「主とはいったい何者か。…私は主を知らない…」と言っていましたが、このとき彼は、蛙を除くように「主に祈れ」と命じ、そうすれば、イスラエルの民を行かせると二人に言ったのです。パロからそう言われたモーセは、早速、主に、エジプトから蛙を取り除いてくださいと祈りました。12節には「主に叫んだ」とあります。いかにモーセが、切迫感をもって、また、イスラエルの民の代表としての強い意識をもってとりなしたのかを、知ることができます。主はそのモーセの願ったとおりにされました。しかしパロは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、蛙がいなくなると再びこころがかたくなになり、約束を破り、イスラエルの民を行かせなかったのです。人間であるパロの不誠実さと神の真実さが、ここに、対照的に描かれています。しかし、パロにとってこの体験は、主のような方はほかにいないと認める「一歩」なのです。そのように少しずつではあっても確かに、主はパロのうちに働き、彼を取り扱っておられたのです。私たちが主に祈るとき、それがまったく答えられないように感じることがあります。しかし主は真実なお方なのです。たとえ私たちの目に見える形となって現われなくても、私たちの祈りは、確かに主の元に届いているのです。祈りをやめてしまうことなく、主に叫び続けたいと思います。

真実な主に信頼し続けることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 7章◇(1月8日)

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。…エジプトはわたしが主であることを知るようになる」。…出エジプト7:3,5

わたしはパロの心をかたくなにする…。エジプトはわたしが主であることを知るようになる…。神はモーセに対してそのように仰せられました。私たちは家族や友人に対して主を伝えるときに、素直に信じて救われてほしいと願います。また自分自身の歩みについても、逆境の連続より、順風満帆の歩みのほうが望ましいと考えます。しかし主の御旨は人の思いを越えたものであり、主はしばしば人の心をかたくなにし、試練を与え、そこに力強く介入して偉大な御力を鮮やかに現し、ご自身が神であることを人々に明らかにされるのです。しるしと不思議…それはもちろん今でも現わされます。主が私たちとともにあり、働いておられるからです。それが主のさばきであれ、祝福としてのものであれ、私たちは主の御力がもっとこの地に解き放たれ、しるしと不思議が起こされるように願うべきなのです。しかし心に留めておかなければならないのは、エジプトの呪術者たちもまた、神がなされたわざを、彼らの秘術を使って同じようにしたあるように(11節)、この世の悪しき霊もまたそのように不思議なことを行い、人々が神に目を向けないようにするということです。私たちも目に見える現象だけを追い求めるのではなく、それをなされる主ご自身を求めることが大切なのです。「彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ」(12節)。しるしと不思議が、神によって、また悪霊によってなされ、モーセとアロンの杖、呪法師たちの杖が投げられると、それが起こったとみことばに書かれています。杖とは自立できない者を支える、頼りになるものですが、それは主ご自身を表し、杖を投げるとは、主の御名により祈ることを意味しているととらえることができます。主は悪霊どもを従わせる権威を持っておられるお方です。御力の現われを主の御名により祈り求めたいと思います。

主の守りと助けが与えられますように。

 ◇聖書箇所: 出エジプト記 6章◇(1月7日)

「主はモーセに告げて仰せられた。『わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。』」…出エジプト6:29

モーセとアロンはパロのところに行き、イスラエルの民を一時的に荒野に行かせ、主にいけにえをささげさせてほしいと申し出ました。しかし、それを仕事をさぼる口実ととったパロは拒絶し、れんが作りの材料のわらを与えることをやめ、自分たちで集めよと言って、労役を増やしました(5:11)。モーセとアロンは主の名によってパロに語りましたが、彼は、「主とはいったい何者か」と否んだのです(5:2)。一方、イスラエルの民に対しても、モーセとアロンは、神が、「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す」と言われたと伝えましたが、エジプトの扱いに落胆し、激しい労役のために疲れ果てていた彼らは、ふたりのことばをまともに聞こうとはしなかったのです。主から語られたことを、主の名によってパロに告げても、イスラエルの民に語っても、どちらも聞いてくれない…。再び弱気になったモーセは、「私は口べたなのです」と、自分の弱さ、足りなさを、主に繰り返し訴えました(12,30節)。しかし主は、モーセを召し出すとき、雄弁な兄アロンをあなたの代わりに立てると言われたのです(4:16)。主はあくまで、ご自身のことばをまずモーセとアロンに語り、それを聞いたふたりがパロや民に告げるよう命じたのです。主は、ご自身が直接パロに夢の中で語ったりするのではなく、モーセとアロンを、神のことばを取り継ぐ者として立て、その口を介して、パロや民に語るのをよしとされたのです。神はいつの時代にも、そのようにご自身が選ばれた者を通して、人々にメッセージを伝えようとされるお方です。私たち聖徒たちも、そのように、いわば神の代理人として、それぞれのところに遣わされ、置かれているのです。神のことばを語っても聞いてもらえないこともありますが、すぐにあきらめたり、自分の足りなさに落ち込むことなく、主の名によって語り続ける者でありたいと心から願います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 4章18-31節◇(1月5日)

「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。』」…出エジプト4:22

神の召しに応えることをようやく決心したモーセは、エジプトの親類の安否を尋ねるということを理由に、しゅうとイテロの承諾を得、妻や息子たちを連れてエジプトの地へ向かいました。また、その手には、しるしを行なうための杖がしっかり握られていました。それまでは羊飼いの働きをするためであった杖が、神の働きをする「神の杖」(20節)となったのです。途中、主は、エジプト王パロは心をかたくなにし、イスラエルの民を去らせないだろうと予告され、そのとき、イスラエルは神の初子(「長子」:2017訳)だ、その子を行かせないならエジプトの初子を殺す、とパロに言うようにと、モーセに命じられました。エジプトの初子が打たれるという過越のわざわいは、神の初子、イスラエルに対する対抗処置であり、神がイスラエルを、かけがえのないご自身の初子として、徹底的に愛し、守られることがここに示されています。24-26節の出来事にはいくつもの疑問が湧きます。なぜ主は、重大な任務に用いようとしているモーセを、エジプトの地へ赴く途中で殺そうとされたのか…。妻のチッポラの行為はどのような意味があるのか…。明らかなのは息子が無割礼のままだったということです。主は、割礼を、イスラエルとの間の契約のしるしとして、生まれて8日目に行なうようアブラハムに命じましたが、ミデヤンの地で異邦人のチッポラと結婚したモーセは、その主の律法を忠実に守ってはいなかったのです。あるいはチッポラがそれを拒否したのかもしれません。いずれにせよ、モーセが死に瀕する状況に追い込まれ、遅ればせながら、そこで息子の割礼がなされたのです。そしてそれはイスラエルを救い出すモーセにとって、民族の自己意識を取り戻すために必要だったのです。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」(ローマ12:2…2017訳)。私たちもまた、霊的なイスラエルの民であり、神の子どもであるのです。その自己意識をしっかりと持って歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 4章1-17節◇(1月4日)

「あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。」…出エジプト4:15

語られたことばに煮え切らないモーセを見て、主は、彼と民に確信を与えるためのしるしとして、モーセが持っていた杖が蛇になるように、また、懐に入れた彼の手が皮膚病になるようにされ、それらをすぐに元の状態に戻されました。主は、2つ目のしるしは、1つ目のしるしだけでは民がモーセに従わない場合のためのものであり、それでもなお信じないなら、ナイル川の水を土に注ぐときに血に変えるとも言われたのです。主の備えはそのように万全なものであったのです。しかしモーセは、その不思議なしるしを見てもなお、口べたなことを理由に、「ほかの人を遣わして…」と、主の召しから逃げようとしたのです(10,13節)。ついに主の怒りが彼に向かって燃え上がりましたが、主は、だったらもういい…とは言われなかったのです。主はあくまでもモーセを用いようとして彼をあわれみ、あなたの助け手としてあなたの兄アロンを立てる…あなたがわたしのことばを雄弁なアロンに語れば、彼が代わりにそれを語る…と言われたのです(16節)。そのようにモーセの弱さを知っておられた主は、それをカバーする助け手をも備えてくださったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。ともすれば、モーセと同じように、私ではなくほかの人に…と、主の召しに尻込みしてしまうのではないでしょうか…。しかし主は、万全な備えを与えてくださるお方なのです。私たちの弱さを知り、助け手を立ててくだるのです。その弱さのうちに主の力が現われるのです(2コリ12:9)。なすべきこと、語るべきことは主が教えてくださるのです。主はわたしたちの口とともにあるお方であって、そのことばは人のことばではなく神のことばなのです。恐れずに、主に信頼して、その主のことばを語り続け、主の御旨がこの地になるために用いられたいと願います。

主の備えを受け取ることができますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 3章◇(1月3日)

「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。…』」…出エジプト3:12

3章にはモーセの召命の記事が書かれています。主はホレブ(シナイ山)でモーセに現われ語られました。エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見た、過酷な労働で苦しめられる彼らの叫びを聞いた、彼らの大きな痛みを知っている…と(7,9節)。主はご自身の民を決して見過ごしにされないのです。次に主は、民を救い出すご計画を明らかにされました。彼らがしいたげられているエジプトから救い出す、乳と蜜の流れる、広くて良い地に彼らを上らせる…と。しかしその地は誰もいない未開の土地ではないのです。そこには多くの先住民がおり、そこに入るためには、彼らとの戦いは避けて通れなかったのです(8節)。そして主は、モーセへの召しを示して命じられました。わたしはあなたをパロの王のもとに遣わす、わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ…と。それに対してモーセはとまどい、恐れ、反発しました。「イスラエル人を…連れ出さなければならないとは」という彼のことばにそれが現われています。自分の行為が同胞に受け入れられなかった過去のことが、モーセの中で大きなトラウマとなっていたのでしょう。そんなモーセをとがめることなく、主は仰せられました。わたしはあなたとともにいる。わたしがあなたを遣わす…と。民が救われるのは、あなたの力によるのではない。あなたが民からの人望を得ているかどうかは関係ない。あなたは私の口、手足となって用いられるのであって、あなたにとって必要なのは、この私を信頼することであり、この私に自らを明け渡して、身をささげることなのだ…と。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という、預言者ゼカリヤへの主のことばが思い起こされます(ゼカ4:6)。主はわたしたち一人ひとりにも確かに語っておられるのです。わたしはあなたとともにいる。わたしがあなたを遣わす…と。はい、主よ、私を用いてください…と応答したいと思います。

主が恐れから解放してくださいますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 2章◇(1月2日)

「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」…出エジプト2:24-25

ヤコブ(イスラエル)の子どもたちとその家族はエジプトの地に住みつき、その子孫は大いに増え、エジプト人は彼らを恐れて過酷な労働を課しましたが、そんな中、レビ族の夫婦にモーセが生まれました。エジプト王パロは生まれたヘブル人の男子を皆殺せと命じていましたが、生き延びてほしいと願った両親は、モーセをかごに入れてナイルの葦の茂みに置きました。すると、なんとパロの娘がそれを見つけて引取り、養子として育てたのです。それは決して偶然ではなく、神のご計画の中でなされたことであったのです。その後、成人になったモーセは苦しむ同胞に心を痛め、衝動的に彼らを助け出そうとしましたが受け入れられず、パロをのがれた彼はミデヤンの地で暮らすようになり、そこで、祭司の娘チッポラと結婚して家庭を築きました。それはモーセが指導者となるための準備期間であり、一連のことはすべて主の御手の中にあったのです。その頃、イスラエル人の苦しみはさらに増していました。そして神は、彼らの嘆きと叫びを確かに聞かれたのです。24節に、神は彼らの父祖たちとの契約を思い起こされたとありますが、それまで忘れていたわけではありません。それは神から一方的に与えられた祝福の契約であって、ご自身の民のうめきが最高潮に達したまさにそのとき、その苦役から解放しようと決断されたということなのです。「神は彼らの嘆きを聞かれ…」、「神はイスラエル人をご覧になった…」。乳飲み子の親は、子がどんな状態か…お腹がすいていないか…具合が悪いところはないか…常に、自分のことのように気に掛けているものですが、神はそのように、ご自身の民に大きな愛と関心をもって目を注いでいるのです。声を聞いてくださっているのです。私たちもその神の民とされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。