◇聖書箇所: ルカの福音書 23章44-55節◇(3月31日)

「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。」…ルカ23:50-51

「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と大声で叫び、主イエスは息を引き取られました。十字架につけられた金曜日の午後3時ごろのことです。太陽は光を失い、地は揺れ動き(マタイ27:51)、神殿の幕は真っ二つに裂け、さまざまな変化がその死に伴って起こっていました。またイエスを取り巻いていた人々にも変化がありました。事の一部始終を見ていたローマ軍の百人隊長は、「本当にこの方は正しい人であった」(2017訳)と告白し、群衆も、胸をたたいて悲しみながら帰って行ったのです。十字架上のイエスのからだの下げ渡しを願ったのは、アリマタヤという町出身の議員のヨセフという人でした。彼は主イエスを信じて神の国を待ち望んでいた一人であり、議員たちの計画や行動には賛同していませんでしたが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していたのです(ヨハ19:38)。しかし今や彼は「勇気を出して」(マル15:43、2017訳)、ピラトのところに行き、下げ渡しを願い出たのです。恐れが取り去られるという変化がヨセフにも起こりました。一方で12弟子たちはこの死の場面に登場していません。自分たちも師と同じように捕らわれることを恐れて、みな主イエスの元から離れて逃げてしまったからです。そのような弱い弟子たちにやがて聖霊が注がれ、迫害をも恐れない者へと変えられていくわけですが、福音書の記者たちは、すでにここに変えられた者たちがいることを伝えているのです。それはイエスの死をそれぞれ、自分のこととして受けとめたからに違いありません。「父よ。彼らをお赦しください」という主のとりなしの祈りを、自分のためのものとして聞いたからにほかならないのです。この罪深い「私」のために主がいのちを捨ててくださった…そのことをしっかりと受けとめることが信仰の原点なのです。そこからさまざまな変化が内に起こされていくのです。日々、主の救いを「受取り直す」者でありたいと思います。

明日はいよいよイースターです。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 23章32-43節◇(3月30日)

「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」…ルカ23:43

今日の箇所は、主イエスが2人の犯罪人とともに、「どくろ」という所で十字架につけられた場面です。宗教指導者、つまりパリサイ人や祭司長たちは、イエスをあざ笑ってこう言いました。「…キリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」。十字架刑の執行を命じられたローマ兵たちも嘲りました。「ユダヤ人の王なら、自分を救え」。さらに、十字架上の2人の犯罪人の一人も悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。もちろん主は十字架から降りることはありませんでした。それが「救い」だとはまったく考えていませんでした。主はこのとき、ゲッセマネで苦しまれたのと同じように、全き人としてのご自分を貫いておられたのです。そしてそのようにののしり嘲っている者たちの罪のために、「父よ彼らをお赦しください…」ととりなしの祈りをなされ、ご自分のいのちをささげようと決断しておられたのです。「自分を救え」というささやきは私たちにも聞こえてきます。そして、善い行ないに励み、律法を守り通すことによって、中世においては献金して免罪符を手に入れることによって、人々は自分の救いを得ようと努力していたのです。しかし十字架上のもう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と。彼は釘付けされていました。イエスを信じてあわれみを乞うことしかできなかったのです。しかしその犯罪人の信仰の告白を聞かれた主イエスは、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(=天の御国)にいます」と言われたのです。「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)という御国の福音の恵みがここに示されているのです。肉の力やがんばりによってではなく、主の恵みとあわれみによって生かされていることを、絶えず覚えたいと思います。

主の十字架への感謝に満ちた受難日でありますように。

◇聖書箇所: ルツ記 4章◇(3月29日)

「女たちはナオミに言った。『イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。』」…ルツ4:14

ボアズが町の城壁の門のところに座っていると、「ちょうど」、買い戻しの権利のある親類がそこを通りかかりました。ボアズは早速彼に、事の次第を話し、買い戻しの意志を尋ねると、初めは「買い戻しましょう」と言ったのですが、ルツのことを話すと急に尻込みをしたのです。「買い戻し」をする者は、土地の所有者が亡くなったり、親類が貧しくなって土地を手放す必要が生じた場合に、土地を買い戻すだけでなく、その所有者の相続者を起こし、所有者の名を残すことが求められました。それはつまり、土地の所有者であったエリメレクが死に、2人の息子たちもまた亡くなっていたため、そのうちの一人マフロンの妻であったルツを、自分の妻と迎えるということを意味していたのです。親類の者は買い戻せない理由をボアズに告げました。「私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから」。そのこととルツを妻とすることとの関わりが不明ですが、おそらくそれは言い訳であり、彼の本心は、モアブ人であるルツを妻とすることに抵抗があったのです。結局、ルツを買い戻す権利はボアズに渡りました。そしてそれは神のご計画の中でなされたことだったのです。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(1テモテ2:6)。異邦人であるルツを買い戻し、妻として迎えたボアズ…。それは私たちを含めたすべての国のすべての人を、ご自身の尊いいのちをもって買い取って(=贖って)くださった、イエス・キリストの予表です。そして、ルツとボアズに生まれた子オベデの孫として生まれるのがダビデであり、そのダビデの子孫としてイエス・キリストが生まれるのです。ユダヤ人と異邦人が一つとされるという神のみこころが、ルツとボアズによりなされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルツ記 3章◇(3月28日)

「…しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。…」…ルツ3:13

ナオミはルツに、「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならない」と言いました。それは、結婚相手を探すということです。ナオミはルツに、体を洗い、油を塗り、晴れ着をまとって、大麦の収穫の祝いをするボアズの元に行くように、そして寝ている彼の衣のすそをまくって自分にかぶせるように、具体的な指示をしました。それは大胆な計画でしたが、ルツは「おっしゃることはみないたします」と従ったのです。夜中になり、足もとに女性がいるのに驚いたボアズは、「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」というルツの求婚のことばに対してこう答えました。「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています」。そして、自分よりも近い買い戻しの権利のある親類がいると、ルツに伝えたのです。ここで「真実」と訳されていることばは、別の訳では「誠実さ」(2017訳)、「真心」(新共同訳)とあります。ルツは性的な誘惑によりボアズに結婚を迫りませんでした。魅力的な若い男性との再婚に固執することなく(10節)、ナオミから言われたとおりに、おそらくかなり年の離れたボアズとの結婚を求め、従順かつ誠実に行動したのです。また、ボアズも誠実でした。別の親類の存在を正直に明かし、自分とルツとの結婚をその者の決断に委ねたのです。さらに、ナオミも誠実でした。自らボアズに交渉したりせず、ルツから報告を受けてもさらに待ち続けたのです(18節)。そして彼らの誠実さは、「主があなたを祝福されるように」とボアズがルツに言ったことばから示唆されるように、主がすべての人に対して望んでおられるあり方なのです。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)。主こそ、誰よりも真実なお方であり、私たちを愛し、誠実を尽くし続けてくださる、恵みに満ちたお方なのです。「主は生きておられる」。それは真実な主が最善をなしてくださるという、主への信頼に満ちたボアズのことばです。私たちも真実な主にすべてを委ねる者でありたいと願います。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所: ルツ記 2章◇(3月27日)

「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」…ルツ2:12

ボアズが登場します。彼はナオミの夫の親戚であり、エリメレクの一族に属するひとりの有力者でした。一方、ルツは、食糧の必要のため、ナオミに許可を得て、落ち穂拾いをすべく畑に出て行きました。その落ちた穂は、土地の収穫を刈り入れるときは隅々まで刈るな、貧しい者と在留異国人のために残しておけという、主の律法を人々が守ることにより与えられるものでした。ルツは出かけて行って畑で落ち穂を拾い集めましたが、なんとその畑はボアズが所有するものであったのです。3節には「はからずも」(「たまたま」:新共同訳)とあります。そして「ちょうどその時」、ボアズがベツレヘムから来て、落ち穂拾いをしているルツを見たのです(4,5節)。しかしそれは決して偶然ではありませんでした。確かに主が「はかられた」こと、御手のうちにあったこと、主の主権によって備えられた出会いであったのです。ボアズがルツに、ここに留まって落ち穂を拾い続けなさい、のどが渇いたら水がめから自由に飲みなさいと言うと、ルツは地にひれ伏し、外国人である私にどうしてそこまで親切にしてくれるのかとボアズに尋ねました。すると彼は、あなたが姑にしたことや、両親や故郷を離れて知らない民のところに来たなど、すべて聞いていると答えたのです。彼はさらに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」と、まるで主が立てられた預言者かのようにルツに告げましたが、それは、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と告白したルツへの、神ご自身からの語りかけだったのです。ルツはボアズに感謝をもって答えました。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます…」。私たちもまた、試練や困難を通され、「避け所」を求め、聖書の神、イスラエルの神にそれを見いだした者です。主の一方的なご好意、すなわち主の恵みにあずかり、救いを受けた「外国人」なのです。その主は主権をもって、不思議と思われる導きの中で必要を備えてくださるのです。主に感謝と賛美をささげつつご好意にあずかりたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルツ記 1章◇(3月26日)

「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」…ルツ1:16

今日から4日間、ルツ記を読んでいきますが、持つべき大切な視点は、神の摂理的な導きの中で、異邦人と、神が選ばれた民であるユダヤ人とが、どのようにして「つながっていく」のかということです。ユダのベツレヘムの人エリメレクとその妻ナオミ、ふたりの息子であるマフロンとキルヨンの4人家族は、飢饉のため、モアブの野に一時避難することにしました。モアブは死海の東側にある異邦人の地です。しかしエリメレクはそこで亡くなり、モアブの女性を妻に迎えたふたりの息子もまた亡くなってしまい、ナオミと未亡人となったオルパ、ルツが残されました。その後ナオミは、ユダの地に戻ることを決め、自分の息子の嫁たちに、実家に帰って平安に暮すようにと助言したところ、オルパはナオミと一緒に行くのをあきらめましたが、ルツはナオミに寄り添い続けようと堅く決心したのです。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」。そう言ったルツは、姑のナオミを一人にさせられないという、単に人道的な見地からそうしただけではなく、自分もまた、ナオミが帰属するユダヤの民とされたい、その民が信じるヤーウェの神を自分も信じていたいと、民族的、信仰的な同化さえも願う者であったのです。彼女が、「私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように」と、ヤーウェの神の名を出してナオミに言ったことは驚きです。夫との死別という苦難を通し、ルツはそのように導かれました。そして異邦人である彼女が、キリストの系図に載ったのです。私たちもまた、それぞれ悩みを抱える中でキリストと出会い、キリストを信じて救われ、霊的な意味において、アブラハムの子孫、イスラエルの民として加えられました。「イスラエルの神は私の神」という信仰告白をもって、キリストから決して離れず、従い続けたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 13篇◇(3月24日)

「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」…詩篇13:3

「主よ。いつまでですか」と、詩人は主に尋ねています。敵がおごり高ぶり、放置されているかのような中、そのつらい状況の終わりがいつになるかわからない、先のことが見えない中で、詩人は思い悩み、痛み悲しみ、うみ疲れてしまっているのです。私は神に見放され、見捨てられてしまったのか…もう絶えられない…と、絶望しかけているのです。「いつまで」、「いつまで」…と繰り返されることばに、詩人のその深刻な思いが伝わってきます。しかし、詩人があきらめて黙ってしまうことはありません。隠れてしまったかのように思える神に向かって声を上げ、「私に目を注ぎ、私に答えてください」と訴えているのです。「私の目を輝かせてください」と願い求めているのです。「目を輝かせる」とはどういうことでしょうか。それは、思わず息を飲むような大自然の光景に出会うと、私たちの心に驚きと感動と喜びが湧き起こり、それが目の輝きとなって現われるようなことを意味します。人の心が沈んで絶望の中にあるなら、目の輝きは失われ、目は開いていても良きものを見いだすことができません。やがてまぶたは閉じ、「死の眠り」についてしまうのです。目を輝かせるとは、何よりも心に希望が与えられ、魂が主の霊に満たされ、生きる力が生まれることです。主こそ、私たちの目を輝かせることができるお方なのです。それこそ、神を信じる者に与えられる「救い」なのです。詩人の祈り、願いは確かに神に届きました(5,6節)。肉の目に映る状況は変わらなくても、彼の霊の目が開かれ、神の勝利と祝福を見ることができるように変えられたのです。救いの喜びが心に満ち、彼の目は輝きを取り戻したのです。その口から主へのほめ歌があふれるようになり、神の豊かな恵みの中を歩み続けるようにされたのです。「私の目を輝かせてください」…主にあって希望を持ち続ける者とさせてください…。私たちもそう願い求めたいと思います。

心に喜びを、目に輝きを、主が与えてくださいますように。

 ◇聖書箇所: 詩篇 12篇◇(3月23日)

「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」…詩篇12:4

「主よ。お救いください」と、切実な様子で詩人は主に願い求めています。それは、なんと、聖徒が後を絶ち、誠実な人も、人の子らの中から消え去ってしまったからです。残っている者たちは、互いにうそをつき合い、へつらいのくちびると二心で話すのです。詩人はさらに、彼らのそのへつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってください…と、主に願い求めています。なぜなら、彼らは、「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか」と言っていたからです。それは人々に対しての高慢なことばですが、誰よりも、神に対しての尊大な態度なのです。しかし、主は、そのような者たちのふるまいを、決して放置されるお方ではありません。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから」、そして、「主よお救いください」という祈りに答えて、「今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう」と言われるのです。6節は、一見、文脈的に前とつながらないことばです。しかし詩人は意図的にそれをここで記しているのです。悪者のことばはうそに満ちたへつらいのことばであって、彼らは二心を持ち、相手をだまそうとして語るのです。しかしそれと対照的に、主のみことばは混じりけのない、純粋なことばであり、私たちが信頼するに値する、人の歩みを確かにするものなのです。悪者は「だれが、われらの支配者なのか」と言いますが、主こそ、自らのことばをもって天地万物を創造され、今もすべてを統べ治め、支配しておられるお方なのです。その主に拠り頼む者は幸いです。主がその者を守り、とこしえまでも保ってくださるからなのです(7節)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 11篇◇(3月22日)

「主は、その聖座が宮にあり(「主は その聖なる宮におられる。」…2017訳)、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」…詩篇11:4

「主に私は身を避ける」と詩人は告白しています(1節)。それは主が、身を避けるべきところ、とりでとなって、悪者たちの手から守ってくださるからです。悪者は正しい者の直ぐな心を矢で射抜こうとします。困難の中で「神なんかいない…」と希望を失わせ、不安と恐れで心をかき乱そうとするのです。そして、拠り所が壊されたら正しい者は何もできないと言って、正しい者たちが信頼する神さえも悪者は軽蔑し、おごり高ぶったことばを平然と言い放つのです(3節)。しかし主は、そのように侮られるお方ではありません。聖なる宮におられ、天に王座を設けておられる主は、正しい者も悪者も、すべての人の行いと心を「見通し」、ご自身の御旨にかなうものかどうかを「調べる」のです。吟味し、検査し、基準に照らして判定するのです。その主の御目は、人の心の中さえも「見通す」のです。レントゲン写真のようにすべてが明らかにされるのです。主は、すべての者がご自身のことば、教えに心を留め、それに聞き従って歩むようにと願っておられます。それこそが神の前に「正しい」こと、「義」なることであり、そのような心の直ぐな者たちを主は愛されるのです。正しい者たちはどんな時にもその主の御顔を仰ぎ見て、神との親密な関係の中に歩むことができるのです。主のみそばで、平安と喜びに満たされるのです。それに対して、悪者の結末は悲惨なのです(6節)。主の御目にはすべてが「お見通し」である…。主は正しい者も悪者も、すべての人の行いと心の中を調べられる…主に知られないものは何一つない…。そのことを教えられるとき、私たちは慰められます。同時に、主の前に居住まいを正す思いにさせられます。私たちはその主のまなざしを意識して歩むべきなのです。主の前に絶えず真実な者であり続けたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 10篇◇(3月21日)

「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。」…詩篇10:14

5節以降に、「彼の」、「彼は」と多く書かれていますが、それらはすべて、「悪者」を指しています。貪欲である悪者は欲望を誇り、主をのろい、侮り、神を尋ね求めず、「神はいない」とうそぶくのです(3,4節)。「代々にわたって、わざわいに会わない」(6節)、「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ」(11節)と、心の中で言っているのです。「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を」。しかし、詩人が告白しているそのことばのとおり、神は確かに見ておられるのです。悪者の舌の裏にある害毒と悪意を、そして、その悪者の口から出るのろいと欺きによってしいたげられている人々の痛みと苦しみを。箴言15章3節には、「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている」とあります。また主イエスは弟子たちに、「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません」と言われ、だから迫害者を恐れてはいけませんと言われたのです(マタイ10:26)。歴代誌第二16章9節には、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と書かれています。主は、悪者のしいたげに苦しみ、自らの罪深さと弱さを自覚しつつ、ご自身を尋ね求める者を見ておられるのです。助けを求める声に耳を傾け、彼らをかばい、守ってくださるのです。心を強くし、恐れを取り除いてくださるのです。悪者もまた、地のちりから造られ、神の息を吹き込まれ、命を受け生かされている人間に過ぎません。神は、人が人を脅かすことができないようにされるのです(18節)。そのように、王である主(16節)は、主権をもって治めておられるのです。

主の守りと祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 9篇◇(3月20日)

「主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」…詩篇9:10b

この詩篇の中に、主はお見捨てにならない、主はお忘れにならない、と書かれています。しかしそれは、すべての者が対象なのではなく、「主を尋ね求める者」(10節)、「貧しい者」(12,18節)であるのです。主は、機械的、自動的に、すべての者にそのような扱いをもたらすのではなく、貧しい者、主を尋ね求める者を顧みてくださるのです。「貧しい者」とは、必ずしも経済的な意味ではありません。それは衣食住に豊かでない者たちを指すのではなく、むしろ内面的な貧しさのことを意味しているのです。つまり、自分がいかに罪深い者かという自覚であり、この者を主よあわれんでくださいという切実な願いであり、ただ神のいのちに生かされているという感謝であり、そのようにして主に拠り頼む者のことなのです。主イエスはパリサイ人と取税人のたとえを話されました。ふたりはともに宮で神に祈りをささげましたが、パリサイ人は、自分が不正とは無縁であり、断食も献金もしていると誇り、取税人のようでないことを感謝しました。ところが取税人は自分の胸をたたいて、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈ったのです。主は弟子たちにこう言われました。、「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」と(ルカ18:14)。この詩篇の最後にある20節にはこう書かれています。「主よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください」。私たちは、自分が「人間にすぎない」ことをわきまえ知るべきなのです。地のちりから造られ、神の息吹、霊が吹き込まれ、神によって生かされていることを忘れてはならないのです。そして主イエスのたとえの取税人のように、「こんな罪人の私をあわれんでください」とへりくだって祈り、「貧しい者」を顧みてくださる主を切に求めるべきなのです。

主のあわれみと恵みが豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 8篇◇(3月19日)

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」…詩篇8:2

幼子と乳飲み子は小さい者、弱い者たちです。大人たちに守られ、助けられ、養われなければ生きていくことができない存在です。そんな彼らの口によって、主が力を打ち建てられたと詩人は告白しています。そしてそれは神に敵対する者、すなわち、悪しき者、サタンの働きを鎮めるためだと言うのです。幼子の口がそのようにして用いられるとは驚きです。主イエスは、宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいることに腹を立てていた祭司長、律法学者たちに向かって、「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか」と、この詩篇8篇2節のことばを引用して言われました。幼子と乳飲み子たちの口によって神がご自身の力を打ち建てられるとは、その口から出る賛美、神をほめたたえることばによって、サタンの働きが弱められ、鎮められるということなのです。また、ヨハネの黙示録12章11節にはこう書かれています。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」「彼」とはサタンのことです。「小羊」とはキリストです。キリストに贖われた一人ひとりのあかしのことば、つまり、傷のない小羊の血により私の罪はきよめられた、よみがえられた神の御子の勝利に私もあずかっている、イエス・キリストこそ私の救い主だという告白によって、サタンの国は打ち破られ、神の国が打ち建てられるのです。小さき者の口から出る、神への賛美と信仰の告白が、サタンの要塞を打ち砕く強力な武器となるのです。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(ルカ19:40)。教会における礼拝の中だけでなく、日常の生活の中で、「ハレルヤ!御名をほめたたえます!」と主を賛美し、「私は主にあって勝利者です!」と宣言したいと思います。

主はいつもともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 創世記 36章1-19節◇(3月17日)

「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。エサウはカナンの女の中から妻をめとった。」…創世記36:1-2a

36章にはエサウの歴史が書かれています。実際には彼の妻や子どもたちの名前が記され、「系図」と言うべき内容となっています。しかしあえて「歴史」となっていること、また、「エサウ、すなわちエドム…」と繰り返されていることに心が留まります。9節にあるように、エサウの子孫はやがてエドム人と呼ばれるようになりました。「エサウ、すなわちエドム…」とあるのはそのつながりを示すためでもありますが、エドムという名前によって、何よりもエサウがかつて行った愚かなこと、つまり、ヤコブに長子の権利を売り、食べさせてくれと言った、その煮物の赤い色を示し(「エドム」=「赤い」)、空腹を満たすためにたった一杯の煮物と引き換えに神の祝福を手放してしまった、まさにそのエサウだということを強調しているのです。また、「エドムの歴史である」と書き始めたあとにすぐ、「エサウはカナンの女の中から妻をめとった…」と続き、アダ、オハリバマ、バセマテの3人の名が出て来ますが、26章34節ではすでにエサウが、エフディテとバセマテとを妻にめとった、そしてそれがイサクとリベカによって悩みの種となったと書かれているのです。イサクは、カナンの娘たちの中から妻をめとるなとヤコブに命じ、ハランのラバンの元に行かせましたが、それはカナンの異教の神の影響を懸念したからです。エサウが何人の妻を持ったかは正確にはわかりませんが、エサウの子のひとり、エリファズのそばめからアマレクが産まれました。このアマレクの子孫がアマレク人となり、やがてイスラエルに敵対して争うようになるのです。エサウは「エドム」、つまり神の祝福を軽視した失敗から、きちんと学ぶべきでした。主の前に立ち返り、それを教訓とし、その後の歩みを軌道修正すべきだったのです。カナン人の娘を安易に妻に迎えるべきではなかったのです。過去の失敗や過ちを今に生かす…それが歴史の意義です。私たちの信仰の歩みもそうありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 35章(3月16日)

「神は彼に仰せられた。『あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。』それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。」…創世記35:10

ヤコブたちはついにカナンの地にあるベテルに着きました。ベテルを立ったときにはたったひとりであったヤコブは、多くの家族と家畜などの財産とともに帰還したのです。そしてそれは確かに、主の約束(28:15)の成就でした。9節には、「ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された」とありますが、前の34章の書かれているシェケムでの一連の出来事は、パダン・アラム(ハラン)から帰る途中に起こったはずです。しかし神がベテルで初めて現われたかのように読めます。実際、34章には神のことばが一つも書かれていません。それは、シェケムでのヤコブたちが神を脇に押しやっていた、その寄り道は神が望まないものだったことを暗示しています。シェケムで沈黙していた神はヤコブに明確に語られました。立ってベテルに上り、そこに住み、祭壇を築きなさい…と。そしてヤコブは主に応答し、再び霊的リーダーシップを発揮し、家族を初めすべての者にそのことを伝えるとともに、その前にまず、異国の神々(テラフィム)や耳輪など、異教的なものを取り除き、身を清めよと命じたのです。「あなたの名はイスラエルでなければならない」(10節)。主は再びヤコブにそのように言われました。そしてそれは、かつての語りかけの繰り返し、呼び方だけのことではなく、「イスラエルでなければならない」、すなわち、「イスラエル」=「神が戦う」、「神が支配する」ということが、名実ともになるようにせよという、神の仰せであったのです。ペヌエルでの出会いの後もヤコブと呼ばれ続けていることに、「イスラエル」になりきれないヤコブの姿を見ます。彼はエサウだけでなく神ご自身を「押しのけて」いたのです。しかし21節以降で「イスラエルは…」と呼ばれ始めるのです。私たちの中にも「ヤコブ」と「イスラエル」が同居しています。しかし「ヤコブ」は「イスラエル」へと変えられていくのです。そのために私たちも、偶像、つまり神以外のものに拠り頼まず、この世的なものを排除し、きよくあることが求められるのです。寄り道せず「ベテル」で主を礼拝することが主の御旨なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 34章18-31節◇(3月15日)

「それでヤコブはシメオンとレビに言った。『あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。…』」…創世記34:30

あなたがたのすべての男子が割礼を受けるなら、一つの民として姻戚関係を持つのに同意しましょうとヤコブの息子たちから言われたハモルとシェケムは、町の人々に早速それを伝えて実行させました。しかしそれはヤコブの息子たちの悪巧みであって、割礼を受けて3日後、その傷跡がまだ痛む男子たちを、シメオンとレビが剣によって皆殺しにし、さらに家畜や財産を略奪し、妻と子どもたちをとりこにしたのです。一連の出来事の中で沈黙し続けてきたヤコブは、ようやくシメオンとレビに対して口を開きました。しかしそれは、「私に…私を…」と、まるで彼らが自分とは無関係の存在であり、自分が迷惑を被った被害者であるかのような無責任な発言、嘆きです。しかしその悪巧みを彼が知らなかったはずがありません。ヤコブは父親としてそれをやめさせるべきだったのです。あるいは土地を買い、何かの利益を期待していた彼は、その悪巧みを知って黙認していたのかもしれません。もしそうだとしたらヤコブの責任は極めて重大です。そしてそれはエサウを騙したことと本質は同じなのです。一方、ディナを妻にしたいという目先の利益にとらわれ、まったくためらわずに率先して割礼を受けたシェケムは、目の前の煮物のために長子の権利をヤコブに売ったエサウのことを思い起こさせます。またハモルの目にも、ヤコブたちの財産は魅力的に映っていたのです(23節)。そしてその2人の肉の思いが悪巧みを見抜けないようにし、自分たちの民族に悲劇をもたらすこととなったのです。この箇所に出てくる者たちを反面教師として学ぶべきこと、それは過去の過ちの教訓を次の世代にきちんと伝えよ、継承すべきは祝福であってのろいではないということです。また、肉の思いに支配されて目先の利益にとらわれるな、常に御霊のご支配のうちに歩む者とされよということです。そのことをしっかりと心に留める者でありたいと願います。

主の祝福と守りが豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 34章1-17節◇(3月14日)

「ヤコブの息子たちは、シェケムとその父ハモルに答えるとき、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、悪巧みをたくらんで」…創世記34:13

エサウと別れたヤコブたちはシェケムの町に着きました。そしてそこで、宿営のために天幕を張った野の一画を、その土地の族長であるハモルの子から、代金を払って買い取ったのです。その理由は書かれていませんが、何か心を動かされるものがそこにあったのかもしれません。しかし彼らが戻るべきところは、神から祝福を約束され、石の柱に油を注いだ、あのベテルの地であったのです。そしてそのシェケムの町での滞在中に事件が起きました。ヤコブの娘のディナがハモルの息子シェケム(町の名前と同じなので紛らわしいですが…)に陵辱されたのです。そしてシェケムはディナを妻とすることを願い、「この娘を私の妻にしてください」(4節、2017訳)と、身勝手な要求を悪びれることなくハモルに出したのです。ハモルとシェケムは交渉のためヤコブの元にやって来ました。野から帰りそれを知って怒ったのはヤコブの息子たちです。自分たちの妹がそのような目に遭って怒るのは当然です。7節には、「…イスラエルの中で恥辱となることを行ったからである。このようなことは、してはならないことである」とあります。しかし父のヤコブはなぜか奇妙なほど沈黙しています。本来なら誰よりもヤコブが憤って強く抗議するはずです。そしてそこにヤコブの霊的リーダーシップの欠如を見るのです。事はディナのことに留まらずさらに展開を見せていました。ハモルは民族間で姻戚関係を結ぶ、つまり、お互いに結婚相手を見つけ合おうではないかと提案したのです。それが土地の所有にもつながるとも言ったのです(10節)。一方、ヤコブの息子たちは彼らが割礼を受けることを条件に、それに同意しようとしていました。しかし、割礼という宗教行為をそのように利用することは、「悪巧み」(13節)であったのです。ところが、ここでもヤコブは息子たちをとがめてはいません。ヤコブは、悪をもって悪に報いてはならない、善を行なえ、主のみこころを行えと、きちんと教えるべきであったのです。その霊的リーダーシップは私たちにも求められています。そのためにまず自らが神の国とその義を第一にすべきなのです。

この地に主のみこころがなりますように。

◇聖書箇所: 創世記 33章◇(3月13日)

「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」…創世記33:10

自分や家族がエサウから打たれるかもしれない…と、非常な恐れにとらわれていたヤコブでしたが、ヤボクの渡しの場所に一人残って神と格闘し、もものつがいがはずされることによって自我が砕かれ、名前もイスラエル、「神が戦う」に変えられました。そして顔と顔を合わせて神を仰ぐ中で祝福を受け、そこをペヌエル、「神の御顔」と呼んだのです(32:30)。またそれは「私のいのちは救われた」という意味です。当時の人々は神を見る者は死ぬと考えていましたが、ヤコブのいのちが取られることはなかったからです。そのようにして主によって変えられ祝福された結果、エサウに対するヤコブの恐れは取り除かれました。以前は、人々や家畜を2つの宿営に分散させたり、それらを先に進ませて自分は後方に位置するなど、人間的なやり方で身を守ろうとしていた彼でしたが、いよいよエサウと400人の者を目の前にしたヤコブは、自分が集団の先頭に立って進み、途中、7回も伏しておじぎをし、エサウに尊敬と謝罪の意を表わしたのです。するとエサウは、ヤコブのところにわざわざ走り寄り、抱きしめ、口づけをし、ヤコブといっしょに涙を流しました。そこには二人のことばは何も書かれてありませんが、許しと和解が確かに起こったのです。ヤコブや家族が、エサウの怒りに触れて打たれることはなかったのです。そしてそれは神が備えた守りであり救いであったのです。「私はあなたの顔を神の御顔を見るように見ています」…。ヤコブはペヌエルでのことを思っていたに違いありません。弟ヤコブと兄エサウのその感動的な再会…。それはあの放蕩息子と父親との再会を思い起こさせます。自分が分けてやった財産を使い果たした身勝手な息子を、父親もまた走り寄って彼を抱き口づけしたのです(ルカ15:20)。拒絶され罰せられることなく、快く受け入れられたのです。そしてそれらは、私たちもキリストにあって神に受け入れられ、赦しと和解と祝福がもたらされることを示しているのです。一人ひとりのキリストとの出会いこそが「ペヌエル」なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 32章13-32節◇(3月12日)

「その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』」…創世記32:28

32章の前半において強調されているのは、ヤコブがエサウに対して抱いていた恐れです。エサウが400人を引き連れて来るという使者の報告を聞き、ヤコブは非常に恐れて心配したとあります(7節)。カナンへの帰還はエサウとの和解が必須だということを、ヤコブはよくわかっていました。だからこそ、故郷に帰れ、子孫を増やそうと言われた神のことばを盾にするようにして、エサウの手からの守りを主に祈り求めたのです(9-12節)。ヤボクの渡しを渡ったヤコブは家族を先に行かせ、自分は一人残りました。すると、神ご自身が人の姿を取り、夜明けまでそのところでヤコブと格闘されました。その格闘はヤコブの祈りに対する神の答えだったのです。「その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって」とありますが、それは、ヤコブが神に助けと救いを祈り求めつつも、一切を神に明け渡し切ることができない、彼の自我、つまり、自分に執着する心を神が見られたと言うことです。神はその格闘の中でヤコブのもののつがいをはずされました。そして夜が明け、ヤコブの元を去って行こうとすると、彼は、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と祝福を求め、神はそれには答えず、あなたの名はもはやヤコブではなくイスラエルと呼ばれると言われたのです。ヤコブとは「押しのける者」という意味です。またイスラエルとは、「神が戦う」という意味です(「神に勝つ者」ではありません)。「押しのける者」としてエサウをだまして祝福を奪ったヤコブは、ラバンの元での20年間の試練を通して主に取り扱われ、さらにもののつがいをはずされて自我を砕かれ弱い者とされ、他者に対する恐れ、自分自身に対する嫌悪感などから解放され、それらに「勝った」者、神にあって強い者とされたのです。イスラエル、「神が戦う」、「神が支配する」者とされたのです。「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリント12:10)。パウロもそのように言いました。ヤコブはその逆説的真理を、神との格闘を通して学ばされたのです。私たちもまた、「弱くても主にあって強い」者だということを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 31章36-55節◇(3月10日)

「…われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。」…創世記31:49

ラバンにとっての神であるテラフィムをラケルが盗み、隠し持っていたことを知らなかったヤコブは、ラバンからあらぬ疑いをかけられたことに怒りを覚え、彼に強く抗議しました。ヤコブがぶつけたそのことばは、20年間、自分がいかに真実に歩み続けて来たか、それに対してラバンがいかに不誠実であったか、そして何よりも、多くの悩みと労苦の中にあって、神がともにおられ、顧みてくださったという証言です。エサウをだましたヤコブは、神のご計画により、そのようなところを通らされ、訓練され、変えられて、主の祝福のうちにカナンに帰還しようとしていたのです。それを聞いたラバンはヤコブに、あなたの妻、子どもたち、家畜の群れは、かつては「私の」ものであった、しかし今やそれは神によってあなたのものとされており、私は何も手が出せないと言ったのです(43節)。そして、これ以上争いが起きないように、きちんと契約を結び、それを二人の間の証拠としようとヤコブに提案したのです。ヤコブは同意し、一族に石を集めさせて石塚を作りました。その後、ラバンはさらにこのように言いました。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。…われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい」(49-50節)。「主」とは「ヤーウェ」です。イスラエルの神、まことの神です。ラバンがその主の御名を呼び、主が見張りをされるようにと、だれもいなくても神が証人であることをわきまえよと、ヤコブに告げたのは驚くべきことです。そしてそれもまた、事の善悪を論じないようにせよ、主こそ神なることを知れと、ラバンに夢の中で語られた神によることであったのです。その主は、私たちの歩みにも介入してくださっています。たとえ他の人がだれもいなくても、見ていなくても、主は確かに私たちのことを見張っていてくださるお方なのです。ヤコブのような試練の中で悩みと苦しみを長年抱えても、真実な主は、私たちを守り、助け、導いてくださるのです。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 創世記 31章22-35節◇(3月9日)

「しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。』」…創世記31:24

ヤコブたちが逃げたことを知ったラバンは、彼らを追跡し、ギルアデの山地で追いつきました。すると神は、夢でラバンに現われて、「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と告げました。ラバンはヤコブを、なぜ逃げたのかと非難しましたが、それ以上ヤコブに危害を加えようとはしませんでした。それはラバンが神のことばを確かに受けとめたからです。気のせいだ…と無視せず、生ける神を畏れたからです。「事の善悪を論じないように気をつけよ」とは、人間的な考えで良し悪しを判断するなということです。神が計画し実行することに口を挟むなということです。主(ヤーウェ)こそが神であることを知れということです。「アラム人ラバン」とわざわざ書かれていますが、異邦人であり異教の神を信じる彼にそれを告げるべく、ヤコブに追いついた日に神は夢の中で現われたのです。そして「あなたがたの父の神が私に告げて」(29節)と、彼はそれをヤコブの神だと認めざるを得なかったのです。この記事は、まことの神VS偶像の神の場面でもあります。「なぜ、私の神々を盗んだのか」とラバンが言ったとおり、ラケルが盗んだテラフィムとはラバンが信じる偶像でした。しかしラケルがそれを隠し持っていても、ものも言わず、一方、まことの神は、異邦人ラバンに夢の中で現われ、彼がヤコブたちに危害を加えることを止められたのです。この日本にあって、私たちが福音宣教を進めていく中で、人々の心にある「頑なさ」にぶち当たることがあります。そこで福音を人々に「説明」し、信じるよう「説得」するなら、それは、「事の善悪を論じる」ことになると言えるのです。主こそ神であることを人々に悟らせるのは神ご自身です。それは聖霊さまがなされる働きなのです。私たちが宣教活動を熱心に行うことはもちろん大切です。しかし神がラバンに直接介入されたように、私たちも、何よりもそのことを待ち望み、祈り求めるべきなのです。祈りこそ人々の心を開く鍵であることを覚えたいと思います。

主こそ神だと、すべての人が知ることができますように。

◇聖書箇所: 創世記 31章1-21節◇(3月8日)

「わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」…創世記31:13

ヤコブの繁栄を妬んだラバンの息子たちから非難され、ラバンの態度の変化にも気づいていたヤコブに対して、生まれ故郷に帰りなさいと、主は命じられました(3節)。この章を「ヤコブの脱走」と題している聖書があります。それは決して間違ってはいませんが、正確に言うなら「ヤコブの帰還」であり、それを計画し、実行し、成功させてくださったのは、神ご自身であったのです。ヤコブは確かにそのような意識を持っていました。「しかし私の父の神は私とともにおられるのだ」(5節)。「しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった(「加えることを許されなかった」:2017訳、7節)。「こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」(9節)。すべては神がなされのだと、彼はラケルとレアに告げたのです。それは、ベテルでの神の約束(28:13-15)の成就でした。そして神は、「無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、…私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます」(2017訳)と、ヤコブが誓願を立てた(28:20-22)のを思い出させるように、「私はベテルの神。…」と彼に呼び掛けられたのです。しかしヤコブの帰還は、彼が誓願を立てた献げものを神が欲したゆえではありません。ベテルでの出来事は、神とヤコブとの間でなされた「取引」ではないのです。ヤコブの誓願は、主が約束されたことへの応答であり、必ずそうなるという、彼の信仰告白であったのです。「私はベテルの神」。神がヤコブに告げたそのことばは、私はベテルであなたに現われ、約束を与え、それを確かに果たす神である、という意味にほかなりません。その神は、ヤコブと子どもたちに、今のユダヤの民に、そして霊的子孫である私たちにも、ご自身のことばが真実であることを、体験させてくださるお方なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 30章25-43節◇(3月7日)

「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」…創世記30:43

ラケルがヨセフを産むとヤコブの息子は11人となりました。彼は故郷の地、すなわちカナンの地に、妻たちや子どもたちとともに帰ることを望み、ラバンに申し出ました。しかしラバンは、それまでの誠実なヤコブの働きによって、神の祝福に自分があずかってきたことを知っていたので、何とか彼を自分の元に留めておきたいと思っていたのです。その本心を知っていたヤコブは、また騙されないようにと、ある取引をしました。それは、羊は白、やぎは黒という、当時の人々が持っていた価値観からはずれたもの、つまり、黒毛の羊、白毛が混ざったやぎを自分の報酬とし、そうでない残りの羊とやぎをラバンのものとし、それを自分が飼い育てるようにしますと提案したのです。価値が低いものなら…と思ったラバンは承諾しました。するとヤコブは奇妙な行動を取りました。アーモンドなどの木の若枝の皮を剥ぎ、白いところをむき出しにしたものを、やぎの群れが水を飲みにくるときの水ぶねの中に、群れに差し向かいになるようにして置いたのです。すると不思議なことに、水を飲む群れにさかりがつき、まるで目の前に置かれた白い枝に影響されたかのように、群れは白毛がまざった子やぎを産んだのです。さらにヤコブは、ラバンの羊と自分の黒い羊を交尾させ、黒毛の混じる羊を産ませました(40節、他の聖書訳による。ラバンの羊は白毛であってしま毛ではなかったはず)。しかも強い群れのみ枝でさかりをつけさせ、そうしたのです。そのようにしてヤコブは、自分の報酬として正当に得られるやぎと羊が増えるよう、また質的にも強くなるようにしました。しかし、ヤコブは人間的な考えで繁栄しようとしたのではありません。奇妙に思える彼の行動は、主の知恵によるものなのです。そして彼はすべてを主に信頼し、その結果を委ねていたのです。なぜなら、羊ややぎに子を産ませるのはあくまで神であって、ヤコブ自身がその毛色を操作することなどできないからです。窮地と思える状況にあって、主の知恵と導きを求めて行動し、その結果を主に委ねるという姿勢が私たちにも求められます。

主からの良い知恵が与えられますように。

◇聖書箇所: 創世記 30章1-24節◇(3月6日)

「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。」…創世記30:22

今日の箇所に描かれているのは、ヤコブを巡る、ドロドロとした、女性の戦いの物語です。より正確に言えば、ヤコブを巡ると言うよりはむしろ、ヤコブを通して自分が産む子どもを巡る戦いです。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます」(2017訳)と、姉のレアに嫉妬してヤコブに迫るラケル、「おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ」と、ラケルに怒りをぶつけつつ神ご自身をなじるヤコブ、息子のルベンが野で取ってきた「恋なすび」で取引し、(「恋なすび」は受胎効果があると信じられていた薬草)ヤコブとまた夜をともにすることをラケルに承諾させ、「あなたをようやく手に入れた」とヤコブに告げたレア…。3人の言動からは人間の罪深さしか伝わってきません。しかし視点を神に転じるならば、いかに神が愛に満ち、あわれみ深いお方であるのか、そのご計画が私たちに測り知れないものであるのか、またその見方が私たちとは違うのかを教えられるのです。「神はレアの願いを聞かれたので…」(17節)、「神はラケルを覚えておられた…」(22節、「ラケルに心を留められた」:2017訳)」とあるとおり、そのような対抗意識むき出しの彼女たちをも主はあわれみ、心に留めて、ヤコブに約束された子孫を与えられたのです。ヤコブの子どもを産んだのは、その姉妹だけではありません。ラケルの女奴隷ビルハ、レアの女奴隷ジルパもそれぞれ、ダンとナフタリ、ガドとアシェルと、2人ずつ子どもを産んだのです。奴隷とは、人としてまともに扱われることのない存在です。ヤコブの子を産むようにと命じられ、従うしかない立場です。彼女たち自身のことばはいっさい書かれていません。人間的な見方をすれば、そんな奴隷から生まれた子どもが、イスラエルの12部族の基となることはあり得ないことです。しかし神は、人が見るようには人を見られないのです。神は一人ひとりを高価で尊い存在としてお造りになられ、ご自身のご計画のために用いてくださるお方なのです。私たちもそのように自分と人を見る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 29章15-35節◇(3月5日)

「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。」…創世記29:31

旅を続けたヤコブは、不思議な主の導きによって、母リベカの兄ラバンに会うことができました(1-14)。その娘であるラケルは容姿が美しく、彼女こそ妻とすべき女性だと彼は確信したのです。ヤコブは、ラケルと結婚したいとラバンに願い、7年間あなたに仕えましょうと申し出ました。しかし、事はそう簡単には進みませんでした。その7年が経ち、結婚の祝宴を催したラバンは、ヤコブと夜をともにする相手として、なんと、ラケルではなく妹のレアを行かせたのです。ヤコブはラバンにだまされたのです。朝になり驚いた彼は文句を言いましたが後の祭りです。結局、ラケルを妻として迎えることの承諾は得ましたが、さらに7年間仕えるということがその条件だったのです。しかもレアとの夫婦関係も無効にはできませんでした。そのレアには4人の男の子が産まれました。一方、ラケルの胎は閉ざされたままでした。レアは子どもに、ルベン、シメオン、レビ、ユダという名をつけましたが、その名前にはそれぞれ意味がありました。「主は私の悩みを見られた」、「主は私が嫌われているのを聞かれた」、「今度こそ夫は私に結びつく」、「今度は主をほめたたえよう」と…。それらの名は、主がレアをあわれみ取り扱われたという「証し」です。そしてその子孫から、祭司や、ダビデ、キリストが生まれたのです。ヤコブはそのような仕打ちに会い、何を思ったでしょうか。かつて自分が兄ヤコブをだましたことを思い起こし、自らのそのようなあり方を悔い改めさせられたことでしょう。また、旅の途中のベテルにおいて、夢の中で主から、「あなたの子孫は地のちりのように多くなり…」、「あなたをこの地に連れ戻そう…決してあなたを捨てない」という約束が与えられたことを思い起こしていたことでしょう。ヤコブにとって、ラバンの元でのさまざまな試練は、従順と忍耐を学び、自らを省み成長するための主の祝福です。主からの試練をそのように受けとめる者は幸いなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 創世記 28章◇(3月3日)

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」…創世記28:15

28章はハランへのヤコブの旅立ちの記事です。その旅立ちのきっかけとなったのは、エサウに変装して父が与える神の祝福を横取りしたヤコブが、兄から恨れた弟が殺されることを恐れた母リベカから、自分の兄ラバンの元へ逃げよと促されたことです(27:43)。しかし父イサクがヤコブの出発にあたり告げたことばは、そのことについて言及するものではなく、カナンの娘ではなくラバンの娘を妻とせよとの命令であり、全能の神がヤコブと子孫を繁栄させ祝福してくださるように、カナンの地を継がせてくださるようにとの神への祈りです。ヤコブにとってその旅は逃げて身を隠すためのものではなく、ふさわしい妻をめとってカナンに戻ってくるという希望を抱き、神の祝福にあずかるために出て行くものだったのです。ヤコブは旅立ってハランへと進んで行きました。夜になり石を枕にして寝ていると彼は夢を見ましたが、その中で主が彼のかたわらに立って仰せられました。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、地上のすべての民族はあなたと子孫によって祝福される、わたしはあなたとともにあって守り、この地に連れ戻す、その約束を成し遂げるまで決してあなたを捨てない…と。そのような神ご自身からの祝福の約束のことばは、家族や友人、住み慣れた町を離れて独りぼっちになり、エサウの恨みを買っていることからくる恐れにとらわれ、ラバンの娘と結婚できるのかと懸念しているヤコブにとって、この上もない大きな励ましとなったに違いありません。眠りから覚めた彼は、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言いましたが、それは、単に主の存在に気づかなかったということではなく、偉大な祝福をもたらされる神が、荒野にいるちっぽけな者に、確かに現われてくださったことへの驚きと畏れのことばです。そしてインマヌエルなるキリストもまた、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と、私たちに約束してくださっているのです(マタイ28:20)。その主に信頼し、恐れずに進んでいきたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第三◇(3月2日)

「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」…3ヨハネ4

ヨハネが「私の子どもたちが」と言っていることに、心が留まります。この手紙は、紀元90年頃に、ガイオという人物に対して個人的に宛てたものですが、地上での生涯を間もなく終えようとしている彼は、ガイオを初め、自分が教え導いてきた霊の子どもたちが神の真理のうちを歩んでいるということを耳にするたびに、この上ない喜びに満たされるのだと言っているのです。ヨハネは、パウロとは違う歩み、働きをしましたが、主イエスの12弟子の一人としての自覚を持ち、キリストのからだなる教会を、信仰の共同体として、神の家族である兄弟姉妹といっしょに建て上げていく、また、恵みの福音とは異なる教えを断固として排除する、そのような強い意識を常に持って生きていたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか。個人主義がますます拡がっている現代の風潮にあって、「人は人、自分は自分」と、他者との間に距離を置き、最低限の関わりしか持たないようにする考え方が、信仰共同体であるべき教会の中においても、一人ひとりの信仰者のうちでも増しているように思えます。しかしパウロもこのように言っているのです。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め(なさい)」(コロ3:16)。ヨハネが彼の手紙において強調していることは、「真理のうちを歩む」ことがいかに大切かということです。そして何よりもそれを主が願っておられるということです。「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはない」というヨハネのことばは、神ご自身の私たちに対することばにほかならないのです。真理のうちを歩むとは、神のみこころに従い続けることです。真理のうちを歩むとは、主の光の中に留まり続けることです。真理のうちを歩むとは、互いに愛し合うことです。そして互いに愛し合うとは、やさしくし合う、親切を施す、そのような人間的、表面的なことを意味するのではなく、主のみことばからともに教えられ、その真理のうちを一緒に歩もうと、互いに励まし合い、徳を高め合うことなのです。そのような者、また群れとさせていただきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨハネの手紙 第二◇(3月1日)

「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」…2ヨハネ6

1-4節で「真理」ということばが5回使われています。「私たちのうちに宿る真理…」、「真理はいつまでも私たちとともに…」とあり、真理の御霊として(ヨハネ14:17)、私たちのうちに住まわれる聖霊さまが思い起こされます。また、「真理のうちを歩んでいる」とあり、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われた主イエスが思い起こされます。ヨハネは、「…御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます」と言っていますが(4節)、真理のうちを歩むということは御父の命令であって、神の子どもとして当然従うべきことであるのです。では、それは具体的にどういうことなのか…。ヨハネは「互いに愛し合うこと」だと言っています(5節)。それは彼の第一の手紙でも強調されていたことですが、彼はさらに「愛のうちを歩むこと」だと言うのです(6節)。その「愛」は「互いに愛し合う」という5節からの流れで、私たちの持つ、兄弟姉妹、隣人への愛とも取れますが、その後の7節では、私たちが愛のうちを歩むべき理由として、偽教師、反キリストに惑わされないようにするため、神からの豊かな報いを受けることができるだとあります。「愛のうちを歩む」とは、何よりも神の愛のうちを歩むことなのです。神の愛、それは全き神として、また全き人として歩まれ、罪人である私たちのために身代りに十字架にかかられ、ご自身のいのちを差し出してくださった御子イエスにおいて現されています。この神の愛、キリストの愛こそ、私たちが常に立ち返るべきところなのです。そして、偽教師が言うような、キリストの贖いのみわざを抜きにした、人間の思想に基づく神の救いなどはあり得ないのです。また互いに愛し合って良い社会、道徳を確立しようとする、単なるヒューマニズムに望みを置くのも間違っているのです。真理のうちを、愛のうちを歩む…。まず神の愛に満たされて、その愛に応え、自分を愛し、隣人を愛する者とされていく…。それが、神が私たちに願っておられる歩みなのです。

主の祝福が豊かにありますように。