◇聖書箇所: ヨシュア記18章◇(6月30日)

「そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。『あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。』」…ヨシュア18:3

相続地の割り当てが決まっていない7つの部族は、リーダーであるヨシュアから叱責を受けました。すでに主によって与えられている地を占領するのを、いつまでぐずぐずして延ばしているのか…と。相続地全体の境界線は決まっていましたが、その中をどのように7つに分割するのかについては、実際に出て行き彼らが決めるべきことだったのです。優柔不断な彼らに対してヨシュアは、部族ごとに3人の者を選んで相続地を行き巡らせ、土地の詳細を書面で自分に報告するよう命じました。彼らは言われたとおり出て行き、それぞれの町を7つの割り当て地に分けて書物に書き記し、シロの宿営にいるヨシュアのところに戻りました。とは言え、それを見てヨシュアが割り当てを検討し、彼自身が決めるわけではありません。彼は主の前でくじを引き、7つの部族の割り当てを決めたのです。信仰とは最善をなされる主にすべてを委ねることです。しかしそれは私たちが何もしないことを意味しません。人間の側が果たすべき分が必ずあるのです。7つの部族はすでに与えられた地を実際に占領すべく、一つ一つの事を遅滞なく進めるべきであったのです。しかしどこの土地をどの部族が相続するのか、その割り当てについては、彼らでもヨシュアでもなく、くじによって、主ご自身に決めていただいたのです。シロの町には会見の天幕が建てられていました(1節)。そこは契約の箱が置かれているところであり、主の臨在が現され、民が主を礼拝する場所です。その町にヨシュアがいて、彼に調査報告がなされ、彼が行ったくじにより、民は神のみこころを知ったのです。私たちも自分のなすべき分をしっかりと果たしつつ、主の御前に出て御旨を尋ねる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記17章◇(6月29日)

「山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」…ヨシュア17:18(2017訳)

ヨセフ族、つまりマナセとエフライムの部族は、ヨシュアに苦情を申し立てました。主が祝福されたので自分たちは数の多い民となった、それなのに割り当て地はただ一つなのか…と。マナセ部族にはヨルダン川の東に加えて西の地域が、エフライム部族にはエルサレムの北50キロあたりに、くじによってそれぞれ土地が与えられていました。しかしそこが平野ではなく山地だったことや、先住民が一部に残っていることを理由にして、何とかならないのか…とヨシュアに訴えたのです。ヨシュアは、数の多い民であると言うのであれば、自分たちで森に上って行って地を切り開くがよいと、皮肉交じりに答えましたが、彼らはそれに反論し、山地を切り開くには労力が要る、経験が十分でない、それにカナン人たちは鉄の戦車を持っている…と、否定的な意見を述べて尻込みしたのです(16節)。思えば、カナンの地にモーセが斥候を遣わしたときも、ヨシュアとカレブの2人を除いた者たちは口を揃えて、その地に住む民は力強く、町々には城壁があるから、私たちはあの民のところに攻め上ることができない…と、同じように否定的な報告をしたのです(民数13:28-31)。しかしそのとき主はヨシュアにこのように言われました。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」(ヨシュア1:9)。ヨシュアは不信仰なヨセフ族の次世代の者たちに対して、たとえ山であっても、敵が強く、鉄の戦車を持っていても、主がともにおられ、主が戦われ、主が勝利されるのだ、だから雄々しくあって追い払え、と言って励ましたのです。私たちもしばしば、「山」や「鉄の戦車」におじけづきますが、信仰をもって雄々しく戦い、「敵」を追い払う者でありたいと願います。

主が戦いに勝利をもたらしてくださいますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記16章◇(6月28日)

「こうして、ヨセフ族、マナセとエフライムは、彼らの相続地を受けた。」…ヨシュア16:4

ユダ族に続き、ヨセフ族への土地の割り当てが、16、17章に記されています。実際には、ヨセフの2人の息子であるエフライムとマナセに、12部族のうちの2部族として割り当てています。ではなぜ、ヤコブの子ではなく孫であるその2人に、相続地が与えられたのでしょうか…。それは、2人がヤコブの「子」とされたからです(創48:5)。ヤコブはその2人の頭上に手を置いて祝福するとき、わざと右手と左手を交差させて、右手を置いた弟のエフライムに長子の祝福を与えました(創48:14)。ヨルダン川の西側の土地の割り当てについても、まずエフライムの相続地が記されているのです。ヤコブの息子の長子はルベンでしたが、その長子の権利はヤコブに与えられました(1歴5:1)。ヤコブはヨセフに、「あなたの父の祝福は、…ヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。」と告げ、彼に特別な祝福を与えたのです(創49:26)。そしてその祝福は、彼の子、エフライムとマナセにも、相続地の割り当ての祝福として与えられたのです。兄たちに嫉妬され、井戸の中に投げ込まれ、身売りされ、理不尽な扱いを受けたヨセフ…。その後も彼はエジプトで濡れ衣を着せられましたが、それらの苦難は神の「選び」のゆえであったのです。それは神がヨセフを取り分け、聖別し、訓練し、豊かに祝福し、その祝福が家族、イスラエル民族、さらにエジプトや他国の人々に及ぶためであったのです。私たちもまた主に選び出された者です(ヨハネ15:16)。それは、私たちがこの世から取り分けられ、聖別され、試練を通して訓練を受け、神からの豊かな祝福を受け、さらにその祝福を多くの人々に押し流すためです。多くの実を結び、父が栄光をお受けになるためなのです。主に選ばれた者であることを絶えず覚えたいと思います。

神の国の祝福が私たちを通してもたらされますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記15章48-63節◇(6月27日)

「ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである。」…ヨシュア15:63

今日の箇所にも、ユダ部族の相続地に属する多くの町の名前が挙げられていますが、63節には、北の境界線上にあるエルサレムでは、エブス人がいっしょに住むことになったとあります。「エブス人のいる傾斜地、すなわちエルサレム…」と8節に書かれてあるとおりです。そしてその状況は、ダビデの時代まで続いたのです(2サム5:6-7)。なぜエブス人を追い払うことができなかったのか…。身体的に勝っていたのか、戦略が優れていたのか、自然の要害のようなエルサレムの地形を利用し、徹底抗戦したからなのか…、それは不明です。いずれにしても、それも主の御手のうちにあること、人には測り知れない主のご計画であったのです。私たちは完全、完璧をつい目指そうとします。そのこと自体は決して悪いことではありません。しかしそうなったとき、自らの力でそれを成し遂げたとうぬぼれてしまい、神に栄光を帰そうとしないなら、もちろんそれは神のみこころではないのです。神はしばしば私たちのうちに、「追い払えないもの」を、あえて置かれます。パウロもこう言っています。「…私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。…これを私から去らせてくださるようにと、3度も主に願いました。 しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです」(2コリ12:7)。自分のうちにある弱さ、欠け、「とげ」を主の前に認め、それを主のみこころとして受け容れる者となるとき、主は恵みのうちにそのところに御力を完全に現され、私たちをご自身の栄光のために用いてくださるのです。与えられたすべてを感謝する者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記15章20-47節◇(6月26日)

「アシュドデと、それに属する村落、すなわち、村々。ガザと、それに属する村落、すなわち、村々。エジプト川と大海までとその沿岸。」…ヨシュア15:47

15章20節からは、ユダ部族に割り当てられた相続地の中にある多くの町々の名前が、一つ一つ具体的に挙げられ記されています。その中にはベエル・シェバのように(28節)、聖書にたびたび登場する有名な町もありますが、その他はほとんどが馴染みのない町々です。また「町と、それらに属する村々」とあり(32節等)、町よりも小さく人口の少ない村々がさらに、数多く点在していたことがそこからわかります。そこでは確かに人々が生活しているのです。主がアブラハムと結ばれた契約による祝福が、「土地」であり「子孫(人々)」であることをあらためて覚えます。聖書に記されているのは町の名前だけですが、町や村で暮している者の名もすべて主は知っておられ、その大切な一人ひとりに御目を注いでおられるのです。私たちは決して主の前に十把一絡げではないのです。そのようにして、ようやく主の民は定住するようになりました。奴隷として捕らわれていたエジプトから主によって導き出され、40年間の荒野の旅が守られ、すべての必要も満たされ、カナンに入っても先住民との戦いをなお余儀なくされましたが、最終的にそれらから解放されて安住したということです。「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」(申命5:15)。安住しても忘れてはならないこと、それは主の救いです。自分たちがどこからどのようにして贖われた者たちなのか…。それを毎週覚えるために安息日の礼拝があるのです。忘れずに覚えつつづけること、原点に常に立ち返ること…。それがいつの時代にあってもご自身の民に対する主の御旨です。安住してもなお、主の贖いの恵みに立ち返りたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記15章1-19節◇(6月25日)

「ヨシュアは、主の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父であった。」…ヨシュア15:13

ヨルダン川の西側にあるカナンの地の割り当てが、イスラエルの9部族とマナセの半部族に対し、ヨシュアと部族のかしらたちによってなされました。15章ではまずユダ部族の割り当て地を示すべく、どこがその境界線になっているのかを、東西南北それぞれに対して具体的に記しています。北の境界線は町をつなぐ形で定められましたが、その割り当てが詳細で明確なことに驚かされます。彼らがそのように各部族の相続地を決めた方法、それは徹底した話し合いではありませんでした。それは「くじ」によってなされたのです(14:2,15:1)。くじと聞くといい加減なやり方のようにも思えますが、それは神が指定した方法だったのです(民26:56)。くじに神が介入されみこころが現されると信じて、その結果を神からのものとして受け取ったのです。13節には、ヨシュアがエフネの子であるカレブに、ヘブロン(キルヤテ・アルバ)を割り当て地として与えたとあります。カレブは、45年前に斥候としてカナンの地に上ったときのことを持ち出して(14:12)、ヘブロンを相続地にしてほしいと願い求めたのです。そしてこのときも、ヨシュアの判断と決定は、カレブのことばや熱心さにはよりませんでした。「主の命令で」(直訳「主の口により」(2017訳脚注))、それはなされたのです。ヨシュアは、主に尋ね、主の御声をしっかりと聞いて、それを決めたのです。相続地の割り当てという重要かつ責任を伴う作業…。そこに人間的な意見、考え、判断を持ち込むことなく、信仰をもって主に祈り求め、委ね、御声に従う…。ヨシュアたちのそのあり方は、信仰者である私たち、その共同体である教会にとって大切なことなのです。主のみこころを絶えずへりくだって求めたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記13章15-33節◇(6月23日)

「レビ部族には、モーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおりにイスラエルの神、主が彼らの相続地である。」…ヨシュア13:33

今日の箇所には、モーセによって割り当てられた、ヨルダン川の東側の町々の名が記されています。それはルベン族、ガド族、マナセの半部族にそれぞれ与えられた町々であり、相続地です。しかしレビ族には相続地が与えられませんでした。なぜ彼らには相続地が与えられなかったのでしょうか。13章14節にも、「ただレビの部族だけには、相続地が与えられなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが」(「主への食物のささげ物こそが」(2017訳))、彼らの相続地(「彼らへのゆずりの分」(2017訳))であった」とあります。レビ部族は、幕屋や神殿において、神への礼拝の奉仕をもっぱら担う者たちでした。彼らは他の部族の町に住まわせてもらったのです。相続地とは土地であり、ゆずりの分とは生きていく上で必要なさまざまなものです。自分たちの土地があれば、作物を育てて自給自足の生活をすることができます。しかしレビ族によっての相続地は主ご自身であり、彼らはいっさいを主に拠り頼むしかなかったのです。そして主は彼らの必要をすべて満たされたのです。私たちは選ばれた種族であり、祭司です(1ペテロ2:9)。私たちは霊的な意味でのレビ族なのです。自らをきよく保ち、主に礼拝をささげる者であるのです。また民のためにとりなす務めが与えられているのです。その私たちのゆずりの分もまた、主ご自身であって、主が私たちのすべての必要を満たしてくださるのです。しかし私たちは、ともすれば他の部族をうらやみ、おろかにも、目に見える相続地を求めて探し回ってしまいます。ゆずりの分である神ご自身を切に求めようとしないのです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)。「主が私たちの相続地である」ことをしっかり覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記13章1-14節◇(6月22日)

「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」…ヨシュア13:1

ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。彼は百十歳まで生きたとあります(24:29)。このときはすでに百歳近かったと思われます。そのヨシュアに対して主は言われたのです。「まだ占領すべき地がたくさん残っている」と。彼は、イスラエルの民を導き、カナンの多くの国々の先住民たちと、長い間、勇敢に戦ってきました。しかし主は、ヨシュアに、「よくやった、もう十分だ、あとはゆっくり休むがよい…」とは言われなかったのです。まだあなたのなすべきことがある、と言われたのです。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示2:10)。信仰者にとって会社のような「定年」はないのです。この地上での生涯を終えるその瞬間まで、主のみこころに忠実に従うことが求められるのです。主の働きを忠実に果たすしもべであるべきなのです。たとえ肉体的に衰えたとしても、主を賛美し続け、主は生きておられる…と、人々に証しをし続け、破れ口に立ってとりなし祈り続ける者となるのです。「まだ占領すべき地がたくさん残っている」。それは、敵の残党を聖絶する必要があるということです。13節には、「イスラエル人は、ゲシュル人とマアカ人とを追い払わなかったので、ゲシュルとマアカとは、イスラエルの中に住んだ」とあります。敵とは外の敵であると同時にうちにいる敵でもあります。私たちはキリストにあって罪赦された罪人です。しかし、その罪がきれいさっぱりなくなったわけではないのです。パウロは、自分のしたくないことをしてしまうのは、私のうちに住む罪だと告白しましたが(ローマ7:20)、私たちは日々、十字架のキリストを仰ぎ見て血潮を受け、その罪を聖霊さまにきよめられる必要があるのです。「主よ、私のすべてを占領してください、罪からくる思いを聖絶してください」と、主に祈る者でありたいと願います。

主の確かな守りがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 28篇◇(6月21日)

「私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。」…詩篇28:2

「主よ。私はあなたに呼ばわります。…どうか私に耳を閉じないでください…」と、詩人は主に向かって率直に訴えています(1節)。悪者や不法を行なう者どもがのさばっており、それに対して主が沈黙を続けているような、自分の祈りに耳を閉ざしているかのような、そんな思いにさえ詩人はなっていたのです。「ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた」(6節)。5節までの訴えからすると唐突とも思えますが、詩人はそのように告白し、そのことを喜び、主にほめ歌を歌いつつ、感謝しています(7節)。主のみわざが突然、鮮やかに現されたからです。主の介入により、状況が劇的に変化したのです。主は確かに私たちの叫びを聞いておられます。そしてご自身の「時」に御手を動かされるのです。叫びが神の元に届いていないと勝手に考えて、私たちは祈りをやめてしまってはならないのです。詩人は、至聖所と呼ばれる所に向かって手を上げ祈りました。そこは主の臨在が満ちている所です。またそこには契約の箱があり、中には、神が与えた十戒が書かれた、2枚の石の板が入っていました。その聖所の奥に向かって手を上げ祈る詩人は、そこにおられる主の介入を心から待ち望むと同時に、律法、すなわち主のみこころに従順に従うという思い、また、自分を明け渡し、願いの結果や実現の時も、いっさいを主に委ねるという思いであったのです。私たちも、こうしてください、ああしてくださいと、自分の願いを一方的に押し通そうとするのではなく、主は確かに聞いてくださっているという信頼をもって、すべてを主に委ねつつ祈る者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 27篇◇(6月20日)

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」…詩篇27:4

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう」(4節a、新共同訳)。そのように詩人が願ったひとつのこととは、いのちの日の限り主の家に住むことであり、そこで主を仰ぎ見てその麗しさに目を注ぎ、神の偉大さやみ教えの確かさなどについて、心を留めて思い巡らすことであったのです。詩人は敵に襲われるという目に会いました。しかしその敵は神によって倒されたのです。詩人に危害が及ぶことはなかったのです。主が詩人の救いとなってくださったからです。いのちのとりでとなって守られたからです。だからこそ詩人は、だれをも恐れず怖がらず、戦いが起こっても動じないと告白したのです。その詩人のただ一つの願いとは、敵の手から守ってください、ということではありませんでした。主の豊かな臨在の中に導き入れられ、そこで、その麗しい御顔を慕い求めることであったのです。「私のいのちの日の限り主の家に住むことを」。私たちが地上での歩みに心奪われるならば、神への願いは、財産を築くことや地位を得ること、毎日を楽しく過ごすことになるかもしれません。しかし私たちの歩みは永遠へと続くものなのです。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」と主イエスは、ご自分の足もとに座って交わりに没頭している妹を見て、腹を立てた姉のマルタに向かってそう言われました(ルカ10:42)。主を慕い求め、親しく交わる中で御声を聴くことを、何にも優先させて歩む者でありたいと願います。

主のご臨在が絶えずありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 26篇◇(6月19日)

「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」…詩篇26:2

「私はあなたの真理のうちを歩み続けました」、「私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません」、と詩人は告白しています。しかし詩人は、自分は悪者とは同じではないと、自らの正しさを誇っているわけではありません。むしろ自分の罪深さを深く自覚しているのです。そしてそれを責め立てる敵、悪しき者の告発から、私を弁護してください、と主に求めているのです。2節の後半は別の訳ではこうなっています。「私の心の深みまで精錬してください」(2017訳)。「はらわたと心を火をもって試してください」(新共同訳)。精錬とは、純度の高い金などを確保するために、火で溶かして不純物を分離して取り除くことです。詩人は、自らのうちに主に喜ばれない不純物があると、それは除去されなければならないと認めているのです。そしてそのことを主に願い求めているのです。「どうか私を贖い出し、私をあわれんでください」(11節b)。詩人は、そのようにへりくだって主に祈り求めています。「私は救われた。神さまに愛されている…」。そのように、素直に喜ぶことは大切です。とても素晴らしいことです。しかし私たちは救いの完成を待ち望む者なのです。主が来られる終わりの日まで工事は続いているのです。詩人が言うように、私たちのうちには不純物があって、日々、心の深みまで精錬していただく必要があるのです。みことばによって主に立ち返ることが求められるのです。「私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します」(8節)。キリストに贖われた私たちにとって、その所とは聖霊さまが住まわれる自分自身のことです。主に愛されているとは、私たちが、キリストにあって、神から罪赦され、受け容れられているということです。そこに立ち返るときに真の喜びが心に湧き上がるのです。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者とされるのです。日々、主に吟味され、きよめられ、変えられたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 25篇◇(6月18日)

「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」…詩篇25:4-5

詩人ダビデは、敵の存在を覚えつつも、ただ神に拠り頼む者となって、神を侮る敵が恥を見ることを願っていました。主に信頼する者が御手の中で守られ、その歩みが確かにされると信じていたのです。ダビデはまた、自らの歩みを危うくする敵が、自分の内にいるということも知っていました。それは目に見える敵ではない、罪と咎という目に見えない敵です。そしてそれこそが人を神の祝福から遠ざけ、失意と破滅の道へと迷い込ませるのです。しかしダビデは、神が恵み深く、あわれみ深く、いつくしみに富んでおられることも知っていました。そしてその神が備えてくださる道を歩むならば、神の救いを得る、すなわち、内外の敵から守られて、神の豊かな祝福にあずかることができる、たましいに幸いを得られると確信していたのです。ダビデにとって何よりの願い、それは、その神の道を知ることでした。それは真理の道です。光に満ちており、闇に迷い込むことはないのです。またそれは永遠のいのちへと続いて行く道であり、そこを歩む者は決して死を恐れることがないのです。その道とは神ご自身であり、神のことば、み教えです。ダビデはその神を、1日中、絶えることなく待ち望み、神のみことばと導きを切に求めていたのです。それこそが、神の救いが自分のうちに確かにされ、すべての敵から守られるために、自分がなすべきことだと知っていたからです。私たちも神を絶えず待ち望む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 8章14-26節◇(6月16日)

「そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。』」…マルコ8:15

主イエスと弟子たちは、また湖の東側に行くべく、舟に乗って渡って行きました。そのとき、主は、パリサイ人たちのパン種に気をつけよと言われましたが、準備し忘れて一つしかパンがなかった弟子たちは、そのことを主から責められているのだと勘違いし、誰がいけなかったのかなどと議論し始めたのです。すると主イエスは、弟子たちの霊的な鈍さを嘆き、彼らに、わからないのか、目があっても見えないのかと言われ、さらに、群衆にパンを配った後、取り集めたパン切れはどれだけのかごにいっぱいになったのかと尋ね、そこでいったい何が起こったのかを思い出させたのです。主イエスが言われたパリサイ人のパン種とは、彼らの外面的、形式的な律法主義のことです。またヘロデのパン種とは、ヘロデを政治的に支持するサドカイ人のこの世的な物質主義のことです。彼らはそれらに心を奪われており、敬虔そうに見えても、真実に神を愛し信頼する心を持っていなかったのです。そのような彼らの間違った教えが、パン種がパン全体に強く作用するように、人々に悪い影響を及ぼすのだ…。あなたたちも、外面的、物質的なことに心を奪われるなと、主は弟子たちに警告されたのです。しかし彼らは、その主のことばを霊的に悟ることができませんでした。一つしかないパンのことで言い争ってしまったのです。パンが一つあれば主はそれを増やすことができる…。主はあり余るほどに必要を満たすことができるお方だ…。弟子たちはそう信じているべきだったのです。なぜなら彼らは、群衆への給食の奇蹟を2度も経験したからです。しかし実際、彼らが霊的な真理を十分に悟るためにはなお、主がなされたことを繰り返し覚える必要があったのです。私たちも日毎にみことばに触れ、主のみわざを覚えるとき、神の偉大さと真理に霊の目が一歩ずつ開かれていきます。誤った律法主義やこの世の物質主義に影響されることなく、どんなときにも主に信頼する信仰が養われていくのです。みことばを、主ご自身を、絶えず慕い求めたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 8章1-13節◇(6月15日)

「弟子たちは答えた。『こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。』」…マルコ8:4

大勢の人々が主イエスを求めて集まっていました。すでに3日が経ちましたが彼らには食物がありません。かわいそうに思われた主は、弟子たちに対して、この人たちに食べさせてあげるようにと言われました。そう言われて弟子たちは主に答えました。こんなへんぴな所でどこからパンを手に入れるのかと。そのことばには主イエスに反発する響きがあります。さらにパンがいくつあるかと尋ねられた弟子たちは、「7つです」と答えました。「7つしかありません」と、きっと彼らは主に不満をぶつけたかったことでしょう。しかし主がその7つのパンを弟子たちの手から受け取り、手元にあった少しの魚とともに感謝をささげて配ると、およそ4千人もの群衆は、なんと食べて満腹したのです。弟子たちは少し前にも同じような場面に遭遇していました。そして主の奇蹟を目撃し体験していたのです(6:35-44)。にもかかわらず主のみわざを待ち望まなかった弟子たち…。そこに主に信頼しきれない人間の弱さと頑なさを見ます。人々に食べさせよう、と主から言われた弟子たちは、「このパンを前と同じように祝福し増やしてください」と、ただちに主に願い求めるべきだったのです。そのとき彼らはパンを7つ持っていましたが、「7つしかない」ではなく、「7つもある」と、神に感謝して受けとめるべきであったのです。そしてそれを祝福してくださる主に、期待すべきだったのです。主イエスは7つのパンを取り、感謝を神にささげられました。また、「魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから(「神をほめたたえてから(2017訳)」)、それらを祝福し、多くの人々の必要を満たされたのです。目の前の現状を見て「これしかない…」と嘆くのではなく、「こんなにある、与えられている」と神に感謝と賛美をささげ、主がそれをさらに祝福してくださるように祈りたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 7章14-23節◇(6月13日)

「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」…マルコ7:15

人を汚すもの、きよめられなくてはならないものは、実は、人の外ではなく、人の内側にあるのだ…。主イエスは重要な真理を群衆に教えられました。それは、イエスの弟子たちの中に洗っていない手でパンを食べている者がいる、それは規定違反だと、パリサイ人たちが非難したのを受け、主イエスが、あなたがたは神のことばを空文にしていると反論し、さらに事の本質を明らかにするためであったのです。しかし、弟子たちは悟ることができませんでした。主は彼らの物分かりの悪さを嘆きつつ答えられました。パリサイ人たちが問題視している「汚れたパン」は、腹に入り、消化され、結局はからだの外に排泄される…。しかし人の中から出る悪いものが人を汚すのであり、それらがきよめられ、取り除かれることのほうが、形式的なことに固執するよりはるかに大切なのだ…と。21-22節に挙げられているさまざまなものは、他人を汚す、すなわち、人との争いをもたらし、人を傷つけ、人に損害を与えるような事柄です。しかしその中に含まれる、貪欲、高ぶり、愚かさなどは、自分自身を汚す、つまり、自らを貧しくし、傷つけ、破滅させるものであるのです。汚す相手とは、他者であり、自分自身なのです。私たちは罪人です。生まれつきそのようなものが内側に存在しています。そして私たち人間は、自分の努力でそれらを取り除くことができないのです。それは神の赦しと救いを受けることによってのみ、可能とされることであるのです。そしてそのためにこそ、神は御子を、私たちのために与えてくださったのです。その御子が十字架の上で血を流されたことによって、私たちの罪と汚れと不義はきよめられたのです。「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」(1テサロニケ4:7)。召された私たちをさらに聖潔へと進ませるのは御霊です。絶えず聖霊さまに導かれて歩む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 7章1-13節◇(6月12日)

「また言われた。『あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。』」…マルコ7:9

「よくも神の戒めをないがしろにしたものです」という、イエスのもとに集まった律法学者たちに対する、強い口調での主イエスの非難が心に留まります。パリサイ人たちはモーセの律法に加えて、自分たちが事細かに考え出した別の規定を守り、また人々に守らせ、それができれば神の祝福にあずかることができる、そうでないならば神に受け入れられないとしたのです。主イエスのその強い非難は、弟子たちの中に洗っていない手でパンを食べている者がいたことを、パリサイ人たちが咎めたことへの反論だったのです。主イエスは、イザヤ書29章13節のみことばを引用し、そこに書かれているのは、まさに偽善者であるあなたがたのことなのだ、口先では敬っているが、肝心の心と思いは神から遠く離れているのだ、人間の教えを教えているだけなのだと言われました。そして、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしている、と切り捨てたのです(13節)。空文とは「無」です。彼らは余分なものを加えたどころか、本来の律法を彼らの人間の教えとすり替えてしまい、神のことば、戒めを無いものとしてしまったと言うのです。それは「異端」の教えだということにほかなりません。だからこそ主は、彼らをそれほど強く非難したのです。パリサイ人たちのような律法主義的信仰、つまり、形式や儀式などの目に見えるだけに捕らわれ、肝心の心が神から遠く離れているというあり方、これを守ってさえいれば神に救われる、祝福される、逆に守れないならそうならないとする考え方は、今の時代の私たちであっても容易に起こり得ます。しかしそれは、人間の教えを守り教えるだけであり、神の戒めをないがしろにしているということなのです。私たちの信仰は自己満足となってはならないのです。私たちの奉仕は自己実現の場ではないのです。私たちは、心が神から遠く離れていないか、自分を喜ばせるためではなく主が喜ばれることを純粋に追い求め、主にへりくだって仕えているのか、日々、みことばにより自己吟味すべきなのです(2コリ13:5)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 6章45-56節◇(6月11日)

「…イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」…マルコ6:50

主イエスは、弟子たちだけを強いて舟に乗り込ませ、対岸にあるベツサイダの町に先に行かせました。それほど時間がかからずに着ける予定でしたが、そのときは強い向かい風が吹いていたので、弟子たちが一生懸命舟を漕いでもなかなか前に進めず、夜中の3時を過ぎても目的地には達していませんでした。それを知った主イエスは、湖の上を歩いて、弟子たちのところに近づいて行かれました。当初は彼らのそばをそのまま通り過ぎるつもりでしたが、自分を見て幽霊かと思いパニックになった弟子たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と告げ、舟に乗り込まれたのです。強風はただちにやみました。弟子たちの驚きは非常なものだったと書かれています。弟子たちは何に対して驚いたのでしょうか…。主イエスが湖の上を歩いて近づいて来られたからです。またあれほど吹いていた風がパタッと収まったからです。それが超自然的であって彼らの理解を越えていたからです。しかし彼らはそのような奇蹟をすでに体験していました。同じように突風が起こって舟が沈みそうになったときも、主イエスが叱りつけると、ただちに風はやんだのです。多くの病人がいやされ、悪霊は追い出されていたのです。5つのパンと2匹の魚を主が増やされ、5千人以上の群衆が満腹するという奇蹟を、弟子たちは前日に見ていたのです。「…彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていた…」とマルコは記しています(52節)。弟子たちは、主が、すべてを支配している御国の王であり、その権威と力が及ばない領域は何一つないということを、まだ完全には理解できていなかったのです。主がおられず自分たちしか乗っていないという状況の中で、漁師たちであった弟子たちは、その舟を一生懸命漕ぐという、そのことだけに思いがとらわれてしまっていたのです。しかし彼らはまず、神に助けを祈り求めるべきだったのです。世の常識や自分たちの理解を越えた奇しい主のみわざを、どのような状況であっても待ち望むべきであったのです。私たちもそのような信仰をもって歩みたいと心から願います。

主の祝福と平安がありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 6章14-29節◇(6月9日)

「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。」…マルコ6:26

主イエスのことはヘロデ王の耳にも入りました。力ある主イエスの働きのことを知った彼は、「自分が首をはねさせたあのバプテスマのヨハネが生き返ったのだ…」と、非常な恐れを抱きました。17節以下にそのときのいきさつが記されています。ヘロデはヨハネを正しい聖なる人だと知っていました。彼を恐れて保護さえしていたのです。その教えを聞き、「悔い改めよ、メシアが来られる」という、直接的なメッセージにしばしば当惑を覚えつつも、神の国やメシアについて語られるその内容に、喜んで耳を傾けていたのです。ところが、ヘロデ王の兄弟ピリポの妻であったヘロデヤはそうではありませんでした。その結婚は律法にかなっていないと非難するヨハネを、消し去ってしまいたいと日頃から考えていたのです。そして王の誕生日の祝宴で踊った娘への褒美として、ヨハネの首を娘に要求させたのです。ヘロデはなぜ娘の要求を拒まなかったのでしょうか。「自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって」と、マルコはその理由を記しています。人の声に従うか、それとも神の声に従うか、他人の評判を気にして体面を保つことに心を注ぐのか、それとも神に従うことを追い求め自由の中に入れられるのか、それが、この物語から学ぶべきメッセージなのです。そしてその選択が私たちにも求められているのです。ヘロデ王は立派な王宮に住んでいました。毎日ごちそうを食べ、多くの家来が彼に仕えていました。しかし彼の心には絶えず恐れがあったのです。ヨハネを殺した罪の意識に苛まれていたのです。それは本当に不幸な人生です。そしてそれは、彼が人のことばに従うことを選んだ結果なのです。「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)。真理とは神のことば、主のみこころです。それに聞き従う者は幸いで平安な人生を送るのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 6章1-13節◇(6月8日)

「…そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」…マルコ6:5-6a

主イエスは郷里であるナザレの村に行かれ、安息日に会堂で神の教えを説き明かされました。それを聞いた人々は、最初はその知恵と、主イエスが行われる力あるわざに驚きましたが、そのうちその人物が、昔からよく知っている大工ヨセフの息子であることに気づくやいなや、たちまちその驚きは失望と嘲笑に変わったのです。そして、そのような人間的な見方にとらわれている人々のかたくなな心、不信仰に対して主は驚かれ、そこでは力あるわざを行わずに立ち去られたのです。それとは対照的に、主から権威を受けた弟子たちは、近くの村々に二人ずつ遣わされて行き、多くの悪霊を追い出し、大勢の病人をいやしました。人々が純粋に主のいやしと解放を求めていたからです。人々は主イエスのことをうわさに聞いていましたが、その弟子では力不足だとは考えなかったのです。人ではなく神ご自身の働きを求めていたのです。そして主がその信仰に答えてくださったのです。「知っている」という思いが人と神との隔てとなるのです。人は自分が持っている理解、知識、経験に基づいて考え、その枠から外れていると思うものを受け入れないのです。近所の大工の息子が神の真理を語れるはずがないと、固定観念にとらわれて、抜け出すことができないのです。現代の人々も、十字架のことばを信じるなら救われるなど、愚かでありナンセンスだとまともに取り合わないのです。「知っている」という思いが人と神との隔てとなってしまう…。それは主を信じる私たちにとっても例外ではありません。ともすれば、「それは何回も聴いてもう知っている…」と、まっさらな心できちんとみことばを受け取ろうとしないのです。有名な人のメッセージなら追っかけてでも聞こうとするのに、無名な伝道者の語るみことばには関心を示さないのです。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」。パウロはそのように言っています(1コリント8:3)。主が教えようとされているメッセージをしっかり聴くために、主が与えようとしている取り扱いを確かに受け取るために、いよいよへりくだって主の前に出て行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 5章35-43節◇(6月7日)

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』」…マルコ5:36

主イエスが、長血をわずらっていた女性に、「あなたの信仰があなたを救ったのです(2017訳)」と語っているところに、人がやってきました。それは、そのとき主イエスとともにいた会堂管理者ヤイロに、娘が亡くなったことを知らせる家の者だったのです。ヤイロはすでに主イエスに、死にかけている自分の娘のところに来て御手を置いてください、助かるようにしてくださいと懇願していました(5:22)。「間に合わなかったか…」と悲嘆しかけたヤイロに主は、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。そして3人の弟子たちとともに彼の家に向かったのです。ヤイロの家では娘の死を悼む人々が集まり、取り乱して大声で泣きわめいていましたが、主イエスが、死んだのではなく眠っているのだと彼らに告げ、子どもの手を取って「少女よ…起きなさい」と命じると、なんと、娘はすぐに起き上がって歩き始めたのです。人々は口もきけないほど驚きました(42節、2017訳)。娘が亡くなったとの知らせを聞いて家に戻る道中、ヤイロの心はいったいどのような思いであったのでしょうか。もちろん大きなショックを受けていたに違いありません。しかし彼のうちには望みが確かに与えられていたのです。そしてそれは、「恐れないで、ただ信じていなさい」という主イエスのことばから来る望みであったのです。どのようにしてかはわからない…しかしそう言われた主が、娘を助けてくれと頼んだ自分の願いに必ず答えてくださる…。そのように彼は、一緒に家へ向かってくれているイエスを信頼したのです。「ただ信じていなさい」との主のことばに立ち続けたのです。彼は、長血をわずらっていた女性にもたらされた、主イエスへの信仰によるいやしと救いを目撃していました。そしてそれは自分の娘にも起こると励しを受けていたのです。私たちの目に映るものは否定的な事柄だらけです。耳に届く情報も希望を失わせるようなものばかりです。しかし聖書は、神の偉大なみわざの記事に満ちています。主のことばは真実であって必ずそのとおりになるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい」。主は私たちにも確かにそのように語っておられるのです。主に信頼し続け、しるしと不思議なわざを見させていただきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 5章21-34節◇(6月6日)

「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」…マルコ5:34(2017訳)

主イエスと弟子たちは再び舟でガリラヤ湖を渡り、ゲラサ人の地から湖の西側へと戻ってきました。大勢の群衆が主イエスを求めて一行に押し迫り、その中には長血をわずらっていた女性もいました。長血とは月の障りが止まらない婦人病です。12年間もその病のゆえに悩み苦しんでいた彼女は、主イエスの衣にさえさわればきっと治ると考えて、群衆の中で押し潰されそうになりながらも、主に後ろから近づいて大胆にその衣に触ったのです。そしてその瞬間にいやされたとの確信を得たのです。自分のうちから力が出て行ったことに気づいた主は、誰が衣にさわったのか名乗り出るように求めました。彼女は恐れおののきつつ主イエスの前にひれ伏し、起こったこと、真実を余すところなく打ち明けました。そしてそれは彼女が、肉体のいやしだけでなく、罪と責めからの解放を受けるためであったのです。当時、肉体の病は、その人あるいは先祖の罪ののろいによるものだと考えられていました。また彼女は、長血のゆえに人々から汚れた者とされていたのです。医者でさえ収入源としか彼女を見ていなかったのです。主イエスは彼女の痛みと苦しみを知っておられました。そして、「衣にふれさえすれば治る」と考え行動した彼女の信仰を称賛し、彼女に「救い」を宣言するために、大勢の群衆の前であえて名乗り出させたのです。神がキリストにあって私たちに与えてくださる「救い」とは、罪の赦しにとどまらない、からだと心のいやし、責められる思いや劣等感からの解放などを含んだ、全人格的な回復をもたらす神のみわざのことです。神が創造され、「非常に良かった」と評価された、神が意図された「人」を取り戻すための贖いなのです。エデンの園で蛇の誘惑により神に背いてしまう前の、断絶のない親密な関係を修復するための働きなのです。キリストこそその救いをなすことができる真の医者なのです。そのキリストへの信仰によって救いはもたらされるのです。主をいよいよ求めて大胆にみそばに近づきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 5章1-20節◇(6月5日)

「しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』」…マルコ5:19

主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の東側に位置する、デカポリス地方と呼ばれるゲラサ人の地に着きました。そこには汚れた霊につかれた一人の男の人がいて、大声でわめいたり、自傷行為を繰り返していたのです。困った近くの住民は彼を鎖や足枷でつなぎ留めましたが、それも引きちぎられてしまう手に負えない状態でした。主イエスが舟から上陸されるとその人はただちに、主の元に駆け寄って来て大声で叫んで言いました。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください」(7節、2017訳)。それは、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と、主イエスに命じられた汚れた霊が発したことばです。汚れた霊は「いと高き神の子イエス」と正しく認め、「私を苦しめないでください」と嘆願しているのです。それは、主イエスが御国の王として来られた方であり、神のみこころのうちに統べ治める権威を持っておられ、その権威に自分たちも従わなくてはならないことを、知っていたからです。そうなるのを恐れていたからです。結局、汚れた霊どもは豚の群れに乗り移ることを許され、悪霊につかれていた人は解放されました。そして、主がなしてくださったみわざがどれほど大きなものか、主の愛とあわれみがどれほど深いものであるのかを、その地方の人々に証しし伝える者とされたのです。私とあなたに何の関係があるのか、と悪霊は言いました。大いに関係があります。イエス・キリストは、悪しき霊の惑わしにより「縛られている」人々を解放し、ご自身の光の中に招き入れるために来られたのです。そのために十字架にかかってご自身のいのちを差し出し、墓からよみがえられて死と悪魔に勝利されたのです。すべての人はそのキリストによって捕らわれから解放され、罪から救われ、永遠のいのちに生きる者とされるのです。今も人々は自暴自棄となり自己憐憫にとらわれています。そこから解放し救ってくださるのはキリストだけなのです。人々のうちに「御国が来るように」祈り続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 4章35-41節◇(6月4日)

「イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。』」…マルコ4:40(2017訳)

「向こう岸へ渡ろう」と主イエスに促されて、弟子たちは主を乗せた舟を出帆させました。ところが途中で激しい突風が吹き付けて来たために、舟が水をかぶって沈みかける事態となったのです。弟子たちはパニックに陥りました。漁師である彼らも、荒れ狂う湖に投げ出されれば助かる見込みはありません。必死に水をかき出す彼らがふと船尾のほうを見ると、なんと主イエスは枕をして眠っているではありませんか。弟子たちは腹立たしく感じて主を起こして抗議しました。「私たちが死んでもかまわないのですか」と(38節、2017訳)。すると主は風と湖に「黙れ、静まれ」とお命じになり、それに従うように風はただちにやみ、湖は凪となったのです。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」と、主は、ようやく我を取り戻した弟子たちを見て嘆かれました。彼らはそのとき何を怖がっていたのでしょうか。それは自分たちの命が突然失われることへの恐れです。しかし主は確かに「向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。主がそう言われたのであれば、たとえ途中で嵐にあっても、舟が沈みそうになっても、必ず向こう岸に渡れるのです。弟子たちは、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と言いました。しかし主はすでに、多くの人々から悪霊を追い出し、さまざまな病をいやしていたのです。弟子たちは、そのすばらしいみわざを目撃していたはずなのです。しかし彼らにはまだ十分な信仰が育っていなかったのです。では弟子たちはそのときどうすればよかったのでしょうか…。眠っている主を起こさずに、漁師としての経験をフルに活かし、舟の体制を立て直しつつ乗り切ればよかったのでしょうか…。主はそこにおられたのです。翻弄される舟に、弟子たちといっしょに確かに乗っておられたのです。であれば弟子たちは、慌てることなく、腹立たしく思わず、向こう岸へ渡ろうと言われた主をすぐに起こせばよかったのです。起こった問題の解決を主ご自身に求めればよかったのです。主は舟の中の水を一瞬にしてなくすことさえできるお方なのです。私たちは自分の経験やがんばりに頼るべきではないのです。そしてそれが信仰をもって生きるということの本質なのです。

主はいつもともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書 4章1-20節◇(6月2日)

「みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです-みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」…マルコ4:15

道ばたに落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、そして良い地に落ちた種と、4つのケースについて主イエスは話されました。そしてその4つのケースは、1つ目よりも2つ目、2つ目よりも3つ目と、後のケースになるほど、種が芽生えて成長しているということがわかります。主イエスは人々にこのたとえを話された後、ご自分の周りにいた者たちに意味を明かされました。種蒔く人とは神であり、種とはみことばであり、最初のケースで鳥が種を食べてしまったとは、人々に蒔かれたみことば、つまり聞いたみことばを、サタンが持ち去ってしまうということなのです。種が芽も出さないうちに取り去られる最初のケース、それは4つのケース中で最も多く起こっているのです。なぜサタンは、そのように人々に種が蒔かれるとすぐ、みことばをせっせと持ち去っていくのでしょうか…。それはサタンにとって、みことばは脅威だからです。エペソ6:17には「御霊の与える剣である神のことば」とあります。それは神の武具で唯一の攻撃の武器です。また主イエスは、荒野でサタンの誘惑に会われたとき、「…と書いてある」と、みことばをもって退けられたのです。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人だと主は言われました。小さなものが大きくなり、わずかなものが全体に働く…。からし種やパン種のたとえが思い出されます(ルカ13:19-20)。そしてそれは神の国についての奥義なのです。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩126:5)。種である神のことばにいのちがあるのです。まず私たちがみことばをしっかりと受け取る者となり、そしてみことばを人々に伝え分かち合っていくならば、神の国は人の思いを越えて拡がっていくのです。サタンが支配するこの世に大きな影響をもたらすのです。

主が実を豊かに結ばせてくださいますように。

◇聖書箇所: マルコの福音書3章20-35節◇(6月1日)

「確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。」…マルコ3:27

エルサレムから下って来た律法学者たちは、人々を捕らわれから解放している主イエスに対して、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と、敵意をもってののしりました。しかしそのみわざは聖霊の働きなのであって(29節)、「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう」と(23節)、主が彼らに反論されたとおりであったのです。主は彼らに、強い人の家を略奪しようとするのであれば、まずその人を縛り上げなければならないと言われました。強い人とはサタンのことです。主は神の国を地上にもたらし、その神の国の現われである、いやし、解放、救いの働きが聖霊によって人々のうちに豊かになされていきましたが、それは見方を変えて言えば、御国の王の権威をもって、まずキリストがサタンを縛り上げ、手下の悪霊どもに対しても、主から権威を与えられた弟子たちが出て行って立ち向かい、キリストにある勝利にあずかっていったということなのです。十字架と復活により、キリストは死と悪魔に勝利されました。強い人サタンはすでに縛られ、敗北に定められています。しかしまだ最終的な勝利のときは来ていません。それはキリストが再びこの地上に来られるときなのです。ゆえに私たちは常に霊の戦いの中に置かれているのです。しかしそのことを恐れる必要はまったくありません。その戦いはキリストにあって、勝利の戦いであるからです。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペ6:11-12)。私たちは悪しき者に対して丸腰で戦うのではありません。神の武具を身に着ける必要があるのです(エペ6:14-17)。どんなときにも主にあって勇敢に戦い、敵の要害を打ち壊し、神の国を拡大していく、そのような者とされたいと願います。

主が戦いに勝利を与えてくださいます。祝福がありますように。