◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 16章13-24節◇(10月31日)

「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行いなさい。」…1コリ16:13-14

パウロは、手紙の結びのことばを書き始めようとする中で、何かを思い出したかのように、そして念を押すかのように、やや唐突ながら、いくつかのことを人々に命じています。「目を覚ましていなさい」。油を用意しないでとうとしているときに花婿が来てしまい、慌てた愚かな娘のたとえが思い起こされます(マタ25:1-13)。主イエスが再び来られる日はいつになるかわからない…。だから決して油断せずに目を覚まし、さまざまな教えの風に惑わされないよう心を見張れと、パウロは言っているのです。「堅く信仰に立ちなさい」。信仰とはすなわち、神への揺るがない信頼です。その土台は、パウロや弟子たちが宣べ伝えた神の国の福音であり、主イエスご自身なのです。そこにしっかり立ち続けるならば、私たちの歩みは、揺るがされない確かなものとされるのです。「男らしく、強くありなさい」。それは男性だけに向けたことばではありません。「男らしく」は、2017訳では「雄々しく」と訳されています。すべての聖徒が、主にあって強くされ、誤った教えで惑わす者たち、その背後の悪魔に対して恐れずに立ち向かえと、命じられているのです。「いっさいのことを愛をもって行いなさい」。「悪を憎んで人を憎まず…」という心をもって、人を裁かず、相手の徳を高めるため、すなわちみながキリストにしっかりととどまる者となるために、主にあって愛し合い、とりなし合い、一致を求め、キリストのからだを建てあげていくべきなのです。「主よ、来てください」ということばを最後に記したパウロ…。それは「マラナタ」というアラム語を訳したものですが、彼は筆を進めてきて、自分の働きに限界があることを覚え、しかし主に託されたそれを忠実になし、あとを主に委ねつつ、御国の王なるキリストがすべてを完全に統治される日、神の国の完成のときが来るのを、待ち望んでいたのです。私たちも、神に贖われた聖徒、キリストの弟子の一人として、そのように歩み続けて行きたいと心から願います。

主イエスの恵みがともにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 16章1-12節◇(10月30日)

「私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」…1コリント16:7

パウロは、コリント教会においてさまざまな問題が起こっていることを聞いて、心を痛めていました。そして、コリント教会を訪れ、教会の人々と会って話し、助言と励ましを与えることを切望していたのです。それは、手紙だけでは、言いたいことを正しく十分に伝えるのに限界があることを、彼が知っていたからです。そのように、すぐにでもコリントに飛んで行きたいと強く願っていたパウロでしたが、しかし、宣教の旅の計画を、人間的な思いで変更するようなことはしませんでした。エペソでは、主の働きのための門が広く開かれており、それを妨害しようとする反対者も大勢おり、パウロはコリントに行くべきかと主に祈り求める中で、今いるところにとどまるのを主の御旨だとしたのです。私たちもまた、前に進むべきか、とどまるべきか…と、悩むことがあります。そのときに、直面している問題、自分の願い、刻々と変化していく周りの状況を踏まえ、主の願いを受け取って決断することが求められるのです。自分は前に進みたいと願っていても、主が願われるならば、とどまるべきところにしっかりとどまらねばならないのです。「主がお許しになるなら」、コリント教会を訪れ滞在したい…。対応を迫られている状況の中でなお、パウロがそのように主の前にへりくだり、みこころを求め、それを優先させようとしていることに心が留まります。こうしたい、こうあるべきだと、自分の思いに固執してしまうことなく、柔らかい心をもって、そのときどきに与えられる確かな主の導きに従いつつ、最善をなされる主に委ねていく者でありたいと願います。

進むべき道を主が示してくださいますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 15章50-58節◇(10月29日)

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」…1コリント15:57

15章の最後の部分において、パウロは、キリスト者に与えられる勝利について述べています。その勝利は終わりの日、キリストの再臨によってもたらされるのであり、この地上の血肉のからだは、朽ちない不死の栄光のからだが与えられて変えられ、生涯をすでに終えた聖徒たちもよみがえるのです。パウロはそれがみことばの成就であることを示します。54節の「死は勝利にのまれた(呑み込まれた:2017訳)」は、イザヤ25:8の「永久に死を滅ぼされる」の引用であり、55節の「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」は、ホセア13:14の「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」の引用です。「死のとげは罪であり…」とありますが(56節)、それはアダムの原罪が死をもたらしたことを指しています。しかしそのことが書かれた創世記3章には、「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と、「原福音」と呼ばれる預言のことばが神から、蛇として表わされている悪魔に対し告げられているのです。人類の罪からの救済、ご自身との壊れた関係の回復、死と悪魔に対する勝利が、キリストの十字架と復活による贖いによってもたらされ、キリストの再臨によってそれが最終的に完成される…。その壮大な救いの計画は、今も神ご自身によって、着々と推し進められているのです。パウロは、そのことに思いを馳せつつ、今なお、この地上において労苦し、奮闘している中にあって、「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と、先取り感謝しています。その勝利は将来だけでなく、キリストがもたらした神の国の祝福として今、実際に味わうことができるからなのです。私たちの戦いは勝利の戦いであることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 15章20-34節(10月27日)

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」…1コリント15:20-21

「死がひとりの人を通して来た…」。それは、22節にあるように、取って食べてはならないと神から禁じられていた善悪の知識の木の実を、アダムが食べてしまった出来事のことです(創世記3章)。そのとき、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という、神の警告の通りになったのです。すなわち、有限の寿命を持ち、神との本来の関係を失うという、肉体的、霊的な死が、もたらされることとなったのです。「死者の復活もひとりの人を通して来た…」。神は、御子であるキリストをよみがえらせることによって、そのように、アダム以来、罪と死の恐怖の奴隷とされ、もがき苦しんでいた人類を、解放してくださいました。嘆きを喜びに、束縛を自由へと変えてくださったのです。そしてそれは、アダムとエバを誘惑して罪を犯させ、彼らとその子孫である人類に死をもたらした悪魔を、神がキリストの十字架と復活によって討ち滅ぼされ、その勝利に私たちをもあずからせる、ということなのです。「『彼は万物をその足の下に従わせた』」(27節)。そのことばは詩篇8篇6節の引用ですが、そこには、「従わせた」と完了形で書かれてあるのです。神は今も、すべてのものをその足の下、すなわち、ご自身の権威のもとに従わせておられるのです。私たちの肉の目にはそう見えないかもしれません。いまだに悪がこの世界を牛耳っているいるように思え、試練と困難の中で悩み苦しむことが多いかもしれません。しかし神は、ご自身の完全な統治がなされている神の国を、キリストによって、私たちのただ中にもたらされたのです。それを今も、教会を通し、聖徒たち一人ひとりを通して、この地に拡大し続けておられるのです。その働きを主に委ねられた者として、忠実に仕えていきたいと願います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 15章12-19節◇(10月26日)

「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」…1コリント15:17

キリストによってもたらされ、パウロが宣べ伝えた福音…。それは、15章3~5節にはっきりと書かれているとおり、キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られた墓から3日目によみがえり、弟子たちに現われたということです。そして、それを信じる者はみな救われるということです。その福音の要素のどれが欠けても、それはもはや福音ではないのです。不完全であり神のものではないのです。当時のコリントの教会には、ギリシャの思想の影響を受け、たましいの不滅は信じても、からだの復活は信じられない、また霊は善であっても、肉体は悪であると考える者がおり、その者たちはキリストの復活も信じていなかったのです。しかしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの罪の救いは完成していないとパウロは言っているのです。キリストの十字架と復活によって、私たちは贖われたのです。「神がキリストをよみがえらせた」というパウロのことばに、あらためて心が留まります(15節)。キリストが自ら、神としての力を現してよみがえられたのではないのです。死からのよみがえりは、父なる神によることだったのです。それは、キリストが十字架にかかり、死なれ、よみに下り、そこからよみがえってからだをもって現われたことは、すべて、全き人としての歩みであったということです。そしてそれは、聖徒たちもまた、ただそのキリストにあって、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、やがて終末の日に栄光のからだが与えられるということの根拠であるのです。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」(19節)。「この世にあって」は、2017訳では「この地上のいのちにおいてのみ」と訳されています。私たちがこの地上での祝福と繁栄にこだわるのであれば、それは天に国籍を持つ者としてふさわしい歩みではないのです。永遠を見る目、永遠を思う心を持って、天の故郷への旅路を続けたいと思います。

復活の主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 15章1-11節◇(10月25日)

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」…1コリント15:10

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」とパウロは言っていますが(1節)、なぜ彼は、すでに福音を聴いて信じ救われているコリント教会の人々に対して、あらためて福音を語る必要があったのでしょうか。それは、彼らの中に福音を正しく受け取っていない者がいて、パウロが伝えたものとは異なる教えによって惑わされ、教会全体が混乱と不一致に陥ってしまっていたからです。その福音の核となる内容が3節以降に示されていますが、その文脈において、復活して12弟子に現われたキリストが、自分にも現われてくださったこと、その自分は、月足らずで生まれた未熟児のようなものであること、使徒の中では最も小さい者、使徒と呼ばれる価値がない者であるとパウロは強調しています。それは、自分がかつて教会とキリスト者たちを迫害していたからであって、そのことがしばしば彼を苦しめることとなっていたのです。しかしそんな自分が神の恵みにより救われ、変えられ、他の使徒たちよりも多く働いているのだと彼は言います。それはもちろん、自慢しているのではなく、他の使徒たちを批判しているのでもなく、神の恵みとあわれみがいかに深いものであるかを、彼はあらためて強調しているのです。そのようにいかに自分が罪深く、神の恵みが深く、大きく、驚くばかりのものであるかを心にしっかりと刻むようにと、パウロはコリント教会の人々にここで伝えようとしています。福音は単なる教えではありません。福音とは、神が、キリストにあって私たちに与える、いのちそのものなのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20)。私たちもまた、絶えず、福音に生かされている恵みをしっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 14章20-40節◇(10月24日)

「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」…1コリント14:40

コリント教会のさまざまな問題を論じてきたパウロは、特に公同の礼拝における混乱を解消するために、すべてのことを適切に、秩序正しく行ないなさいと、一連の文脈の最後で命じ、それを結論としています。それは裏を返せば、事が適切に、秩序正しくなされないなら、混乱と不一致がどうしても生じてしまうということなのです。礼拝の中ではそれぞれが賛美し、教え、啓示を告げ、異言を話し、解き明かしをしますが、そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさいとパウロは命じています(26節)。そしてその「徳を高めるために」という部分を、2017訳では、「成長に役立てるためにしなさい」、また、新共同訳では、「あなたがたを造り上げるためにしなさい」と訳しています。なんのために礼拝においてそれらのことを行なうのか…それは、それぞれが自己満足するためではもちろんなく、自分に与えられているものをひけらかすためでもありません。それなのにコリント教会の礼拝では、競い合うようにして、自分に与えられたものを語ろうとしていたのです(30節)。それらもまた一人ひとりが主から与えられた賜物であり、他の人の、教会全体の徳を高めるためのものであり、お互いの霊的成長のために用いられるためのものであり、キリストのからだが建て上げられるためにあるのです。それなのに、かしらなるキリストの意志とは関係なく、各部分がバラバラに動くなら、混乱は避けられないのです。大切なことは、キリストのからだの各器官である一人ひとりが、キリストにしっかりとつながっていることです。かしらなる主ご自身のみことばの権威を認め、それに聞き従うことです。そこから秩序が生まれるのです。それは、地上的な意味での秩序ではなく、神がもたらされる霊的な秩序、正しさなのです。神は、混乱ではなく平和と秩序を与えるお方です。その神に、一人ひとりの、共同体の歩みを治めていただきたいと願います。

主の前に常に謙遜であることができますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 14章1-19節◇(10月23日)

「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」…1コリント14:15

今日の箇所から教えられることの一つは、偏ることなくバランスを取るということの大切さです。パウロはここで、異言…つまり神から与えられ神に向かって語る霊のことばだけでなく、すべての者が明快に意味を理解することができる知性のことばをもって祈り、賛美し、預言することが、教会の健全性を保つ上で必要だと言っているのです。それは私たちのからだを考えてもわかることです。野菜や魚を一切摂らずに肉だけを食べるという偏った食事をするなら、病気になってしまうのです。またパウロはここで、個と全体を考えています。個、つまり教会に集う一人ひとりが異言を話すなら、その人は自分の徳を高めることができますが、それだけで自己満足しているようであれば、異言を話さない人たちへの愛の配慮に欠けるのなら、他の人や教会全体の徳を高めることにはならないのです。それは決して成熟した者のあり方ではないのです。教会にはさまざまな立場の人が集っているのであって、知性のことばで教え、分かち合うことも必要なのです。私たちには心とたましいとからだが与えられています。それらは独立して機能するものではなく、密接な関係を持ち、統合された存在として、主に建て上げられているのです。私たちの霊と知性は、本来、一体となって働くものなのです。しかしともすれば私たちは、それを分けて捉えてしまいます。日曜日には教会で霊において主を礼拝し満たされますが、平日においては知性だけで考え行動しようとするのです。しかしそれは、啓蒙主義と呼ばれる、人間の理性を第一とし、合理性を求めようとする、人間中心のあり方と同じなのです。勉強や仕事の途中でも、ハレルヤ!と短く口に出しつつ、ともにおられる主をほめたたえ礼拝する思いを持ち続ける…。主よ導いてくださいと、異言と知性のことばで小さく祈る…。そのように、常に私たちの霊が主との交わりの中にあるなら、私たちの歩みはいのちにあふれた豊かなものとされるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 13章◇(10月22日)

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」…1コリント13:3

「愛がないなら…」、「愛がなければ…」と、1-3節で繰り返されていることばに心が留まります。パウロは、さまざまなすぐれた賜物を持っていても、それを実際に用いて良い行いをし、犠牲を払っても、愛がなければ、何の値うちもなく、何の役にも立たないと、きっぱりと言っているのです。ともすれば私たちは、それは言い過ぎであって、少しは値うちがあり、少しは役に立つはずだと考えますが、パウロは、愛がないなら、それらは人間的なもの、私たちの持つ肉なる思いから出てくることであって、それらによって神の御名があがめられ、御国が現されることはないと、断じているのです。彼の願いは、そのように、神による統治がこの地になされることであり、また彼は、それらの良い行いの根拠を、常に問うているのです。4節以降では、「愛は…」ということばが繰り返され、愛の本質が列挙され、愛とは何かが定義されています。寛容、親切、ねたまない、自慢しない、高慢にならない…私たちのうちにそのような性質がたとえあったとしても、それは全体の一部であって、それは不完全なものです。完全な愛…それは、私たちのために十字架にかかり、いのちをささげてくださったキリストのうちにあるのです。私たちがそのキリストの愛の中に取り込まれていくとき、その愛にどっぷりと浸り、満たされていくとき、「自分」という硬いものがその愛で溶かされていくとき、神の愛が、私たちを通して周りに拡がって行くのです。私たちにまず求められているのは、そのように日々、その神の愛に、主の御腕のうちに飛び込むことであり、十字架に示された初めの愛に立ち返ることなのです。決して自らの肉の力で、人を愛することではないのです。絶えず十字架を見上げ、キリストの愛に押し出されて歩む者とされたいと、心から願います。

主に愛されている喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 12章1-11節◇(10月20日)

「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」…1コリント12:11(2017訳)

12章には御霊の賜物のことが書かれています。この御霊の賜物については知っているけれども、ふだんからそれほど意識することはない…そのような人が多いかもしれません。しかしパウロは、ぜひ次のことを知っていてほしい(「知らずにいてほしくありません」:2017訳)と言って、その重要性をあらためてここで強調しているのです。この賜物について私たちが知るべきことの第一、それは、8-10節にあるようなさまざまな賜物が、同じ御霊によって聖徒たち一人ひとりそれぞれに対して例外なく必ず与えられているということです(4,11節)。自分には賜物がない…と嘆く必要はないのです。自分の賜物が何かを主に尋ねることが大切なのです。知るべきことの第二、それは、御霊の賜物は、みなの益となるために与えられているのであって、それぞれが自己満足、自己顕示するためのものではない、ということです(6節)。そのことをわきまえていないと、私たちはしばしば高慢な思いに捕われてしまうのです。知るべきことの第三、それは、それぞれの賜物は、御霊によって決められるのだということです。ある特定の賜物を主に願い求めることはできます。しかしそれを判断し決めるのはあくまで御霊なのです。私たちの思いではなく主のみこころによるのです。だから私たちは他の人の賜物をうらやんだり、自分の賜物に対して否定的な思いを抱いたり、「宝の持ち腐れ」にならないようにすべきなのです。自分の賜物を知り、それを用いて主の働きを進める…みなの益となり、御国の祝福を互いに分かち合っていく…そのことによって全体が建て上げられ、御国がさらに拡大していくのです。賜物は無限であり、8-10節のリストは、あくまでその代表的なものです。神がくださるその豊かさを、より積極的に祈り求めていきたいと思います。

主が一人ひとりを尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 11章17-34節◇(10月19日)

「…主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』」…1コリント11:23-24

今日の箇所でパウロが問題として指摘しているのは、「…めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいる」(21節)ことです。当時、コリント教会では、「主の晩餐」を普通の夕食といっしょに行なっていましたが、そのように、食事にあずかれない弱い者や貧しい者がいる一方で、それにはおかまいなしに我先にと晩餐の食事を食べ、酔ってごきげんになっている者たちがいたのです。しかしそれではせっかくいっしょに集会を持ったとしても、めいめいが好き勝手に飲み食いをする場に過ぎない、だったらわざわざ教会に来ないで家で食べなさいと、パウロは憤りを感じてその者たちに命じているのです。そこに見られるのは、自己中心という罪であり、神の家族、隣人に対する愛と配慮の欠如です。しかし、「主の晩餐」において主が取られたパンは、ご自身の手によって裂かれ弟子たちに渡されたのです。それは主のみからだが十字架において裂かれること、手足を釘打たれ、槍で脇腹を突き刺されることを示し、さらにその贖いによって救われ召し集められる者たちが、教会、すなわちキリストのからだの尊い各部分であり、欠くことのできない大切な存在であることを表わすのです。であるのに、弱い者たちをないがしろにするあり方は、主の晩餐にあずかるにふさわしいとは言えないのです。「わたしを覚えてこれを行ないなさい」と主は言われました。それは主の贖いを感謝するとともに、主の歩みを思い返し、弟子として、主に倣う者となる決意を新たにするということです。弱い者、貧しい者、傷ついた者、子どもたち…。主が愛を示し、積極的に関わりを持たれたのは実にそのような人々でした。その主は今、私たちにもそうあるようにと願っておられるのです。主にあってさらに成熟した者へと整えられたいと願います。

主の愛と恵みを分かち合うことができますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 11章1-16節◇(10月18日)

「…すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」…1コリント11:3

3節の「かしら」が意味するところ…それは、かしらが導くべき存在があり、それらは、かしらに対して従う関係とされているということです。またそれは、かしらがその存在の起源であって、従うべき存在はそこから生じたということです。それは、神の創造の秩序においてそうなのであって、両者の間に優劣があるわけではなく、ただ、神が定めた立場と役割が異なるということなのです。したがってここでの「かしら」は、この社会における、絶対的な服従を強いるようなものではないのです。「とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません」。11節は2017訳ではそのように訳されています。神はアダムのあばら骨からエバを造られ、アダムにふさわしい助け手として与えられました(創2:22)。男性は女性のかしらであり、女性は男性に従い、男性を助け、支えることが求められています。また男性は、女性を守り、導き、いたわることが求められているのです。そのように、男性と女性が一致し協力することにより、より完全な人となるのです。それは結婚ということに限らず、この社会における神が定めた秩序であって、聖書が示す奥義なのです。また「かぶり物」ということばが繰り返し出て来ますが、それはベールのようなものであったとされています。当時、女性の権利を主張する者たちがかぶり物をせず、神が定められた男性と女性の立場と役割を無視し、礼拝の中で我先にと、祈りや預言をしていたことを、ここでパウロは問題として取り上げているのです。神が定められた秩序を無視するとき、そこに生じるのは混乱と、争いと、神の国の拡大の停滞です。私たちのあるべき姿を指し示しす神のことばに従い、神の働きが推し進められるよう願い求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 12章◇(10月17日)

「愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。」…箴言12:16

怒り…私たちが生活の中で怒る理由はさまざまです。子どもがわがままでちっとも言うことを聞いてくれない…お願いしますと頼んでおいたのに忘れられてしまった…きちんとやっているのに上司から一方的に叱られた…。怒ること自体が悪いわけではありません。怒りもまた、神が私たちに与えられた感情なのです。しかしその怒りの感情に支配されてはならないのです。怒りをすぐにぶちまけてしまうのは愚かな者だ、しかし、はずかしめを受けても怒りを爆発させることなく、まずは一呼吸置いて冷静に捉える者は利口な者だと、みことばは教えています。ヤコブ書1章19節にも、「…怒るにはおそいようにしなさい」と書かれています。また、箴言12章16節の後半を、2017訳では、「賢い人は辱めを気に留めない」と訳しています。「気に留めない」とはどうでもいいということではなく、「絶対許せない」という思いに捕われないということです。私たちは、「こうあるべき」という考えに縛られがちです。そして他者をその価値観の枠に押し込めようとします。そして誰かがその枠からはずれていることに対して、寛容になれずにイライラし、怒りを覚えてしまうのです。しかしそれは、自分の考え方が正しいとすることであり、他者を自分が支配し従わせようとすることであり、神が持つ主権を自分が奪うことになりかねないのです。すべては主の御手のうちにある…と主の前にへりくだり、主の主権を認めるとき、私たちの不要な怒りは解消されます。「こうあるべき」と必要以上に固執する思いを主に明け渡し、最善をなしてくださる主への信頼をもって歩むならば、別に怒る必要はない…ということに目が開かれていきます。神は、ご自身の目に高価で尊い存在である一人ひとりを、あるがままで受け入れ愛するよう願っておられるのです。聖霊さまによってさらにそのように変えられたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 箴言 11章◇(10月16日)

「このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。」…箴言11:19

今日の箇所だけではありませんが、箴言全体の中で、「正しい者」という表現が何度も出て来ます。その「正しい者」が「悪者」と対比されているのです。みことばを読んであらためて思わされることは、その「正しい者」はいったい誰なのか…ということです。世間で言う正しい者とは、偽りのない人、品行方正な人、間違ったことを決してしない人というように、倫理的、道徳的な意味での「正しい者」のことです。そしてそれは人間の判断基準による正しさであるのです。しかし聖書が言う正しい者とは、何よりも、神との関係においての正しさ、つまり、神に喜ばれる者かどうかが正しさの基準なのです。箴言ではある事柄が別のことばでも表現されますが、正しい者とは、「直ぐな人」、「潔白な人」、「真実な者」、「まっすぐに道を歩む者」、「義を追い求める者」…なのです。それはその人のうちに正しさが元からあるわけではなく、主から与えられる義を追い求め、主のことばに聞き従い、主の道を歩み続ける者こそが神に喜ばれる者であり、主によって正しいとされ、いのちに至るということなのです。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される」(24-25節)。「ばらまいても」という部分を2017訳では、「気前よく施して」と訳しています。また「おおらかな人」という部分は口語訳では、「物惜しみしない者」となっています。神のみこころにかなう者、神の目に正しい者とは、惜しみなく与える者でもあるのです。主も、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われました。その主はご自身のいのちを惜しみなくささげてくださったのです。それは、私たちの罪を赦し、私たちを神の前に正しい者とし、永遠のいのちに至る者とするためであったのです。キリストにあって私たちに与えられているその救いを感謝しつつ、神の義を追い求める者、キリストに倣う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 10章17-32節◇(10月15日)

「正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない。正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚か者は思慮がないために死ぬ。」…箴言10:20-21

10章から15章までは、対照的な対句が2行に並べられる形式で書かれていきます。10章では正しい者と悪者とが対比されており、その中に、「ことば」に関して述べられている節がいくつかあります。昨日の箇所でも、「正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す」(11節)と書かれています。「舌」、「くちびる」、「口」、「ことば」と、表現は違いますが、その意味するところは、私たちの口から出る「ことば」です。私たちの舌、口は何のためにあるのでしょうか…。食物を摂り、味わうというような生理的な目的は別として、それは第一に、主をほめたたえ、神を礼拝するためです。賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実を神にささげるために与えられているのです(ヘブル13:15)。またそれは、人の徳を高め養うために与えられています。私たちのことばで人々を慰め励ますことができるのです。パウロは「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と言っています。さらに、主に贖われた私たちには、御国の福音を宣べ伝え、キリストにある神の愛と救いを人々に告げ知らせるために、それぞれに舌と口が与えられているのです(マルコ16:15)。しかし、舌は自分の意志では制御できません(ヤコブ3:8)。主に制御していただく必要があるのです。そのために私たちは、知恵であり、いのちであり、人格をもった主ご自身である、神のことばを日々摂り入れ続けなければならないのです。そのようにして私たちの内側が神のことばに満たされるとき、御霊によって心と思いがきよめられ、口から出ることばも、主のみこころにかなうものとされるのです。私のことばと行い、全ての領域を治めてくださいと、主に祈り求めたいと思います。

主がそれぞれのところで尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: 箴言 9章◇(10月13日)

「『わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい』と。」…箴言9:5-6

「知恵」が前半に、「愚かな女」が後半に登場します。「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と、どちらも同じことばをもって、町の高いところから人々に招きのことばを掛けて自分のところに来させ、それぞれ用意した食事の席でもてなそうとするのです。しかしその食事とその結果は全く異なっているのです。「知恵」の家には7つの柱が据えられています。聖書では7は完全を表わす数字であり、「愚かな女」の家との違いが強調されています。その家の主人である「知恵」がいけにえをほふり、味を調合して良い香りも加えたぶどう酒を準備し、わたしの食事(「パン」:2017訳)を食べなさい…わたしのぶどう酒を飲みなさい…と招待客に促すのです。そしてそれは、その人々が、わきまえのある者とされ、悟りのある道を歩み、真のいのちに生きるためなのです。ここに、主が与えられる、私たちの霊の糧であるみことばと、私たちのたましいの渇きをいやす御霊が暗示されています。一方、「愚かな女」は、自分で食事を用意しようとせずに、どこからか盗んできた水と怪しげな食事でもてなすのです。そしてそれは招待客をよみの深み、死に至らせるのです。「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」という招きのことばに、知恵が得られると人々は期待しますが、そんなまやかしの食事によってそうなるはずがないのです。ここに、悪魔のさまざまな誘惑と罠が暗示されています。「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハ6:35)。主は今日もいのちに至る食事に私たちを招いておられます。感謝をもってその招きにあずかる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 8章22-36節◇(10月12日)

「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」…箴言8:34

22~31節には、この世界の創造のわざを、御父とともにおられ、なされた御子が、「わたし」として語っていることばが書かれています。「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった」と30節にありますが、2017訳ではその参照箇所として、ヨハネの福音書1章1節が挙げられています(3版では詩篇104:24)。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」という深淵な真理が、そして、人となって私たちの間に住まわれた、神のことばなるイエス・キリストが、ここにすでに示されているのです。34節において、「見張り」、「見守って」とありますが、いったいどこで何を、見張り、見守るのでしょうか…。2017訳では「わたしの戸の傍らで」、「わたしの門の柱のわきで見守って」とありますが、そこは、主が臨在されるご自身の宮、神殿を意味しています。そこで私たちが見張り、見守るのは、主ご自身であり、その主の御口から出るみことばです。さらに言えば、私たちの心であり、そこから生まれることばと態度です。それが神のみことばから外れていないか見張り、吟味し、みことばに従う決意を日々新たにする者は幸いなのです。「わたしを見失う者は自分自身をそこない…」(36節)。「わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ…」(同、2017訳)。「神の知恵と訓戒など必要ない…」と、人格をもったことばである神ご自身に背を向ける者は、悪に満ちたこの世で害を受け、傷ついてしまうのです。そしてその痛みをなくそうとして、逆に他者を傷つけたり、快楽におぼれたりするようになってしまうのです。そこにはいのちはありません。それは死に向かう道です。神を求めて見いだす者こそが、そこにいのちを見いだし、主の救いと恵みにあずかることができるのです(35節)。主と自らの心を、日々しっかりと見張りたいと思います。

主の恵みと祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 箴言 8章1-21節◇(10月11日)

「銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」…箴言8:10-11

新改訳2017では、10節の前半を、「金(かね)ではなく、わたしの訓戒を受けよ」と訳しています。お金や財産…ともすれば私たちはそれに必要以上に固執してしまいます。また、経済的な状況が厳しくて苦しいとき、「お金がもう少しさえあれば心にゆとりを持つことができるのに…」と考えてしまいがちです。しかしそれは真理ではありません。主は、「金(かね)ではなく、わたしの訓戒を受けよ」と命じておられるのです。それは金が不要というのでなく、財産を持つことが悪いと言っているのでもなく、それを第一とすべきではない、それよりも、主の訓戒と知恵を受けよ、神ご自身を求めよ、それはどんな宝石よりもまさる尊いものであり、世が与える喜びにまさるのだと言っているのです。「富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる」。18、19節にもそのように書かれています。富と宝物は主とともにあるのです。また誉れと義、すなわち私たちに栄誉を与え、義なる者と認める権威は、ただ主がお持ちなのです。この地上にお金や財産をいくら蓄えたとしても、私たちはそれを持って天に入ることはできません。しかし宝を天に積むことができます(マタ19:21)。そしてその宝とは、神から訓戒と知恵を受け取り、それに従って主のみこころのうちを歩み、この地上での歩みを終えて主のもとに行くとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ…」と主の賞賛を受け、義の冠、栄光の冠を、主からいただくことなのです。永遠を思う心を絶えず持つ者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 7章◇(10月10日)

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」…箴言7:2-3

5節以降には、6章の後半に引き続き、遊女による性的な誘惑への警告が書かれています。それは男性だけが覚えるべきものではないのです。遊女の背後で働いているやみの力、この世の霊、神に敵対する勢力であるサタンによる攻撃に対して、私たちすべての者はしっかりと武装する必要があり、そうでないと霊的な命を奪われてしまうからです(26節)。「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ」と主は命じています(1節)。神の教えであるみことばは、守り行なうだけでなく、自分のうちにそれを蓄えることが求められているのです。なぜなら、生活の中でサタンの攻撃に突然襲われても、うちに蓄えられているみことばを剣として取り出し、敵への攻撃の武器として身を守ることができるからです。「私のおしえを、あなたのひとみのように守れ」とあります。瞳は見るために不可欠な器官であり、それが奪われれば、私たちはまともに歩くことができなくなってしまいます。また瞳は砂などで傷つきやすいデリケートなものであって、その瞳のように私たちはみことばを尊び守るべきなのです。「それをあなたの指に結び…」。私たちが手を動かして何かの作業をするときに、指に何かが結ばれていたらじゃまになるように思いますが、事に当たろうとするときに、絶えず神のことばを意識しそれに従って行動するなら、私たちは神の御旨にかなう真理の道を歩むことができ、主の豊かな祝福と勝利を受け取ることができるのです。また、「あなたの心の板に書きしるせ」とありますが、心と指に神の教えが書かれ、結ばれているということは、私たちの思いと行いがみことばにより支配され、きよめられ、導かれていくということであって、それこそが、神がご自身の民に願っておられるあり方なのです。そのような者として日々の歩みを進めたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 6章20-35節◇(10月9日)

「命令はともしびであり、おしえは光であり、訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」…箴言6:23

23節のみことばから連想される他のみことば…それはまず、詩篇119篇105節です。そこにはこうあります。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」。箴言6章24節以下には、性的不品行に対する警告が書かれていますが、それは、悪しき者による罪への誘惑であり、神がくださるみことばこそが、私たちの歩みを確かにし、どんな罪や不法にも私たちを支配させないよう守るのです(詩119:133)。23節のみことばから連想されるもう一つのみことば…それはヘブル人への手紙12章11節です。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」。懲らしめ…訓戒のための叱責は、訓練のためであり、私たちがそれをしっかりと受けとめるならば、御霊により、主の御旨にかなう者へと変えられるのです。義の実を結ばせ、真のいのちへと導いてくれるのです。そのために神は、ご自身の教え、戒めを、聖書を通し、また親を通して私たちに与えられるのです。そしてそれを、いつも心に、首に結びつけるようにと、すなわち、生活のただ中でそれらのことばを思い起こし、実践し、適用するようにと主は命じておられるのです(21節)。「これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける」(22節)。その表現はいわゆる擬人法としてのものではありません。なぜなら、「ことばは神であった」(ヨハ1:1)とあるように、みことばは人格をもった神そのものであるからです。その神は実際に私たちとともにおられるお方だからです。そのお方の御声を絶えず聴き、それに従って歩む者こそ、主が備えてくださっているいのちと幸いを得るのです。この世にあっても決して闇に迷いこむことはないのです。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 箴言 6章1-19節◇(10月8日)

「なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。」…箴言6:9

6~8節のことばから、イソップ寓話のひとつである、「蟻とキリギリス」の物語が思い起こされます。イソップはこの箴言をヒントにしたのかもしれません。…夏の間、蟻たちは冬の食糧を蓄えるために働き、一方キリギリスは、それを見てばかにするかのように、バイオリンを弾き、歌を歌って過ごしていた…しかしやがて冬が来て、野に食べるものがなくなると、腹をすかせたキリギリスは蟻たちのところを訪れ、食べ物を分けてほしいと頼んだ…というお話です。「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ」とみことばは命じていますが(6節)、将来への備えを怠ると、いざというときに困るのです。そのときになってから慌てて動いても遅いのです。蟻のように、夏のうちにできることを行なって備えれば、いつ非常事態が起こっても慌てることはないのです。主イエスは、ともしびを持って花婿を迎える10人の娘を、天の御国のたとえとして話されました(マタ25:1-13)。5人の愚かな娘たちはともしびの油を用意するのを怠り、夜中に花婿が来たときにともしびを整えられませんでした。そして、油を入れて備えていた5人の賢い娘たちに油を分けてほしいと頼んでも、断られてしまったのです。どうせまだ先のことだ…と油断してはならないのです。もう少ししてから…と、先延ばしすべきではないのです。終末の日の到来、御国の完成のときは誰にもわからず、自分が地上から去るのは明日かもしれないのです。すべての営みの時を支配しておられるのは神であって、私たちは、今できることを、勤勉に行なうべきなのです。永遠を思う心を持ちつつ、与えられた今日という一日を、主のみこころに従って歩むことが求められているのです。そして主は、そのために私たちにみことばを与えられ、「これが道だ、これに歩め」(イザ30:21)と促されるのです。主の導きに従順に従う者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 4章◇(10月6日)

「訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。」…箴言4:13

「それはあなたのいのちだから」ということばに心が留まります(13節後半)。主の訓戒、教えを手放すなら、いのちが失われてしまうのです。3章18節にも、「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである」と書かれています。私たちが主の知恵と訓戒を堅く握り続けるなら、神のことば、教えに日々聞き従って歩むならば、主が与えるまことのいのちに生きる者となるのです。しかしそれを侮って手放す者は、暗闇に迷い込み、死の恐怖に脅えるようになってしまうのです。22節には、「(神のことばを)見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする」とあり、23節にも、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。それらの節で「いのち」と訳されているのは、すべて同じヘブル語です。それには目覚め、回復、成長の意味も含まれています。神のことばが、私たちの心とからだとたましいの全領域、存在全体を健やかにするのです。捕われから解放し、病をいやし、私たちを生き生きとさせてくれるのです。そしてそのことばは人となって歩まれたのです(ヨハ1:14)。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:25-26)。この世の表面的な楽しさや華やかさを求めるのではなく、そこに喜びと生きがいを見いだそうとするのではなく、主が与えてくださる知恵と訓戒をしっかりと握り、その教えに従って正しい道筋を歩み続けるならば、その道は暗闇に満ちた悪者どもの道とはまったく異なり、夜明けの光のように、どんどんと輝きを増していくのです。そこには本当の喜びと楽しみと希望が満ちているのです。そのいのちの道は永遠へと続いていくのです。主が備えられるその道をまっすぐ進んでいきたいと思います。

主がくださるいのちを受け取ることができますように。

◇聖書箇所: 箴言 3章1-20節◇(10月4日)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」…箴言3:6

箴言を読むときに気づかされることの一つは、「~せよ」…(そうすれば)…「~となる/~される」と、主の教えとそれに従った結果がセットになって書かれているということです。短いことばの中に、神の祝福にあずかるための真理が示されているのです。「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる」(1-2節)。神に愛され、生かされている喜びをもって、与えられているいのちの尊さを噛みしめながら歩む…。困難の中にあっても、天からの平安に満たされ、「大丈夫…」という確信のうちに一歩一歩前進して行く…。それは主の命令、すなわちみことばを受け取り、その真理の中にとどまる者に与えられる祝福なのです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(5-6節)。主に拠り頼むとは、主に信頼するということであり、また、思い煩わずに、全能者なる神に全面的に委ねるということです。「心を尽くして」…。そうできない自らの弱さを覚えつつも、すべてを置いて主の前に出て、主に叫び求めるのです。そして、王なる主の統治が全領域に及ぶのを認めるのです。そのとき主は、私たちの歩む道をまっすぐにされるのです。それは決して見通しの良い直線の道ではありません。紆余曲折、山あり谷ありの見通しのきかない道です。しかし主が、その道筋をまっすぐにしてくださるのです。足を踏み入れ進むべきところをはっきりと示されるのです。私たちは、その道筋に従って一歩一歩進んでいけば、道からはずれて迷い込んでしまうことはないのです。それこそが確かな道であって、永遠へと続く道なのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 2章◇(10月3日)

「思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。」…箴言2:11-12

「わが子よ」という呼び掛けをもって、父なる神は、私たちが耳を知恵に傾け、心を英知に向けるよう促し、その結果として得られる祝福を示しています(1-6節)。知恵と英知は高価な銀のように、宝物のように尊く、私たちが探し求め、探り出すに値するものであり、そうするなら、主を恐れ(畏れ)ることをわきまえ知り、神の知識を見いだす、すなわち、何が良いことで何が避けるべきことなのか、どうすれば主に喜ばれいのちの道に至るのかを、悟ることができるのです。そしてそれは、悪と闇に満ちたこの世にあって、私たちがその影響から逃れるために必須のことです。私たちが自分の努力によって悪を避けようとしても、弱い私たちはいつの間にか巻き込まれてしまうのです。私たちにとって何にもまして大切なこととは、知恵と英知そのものであり、それを与えてくださる方、主の御口から出ることばを日々受け取ることなのです。16節に、「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から」とありますが、2017訳では、「また思慮と英知は、あなたをよその女から、ことばの滑らかな見知らぬ女から救い出す」となっています。ヘブル語の原文を見ても命令形とはなっていません。死をもたらす彼女(18-19節)から守られるのに必要なのは、意志を強く保って、自らの力により身を避けることではなく、主から知恵と思慮と英知を日々いただいて、それにより、地上の悪者ども、そしてその背後に働いている悪魔の誘惑と攻撃から守られること、救い出されることなのです。今の天と地は終末の日に新しくされ、そのとき、悪しき者たち、裏切り者たちは地から引き抜かれますが、主にある正しい者たちは地に住みつくようになるのです。神とともに永遠に生きる者とされるのです(21-22節)。

永遠への希望をもって歩むことができますように。

◇聖書箇所: 箴言 1章20-33節◇(10月2日)

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」…箴言1:23

「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う」(20-21節)。まず教えられることは、「知恵」である主は、広場や街角で、大声で叫んでおられるということです。人々が大勢集まっているその場所が騒々しくて、ご自身の声がかき消されそうになってしまうからです。しかし、その主の声は人々の元には届きません。聞こえないのではなく、聞こうとしないからです。主が叫んでいることは、バプテスマのヨハネや主イエスのように、「悔い改めなさい」ということです。それは人々のあり方を正そうとするメッセージです。「叱責」ということばが繰り返されていますが(23,25,30節)、原語であるヘブル語の意味は「懲らしめ、訴え」です。それは、叱り飛ばす、怒鳴りつけるというのではなく、むしろ、同じ節の中にあるように、「忠告」なのです。その主の叱責、忠告に心を留める者は幸いです(23節)。2017訳では「わたしの叱責に立ち返れ」となっています。主の道をはずれてしまっても、罪を犯してしまっても、その主の忠告を聞き入れ、自らのふるまいやことばを省み、その過ちを認めて主に立ち返るなら、主はただちに、ご自身の霊を私たちに注ぎ、悪からきよめてくださるのです。真理の光で照らし、みことばを悟らせてくださるのです。私たちは、この世にあって、喧噪の中を歩んでいますが、そこを離れ、静まって主の御声を聞くことが必要なのです。そして自らのあり方への主の忠告を聞いて素直に認め、日々、主に立ち返り続けることが求められているのです。そのように、たとえ主の道からはずれても、歩みを修正し、主に立ち返り、主の御声に聞き従い続けるならば、わざわいを恐れず、安らかに住まうことができるのです(33節)。そのような者とされたいと心から願います。

霊の耳を主が開いてくださいますように。

◇聖書箇所: 箴言 1章1-19節◇(10月1日)

「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」…箴言1:7

今日からしばらくの間、箴言を読んでいきます。「箴言」という原語には「…のようだ」という「比喩」の意味がありますが、実際には、知恵のことばが集められた書のことです。旧約聖書では、ヨブ記、伝道者の書とともに、「知恵文学」に属しています。その目的は、イスラエルの民が知恵と訓戒を学び、知識と思慮を持ち、洞察を深めるためにあります。7節のことばが心に留まります。私たちの主である神を恐れる(畏れる)ことが知識の初めなのです。知識とは単に多くのことを知っているということでなく、物事の本質を知るということであり、それを初めとして、人生の問題に対処するための知恵が与えられ、悪の道から守られるための訓戒を受ける者となるのです。主を恐れることがどうしてそのことにつながるのか…。それは神がこの世界のすべてを造られたからです。この神のうちにこそ、真理と光といのちがあるからです。しかし人間は、自分が正しい、自分は知っていると、いつでも自分の考えで事を進めようとするのです。神が与えておられる知恵を訓戒を蔑み、素直にそれを受け取ろうとはしないのです。なぜならそれは、自分がいかに無知で足りないかを主の前に認めることだからです。そして、主の知恵と訓戒を拒むそのことこそが罪なのです。私たちは、創造者、全能者である主の前にへりくだり、自らの知恵ではなく、主の知恵により歩むべきなのです。また、神によって立てられている両親や指導者を敬い、その者たちの訓戒のことばにも従うべきなのです(8節)。この世は多くの知識と知恵を私たちに吹き込んで来ます。しかしそれは罪人たちによる惑わしかもしれないのです。それらを鵜呑みにして従ってはならないのです(10節)。私たちが絶えず心に留めるべきは、主からの知恵と訓戒、すなわち聖書の教えであり、一つ一つのみことばなのです。みことばの真理の光に照らされて歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。