◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 12章11-21節◇(11月30日)

「ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。」…2コリント12:15

パウロが、さまざまな苦難の中にあって、忍耐をもって自分に託された働きを全うしたのは、「キリストのために」(10節)という思いがあったからです。キリストを信じる者たちを迫害していた自分が、主の愛とあわれみによって罪赦され救い出された…このいのちはもはや自分自身のためにではなく、キリストのために用いられるものであるのだ…と。パウロのその思い…それはまた、キリストと同じ心で、キリストの足跡に従うという意味でもあります。キリストは罵られ、つばきされ、あざけられましたが、パウロが受けた侮辱、苦痛、迫害…(10節)は、苦難のしもべであるキリストが負ったものだったのです。キリストの心で、キリストの足跡をたどる者となる…その思いはパウロのうちに常にあり、また、同労者であるテトスや他のキリストの弟子たちのうちにもあったのです。パウロは、「私たちは同じ心で、同じ歩調で歩いた(「同じ足跡をたどった」:2017訳)と言っています(18節)。そしてそのキリストの心は、すべての聖徒たちにもまた、受け継がれるべきものとして与えられているのです。「あなたがたのたましいのためには…財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう…」とパウロは言います。キリストは私たちの身代りに十字架の上でいのちをささげ、私たちを罪の中から救い出してくださいました。そのキリストは、弟子たちに、「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)と言われたのです。「自分自身を使い尽くす」…それがキリストの心であり、キリストの足跡に従うということです。御霊の助けによりそのように歩む者とされたいと願います。

キリストの心を持つ者とされますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 12章1-10節◇(11月29日)

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」…2コリント12:9

「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」とパウロは言っていますが(7節)、それが具体的に何を指しているのかは不明です。ダマスコで強い光により視力を一時的に奪われたことから、目の病気ではなかったかとする説もあります。いずれにしてもそれはパウロに苦痛をもたらすものであり、それがなければもっと多くの働きができると考えたでしょう。だからこそそれが取り除かれるよう熱心に願ったのです(8節)。しかし主のみこころはそうではありませんでした。わたしの力はあなたの弱さのうちに完全に現れると、主はパウロに告げられたのです。そしてパウロは、だからこそ、そのキリストの力が自分をおおうために、大いに喜んで自分の弱さを誇るのだと言っているのです。「おおう」の別訳は「住む、宿る」です。キリストが弱い自分の内に住んで働いてくださるとき、それは私たちにとって何にもまさる大きな力となるのです。パウロは、肉体のとげだけに悩まされていたわけではなく、困難な状況の中で自らの内面の弱さを覚えていたことでしょう。しかし喜んでその弱さを誇る、自慢するとさえ彼は言うのです。それは単に自らの弱さを認める以上のことです。持っているプライドを完全に手放さなければ言えないことです。あくまでも自分の力でがんばって事を進めようとするとき、自分の弱さは弱さとしかとらえられずそれに苦しめられる…しかし自分をキリストに明け渡し、キリストに働いていただくなら、その弱さはキリストの力と栄光が現されるためのものとなる…それこそが主がパウロに解き明かされた啓示であり、私たちすべての者が受け取るべき逆説的な真理なのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(2コリ4:7)。

キリストの力が豊かに現されますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 11章16-33節◇(11月28日)

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」…2コリント11:29

「多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします」とパウロは言っています(18節)。多くの人とは偽預言者たちのことです。パウロは自分を誇りたいとは思っていませんでしたが、コリント教会の人々が霊的に鈍く、彼らの誤った教えにあまりにも易々と惑わされている状況であったため、それに対抗するには誇ることもやむを得なかったのです。「彼らはヘブル人ですか。私もそうです…」(22節)。偽教師たちはキリスト者だと言いつつ、ユダヤ教の律法を教会に持ち込んで、混乱と分裂を引き起こしていました。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」(23節)というパウロの表現は、彼らはキリストのしもべなどではない!という、福音をねじ曲げることへの強い憤りの表れなのです。23節から27節はパウロが受けた苦難のリストです。そのような中で死を覚悟したこともしばしばあったのです。しかし彼にとっての真の痛みはそのような外的なものでなく、「私に押しかかるすべての教会への心づかい」(28節)、つまり、悩み、傷つき、霊的に弱っている多くの人々に対して、なかなか届くことができないというものであったのです。「だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」というパウロのことばに心が留まります。さまざまな苦難の中にあってパウロを突き動かしていたもの…それは一人ひとりに対する愛でありあわれみの心であり、それはキリストが私たちに注いでくださっているものです。自分を通していまも主ご自身がそのことをなしておられる…パウロはそのことを確信していたからこそ、試練に耐え、与えられた道を忍耐をもって最後まで走り抜いたのです。私たちもキリストのしもべであることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 11章1-15節◇(11月27日)

「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」…2コリント11:4

3節でパウロは、「私は心配しています」と言って、コリント教会の人々が偽教師たちに惑われるのを懸念しています。それは4節のとおり、偽教師たちが別のイエスを宣べ伝え、違う霊を伴う異なった福音を語るのを、コリントの人々が容認していたからです。「あなたがたはみごとにこらえている」とありますが、それは、「よくもそんな者のことばに我慢している…」という、皮肉に満ちたパウロの表現なのです。パウロはガラテヤ書1章7節で次のように言っています。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」。キリストが私たちに伝えた福音、救いの良き知らせは、私たちがキリスト者として拠って立つ土台であって、それを無価値なものとするような教えに対し、私たちは毅然とした態度を取るべきなのです。なぜコリント教会の人々がそうしなかったのか…。多様さを認めるギリシャ文化の影響がそこにはあります。またパウロは、「サタンさえ光の御使いに変装する」と言っていますが(14節)、いかにもそれが真理かのように、偽教師たちは人を欺くべく変装していたからです(13節)。現代もネット上には偽りの福音、教えがあふれています。それらに惑わされ信仰の歩みがずれる危険があるのです。また有名な教職者のことばがすべて正しいとも限りません。私たちが常に立ち返るべきは神が与えた聖書なのです。みことばは何と言っているか、、神の国の福音とは何か、キリストはどのような方か…。私たちが正しい教え、真理に触れているなら、偽りの教えを見破ることができるのです。「霊を見分ける力」を主からいただいて歩みたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 10章◇(11月26日)

「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」…2コリント10:3-4

10章以下では、9章までの語調とは異なり、厳しいことばがしばしば使われていますが、それまではコリント教会の人々全体に語っていたのに対し、パウロは、人々を惑わしかつ、自分へのさまざまな非難をしていた偽教師たちに対して矛先を向け反論しています。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない」(10節)。偽教師たちはそのように非難をしていました。しかしそのような彼らの人間的なことばに対して、パウロは決して感情的にならなかったのです。「面と向かっているときはおとなしく(直訳:「謙遜に」)とあるように(1節)、肉によって挑む相手の攻撃に対し、肉による武器で応戦しようとはしなかったのです。パウロは別の手紙の中で、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を、御霊の実として挙げていますが(ガラ5:22-23)、「私たちの戦いの武器」とは、みことばの剣であり、それは私たちが常に神の御旨に従うことにより、肉同士の戦いに持ち込もうとする悪魔の策略に対し、霊的に戦って勝利を収めるための武器なのです。それは敵の要塞を破るほど力のあるものなのです。そして、みことばの剣によって戦うということは、自分自身が神のことばに従うことにほかなりません。「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」と主は言われました(ルカ6:28)。私たちの戦いは血肉に対するものではないことを覚え、霊の武器をもって敵に立ち向かいたいと思います。

主が戦いに勝利をもたらしてくださいますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 8章16-24節◇(11月24日)

「私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。」…2コリント8:20-21

パウロは献金-恵みのわざ-を取り扱う上で、細心の注意を払うようにと心掛けています。それは、金銭を扱うという事の性格上、あらぬ疑いをかけられる恐れがあったからです。パウロはそれを知恵として主から受けていたのです。結局パウロは、この働きの中心人物として、コリントの人々のことを自分と同じ熱心さで思いやり、非常な熱意をもって自発的に会いに行こうとしているテトスを据えようと考えました。と同時に、やはり、金銭を扱うために1人ではなく2人の兄弟を同行させ、トラブルなくその働きが遂行されるよう配慮したのです。パウロは、誰からも非難されないよう心掛けている、主の御前だけでなく人の前でも公明正大なことを示すと言っています。主の御前に真実であることはもちろん、人の前にも疑惑を受けないように常に心掛けること、配慮することが主の働き人には求められるのです。なぜなら、そのような誤解やつまずきが不一致を生み、群れの分裂へと発展する恐れがあるからなのです。パウロはテトスへの手紙の中で(1:6-7)、長老や監督は非難されるところがない者であるべきだと、テトスに対して教えています。また箴言3章4節には、「神と人との前に好意と聡明を得よ」と書かれています。神の御前に正しければそれでいい、主はご存じである…。そのように頑な心で人からの好意を得ようとしないなら、それは決して賢い者のあり方とは言えないのです。テトスに同行した2人の兄弟の名は不明ですが、パウロは諸教会の人々から深い信頼を寄せられている彼らのことを、「キリストの栄光」と称賛しています(23節)。神と人々から信頼と好意を得る者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 8章1-15節◇(11月23日)

「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。」…2コリント8:7

パウロは8章において、「恵みのわざ」について語っていますが、それは献金の働きのことです。当時、エルサレムの教会は種々の理由で困窮しており、彼らを経済的な面で支えることが求められていましたが、マケドニアの諸教会は、激しい試練と極度の貧しさの中にあったにもかかわらず、献金を惜しみなくささげたのです。その彼らには喜びが満ちあふれていたとあります(2節)。私たちの献金が聖徒を支援するためのものであっても、神を礼拝する中でささげるものであっても、それが義務や習慣によってなされるべきではないのはもちろんです。しかし、マケドニアの諸教会のようにそこに喜びがあるか…それが神や隣人に対する愛の表れとなっているかと(8節)、主は私たちに問いかけておられるのです。試練と貧しさの中にあるマケドニアの諸教会の人々が喜びにあふれて惜しみなくささげた理由、それは、キリストの貧しさによって富む者であったからです(9節)。キリストがささげたいのちによって贖われた恵みを思い、心に感謝と喜びがあり、霊的に祝福されていたからです。そしてその献金がエルサレムの聖徒たちを支え励まし、神の家族の交わりの恵みをもたらすと知っていたからです。御国を拡げるさまざまな働きがありそのための必要がある…。すべての者がその働きに直接携わることはできませんが、その働きのために背後で祈り、支援することができます。そして祝福は分かち合われ、ともに恵みにあずかるのです。「平等」(13,14節)とはそのように、一部にとどまることなく分かち合われることであり、また、霊的な祝福を与える者は、実際的な必要の満たしを受ける者となるということなのです。そもそも私たちの持てるものは主から受けたものであって、自分たちの力によって獲得したものではないのです(15節)。いよいよこの恵みのわざに富む者とされたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 7章◇(11月22日)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」…2コリント7:10

8節や12節に書かれている「手紙」とは、2章4節で触れている「涙ながらに書いた手紙」です。パウロは、コリント教会の人々が偽教師に惑わされ、自分のことを使徒として認めずに中傷しているのを知り、深く心を痛め、そのことを悔い改めてほしいと願って、愛をもって厳しいことばでその手紙を書き送ったのです。そのような中、コリント教会への2度目の訪問を延期し、代わりにテトスを遣わした彼は、マケドニアに着いても心に平安がなく、そこでの宣教の困難も重なって、すっかり気落ちしてしまいました。しかしその状況は、戻ったテトスからの報告を聞いたときに一新されました。なぜなら、コリントの人々が自分たちの罪深いあり方を主の前に悔い改めたことを、テトスから聞いたからです。10節に「神のみこころに添った悲しみ」とありますが、脚注にあるように、「神によった悲しみ」が直訳です。その悲しみは神が与えるのです。しかしその悲しみは悲しみのまま終わることなく、悔い改めを経て、救いへと至るのです。真のいのちをもたらすのです。リビングバイブルでは、「罪と縁を切らせ、永遠のいのちを求めさせるために、神様は悲しみを与える…」とあります。私たちは自分の罪と向き合うことにより悲しむのですが、そこからの救いが神によって備えられているのです。感謝と喜びをもってそこへ向かうことができるのです。また10節には「世の悲しみは死をもたらす」とあります。世の悲しみとは、社会や他者や自分に対して希望を抱き、それらから失望を味わったときの悲しみのことです。それは、周りへの非難、自暴自棄、自己憐憫を生み出し、いのちへと至ることがないのです。「死」をもたらすのです。なぜならあくまでもその中心は人間であり自分だからです。それは底なし沼のようなずぶずぶと沈んでしまう世界です。しかしそこに救いをもたらすためにキリストは来られたのです。悲しみを経ていのちに至る道を人々に伝えたいと願います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 6章◇(11月21日)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。」…2コリント6:17

パウロは、6章14節から7章1節において、この世からの分離ということについて述べています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」と、まず彼は言っていますが、くびきとは、家畜に重い車を引かせて農耕作業に用いる際、楽に力を出すことができるように首にはめる器具です。「牛とろばとを組にして耕してはならない」(申命22:10)。パウロは、信者と不信者が同じくびきをつけたとしても、霊的に一致しないために働きができないと言うのです。さらにパウロは、対立的な2つのものを挙げています。正義と不法、光と暗やみ、キリストとベリアル…。ベリアルとは「無価値」の意味があるヘブル語ですが、ここでは神に敵対するサタンを指して使われています。それらがつながり、交わり、調和することはない…。つまり仲良く手を取り合うことなどあり得ないのです。パウロは17節でも、イザヤ書52章11節を引用しつつ、相容れない民から分離せよ、汚れたものに触れるなと、バビロンにある神の民とキリスト者たちを重ねています。しかしパウロがここで強調しているのは霊的な分離です。そうでなければ私たちは世捨て人にならねばなりません。キリストは罪人といっしょに喜んで食事をされたのです。すべての造られた者に福音を宣べ伝えさせるために、キリストは私たちをこの世に遣わされたのです(マル16:15)。主イエスは弟子たちに、「あなたがたは地の塩です…世界の光です…」と言われました(マタ5:13-14)。私たちは、不法がはびこるこの地に塩として振りまかれ、闇が満ちているこの世に光として置かれているのです。この世と調子を合わせてそれに染まってしまうことなく、霊的な境界線をしっかりと引いて自らを分離させていく…。しかし世に出て行って人々の中に積極的に入って行き、福音を伝え、地の塩、世の光として主に用いられていく…。相反するように思えるそのことを主が成してくださるのです。私たちを通して主がこの地をきよめ、世を祝福されるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 5章11-21節◇(11月20日)

「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」…2コリント5:15

17節は良く知られているみことばです。「古いものは過ぎ去った」…。古いものとは、罪の奴隷として喜びと自由を奪われていた自分です。キリストにあって、私たちは、そのような者から、「見よ、すべてが新しくなりました」…いのちと希望を持つ者へと新しく造り変えられたのです。ところが、そのように罪から解放され自由がもたらされたことの意味を、はき違えている者たちも当時いました。そして依然として、与えられた人生を自己中心的に生き、神を第一とせず、他者を顧みようともしなかったのです。パウロはそのことを嘆き、キリストに贖われた者たちは、もはや自分のために生きる者ではなく、自分のために死んでよみがえられたキリストのために生きる者なのだと、ここで強調しているのです。「古いもの」とは、そのように自分のために生きるあり方、神のみ思いではなく自分の願いに従って歩む態度であり、「新しくなった」とは、キリストのために生きるあり方であって、それは180度の方向転換、まったく違う人生なのです。しかしその方向をずらそうとする悪しき力が私たちに働き、知らないうちにその歩みが神の道からはずれてしまうのです。またパウロは、今後は人間的な標準で人を知ろうとはしない、と言っています(16節)。それは人の容姿や表面的な態度を見て、肉的な思いで評価や判断をしないということであり、「キリストがすべての人のために死なれた」ことを覚え、和解の務め、とりなしの働きをする者となるということです。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです」(20節)。キリストの使節とは、まさにそのようにキリストのために生き、神が人々に懇願しておられるご自身との和解を宣べ伝え、人々のために仕えることなのです。私たちが自分のためでなく、キリストのために生きる者となるために主は死なれた…。そのことをしっかりと心に留めて歩みたいと心から願います。

神と人々とに仕える者とされますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 5章1-10節◇(11月19日)

「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」…2コリント5:9

私たちの念願とするところは主に喜ばれることだと、パウロは言っています。念願とは、強い願いです。彼は常に主との人格的な交わりを持っていたので、そして主を愛していたので、私たちが、愛する人を喜ばせたいと思い行動するのとまったく同じように、主に喜ばれる者とされたいと常に願っていたのです。では、どうすれば主に喜んでいただけるのか…。ずいぶん前に「W.W.J.D」と書かれたリストバンドが流行したことがありました。「W.W.J.D」とは、「What Would Jesus Do?」の略です。つまり、「イエスさまならどうされるだろうか?」という意味です。私たちがキリストの目で見、キリストの耳で聴き、キリストの口で語り、キリストの心で感じて行動する…。それを可能とするのは私たちのうちにおられる御霊です。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(1コリ6:19)。「からだ」とは「地上の幕屋」であり(5:1)、私たちの肉体、心、たましい…全存在を意味しています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ12:1)。「受け入れられる」という訳されているギリシャ語は、9節の「喜ばれる」と訳されていることばと同じです。私たちが自分のすべてを主にささげて明け渡すこと、御霊を悲しませることばやふるまいを遠ざけるべく、主のみこころが示されているみことばに聞き従うこと、それが、私たちのうちに住む御霊を喜ばせることであり、天の永遠の家に住むことが保証されている者に(5節)、求められているあり方なのです。主に助けられつつ、絶えずそのように歩む者でありたいと願います。

主に喜ばれる者とされますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 3章◇(11月17日)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」…2コリント3:18

パウロは、モーセが顔にかけた覆いについて13節で語っていますが、これは出エジプト記34章30節からの記事に出てくる覆いを指しています。モーセが主と会うと彼の顔のはだが光り輝き、人々はそれを恐れて彼に近づけないほどでしたが、その顔の輝きは時間が経つと消えていったのです。そしてその輝きを主の栄光と捉えていた人々に対し、輝きが消えるのを見せないために顔を覆ったのです。自分たちはそのようなことはしないとパウロは言います。モーセのように顔に覆いをする必要はないのです。なぜならモーセの顔の輝きは一時的なものでしたが、キリストがもたらした栄光の輝きは永遠に続くものであり、キリストを信じる一人ひとりはその栄光を反映させ、やみを照らす世の光として主に用いられるからです。「鏡のように主の栄光を反映させながら…」。このことばから子どもの頃の鏡遊びをいつも思い出します。太陽の光を鏡で反射させて日陰のものを明るく照らす…。そのためにもちろん鏡は光のもとになければなりません。私たちが主の栄光を反映させて光を放つ者となるためには、主の光の中に自らを置くことが求められるのです。また鏡が汚れているなら光を反射させることができません。その鏡はたえず汚れのない状態に保つ必要があるのです。私たちはみな、そのようにして主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行くとパウロは言います。それは、人が神のかたちに似せて造られ、非常に良かった、初めの状態(創1:27)への回復のみわざにほかなりません。そしてそれは人類の罪の赦しなしにはあり得ないことであり、まさにそのためにキリストが私たちを贖ってくださったのです。救いの完成を待ち望みつつ歩んでいきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 2章◇(11月16日)

「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」…2コリント2:16

16節から思い起こされるのが次のみことばです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリ1:18)。愚かなことば…力となることば…同じ十字架のことばが、人によって受け取り方がまったく異なるのです。そして滅びと救いのどちらに至るかがそれで決まるのです。「神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語る」大切さをパウロは訴えています(17節)。それは、人間的な考えでみことばに何かを加えたり、逆に本来あるべきものを抜いてしまうようなことをせず、キリストの十字架と復活による私たちの罪の贖いを、真実に、御霊の助けと導きによって語るということです。脚注の別訳では「神のことばを腐敗させる」とあります。混ぜ物をすれば人に害を及ぼすものとさえなるのです。そして純粋な神のことばは「神の御前で」語られるのです。私たちが人々に語ることばは神への告白でもあるのです。そのことばを神が聞いておられ、神が喜ばれるのです。そこに神が働かれ、語る者を神が用いてくださるのです。パウロは、そのようにみことばをまっすぐに語る者のことを、人々に届いていくキリストのかおりなのだと言っています。そのかおりによって、人がいのちに至るようになるのか、それとも死に至るようになるのかはわかりません。それは私たちではなく神が決められることだからです。私たちに求められるのは、キリストのかおりとなることです。そのために私たちはキリストにとどまらなければなりません。そしてキリストの勝利の行列に加わる聖徒が増えるならば、キリストのかおりはますますこの地に拡がっていくのです。多くの人がいのちに至るべく、主に用いられたいと願います。

キリストのかおりが放たれていきますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 1章12-24節◇(11月15日)

「神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。」…2コリント1:20

パウロはコリントを通ってマケドニヤの諸教会を訪問し、その後コリント教会を再び訪れる計画を立てていました。すなわち人々が神の恵みに2度あずかるようにと当初は願っていたのです(1コリ16:5、2コリ1:15-16)。ところが、コリント教会に偽教師が入り込み、自分が批判され教会が混乱していることを知って、その2度目の訪問を延期することに決めると、コリントの人々は、パウロが不誠実だ、嘘つきだと、ますます非難するようになってしまったのです。「計画を立てた私が、どうして軽率でありえたでしょう」と、決して人間的な思いで行動しているのでないことを、パウロは弁明しています。彼は熟慮し、みこころを求め、主の導きを信じ委ねつつ、そのように決断したのです。しかし惑わされた人々は、自分たちの多くの苦難もまた、神の気まぐれのせいでは…と疑いの心を持つようになり、パウロは絶対にそんなことはないと反論しているのです。「…あなたがたに宣べ伝えた神のキリスト・イエスは、『しかり』と同時に『否』であるような方ではありません。この方には『しかり』だけがあるのです」(19節)。「しかり」とは「はい」、「そのとおり」ということであり、「否」とは「いいえ」、「そうではない」ということです。キリストのことばとふるまいにおいて、神の御旨と違っていることは何一つない…。そして、神の約束はキリストにおいてことごとく実現した…。だから私たちは「アーメン」、つまり「そのとおりです」と言い、キリストの御名により神を賛美し、栄光を神に帰するのだと、パウロは言っているのです。神は気まぐれなお方などではなく、常に真実なお方です。また「アーメン」とは単なる決まり文句ではありません。そのことばが持つ意味の重さを覚えつつ、「しかり」だけがあるお方にいよいよ信頼したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第二 1章1-11節◇(11月14日)

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」…2コリント1:4

3~7節においてパウロは、「慰め」ということばを実に10回も使っています。明らかにパウロはここで、神が苦難の中でもたらしてくださる慰めについて強調しています。手紙の冒頭から挨拶もそこそこに、まずその慰めを、苦難の中に置かれているコリントの教会の人々に伝えたいと、彼は願っていたのです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」というパウロのことばに、心が留まります。そして励まされます。それは、苦難の中でもがき苦しんでいる私たちのことを、神がそのままで放って置かれることは決してない、ということです。そしてその神からの慰めと励ましこそ、私たちが苦難に耐え抜く力となるのです(6節)。そして彼が私たちと言ったとき、自分たちだけでなく、すべての時代のすべての人を意図していたのです。パウロはさらに、慰めを受けた自分たちが今度は、あらゆる苦しみの中にある人たちに対して、その慰めを分かち合うことができるのだと言っています。彼はそのように、自分が神から受けた苦難と慰めの意義と目的が、他者の慰めと救いのためであるととらえているのです。それはとても重要な視点です。そしてそれは、すべての聖徒にあてはまることであり、主はそのために、私たちをも用いてくださるのです。伝道とは、神学としての教えを説明することではなく、自らが体験したことを話し、神から受けた慰め、恵みを関わる人々に分かち合うことなのだ…ということを、あらためて教えられます。私たちそれぞれの証しを、主が尊く用いてくださるということを覚えつつ、神の慰めと恵みを人々に分かち合いたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 22章◇(11月13日)

「耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。」…箴言22:17-18

22章17節からは、それまでの2行の対句の箴言ではなく、文章とも言える少し長い句による箴言となっています。そして、「…するな」、「…せよ」と、命令形で書かれ、より直接的に神の御旨を受け取るようになっています。そのような文脈において最初に書かれていることが、「知恵のある者のことばを聞け」という命令です。「知恵のある」と訳されている原語には、「賢い、洞察のある、思慮深い」という意味もあります。神はそのように人を通しても語りかけられるのです。そしてそれを聞いた者はさらに、真の知識、すなわち、真理の源である神に心を向けよと命じられているのです。「これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ」。「楽しいことだ」ということばに心が留まります。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」とエレミヤも言っています(エレ15:16)。神のみことばは私たちに楽しみと喜びを与えるのです。神の真理は私たちに自由と解放をもたらすのです(ヨハ8:32)。「これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ」。「備える」とは、いつでもすぐに使えるようにすることです。みことばを、知恵を、真理を、心の中にしまって置かずに、日常の歩みにおけるさまざまな場面でそれを適用するため、「くちびるに備えておけ」と、命じられているのです。それは、神から受け取ったその真理のことばを口で告白し、先取りの感謝とともに、みことばを御名によって宣言し、みことばを剣として霊的な戦いに勝利するためなのです。そしてどんな状況にあっても主に拠り頼む者とするために、御霊は折りにかなうことばを教えてくださるのです(19節)。主からのことばをしっかり受け取る者でありたいと思います。

霊の耳がさらに開かれますように。

◇聖書箇所: 箴言 21章◇(11月12日)

「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない」…箴言21:10

神は、私たちが隣人に対してあわれみを示すよう、願っておられます。その私たちの隣人とは、必ずしもいま自分の隣にいる人のことではなく、自分以外の他者という意味です。またあわれみとは、単にかわいそうと思うだけでなく、自分と関わりを持つ隣人を愛して、助け、支援する、そのような具体的な行動を現していくことなのです。それは、主イエスが言われたように(マタ22:38-39)、あなたの神である主を愛せよとの第一の戒めとともに、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという第二の戒めとして、レビ記19:18で命じられている、聖書全体を貫く大切な律法であるのです。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」とあります(13節)。また、「この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている」とも書かれています(26節a)。困っている隣人にあわれみを示さない者は、自分がそうなったきに誰からもあわれみを受けられず、神からあわれみのないさばきを受けるのです(ヤコ2:13)。そのような者は自分の欲望を満たすことだけを考えており、それは神の目に「悪事」、すなわち罪だと言うのです。私たちもかつては、自分さえ良ければそれでいいと、隣人にあわれみを示さない、自己中心的な者でした。そんな私たちを神は愛し、深いあわれみをもって、ご自身の大切な御子を十字架につけ、よみがえらせ、私たちを罪ののろいから救い出してくださったのです。そのようにして神は、ご自身が意図され創造された本来の姿へと、私たちを回復させてくださったのです。「しかし、正しい人は人に与えて惜しまない」(26節b)。キリストにあって罪を赦され、義と認められた者として、隣人に対して愛とあわれみをもって積極的に関わる、持てるものを惜しまずに与える者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 19章◇(11月10日)

「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。」…箴言19:15

怠惰に生きている者は眠りからなかなか覚めず、怠けるなら乏しさと貧しさを味わわねばならない…。箴言6章においても、夏のうちに食物を確保し、冬のために備える蟻から知恵を得よ、とありました。怠惰とは必ずしも、だらだらすることではありません。それは、本来すべきことを行なわないことであり、そのために労するのを面倒くさがることです。ではなぜ、人は怠惰になってしまうのでしょうか…。それは、まだ大丈夫…と、先延ばしにするからです。しかし冬になってからは、食物は得られないのです。たとえ暑くても夏のうちに勤勉に働くからこそ、寒い冬になってもいのちを保つことができるのです。また、すべての時を支配しておられるのは神であって、物事は私たちが予定するとおりには進まないのです。人が自分で「時」を決めようとするのは高慢なのです。なぜ人は怠惰になってしまうのか…。またそれは、やってもらおうと誰かに依存するからです。24節には、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない」と書かれています。食べたいものを決めたらあとは人に食べさせてもらう…。それは「受けるよりも与えるほうが幸いである」という、聖書全体に示される主の御旨に反した態度なのです。なぜ人は怠惰になってしまうのか…。さらにそれは、使命感をもって生きていないからです。自分がやらなくても誰かがやるだろうと考えるからです。しかし神は、世に救いをもたらし祝福されるお方であり、そのために小さな私たちを大きく用いてくださるのです。そのように私たちは神によって選ばれた特別な民であり、怠惰にならず、勤勉であることが求められているのです。一人ひとりの働きを通して御国が建て上げられるのです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)。パウロのそのことばをしっかり心に留めたいと思います。

主に仕える喜びがありますように。

◇聖書箇所: 箴言 18章◇(11月9日)

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」…箴言18:21

「死と生は舌に支配される」…。「舌に支配される」と訳されていることばは元々、「舌の力(権力、強さ)の中にある」という意味です。舌は小さな器官ですが、不義の世界であって、自分で制御することはできないのです(ヤコ3:5-8)。しかしその舌に支配される私たちの歩みは、死だけではなく生、つまりいのちにも至るものであり、私たちはそのどちらかを愛して、その実を得るのです。主イエスは悪魔の試みを荒野で受けられたとき、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と、申命記8章2節のみことばを引用されましたが、私たちの舌が主によって制御・支配されるようになり、私たちがいのちに至る道を歩むために必要なのは、神の口から出る一つ一つのことばなのです。私たちの内側にあるさまざまな思いが、舌に上り、ことばとなって外に発せられるのであって、その内側、つまり私たちの心とたましいが、神のことばで満たされていることが大切なのです。「死と生は舌に支配される」…。私たちが内側に蓄えられた神のことばを告白するとき、主の支配がそこになされ、神のいのちが注がれます。みことばは「生」を生み出す、いのちのことばなのです。現代は、人と直接会わなくても、口を開かなくても、ネット上で文字で「会話」をすることができる時代です。そのことばに傷つけられて自らいのちを絶ってしまう…そのような悲劇が繰り返される悪と闇の世界において、私たちが人々に、慰めと励ましと生をもたらすことばを、道であり、真理であり、いのちであるキリストのことばを、神の国の福音を伝えることが、求められているのです。そのために主は、私たちを整えて用いてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 17章◇(11月8日)

「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」…箴言17:9

罪を犯した友にどう関わるべきか…の教えです。そむきの罪とありますが、神の前に犯す罪とは、神のみこころに従おうとせずに神にそむくことであり、そむきの罪=私たちのすべての罪と言えるのです。それは神との関係だけでなく人との関係においても、相手を傷つけて痛みをもたらすものであるのです。その友の罪をおおうとは、友を非難し裁くのではなく、愛をもって赦すというあり方です。自分が受けたことに対して、憎しみを抱き続けようとしないあり方です。また「おおう」という原語には「隠す」、「秘める」という意味もあります。それはその友の罪を他人に話さず、自分のうちに秘めて黙すということでもあります。それは、その友の罪を容認するということではなく、罪は罪としつつ、その罪を犯した友を愛し、赦し、受け容れることです。「同じことをくり返して言う」とは、その罪のことを折あるごとに持ち出して友を責め、裁く態度ですが、それは、自分はそうではないと、自分を他者と比較して誇る思いを持つ高慢であって、それもまた、神の前に罪であるのです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。主イエスはそのように言われました(ヨハ13:34)。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペ4:32)。パウロもそのように語っています。「わたしがあなたがたを愛したように…」、「神がキリストにおいて…赦してくださったように…」。主イエスが、罪深いこの自分をいのちをかけて愛し、赦してくださったかを深く覚えるなら、私たちは、その教えに感謝をもって従うことができるのです。どんなときにも愛を追い求める者でありたいと願います。

主に愛され赦されている喜びがあふれますように。

◇聖書箇所: 箴言 16章16-33節◇(11月7日)

「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」…箴言16:20

何が人にとって幸いなことであるのか…。それは、主のみことばに心を留めることであり、それを語られた主に信頼して従うことなのです。「心を留める」ということばには、見つける、会うという意味があり、2017訳では「よく通じた」となっています。たまにではなく、絶えず心に留める、見続ける、出会い続けることが求められるのです。人がみことばに心を留めようとしないなら、当然ながら自分が正しいと思う道を歩もうとします。しかし人は罪を持っているので、その道は、神に喜ばれない悪の中へと進んでしまうのです。神を認めず、おごり、高ぶる者となり、その道は、やがて破滅と死に至るものとなるのです(18,25節)。そうならないよう、私たちは、自分のいのちを守るべく、絶えず自分の道を見張り続ける必要があります(17節)。悪から離れているか、正しい道からはずれていないか、神が与えるみことばによって吟味し、監視するのです。「自分を信じて未来へ進む。そうすればきっと夢は叶う」。それが、この世が人々に語りかけているメッセージです。しかし信頼すべきは、自分自身ではなく、神なのです。神こそが、天地万物、私たち一人ひとりを創造され、今もすべてを統べ治めておられるお方であって、人の歩みを確かなものにされるのは、主だけなのです。主が私たちに与えられる知恵と悟りとは、人生をうまく渡り歩くためのノウハウではありません。それは私たちが、創造者である神の前にいかに小さく、罪深い存在であるかをわきまえ知り、その上で、その私たちが主にあって赦され、生かされ、強くされ、いのちと平安の道を歩むための手引きであって、みことばはそれを、愚かな私たちに与えてくれるのです。みことばを今日も心に留め続けて歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 16章1-15節◇(11月6日)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」…箴言16:3

昨日に引き続き、私たちの持つ計画について、箴言のみことばは真理を語っています。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」(1節)。私たちが心に抱く計画をことばで具体化させてくださり、一つ一つを導いて実現に至らされるのは神なのです。9節にも、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主」だとあります。しかし、その計画と進むべき道が、「自分の」ものとして、しっかり私たちの手に握られているならば、それは主の前に傲りであり高慢なのです(5節)。主は、そのような者を忌みきらわれるのです。2節にも、「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う」とありますが、そのように人はいつも、「自分…自分…」と、自分を中心として考え、行動しようとするのです。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」。それは自分の思い、計画、実際の働きを主に明け渡せ、ということです。まず自分の計画ありきではなく、神のみ思いに自分の計画、行動を合わせていくのです。そうすれば、私たちの計画=神の計画は堅く立ち、神ご自身が私たちを通してそれを成し遂げられるのです。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り…」(4節)。私たちが自らの願いと計画を実現させようと固執するなら、それは神に喜ばれることではありません。主はすべてを、「ご自分の」目的のために造られ、それを良しとされるのです。私たちの心に思いと計画を与え、ことばとして具体化させ、それをご自身の御力とみわざによって実現に至らせ、その目的を達せられるのです。栄光を受けられるのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」(ロマ11:36)。この神にすべてを明け渡す者でありたいと願います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: 箴言 14章20-35節◇(11月3日)

「寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」…箴言14:31

「寄るべ」とは、頼みとして身を寄せるところや人のことです。寄るべのない弱い者、貧しい者を邪魔者扱いするような者は、造り主をもそしる、つまり、神に対してもつぶやき非難するのであり、逆に、貧しい者をあわれむ者は、造り主を敬い、神を畏れる者であると、みことばは言うのです。それは、私たちが神とどのような関係にあるかが、隣人に対する思いと態度を決めるということです。「自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ」。21節にもそのように書かれています。弱い者、貧しい者をあわれむことは神のみこころです。それは聖書全体を通して私たちに示されているのです。「ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」(申24:21)。主イエスも、そのような最も小さい者たちの一人に対し、愛とあわれみをもって真実に関わることは、すなわち、王である神ご自身に対してするのだと、その大切さをたとえをもって弟子たちに教えられました(マタ25:40)。そしてその主イエスのこの地上での歩みは、まさにそれを体現するものであったのです。神に愛されている者こそが、他者を真実に愛するのです。神とのつながりが、隣人とのつながりを確かにするのです。自分の隣人を愛さなければ…と律法的になるのではなく、日々、主との一対一の親しい交わりのときを持つならば、いかに罪深く心の貧しい自分が神に愛されているかを深く教えられ、その愛への応答としての神と人々への愛が、私たちのうちに御霊によって与えられるのです。変わることのない主の愛にとどまっていたいと願います。

キリストの愛が心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 箴言 14章1-19節◇(11月2日)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」…箴言14:12

12節に「まっすぐに見える道」とありますが、それは、「正しいと思われる道」ということです。倫理的に正しく、人道的に良いことをしている人はたくさんいます。もちろんそれはすばらしいことであり、私たちはみな、そのように正しい道を歩むべきです。しかしそれはあくまでも、人の目に正しい道であって、その人がたましいの救いを受けていないとしたら、その道は死で終わってしまう道であるのです。それは、永遠のいのちへつながる道ではないのです。「まっすぐに歩む者は、主を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ」(2節)。人の目ではなく、神の目にまっすぐな見える道とは、神を畏れ、神に信頼して歩む道にほかなりません。人の目にはまっすぐな、正しい道であると見えても、主を侮り、軽んじるなら、神に従って歩もうとしないなら、そのような者の道は、神の目には曲がっているのです。「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる」(14節)。14節の「甘んじる」とは、「満足する」ということです。自分は間違っていない、自分の道は正しいと正当化し、これでいいんだと自己満足するなら、そのような者は、神の目には、心の堕落した罪ある者であるのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と主は言われました(ヨハネ14:6)。私たちが、社会や人々とのつながりを積極的に持ち、ボランティアなどで社会的貢献をするのは大切なことです。また教会において、奉仕を熱心に行なうのも尊いことです。しかし私たちは何よりも、キリストにつながるべきなのです。主を慕い求め、キリストにとどまり続けるべきなのです。主が備えたいのちの道を、まっすぐに歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 箴言 13章◇(11月1日)

「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。」…箴言13:1

父という存在…それは子にとって、親という血のつながった家族であるとともに、自分よりも先に生まれて多くのことを経験し、そこから処世訓を得てきた人生の先輩であって、その父の訓戒に耳を傾けなら、知恵を得るのです。そして、何よりすべての人の父なる神の訓戒こそ、人の知恵を越えた天的な知恵を私たちに与え、平安と喜びに満ちた人生を歩ませてくれるのです。「貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる」(18節)。訓戒をなおざりにする者には豊かさはありません。心も貧しくなって、恥辱を受けることになるのです。しかし、へりくだって叱責をきちんと受けとめるならば、その人はほめられるのです。人から受ける誉れ…それは素晴らしいものですが、何よりも価値があり、私たちが求めるべきものは、神からの誉れなのです。「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(24節)。「むち」とはすなわち叱責です。親が子にむちを加え、懲らしめるのは、その子に憎しみを持つからではなく、その子を愛し、健全な成長を願うからなのです。むちを控える親は、子に知恵と訓戒を与えようとせず、愚かな者として悪を行なうことを放置するのであって、結果的にその子を憎む者となってしまうと言うのです。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(ヘブ12:10)。父なる神の懲らしめ…それはみことばによる訓戒であり、日々の歩みの中で私たちが受ける試練、訓練です。それは神が私たちをいじめるためのものではもちろんなく、私たちを成長させ、みこころにかなう者として整え、私たちを用いてご自身の御国を拡大するためなのです。主の訓戒、訓練をしっかり受ける者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。