◇聖書箇所: 士師記 11章26-40節◇(7月31日)

「…私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」…士師11:35

痛ましい出来事が起こりました。エフタは、アモン人との戦いに主が勝利させてくださるなら、無事に家に戻ることができるなら、そのとき家の戸口から迎えに出てくる者を、全焼のいけにえとしてささげると主に誓いましたが、実際に迎えに出て来たのは彼の娘だったのです。エフタはそのことに驚き、嘆き悲しみましたが、彼も娘も、主に向かって口を開いたことだから…と、結局自らのそのことばの通りに実行したのです。それは主を心底畏れていなければできないことです。その姿勢は後世まで語り継がれました(ヘブ11:34)。誓願自体は決して間違ったことではありません。しかし主の前に誓うということは、主と契約を結ぶという行為であり、主がそれを要求される場合に応答するのが、私たち人間の側に求められていることなのです。もし人間の側から一方的に誓願を立てるならば、それは神との間で取引をすることになってしまうのです。エフタは誰が迎えに出てくると考えていたのでしょうか。おそらく、しもべやはしためだと考えていて、自分の一人娘だということは想定外だったのでしょう。そこにも自分の「決めつけ」があります。ましてや人身御供の行為は異教のものであり、そのような誓願は主の御旨にかなっていなかったのです。彼はアモン人との戦いでの勝利を確実にしたいために、ついそのような人間的な思いで行動してしまったのです。私たちも主に対して、ともすれば、「もしこうしてくれるなら、何々します…」という思いで祈り求めることがあります。しかしそれは神との間で取引をしようとすることなのです。それは、自分が神を支配し、自分が事を決めるという、傲慢な態度にほかならないのです。そのようではなく、ただ主に拠り頼み一切を委ねる者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記 11章1-25節◇(7月30日)

「エフタがギルアデの長老たちといっしょに行き、民が彼を自分たちのかしらとし、首領としたとき、エフタは自分が言ったことをみな、ミツパで主の前に告げた。」…士師11:11

エフタという人物が登場します。彼は遊女の子でした。アビメレクと同じく、正式な妻の子ではなかったのです。彼は正妻の子たちに追い出されトブの地に住みました。その後、アモン人がイスラエルに戦いをしかけてくると、ギルアデの長老たちはエフタを首領にしようとしました。彼が戦いのリーダーにふさわしい勇士だったからです。そのギルアデの長老たちもまた、遊女の子である自分を白眼視していたことを思ってエフタは、なぜ自分を必要とするのかと彼らを詰問しましたが、アモン人との戦いという、イスラエルにとって極めて重要な局面であることを理解していた彼は、「主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう」と言って、主の導きに委ねつつ、彼らといっしょにトブの地から出発することにしたのです。エフタはミツパで自分のことばを主の前に告げました。つまり、主との交わりの中で、思いを率直に打ち明け、自分に求められていることが主のみこころであるかどうかを、主に尋ね求めたのです。またその中で、主がアモン人を自分の手に渡されることを、信仰によって受け取ったのです。人々からの依頼に対してエフタは、遊女の子である自分が名を上げ、人々に認められる絶好の機会だと考えて、二つ返事で安易に引き受けるようなことはしなかったのです。私たちもしばしば人々から依頼や要請を受けます。それは、教会での奉仕や、人々と関わりにおいて求められる働きや、学校、職場、地域において期待されるさまざまな役割です。それらに対して、「やらなければ…」と律法的にとらえたり、「断ったら何と思われるか…」と、人からの反応や評価に心を奪われてはならないのです。そのような人間的な思いに捕らわれることなく、まず主の前に思いを率直に打ち明け、主のみこころを祈り求め、主の祝福を信仰によって受け取り、確信をもって進むべきなのです。そのような者と主は共にあり、主ご自身が事を成し遂げてくださるのです(詩篇37:5)。すべての道を主に委ね、主に信頼していきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 士師記9章41-57節◇(7月28日)

「こうして神は、アビメレクが彼の兄弟70人を殺して、その父に行った悪を、彼に報いられた。神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。」…士師9:56-57a

ギデオンの70人の息子を虐殺したアビメレク…。彼はギデオンのそばめの子でしたが、彼の、本妻の息子たちに対するねたみと、シェケムの町を王として治めたいという支配欲が、そのような激しい行為を引き起こしたと言えます。しかしそれは明らかに、神の御旨に背く罪なのです。一方、そのシェケムの人々もまた、「自分たちの神」を拝み、偶像の宮で飲み食いし、唯一まことのイスラエルの神を畏れませんでした。それももちろん、主に背を向ける罪なのです。結局アビメレクは、テベツの町を攻めた際、やぐらにいた一人の女性が投げた石に頭を直撃され、家来の若者にとどめを刺すよう命じて絶命しました。またシェケムのやぐらの住民たちはみな、偶像の神の宮の地下室に逃げ込みましたが、アビメレクたちによりそこを焼かれて焼死したのです。そしてそれらは、神ご自身がなされたことだったのです。「神は…報いられた」ということばが心に留まります。「士師」とは、王の代わりに民を統率する指導者ですが、「士師」という表現自体は聖書本文にはなく、新改訳では「さばきつかさ(裁き司)」と訳されています。「主があなたがたを治められます」(8:23)とありますが、それは、主が民に対して正しいさばきをなされる、ふさわしい報いを与えられる、ということでもあるのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)。最初の人アダムの子孫である私たちは、すべての人が罪人であって、義人はひとりもいません。その私たちにふさわしい神からの報いは「死」ですが、神は私たちに、愛とあわれみをもって、キリストにある永遠のいのちを、賜物としてくださったのです。それが、真のさばきつかさなる神が下された「判決」なのです。与えられた救いの恵みをしっかり覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記9章22-40節◇(7月27日)

「神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。」…士師9:23

アビメレクの支配は3年間続きました。「イスラエルを支配した」とあることから(22節)、シェケムの町だけでなく、周辺の町々、地域へと、その支配を拡げ続けていたのかもしれません。しかし、大きくなるその野心は神によって砕かれたのです。神が彼と人々との間にわざわいの霊を送られたので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切ったのです。ここまではよし…ここから先はだめ…と、神がイスラエルの歩みの中に介入されたのです。それはまさに、「主があなたがたを治められます」とギデオンが民に告げたとおりなのです(8:23)。さばきつかさとも呼ばれる士師が立たされた時代…。それはイスラエルに王が与えられる前の時代です。そこでは主ご自身が王として国や民を治めることが、神のみこころであったのです。他の諸国とは異なり、人物ではなく、目に見えない神に拠り頼み従うという「神政政治」の形態を、神は望んでおられたのです。それにもかかわらず、「私が治めよう」と言い出す者、「自分の手で自分を救おう」とする者が出てくるのです。また偶像の神を慕って淫行を行う民が生まれのです。それはアダム以来、すべての人の中に存在する罪の性質のゆえですが、神はそのような罪深く、多くの欠点を抱えた者たちを御手の中で用いられ、ご自身のご計画を進め、御旨を成し遂げられたのです。それが、士師記のさまざまな人物を通して教えられることです。もちろん、だからと言って、欠点を持った今のままで良いというわけではありません。神は私たちが成長すること、ご自身と同じかたち、性質へと変えられることを、確かに願っておられるからです(1コリ3:7、2コリ3:18)。一方で、私たちは人に過大に期待すべきではないのです。それがつまづきや争いにつながりかねないからです。常に正しいのはあくまでも神であり、みことばなのです。人ではなく、絶えず主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記9章1-21節◇(7月26日)

「アビメレクの母の身内の者たちが、彼に代わって、これらのことをみな、シェケムのすべての者に言って聞かせたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは『彼は私たちの身内の者だ』と思ったからである。」…士師9:3

ギデオン(エルバアル)には多くの妻がいました。彼に与えられた息子たちは70人もいたのです。さらに彼にはそばめ(女奴隷)もいましたが、シェケムにいたそばめに生まれたアビメレクは、シェケムの王となるため、町の住民に働きかけました。彼は、ギデオンの息子70人全員が治めるのと、シェケム出身の自分が治めるのとどちらがよいか、母親の身内の者たちを通して尋ねさせたのです。それを聞いた住民たちの心はアビメレクに傾きました。しかしアビメレクは、神からの召命を受けたのではなく、単に権力を握りたいという人間的な野心から、シェケムの王の座に着くことを望んでいたのです。彼は「ごろつき(粗暴なならず者:2017訳)」をお金で雇い、ギデオンの息子たち70人を、末子ヨタムを除き、一つの石の上で、なんと皆殺しにしたのです。逃げたヨタムは、町の人々に対してたとえをもって語り、訴えました。ギデオンも王になる要請を受けたが拒んだ…しかしアビメレクが王となるなら大変なことになる…と。主があなたがたを治められるとギデオンが告げたとおり、他の諸国や町とは異なり、イスラエルの国と町を統べ治める王は、主ご自身であるべきだったのです。神ではなく、目に見える形としての王がほしい…というシェケムの住民の思いを知ったアビメレクは、自分はシェケム出身だ、あなたがたの骨肉だと訴えました。身内びいきをする人間の性質を彼は利用したのです。住民はそれに惑わされて正しく判断できなかったのです。そのような落とし穴は私たちの心にも潜んでいます。しかし神はえこひいきなさる方ではありません(ロマ2:11)。情に流されてしまうことなく、肉の家族、霊の家族として、神のみこころを真実に追い求めていきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 士師記8章18-35節◇(7月25日)

「しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』」…士師8:23

捕らえた二人の王を殺害したギデオンは、彼らのらくだの首に掛けられていた三日月形の飾りを取りました。また、イスラエルの民に対し、分捕り物の耳輪を供出するように依頼しました。それらは単なる飾りだったのでしょうか…。おそらく彼らの偶像の神につながるもの、つまり、お守りのようなものであったに違いありません。主はそれらを嫌って除かれるのです(イザ3:18-23)。民はギデオンのその求めに素直に応じました。そしてギデオンはそれらを含めた分捕り物により、一つのエポデを作ったのです。エポデとは、祭司が青服の上に着けるチョッキのようなものです。なぜギデオンがそのエポデを作ったのか…。その意図や目的は明確ではありませんが、かつて偶像を壊して祭壇を築いたオフラの町にそれを置いた彼は、ミデヤン人との戦いの勝利を記念しようと考えたのかもしれません。しかし、敵からの分捕り物を「聖絶」しようとせず、祭司でもないギデオンがそれでエポデを作ったことは、結果的にエポデの偶像化につながってしまったのです。民は実際にそれを慕って淫行=偶像礼拝を行いました。「それはギデオンとその一族にとって、落とし穴(「罠」:2017訳)となった」とあり(27節)、ギデオンが死ぬと民は、バアル・ペリテを自分たちの神としたのです(33節)。聖絶すべきものを残し、理由をつけて正当化する…。そのような落とし穴は私たちの周りにも存在しています。しかしそれは私たち、引いては共同体の全体が、神から引き離されてしまう「罠」となり得るのです。「主があなたがたを治められます」というギデオンの主張は正しかったのです。であれば彼は分捕り物に心奪われず、真実な神のみこころを行い通すべきだったのです。ギデオンの過ちを教訓とし、すべてのものを主の前に明け渡す者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記8章1-17節◇(7月24日)

「すると、スコテのつかさたちは言った。『ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは。』」…士師8:6

ミデヤン人との戦いに後から召集されたエフライム人は、なぜ最初から呼び掛けてくれなかったのかと、ギデオンを激しく責め立てました(1節)。それは彼らの自尊心が傷つけられたからです。しかし、神がミデヤン人のふたりの首長をあなたがたの手に渡されたとギデオンが話すと、彼らの怒りは収まったのです。神に目を向けたからです。また、ミデヤン人のふたりの王を追ったギデオンが、戦いで疲れている300人の者のためにパンを下さいと、スコテやペヌエルの人々に頼み込んでも、そんな必要はないと彼らは拒否しました(6,8節)。するとギデオンは彼らを強く非難したのです(7,9節)。それは後に町の人々の殺害にまで至りました(17節)。そのようにギデオンを非難した人々の口からは、「神」や「主」ということばが出て来ませんでした。彼らは人間的な思いで事を捉えていたからです。スコテやペヌエルの人々の問題の本質は、ギデオンの申し出に非協力的だったということではなく、信仰に基づいて受け留め、行動しなかったということです。300人の者たちは屈強な男たちではなかったでしょう。しかし彼らは戦いに用いられ、追撃を続けていたのです。共同体の一員として、彼らのためにささげるのは当然であり、何よりも主ご自身が願っていたことであったのです。一方ギデオンも、彼らの否定的な態度に感情的にならずに、主がなされたことを証しし、この追撃が主によることであり、主が勝利を与えられると、彼らを励ますべきだったのです。信仰の共同体がこの世の組織やグループとは違うのは、何よりも神を中心とした群れであるということです。さまざまな違いを持った者たちがともに主を見上げるときに、主の霊によって一致と調和が与えられるのです。主のビジョンと思いを全体が共有することが大切なのです。そのことをしっかり心に留めて歩んでいきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記7章◇(7月23日)

「3隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、『主の剣、ギデオンの剣だ』と叫(んだ)。」…士師7:20

いよいよミデヤン人たちとの戦いが迫りました。ギデオンはそのために3万2千人を集めていましたが、主は彼に、これでは多すぎると言われたのです。それは自分たちの手で自分を救ったと高慢になり、主に向かって誇ることがないようにするためでした。2万2千人が帰って行き1万人が残りましたが、主はまだ多すぎる、少なくせよと言われたのです。結局、「口に手を当てて水をなめる者」という、主の選出基準でわずか300人の者が選ばれました。体格の良さや戦いの経験という基準ではなかったのです。その300人の者たちに渡されたのは剣ではありません。ギデオンは全員に角笛とたいまつを渡したのです。戦いのときには、彼らの右手にはその角笛が、左手にはたいまつが、それぞれ堅く握られていました。彼らが3隊に別れて角笛を吹き鳴らし、「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶと、主がミデヤン人たちが同士討ちをするようにされたので、その陣営は大混乱に陥り、バラバラに逃げ出したのです。そのようにして、主がその戦いに勝利をもたらされたのです。主はしばしば私たちにも、少ない資源で戦うよう促されます。人数、お金、経験、知識…。それは、その戦いや働きが、自分たちの力によらず、神によってなされるということが、明らかにされるためなのです。万軍の主である神は、「(あなたの)権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われるのです(ゼカリヤ4:6)。300人が持っていたのは剣ではなく、角笛とたいまつでした。その角笛は、主を礼拝するための楽器でもあります。主をほめたたえ、また、やみを照らすたいまつの火により、すなわち、知恵と啓示の御霊によって解き明かされる、みことばの光にしっかりと照らされて敵に立ち向かうなら、私たちも、戦いにおいて勝利にあずかる者となるのです。「主の剣」を堅く握りしめて戦う勇士でありたいと思います。

主の勝利と祝福が豊かにもたらされますように。

◇聖書箇所: 士師記6章1-18節◇(7月21日)

「すると、主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」…士師6:14

イスラエルの民はまた主の目の前に悪を行い、主は彼らを、今度はミデヤン人の手に渡されました。そしていつものように民が主に叫び求めると、主は、ひとりの預言者やギデオンを遣わされたのです。今日のところでは、そのギデオンの主に対することばから、彼の持っていた誤った認識を知ることができます。「主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました」(13節)。民が敵の手に渡されたのは確かに主によることでした。しかしそれは主が民を捨てたからではありません。逆に民が主に背いて悪を行った、すなわち、先住民たちに近づき、彼らの神々を慕ったからです(1節)。民がミデヤン人の手に渡されたのは、その罪を知らせ、民が悔い改め、主に立ち返るためであったのです。「先祖たちが…私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか」(13節)。主は民をエジプトの奴隷から連れ出されたお方であり、真実と忍耐をもって導き続けてくださったのです(8,9節)。そしてつい40年前にも、鉄の戦車を持つシセラとの戦いに、主は勝利をもたらしてくださっていたのです(5章)。「私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう」(15節)。ギデオンは、「行ってイスラエルをミデヤン人の手から救え」と主から命じられたとき、自分の若さ、民族の弱さという人間的なことにとらわれ、恐れを抱きました。しかし主は、「わたしがあなたを遣わす」、「わたしはあなたといっしょにいる」と言われたのです(14,16節)。勝利をもたらされるのは主であり、自らの未熟さ、非力さは問題ではないのです。主はギデオンに、「あなたのその力で行き」と言われたのです。私たちも自分の弱さ、足りなさを見ると恐れにとらわれます。しかし主は、いつもともにいると約束されたお方であり(マタ28:20)、弱さのうちに完全に御力を現してくださるのです(2コリ12:9)。その主に信頼し「その力で」ひるまずに出て行くべきなのです。

主が勝利をもたらしてくださいます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 士師記5章◇(7月20日)

「私の心はイスラエルの指導者たちに、民のうちの進んで身をささげる者たちに向かう。主をほめたたえよ。」…士師5:9

士師記5章はデボラとバラクの歌です。「イスラエルで髪の毛を乱すとき、民が進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ」(2節)ということばでその歌は始まっています。「髪の毛を乱す」とは、じっととどまっていないで、積極的に行動するさまを表わしています。それは「進んで身をささげる」ことであり(2,9節)、そのように主に献身する者が与えられることを、2人は感謝と喜びをもって受けとめているのです。シセラの軍勢による圧迫は20年間に及びました。それによりイスラエル人全体が苦しんでいましたが、バラクが兵を集めシセラと戦おうとしていたとき、彼に協力し、その戦いにいっしょに参加したのは、ナフタリ、ゼブルン、イッサカル、エフライム、ベニヤミン、マナセ(マキル)の部族の者たちであり(14,15,18節)、ヨルダン川東側に住むルベン、その北のギルアデの地に住むガドと半マナセの部族、さらに、海沿いに住むアシェル、ダンの部族は参加しなかったのです(16,17節)。ヨシュアの時代とは異なり、新しい世代の者たちには、他の部族のことは関係ない…という内向きな心があって、共同体の一員としての意識が薄れていたのです。シセラに対する勝利はいわばチームによるものでした。デボラ、バラク、6部族の中の進んで身をささげる者たち、へベルの妻ヤエル、そして何よりも主ご自身のみわざ…。キション川の氾濫によってシセラの陣営はかき乱され、9百両もの鉄の戦車はまったく役に立たなかったのです。「私の心は…民のうちの進んで身をささげる者たちに向かう」。「私」とは、デボラであり、バラクであり、主ご自身なのです。主は今も、髪の乱れを気にせず、進んで身をささげる民を求めておられ、献身する者たちを尊く用いてくださるのです。そして霊的チームである共同体に勝利をもたらされるのです。自分には関係ないと勝手に線引きして距離を置くのではなく、祈りと働きにおいて、献げ協力する者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記4章◇(7月19日)

「バラクは彼女に言った。『もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。』」…士師4:9

士師であるエフデ、シャムガルが死ぬと、イスラエルの民はまた主の目の前に悪を行いました。主は民をハツォルの王ヤビンの手に渡され、鉄の戦車9百両を持つ将軍シセラから圧迫された民は、主に叫び求めました。いつもの図式の繰り返しです。すると主は、女預言者であり士師であるデボラを通し、ケデシュにいたバラクを呼び寄せ、1万人の兵を集め、タボル山に進軍し、シセラを倒すように命じました。そう言われたバラクは、デボラにいっしょに行くよう求め、そうでなければ行かない、と言い張ったのです。バラクはデボラが戦うことを期待したのではありません。また、9百両の戦車を抱えるシセラの軍を恐れ、デボラの人間的な励ましを求めたのでもありません。バラクは預言者であるデボラを通して与えられる、戦いに対する主の具体的な指示を求めていたのです。2人はいっしょにケデシュに行き、バラクはゼブルン族とナフタリ族から1万人を呼び集めました。そしてデボラが、「さあ、やりなさい」と告げると、ただちに戦いを始め、シセラの陣営を剣によって一人残らず倒したのです。当時、女性は蔑視されていましたが、バラクは女預言者デボラに、戦いにいっしょに行くよう求めました。彼が意気地なしだったからではありません。バラクは主がデボラに与えられた賜物を認めて尊重し、デボラを通して与えられる主の召しと導きを信じて求め、「さあ、やりなさい」ということばを主の合図と受け取り、9百両もの戦車を配するシセラ軍に果敢に挑んだのです。そして主ご自身がその信仰に応えて陣営を渡されたのです。私たちにとっての預言者とは、聖書のみことばです。また具体的な指示を与えてくださる聖霊さまです。ともにおられ、戦いに勝利を与えてくださる主を信頼し、大軍をも恐れることなく果敢に戦う者でありたいと願います。

主にある勝利を受け取ることができますように。

◇聖書箇所: 士師記3章◇(7月18日)

「イスラエル人が主に叫び求めたとき、主は彼らのために、ひとりの救助者、ベニヤミン人ゲラの子で、左ききのエフデを起こされた。」…士師3:15a

1-4節に、イスラエルの民に起こる試練の背景が、あらためて説明されています。先住民を残されたのは主ご自身であった…。また、主を知らず、イスラエルのために主がなされたわざも知らない新しい世代の者たちに、偉大な神の御力と、戦うべきことを教えるためであった…。そして、民が主に立ち返り、神にのみ拠り頼む者となるか、父祖たちに与えた命令に聞き従う者となるかどうか、それを試みるための信仰のテストであった…。そのような主の思いを知らない民は平気でカナン人と親戚関係を結び、やがて彼らの神々に心奪われるようになりました(6,7節)。その結果、主は民に怒りを燃やし、アラム・ナハライムの王、クシャン・リシュアタイムにイスラエルを支配させました(8節)。しかし、民が苦しみ主に叫び求めると、主はそれに答えて、ケナズの子オテニエルにより、その支配を解かれたのです。それなのに、オテニエルが死ぬと、民はまた悪を行ったのです。士師記はそのような愚かな民の罪と主のあわれみの繰り返しです。民の叫びを聞かれた主は、救助者としてエフデを起こされました。「左利きの」とわざわざ書かれていることに目が留まります。エフデは剣を、着物の下の右ももの上の帯にはさみ、エグロン王を殺害する際、置かれている状況において、すばやく左手で剣を抜き、王の腹を刺すことができました(21節)。それは主の御手のうちにあったことなのです。当時の左利きは正確な作業が得意な者でした(士師16:16)。私たちの日々の生活においても、主の御手は動かされています。何気ないことの中に、主の守りとご配慮が与えられており、私たちはその中で主にあって生かされているのです。その主は、私たちの叫び求める声に対しても、あわれみをもって、救助者なる聖霊さまを通して、速やかに働いてくださるのです。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」イスラエルの民のようではなく、恵みとあわれみをもって私たちの歩みに介入される主に感謝し、主がもたらしてくださる救いと勝利と祝福を絶えず待ち望み、どんなときにもひたすら主に拠り頼む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記2章◇(7月17日)

「しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。」…士師2:19

イスラエルの民が、先住民のカナン人と親しくなり、異教の神々に心を奪われるということは、ヨシュアの存命中にも起こっていました。「この地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。…彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」と主の使いは民に警告していたのです(2-3節)。民は泣き、悔い改め、主にいけにえをささげて礼拝し、ヨシュアに言われて占領するために出て行きました(6節)。ところが彼らの子どもたち、後の世代の者たちは、主を知らず、主が民のためになされたわざも知らず、バアルの神に仕え、父祖の神を捨てたのです。主は怒り、彼らにわざわいをもたらされました。しかし、それによって苦しむ民を見られた主は、さばきつかさと呼ばれる士師、リーダーを立てられ、その者の指導により略奪者から守られるようにしたのです。それは一方的な主のあわれみによることでした(18節)。しかし、そのさばきつかさが死ぬと、民はたちまち元に戻り、いっそう堕落してしまいました。自分勝手で頑迷な生き方を捨てなかったのです。主の怒りは再びイスラエルに向かって燃え上がりました。民の罪→神の怒り→神のあわれみ→民の救い→民の罪…。そのようなことを繰り返すのは民の罪深さのゆえですが、一方で、「主がイスラエルのためになされたわざも知らないほかの世代」ということばが示唆しているように(10節)、エジプトでの奴隷から民を解放して約束の地に入らせた神、アブラハムとの契約を決して破らない神を(1節)、親たちは子どもたちにきちんと伝えていなかったのです。そしてそれは安息日ごとの全世代が集う礼拝の中で、共同体が繰り返し覚え、聞くべきことなのです(申命5:15)。人ではなく目に見えない神に聞き従う群れ、主の救いのみわざを次世代がきちんと知る群れでありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記1章16-36節◇(7月16日)

「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」…士師1:19

約束の地カナンに入ったイスラエルの民は、ヨシュアの元に各部族が相続地の割り当てを受けました。彼らは、長かった荒野の生活からようやく解放され、その地に安住することができたように思ったのです。しかしそれはいつまでも続きませんでした。なぜならそれぞれの割り当て地の中には、まだ占領していない地がたくさん残っていたからです。そこに住むカナン人たちを完全に追い払わず、彼らと関係を持ちうまくやっていこうとしたからです。そして、もしそのようにするなら、彼らはわなとなり、とげとなり、「あなたがたは…主があなたがたに与えたこの良い地から、滅び失せる」と、ヨシュアは警告していたのです(ヨシ23:13)。士師記は「ヨシュアの死後」ということばで始まっています。その警告を、彼がいなくなってもいかに心に留めて歩むか…。それがイスラエルの民に問われていたことです。それは主ご自身がヨシュアを通して語られたことだからです。しかし、ヨシュアの死後、民が主に対して言ったことばは、「だれが…カナン人と戦わなければならないでしょうか…」というものでした(1:1)。積極的に出て行って戦おうとしない、尻込みしている民の姿勢、心がそこに表れています。16-36節にも民の否定的な対応と結果が多く示されています。「カナン人を追い払わなかった」、「カナン人は住みとおした」…。しかしその中でも、ユダ族が山地を占領したこと(19節)、ヨセフ一族がベテルを打ったこと(25節)に目が留まります。そしてそのどちらにも「主が…ともにおられた」とあるのです。それは主がともにおられる、主が戦いに勝利させてくださる、そのことを民が信じて実際に攻め取ったということです。しかしそのユダ族も谷の住民が持っていた鉄の戦車を見て、恐れたのです。そしてその住民は追い払わなかったのです。士師記を通して主が与えようとしておられる教訓、それは、主が命じられることに対して妥協してはならないということです。徹底してみことばに従う者こそが勝利と祝福を得るということです。この士師記からさらに多くのことを学んでいきたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇33篇◇(7月14日)

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」…詩篇33:18

「全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ」(8節)。神の恵みといつくしみ、それはご自身が造られたすべての人の上に、確かに注がれています。空気、水、太陽、…。それらもすべて神によって造られ、私たちに恵みとして与えられているものなのです。このいのちもまた神によってもたらされ、生かされている…。そのことをわきまえ知り、主を畏れ、主をおのれの神とし、神のさらなる恵みと祝福を待ち望んで歩むようになる…。そのような国々と人々を主は求めておられるのです。ご自身の民として選び出そうとしておられるのです(12節)。「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。…地に住むすべての者に目を注がれる」(13,14節)。主は地に住むすべての人に確かに目を留めておられます。それは単に「見る」だけでなく、内面の悩みや苦しみも、すべての状況を知ってくださっているということです。主は私たちのすべての営みを読み取られるのです(15節)。「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」と詩人は告白しています。すべての人々に目を留められる主は、その中からさらに、ご自身を畏れ、恵みと祝福を待ち望む者に目を注がれるのです。そしてそれは、その者たちのたましいを死から救い出し、飢饉のときにも、生きながらえさせてくださるためなのです。さまざまな試練と苦難の中に置かれている者たちを慰め、やせ細って枯れてしまうような思いになっている者たちに、前を向いて歩み続けるための希望と力を与えるためなのです。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」とあります(2歴16:9)。その人々とは正しい者、神の教えを守り通す者ではありません。心が主と全く一つになっている、すなわち、神を待ち望む者に、主は特別な力と祝福を注がれると信じている者たちなのです。私たちの助け、盾となってくださる主ご自身を(20節)、その豊かな恵みを、絶えず待ち望む者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇32篇◇(7月13日)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」…詩篇32:9

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」(1節)。詩人はそのような書き出しでこの詩を始めています。「そむき」とは「背き」であり、神に背を向け、自分が考えるように、したいように歩むことであり、神の御顔の光に照らされることを拒むことであり、そのような自己中心性が、罪の本質なのです。そして、私たちが神の救いにあずかるということは、その罪が取り除かれ、消えてなくなるわけではなく、罪が神によって覆われることなのです。罪がむき出しのまま野放しにされている状態ではなく、罪が直接神の目に触れることがないということなのです。「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない」(9節)。このことばからも、私たちが本来、そのような分別のない、言うことを聞かない馬のようだということが示唆されています。私たちは自分で自分をうまく制御することができないのです。してはいけないと頭ではわかっているのにしてしまうのです。「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」と、パウロが告白しているとおりなのです(ロマ7:20)。だからこそ、主は罪人である私たちに悟りを与え、行くべき道を示し、どうあるべきかを教えてくださるのです。主の道からそれて違う道に行こうとする私たちに目を留め、真理のことばにより助言を与えて、引き戻してくださるのです。そして、その罪の奴隷の支配からの解放をもたらすために、主はイエス・キリストを救い主として送ってくださったのです。そのキリストが流された血潮によって私たちの罪はおおわれ、神の目に咎が認められない、義なる者とされているのです。私たちが弱さのゆえに罪を犯しても、それを主に告白するなら、真実な神はそれを赦してくださいます(5節、1ヨハ1:9)。主から与えられる悟りと助言を、日々しっかりと受け取り、主が備えられた行くべき道を、それずに進みたいと願います。

主の守りと確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇31篇◇(7月12日)

「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」…詩篇31:14

「私を助け出してください…救ってください…引き出してください…」と詩人は訴えています(1-4節)。自分が敵から狙われていると感じている詩人は、主に身を避け、そのように願い求めているのです。「早く…」とのことばに(2節)、その緊迫さが表れています。「私には苦しみがあるのです…衰えてしまい…私のいのちは悲しみで尽き果てました…」(9-13節)。神に知られ、守られていると告白した詩人ですが(7、8節)、そのような苦難の中にあることを、またも訴えています。敵対するすべての者たちからの非難を受け、親友からさえも恐れられ、四面楚歌になってしまった…自分のいのちが取られる…と詩人は恐れていたのです。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です』」。詩人のこの凜としたことばと態度に心が留まります。誰かに助けてもらうことを期待するのではなく、孤軍奮闘、自分を信じるしかないと決意するのでもなく、ただ神である主に拠り頼む者だと告白しているのです。私たちは何に信頼し、何を誇りに生きているのでしょうか…。自分の力ではなく、がんばって取得した資格でもなく、働いている会社でもなく、親身になってくれる友人でもない…。もちろんそれらは神の恵みのうちに備えられたものであり、大切で素晴らしいものです。しかし私たちもまた、詩人と同じように信仰をもって告白すべきなのです。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」…と。その主は、私たちの思いを越えた奇しい恵みを施され、叫び求める声に確かに耳を傾けてくださるお方です(21、22節)。いよいよその主を真実に愛し、主に全面的に拠り頼み、主にあって確かにされ保たれる道を歩みたいと願います(23節)。また、「私の時は、御手の中にあります」と(15節)、最善のときに最善をなされる主に委ねていきたいと願うのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇30篇◇(7月11日)

「主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。」…詩篇30:3

「あなたが私を引き上げ…」、「あなたは私のたましいをよみから引き上げ…」と、詩人は繰り返しています。主は、詩人が滅びの穴に下って行かないよう引き上げ、ご自身のいのちのうちに生かしてくださったのです。私たちにとっての霊的な敵とはサタンです。サタンは、私たちが神から離れ、自己中心に歩み、その罪のゆえに滅びの穴にずぶずぶと沈むことを願っているのです。それが彼らにとっての喜びなのです。しかし詩人が主に叫び求めたので、主はそれに確かに答え、詩人をいやされたのです(2節)。いやしとは救いであり、赦しであり、罪からの解放、神との本来の親密な関係の回復のことなのです。「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある」(5節a)。詩人は、敵の誘惑に会い、一時的にではあっても、神を悲しませ、嘆かせる者となってしまったのでしょう。それに対して、聖なる神は、「いいよいいよ…」と、罪を見て見ぬ振りをするような方ではあり得ません。義なる憤り、御怒りを持たれる方であるのです。しかし同時にその主は、「恩寵」、すなわち、恵みとあわれみに満ちたお方であるのです。詩人が主の御前に真実に悔い改め、立ち返り、いやしと救いを叫び求めるときにそれに答えてくださり、ご自身の恩寵のうちにあるいのちに生かしてくださったのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハ1:9)。主の前に自らの罪を言い表し、悔い改めた詩人は告白しています。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」と(11節)。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」と(5節b)。主の恩寵によって今日も生かされていることを感謝し、「私は(主にあって)決して揺るがされない」(6節)と告白したいと思います。

主のご恩寵のうちを歩む者とされますように。

◇聖書箇所: 詩篇29篇◇(7月10日)

「主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、『栄光』と言う。」…詩篇29:9

「主の声は、…主の声は、…」と、3節から9節で、詩人が繰り返し語っていることに心が留まります。3節には、「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます」とあり、創世記1章2節、3節のみことばが思い起こされます。「…やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった」。その創世記1章をあらためて読んでみると、神は、そのようにして御声を発してこの天地を造られ、何もないところからさまざまなものを生み出された、創造主なるお方であることを覚えさせられますが、その主がなされたみわざの描写の最後は必ず、「そのようになった」として結ばれているのです。また、「神はそれを見て良しとされた」とあるのです。神は御声を発し、ご自身のことばをもって命じられる…。そしてそれは必ずそのように実際になっていく…。それは神のご意志、御旨の現れであり、神はその一つ一つを良いものとして認められるのです。そして、土地のちりで神の似姿に形造られ、いのちの息を吹き込まれて生きものとされた私たちもまた、その神の一つ一つのことばによって日々生かされ、守られ、主のみこころにかなう者として造り変えられていくのです。主イエスは、荒野で悪魔の試みを受けられたとき、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」と、申命記8章3節のみことばによって悪魔を退けました。主の御声によって荒野がゆさぶられることもあります。主の御声は雌鹿に産みの苦しみをさせるのです(8,9節)。しかし主の御声は良いものを生み出すことばであり、それはすべて必ずそのようになるのです。そのようにして、主の御声によって生かされているすべてのものは、「栄光」と言うのです。すなわち、創造主なる神、支配者なる御国の王に、すべての栄光を帰すのです。主の御声を聴くことをますます求めていきたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記24章◇(7月9日)

「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。」…ヨシュア24:19

ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、長老やかしらたちの前で神のことばを取り継ぎました。2節以降の記載はイスラエル民族の歴史であり、彼らの歩みに力強く介入され、偉大なみわざを現された主のあかしにほかなりません。「わたしは…した」という繰り返しに心が留まります。そのように、主ご自身がすべてのことをなされ、イスラエルの民はその主の御手の中で、守られ、支えられ、養われ、導かれていったのです。彼らは荒野の歩みを経てカナンの地に入り、相続地を得て町々に安住することができましたが、それらの町は先住民がすでに築いていたものであり、そこにあったぶどう畑やオリーブ畑もまた、彼らが自分たちで地を耕して植えたものではなく、すべては主が備えてくださっていたのです(13節)。主のことばを語り終えたヨシュアは民に命じました。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい…」。ヨシュアはまた、民が将来、主を捨てて異国の神々に仕える懸念を率直に指摘し、ただし私と私の家は主に仕えると宣言しました(15節)。「誠実と真実をもって主に仕える」ということは、誰も見ていなくても主の目を意識するということです。主との1対1の関係の中で、常にきよく正しくあって、絶えず主の御声に聞き従おうとするということです。しかし一人の時に受ける誘惑と攻撃は手強いのです。だからこそ民は、共同体として、日々励まし合い、戒め合い、祈り合いながら、ともに主に仕えたのです。「いいえ。私たちは主に仕えます」とヨシュアに答えた民のことばが心に留まります(21節、24節参照)。私たちは一人でない…孤軍奮闘の戦いではない…。信仰を励まし合う仲間がいることを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記22章21-34節◇(7月7日)

「私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」…ヨシュア22:29

ルベン族、ガド族、マナセの半部族による、「祭壇事件」の弁明が、21節以降に書かれています。それはいけにえをささげるためのものではない…。主に反逆するつもりは自分たちにはさらさらない…。ただ、将来、自分たち東側の部族の子らに対して、あなたがた西側の部族の子らが、「あなたがたはイスラエルの神とは無関係で分け前は持っていない」と言うようになることを危惧し、そうでないことを示すため、あくまで「証拠」、つまりしるしとして築いたのだ…と。それを聞いた各部族のかしらたちは安堵しました。祭壇が築かれたということを聞いた彼らは、最初それを、主への反逆という宗教的な問題、あるいは、西側の部族への反逆という政治的な問題ととらえ、攻めることも考えていましたが、それは誤解だったのです。東側の部族が、主の幕屋の前にある主の祭壇のほかに、自分たちがいけにえをささげる祭壇を築くことは絶対にない、と言ったことで、西側の者たちは満足したのです(30,33節)。しかしそれはまた主の心も満足させたのでしょうか…。神が定めた場所以外に勝手に祭壇を築くということは、律法によって明確に禁じられていました(申12:13,14)。しかし彼らは「私たちは自分たちのために、祭壇を築こう」と言って、それを実行したことを自ら認めているのです(26節)。たとえいけにえがそこでささげられなくても、「証拠」としての祭壇であっても、主はそれで満足されなかったはずです。誰を満足させるか、喜ばせるのかが問われているのです。安心を確実なものとしたいがために、余計なことに気を回し、人間的な思いで「祭壇」を築き、「証拠」を残そうとする…。私たちもついそのように行動してしまいます。しかしそれは、「不信仰」であって、神が喜ばれるあり方ではないのです。「主が定めた祭壇のほかに祭壇を勝手に築いてはならない…」。その戒めの意味をしっかり受けとめたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記22章1-20節◇(7月6日)

「私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。」…ヨシュア22:19b

ヨルダン川の東側に相続地を与えられた、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、西側に相続地を与えられた他部族、同胞のため、先住民との戦いに合流して勝利に貢献しましたが、主がすべての敵をイスラエルの民に渡されたので、自分たちの所有地に戻るようヨシュアは彼らに命じました。そしてその際に、「主を愛し、そのすべての道に歩み、…心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい」と、その大切な戒めを忘れないように念押ししたのです。それにもかかわらず、自分たちの地に戻る途中、ヨルダン川のほとりに、彼らは一つの祭壇を築きました。それは、将来、ヨルダン川の東側に住む自分たちが、イスラエルの神、部族とは無関係だとされることを恐れ、そうでないことを示すためのしるしとしてのものでした。しかしそれは、そのような人間的な動機から出た自分たちの祭壇であり、神のための祭壇ではありません。西側の部族のかしらたちは彼らのその行動を非難しました。結局、主に反逆する意図がないことが明らかにされ、同じ民族同士で戦う事態は免れることになりますが、東側の部族も同胞だということは、そのようなことをせずとも、主ご自身が子孫たちにもまた教え示してくださるのです。彼らはそのように主に信頼して委ねるべきであったのです。この「祭壇事件」を耳にした、部族のかしらたちの反応が心に留まります。彼らは「ペオルで犯した不義」、つまり、その祭壇が偶像礼拝のためのものではないかと疑い、また、「アカンが犯した罪」、つまり、聖絶すべきものを自分のものとする、それを隠してばれるはずがないとする、そんな傲慢さがあるのでは…と敏感に反応したのです。そしてそれは、まさにヨシュアが念押しした大切な戒め、「主を愛し、そのすべての道に歩み、…心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えよ」という神のことばによって、部族のかしらたちに示された「懸念」であったのです。自らの歩みが正しいかをみことばによって日々吟味し、ズレを示されたらすぐに修正する者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記21章27-45節◇(7月5日)

「主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。」…ヨシュア21:44

イスラエル12部族に対する相続地の割り当て、レビ族の町々の割り当て作業が終わりました。「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」と、主はアブラハムに告げられましたが(創13:15)、その約束は確かに実現したのです(43,45節)。主は約束を決して破らない真実なお方なのです。しかしその約束の成就までには、アブラハム、イサク、ヤコブ、…そしてモーセ、ヨシュアと、世代を越えた長い年月を要しました。そして、その途中においてはエジプトでの奴隷生活、40年間の荒野の生活という試練がありました。イスラエルの民の歩みは、常に順風満帆…というわけにはいかなかったのです。そしてようやく約束の地に入った彼らでしたが、先住民の残りの者たちがあちこちにいました。その存在がなくなったわけではなかったのです。しかし主は、「周囲の敵から守って」、「敵を彼らの手に渡され」たのです。主が治められたのです。だからこそ、敵は残りつつも、そのただ中にあって、安住したのです。平安に暮らすことができたのです。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」(ヨハネ14:27)。主が与えられる平安の中に生きる…それは決して、試練や苦難のない順風満帆の歩みを意味しません。それは、主が私たちの人生の全領域を治められ、どのような敵の手からも守ってくださることを知り、主ご自身を私たちの相続地、ゆずりの分として、心安らかにされて歩むことであるのです。絶えずその主に信頼する者でありたいと願います。

主の平安がありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記21章1-26節◇(7月4日)

「祭司アロンの子孫には、殺人者ののがれの町ヘブロンとその放牧地、それにリブナとその放牧地、」…ヨシュア21:13

レビ部族のかしらたちは、モーセが決めたとおり、自分たちの所有の町々とその放牧地を、他の部族の相続地の中から割り当ててほしいと、その実行をヨシュアたちに求めました。レビ族には他部族のように相続地が与えられておらず、主ご自身が彼らの相続地であったからです(ヨシ13:33)。実際に彼らの所有地として与えられた町々の名前は、11節以降に記されており、全部で48ありますが、その中にはのがれの町も含まれていました。26節までではヘブロンとシェケムの2つしかありませんが、21章全体では6つののがれの町すべてだとわかります。くじで決められた結果そうなったことは決して偶然ではなく、明らかに主の御旨がそこに反映されていたのです。レビ人とは幕屋や神殿での礼拝の奉仕に携わる者たちで、中でもケハテ族の者たちは、祭司アロンの子孫として、神と人との間に立ち、民の罪をとりなす働きを担いました。残りのゲルション族やメラリ族の者たちも、神と祭司と人々に奉仕するため神に選ばれていたのです。そのレビ族の所有地にのがれの町すべてが含まれていた…。祭司として、また祭司を補佐する者として、礼拝において動物のいけにえをささげ、祈りをささげ、民の罪のためにとりなすということの意義について、彼らはあらためて神から深く教えられたはずです。また、その主が恵みとあわれみに富んだお方であり、どんなことがあっても決して見捨てず見放さず、生かし続けてくださることを悟ったに違いないのです。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)。大祭司なるキリストが私たちのためにとりなしておられる…。キリストに贖われた私たちも祭司とされている…(黙5:10)。それらのことの意義をあらためて覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記20章◇(7月3日)

「彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。」…ヨシュア20:4b

のがれの町を設置せよと、主はヨシュアに命じられました。のがれの町とは、主が制定されたものであり(出20:13)、意図せずに誤って人を殺してしまった者が、憎しみを抱いた近親者などの復讐から逃れるための町です。そのような状況に置かれた人間の感情は当然ですが、それがそのまま犯人にぶつけられることをゆるさず、まずはご自身の元で保護し、真実が明らかにされ正しい裁きがなされるようにする、主のご配慮だったのです。ヨシュアたちはその主の命令を信仰をもって受けとめました。部族に割り当てた相続地全体の中から6つの町を定め、どの部族からもすぐにどこかののがれの町に入れるよう、距離を考えて全体の中にそれらをうまく配置したのです。それを特別な町として取り分け、主のものとして明け渡す…。「聖別した」ということばが心に留まります(7節)。では、のがれの町の住民はどう受けとめたのでしょうか…。殺人者を怖いと感じるのもまた、人間の自然な感情です。しかし住民たちは逃れて来た者たちを疎外せずに受け入れ、彼らとともに住んだのです(4節)。いっしょに生活したのです。なぜなら受け入れることが主の御旨だったからです(4節)。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハ1:9)。旧約の律法を成就されたキリストの新しい契約の光の中では、殺人を含めたすべての罪はキリストにあって赦されるのです。贖い主イエス・キリストの十字架こそ、のがれの場所であり、教会、一人ひとりのキリスト者は、のがれの町の住民なのです。「『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。』イエスは言われた。『7度まで、などとはわたしは言いません。7度を70倍するまでと言います』」(マタイ18:21-22)。主イエスは、「のがれの町の住民のこころ」を示されました。自分の感情ではなく、みことばに従う者でありたいと願います。そのようにあろうとする者を、聖霊さまは助けてくださるのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヨシュア記19章24-51節◇(7月2日)

「ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。」…ヨシュア19:47

相続地が割り当てられていない7つの部族のために、シロにある会見の天幕の入口、主の前でくじが引かれ、シメオン族、ゼブルン族…と、次々に相続地が決まりました。最後にくじを引いたのはダン部族です。彼らの相続地は、エフライム族、ベニヤミン族、ユダ族の相続地と海によって囲まれた、エルサレムの西方に位置する地域です。しかし彼らは後に、そこからは遠く離れた、イスラエルの民への割り当て地全体の北端に位置する、レシェムという町に攻め上り、そこの住民と戦って勝利し、そこをダンと名付けて住むようになりました。それは、士師記18章にある、ヨシュアの死後の出来事ですが、彼らは、せっかく割り当てられた相続地を、エモリ人に奪われてしまったのです(士1:34)。「ダン族の地域は彼らから失われた…」とあるとおりです(47節、2017訳)。他の部族も、相続地全体を奪われはしませんでしたが、先住民を完全に追い出すことができなかったとあります(ユダ族:エブス人(15:63)、マナセ族:カナン人(17:12)等)。ようやく相続地を得られた…あとはのんびり暮そう…というわけにはいかなかったのです。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(1ペテロ5:8)。神に敵対する存在サタンは、隙を見て攻め込み、私たちに与えられている相続地を奪おうと狙っています。それをむやみに恐れる必要はありません。主イエスは、すでに死と悪魔に打ち勝たれたお方だからです。「歩き回っている」悪魔には鎖が繋がれているのです。しかし私たちは油断してはならないのです。大したことはない…と甘く見ると痛い目に会うのです。身を慎み、目をさまし、神の武具を身に着けるべきなのです。恐れず、しかし油断せず、主にあって戦い続けたいと思います。

主の確かな守りがありますように。