◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 10章1-13節◇(9月29日)

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」…1コリント10:13

13節は多くの人に知られているみことばです。私たちが人生の中で試練に会い苦しむとき、そして、この状況がいつまで続くのか…と先が見えないとき、神さまはここから脱出する道を必ず備えてくださる…だから忍耐をもって主に委ね信頼していこう…と、私たちは主からの慰めと励ましをいただくのです。そのように受け取ることは決して間違っていません。しかし今日の箇所の文脈の中でこの13節を見るとき、また違った視点から気づかされることがあるのです。1節から11節まででパウロが語っていることは、旧約のイスラエルの民が犯した罪とその結果です。彼らは偶像礼拝、姦淫、主への不満のつぶやきという、主に背くさまざまな悪しきふるまいを荒野で行い、その結果として多くの者が滅ぼされてしまったのです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません」。「試練」と訳されていることばは、主イエスが荒野で会われた悪魔の試み(マタイ4:1)と、同じことばが使われています。試みとは誘惑です。私たちを神から引き離そうとする、悪魔の攻撃です。多くのイスラエルの民が荒野で滅びてしまったのは、主に罪を犯したからですが、パウロはその背後にいる悪魔を見ているのです。それは霊的な戦いなのです。私たちも地上の荒野において悪魔の攻撃を受けます。それはさまざまな苦難の中で、神に不満を抱かせて、私たちの心を神から引き離そうとする誘惑なのです。しかし神は、試練とともに脱出の道も備えてくださるのです。すなわち、キリストにある救いと勝利を与えてくださるのです。そしてそれはキリストに信頼し、キリストが再解釈された、聖書全体の教え、みことばに聞き従うことであり、また、御霊の助けと備えのうちに歩むことなのです(3,4節参照)。どんなときにもキリストに拠り頼む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 9章19-27節◇(9月28日)

「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」…1コリント9:23

「私はすべてのことを、福音のためにしています」。2017訳では、「私は福音のためにあらゆることをしています」となっています。語順が違うだけで意味は同じに見えますが、ニュアンスが若干違います。19節から22節の文脈の続きでそこを捉えるならば、「すべての人に対してすべてのものとなったのは、福音の宣教のためである」との意味に理解できます。一方、23節後半から27節の文脈に繋げるならば、「私のうちで福音がさらに確かなものとされるために、あらゆることをして自分を神に従わせています」という意味にも取れるのです。そしてその時パウロは、どちらの思いも持っていたに違いないのです。「私はすべてのことを、福音のためにしています」。そう考えると、そのことばは、伝道者、牧会者としてのパウロのものであると同時に、まず一人のキリスト者としてのことばであるということに気づかされます。パウロは決して、自分を「すでに救われた者」と捉え、一段高い所に立って、さまざまな立場、背景の人々を獲得しようとしたのではないのです。彼は自分自身が、福音、すなわちキリストによる救いを今も必要としており、救いの完成への途上にあるとわきまえていたのです。パウロは別の書簡で、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とさえ言っているのです(ローマ7:19,24)「それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」。私もあなたも罪人です…福音の恵みを、キリストの救いをともに受けなければならないのです…。そのようなへりくだった思いでパウロは宣教したのです。そして「自分自身が失格者にならないようにするため」、まず一人のキリスト者として罪人である自分を打ちたたいて、キリストの教え、神のことばに従わせ続けたのです。私たちもそのパウロに倣う者でありたいと思わされます。

主イエスに目を留め続ける者とされますように(ヘブ12:2)。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 9章1-18節◇(9月27日)

「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。」…1コリント9:16

コリント教会の中には、パウロが使徒であることを否定し、使徒が持つ当然の権利を認めない者たちがいました。そのように自分をさばく者たちに対してパウロは、まず、自分が復活の主イエスに確かに出会っていること、コリントの教会もまた、自分が主にあって宣教してきた、その働きの実として生み出されたのだと主張しています。次にパウロは使徒としての権利をいくつか挙げています。飲み食いすること、信者である妻を連れて歩くこと、生活のために働かないこと…つまり、生活するために必要なお金を、宣教地の教会から受けることです。「あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば…物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか」(11節)、「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます」(14節)と、彼はそれが当然のこと、主のみこころだと主張しています。霊肉二元論、すなわち霊的なことは重んじても、肉体的なことは軽んじる…ギリシャ的(ヘレニズム)思考の影響を受け、コリント教会には、主の働き人に感謝と配慮を現す思いが欠けていたのかもしれません。その中にあってパウロは、使徒の権利を一つも用いなかったと言っています(15節)。それはキリストの福音に何の妨げも与えないためであり、そのことを最優先に考えて行動した結果なのです。パウロにとって福音を伝えることは神からの使命であり、それはどのような状況にあっても貫くべきものなのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。すべての者がパウロのような立場に置かれているわけではありませんが、主の働き人を通して霊的な恵みを受けていることを感謝し、祈りとささげもので支え、また、パウロの宣教のスピリットを主からいただいて、遣わされたところで主イエスを証しし、福音を伝えることが、私たちにも求められているのです。自分ができることを忠実になす者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 8章◇(9月26日)

「…私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」…1コリント8:1

パウロはここで、教会の中で問題になっていた、偶像にささげられた肉を食べることについて、どう考えるべきかを示しています。コリントの町では、偶像にささげられた肉が市場で売られていたり、偶像の宮での祝宴が盛んに行なわれていましたが、コリント教会のメンバーの中には、それらの肉を平気で食べ、食べない者を見下す者がいたのです。その問題においても、パウロの思考と行動は、キリスト者にはすべてが許されているが、すべてが益になるとは限らないのであり、与えられている自由を正しく用いるべきという原則に基づいています(6:12)。しかしその自由をはき違えている者たちがいたために、信仰の弱い人々がつまずいてしまっていたのです。ここでパウロが主張していることの第一、それは、常に愛をもって、他者に配慮すべきだということです。自己中心な思いとふるまいを捨てよということです。一人ひとりはキリストのからだの各部分なのであって、それらが独立して勝手に動くことはあり得ないのです。パウロの主張の第二、それは、自らの知識を誇り、高ぶるような者であってはならないということです。かつて偶像になじんで来た人々にとっては、偶像にささげた肉を単なる肉と考えることができず、汚れたものと捉えてしまうのであって、それに対して、信仰が弱いと見下して、さばいてはならないのです。パウロの主張の第三、それは、人々が神に近づき、神につながるようにと願って行動することの大切さです。それが他者の益となるということであり、徳を建てるということであり、主を証しすることにつながるのです。そしてそれは何よりも主に喜ばれることなのです。「もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません」(13節)とのパウロの強い思いを、私たちもしっかりと受けとめて歩みたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 7章25-40節◇(9月25日)

「ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」…1コリント7:35

パウロは男女の結婚のことについて述べていますが、既婚者も未婚者も今のままの状態にとどまるようにと、律法的な命令ではなく、益をもたらすための助言として彼は語っています。そしてそれは、「現在の危急のとき」(「差し迫っている危機」:2017訳)、すなわち、終末のときが迫っているとパウロが認識しているからなのです。パウロはそれらを原則に基づいて主張しています。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません」(6:12)。自分にとって、また共同体にとって何が益なのか、神が望まれているのは何かを知るのはとても大切です。そしてそれは常に、「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配る」(32節)信仰のあり方なのです。そのような者の歩みは、無益な時間を過ごすことを避け、世のことや、周りの人々に心を配る(32-34節)ことから離れ、主のみこころを知り、主に仕えることをますます求めるようになるのです。現代のインターネット社会において、情報の洪水から自分を完全に遮断することは困難ですが、それに押し流されないようにすることが大切なのです。常に神を第一とし、多くの中から益となるものを賢く選択し、秩序ある生活を送り、奉仕することが求められているのです。「…私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」(ローマ14:19)。キリストに贖われた私たちはますます霊的に成長し、与えられた賜物を用い、主の働きに励む必要があります。この終わりの時代、神の国の建設は急がれているのです。そして主がいつ再び来られるのかはわからないのです。自らの立場と使命をしっかり覚え、差し迫る危機の中で、それを忠実に果たしていく者でありたいと思います。

主の確かな導きが与えられますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 7章17-24節◇

「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」…1コリント7:24

それぞれが召されたときの状態にとどまるようにと、パウロは繰り返し命じています(17,20,24節)。その理由の一つは、ガラテヤ教会の場合と同様に、ユダヤ主義キリスト者が異邦人キリスト者に対して、割礼も受けなければ救われないと主張しており、彼らに惑わされるなと伝える必要があったからです。一方パウロは、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません」とも言っています。ユダヤ人キリスト者の中には、ギリシャ文化に染まり、自分の民族的なアイデンティティを捨てたいと考え、割礼を受けた後を消そうとする者が実際にいたのです。しかしパウロは次のようにきっぱりと言っています。「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです」(19節)。キリスト者にとって割礼の有無は救いとは無関係であり、またそれぞれの持つ民族的、文化的、社会的な背景を信仰と結びつけ、それらを否定したり変えようとするのは、神のみこころではない…。何よりも重要なことは、神の命令を守ること、すなわりみことばが示すところに従って歩むことなのだと、パウロは言っているのです。「召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい」。それは、霊的な意味において、救いにあずかったときのままでかまわないと言っているわけではありません。すべての聖徒は、幼子から成人へと、霊的成熟を目指して歩むことが求められているのです(ヘブ6:1)。パウロはここで強調しているのは、人が考え出した、「キリスト者は…ねばならない」という主張に惑わされ、信仰を揺さぶられてはならない、また他の人を裁いて、つまずきを与えてはいけないということなのです。絶えず私たちが拠って立つべきは神のみことばです。そして私たちは、形式的、律法的な信仰ではなく、いのちを代価として支払い買い取ってくださった(23節)キリストを土台とし、信仰を築くことが大切なのです。自らの信仰のあり方について吟味したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 6章12-20節◇(9月22日)

「しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。」…1コリント6:17

「すべてのことが私には許されたことです」と、パウロは言っています(12節)。キリストに贖われた者は、もはや律法の奴隷ではなく、キリストにある自由が与えられているのだ…と。しかしその自由を、私はあなたがたのようにはき違えてはいない、すべてが許されているからといって何をしてもよいわけではない、そのことが益にならずむしろ、害をもたらすことがあるからだとパウロは言うのです。彼の道徳規準はそのように、「してはいけない…」という禁止規定ではなく、「それが有益かどうか…」、つまり聖徒にふさわしいことか、神からの霊的祝福を受ける妨げにならないか…ということだったのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」。パウロはそのように結論づけています(20節)。キリストの尊いいのちによって贖われた聖徒たちが生かされている目的は、神からの霊的祝福を受け、それを自分たちのうちにとどめるためではありません。祝福の基として周りの人々に押し流す者となるために、神の栄光が現され、御名がほめたたえられるために、救いを受け、それぞれのところに遣わされているのです。「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりは一体となる』と言われているからです」(16節)。淫らな行いをしている者たちにパウロはそう言っています。自由とされた彼らにはすべてのことが許されていましたが、そのような不品行は明らかに益ではなく害をもたらすのです。「ふたりは一体となる」ということばは創世記2:24の引用です。それは、男女が神によって結び合わされ一つになるという、夫婦の奥義を示すことばであって、肉体的な意味だけでなく、霊的な一致ということを意味しているのです。したがって遊女と交わるならば、それは、背後の汚れた霊と一つになる、「霊的な汚染」となるのだとパウロは警告しているのです。それは聖霊の宮を自ら壊すことであり、主は、そうではなく、ご自身の霊と一つになるよう私たちに願っておられるのです。自分をきよく保つことの意義と大切さを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 6章1-11節◇(9月21日)

「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」…1コリント6:7

コリント教会の人々の不品行を非難したパウロは、ここで再び教会内の争いのことに触れています。詳しい背景は不明ですが、誰かが争い合っても、誰もそれを仲裁しようとせず、当人たちも折れず、訴訟のような形で教会の外にまでそれが拡がり、信者でない者たちを巻き込む事態になっていたのです。「…訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です」とパウロは言っていますが、誰に負けるのでしょうか…。それは神に敵対するサタンに対しての敗北なのです。そのようなことになれば教会は混乱し人々は傷つく…。未信者への証しにもならず、宣教の働きは停滞する…。それは神を悲しませ、サタンを喜ばせることなのです。「なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか」。不正をあばき糾弾する、それがこの世の「正義」です。しかし聖徒たちが同じ価値観をもって歩もうとするなら、それは自分を神の立場に置くことにつながるのです。不正を甘んじて受ける…それは、正しくないとわかっていても、そのことをあえて受け入れる、ということです。神の介入を求め、自分がさばくことをしないということです。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ3:13)。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペ4:32)。主イエスはあらゆる不正を甘んじて受けられたお方です。そのお方によって贖われ生かされている私たちもまた、主イエスに倣って他者を赦すことが神のみこころなのです。「書かれていることを越えない」(4:6)…。パウロたちもまた、自らの感情や考えにではなく、神のことばに従ったのです。キリストの弟子として、私たちもそうありたいと願います。

主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 5章◇(9月20日)

「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」…1コリント5:7

コリント教会の分裂について述べてきたパウロは、今度は不品行、すなわち性的な淫らな行いについて指摘しています。1節にあるように、彼の元には、父の妻を妻にしている者が教会にいるとの情報が伝えられていたのです。「妻」が正式な婚姻関係を意味しているのかは不明ですが、いずれにしても、正しい性的な関係が乱れてしまっていたのです。パウロにとってそのこと自体大きな問題でしたが、さらに彼を嘆かせたのは、コリント教会が、そのことを問題視せずに黙認していたことです。ローマ帝国のアカヤ州の州都であるコリントの町は、経済的に繁栄していましたが、道徳的には退廃しており、その悪い影響が教会の中にも及んでいたのです。パウロはそのようなコリント教会の人々に対して、「古いパン種を取り除きなさい」と命じています。そして彼は、不品行を引き起こす罪に満ちた心を、過越の祭りのパンにおいて取り除かれるパン種になぞらえて語っています。イスラエル人がエジプトを脱出する際、イースト菌のような種のないパンを食べ、7日間の祭りをすることが求められましたが、民は、家の中のパン種を確実に取り除いたのです(出エジ12:15)。パン種はごく小さなものですが、こねた粉全体に働き、パンをふくらますのです。大きな影響を与えるのです。パウロは古いパン種、つまり古い肉に宿っている欲望や、自己中心の思いなど、神のみこころから外れている罪深い思いを徹底的に取り除くように命じているのです。放置した小さなパン種が全体に大きな悪影響を及ぼし、不幸な結果を生み出してからでは遅いのです。それは私たちに対する主からの警告でもあるのです。過越の小羊キリストによって贖われた者としてふさわしく、古いパン種が主にあって一掃されるようにと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 4章14-21節◇(9月19日)

「ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」…1コリント4:16

「私に倣う者となってください」というパウロのことば…。しかし彼は、自分が完璧な人間だと自慢しているわけではありません。あるいはまた、自分とあまりにも違うコリント教会の人々を、見下しているのでもありません。パウロは「キリスト・イエスにある私の生き方」と言っています(17節)。また彼が書いた別の書簡では、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言っています(ガラテヤ2:20)。彼は、自分がただキリストにあって生かされている…自分のうちにおられるのはキリストであり、御霊が住んでおられるということを知っていたのです。罪深い自分はキリストとともに十字架につけられて死に、キリストとともによみがえらされたのだということを、絶えず思わされていたのです。そのパウロにとって、「私に倣う者となってください」ということばは、決して、自分を誇る思いからではなく、キリストによって救われ生かされている自分を通して、キリストに倣う者となってほしいという願いからのものだったのです。彼が教会の人々に教えていたのは、キリストが私たちに解き明かされた神のみこころであり、パウロの歩みは常にキリストを指し示すものだったのです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」。弟子たちの足を洗われた主イエスはそう言われました。へりくだって互いに愛し合い仕え合いなさいとの教えを、ことばだけではなく、実践されたのです(ヨハネ13:15)。使徒パウロは徹底的にキリストに倣って生きました。私たちもそうあってほしいと、主は願っておられるのです。「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(20節)。キリストの教え、神のことばを、私たちが聞くだけでなく、語るだけでなく、それを自ら実際に行なっていくところに、神の国が現されるのです。弱く、かたくなな私たちは、御霊の力によって主の似姿へと変えられていくのです。神の国の偉大な力を日々体験する者でありたいと願います。

御国が来ますように。

聖書箇所: コリント人への手紙 第一 4章1-13節◇(9月18日)

「さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。」…1コリント4:6

「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい」。4章はそのようなパウロのことばで始まっています。3章23節には、「あなたがたはキリストのものであり」とあります。罪人であった自分がキリストに贖われ、キリストの愛と赦しといのちの中に生かされている…。キリストのしもべとして神の奥義の管理を任され、キリストの福音を伝える使命が与えられている…。パウロやペテロや使徒たちはそのような意識をもって、自分の分を果たすべく忠実に主に仕えていたのです。しかしコリント教会の人々は、その中の誰を支持するかと、自分たちが選んで決めるという高慢な思いにとらわれ、それが分裂・分派という問題を引き起こしていたのです。「書かれていることを越えない」とパウロは言っていますが、「書かれている」とは旧約聖書に書かれていることであり、それを説いたキリストの教えを含む神のことばのことです。またそれは、神の絶対的な主権ということでもあります。罪人である人間はすぐその一線を越えようとするのです。自分の経験や知識もまた、神から与えられたものなのに、自分の力で獲得したものであるかのように誇るのです。そして自分を正当化したり、他者を見下したりするのです。あるいは、罪を赦されて救われたのだからもう大丈夫、あとは自分の思い通りにいろいろなことをやっていこうと、救いをはき違えて、肉に従って歩む過ちを犯すのです。自分が「王様」となってすべてを支配しようとするのです。パウロは皮肉を込めてそのことを批判しています(7-8節)。「書かれていることを越えない」。主は、私たちに対しても、そのことを警告として語っておられます。主の一方的な愛と恵みとあわれみにより生かされていることを忘れず、へりくだり、みことばに聞き従う者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 3章10-23節◇(9月17日)

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」…1コリント3:16-17

自分たちが神の神殿(宮)であるのを知らないのかと、パウロは強い口調でコリントの人々に訴えています。私たちが神の宮であるということはまず、その宮の所有者は自分自身ではないということです。なぜなら、かつて罪の奴隷であった私たちは、主イエスのいのちを代価として買い取られた者であり、神によって日々生かされている者だからです。私たちが神の宮であるということはまた、私たちを通して神の臨在がこの地上に現されていくということであり、私たちのうちに住んでおられる御霊がなされるみわざを見て、周りの人々が、主を認め、主の御名をあがめるようになるということです。神の宮は主の臨在と栄光が満ちるところなのです。「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます」。神が所有されるその尊い宮は、それを傷つけ、壊そうとするいっさいの者から、神ご自身が守り、保護されるのです。だから私たちは、自分を脅かす何者をも、恐れる必要はないのです。「神の神殿は聖なるものだからです」。神は、ご自身の神殿を、汚れたこの世から取り分け、神の国をそこからさらにこの地に拡げられるのです。そのために私たちは、さまざまな不品行を避け、自分自身をきよく保ち、神がなされるその働きに、ふさわしく間に合う者であることが求められています。そしてそれは私たちが、土台であるイエス・キリストの上に自分の人生を築き上げていくことであり、金、銀、宝石のような、火の試練によっても残る、朽ちることのない神のことばに従って日々歩み、神の宮を建て上げるということなのです(10-15節)。そのことをしっかりと覚える者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 2章◇(9月15日)

「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」…1コリント2:4

「説得力のある知恵のことば」…。パウロの福音宣教における知恵のことばは、人間の知恵、この世の知恵のことばではありません。それは、天的な、神から与えられる知恵であって、隠された奥義としての知恵なのです。そしてそれは、神が世界の始まる前から定めておられたのです(7節)。その神の知恵のことばは、パウロが言うように、人々に対して説得力を持つものではありません。つまり、神が備えられたキリストによる救いは、論理的に順序立てて説明し、なるほど、わかったと、人々が理解して納得するようなものではないのです。むしろ1章にあるように、そんなことはばかげている、愚かだ、あり得ない…と拒絶されてしまうことばなのです。パウロは、最初にコリントの教会に行ったときには、弱く、恐れおののいていたと告白しています(3節)。それは、コリントに行く前に、アテネで宣教した彼が、この世の知恵を追求するギリシャ人たちに対して、彼らに合わせてうまく説得しようと試みたものの、拒絶され、意気消沈していたからです(使徒17:32参照)。だからこそパウロは、その苦い体験を教訓として、人間的な知恵のことばによって人々を説得しようとせず、キリストのことばとみわざをただ語ろうと決意したのです。自分の肉の努力ではなく、御霊の働き、神の力によって人々が救われることを、ひたすら待ち望んだのです。福音の宣教は、いつの時代であっても、そのように、御霊と御力の現われによってなされていくのです。人々の心が変えられるのは、決して、語る者の雄弁さや、説得力のある知恵のことばによるのではないのです。知恵と啓示の御霊が、私たちのうちにある罪に光を当て、いのちへ至る道であるキリストを指し示されるのです。宣教の働きを委ねられた者として、私たちも、御霊と御力の現れをさらに熱心に求めたいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 1章18-31節◇(9月14日)

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」…1コリント1:18

十字架のことばは滅びる人々には愚かに思える…。パウロはそのように言っていますが、なぜ人々は、愚かだと考えるのでしょうか…。それはまず、主イエスが十字架にかかったからです。イエスがメシアなら十字架になどかかるはずがない。たとえかけられても降りて来られるはずではないか…。弱々しい姿をさらして殺されたイエスという男が、メシアであるなんてばかげている!愚かなことだ!と、人々は考えたのです。しかし、主は私たちの身代りとして、罪を一身に背負って刑罰を受けてくださったのです。そして葬られた墓からよみがえってくださったのです。十字架のことばをなぜ人々は愚かだとするのか…。またそれは、そのことばを信じるだけで救われる、イエスをメシアとして受け入れ、口で告白することにより、義と認められ、永遠のいのちが与えられるとするからです。律法を守るためにがんばっているというのに、そんな簡単に救いが与えられるなんてあり得ない!愚かなことだ!と、人々は考えたのです。しかし救いは、人間の努力によらず、神の一方的な恵みとあわれみによって与えられるのです。十字架のことばは…救いを受ける私たちには神の力だ…。パウロはまた、そのようにも言っています。ここで、「救いを受ける」と過去形ではないことに心が留まります。英語の聖書では「being saved」となっています。「救いを受け続けている」ということです。現在進行形です。それが完成するのは主が再臨されるときであって、パウロが言っている「救い」とは、主イエスを信じ受け入れ、受洗してキリスト者となったことだけを意味していないのです。私たちには、キリストにある神の救いが絶えず必要なのです。弱さのうちに働く神の力なしには、決して前に進めないのです。そして罪からきよめられ、さらに主の似姿へ変えられていく…。そのために私たちは、日々、主の十字架に立ち返り続けるのです。キリストの十字架のことばを、朝ごとに受け取り直すのです。それが「救いを受ける私たち」に求められていることなのです。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: コリント人への手紙 第一 1章1-17節◇(9月13日)

「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。」…1コリント1:17(2017訳)

コリント教会には当時さまざまな問題がありましたが、そのことを知って心を痛めたパウロが、霊的な真理に基づく教えを人々に伝えることにより、それらの問題が速やかに解決されることを願い、書き送ったのがこのコリント人への手紙です。最初に書かれている問題は、教会内での分裂です。10節には、「…仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください」(2017訳)とあり、12節にあるように、教会員たちはそれぞれの考えで、パウロ、アポロ、ケパ(ペテロ)、キリスト…と、自分が支持する者を決め、グループを勝手に作って分れてしまっていたのです。分裂が生じた要因の一つは、ユダヤ人、異邦人という血筋にこだわる考えが根強かったことかもしれません。また、アポロは雄弁に語る人物でしたが(使徒18:24)、彼のその賜物に惹かれる者も少なからずいたでしょう。しかしいずれにしても、パウロ、アポロ、ペテロはあくまで、キリストによって贖われ、キリストを宣べ伝えるために、キリストによって遣わされた、キリストのしもべなのです。その彼らをキリストと同じレベルに持ち上げ、担ぎ出し、派閥の領袖のように扱うのは大きな誤りなのです。教会の中に、また聖徒たちの中に、そのような人間的、地上的な考えが入り込んでくるとき、目に見えるもの(人物)に心寄せる者が現われるとき、霊的な一致は崩れ、争い、仲間割れ、分裂が生じます。それはいつの時代であっても、どこの国でも同じです。パウロは、ことばの知恵によらず、雄弁さに頼らず、バプテスマという目に見える形にもとらわれることなく、キリストの十字架と復活による贖いの事実を、キリストのしもべとしてひたすら真実に語り続けました。私たちもそこにしっかりと心を留めて歩み、キリストに遣わされた者として、福音を宣べ伝えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記 21章◇(9月12日)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」…士師21:25

イスラエル人たちは、事が一段落してみると、同胞であるベニヤミン族のわずかの者しかもはや残っていない現実をあらためて知らされ、なぜこのようなことになったのかと、ベテルに来て、主の前で嘆き、悲しみ、声を上げて激しく泣きました。そしてベニヤミン人の跡継ぎがいなくなり、部族全体が絶滅してしまうことを恐れたのです。しかしいくら和解したとしても、ベニヤミンの残りの者に自分たちの娘をとつがせることはできません。そうしないと以前に主に誓っていたからです(1,7節)。そこで彼らが考え出した方法はこうでした。ミツパでのその誓いに加わらなかった氏族がいるなら、そこの町の住民を打ち、若い処女を連れて来て、ベニヤミンの残りの者に与えるということです。彼らはそのようにしましたがまだ人数が足りません。すると今度は、シロでの祭りで娘が踊りに出て来たら、それぞれ自分の気に入った娘を捕らえ、ベニヤミンの地に連れて行くようにと、残りの者に命じたのです。しかしそれは拉致であり略奪であって、そのような行為を主が良しとされるはずがありません。そして、彼らがそのことの是非を主に尋ねるべく、主の前に出て祈り求めたとは書かれていないのです。それらのことが、イスラエル人自身の考えに基づいた、自分たちの目に正しいと見えるものであったからです。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」。17章6節のことばが結論として再び記されています。確かに17章以降の士師記が私たちに伝えているのは、霊的な暗闇であり、神が定めた秩序の崩壊であり、肉欲に支配され、自己を満足させる人々の姿です。そしてそれは今の世にも見られるあり方なのです。だからこそ、まことの王が必要なのです。闇を照らすまことの光なるキリストが治めなければならないのです。だからこそ私たちは、福音を人々に宣べ伝えるのです。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: 士師記 20章36-48節◇(9月11日)

「イスラエル人は引き返して戦うようになっていた。ベニヤミンは、約30人のイスラエル人を打ち殺し始めた。『彼らは、きっと最初の戦いのときのように、われわれに打ち負かされるに違いない』と思ったのである。」…士師20:39

「彼らは、きっと最初の戦いのときのように、われわれに打ち負かされるに違いない」…。ベニヤミン人たちはそう思い込んでいました。負けるわけがないと彼らは高ぶっていました。イスラエル人は弱い者たちだと侮っていたのです。だから恐れることはないと油断していたのです。しかし実際の戦いはそうではありませんでした。3度目の戦いは最初の戦いとは違っていたのです。イスラエル人たちは伏兵を設けており、ベニヤミン人たちが主力部隊たちと戦っている間に、その伏兵は町中を剣の刃で打ちまくったのです。合図ののろしが町から上がったのを見た主力部隊は引き返し、町から来た伏兵も合流して戦い、結局、ベニヤミン人はわずかな者しか残らなかったのです。一方、イスラエル人たちはベニヤミン人に敗北するたびに、2度、3度とベテルに上り、主の契約の箱の前に出て、主の御旨と導きを祈り求めました。3度目のときには断食をし、全焼と和解のいけにえをささげ、イスラエル人は、攻め上れ…彼らをあなたの手に渡す…という御声をはっきり聞き、確信を持って戦いに出て行ったのです。そして主ご自身がベニヤミンを打たれたのです(35節)。ベニヤミン人との大きな違いがそこにあったのです。「これらの者はみな、力ある者たちであった」(44,46節)。ベニヤミン人の力はあくまで人間的な意味での力です。しかしその力はまったく役に立たなくされるのです。彼らが主の前に高ぶり、どうせ最初のときと同じだと、油断していたからです。そして私たちのうちにもまた、いつもと同じにすれば大丈夫…という、高ぶり、侮り、油断する心があるのです。しかし主の導きは常に同じわけではないのです。「どうすべきでしょうか…」と、絶えず謙遜に主に尋ね求める者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記 20章17-35節◇(9月10日)

「こうして、主がイスラエルによってベニヤミンを打ったので、イスラエル人は、その日、ベニヤミンのうち2万5千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」…士師20:35

ギブアでの事件はイスラエル人全体に知れ渡り、大きな騒ぎとなりました。怒りを燃やした彼らは、ギブアの住民の肩を持つベニヤミン族を打って報復しようと、兵士たち40万人を召集しました。一方、彼らを迎え撃つベニヤミン族の中には7百人の左利きの精鋭がおり、さらに2万6千人の兵士たちが召集されてイスラエル人と戦いました。数の上では圧倒的に不利なベニヤミン族でしたが、2万2千人のイスラエル人を打ち殺したのです。多くの同胞を失ったイスラエル人たちは悲しみ、打ちのめされつつも、みなベテルに上って行きました。そこには契約の箱がシロから移されていたのです。彼らは主の前に進み出て、主のみこころ、導きを、戦いの前のときよりもさらに熱心に祈り求めました。そして彼らは再び戦いましたが、ベニヤミン族は手強く、さらに1万8千人が打ち殺されてしまったのです。しかしイスラエル人たちは戦意を失いませんでした。3たびベテルに上った彼らは、断食をもって祈り求め、二手に別れるという戦略を主から示されたのです。そして主力部隊は2万5千百人のベニヤミン人を打ち殺し、3度目の戦いにして彼らは大きな勝利を得たのです。そしてそれは主が敵を打たれた結果であったのです。私たちもまた、さまざまな戦いを余儀なくされます。そこで、もうだめだ…と、打ちのめされることもあります。しかし私たちも、何度でもベテルに上るべきなのです。すべてを統べ治めておられる主の前に出て祈り求め、主が介入してくださることを待ち望むべきなのです。そのとき主は私たちに戦略を示してくださり、さらに、主ご自身が敵を打たれ、勝利を与えてくださるのです。どのような状況でもあきらめず、何度でもベテルに上り、主の助けと導きと勝利を求めて行きたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 士師記 19章◇(9月8日)

「それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」…士師19:30

士師記の最後の3章には、ギブアの町の住民による暴行事件、それを非難する全イスラエル、さらに、ギブアを含むベニヤミン族の反応が記されています。今日の19章もまた、昨日の18章と同じように、イスラエルに王がなかったことを最初に述べており、民が自分勝手に、また欲望のままに歩むことがどれほどおぞましいかを、私たちはそこに見るのです。エフライムの山地の奥に寄留していたひとりのレビ人は、自分のことを嫌ってベツレヘムの実家に帰ってしまったそばめを連れ戻すために、その実家を訪れました。彼はエフライムに向けて出発し、途中のギブアの町に泊まることにしましたが、町の治安が悪いのを懸念した同郷の老人の家に迎えられて飲み食いしていたところ、同性愛者たちがそのレビ人を出すよう求めたので、彼は自分のそばめを代わりに彼らに引き渡したのです。そばめは犯され暴行を受けて息絶え、そのレビ人は彼女の体を12分割してイスラエル全土に送りました。ギブアの町で起こった忌まわしい強姦・暴行事件…。あのソドムでの出来事が思い起こされます(創19:4-11)。その後ソドムとゴモラは主によって滅ぼされましたが、ギブアの町の者たちはそのソドムよりさらに悪質でした。レビ人のそばめは犯され暴行され殺されたのです。また老人は自分の娘とそのそばめを出そうとしたのです。レビ人はそばめを犠牲にして自分は結局助かったのです。朝の目覚めまでそばめを助けようとせず寝ていたのです。ここに描かれているのは「何でもあり」の世界です。そこにあるのは、無法、無秩序、霊的な堕落と暗闇です。そしてそれらは私たちの周りにも見られることなのです。そこで私たちがなすべきこと、できることとは何でしょうか…。それはあのアブラハムのように主のあわれみを求めて、破れ口に立って熱心にかつ大胆にとりなすことなのです。

主の御声に聞き従うことができますように。

◇聖書箇所: 士師記 18章◇(9月7日)

「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。」…士師18:31

ダン族は相続地を求めていた、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかった、と1節にありますが、相続地はヨシュアによって割り当てられていました(ヨシ19:41-46)。しかし実際には、先住のエモリ人から奪い取ることができませんでした(士師1:34)。彼らは、割当地を自分たちの相続地にはできなかったのです。ダン族は新たな相続地を自分たちで探し求めました。彼らが目をつけたのは、イスラエルの領土の北端のライシュという町です。仲間のところに戻った偵察隊は、その町と周辺の地域を占領すべきだと提案し、武装した6百人が氏族の中から選ばれ出発しました。そして、偵察時にたまたま寄ったミカの家を再び訪れ、家の祭司として雇われている若者を言いくるめ、エポデとテラフィムと彫像とともに連れ出したのです。彼らはライシュに着き、剣の刃でその住民たちを打ち、町を焼いて一掃し、新たに自分たちの町を建てました。そしてミカから奪い取った彫像を自分たちのために立て、偶像の神を礼拝したのです。神の宮はシロにありました。しかし彼らは「自分たちのための」神の宮を欲したのです。ダン族のそれらのふるまいを見るときに思い浮かぶのが、「自己満足」ということばです。そしてそれは「人間満足」ということでもあります。まことの神が不在の世界です。まさに彼らは、自分たちの目に良いと見えることを、自分たちの考えに基づいて次々と行なっていたのです。偵察隊はライシュの地を、「神はそれをあなたがたの手に渡しておられる…」と神の名を使って正当化しましたが、そのような不遜で不敬虔なことが平気でなされたのです。そのような自己満足…それは主イエスが強く非難されたパリサイ人たちの律法主義的な生き方でもあります。またそれはこの世にも、私たちのうちにも見られるのです。ダン族を反面教師として学び、神の御旨から外れないよう、主の民としてふさわしく歩めるよう祈り求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 士師記 17章◇(9月6日)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」…士師17:6

1節から5節には、エフライム出身のミカという人、その母親、銀細工人、ミカの息子が登場し、彼らが行なったことが淡々と記されています。しかしそれらの一つ一つは神のみこころではない、神が与えられた律法に違反していることであって、それらが当然のようになされていたということがここに記されているのです。驚くべきことです。ミカは、母親から銀千百枚を盗んで持っていましたが、あるときそれを告白しました。するとその母親は、わが子のためにそれで彫像と鋳像を造ろうと言い、ミカから返されたうちから銀2百枚を銀細工人に与え、できあがったそれらの像を自分の家に置いたのです。彫像と鋳像とはすなわち偶像の神のことです。十戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」と定められており(出エジ20:4)、母親の行為は律法に明らかに違反していたのです。一方ミカは、シロに聖所があるにもかかわらず、自宅に私的な神の宮を設けていました(5節)。そしてレビ人でない自分の息子を祭司として任命し、祭司が着るエポデと偶像の一種のテラフィムを作り、「礼拝」を行なわせていたのです。そのような行為も、十戒で明確に禁じられていたのです(出エジ20:5)。ここに見られるのは神が定めた秩序の崩壊です。霊的な暗黒です。そしてそれは、6節にあるとおり、それぞれが自分の目に(考えで)良いと見える(思える)ことを行なったことにより生じた結果なのです。それは現代社会においても見られることであり、ともすれば、私たち信仰者も陥ってしまう罠なのです。「イスラエルには王がなく…」。王は主ご自身であられ、主はご自身の民に律法を与えておられたのです。その律法は御国の王なるキリストによって成就され、キリストの教えとして私たちに与えられているのです。主の目に正しいことを行なう者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記 16章◇(9月5日)

「サムソンは主に呼ばわって言った。『神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の2つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』」…士師16:28

「どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう…」とデリラから3度も尋ねられたとき、サムソンは、彼女の背後にあって自分を殺そうとするペリシテ人の陰謀を見抜いていたに違いありません。しかし彼は自分の力に自信があったのでうそをつき、縛られてもそれを簡単に断ち切ることができたのです。しかしそんなサムソンも、デリラから毎日、私をだまして心が離れているのに、それでもあなたは私のことを愛していると言えるのかと責められるのは、死ぬほどつらいことでした(16節)。彼はついに、自分の力の源が髪にあることを明かしてしまいました。そして眠っている間に髪をそり落とされ、力を失ったサムソンは目をえぐり出され捕らえられたのです。しかしそこで彼の髪はまた伸び始めました。力が少しずつ戻っていたのです。しかしサムソンはもはや自分の力を誇る高慢な者ではありませんでした。なぜならその力が自分自身のものではないことを学ばせられたからです。そしてデリラにうつつを抜かしたことが、偶像の神ダゴンをペリシテ人がほめたたえるのにつながったのを見て、自分は今何をすべきなのか、何ができるのかを主に尋ね、力が与えられるようにと主に祈り求めたのです。そして、ダゴンの神殿での宴会に呼び出された彼は、柱を倒し、ペリシテ人を道連れにして自らのいのちを捨てたのです。波瀾万丈のサムソンの生涯…その記述の最後(16:31)には「サムソンは20年間、イスラエルをさばいた」と、15:20のことばが繰り返されています。それは、彼が神に用いられたということです。彼が主の御旨を尋ね、自分ができることをもってご自身に仕えたのを、主が良しとされたということです。「私を御心に留めてください」という祈りが心に留まります。私たちもまたそのように、自分がなすべきことを主に尋ね、できることをもって主に仕える者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記 15章◇(9月4日)

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」…士師15:18

荒くれ者で、身勝手な言動が目につくサムソン…。ともすればこのサムソンの記事を読むときに、眉をひそめるような思いになります。15章1節にも、すでに他人のものとなった妻を一匹の子やぎをもって訪ね、妻の部屋に入らせてくれと言ったと書かれています。当然その要求は拒否されますが、サムソンはそのことでペリシテ人全体に対して恨みを抱き、3百匹のジャッカルの尾にたいまつをくくりつけ、ペリシテ人の畑を燃やすという行動に出たのです。怒ったペリシテ人たちはユダに向かって陣を敷き、サムソンを引き渡すよう求め、ペリシテ人たちは、岩の裂け目にいたサムソンを非難し、彼を縛り、ペリシテ人たちの手に渡そうとしましたが、またもや主の霊が激しくサムソンの上に下り、彼はろばのあご骨で彼らを千人打ち殺したのです。その後、サムソンはひどく喉の渇きを覚えました。そして水が与えられるよう主に祈り求めたのです。サムソンが主に向き合う初めての記述です。「死にそうだ…」と感じるほどのひどい渇きを通して、主は、力と欲望に身を任せていた彼の心を砕いて、イスラエルの士師としての召命を与えられたのです。国を守るために神が自分を用いられるという自覚が、その取扱いによってサムソンにもたらされたのです。「こうして」彼は20年間イスラエルを治めました(20節)。主は私たちに対しても、しばしば同じようにして、主を呼び求めざるを得ない状況へと追い込まれます。その中で私たちの霊の目を開き、頑なな心を砕き、神に生かされている意義と目的を示されるのです。私たちを用いてご自身のご計画を進められるのです。すべてが主の御手の中にあることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 士師記 14章◇(9月3日)

「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。」…士師14:4

ダン族のマノアという人と不妊であったその妻に男の子が与えられました。主の使いが現われ、その子は神へのナジル人であると告げましたが、ナジル人とは、主のものとして身を聖別するため、特別な誓いをする人のことです。二人はその子の名をサムソンと名付け、主は彼を祝福されました(13:24)。大きくなったサムソンはペリシテ人の娘をみそめ、妻に迎えたいと両親に告げましたが、異邦人との結婚を両親は賛同しませんでした。ところがサムソンは、「あの女を私に…あの女が私の気に入ったのです…」と、あくまでもその娘をめとることに執着したのです。彼は婚宴を自ら催し、結婚を強引に成立させました。その祝宴の席でサムソンは参加者に謎かけをしました。彼らが答えられるなら着物と晴れ着を与え、答えられなければ逆に自分がもらうという申し出です。参加者はサムソンの妻にサムソンから答えを聞くよう迫り、妻から泣いてせがまれた彼はそれを教えてしまい、結局、近くの町の住民を殺して晴れ着を奪うはめになりました。その後、彼は実家に帰り、妻は別の者の妻となったのです。サムソンの執着、気性の激しさ…。それがさまざまな問題を引き起こしているように見えます。しかしそれらは、主によることなのです。主はサムソンを用いて事を起こし、イスラエルをペリシテ人の手から救おうとされていたのです。私たちの歩みにもしばしば厄介な問題が起こります。しかしそれもまた、主の御手の中にあることなのです。主はそのことを通してご自身のご計画を進められるのです。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」(イザ55:9)。大切なことは、私たちを愛し、祝福しようとされている主に信頼することです。たとえなぜだか理解できないとしても、主が事を最善になされると信じて導きを祈り求めることです。慌てふためくことなく主を待ち望む者でありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 士師記 12章◇(9月1日)

「…彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』」…士師記12:1

アモン人と戦って勝利を収めた士師エフタに対して、エフライム族の人々は非難しました。なぜ自分たちにも声を掛けなかったのか…と。しかしエフタは、以前にもアモン人との争いがあり、私はあなたがたに助けを求めた…にもかかわらず、あなたがたは私を救おうとはしなかったではないか…だから今回、あなたがたの助けをあてにせずに、命がけでアモン人と戦ったのだ、と反論したのです。エフライム族の人々は、以前、ギデオンに対しても、まったく同じ理由で彼を責めていました(士師8:1)。しかし彼らは、ともに戦う気は必ずしも持っておらず、何よりも自分たちに声が掛からなかったことに対して腹を立てていたのです。エフライム族の割当地はカナンの地の中心であり、そこには聖所シロもあります。ギルアデ出身のエフタが勝利し手柄を立てたことで、彼らは自尊心が傷つけられ、エフタに嫉妬したのです。その後、彼らとエフタ率いるギルアデの人々との間で内戦となり、4万人あまりのエフライム人が倒れました。私たちにも、「エフライム人の思い」がしばしば起こります。グループの一員であるのに声を掛けてもらえなかった…そのことは自分には事前に知らされていなかった…と。そして周囲に不満を漏らし、それが引き金となって、不要ないざこざ、無益な争いが起こることもあるのです。そして組織や共同体の一致が乱されてしまうのです。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(エペソ4:2-3)。「自分、自分…」ではなく、「…すべきだ」でもなく、謙遜と寛容の心をもって歩むことが大切なのです。争いがあるところに一致がもたらされることはないのです。ふさわしくない思いが主に砕かれるようにと願います。

御霊の一致が与えられますように。