◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 5章◇(9月30日)

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」…ヘブル5:8-10

大祭司の役割…それは、1節にあるとおり、神に従おうとしない民に対する神の怒りをなだめ、羊などのいけにえをささげて、その罪の赦しのためにとりなすことでした。そして大祭司は、レビ族、しかもアロンの家系の祭司の中から任命されるようにと定められていたのです。大祭司にももちろん罪がありました。大祭司はその努めをなす前にまず、自分の罪のためにささげ物を献げて、神から赦され、きよめられる必要があったのです(3節)。また大祭司は、自ら志願したり、人から推薦されたりして立つのではなく、神から召命を受け、名誉を与えられ、神のしもべとしてすべてを献げ、神と人とに仕えるのです。ヘブル書の著者は、キリストも同様に大祭司として神から召命と名誉を受け、神と人とに従順に仕えて全き者とされ、ご自身に従う人々にとこしえの救いを与える者とされた、そのようにしてその職務を全うしたと記しています(9節)。しかし大祭司なるキリストは、罪のないお方であって、自分自身のために贖罪のいけにえをささげる必要はありませんでした。むしろキリストは、罪のないご自身を完全ないけにえとして神にささげられ、そのいのちを代価として人々を罪の奴隷から贖い、救いを与えられたのです。イエス・キリストこそが、完全かつ永遠の大祭司なのです。そのキリストは、大祭司として今も神の右の座に着き、私たち聖徒たちのために、とりなし続けておられます。私たちが悪しき者の誘惑から守られるよう、信仰を失ってしまうことがないよう、神の道をまっすぐに歩み続ける者となるよう、弱い私たちを顧みてくださっているのです。「無知な迷っている人々を思いやることができる」(2節)、「私たちの弱さに同情できない方ではない」(4:15)とのことばに、私たちは大きな慰めを受けます。大牧者なる主イエスに、全幅の信頼を寄せて歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 3章◇(9月28日)

「しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」…ヘブル3:6

3章において鍵となる一つのことばは「神の家」です。「モーセがその神の家全体のために(「中で」:2017訳)忠実であったのと同様に…」と(2節)、イスラエルの民をエジプトから約束の地へと導いた偉大な指導者モーセについて著者はまず言及しています。この場合の神の家とは神の民、イスラエル民族であり、神は、モーセを通して、彼らを奴隷から解放し、エジプトを脱出させ、カナンの地を領土として与え、祝福を得るようにされたのです。続いて筆者は、それに優る者としてキリストを指し示しています。神のしもべ、神の家の中の一人として、神の家が建て上げられるために忠実に仕えたモーセ…。しかし神の御子であるキリストは、油注がれた王として、イスラエルだけでなく全人類を神の家として建て上げ、神のみこころがなされるべく、忠実に治められるのです。「神の家」とは、神が所有者である家ということです。また神ご自身が建てられ、支えられるということです。さらに神はそこを、ご自身の住まいとされるのです。主の栄光と御力が現わされる所としてくださるのです。しかしもし私たちが、「自分の家」だと権利を主張し、自分の力でそれを建てて守ろうとするならどうでしょう。その家はキリストという岩の上に建てられていないので、強風が吹き、洪水が押し寄せると倒れてしまうのです。そのような「人間の家」はもろいものなのです(マタ7:27)。私たちは神の家とされました。しかし建ったからもう安心…というわけではないのです。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」とある通りです。キリストが神の家を建て上げ、忠実に治められる…。サタンは私たちのその確信と希望と誇りを奪おうとします。40年間荒野をさまよったイスラエルの民も、不信仰に陥り、約束の地に入ったのはわずかな信仰の勇者だけでした。忍耐と信頼をもってキリストに従い続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 2章◇(9月27日)

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」…ヘブル2:18

「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」(9節)。ヘブル書の著者はそのように、キリストの十字架の死は、神の恵みにより、私たちを含めたすべての罪人が救われるために主が味わわれたものなのだと、書き記しています。本来私たちが受けなければならない罪の刑罰である死を、キリストは私たちの身代りとなって受けられたのです。その身代りの死はすなわち、主が私たちの先に進まれた、私たちの先駆けとなってくださったということです。キリストはしばらくの間低くされ、よみにおられましたが、そこから解き放たれ、死に勝利し、栄光と誉れを受けられました。そして私たちもまた、そのキリストとともに死に、キリストとともによみがえり、キリストのいのちに生かされ、永遠に主とともに生きる者とされているのです(ガラ2:20)。主はそのように、私たちがこの地上で受けるすべてのものを先に味わわれたお方であって、だからこそ、私たちの持つ痛み、悲しみ、弱さ…、すべてを理解してくださるのです。4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」とあります。そしてキリストは、私たちの重荷を負ってくださるのです。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」とあります(詩篇55:22)。「この苦しみは、自分にしかわからないんだ…」と人々はしばしば嘆き、殻に閉じこもります。確かに人はすべてを理解できないし、他者に寄り添うことにも限界があります。しかし全き神であり、同時に全き人として来られ、私たちのすべてを先に味わってくださったキリストは、どのような中にある人々をも助け、真の慰めと励ましを与えてくださるのです。このキリストを、感謝と喜びをもって、人々と分かち合いたいと思います。

重荷を主に委ねることができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 1章◇(9月26日)

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」…ヘブル1:3

ヘブル人への「手紙」とありますが、最初に挨拶もなく、誰がどこに宛てて書いたものかも明らかではありません。手紙というよりむしろ説教のようだとも言われるこの書簡は、ヘレニズム(ギリシャの文化)に染まった社会にあったキリスト者たち、特に、ユダヤ人が多数である教会の信徒たちに宛てたものだと考えられています。読者に旧約聖書の知識があるのを前提としており、多くの旧約聖書の聖句の引用があることが一つの特徴となっています。当時、キリスト教もヘレニズムの影響を受けていましたが、中には神の被造物である御使いを神と同じ存在と考えて、天使を礼拝する者さえいました。そんな彼らは、キリストを天使と同列に扱うという誤った信仰を持っていたのです。ヘブル書の著者は手紙の冒頭から多くの聖句を引用して、いかにそれが間違った考えであるかを強調しています。初めにキリストがどのような方かが示されています(2-3節)。神の御子であるキリストは、世界の創造のみわざをなされ、預言者として神の御旨を明らかにすべくこの世に来られ、神の本質の完全な現れ、すなわちご自身が「啓示」となり、罪に満ちた人類をその尊い血潮によってきよめて贖い、今も王として力あることばによって万物を統べ治められ、祭司として神の右の座でとりなしておられるお方なのです。キリストこそ、油注がれた真の預言者、祭司、王であって、唯一無二の存在なるキリストが天使と同じはずがないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒4:12)。現代でも、キリストだけが救い主とするのは狭量だと、自由と寛大と協調を求める声があります。しかしそれは人間から出た考えであって、その背後には、キリストを引きずり降ろそうとするサタンが働いているのです。キリストだけが「主」となっているかどうか、心の王座におられるか、日々、自分自身を吟味したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 17,18章◇(9月25日)

「ああ。多くの国々の民がざわめき-海のとどろきのように、ざわめいている。ああ、国民の騒ぎ-大水の騒ぐように、騒いでいる。」…イザヤ17:12

17章はダマスコ、つまりアラムに対する宣告とあります。アラムもイスラエルの隣国として、イスラエルとの間で敵対関係にあったり、同盟を結んでアッシリアに共に立ち向かおうとしたりしていました。そのこともあってか、17章にはダマスコだけでなく、そのような関係にあったイスラエルに対しての預言のことばも書かれています。4-6節はヤコブ、すなわちイスラエルについての預言です。その栄光は衰え、肥えた肉は痩せ細るようになります(4節)。またオリーブの収穫のように、棒で叩き落とされますが、その枝には熟した実がわずかながら落ちずに残ります。そしてそれらが主に取っておかれた「残りの者」として、「その日」、自らの創造者、イスラエルの聖なる方を見、自分たちの手で造った偶像や、それを拝むための祭壇は見向きもしなくなるのです。主に立ち返る者となるのです。12-14節はアッシリアに対することばだとされています。アッシリア帝国は次々に国を占領し、その国民を従属させ、さらにその領土を拡張していこうともくろんでいましたが、そこに住む者たちは不満、あきらめ、権力への迎合など、それぞれが様々な思いを持ち、国は混沌としていたのです。ざわめき、騒ぎ、ということばが繰り返されています。そして主がそのような国を叱り、退けられるならば、もみがらのようにあっという間に吹き飛ばされるのです。私たちの心もまたしばしば騒ぎます。ざわつきます。問題に満ちた現状を憂い、将来に対する不安を覚え、「なぜですか…」という主への不信が渦巻くのです。しかし主に信頼せずにバタバタと動き回るようであれば、私たちもこの世の風により吹き飛ばされてしまうのです。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」(ゼカ2:13)。主の前に静まり、主を待ち望む者となりたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 15,16章◇(9月24日)

「それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。」…イザヤ16:11

15-16章には、モアブに対する宣告が書かれています。そのことばは、直接的には著者イザヤのものですが、彼は神のことばを預かる預言者であって、そのイザヤを通し、神ご自身が人々に語られたものであるのです。イスラエルの隣国であるモアブとイスラエルの関係は、敵対したり同盟を結んだり、時代により異なりますが、モアブ人であったルツがボアズと結婚し、その子孫から、ダビデ王が生まれ、さらにその家系からイエス・キリストがお生まれになったのであり、神は、異邦人であるそのモアブの民を特別にかえりみてくださったのです。泣く、わめく、叫ぶという表現が多く見られます。敵国に襲われたモアブの民は痛み、苦しみ、悲しみ、助けを求めていたのです。しかしそれはモアブの誇りと高ぶりとおごり(16:6)に対する主によるわざわいであり、彼らもまたイスラエルの神に心を向けるべきなのです。そのような中、主が彼らのために涙を流されて悲しみ、深くあわれんでおられることに心が留まります(16:9)。主は「わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのためにわななく、とさえ言われているのです。神はイスラエルにだけ関心を持ち、他の民族を放置されるようなお方ではないのです。神は、そのような愛とあわれみの心を持つようにと、すでに救われている聖徒たちに求めておられます。「モアブの散らされた者を宿らせ…隠れ家となれ」と4節にあります。また5節には、メシア預言として、「正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる」と書かれているのです。ともにその主をあがめ、ともに従うよう者となるように、救われていない人々、異端、異教の者たちのためにも、ソドムのために必死にとりなしたアブラハムのように、私たちも熱心にとりなし続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 14章◇(9月23日)

「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。」…イザヤ14:1

神の民の解放と回復が預言として語られています。それは一方的な主のあわれみに基づくことなのです。主がイスラエルをご自身の民として再び選ばれ、それだけでなく在留異国人も彼らに連なるのです(1節)。またイスラエルの民は諸国の民から迎え入れられ、自分たちを虐げた者を支配するようになるのです(2節)。それは、主が、民に対するご自身の怒りを収められ、さばきとしての捕囚の地での過酷な労役から民を解放し、祖国を追われて虐げられた民の痛みを取り除いていこわせてくださる、安息の日の実現なのです(3節)。イスラエルの民は、そのことを通して、主を求めずにもの言わない偶像に拠り頼み、主の教えに聞き従わずに自分たちの思いに従って歩んでいたことを悔い改め、ただ神の恵みとあわれみの中に生かされていることをあらためて覚え、感謝し、主をあがめたことでしょう。4節以降は、バビロンの王への、民のあざけりの歌です。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう』」(13,14節)。頂が天に届く塔を建て、名をあげようとした者たちのことが思い起こされます(創世10:4)。しかしそのような傲りと高ぶりを持つ者は、主に退けられ、よみに落とされてしまうのです(15節)。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀歌3:22)。私たちもまた、この世のものに心奪われ、拠り頼み、神に背を向けて歩んでいた罪深い者たちです。しかし、主の一方的な恵みとあわれみによって、主が遣わされた救い主イエスの贖いによって、私たちはさばきと滅びを免れ、安息を受け取ったのです。その主の恵みとあわれみを覚え、感謝と礼拝をささげ、ますますへりくだり、主に従う者とされたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 11章◇(9月21日)

「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」…イザヤ11:9

1-5節はメシア預言です。エッサイの根株からの新芽や若枝は、ダビデの子孫を意味しており、そのとおりに、イエス・キリストはダビデの血筋から生まれたのです。そのメシアは表面的なものによってさばくことなく、人の心の深みにあるものまでも探られるお方であって、正義と公正をもってさばきをなされるのです(4節)。6-9節には、狼、獅子、熊のような獰猛な肉食動物が、子羊、子やぎ、子牛のような弱い草食動物と共に住み、共に草をはむというあり得ない情景が描かれています。乳飲み子がコブラの穴の上で戯れるともあります。その段落を挟むように、10節で再びメシア預言として、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」と書かれていますが、あり得ない情景は、メシアの到来によって与えられる祝福であることを教えられます。メシアは「平和の君」であり(6:9)、戦いと争いの中に、平和と和解をもたらすことができるお方なのです。またその段落の最後の9節には、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」と、あり得ないことが起こる理由が記されています。それは、それまでは肉に支配されて生きていた人々が、メシアによる救いと解放を受け、主のみこころに従って歩む者と変えられることを示唆しているのです。そしてそれは、神が創造された本来の人間のあり方を、メシアが回復されるということにほかならないのです。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラ5:24)。肉に従って歩む者ではなく、御霊に従って歩む者とされていることを覚え、心の深みにあるものも、すべてを主なるキリストに明け渡したいと願います。

主の恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 10章◇(9月20日)

「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。」…イザヤ10:12

神は、ご自身に従わない北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国にも警告を与えるための、怒りの杖、憤りのむちとして、アッシリヤ帝国を使われました。しかし彼らは、自分たちが神の御手の中で、そのように道具とされているとは思わず、ひたすら他国を滅ぼし、自国の領土を拡げていくことに突き進んでいたのです。アッシリヤの王は自らを誇ってこう言っていました。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。」「全能者」は神以外にはあり得ません。その神の位置に自分を置いて、自らの力と知恵を誇って高ぶるのは、罪の本質です。そしてそれは現代においても、国家や個人の中に見られるものなのです。アッシリヤという国は、ここでその代表として示されているのです。そのことを戒めるわかりやすいたとえが書かれています。斧やのこぎりはあくまで人が使う道具であって、それらが高ぶって、人に向かって指図することなどないのです。もし人が棒に動かされ、杖に持ち上げられるようなことになったとしたら、それはまさに「主客転倒」であって、神はそのようなことを放置されないのです(15-16節)。私たちは、自分の力によって「生きている」のではなく、神によって「生かされている」のです。私たちは主によって造られた道具であり、器であり、それを用いて事を成されるのは、主ご自身なのです。「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます」(詩篇138:8a)「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ロマ11:36、2017訳)。信仰者であっても、慣れていることに対してはつい、「こんなことは朝飯前…」という気持ちになりますが、すべてにおいて主に拠り頼む心を持ちたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 9章◇(9月19日)

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」…イザヤ9:2

2節から7節にはメシアについての預言が書かれています。預言、つまり、まだ起こっていないことのゆえに、新改訳2017では「見る、輝く、…」というように訳し、新改訳3版では6節を「生まれる、与えられる」と訳していますが、元々のヘブル語ではそれらの動詞の時制は完了形となっています。イザヤにはそれがあたかもすでに起こったかのように、幻としてありありと示されていたので、彼は強い確信をもってあえて完了形でそれを書き記したのです。また1節は「しかし」ということばで始まっていますが、それは、前の8章の19節以下に書かれている状況を受けての「しかし」です。そこには人々が霊媒や口寄せを頼りにし、神の教えに従おうとしない状況が示唆され、イザヤは、やみ、暗闇、暗黒とことばを重ね、世と人々の心の中のやみがいかに深いものであるかを強調しているのです。しかし、そのように、やみの中を歩んでいた民は光を見、死の陰の地に住む者たちの上に光が照り輝いたのです。それがイザヤが主からはっきりと見せられた幻でした。その文脈の中で、イスラエルの民の喜びの回復と、重荷、くびき、むち、杖などからの解放が語られ(3-5節)、さらにそれが、6,7節のみどりごの誕生につながっているのです。ひとりの男の子であるそのみどりごは、「私たちのために」生まれ、「私たちに」与えられたものであるとあります。神は、ご自身に対する民の背信にもかかわらず、そのように、愛とあわれみをもってメシアを遣わしてくださったのです。そしてそのメシアはダビデの王座に就き、主権をもって王国を治め、義と平和をもたらしてくださるお方なのです。またイザヤが示しているとおり、そのメシアはやみに光を照らし、人々をご自身の光の中へと移されるお方なのです。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハ1:4-5)。イザヤの見た幻は、今から2千年前に、イエス・キリストの来臨によって確かに成就しました。このお方にすべてを明け渡し、全き光の中を歩み続けたいと思います。

世の光として尊く用いられますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 8章◇(9月18日)

「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」…イザヤ8:13

北イスラエル国がアッシリヤによって滅ぼされる日がいよいよ近づいていました。主はイザヤに対して、大きな板に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため」と書くように命じられましたが、それは、「分捕り物はすばやく、獲物はさっと(持ち去られる)」の意です。アッシリヤは洪水のように国境を越えて流れ込み、そのことばのとおりに、国民と財宝を持ち去るのです。その影響は南ユダ国にまで及ぶものとなるのです(8節)。そのようなアッシリヤ帝国の脅威に対して諸国の民は、さまざまなはかりごとを立てて対抗しようとしますが、それらはことごとく失敗して破られてしまいます。それは、神がその背後にあって、ご自身に従わない民がアッシリヤを通してわざわいを受け、畏れて従う民を守って祝福しようとされたからです。主は、アッシリヤという国を使って、そのことを民に試みられたのです。「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」それが、すべての国民に対して神が求めていることです。そうすれば神が聖所となってくださるのです。すなわち、そのような者の歩みの上に、主は豊かな臨在を現わされ、敵の手から守り、御力とみわざを現わされるのです。しかし、北イスラエルと南ユダも含め、そうでない国民に対しては、妨げの石、また落とし穴となり、それにより罠にかかって捕らえられてしまうのです(14-15節)。すでにイザヤは、バビロンによるエルサレム陥落を、このときに暗示・預言していたに違いありません。そうならないための道は神によって示されています。それは神の証しの書である聖書のみことばです(16節)。その教えをしっかりと心に留め、それに従って歩むなら、確かに主は、私たちの聖所となってくださるのです。どんなときにも、人を恐れず、主を畏れ、おののきとし、主のみおしえに聞き従う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 7章◇(9月17日)

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」…イザヤ7:14

14節は、クリスマスの季節になると、メシア預言として教会においてしばしば読まれるみことばですが、そこを注意深く読みと、文頭に「それゆえ、主みずから」と書かれていることにあらためて気づかされます。それは、10節のイザヤ(を通して語られる主ご自身)の促しをアハズが拒んだことを受け、それなら私が…と、主ご自身が一つのしるしを与えられたということです。当時、南ユダ国は、ウジヤの後、ヨタム、アハズと王が変わり、一方、アッシリアの手に陥る寸前の北イスラエル国は、アラムと同盟を結んでユダ国の首都エルサレムを攻め、何とか生き延びようとしていましたが、その戦いにも勝てなかったのです。しかし、エフライムに同盟軍がとどまったことを聞くと、アハズ王や民の心は動揺し、神に拠り頼もうとせず、ただただ恐れてしまったのです。そんなアハズ王に対し、主はイザヤを通して、「気をつけて、静かにしていなさい(「気を確かに持ち、落ち着いていなさい」:2017訳)。恐れてはならない…」と告げられ(4節)、さらに、「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」と命じられたのです。しかしそれを聞いてもアハズは、「私は求めません。…」と言い張ったのです(12節)。「そえゆえ、主みずから」、メシアを与え、御力に満ちた栄光のみわざをしるしとして現すと、主は約束されました。インマヌエルとは、「神はわれらとともにおられる」という意味です。11節は2017訳では、「あなたの神、主に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも」となっています。主はどこにでも、どのような状況の中でも、私たちとともにおられるのです。そしてその主の御力とみわざを求めよと、主は私たちにも促しておられるのです。どんな困難な状況に置かれたとしても、動揺せず、恐れず、主をひたすらに求める者でありたいと思います。

主がともにおられます。平安がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 6章◇(9月16日)

「彼は、私の口にそれを触れさせて言った。『見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された』。」…イザヤ6:7(2017訳)

ウジヤ王が死んだ年、イザヤはある幻を見せられました。それは高く上げられた御座に着いている主の姿でした。そしてそこには複数のセラフィムが翼を広げて飛び、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と呼び交わしていたのです。「聖なる」と3回繰り返すのは強調のためですが、三位一体の神が暗示されているとも考えられます。イザヤはそれを見聞きし、自らの罪と汚れを思わされ、また神を見る者は命が取られるとされていたことから、自分が神から退けられると考えたイザヤは絶望して、「ああ。私は、もうだめだ(「滅んでしまう」:2017訳)」と嘆きました。するとセラフィムのひとりが飛んで来て、祭壇の上の燃えさかる炭をイザヤの口に触れさせ、「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と告げたのです。イザヤは滅ぼされませんでした。祭壇の上から取られた燃えさかる炭…。神殿における祭壇とは、民の罪の贖いのためにほふられた動物のいけにえがささげられるところです。その上から取ってきた炭とは、そのいけにえが焼かれ、炭化したものに違いありません。なぜなら、いけにえを焼き尽くすには炭を火力とするのでは不十分だからです。炭と化したいけにえが、イザヤをきよめ、罪を赦し、咎を取り除くために、神によって用いられたのです。そしてそれはキリストの十字架の贖いの予型なのです。その炭がイザヤの口に触れたことにも心が留まります。「舌は火であり、不義の世界」とありますが(ヤコ3:6)主は私たちの口にも触れてくださり、不義を取り去り、その口を、嘆きやののしりではなく、神をほめたたえ、主の救いを民に告げ知らせるものと変えられるのです。私たちもイザヤのように、神のことばを聞いて伝える、「預言者」とされていることを覚えたいと思います。

置かれた所で主が尊く用いてくださいますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 4章◇(9月14日)

「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖なる者と呼ばれるようになる。みなエルサレムに生きる者として書き記されている。」…イザヤ4:3(2017訳)

1節は3章16節から続いている文脈の最後です。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている」(16節)。へりくだって神に従う者ではなく、肉の欲望を満たすべく、「獲物」を求めて街中を歩く罪深い女性たちの姿です。しかし主はそんな彼女たちにわざわいをもたらされ、その容姿は哀れで悲惨なものとなり(17,24節)、ようやく彼女たちは自らのそしり(「恥辱」:2017訳)が取り除かれるようにと切実に願うようになるのです。2節以降には、終わりの日に「エルサレムの残りの者」に与えられる神のあわれみと祝福が預言されています。神は高ぶる者を砕くだけでなく、さばきと悔い改めを通し、ご自身の備える救いと回復にあずからせてくださるのです。「主の若枝」、「地の実」とありますが、それは明らかに、神が天からこの地上に遣わされるメシアのことであり、「麗しく」、「栄光に輝き」、逃れた者、残りの者にとっての「威光」と「飾り」(「誇り」と「輝き」:2017訳)となるのです。そのようにして神は、エルサレムの残りの者たちを、メシアによる贖いによってご自身の救いの中に入れ、罪と汚れを取り除いて、聖なる者としてくださいます。「みなエルサレムに生きる者として書き記されている」という表現が心に留まります。エルサレムとは主の山、ヤコブの神の家があるところ、主の臨在の象徴です。そしてそこから神のみ教え、主のみことばが出て、それに聞き従う者たちは光の中を歩むのです(2:3,5)。その預言はキリストによってすでに一部成就しています。キリストは神の国をこの地上にもたらされたからです。神があがめられ、礼拝され、主のみことばが語られ、それに聞き従う者たちがいるところ、そこが「エルサレム」であり、神の国なのです。そこにはいのちと光と祝福が満ちているのです。自分たちだけでなく、残りの民がそこに加えられるよう、とりなし祈る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。 

◇聖書箇所: イザヤ書 3章◇(9月13日)

「これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。」…イザヤ3:8

1節に、万軍の主はエルサレムとユダから、民が支えと頼りにしているものを除かれるとあります。勇士、預言者、長老、隊長、高官、細工人等、2節以降に挙げられているのは民の指導者であり、国を脅かす敵と戦う者であり、行政を担う者であり、人々の生活に必要なものを作り出す者などです。それらはもちろん民の支えと頼りになる存在ですが、なんとそのリスト中には、主が忌み嫌われるはずの、占い師やまじないをする者も含まれているのです。そしてそれは、当時そのような者が社会に入り込み、民がまことの神ではなく、その者の背後にある悪しき霊に頼るという、霊的な荒廃ぶりを示しているのです。民が頼みにするそのような者たちをすべて取り除き、主は未熟な若い者を民のつかさ(「君主」:2017訳)とし、熱心でない気まぐれな者にあえて民を治めさせます。そしてそこに生じるのは、混乱と争いと無節操です。そのような無秩序状態に置かれた国家と人々は、愚かで人間的な歩みに陥るしかないのです(5-7節)。そのことの真の原因が8節に書かれています。民は神から、みことばを通して、どのように歩むべきかを明確に語られていたにもかかわらず、それに従わずに主に背き、自分たちの肉に従って語り行動したのです。そしてそれは主のご威光、主の栄光の現れ(2017訳)に逆らうことであって、彼らはその悪の報いをうけるのです。神が主権をもって統治し、人々は畏れをもって主に従う、それこそが主が私たちに求めておられるあり方です。そしてそこには、主がもたらす平和と祝福があるのです。何を支えとするのか…誰を頼みにして生きるのか…。主はいまもそのように私たちに問いかけておられます。ただ主だけに拠り頼む者でありたいと心から願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 2章◇(9月12日)

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」…イザヤ2:3

2章のはじめには、「先見のことば」として、終わりの日に起こることが預言されています。「主の家の山」、すなわちエルサレムの丘は他の山や丘よりも高くそびえ立つとありますが、実際の高さについて言及しているのではなく、霊的な意味での孤高さを表現しています。そしてそこにすべての国々が流れてくるのです。それは主が、ご自身を尋ね求めて来る者たちを、みことばの真理の光をもって照らし、歩むべき道を示して導いてくださるからです。その道は主の義と栄光に輝いている道です。主が主権をもって完全に治めておられるので、もはや人々は互いをさばいて争う必要はなくなり、剣を鋤に、槍をかまに打ち直すのです(4節)。終わりの日にはそのような平和が実現するのです。6節以下には、その終末の主の家の姿とは対照的に、イザヤの時代のイスラエルの状態が描かれています。国が金銀や戦力に富んで物質的に繁栄していても、占いをする者や偽りの神々に満ち、民は人の手による偶像を拝んでおり、霊的には堕落しているのです。現代の日本もまた、そのような状態に陥っています。さらに、おごり高ぶる者の存在が指摘されています。「わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む」と箴言にあるとおり(箴言8:13)、主は高慢な者、自らを誇る者を忌みきらわれ、終わりの日には、ぺしゃんこにされるのです(17節)。このイザヤのことばは、私たちに対する警告と奨励でもあります。この世の富に頼ろうとするのではなく、主ご自身とそのみ教えを尋ね求め、主の道に歩み、自分の持てるものを誇示して高慢になることなく、へりくだって神と人とに仕える者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 1章◇(9月11日)

「…もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる…」…イザヤ1:19-20

聖書中の代表的な預言書の一つであるイザヤ書は、イザヤが主から示された幻を記した書物です。南ユダ国のエルサレムはBC587年にバビロンによって陥落することになりますが、その前に主はイザヤを通し、ご自身の民に対して警告を与えておられたのです。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった」と主は指摘され(2節)、「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」と非難しています(3節)。それは民が家畜に劣るという嘆きにほかなりません。「堕落した子ら」、「聖なる方を侮り」、「反逆に反逆を重ねて」…とさらに民への主の非難は続きます(4-7節)。「他国人が食い荒らし」とあるので、アッシリヤによる北イスラエルへの蹂躙を意味していると思われます。しかしシオンの娘、すなわちエルサレムの聖なる都は残されたのです。南ユダに住む神の民は主によって、「少しの生き残りの者」とされたのです。ソドムとゴモラのように消滅しなかったのです。そしてそれはもちろん、ただただ主の愛と恵みとあわれみのゆえだったのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(18節)とも主は言われるのです。主はそのように救いと回復を与えてくださるお方であり、私たちはキリストの贖いによりその恵みを受けたのです。主はいつの時代にも、民に対し警告を与えておられます。祝福とのろい、救いとさばき、どちらを選ぶのか…と、私たちに問うているのです(19-20節)。そしてそれは、日常生活における小さな選択と無関係ではないのです。絶えず主にあって良き選択をする者でありたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: テトスへの手紙 3章◇(9月10日)

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」…テトス3:5

パウロはさらにテモテに、人々に注意を与えて、自分たちの上に立つ支配者たちに服従することや、争わず、柔和で、優しい者とさせるよう命じています。この3章でも、それらが具体的な「良いわざ」であり、聖徒たちがそれに励んで進んで行なう者となるよう、主ご自身が願っておられることが示されています。「良いわざ」…。それは、この世の倫理感に基づく、あるいはヒューマニズムに根差すものではありません。もちろん道徳的な正しさや他者への善意も大切です。しかしそれが時に神の御旨と異なるものになるのです。それらが私たちの肉なる思いから出て来るものとなり、私たちの自己満足で終わってしまうことがあるのです。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、…互いに憎み合う者でした」(3節)。そう書いたパウロはおそらく、自分がキリスト者を迫害し、それが神に喜ばれることだと思い込んでいた過ちを、思い返していたことでしょう。パウロは確かにそのときは、それが神のための「良いわざ」だと信じていたのです。しかしそれは主の御声に従ったことではなかったのです。5-6節のことばに心が留まります。どのような「良いわざ」であれ、それは私たちの救いのための鍵ではありません。私たちが罪赦され、義なる者として認められるのは、あくまでも神のあわれみのゆえであるからです。そしてその救いは、キリストによって私たちに注がれた聖霊による新生と更新の洗いをもってなされたのです。私たちはキリストによって御霊の働きにより新生しました。しかしその救いまだ完成していません。「更新」とあるとおりです。私たちはなおも日々新しく造り変えられ、この世にあって良いわざに励む者、主の御旨を行なう者、御国の祝福の相続人(7節)として用いられていくのです。そのことを覚え、自らを主に明け渡したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: テトスへの手紙 2章◇(9月9日)

「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」…テトス2:14(新改訳2017)

テトスへの手紙は、パウロが自分の弟子であるテトスに対して、クレテ島での牧会の働きにおいて、人々をどのように教え導くべきかということについて、実践的な助言を与えつつ励ましている書簡です。「しかし」という1節のことばは、1章の最後の、汚れた、不信仰な人々が、神の教えに従順に従おうとせず、どのような良いわざにも不適格な者たちだとあるのを受けています。「しかし」、テモテよ、あなたは、忍耐をもって、健全なおしえ、すなわち神のことばに基づいたことを語り続けよ、とパウロは言うのです。いつの時代にあっても、どのような状況においても、たとえ愚直と思えても、神のことばをまっすぐに伝え、そのことばを率先して行なう者が求められるのです。「また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい」。7-8節にはそのように書かれています。神のことばを語り伝えることはもちろん大切ですが、その者の行動がそのことばと一致しないなら、説得力はないのです。14節にも心が留まります。私たちが贖い出されたのは、私たち自身が永遠に主と住まう者となるためであり、その救いの福音を人々に伝えて分かち合うためであり、さらに良いわざに熱心な者、すなわち、神のみことばを実践する者として選び、きよめるためであると言うのです。ここでも「言行一致」の大切さが強調されています。主イエス自身も弟子たちに、あなたがたは地の塩です、世界の光ですと告げられた後に、こう言われました。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:16)。もちろん私たちの肉の力ではそうなることはできません。御霊の助けと導きによってそのようにされたいと願います。

良いわざに日々励む者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 24章◇(9月7日)

「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。…』」…2サムエル24:25

イスラエルとユダの人口調査が行なわれました。1節を見ると、主がそれを命じたとありますが、それならば、どうしてダビデはその調査の後、大きな罪を犯したと告白し、そのさばきとして、主は民のうちに疫病をもたらされたのでしょうか…。良く見ると、人口調査を命じたとされる「主」は、新改訳3版では太文字の主(ヤーウェ)ではありません。また新改訳2017では、「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた」と書かれています。さらに、1歴代誌21:1には、「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」とさえ書かれているのです(新改訳3版)。「再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった」と1節にありますが、勇士たちに囲まれ、ペリシテとの戦いに勝利し、イスラエルとユダの統一国の王となったダビデには、傲りと高ぶりがあったのかもしれません。民もまた、自分たちは神の選民であり、ダビデ王国は絶対安泰だと安心しきっていたのかもしれません。ダビデは人口調査によって誇りを持とうとしましたが、そのような人間的なことは主の御旨ではないのです。「王は神のみこころをそこなった」とあります(1歴代21:7)。だからこそダビデは罪を犯したと主に告白したのです。人口調査そのものではなく、自らの心を悔いたのです。その後ダビデは、提示された3つのわざわいのうちから、3日間の疫病が国中にもたらされることを選び、結局、7万人もの多くの民のいのちが奪われました。ダビデは悔い改め、預言者のことばに従って祭壇を築き、いけにえと祈りをささげ、神はそれを良しとされたのです。私たちもまた目に見えるものに頼り、人間的な誇りを持とうとすることがありますが、絶えず御前にへりくだり、主だけに拠り頼み、主だけを誇りとしたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 23章20-39節◇(9月6日)

「彼はあの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。」…2サムエル23:23

24節以降には、ダビデに仕えた勇士たちの名前が挙げられています。~人、~人と、実に多くの民族から勇士たちが立てられていることがわかります。三勇士のように一人ひとりの特徴や実績が特にここに書き記されているわけではありませんが、それぞれが神によって適材適所に配置されて、王であるダビデを支えたに違いありません。またそこに名が記されていない者たちも大勢いて、さまざまな立場と内容をもって奉仕していたのです。そしてそれは、油注がれたダビデ王を立てられた主ご自身に対して仕えるということであったのです。20節からはエホヤダの子ベナヤが紹介されています。モアブの英雄二人や、堂々としたエジプト人など、強敵とされていた相手を見事に打ち殺した彼は、ダビデの護衛長という重要な役職に任じられました。勇士たちの中でも最も誉れが高かったとあります。しかしその彼も「あの三人には及ばなかった」のです。それは三勇士の長のアビシャイも同様でした(19節)。ではそれは、三人の武力がそれほどまでに優れたものであったということなのでしょうか…。サムエル記の筆者は、そのことばの前に、三勇士の持つエピソード、つまり、ダビデがベツレヘムの門にある井戸の水を欲したことに応答して、危険を顧みず、いのちを掛け、敵の陣営を突き抜けてその水を持ち帰ったことを記していますが、何より三勇士に際だっていたものとは、ダビデに対するそのような高い忠誠心だったのです。そして油注がれたダビデに熱心に仕えた彼らもまた、その背後におられる主ご自身に仕えた者たちなのです。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)。パウロもそのように告白しました。私たちもまた、いのちを惜しまず主に仕える勇士でありたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 23章1-19節◇(9月5日)

「…『主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。』彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。」…2サムエル23:17

ダビデの勇士たちの中に、特に優れた3人がいました。その一人目はハクモニの子ヤショブアムで、一度に8百人を刺し殺すほどの槍の名手でした。二人目はドドの子エルアザルで、自分の手が疲れて剣にくっついてしまうほど、徹底的に敵を打ちました。三人目はアゲの子シャマで、ペリシテ人の隊に対し、民がみな逃げ出してしまった中、孤軍奮闘、畑の中に一人踏みとどまって戦い続け、敵を打ち殺したのです。「主は大勝利をもたらされた」と書かれています(10,12節)。しかしそれは、敵がいきなりバタバタと倒れるというような超自然的な主のみわざによって実現したのではなく、主が立てられた勇士たちの手によってなされたのです。その大勝利は、主が彼らを通してもたらされたのです。13~17節には、この三勇士にまつわるある出来事が記されています。ペリシテ人の隊と対峙したダビデはそのとき要害にいましたが、彼がベツレヘムの門にある井戸の水をだれか飲ませてくれたらなあ、と言うと、それを聞いた三勇士は、敵の陣営を突き抜けて行って、その井戸の水をダビデの元へ持ち帰ったのです。自分のためにいのちをかけた三勇士に感動したダビデは、その水は彼らの「血」だと言って飲みませんでしたが、そのように彼らは王への高い忠誠心を持っていたのです。そしてその三勇士を主は用いて勝利をもたらされたのです。「…小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです」(黙17:14)。何よりキリストは父なる神に対して忠実であられ(ヘブ3:2)、いのちをかけて十字架の苦難を突き抜け、よみから戻って復活し、いのちの水を私たちに与えてくださったのです。その主に贖われた私たちもまた、召された者、選ばれた者、キリストの兵士として、忠実に王に仕えたいと願います。

主が勝利をもたらしてくださいますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 22章26-51節◇(9月4日)

「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」…2サムエル22:51

22章の後半です。まず心に留まるのが26,27節のことばです。恵み深い者には恵み深く、きよい者にはきよく…と、他者に対する、また神に対する人のあり方を主はご存じであられ、主もまた同じようにその人に対して関わる…とダビデは言っています。それは、ブーメランのように、自分が発したものが神の元から戻ってくるということであり、種を蒔けば、その刈り取りもするという教訓でもあります(ガラ6:7)。このことをしても、言っても、誰にもわからない…と、絶えず注がれている主のまなざしを無視する者は、自らが発したそのことで恥をかくことになるのです。主は、高ぶる者を砕いて低くされるのです(28節)。38節から43節のことばにも着目したいと思います。「根絶やしにし」、「絶ち滅ぼし」、「打ち砕き」…と、ダビデが敵に対して、容赦せずに徹底的に攻撃するさまが描かれています。それはダビデの肉なる思いによる過剰な対応では決してなく、彼に力を帯びさせ、立ち向かう敵を彼のもとにひれ伏させ、背を見せるようにされたのは、神ご自身であったのです(40,41節)。そのようにして敵を滅ぼすのは主のみこころなのです。ここでの敵とは、サウルという目に見える者ではなく、悪魔とその手下のさまざまな悪霊と考えられます。なぜなら主のみこころは、どんな罪を持った人であれ、助けを主に叫び求めるなら救い出すことであるのに、彼らが主に叫んでも、答えはなかったからです(42節)。彼らはダビデによって粉々に砕いて踏みつけられたと書かれています。ここにキリストが示されています。そして神は、今なお抵抗している悪魔とその手下を、聖徒たちを用いて打ち砕いてくださるのです。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ロマ16:20)とある通りです。さまざまな攻撃や誘惑の中にあっても揺り動かされず、絶えず主の御名を呼び求めて歩み続けたいと思います。

主の勝利にあずかる者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 22章1-25節◇(9月3日)

「主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。」…2サムエル22:21

22章にはダビデの歌のことばが書かれています。主が彼をすべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日の歌だと1節にあります。巌、とりで、盾、救いの角、やぐら、逃げ場…と、主がいかに身を守ってくれる頼れる存在となって自分にかかわってくださったかを、ダビデは、感謝と賛美の思いにあふれて描写しているのです。21節には、「主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた」(「顧みてくださいました」:2017訳)とありますが、それは、ダビデが元々「義」なる者、きよい手のわざに満ちた者だったので、サウルの手から守られるよう、主が顧みてくださったという意味ではありません。「私は主の道を守り」(22節)、「そのおきてから私は遠ざからなかった」(23節)と書かれているように、主が、これが道だ、これに歩めとご自身の道を示し、私の戒めを守り行う者は幸いだと教えを与えられ、ダビデが苦難の中にあっても自暴自棄にならず、主に信頼してみことばに従って歩み続けたゆえに、主が彼を喜びとし、助け出されたということなのです。神に義と認められるのに必要なのは信仰のみであり、良い行いは不要だとするのは聖書的ではありません。信仰と良い(=神に喜ばれる)行いは車の両輪であり、それを切り離して扱うこと自体、誤っているのです。良い行いにより機械的に救われるのでもないのです。「主が私を喜びとされたから」とダビデが言うように、あくまでも主は、人との人格的な愛の関係の中で、私たちを義とされ、助け出し、顧みられるのです。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(ヨハ14:21)。主に愛されていることへの感謝をもって、主の道を歩み、みことばを行う者でありたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記第二 21章◇(9月2日)

「こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」…2サムエル21:14

イスラエルを3年間の飢饉が襲いました。ダビデがそのことで主のみこころを伺うと、サウルとその一族に血を流した罪があると、主は言われました。かつてサウルは、ギブオン人との間に盟約があったにもかかわらず、彼らを殺そうとする不誠実な行動を取ったのです。ダビデは、それはあくまでサウル一族の罪であって、自分たちとは無関係だとは考えませんでした。何よりも主がそのことをダビデに指摘したからです。「負の遺産」の継承があることを彼は悟りました。そこでダビデは、ギブオン人たちの要求に従って、サウルの7人の子どもたちを彼らに引き渡したのです。注目すべきはその後のダビデと民の行動です。ダビデは、ヤベシュ・ギルアデの地にあったサウルとヨナタンの骨を、ベニヤミンの地にあったサウルの父の墓にきちんと葬り、それを見て心動かされた民も、処刑された7人の骨を集めて葬ったのです(13節)。罪を犯したのだから自業自得だと考えることをせず、サウル一族の「後始末」を誠実に行なったのです。そしてそれは、主のみこころにかなったことでした。14節の最後には、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」と書かれているのです。ダビデと民の行為は、サウル一族の血の罪に対し、自分たちには関係がないと一線を引くことをせず、自分たちのものと受けとめた一種の「とりなし」です。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた」とありますが(イザ59:16)、主は私たちにも、とりなす者となるようにと願っておられるのです。それは何よりも主イエスご自身のあり方なのです。御霊の助けによってとりなす者とされたいと思います。

主のみこころに従うことができますように。