◇聖書箇所: 詩篇64篇◇(5月31日) 「彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。」…詩篇64:3 悪を行なう者どもがその舌を鋭い剣のようにし、苦いことばの矢を放っていると詩人は言います。新共同訳では「毒を含む言葉を矢としてつがえ」と訳されています。彼らは、人の心を突き刺し、傷つけるようなことばを人々に向かって放ち、ときにそれが人を死に追いやることになるのです。「舌は火であり、不義の世界です」。「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」とヤコブは言っています(ヤコ3:6,8)。やさしいことば、愛に満ちたことばを語ろうとしても、心に突き刺さるようなことばを人から受けると、自分もつい感情的になって同じように反応してしまう…。私たちは自ら舌を制御することはできないのです。そして舌に上ることばは私たちの心から出るのです。「人の内なる思いと心とは底が知れません」と、詩人は真理を告げていますが(6節、2017訳)、罪に満ちた私たちの内側が変えられない限り、毒を含むことばは私たちの心からも出てくるのです。「しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう」(7節)。それは、神からの矢、すなわち神のことばが突き刺さり、苦いことばの矢を放っていた者たちの良心が痛み、恥を見るようにされるということです。自らのうちにある罪を認めざるを得なくなるということです。そのようにして、「すべての人」が神を畏れるようになり、罪から解放されて救われることを求め、そのために神がなしてくださったみわざを悟るようになるのです(9節)。それらはすべて、神のことばによってなされるのです。「恐るべき敵から、私のいのちを守ってください」(1節)。それは世界に満ちている、また自分にささやいてくる、悪者の苦いことばから遠ざけてくださいという祈りです。神のことばで心を満たしてくださいという切なる願いです。そしてそのような者にこそ真の喜びと平安が満ちるのです。 主の守りと祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇63篇◇(5月30日) 「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」…詩篇63:1 タイトルによれば、ダビデがユダの荒野にいたときの詩だとあります。サウルに追われ、洞穴に身を隠し、寝ているときも、いつ襲われるかと気が気でない…。そんな中にあったダビデの心情が吐露されています。「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです」。水がなく乾ききった荒野に置かれていたダビデ…。彼は、自分の心とたましいもまた、大きな試練の中で、からからに干からびていると感じていました。そして、それをいやしてくださるただ一人のお方、力と栄光に満ちた主を慕い求め、仰ぎ見ていたのです。「こうして聖所で…」(2節)、「床の上で…」(6節)。「聖所」とあっても、それは決して立派な主の宮ではなく、ダビデが荒野で見いだした、主との交わりの場所です。また「床」とあっても、それは快適な自宅の寝床ではなく、洞穴の中に確保した狭い平坦な場所に過ぎません。しかし彼はそこで主を仰ぎ見、その愛と真実さを思い、主こそ、何にもまさる助けであり、確かな支えであり、自分がその御翼の陰にかくまわれていることを覚えて、両手を上げて賛美と感謝を主にささげたのです(4-8節)。そして自分のいのちを狙う者らは必ず滅ぼされると、主にあって確信し、喜ぶことができたのです(9-11節)。私たちもしばしば試練に会います。荒野に置かれます。心とたましいが乾き、干からびたようになってしまいます。しかし主は、それをいやし、うるおしてくださるのです。「主は私のたましいを生き返らせ」とダビデは別の詩篇で告白していますが(詩篇23:3)、そのように主は、死にかけていたものに命を吹き入れてくださるのです。そして、失われていた喜びを取り戻してくださるのです。その主を絶えず慕い求め、仰ぎ見て歩みたいと願います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 31章◇(5月29日) 「こうしてその日、サウルと彼の三人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。」…1サムエル31:6 イスラエルの王サウルと、イシュ・ボシェテを除く彼の3人の息子たちの死が記されています。ダビデとの友情を築いたヨナタンも討たれました。サウルは射手たちの矢による集中攻撃を受けて致命傷を負い、敵の手に渡るのを潔しとせず、剣の上に自らうつぶせに倒れて命を絶ちました。その後、サウルの首はペリシテ人たちに切られ、その遺体は息子たちとともに城壁にさらされました。淡々と書かれている文章ですが、読んでいるとその最期の悲惨さに陰鬱な気持ちにさせられます。サムエルの死後、サウルは霊媒者のところに行き、サムエルを呼び出してもらい主の意向を伺いました。するとサムエルはこのように告げたのです。「 あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。…主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される」(28:18-19)。そして、まさにそのことばのとおりになったのです。31章にダビデの名前は出て来ません。それは彼が、29章にあるとおり、戦いに加わらなかったからです。もし彼がペリシテの陣営に加わって参戦していたら、サウルやヨナタンと戦わなければならなかったかもしれません。そしてそれはイスラエルの王として、民から受け入れられる上での障害となり得たのです。そこに主の守りと導きと配慮を見ることができます。主の御声に聞き従わず、悲惨な最期を遂げたサウル…。主に信頼し続け、主の守りと導きの中を歩んだダビデ…。本章にもその明確な対比が結論的に描かれています。私たちはそこから教訓をしっかりと得るべきなのです。主にあって確かな歩みをさせていただきたいと願います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 30章◇(5月28日) 「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」…1サムエル30:6 ダビデたちがツィケラグに帰ってみると、アマレク人によって町が襲われ、そこに残っていた女性たちや子どもたちはみな捕らえられ連れ去られていました。そのように家族を失われ、焼き払われた町を目にし、ダビデと部下たちは涙を流して嘆き悲しみました。意気消沈した彼らは途方に暮れてしまったのです。しばらくして落ち着きを取り戻したダビデの部下たちは、ダビデに従ったためにこんなことになってしまった…と、その悲しみを今度はダビデへの怒りとしてぶつけました。そしてダビデを石で打ち殺そうと言い出したのです。部下からそのような不信と反感を受けたダビデは孤独でした。しかしダビデはどんなときにも主に信頼し続けていました。そして、「ダビデは彼の神、主によって奮い立った」のです。「彼の神」という表現にダビデと主の近さが示されています。その主がダビデを強くし奮い立たせてくださったのです。目に見える否定的な現実の先を見させてくださったのです。みこころを伺うダビデに主は、略奪隊を追えと命じられ、必ず追いついて奪われた者を救い出せると約束されました。その主の御声はダビデをどれほど勇気づけたことでしょうか。やり場のない悲しみをダビデにぶつけようとした部下たち…一方、主に信頼し続け、答えを主に求め続ける中で、奮い立たされ、主の指示と約束のことばを受け取ったダビデ…。試練に会う私たちがどうあるべきかがここに示されています。神のことばをダビデは部下にも分かち合ったに違いありません。だからこそ彼らもまた主によって奮い立たされ、勇気づけられ、ダビデとともに略奪隊を追うべくそこから出て行ったのです。そして彼らと戦い、奪われたものを全部取り戻したのです。主からの救いのことば、勝利のことばを人々に分かち合う…。そして主にあって一つとなって奪われているものを取り戻す…。私たちもまたその役割を担っていることを覚えたいと思います。 主が勝利を与えてくださいます。祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 29章◇(5月27日) 「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。…」…1サムエル29:6 アフェクでのペリシテとイスラエルの戦いにおいて、ダビデと部下たちはペリシテ軍の陣営に加わってアキシュへの忠誠を果たそうとしていました。ところが、ダビデを見たペリシテ人の首長たちは、なぜ自分たちの敵であるヘブル人がここにいるのか、この男はサウルにまさる戦果を上げた勇士ダビデではないかと言い、ダビデたちが戦いの途中で寝返るのを危惧し、帰らせるようアキシュに訴えたのです。アキシュはダビデを呼んで言いました。私はあなたに何も悪いところを見つけられない、しかし首長たちがヘブル人とは一緒に戦えないと拒んでいるのだ、だから彼らの気に入らないことをせず帰ってくれ…と。ダビデは自分には何の過ちもなかったと反論しましたが、結局、アキシュの命令に従い、翌朝帰って行きました。ダビデを説得したアキシュが開口一番言ったことばは、「主は生きておられる」でした。しかしそのことは、彼がイスラエルの神を信じて改宗していたことを必ずしも意味しません。説得が有利に働くよう、ダビデが信じる神の名を、単に持ちだしたと考えることもできます。しかし、ダビデの正しく真実なあり方を日々目にする中で、アキシュもまた、ヤーウェ(太文字の「主」)の存在を少なからず意識していたに違いありません。あるいは彼は、ダビデがイスラエルと戦うことをよしとされない神ご自身が、戦いからはずそうとしていると感じていたかもしれません。「主は生きておられる」とは、すなわち、主がすべてを統べ治めておられる、みこころをなされるという告白です。このとき、主ご自身がそれをアキシュに言わしめたのです。「主は生きておられる」…。私たちは、その主の御手の中で生かされているのです。最善をなされる主に信頼し、すべてを委ね、主のみこころの道を歩みたいと願います。 主がともにおられます。祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 27章◇(5月25日) 「ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は1年4か月であった。ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。」…1サムエル27:7-8a 「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない…」。ダビデは心の中でそうつぶやきました(1節)。しかし彼は、「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる…」と、自分の身は主が守られると確信して告白していたのです。それなのになぜダビデはそのように考えて、再び(21:10)、ガテの王アキシュのもとに身を寄せたのでしょうか…。敵であるペリシテ人の地に逃げ込むダビデの行動は、単に彼の人間的な弱さゆえのものだったのでしょうか…。確かにサウルの執拗な追跡は大きな重荷だったでしょう。しかし、ダビデは主を否んだりしたわけではないのです。主は生きておられるという信仰は揺るがなかったのです。ダビデは、ガテを離れて地方の町に住まわせて欲しいとアキシュに願いました。その表向きの理由は、王の都にいっしょに住むのは畏れ多いというでしたが、真の狙いは、その町を拠点にして周辺の住民を襲い、家畜などを奪い、その地域における勢力を確保することであったのです。ダビデは、襲った地域はイスラエルに属するネゲブだとアキシュに偽って報告し、彼はそれを疑いませんでした。彼は、「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう」と思っていたのです(12節)。しかし、ダビデはアキシュのしもべになろうなどとは、これっぽっちも思っていませんでした。ダビデにとって仕えるべきお方とは、サウルでもなく、アキシュでもなく、イスラエルの神、ヤーウェ、主であったのです。そして、その主が、すべてのことを計画され、導かれ、ダビデは、主の御手の中で守られ、用いられていったのです。どんなことが起こったとしても、ご自身に拠り頼む者に、主は決して恥を見させることはないのです(イザ45:17)。そのことを心に留めて歩む者でありたいと思います。 主の確かな守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 26章◇(5月24日) 「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。」…1サムエル26:23 サウルを殺す機会が再びダビデに与えられました。サウルと家来たちはハキラの丘に陣を敷きましたが、ダビデとアビシャイが夜そこをこっそり探りに行くと、サウルたちは幕営の中で熟睡しており、彼の槍がその枕もとの地面に突き刺してあったのです(7節)。アビシャイはその槍で刺殺することを求めましたが、ダビデはそれを認めようとはしませんでした(9節)。「主に油注がれた方」…。そのダビデのことばは、26章の中で4回(9,11,16,23節)、24章でも2回(6,10節)出てきます。自分のいのちをつけ狙うサウルに追われ、ダビデは絶えず緊張を強いられたに違いありません。サウルさえいなくなれば、と考えても無理はないのです。そして実際に殺害したとしても人は誰も咎めないのです。しかし、ダビデが気にしていたのは人の目や声ではなく、主の御目、主のみ思い、主のみこころであったのです。23-24節のダビデのことばの中に、「主」(太文字の主:「ヤーウェ」)が4回も出てきています。ダビデの歩みが、いかに主を中心とするものであったかがわかります。主はその人の正しさと真実に報いてくださる…。そのことをダビデが確信していたからこそ、試練の中でも捨て鉢にならず、忍耐と希望を持つことができたのです。それに対してサウルは、自分の肉なる思いに支配され、人の目とことばを常に気にして生きていた人物でした。21節の彼のことばは主に対する悔い改めではありません。人への謝罪に過ぎません。サウルがいかに人間的で、その歩みの中心に主を置いていなかったかがわかります。ともすれば、私たちも、人の目や声を気にしてしまいます。感情に支配され、いざこざに巻き込まれがちになります。しかし何よりも私たちが追い求めるべきは、主の前に正しく、真実に歩み続けることなのです。主はその者に目を留め、主が報いてくださるのです。主はすべてをご存じなのです。そのことをしっかりと心に留めて歩みたいと思います。 主の助けと守りがありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 25章23-44節◇(5月23日) 「今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。…」…1サムエル25:26 ダビデと会ったアビガイルは急いでろばから降り、顔を伏せ地面にひれ伏してダビデに述べ立てました。24-31節に記されている彼女のことばの中には、「ご主人さま」、「この女奴隷」、「このはしため」ということばが何度も繰り返されて出て来ますが、それは決してへつらいのことばではありません。また自己保身の思いからのものでもありません。アビガイルは純粋に夫の罪を自らのものとし(24節)、その赦しを乞い、償いをしようとしたのです(27-28節)。しかし彼女の言動の意図はそれだけではありません。彼女は、もしダビデがナバルを殺害して復讐を遂げるなら、将来ダビデがイスラエルの王となったときに、さばきをなされる主に委ねずに行動したそのことが良心の呵責となることを予見し、血に染まることを避け、身をきよく保つ大切さをダビデに伝えようとしたのです。実際、怒りに燃えていたダビデは、そのことを気づかされ、復讐を留まらせたアビガイルと主に感謝しました(32-34節)。「主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう」。アビガイルはそのようにも言いました(28節)。「イスラエルの君主」と呼んだことも含めて(30節)、それは、ダビデには特別な神のご計画が備えられており、その「将来」を思う心をしっかりと持たなければならない、「今」にとらわれ心奪われてはいけないという戒めであって、彼女は預言者としての働きを主にあってなしたのです。「…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレ29:11)。主は私たちをどのような存在とし、どのような計画を備え、どのように用いて祝福しようとしておられるのか…。みことばを通し、将来と永遠を思う心を私たちが持つとき、主はそこに、確かな平安と希望をも与えてくださるのです。流されずにしっかりと主に留まる者でありたいと願います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 25章1-22節◇(5月22日) 「ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。『ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。…』」…1サムエル25:10 マオンという町に住む一人の裕福な者ナバル…。彼は羊3千頭、やぎ1千頭を持っており、その羊の毛の刈り取りの祝いをしていました。それを知ったダビデは、かつて彼の羊飼いたちのことを気に掛け、良くしてやったこともあり、自分の家来である若者たちに親切にしてほしい、祝いの日に訪れる彼らに食物を分けてほしいと、メッセージを託して家来を彼の元に遣わしました。ところが、訪れた彼らのことばを聞いたナバルは、ダビデとは何者だ、どこから来たかもわからない者どもに食物はやらない、と言って追い返したのです。若者たちは戻ってダビデに一部始終を報告しました。それを聞いたダビデは憤然とし、剣を帯びよと命じ、自ら彼らを率いてナバルの元に向かいました。戦いは避けられないと思われたそのような状況の中、しかし、事情を知ったナバルの妻アビガイルは、急いでパンやぶどう酒などを用意してろばに載せ、ダビデたちがナバルの元に着く前に彼らを迎えようと、自分の若者たちとともに出て行ったのです。そして、その彼女のとりなしが、功を奏すことになるのです。私たちも、「ナバルはとんでもないやつだ」と思います。しかし彼の頑なな心は、私たちのうちにもあったのです。神の恵みといつくしみを受け、良くしてもらっていたのに、「神とは何者だ」と神を認めず、「善に代えて悪を返す」(21節)ような生き方をしていたのです。しかし、神の御子イエス・キリストが私たちと神の間に立ち、とりなし、私たちが神の怒りによってさばかれ滅ぼされないように、自らをなだめのいけにえとして神にささげられたゆえに、私たちは罪赦された者とされ、神と和解できたのです。神はアビガイルを備えられ、キリストを備えられました。愛とあわれみに満ちた主に感謝をささげたいと思います。 主の山の上には備えがあります。祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 24章◇(5月21日) 「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」…1サムエル24:6 ダビデがサウルを殺す絶好の機会が訪れました。エン・ゲディの荒野にいるダビデを追って来たサウルは、途中で用をたすため、ある洞穴の中に入りましたが、なんとその奥にダビデと部下が潜んでいたのです。今なら無防備のサウルを難なく殺害することができると考えた部下は、ダビデにそのように進言しましたが、彼はサウルの上着の裾を切り取るだけだったのです。その部下はサウルをダビデの「敵」と考えていました。妬みに燃えて主君を殺そうとしていたのだから当然です。しかしダビデは、部下のことばを「渡りに船」と受け入れず、サウルは「主に油注がれた方」なのだと繰り返して口にし、自分の主君に手を下すなど絶対にできないと拒んだのです。そのようなことは主に逆らうことだと断言したのです(6節)。それは、ダビデが常に主と親しく交わり、主のみこころを尋ね求め、主の御声に従う者であったことの証しです。何も知らないサウルが用をたして洞穴を出て行ったとき、ダビデは彼を呼び止め、切り取った上着の裾を見せました。それを見たサウルは置かれた状況をすぐに悟ったでしょう。自分は殺されていてもおかしくなかった…しかし救われた…それは主から出たことだ…主のあわれみによることだ…と。そして、「主が私をあなたの手に渡された」と言って、ヤーウェの神の名を口に出して、神の主権を認めたのです。そしてそれは、主を畏れて歩むダビデの真実な姿を通し、主がサウルの心に光を照らされた、ということなのです。ダビデの部下の進言は「もっともだ」と思えるものでした。しかしそれは人間的な考えによることであったのです。私たちの信仰生活や教会のさまざまな働きにおいても、それは誰のためのものか、神はそれを喜ばれるのか、何よりも自分が主を畏れる真の礼拝者となっているか…と、そのように吟味することを忘れないようにしたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 23章◇(5月20日) 「ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」…1サムエル23:14 ケイラへのペリシテ人襲来を知ったダビデは、彼らと戦うべきかどうかを主に伺いました。すると主は、「下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから」と答えられたのです。ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人を討って大損害を与え、住民たちを救いました(1-5節)。一方、ダビデがケイラに行ったことを知ったサウルは、「神は彼を私の手に渡された」と言い、ダビデは必ず自分の手中に落ちると確信し、部下を引き連れてケイラに攻め上りました。しかしダビデはそこでも主に伺い、自分の身の危険を主から知らされた彼は、部下とともにすぐにケイラを離れ、難を逃れたのです(13節)。その後もサウルはダビデを捕まえようとしましたが、「神はダビデをサウルの手に渡さなかった」のです。サウルから身を追われるという試練の中にあっても、慌てることなく、自暴自棄になってしまうこともなく、落ち着いて主に信頼し、主に尋ね求め続けたダビデ…そしてそのダビデを御手の中に守られ続けた神…。一方、ダビデは自分の思うどおりになったと信じ込み、神の名を出して宣言し、ケイラに進んでいったサウル…そしてそのような身勝手なサウルを退けられた神…。ここでもダビデとサウルが対照的に描かれています。ダビデは荒野に宿ったり、要害に隠れたりしましたが、何よりも主ご自身が確かな隠れ場、堅固なとりでとなり、ダビデをみもとに置いてかくまってくださったのです。そのダビデが告白したことばが詩篇にあります(27:1)。「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」パウロもこのように言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロマ8:31)。どんなときにも人を恐れることなく、主を畏れる者、主に拠り頼み、尋ね求める者でありたいと願います。 主がともにおられます。守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 21章◇(5月18日) 「そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。」…1サムエル21:6a ヨナタンと別れたダビデの逃亡生活が始まりました。21章にはその最初の出来事が記されています。ダビデはノブという町の祭司アヒメレクのところに行き、単独行動を不審に思って恐れる彼を安心させるため、自分は今、サウル王に命じられた極秘の任務にあり、若い者たちとは別のところで落ち合う予定だと偽り、本来は祭司が食す、聖別されたパンをもらったのです。さらにダビデは、槍か剣はないかとアヒメレクに尋ね、そこに奉献されていたゴリヤテの剣を手に入れたのです。そのダビデの言動をどのように評価すべきなのか…。嘘をつくのは良くないという単に道徳的な見方をすれば、「嘘も方便」、生き延びるためにはやむを得ないとしたダビデのあり方は間違っている、ということになります。しかし常に問われるべきは、人の言動そのものよりも、その人と主との関係はどうなのか、そのことばや態度を生み出す心の中には何があるのか、ということなのです。ダビデは人里離れた所にいたわけではありません。単に空腹を満たしたいと願ったのなら、町の中で、何か食べるものを手に入れることができたはずです。ダビデにとって、祭司アヒメレクに会うということに、大きな意味があったのです。自分がどう歩むべきか、主のみこころを祭司に伺ってもらうことを願い(22:15)、パンと剣が与えられるかどうかも、主に委ねたのです。そして、それらを与えることを、主はよしとされたのです。そのとき、ドエグというサウルのしもべがいましたが(7節)、彼はそこで目撃したことを、後にサウルに報告しました。「アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました」(22:10)。それは、ダビデが主の御手のうちにあることの証言と言えます。それは「嘘を言ってもばれる」という教訓ではないのです。逃亡生活においてもダビデは主に拠り頼んでおり、主もまたダビデのことを顧みてくださった…。それが、この記事から私たちが受け取るべきメッセージなのです。私たちも主の元に身を寄せる者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 20章24-42節◇(5月17日) 「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。」…1サムエル20:41b 新月祭における王の食卓を連日欠席したダビデに、サウルは怒りを燃やしました。そのような大切な場に出席するのは、王の家来として当然の義務であって、自分の氏族の事情を優先させるなどということは、サウルにとってもってのほかであり、なめてるのか…と、彼は自分のプライドを傷つけられたように感じたのです。ダビデの名を口に出そうせず、「エッサイの子」、さらには「あれ」(「あいつ」)と呼んでいるところに(31節)、サウルの心の中にある闇の深さが垣間見えます。彼はヨナタンに、今すぐダビデを私のところに連れて来い、あれは殺されなければないと告げました。ヨナタンが、ダビデが殺される理由はないと反論すると、なんとサウルは、その息子のヨナタンを槍で打ち殺そうとしたのです。主から義なる憤りが与えられたヨナタンは野に行き、以前に打ち合わせたとおり、隠れていたダビデに合図し、彼をサウルの元から去らせて逃げ延びるようにしましたが、その別れの前に、ふたりは抱き合って泣きました。「ダビデはいっそう激しく泣いた」と書かれています(41節)。ダビデは本当につらかったのです。心細かったのです。絶えず恐れおののき、心が安まることがなかったのです。そんな自分のことを愛し、心配し、いっしょに泣いてくれる…。ダビデにとってヨナタンの存在は、単なる助け手ではなく、どんなときにも決して見放さない、真の友であったのです。その友の存在が、試練の中にあるダビデを支えたのです。ヨナタンはダビデと別れるそのときに言いました。「安心して行きなさい」と。彼はなぜそう言えたのでしょう…。それは主ご自身がダビデを守られると信じていたからです。そのことばで励まされたダビデも同じ信仰に立ったのです。私たちもまた、しばしば、試練や困難の中に置かれます。心細くなり、見放されように感じてしまうこともあります。しかし、私たちを「友」と呼んでくださるキリストが(ヨハ15:15)、ラザロを失って泣いている者とともに泣かれたお方が(ヨハ11:35)、世の終わりまでいつもともにいてくださるのです(マタ28:20)。それは私たちにとって何にも増して大きな慰めと励ましなのです。 主からの平安がありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 20章1-23節◇(5月16日) 「私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたとの間の永遠の証人です。」…1サムエル20:23 今日の箇所で何度も出てくることばがあります。それは、「誓い」と「契約」ということばです。「ダビデはなおも誓って言った」(3節)。「あなたは主に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです」(8節)。「ヨナタンはイスラエルの神、主に誓ってダビデに言った」(12節)。「ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ」(16節)…。それらの誓いは「主」に対してなされました。「主」(太文字の「主」)とは「ヤーウェ」の神のことです。記されているのはダビデとヨナタンの会話ですが、ふたりは、主と3人で話し合って事を決めたのです。それほどにふたりは、絶えず主を畏れ、主の視線を意識し、主の前に真実であろうとしていたのです。一方サウルも、ヤーウェの神の名を持ち出し、ダビデは殺されることはないと誓ったにもかからわず、彼に臨んだわざわいの霊の力の影響があるとは言え、ダビデを槍で壁に突き刺そうとしたのです(19:6,10)。誓いの真実さの明確な違いを見ることができます。誓いは契約とつながっています。主に対して、主の御名によって誓った誓いは、主の元で結ばれた契約の一部であって、その契約は、主が真実で不変のお方であるゆえに、破られてはならないのです。もしもそれが破られるようなことになれば、その誓いをした者を、主が罰せられるのです(13節)。イエス・キリストは、ご自身の血による新しい契約を結び、異邦人を含め主を信じる聖徒たちを、神の民とされました。それは不変のものであって、破られることはないのです。それゆえ、私たちはその主に全き信頼を置くのです。ダビデ、ヨナタンのふたりが、常に神の目を意識し、神の真実さに拠って立って歩み続けたように、私たちもそのような者でありたいと心から願います。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 19章◇(5月15日) 「こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。」…1サムエル19:12 ペリシテとの戦いのたびに輝かしい戦果をあげ、人々からの人気を博すダビデは、サウルにとって目の上のたんこぶであり、彼は、もはやダビデを殺すしかないと思い定めて、その堅い意志を、息子のヨナタンや家来たちに告げました(1節)。するとダビデを愛していたヨナタンは、ダビデを救うべく、そのことを彼に告げ、身を隠すよう伝え、父であるサウルに、どうして罪のない者の血を流し、罪ある者となろうとするのかと迫り、ダビデ殺害を思いとどまらせたのです。サウルはヨナタンの説得を受け入れ、殺されることはないと告げました(6節)。しかしそれも長くは続かず、わざわいの霊が臨むと、サウルはまたもやダビデを槍で壁に突き刺そうとし、何とか身を避けて逃げたダビデの家に使者を追わせ、夜明けのタイミングで彼を殺すよう指示しました(11節)。それを知った妻ミカルはダビデを逃がすべく、夜のうちに窓から降ろし、ダビデは難を逃れることができたのです。一難去ってまた一難…執拗なサウルの攻撃の中で、主は、ヨナタン、ミカルという助け手、しかもサウルの息子と娘を通して、ダビデのいのちを守られました。また、主ご自身もダビデとともにおられ、槍が彼に迫ったときも、それが当たらないようにされたのです。そしてそれらのことを通して主は、ダビデに対し、ご自身がすべてを御手のうちに治めておられること、またサウルではなくダビデが王となることがみこころであることを、確信させようとされたのです。私たちもしばしば争いに巻き込まれます。しかし主はともにおられ、奇しい方法をもって守ってくださるのです。また助け手を与え、その者たちを用いて働かれるのです。そしてそのことを通して私たちは、キリストがすべてを統べ治めておられる王であることを知るようになるのです。恐れずにますます主に拠り頼む者でありたいと思います。 主の守りと祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 18章◇(5月14日) 「サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」…1サムエル18:12 ダビデがゴリヤテを討ち取って帰って来たとき、ゴリヤテを恐れておののいていた民は喜び、女性たちは歌い踊りながらサウル王を迎えました。しかし彼女たちは「サウルは千を打(討)ち、ダビデは万を打(討)った」と笑いながら言い、それを何度も繰り返したのです(7節)。それを聞いたサウルは激しく怒って不機嫌になり、その日からダビデを疑いの目で見るようになりました。新共同訳では「ねたみの目」と訳されています(9節)。サウルは千、ダビデは万…とあからさまに比較され、サウルは女性たちに嘲笑されたと感じたでしょう。その彼が激怒し、ダビデに憎しみを抱くのは当然です。彼は人にどう思われるかを常に気にしており(15:30)、面目を潰されることは耐えがたいことだったからです。彼の心は神にではなくいつも人に向いていたのです。それに対してダビデは、サウルから、娘のメラブやミカルをあなた妻として与えようと言われたときにも、単純に喜んだりはしませんでした。「私は何者なのでしょう」と言い、王の好意を受けるのにはふさわしくないと考えて辞退しようとしたのです(18、23節)。何よりも、「この戦いは主の戦いだ」と宣言してゴリヤテに勝利した彼の心は、人にではなく絶えず神に向いていたのです。「主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られた…」。ダビデとサウルの状態が対照的に記されています。それは、わざわいの霊を送られた神の主権的な取扱いです。しかしサウルの見苦しい王としての姿が赤裸々に書かれているのは、それを読む者への神の警告の意図があるのです。人をねたむ思いは私たちのうちにもあります。ダビデでさえ、不倫関係のバテシェバの夫をねたみ、間接的に殺したのです。人はみな、自らの弱さ、罪深さを正直に認め、主の御前に出て、主の霊に満たされ、守られ、きよめられることが必要なのです。そして主は、そのような者といつもともにいてくださるのです。 主が日々の歩みを確かなものとしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 17章41-58節◇(5月13日) 「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」…1サムエル17:47 ダビデと強敵ゴリヤテの一対一の戦いは、あっけなく勝負がつきました。ダビデを迎え撃つゴリヤテに向かってダビデが石を一つ放つと、それはゴリヤテの額に見事に命中して食い込み、そのたった一撃によって彼は倒れたのです。そのときゴリヤテはかぶとをかぶり、よろいを着け、剣と槍を持っていました。一方、ダビデは、最初はサウルから与えられたよろいかぶとを着け、剣を持ってみたものの、慣れていないそれらの武具は役に立たない、自分には必要ないと言って脱ぎ、羊飼いとしての普段の格好で自分の杖を手に取り、使い慣れた石投げを手にして戦いに臨んだのです。そんな少年ダビデを見てゴリヤテは彼をさげすみ、自分の信じる神々の名によってダビデを呪いました。しかしダビデは、おまえがそしったイスラエルの神、万軍の主の御名によっておまえに立ち向かうと言って、ひるむことなくゴリヤテと戦い、勝利を得たのです。ダビデにとって、その戦いは、1対1の戦いではなく、ゴリヤテが口にする偽りの神々を信じるペリシテと、まことの神が治めるイスラエルとの間の戦いでした。地上の血肉の争いを超えた、もっと大きな規模とレベルを持つ、「霊的な戦い」だととらえていたのです。だからこそ彼は、「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」と宣言し、まさにそのとおりに、主が勝利をもたらされたのです。私たちもまた、地上的なよろいや剣や槍に頼ることなく、主に拠り頼み、主の御名によって敵と戦うのです。日常における人とのいさかいや争いを軽く考えずに、その小さな衝突を悪用する悪しき者の企みを見抜き、この戦いは主の戦いだと宣言し、主の導きを祈り求め、主の介入による解決と勝利を待ち望むべきなのです。 主がともにおられます。守りと祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 17章1-19節◇(5月11日) 「サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。」…1サムエル17:11 ペリシテ人の代表戦士、ゴリヤテが登場します。その背の高さは6キュビト半(=約2.6m)、つけているよろいの重さは5千シェケル(=57kg)、持っていた槍の穂先の重さは6百シェケル(=6.8kg)と、彼は人並み外れた体格の持ち主(巨人)であり、完全武装して、向かうところ敵なしであったのです。イスラエルの代表戦士との1対1の戦いを求め、その勝利を信じて疑わないゴリヤテの態度とことばに、サウルと全イスラエルは恐れおののきました。サウルはイスラエルの王です。国のリーダーです。そのサウルが恐れてしまったのであれば、それを見た民も意気消沈してしまうのは当然です。本来、サウルは、神を信じ、神に拠り頼んで祈り、神がともにいる、恐れるなと、民を鼓舞すべきでした。しかしすでに主の霊はサウルを離れていたのです。目に見えるもの(ゴリヤテ)に心奪われていたのです。一方、イスラエルの民も、自分たちの神の存在を知らないはずはありませんでした。しかし民もまた、その神に拠り頼もうとはしなかったのです。彼らは、目に見えるもの(サウル王)を頼りにしていたのです。民は、自分たちの王をサムエルに求めたとき、「…王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう」と言っていたのです(8:20)。目に見えるものに頼る者は、見えるものを恐れます。目に見えない神に頼る者は、見えるものを恐れません。そして、油を注がれ、主の霊に満たされたダビデこそ、そのような勇士として用いられていったのです(17:32)。私たちもまた、サウルやイスラエルの民のように、前に立ちはだかるものの大きさに目を奪われたり、人のことばによって意気消沈してはならないのです。主にひたすら拠り頼み、主に油注がれ、聖霊に満たされ、恐れることなく、主にあって、勇敢に戦うべきなのです。主がもたらされる勝利を信じて、前進したいと思います。 勝利の主がともにおられます。祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 16章◇(5月10日) 「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。…」…1サムエル16:13 主はサムエルに、ベツレヘム人エッサイの息子の中にいる、サウルの代わりに王となる者を示そう、その者の上に油をそそげ、と命じられました。言われたとおりにサムエルがエッサイの元を訪れ、息子たちが次々に連れて来られたとき、彼は最初、エリアブを見て、その容貌から、この者こそ主の前で油を注がれる者だと思いましたが、主は否定され、わたしは人が見るようには見ない、人はうわべを見るが、主は心を見る、と言われました(7節)。そして、対象外として扱われた末子のダビデが来たとき、油を注げ、この者がそれだ、と告げられたのです(12節)。一方、主の霊はサウルを離れ、わざわいの霊(「悪い霊」:新改訳2版)が彼を脅えさせました。そのわざわいの霊は神からのものだったのです(14節)。神ご自身が意図されてその霊を送られたということです。そのことは彼の家来たちも理解していたのです(15節)。それは、主の御声に従わない者は、王であっても、いや、王であるからこそ、そのような扱いを受ける…。そのことを、サウルの家来だけでなく、イスラエルの民や、やがて新しい王となるサウルの道具持ちダビデにも、主が知らしめるためであったからに違いありません。サウルが主から退けられた根本的な理由、それは彼が、神のためではなく、自分のために生きていたからです。アマレクとの戦いに勝利したサウルが、「自分のために」記念碑を立てた、と書かれているとおりです(15:12)。主はサムエルに、エッサイの息子たちの中に、「わたしのために」、(真の)王を見つけた…と言われました(1節)。神が求めておられるのは、「わたしのために」…自分のためにではなく、主のために生きることを願う者たちなのです。パウロも言いました。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです…」(ロマ14:8a)。主のために生き、主に用いられる者でありたいと願います。 主からの油注ぎがありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 15章17-35節◇(5月9日) 「『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』」…1サムエル15:22 アマレクを打ち、民も家畜もすべて聖絶せよと、サムエルを通して主から命じられたにもかかわらず、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんだサウルは、サムエルに、あなたの神、主にいけにえをささげるため、民が(「兵たちが」:2017訳)そのようにしたのだ…と自分の非を転嫁するかのように弁解しました(22節)。そんなサウロに対してサムエルは、主は決してそのようないけにえを喜ばれない…。主が求めるのは、献身の心が伴わない形式的ないけにえをささげることではない。そのようないけにえよりもまさるもの、それは何よりも、主の御声に従順に聞き従うことなのだ…と言ったのです。そして、あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けたと、すでに決定されたこととして彼に通告したのです(23節)。それを聞いたサウルは、私は罪を犯しました…と、表面的な悔い改めのことばを並べ立てましたが(24-30節)、引き返そうとするサムエルの上着のすそをつかんだり、長老と民の前で面目を立ててほしいと頼む込むなど、未練がましく王の地位にしがみつこうとするその言動は、とても見苦しく、こっけいなほどでした。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」(ホセ6:6、2017訳)。預言者ホセアのそのことばは、主イエスによってしばしば引用されました(マタ9:13,12:7)。また主イエスは、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」とも言われました(ヨハ14:23)。主の御声、主のみことばに従順に聞き従うことは、主を愛することであり、主はそれを喜ばれるのです。主に献金をささげ、教会で奉仕するのももちろん大切ですが、それが主の御声に聞き従うことに優先してはならないのです。主が求める優先順位をしっかり覚えたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: サムエル記第一 15章1-16節◇(5月8日) 「しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」…1サムエル15:9 イスラエルはアマレクとの戦いに勝利しました。主は、サムエルを通してサウル王に対して、アマレクを打ち、その民も家畜もすべてを聖絶せよ、容赦してはならない、と命じられました。しかしサウルと彼の兵たちはその命令に逆らい、羊や牛の肥えたもの、最も良いものを惜しんで、痩せて傷のあるようなものだけを聖絶したのです。主はサムエルに、サウルを王にしたことを悔やむ、彼はわたしのことばを破ったからだと言われました。サムエルは怒って主に叫んだとありますが(11節)、油注がれてイスラエルの王に任じられたサウルが、そのように主の御旨に従おうとしなかったことは、誰よりも主を怒らせ悲しませたに違いありません。サムエルからそのことを指摘されたサウルは、主にいけにえを献げるためだと弁解しました。しかし彼は、「あなたの神、主に…」と言ったのです。なぜ、「わたしの神、主」ではないのか…。それは、実際、サウルにとって神は、自分の「主」、つまり、自らの心の王座に迎え、すべてを明け渡し、信頼して従うべき、愛とあわれみに満ちた方ではなく、やろうとすることに干渉してくる煩わしい存在であって、彼のうちに、王である自分がすべてを決めたいという、高慢な心があったからに違いありません。彼が立てた自らのための記念碑がそれを示唆しています(12節)。ひるがえって私たちはどうでしょうか。私を愛し、十字架にかかり、身代りとなって罪の奴隷から贖い、死とやみの中からいのちと光の中へと移してくださったイエス・キリストが、私のうちで「主」となっているか…自らの心の王座にいま座っているのは誰なのか…そのことをあらためて考え、吟味したいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: マタイの福音書 8章18-34節◇(5月7日) 「イエスは言われた。『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」…マタイ8:26 多くの群衆に囲まれていた主イエスは、ガリラヤ湖を舟で渡って向こう岸に行くべく、その用意をするように弟子たちに命じられました。そして主イエスと弟子たちが乗ったその舟が出帆すると、突然激しい風が吹き荒れ、舟は波をかぶって浸水し、沈没してしまう危機に見舞われたのです。このままでは波にのまれて溺れ死んでしまう!…パニックになった弟子たちは主イエスを叩き起こして助けを求めました。すると、主は弟子たちを見回し、「なぜこわがるのか」と叱責され、風と湖を叱りつけると直ちに静まり、舟は大なぎの中を進んで行ったのです。ここから教えられること、それは、私たちの舟もまた、たとえ暴風に遭い、水をかぶり、壊れかけてしまっても、主はともにおられ、主イエスが言われたことばは実現する、主が導かれる目的地に必ず到達するということです。弟子たちは溺れそうになるのを想定していなかったでしょう。またそのような苦しい目に遭うことは望まなかったでしょう。私たちもしばしば「何事もなく」進むようにと祈り願うのです。しかし、主がなさることは私たちには測り知り得ないのです。それを私たちが「こうなるべき」と勝手に決めつけてしまい、想定外のことが起こると恐れてしまうのです。けれども主は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と言われるのです(イザヤ41:10)。今日の箇所で示されているのは、主イエスが主権をもって、すべてを統べ治めているお方であるということです。それは主イエスが神の国の王であることにほかなりません。私たちが願うべきは「無事」ではなく、御国が来ますように、主のみこころだけがなされますように、ということなのです。嵐のときもともにおられる主に信頼して歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: マタイの福音書 8章1-17節◇(5月6日) 「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」…マタイ8:17 主イエスは、ツァラアトに冒された人に向かって、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました(2節)。ツァラアトに冒された人(「らい病人」:2版)は、「汚れた」者だとされていましたが、主イエスは、その人に手を伸ばして触り、そう命じられたのです。そのように人々が「きよめられる」こと、いやされ、神が造られた本来の姿に回復するということは、みこころであり、主が願っておられることなのです。また主イエスは、ローマ軍の百人隊長の求めに応じ、そのしもべ(部下)の中風の病をいやされました。今度は、直接その人の元に行って手を置くのではなく、離れたところで苦しんで寝ているそのしもべは、ただ主イエスの権威あることばによっていやされる、という百人隊長の持つ信仰に答えるべく、彼に、「あなたの信じたとおりになるように」と言われ(13節)、ちょうどそのときにそのしもべはいやされたのです。さらに主イエスは、ペテロのしゅうとめの熱病をいやし、悪霊につかれた大勢の人々から霊どもを追い出し、さまざまな病気を抱えた人々をすべていやされました。そして、それらの一連のいやしと解放のみわざは、イザヤの預言の成就だとマタイは記しています(17節)。私たちもまた、からだの病、こころの病に苦しみます。なぜこんな目に遭わなければならないのか…と、神に向かって文句をぶつけたくなることもあります。しかしその病は、主にいやされるべきものなのです。その病がいやされることは、主のみこころなのです。そのために、主は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病をも背負って十字架にかかって死なれ、3日目によみがえって死に打ち勝たれたのです。私たちの死も病もわずらいもそのキリストが取り除き、キリストの栄光の御名がほめたたえられるのです。それが神のみこころなのです。神がそうされるのです。 主のいやしと解放がありますように。 |
◇聖書箇所: マタイの福音書 7章1-14節◇(5月4日) 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」…マタイ7:7 父なる神は私たちの必要を知っておられる…と、主は言われました(6:8)。しかし、だから何もせず、ただそれが満たされるのを待っていれば良い…とは言われなかったのです。求めよ、捜せ、叩け、「そうすれば」与えられ、見出し、開かれるのだと、主は人々に教えられたのです。ではなぜ、私たちの必要を知っているにもかかわらず、父なる神は、私たちが求めることを望むのでしょうか。9-11節には、求める自分の子に対し、父が良いものを下さらないことがあるだろうか…と書かれています。子どもである私たちが父を信頼して求めるその心を、神が何よりも喜ばれるということがそこからわかります。子どもは父親のことを全面的に信頼しています。「おいで…」と呼ばれれば、父のふところに向かってまっしぐらに走って、そこへ飛び込んで行きます。父がくるっと背中を向けて拒むかもしれないなどとは、これっぽっちも考えないのです。一途で純粋な心でひたすら父を信頼して近づいて行く子ども…。そのような父と子の親密で揺るがない関係を持つことを、神は私たちに対して強く願っておられるのです。だからこそ、あえて私たちが自らの口で祈り、それに答えるという「親子のやり取り」を求めているのです。時に私たちは肉なる思いから主に求めることがあります。それはもちろん神の目にはふさわしくないものであって、私たちが一生懸命願っても与えられないのです。あるいは求めたものとは違う形で与えられるのです。しかしそれは、祈りが聞かれなかったのではなく、天におられる父が、私たちの必要を知っておられる神が、もっとも良いものを下さったということなのです。そのお方に信頼し、求め続けていきたいと思います。 主がすべての必要を満たしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: マタイの福音書 6章19-34節◇(5月3日) 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」…マタイ6:33 33節は良く知られたみことばです。そしてそれは、主が教えられた祈りを含む、6章全体の結論です。19-24節では、宝を地上に蓄えるのではなく、天に蓄えるようにとの命令があり、また、神と富の両方に仕えることはできないとありますが、宝とは富のことであり、富が私たちの「主人」となり、私たちの心が支配されるということがあり得るのです。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と主イエスが言われたとおりなのです。私たちは神を主人とし、神に支配されるべきです。それが「神の国と神の義を求める」ことの本質です。神が、絶対的な主権をもって私たちの人生を治め、すべての必要を満たし、養い、支えてくださるのです。主イエスが言われたとおり、空の鳥や野の花もみな、神によって造られ生かされているのです。不平を漏らすこともなく、いっさいを神に拠り頼んでいるのです。それに対して人間は罪深く、身勝手な者であって、肉の欲を持ち、衣食住の豊かさを追求しているのです。しかしそれは、自分が誰によって造られ、生かされているのかということが、わかっていないからなのです。神の国を第一に求めるということは、単に霊的な事柄を地上的なことよりも優先させるという意味ではありません。それは、神の主権を認め、天地を治めておられる主の前にへりくだり、その主に完全に自分を明け渡して、その主にすべてを拠り頼んで生きるということなのです。また神の義を第一に求めるということは、自分がその神によって愛され、赦され、義なる者、すなわち、神の目に正しい者とされているということを覚え、主の愛のまなざしのもと、優しい御手の中で歩む者となり、主にある喜びと確かさを求めて生きるということなのです。そしてそれはキリストの贖いがもたらす恵みなのです。神の国と神の義を求め続けていきたいと願います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: マタイの福音書 6章9-18節◇(5月2日) 「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」…マタイ6:10 「『だから』、こう祈りなさい」。そう言って、主イエスは祈りのことばを人々に教えられました。「だから」とは、その前に語られた内容、すなわち、父なる神は私たちが願う前に私たちの必要を知っておられる…ということを受けたことばです。主は、父なる神はすでに必要を知ってくださっている…だからあえて祈らなくてよい…と言われたのではなく、だからそのことを踏まえてこう祈れと言われたのです。9-10節の祈りは神についての祈りであり、神と私たちとの関係が正しくされるための祈りです。まず私たちが、父なる神の絶対的な主権を認め、その神の前にへりくだり、自分を明け渡していく…。それが主イエスが教えられた祈りの最優先事項です。祈りとは、単に私たちの願い事を神に一方的に伝え、それを神に叶えてもらうということではないのです。それはむしろ、私たちのすべての必要をご存じであられ、その上で最善をなし、最良のものを与えられる主に信頼し、必要が満たされたことを先取りして感謝することなのです。よって11-13節にある、人間の側の必要を訴える祈りは、「日ごとの糧をきょうもお与えください」(「お与えくださったことを感謝します」)、「私たちの負い目をお赦しください」(「私たちの負い目をお赦しくださったことを感謝します」)、「試みに合わせないで、悪からお救いください」(「悪からお救いくださったことを感謝します」)と、感謝の思いをもって祈るべきものであるのです。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」(ヨハ11:41)。主イエスは父なる神が、みこころとして、ラザロを生き返らせてくださることを信じ、そのように言われました。そのように神への信仰、信頼こそが祈りの土台となるのであって、それもまた、必要なものとして主が私たちに与えてくださるのです。主の前に祈ることができる幸いを覚えたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。
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◇聖書箇所: マタイの福音書 6章1-8節◇(5月1日) 「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」…マタイ6:3 施し(あるいは「慈善の行為)や祈りにおいて、偽善者たちのようであってはならないと、主イエスは人々を戒めています。主はここで、パリサイ人たちを念頭において、彼らを偽善者だと非難しているのです。なぜなら、施しをするときも、祈るときにも、彼らはいつも会堂や通りなどの人の多い所で行なっており、人に見られ、ほめられ、敬虔な人だと尊敬されることが、彼らの施しや祈りの動機と目的になっていたからです。それに対して主イエスは、あなたがたが施しをするときは、右手のその良い行いが左手に知られないようにせよ、つまり、誰にも知られないようひそかに行なえと言われ、また、祈るときにも、奥まった部屋に入り戸を閉めよ、つまり、人に聞かせず神にだけ祈れと言われました。そうすれば、隠れた所におられる父なる神が、その施しや祈りに対して報いてくださるのだ、と言われたのです。では私たちはどうでしょうか…。パリサイ人たちのように、あからさまに「偽善者」の態度を取ることはないでしょう。しかし、主イエスが非難された彼らの本質とは、ふるまいやことばが心と一致していないということであり、神よりも人の目や思いを意識しているということであって、それは施しや祈りだけに限らず、ふだんの生活において、私たちのうちにも少なからず起こっていることなのです。人から良く思われたいという欲求は自然なものです。しかしそれにとらわれてしまうと窮屈になってしまいます。そしてパリサイ人のように外側と内側が一致せず、「ねじれ」てしまうのです。それはストレスを生じます。それに対し、神に見守られていることを感謝する生き方は、平安に満ちています。心と態度に違いがありません。隠れた所におられる神さまがちゃんと見てくださっている…誰にもわかってもらえない痛みや悲しみや苦しみも、すべて知ってくださっている…と、わかっているからです。それは私たちにとって大きな慰めであり励ましです。人の目でなく神のまなざしを意識して歩みたいと思います。 主からの平安がありますように。 |