◇聖書箇所: ルカの福音書 13章1-9節◇(7月31日)

「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」…ルカ13:5

ある人たちが主イエスの元に来て、ユダヤ総督であるピラトが、ガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、と報告しました。その詳細は不明ですが、複数のガリラヤ人が何らかの罪を犯して処罰を受け、人々への見せしめのために、そのときに流された血が、祭壇へのいけにえに混ぜられたのかもしれません。それを聞いた主は、シロアムの塔が倒れて18人が死んだ事件のことにも言及し、それらの災難によっていのちを失った者たちは、他の者たちよりも罪深かったと思うのかと報告者たちに問われ、そうではない、あなたがたも自らの罪を神の前に悔い改めようとしないなら、みな同じように滅びることになる、と繰り返し言われたのです。また6-9節には、そのやり取りの後に主が話された、「実を結ばないいちじくの木のたとえ」が記されています。そこでの「実」とは、文脈から考えれば「悔い改める」ことであり、いちじくとはユダヤ人、さらには異邦人を含めたすべての人のことであって、主は、すべての人がそのように悔い改めて、主に立ち返ることを求めておられるのです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マル1:15)。それが主イエスが人々に伝えたメッセージでした。主は人々に、罪を悔い改めることをめられましたが、もちろんそれで終わりではなく、主がもたらされた神の国の福音、すなわち、メシアであるご自身を信じることによって与えられる救いこそが、いちじくの木に結ばれる「実」であるのです。「悔い改めて福音を信じる」…。それは、聖徒である私たちにも日々求められていることです。罪を認めて悔い改めるとともに、キリストの贖いによってその罪が赦されている、神の子どもとされているという良き知らせを、朝ごとにしっかりと受け取る者でありたいと思います。

救いの喜びが心にありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章49-59節◇(7月30日)

「また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」…ルカ12:57

弟子たちにたとえをもって教えられていた主イエスは、群衆にもいくつかのことを語られました。現代にも、空の雲の形や風の向きから天気の移り変わりを知る、昔の人の知恵が伝えられていますが、当時の人々は、そのような方法によって天気や気温の変化を予測し、それに備えるということを皆が行なっていたのです(54-55節)。しかし、あなたがたは、そのように自然現象を見分けているのに、どうして今の時代を見分けようとはしないのか、何が正しいことなのかを、なぜ自分で判断しないのか…と、主は、人々のことを偽善者たちとさえ呼んで、そのようなあり方を厳しく批判されました(56-57節)。マタイは、ルカが「今のこの時代」と記したところを、「時のしるし」と表しています(マタ16:3)。主が人々に指摘したのは、この世に将来何が起こるかについて、神が聖書を通して告げておられるにもかかわらず、それに心を留め、また今の時代に起こっているその兆候を見聞きし、将来に備えようとしないというあり方なのです。さらに、何が神の目に正しいことか、すなわち神のみこころを自分で尋ね求めようとはせず、パリサイ人たちが定めた教えに従っていれば神からさばかれることはないと単純化してしまい、それを自ら進んで神から直接聞こうとはしない、そのような態度であったのです。私たちもともすれば、今を生きることに精一杯となり、これから起こることとしてみことばに示されている事柄には関心を持てなかったり、日々の歩みにおいて、何が神のみこころにかなったことであるのか、それを主に直接尋ね求めようとせず、結果的にこの世の価値観や自分の感情に流されてしまったりしてしまいます。しかし主は、私たちに対しても、世の中に起こっている事象から今の時代をしっかり見分けるように、日常の小さなことにおいてもみこころを祈り求め、何が正しいかを自ら判断するようにと願っておられるのです。御霊の助けをいただきつつ、そのような者とされたいと願います。

主との個人的な関係がますます深められますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章35-48節◇(7月29日)

「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。」…ルカ12:36

主イエスは、また別のたとえを話されました。そこでは人の子、すなわち主イエスがやがて天に上げられ、再び地上に来られる再臨の日が暗示され、それがいつ来ても良いように備えることの大切さが語られています。40節からわかるように、そのたとえにおける主人とは主ご自身であり、主のしもべとは弟子たちを指しています。人の子は思いがけない時に来る、と主は言われました。思いがけない時とは、想定外の、常識が通用しない時ということです。婚礼から主人が真夜中や明け方に帰って来る(38節)などふつうはあり得ませんが、そのような時間に帰って来るはずがないと勝手に判断し、気を抜いて眠ってしまうような者となるな、主人の帰りがいつかはわからないのだから、絶えず目をさまして主人の帰りを待ち受ける良きしもべとなれと、主はそのたとえを通して弟子たちに教えようとされたのです。ところがその後のペテロの質問が的外れのものだったので、主はさらに、「忠実な賢い管理人」のたとえを話されました。そこでもまた、主人が思いがけない日の思わぬ時間に帰って来て、油断して飲み食いしていたしもべたちがきびしく罰せられることが語られていますが、そのようなしもべたちを指導するのが「忠実な賢い管理人」であって、主は、弟子たちがそのような自覚を持つ者となるよう求められたのです。実際彼らは、初代教会において他の信徒たちを教え導くリーダーとして用いられましたが、主はこの時、それを暗示しておられたのです。油断せずに絶えず目を覚まし、主人の帰りを待ち受ける良き主のしもべ、そして後の者や次世代を教え導く忠実で賢いリーダーたちが、いつの時代にあっても求められています。「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタ9:37)。主に贖われ生かされている者として、主が求めておられる働きを忠実に行なっていきたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章22-34節◇(7月28日)

「しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。」…ルカ12:28

「愚かな金持ちのたとえ」を人々の前で話された後、主イエスは、今度は弟子たちに対して、「いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい」(22節)と言われました。それは、漁師などの定職から離れて、主イエスに従っていくことを決心した彼らの中に、衣食住のことを心配する者たちがいたことを示唆しています。烏のことを考えてみよ…人間のように穀物を育てて刈り入れことはしないし、倉を持っているわけではない…。ゆりの花のことを考えてみよ…人間のように衣装を着飾って、自分を美しく見せているわけではない…。しかし彼らは、神が養っておられるのだ。神が装ってくださっているのだ。神に生かされているのだ。ましてや、私と行動をともにしているあなたがたに、神はどんなに良くしてくださるだろうか、そうされないはずがないではないか…。それなのにあなたがたは、私のことを、神を信頼していないのか…と、主は弟子たちに迫られたのです。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい」(29節)。その主のことばは、キリストに贖われて弟子とされた、私たちにも語られています。それは、毎日同じものを食べて過ごせという意味ではもちろんありません。さまざまなメニューの食事を楽しみつついただけることは主の恵みです。しかし衣食住のことに心がとらわれてしまい、満足するものを捜し求めたり、それらが満たされるかと思い煩ったりするのは、主のみこころではないのです。それは「この世の異邦人」、すなわち、神に信頼しようとしない者たちのあり方だと主は言われたのです(30節)。「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」(31節、2017訳)。私たちのすべての必要をご存じで、良きものをくださる神に、絶えず信頼して歩む者でありたいと思います。

主への感謝の心がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章13-21節◇(7月27日)

「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」…ルカ12:15

主イエスが人々に語られた「愚かな金持ちのたとえ」が、16-20節に記されています。その金持ちは、自分の倉を大きなものに建て替え、そこに穀物や財産をたくさん収納して確保すれば、これから先何年も楽に暮らせると考えました。しかし神は、彼に対して愚か者と叱責し、おまえのたましいは今夜取り去られると告げられたのです。この金持ちはどこが愚かであったのでしょうか…。彼は自分のたましいに向かって「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言いましたが、それは、倉にため込んだ穀物や財産があれば、安心だと思ったからです。日々の労苦から解放され、休んでいようと考えたからです。主イエスはそのたとえを話された後、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と言われましたが、「神の前に富む者」とはどのような人なのでしょうか…。それは、神に拠り頼み、神から豊かな恵みをいただき、神に生かされる人のことです。しかし、この金持ちが拠り頼んでいたのは、倉の中にたくわえた穀物や財産であって、神ではなかったのです。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタ6:20-21)。倉に穀物を貯蔵し、財産を収納すること自体が悪いわけではありません。問題は、その人の「心」、すなわち、安心だ、大丈夫だと考え、希望と平安を持つための根拠が、どこに置かれているのかということです。自分のいのちを支えてくれるのは何だと考えるのか、ということなのです。主は、豊かな人でもその人のいのちは財産にはない、と言われました。今、私たちの心はどこにあるのでしょうか…。地上の富を追い求めず、神の前に富む者、天に宝を積む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章37-54節◇(7月25日)

「すると、主は言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。」…ルカ11:39

一人のパリサイ人からの招待に応じて、主イエスは彼の家に入って食卓に着きましたが、食事の前にきよめの洗いをしないことに驚いている彼に対して、主はパリサイ人の間違ったあり方を指摘されました。「わざわいだ」ということばとともに、3つのことが挙げられています。(1)公義と神への愛をなおざりにしている(42節)。内側は強奪(強欲:2017訳)と邪悪で満ちているとも主は言われました。(2)人々からの尊敬を好む(名誉欲に満ちている)(43節)。(3)人目につかない墓のよう(知らないうちに人が霊的ないのちを奪われてしまう存在となっている)(44節)。するとそこに同席していたのか、その主のことばを聞いた律法の専門家が、それは私たちへの侮辱でもあると憤りましたが、主は彼に対しても、「わざわいだ」と言って3つのことを挙げて非難しました。(1)人々に負いきれない荷物(律法)を負わせるのに、自分はそれに触りもしない(負おうとはしない)(46節)。(2)預言者たちを父祖たちが殺し、その預言者たちの墓を建てている(責任をそれで逃れようとしている)(47節)。(3)知識のかぎを持ち去り、自分も入らず人も奥に入れさせない(真理を求めることをせず、妨げている)(52節)。彼らは偽善者でした。すなわち本音と建前を使い分け、裏と表の顔を持ち、表面的、形式的な目に見える外面にこだわり、それを自分たちの思い通りにすることで満足する者たちであったのです。また彼らは自尊心が高く、人からほめられ尊ばれることが大好きであったのです。主が指摘されたそのような誤ったあり方は、実は私たちのうちにも存在しているということを教えられます。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サム16:7)。私たちの内面が主のみこころにかなったものであるか…。パリサイ人や律法学者への主の指摘を覚えつつ、自己吟味したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章27-36節◇(7月24日)

「というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」…ルカ11:30

話しを聞こうとする群衆の数が増えてきたとき、主イエスは、ご自分を試みようとして天からのしるしを要求した者たちを意識して、「しるし」について語られました。ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない、人の子、つまり主イエスご自身が、この悪い時代のためにしるしとなるのだ…と、人々に告げられたのです。ヨナのしるしとは、アッシリヤ帝国の首都であったニネベの町に遣わされたヨナが、もうすぐ町は滅ぼされると警告すると、人々は悪い行いを悔い改め、神はわざわいを下すことを思い直されたという出来事(ヨナ3章)において、ヨナがいったんはその任務を拒み、海に投げ出され、三日三晩魚の腹の中にいたこと、しかし陸に吐き出されたヨナが語ると、異邦人であったニネベの人々が、王を始めとして皆が真摯に悔い改めたことを指しています。ヨナがニネベの人々のためにしるしとなったように、人の子がこの時代のためにしるしとなる…。主のそのことばには、ヨナがご自身の型であり、十字架の死の後、3日目に墓からよみがえること、また、それはユダヤ人だけでなく、異邦人を含めた全世界の民の救いのためであることが暗示されています。キリストによるその大いなる贖いのみわざは、人類の歴史における最も驚くべき出来事であり、そのしるしは、すべての時代のすべての人々が、自分のこととして信じ受け取るべきものなのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハ4:10)。キリストのそのしるしは、私たちへの神の大きな愛とあわれみの現われにほかなりません。ニネベの人々をあわれみ、わざわいを起こすことを留められた神は、今の時代においても、福音を聞いて人々が悔い改めるのを待っておられるのです。遣わされているそれぞれのところで、そのためにますます主に用いられたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章14-26節◇(7月23日)

「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」…ルカ11:20

主イエスは、口をきけなくする悪霊を追い出しておられましたが、人々の中には、それは悪霊どものかしらであるベルゼブルによって追い出しているのであって、イエスという人物は、悪霊をあやつる力を持つ魔術師のような存在だ、と考える者がいました。また別の者は、イエスに天からのしるしを見せてくれと求めました。もっと決定的な奇蹟を起こせるかどうかを見て、メシアと噂されているイエスの正体をはっきりさせようとしたのです。そのような心を見抜いた主は、サタンの国という観点から彼らに答えられました。内輪もめする国は滅びるのだから、サタンの国でもかしらと手下の間で争いが起きるはずがない…。同じように悪霊追い出しをする「あなたがたの仲間」も同じだとするのか…。そのように単に悪霊を追い出すだけでなく、完全に服従させる(10:20)権威は神のみが持つのであり、それは私がもたらした神の国として、あなたがたの間で現実のものとなっているのだ…。主イエスは、そのように説き明かされたのです。主は「神の指によって悪霊どもを追い出している」と言われました。「指図」ということばがありますが、指は権威を現すものでもあります。エジプトのパロの呪法師たちが、神が次々にエジプトに起こすわざわいに接して自分たちの秘術の限界を認め、「これは神の指です」と言った(出8:19)ことが思い起こされます。神の指とはすなわち、神の権威であり、神の力であり、それは神の国の本質なのです。その神の国は2千年前にすでに到来し、私たちの間に存在し、今も拡がり続けているのです。主イエスは神の国をこの地にもたらされたメシアであられ、主権者として今もすべてを統べ治めておられます。やみに満ちたこの世界が強い人サタンに牛耳られているように思えても、キリストはもっと強い人(22節)としてサタンに勝利されているのです。どんな状況に置かれても、その主にひたすら拠り頼む者でありたいと思います。

主の御力が解き放たれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章1-13節◇(7月22日)

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」…ルカ11:9

弟子たちからの求めに応じ、主イエスは祈りを彼らに教えられました。主の祈りと呼ばれる祈りを教え、さらに、パンを貸してくれと真夜中に友人宅を訪ねた人のたとえを通し、祈りを通して神に願い求め続けることの大切さと、神がかならずそれに応えられることを伝えたのです。そのたとえにおいて、パンを求めた人は、面倒をかけないでくれと友人から迷惑がられ、拒絶されましたが、もしそれであきらめて引き下がったならば、パンを貸してもらうことはできず、旅の途中に立ち寄った自分の友人をもてなすこともできなかったのです。昼間であれば喜んで頼みを聞いてくれる友人も、真夜中ですでに床についている状況ではさすがに抵抗を示すのであって、その中でパンを貸してもらうには、熱意と真剣さと良い意味での執拗さが求められるのです。主は弟子たちに、「あくまで頼み続けるなら(「友だちのしつこさのゆえなら」:2017訳)」必要なものを与えるだろうと言われました。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。ともすれば、そこまでして積極的に求めようとはしないのです。祈りはしますが、すぐにそれが聞かれないと、それはみこころではないのだ…と勝手に決めつけてしまったり、何度も繰り返して願い求めるのは信仰的ではない…と考えたりしてしまうのです。しかし、主が弟子たちに教えられたように、私たちは、魚を求める子に魚を与え、卵を求める子には卵をくださる天の父(11-12節)に向かって、忍耐と希望をもって大胆に祈り求め続けるべきなのです。もちろん、私たちが祈ったとおりに、すべてのことが実現するわけではありません。主はそのことを通してご自身の御名があがめられ、御国が拡がることを願っておられるのです(2節)。祈りにおいてますます熱心な者でありたいと思います。

主が祈りに応えてくださいますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 10章25-42節◇(7月21日)

「彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。』」…ルカ10:37

有名な「良きサマリヤ人のたとえ」が書かれています。ある律法の専門家が主イエスに対し、何をすれば永遠のいのちを受け継ぐことができるかと尋ねました。ルカは、そこにイエスを試みる意図があったと記しています。主イエスが律法はどう教えているのかと聞くと彼は、その道の専門家として即座に、申命記6章5節とレビ記18章5節の戒めを挙げました。すると主は、その答えは正しい、それを実行せよ、そうすればあなたが求めている永遠のいのちを得ることができるのだ、と彼に告げたのです。そう言われた律法の専門家は、では私の隣人とは誰なのか…と主に尋ねました。ルカによれば、彼は自分の正しさを示そうとしていた、つまり、自分がその律法をちゃんと行なっているということを、主イエスに認めさせようと考えていたのです。ところが主はその問いに答えず、真の隣人のあり方を、たとえをもって教えられたのです。そのたとえにおいて、強盗に襲われた人を見過ごしにした祭司やレビ人は宗教の専門家です。主は明らかに、目の前にいるその律法の専門家を意識しておられました。そして実際に傷ついた人を介抱したのが、雑婚主義をユダヤ人から非難され軽蔑されていたサマリヤ人であり、自分の持てるものまでもささげて愛を注いだというそのたとえを通して、主はその律法の専門家に、彼の形式的、表面的な律法の理解と、自分を正当化しようとする誤ちを指摘し、またあわれみと献身を伴った真の愛の本質を教えられたのです。それが主の意図であって、主はこのたとえで博愛や慈善の大切さを説いたのではないのです。自分のあり方は間違っていない…と、私たちが自らを正しいとし、現状に満足し、主がどう願っておられるかを深く尋ね求めようとしないなら、私たちもこの律法の専門家と同じです。そのような固い心ではない柔らかな心を持ち、絶えず自己を吟味しつつ歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 10章17-24節◇(7月20日)

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」…ルカ10:20

2人1組となって人々のところに遣わされ、イエスの御名により悪霊さえも追い出すことができることを体験し、喜んで帰って来てそのことを主イエスに報告した弟子たちに対して主は、そのような現象自体に心奪われて喜ぶのでなく、自分たちの名が天に書き記されていることを喜びなさいと言われました。また主イエスはその後、聖霊によって喜びにあふれて、これらのこと、すなわちご自身をメシアと信じて従う者たちの名が天に書き記されていることは、幼子、つまりその神の子どもたちだけに知らされることであり、この世の賢者には隠されていることなのだと、祈りのことばとして、神に向かって語られたのです。そしてその「幼子たち」とは、主を信じる私たちのことでもあるのです。主はさらに、ご自分がすべてを支配する権威を父から与えられていること、また、弟子たちが見聞きしているさまざまな驚くべき事柄は神の国の現れにほかならないと、彼らに告げられました(22,24節)。確かに主イエスは、御国の王であられます。また私たちは、御国に国籍を持ち、主イエスを王としてあがめる、御国の民であるのです。その霊的事実をあらためて教えられます。そのように、天に名が書き記されている御国の民として、私たちはその自覚を持ち、それにふさわしく歩むことが求められています。しかし、地上に生活している私たちは、ともすればその意識が希薄になってしまうのです。「…何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。…まず神の国と神の義を求めなさい」(マタ6:31,33・2017訳)。弟子たちが見聞きしたこと、体験したことは、神の国の豊かな祝福のほんの一部に過ぎません。そして神の子どもたちには、そのすべてを受け取る権利が、キリストによって与えられているのです。そこにしっかりと目を留めつつ、天に向かって歩み続けていきたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 9章51-62節◇(7月18日)

「するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」…ルカ9:62

3人の人が主イエスの前に登場します。最初の人は主に、あなたがどこに言っても私はついていく、と言いましたが、主は彼に、人の子には枕する所もない…そのような歩みにあなたは加われるのか…とチャレンジされました。次の人は、ついて来なさいと、主から声を掛けられましたが、まず父を葬らせてほしいと答えると、主は彼に、死人たちに葬らせなさい、あなたは神の国を言い広めなさい、と言われました。3番目の人は、最初の人のように、あなたに従うと申し出ましたが、その前に家族に別れを告げたいとも言いました。すると主は、そのような者は神の国にふさわしくない、と彼に告げたのです。主イエスは彼らに意地悪をされたのではありません。途中で脱落しないようにと、わざと大げさに言ったのでもありません。主が彼らに強調されたのは、神の国の重要性と、それを伝えることの緊急性です。神の国がもたらす祝福は、すべての人が受け取るべき、なくてはならないものであって、それを人々に伝えて広めることを、決して遅らせたり後回しにしたりしてはならないのです。私たちもまた、キリストによって贖われ、私について来なさいと言われている弟子たちです。そして、終わりの日は近づいており、神の国の到来を人々に伝える重要性と緊急性は、ますます増しているのです。どうせまだ来ないさ…と悠長な態度でいてはならないのです。また、自分にできることなど限られている…と考えてはならないのです。主に選ばれ任命された弟子としての自覚と覚悟を持ち、それぞれが主から委ねられている働きを遅滞なく推し進め、神の国を拡大することが今求められているのです。その主のみ思いを覚え、主の助けと導きを祈り求めつつ、忠実なしもべとして、主にお仕えしていきたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 17章24-41節◇(7月17日)

「このようにして、これらの民は主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行った。今日もそうである。」…2列王17:41

アッシリヤは、イスラエルの民を自分たちの地に連行しましたが、彼らの代りに、バビロンなどの地から異邦の民を連れて来て、サマリヤの町々に住まわせました。しかし、それらの者たちがイスラエルの神を畏れず、主が獅子を彼らの中に送られたため、イスラエルの祭司の一人が連れ戻され、その異邦の移住民たちに、主をどのようにして礼拝すべきかを教えることとなったのです。にもかかわらず、それぞれの民は、めいめい自分たちの信じる偶像の神々を作り、それらを高き所の宮に置いて拝みました。また、自分たちの子どもを火で焼いてささげるという、彼らのならわしを続けたのです。かと言って、イスラエルの神をまったく無視したわけではなく、獅子の一件がそうさせたのか、表面的ではあっても主を礼拝し、祭司を任命して祭儀を行なわせたのです。列王記の記者は、「彼らは主を礼拝しながら、同時に、…自分たちの神々にも仕えていた」と記しています(33節)。35-39節は主の祭司が移住民たちに教えたモーセの律法です。主は明確に、主だけを恐れ(畏れ)て礼拝せよ、ほかの神々を恐れ(畏れ)るな、と民に命じておられたのです。しかしながら移住民たちはそのようにせず、イスラエルの神と自分たちの出身地の神の、どちらか一方ではなく、どちらにも心を寄せ、同時に仕えようとしたのです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」と主イエスは言われました(マタ6:24)。ともすれば私たちは、主を信じると言いつつも、世的なものにも心を寄せ、頼みにしようとします。また、神を山になぞらえ、登り口は違っても頂上は同じだと説く、普遍主義的な思想が人々に受け入れられます。しかし神は、そのようなあり方を退けられます。それは非聖書的なのです。そのことをしっかりと覚え、ただ主だけを畏れて仕える者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 17章1-23節◇(7月16日)

「しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。」…2列王17:14

イスラエルの王ホセアは、アッシリヤの王に貢ぎ物を納めていましたが、一方でエジプトの王に使者を遣わし、助けを得てアッシリヤに抵抗しようと企んでいました。しかし、それを見抜いたアッシリヤの王がイスラエルの全土に攻め上ったため、首都サマリヤは陥落し、民はアッシリヤに捕らえ移されました。ヤロブアムから2百年あまり続いたイスラエル王国は、滅びてしまったのです。7-23節には、そのような事態となった理由が総括されています。イスラエルは、カナン人や周囲の異邦人に倣ってバアルやアシェラや子牛の偶像を拝み、高き所で香をたき、自分たちの子どもに火の中をくぐらせ、占いやまじないをしましたが、それは主が忌み嫌われることであり、それらによって罪を犯し、主の激しい怒りを引き起こしたため、主が彼らを御前から投げ捨てられたのです。主は預言者たちを通し、そのようなことを禁じ、律法に従って定めとおきてを守るように命じておられました。にもかかわらず、イスラエルはそれを無視し、自分たちの思いを押し通したのです。14節には「うなじのこわい者となった(うなじを固くした:2017訳)」とあります。すなわち、頑なで、強情で、自分たちのあり方の誤りを認めようとせず、何よりも主を畏れない心を、彼らは持っていたのです。「責められても、なお、うなじのこわい者は、たちまち滅ぼされて、いやされることはない」(箴29:1)。日々、主のみことば(律法)と向き合い、主の叱責に耳を傾け、自らの誤ったあり方を認めて悔い改め、主に立ち返り、主のあわれみを乞い求める…。固い石の心ではない、そのような柔らかい肉の心を持つ者を、主は顧みてくださるのです。自分のがんばりによってではなく、御霊の働きによって、そのような者へとさらに変えられたいと心から願います(エゼ36:26-27)。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 16章◇(7月15日)

「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。『私はあなたのしもべであり、あなたの子です。…私を救ってください。」…2列王16:7

南ユダではヨタムの死後、彼の子アハズが王となりましたが、アハズは先代の王たちのように主の目にかなうことを行なわず、先住のカナン人の異教の習わしをまね、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでしました。その頃、南ユダには預言者イザヤがいて、アラムと北イスラエルの連合軍が攻めてきても恐れるな、主のしるしを求めよとアハズに告げましたが(イザ7:4,11)、アハズはそれを拒否し、アッシリヤの王に金銀を送り、助けを求めました。するとそれは功を奏し、アラムの王は殺され、アハズとユダの民は難を逃れることとなったのです。しかし、それはあくまで人間的な手段による一時的な解決であって、主がもたらされた勝利と祝福ではありません。にもかかわらず、アハズの心はますます主から離れ、ダマスコに行ったときに見た異教の祭壇に彼は魅了され、何とそれと同じものを、祭司ウリヤに命じて、エルサレムに築かせたのです。神殿にあった元の青銅の祭壇は移動され、洗盤などの他の器具も取り外され、そのアハズの「大祭壇」がいけにえをささげる場所に変わりました。それがどれほど大きな主への背信行為であったかは言うまでもありません。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です…。私を救ってください」…。アハズはそのように、使者たちを通してアッシリヤの王に伝えましたが、そのことばは、本来、主に対して告白されるべきものだったのです。しかし彼は主に拠り頼もうとはせず、人間的なものに頼り、その姿勢は、異教の祭壇による礼拝という、霊的な汚染を国にもたらすことに発展したのです。主を求めない態度、小さなほころびが、神の祝福を失い、主の大きな怒りを引き起こすことにつながる…。それはアハズを通して教えられる教訓です。「私はあなたのしもべです…どうか助けてください…」と、絶えず主の前にへりくだり、ただ主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 15章23-38節◇(7月14日)

「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、…ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕らえ移した。」…2列王15:29

北イスラエルでは依然として王が次々と変わり、国家の安定は失われ、末期症状とも言える状況でした。メナヘムの子ペカフヤは、彼の侍従ペカが起こした謀反により殺され、そのペカもまたエラの子ホセアの謀反により討たれましたが、そのような中、ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセル(三世)によってイスラエル北部の領土を奪われ、そこの町の住民がアッシリヤへ捕らえ移されてしまったのです。メナヘム王は、プルとも呼ばれるティグラテ・ピレセルがイスラエルに圧力をかけてきたとき、銀一千タラントを彼に与えて去らせ、事なきを得ましたが、それはメナヘムが「プルの援助によって、王国を強くする」ことをもくろんでのことでした(19節)。しかしそれは裏目に出て、政情が不安定でがたがたになっているイスラエルの足もとを見るようにして、プルは時機をはかって、一気に攻撃をしかけたのです。メナヘムの人間的な思いからの期待は、そのようにして無残に打ち砕かれたのです。列王記の記者は、メナヘム、ペカフヤ、ペカもまた、先代の王たちと同様に、ヤロブアムの罪を離れなかったと記していますが(18,24,28節)、そのように、国家のリーダーである王たちが罪を犯し続け、主の前にそれを悔い改めようとしなかった状況にあっては、主がイスラエルをアッシリヤの手に渡すようにされたのは、当然の結果であったと言えるのです。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。私たちは、自らが蒔いた種が生み出すものを、必ず刈り取らなければならないのです。イスラエルは、国家の滅亡という取り返しのつかない事態に陥りましたが、私たちは、そのことを教訓として学び、絶えず主に立ち返る者でありたいと思います。

砕かれた悔いた心を持つことができますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 15章1-22節◇(7月13日)

「彼は主の目の前に悪を行い、一生、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。」…2列王15:18

南ユダと北イスラエルの王がめまぐるしく代わっていきます。ユダではアマツヤの子アザルヤ(別名ウジヤ)が16歳で王となり、52年間の長きにわたって国を治めましたが、イスラエルではヤロブアム(二世)の後に王となった彼の子ゼカリヤは6ヶ月、そのゼカリヤを討って王となったヤベシュの子シャルムはわずか1ヶ月という短い治世だったのです。そのシャルムもガディの子メナヘムによって殺されました。それらのイスラエルの王たちについて、列王記の記者は、「彼は主の目の前に悪を行い…ネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」という慣用句のような表現で断じています(14:24,15:9,15:18)。そのヤロブアムの罪とは、金の子牛を作って民に拝ませたことですが(1列12:28)、その罪の本質とは、イスラエルのまことの神に背を向け、人の手による偶像に心を向けたということであり、バアル礼拝も含め、主に聞き従わず、拠り頼もうとしないあり方はすべて、「ヤロブアムの罪」だと言えるのです。ところで、神の人エリシャはヨアシュ王の時代に亡くなりましたが(13:20)、それ以来、列王記の記者は、預言者の名前を記していません。そしてそれは、国を治める王たちに、神のことばを告げ、主のみこころを示し、王に助言をし、ときに叱責する、そのような存在がなかったということを意味します。そのような中、イスラエルの王位は、私欲と野心に満ちた者たちによって争われたのです。また、その統治は、人間的な思いと方法によってなされていったのです(19-20節)。神に背を向け、国の滅亡に向かって進むイスラエル…そこに、終わりの日に近づいているこの世界が重なります。そのような中、ますます神のことばにますます拠って立ち、御霊の助言と促しに耳を傾け、主のみこころを行なう者、また「預言者」として人々に、神の国の到来とその豊かな祝福を伝える者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 14章1-16節◇(7月11日)

「そのとき、アマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに、使者を送って言った。『さあ、勝敗を決めようではないか。』」…2列王14:8

ユダの王ヨアシュの死後、彼の子アマツヤが王となりました。彼は主の目にかなうことを行い、自分の父を討った家来たちを粛清した際も、その子どもたちまで殺すことはしませんでした。それは彼が、モーセの律法の規定を重んじたからです(申24:16)。その後アマツヤは、塩の谷で1万人のエドム軍に勝利を収めて南の地域を手にしましたが、さらに北へも領土を拡大することを目指し、イスラエル王ヨアシュに直接対決を求め、勝敗を決めようとしました。しかしそれは、ヨアシュ王が「レバノンのあざみ」の譬えをもって指摘したとおり、アマツヤがエドムとの戦いでの勝利によっておごり高ぶり、自信過剰になったゆえであったのです。そのように、主を畏れ、律法に忠実に従っていたアマツヤでしたが、エドムへの勝利が彼を高慢にさせました。しかしながら、その勝利は主がもたらしたものであり、決してアマツヤ自身の力によるものではなかったのです。それなのに、ヨアシュ王に直接対決を求めたアマツヤは、なんと浅はかで愚かな者であったことでしょうか。結局、ユダはイスラエルに打ち負かされ、アマツヤは捕らえられ、主の宮と王宮にあった財宝もすべて奪われたのです。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴16:18)。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」(ヤコ4:10)。「…私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」(2コリ12:7)。主は多くのみことばを通して、私たちが高ぶることのないようにと警告しておられます。「身の程知らず」ということばがありますが、自らを過大評価して倒れたアマツヤを反面教師として学び、主の前に絶えずへりくだって歩む者でありたいと願います。

主が心を治めてくださいますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 13章◇(7月10日)

「神の人は彼に向かい怒って言った。『あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。』」…2列王13:19

エフーの死後、彼の子エホアハズがイスラエルの王となり、主の目の前に悪を行ったため、主は怒りを燃やして、アラムにイスラエルを虐げさせました。しかし彼が主に助けを求めると、主は族長たちとの契約のゆえにイスラエルを顧み、彼らが滅ぼされないようにされたのです。主から離れまた近づき…と、不安定で不徹底な態度を繰り返したイスラエル…。そのようなあり方は、エホアハの次の王となった彼の子ヨアシュにも見られます。彼は、エリシャが死の病にあったとき、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました(2:12参照)。ヨアシュは、エリシャが神から受けている権威を認め、アラムの脅威から国が守られるよう、願い求めたのです。エリシャは彼に弓と矢を取らせ、いくつかのことを指示しましたが、矢で地面を打てと言われたヨアシュは、3度打つとやめてしまいました。するとエリシャは怒ってヨアシュを非難し、あなたは3度だけアラムを打つと告げ、実際、その彼のことばのとおりになったのです(25節)。その矢は「アラムに対する主の勝利の矢」(17節)であり、主にとことん拠り頼み、圧倒的な勝利を得るという強い思いがヨアシュにあったなら、彼は6回、7回と打ったはずなのです。しかし3回でやめたその行動に、エリシャは、彼の不徹底で中途半端な主への信頼を見たのです。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」(詩62:8)。王ダビデは、どんなときにも、とことん神に拠り頼め、心を神の御前に注ぎ出せ、と民に命じています。私たちも、なまぬるい態度、信仰ではなく(黙3:16)、熱い主への信頼の心をもって、主の勝利の矢を打ち続け、敵に向かって放ち続ける者でありたいと思います。

主の勝利がもたらされますように。 

◇聖書箇所: 列王記 第二 12章◇(7月9日)

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行った。」…2列王12:2

ユダの王ヨアシュの治世が書かれています。彼は40年間、比較的長きにわたって国を治めましたが、彼に油を注いで王とした、祭司エホヤダの指導と支援が常にあったことを、列王記の記者は記しています。それは、見方を変えれば、ヨアシュは決して悪い王ではなかったものの、弱さや足りなさのゆえに独り立ちできなかった、助けがあったからこそ王の任務を果たし得たということです。ヨアシュは祭司たちに、主の宮への課徴金や献金を元に、宮の破損を修理するよう命じていましたが、一向に実行に移さない彼らに業を煮やした王は、祭司たちにその金が渡されないようにし、責任も持たせなくしました。するとエホヤダは、主の宮の入口に新たに献金箱を設け、そのお金を王の書記と大祭司が工事の監督者たちに委ね、宮の改修が進むようにしたのです。祭司たちは霊的な事柄にもっぱら当たっていたため、事務的なことは不得手でした。しかしヨアシュはそこまで深慮せず、宮の修理という、目に見える部分を良くすることだけを考え、それまでのやり方を見直そうとはしなかったのです。そのように、表面的なことだけにこだわり、その場しのぎの対応をしようとするヨアシュの姿勢は、アラムの王ハザエルがエルサレムに攻め上って来たときにも表われました。王は、ハザエルを去らせるために、先代の王たちや自分が聖別して主にささげた大切なものや、宝物倉のすべての金を、ハザエルに渡してしまったのです。言うまでもなくそれは、主に喜ばれることではありません。その後、彼は家来たちの謀反により打ち殺されました。私たちも弱くて足りない者です。だからこそそれを素直に主の前に認めて、御霊の助けと導きを日々祈り求める必要があるのです。うまくいかない事があるなら、その根本的な原因を主から教えられ、それを変えていくことが大切なのです。その場しのぎではない本質的なあり方を、常に主に尋ね求めるべきなのです。主がその求めに確かに答えてくださることを、覚えたいと思います。

主の助けと導きが与えられますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 11章◇(7月8日)

「エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。」…2列王11:17(新改訳2017)

ユダの王アハズヤの母アタルヤは、アハズヤがエフーに殺されたことを知ると、自分が王となるべく、ただちに王の一族全員を滅ぼしました。しかし、アハズヤの子であった少年ヨアシュは、アハズヤの妹エホシェバによって乳母とともにかくまわれ、主の宮に6年間身を隠し、アタルヤの手を逃れて生き延びることができたのです。7年目に、エホシェバの夫である祭司エホヤダ(2歴22:11)は、ヨアシュに王冠をかぶらせ、油を注いでユダの王としました。新しい王の誕生を喜ぶ民の声を聞き、謀反が起こったことを知ったアタルヤは、自分につく者を求めましたが、時すでに遅し、彼女は王宮で殺されました。そのアタルヤは、オムリの孫娘(8:26)、つまりアハブとイゼベルの娘であって、アハズヤの助言者となってイスラエルの悪をユダに持ち込み、バアル信仰を国に拡大させた人物でした。主は、彼女がユダの王としての権威を濫用し、さらに悪を深めることを阻止すべく、6年間の準備期間を経て、祭司エホヤダとその妻エホシェバを用いてアタルヤを退け、ヨアシュを王とされたのです。アタルヤの死後、民はバアルの宮を取り壊し、その祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司も聖別しましたが、その前にエホヤダは、王やユダヤの民に対し、「主の民となる」という契約を結ばせていました。そのように主の前に約束した民にとって、偶像を自分たちの国から取り除くのは必然的なことであったのです。「この町は平穏であった」(20節)ということばが心に留まります。それは単に国に戦いがなかったということではなく、主が、ご自身に従うという決意をしたユダの民を喜ばれ、一人ひとりに平安を与え、民が住む町々を御手で守られたということなのです。主は私たちにも、「平穏」をもたらそうと願っておられます。日々、主が喜ばれないものを取り除き、主の民となる決意をしたいと思います。

主の平安がありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 10章18-36節◇(7月7日)

「主はエフーに仰せられた。『あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。』」…2列王10:30

エフーはすべての民を集め、自分はバアルに大いに仕えるつもりであり、バアルのためにきよめの集会を開催するので、バアル信者は全員バアルの宮に集うようにとの布告を出させました。しかしそれは、彼の策略であったのです。布告を知って集まった信者たちがバアルの宮に入り、そこがいっぱいになると、エフーは、信者だけに祭服を着させ、そこに混じっていた主のしもべを宮の外に出させた上で、宮の外に配置した侍従たちに対して、信者を一人残らず討ち取れ、と命じたのです。彼らはそのとおりに実行し、さらにバアルの宮も徹底的に破壊しました。そのようにエフーは、バアルをイスラエルから根絶やしにするという功績を立てましたが、ヤロブアムが作った金の子牛に仕えることから離れようとはしなかったのです(29節)。そのエフーに対して主が言われたことばに戸惑いを覚えます(30節)。金の子牛のことを咎めず、「わたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ…」とのその賞賛を、私たちはどう理解すればよいのでしょうか…。それは、エフーもまた罪を持った、完全な者ではないということであり、しかしその彼に主は油を注いで(9:6)、ご自身の働きのために用いようとされた、エフーもまたその主の期待に応えるべく「よくやり遂げた」ということなのです。私たちもまた、主の前に罪のない全き者ではありません。しかし、主に贖われ、御霊の油注ぎを受け、それぞれ主の働きを担い、神の国の勝利と完成のために用いられていくのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。…主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタ25:21)。よくやり遂げた、とエフーは主から賞賛されましたが、私たちもそのような者でありたいと思います。

主の喜びを喜びとすることができますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 10章1-17節◇(7月6日)

「だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」…2列王10:10

昨日の箇所である9章の後半から10章にかけて、エフーが次々に行なった、暴力的とも言えるような行動が記されています。彼は軍勢を率いてイスラエルの王ヨラムとユダの王アハズヤを討ち、さらにイズレエルにいたイゼベルに会い、近くにいた宦官に彼女を建物から突き落として殺させたのです。その死体は犬に食べられたために、葬ろうとしても一部しか残っていませんでした(9:35)。エフーはさらに行動を続けます。イズレエルの長老たちに手紙を送り、アハブの70人の子どもたちを殺害し、彼らの首を持ってくるように命じたのです。エフーを恐れた長老たちはその命令を実行しました。またエフー自身も、イズレエルに残っていたアハブの家に属する者を、一人残さず打ち殺したのです。凄惨な場面の連続に、読んでいると思わず眉をしかめたくなります。しかし、それらはすべて、主が計画され、エフーを用い、主ご自身が成し遂げられたことでした。主は、エリヤを通してアハブに、わたしはあなたの子孫や小わっぱも奴隷も除き去る…それはあなたがわたしの怒りを引き起こした怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ…と告げられていたのです(1列21:21-22)。エフーが民に語ったとおり、アハブの家について告げられた主のことばは、一つも地に落ちることはなかったのです。「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを」(ロマ11:22a、2017訳)。神は確かに愛といつくしみに満ちたお方であると同時に、ご自身に背く者に怒りを燃やされる厳しい方であることを、あらためて教えられます。また私たちが、子孫や後の世代への主の祝福が確かにもたらされるための責任を負っている、ということにも気づかされます。主のご計画は確かに実現する…主ご自身が成し遂げられる…。そのことを覚えつつ、主への畏れをもって歩んでいきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 9章1-16節◇(7月4日)

「エフーは立って、家に入った。そこで若い者は油をエフーの頭にそそいで言った。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、主の民イスラエルの王とする。』」…2列王9:6

エリシャは、預言者の仲間の一人の若者を呼び、ラモテ・ギルアデに行って、ニムシの子ヨシャパテの子エフーの頭上に油を注ぎ、主があなたをイスラエルの王とすると言われる、と告げるように命じました。すると彼は早速出て行き、将校たちの会議に参加中のエフーを見つけ、すべてエリシャから言われたとおりにしたのです。さらにその若者は、エフーに主のことばを告げました。あなたはアハブの家の者を打ち殺さなければならない、わたしは主のしもべたちの血の復讐をする、犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らうようになる…と(7-10節)。若者はそれらのことばをエリシャから託されませんでしたが、それらはエリヤがアハブに告げたものであり(1列21:21-24)、そう語るようにと主から促されたのです。そのように、エリヤのアハブに対するメッセージは、エリヤの弟子であるエリシャのしもべの一人の若者によって、アハブの子ヨラムに対して再び語られ、それらは確かに実現することとなったのです。主が語られたことばは、たとえすぐにではなく時間がかかったとしても必ず成就するということ、そのことばは、神が立てられた預言者によって世代を越えて語り継がれるということ、そしてそれを語るようにと主の御霊が示し、促し、語る勇気を与えられるのだということをここから教えられます。預言者とは、主からことば(言葉)をあず(預)かり、それを語るべきときに、語るべき人に対して、主の口となってまっすぐに告げる者のことですが、主に贖われ、主の弟子とされ、御霊の油注ぎを受けた私たちもまた、預言者として、それぞれのところに立たされているのです。さまざまな試練と困難に満ちている今の時代にあって、主が語っておられる希望と喜びのメッセージを、御霊の助けと導きのうちに語り伝える者でありたいと思います。

それぞれの働きがますます用いられますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 8章◇(7月3日)

「神の人は、彼が恥じるほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したので、ハザエルは尋ねた。『あなたさまは、なぜ泣くのですか。』エリシャは答えた。…」…2列王8:11-12

アラムの王ベン・ハダデは、自分の病気が治る見込みについて、神の人エリシャを通して主のみこころを尋ね求めるよう、部下のハザエルに指示しました。彼がエリシャの元を訪れてその旨を話すと、エリシャは彼に、あなたは必ず治ると王に告げよと言い、また、しかし王は必ず死ぬとも主は示されたと告げたのです。エリシャはなおもハザエルをじっと見つめ、突然泣き出しました。驚いたハザエルが訳を聞くと、あなたがイスラエルの民に害を加えようとしていることを知っているからだと答え、さらに、あなたがアラムの王になることも主は示された、と告げたのです。戻ったハザエルは王に、病気は治るとのエリシャのことばを伝えましたが、翌日になると彼は、王を窒息させて殺害したのです。エリシャの言動は正しかったのか…彼のことばがハザエルをそそのかすことになったのではないか…ハザエルがイスラエルに害を加えると示されていても、それを口にすべきではなかったのではないか…。そのように私たちは考えます。しかし、預言者であるエリシャにとって大切だったのは、主が示されたことを曲げずに余すところなく語るという、自分の役割を果たすことであり、また、主のみこころがなることを願って、自分を神に明け渡すということであったのです。彼は、生涯、どのような状況に置かれたとしても、そのことを貫き通したのです。そのようなエリシャのあり方は、主に贖われ、主の弟子とされている私たちにとっても、心に留めるべきものです。「人に従うより、神に従うべきです」(使5:29)。主はしばしば、私たちの思いや感情とは異なることを求められます。しかしそれが主のみこころ、願いであるゆえに、私たちは自らを委ねてその促しに従うのです。さらにそのような従順な者と変えられていきたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 7章◇(7月2日)

「王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。」…2列王7:17

飢えに苦しむ民に対してエリシャは、明日の今頃には小麦粉や大麦が安く売られて手に入るようになると預言しました。しかしそれを聞いた王の侍従の一人は、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言って否定したのです。エリシャは彼に、あなたはそれを食べることはできないと告げました。エリシャのその預言は思いがけない形で成就しました。主がアラムの陣営に大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らはイスラエルに襲われたとすっかり思い込み、陣営を何もかもそのままにして慌てて逃げ去ったのです。それを知った民は出て行って難なくアラムの陣営を占拠し、奪った食糧を売り買いしました。そしてそのことを否定した侍従は、門での勤務中に人々に踏みつけられて死にました。すべてがエリシャの言ったとおりになったのです。エリシャが民に語ったとき、「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる」と最初に告げ、その後、起こることを予告しました(1節)。けれども、王の侍従はそれを聞いても信じることなく、そんなことはあり得ない、ばかばかしいと、一笑に付したのです。しかしながら、それを語ったのは神の人、主が油注がれた神の器であって、その神の人のことばを否むということは、すなわち、主のことばを否み、さらには主ご自身を否むということであったのです。列王記の著者は、そのことを強調するかのように、1-2節の内容をわざわざまた書き(18-19節)、「神の人」ということばを繰り返しています(17-19節)。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる」…。主のことばは、今日も私たちに聖書を通して与えられており、御霊によって確かに語られています。それを聞いて信じる者は「生きる者」とされるのです。人間の考えやこの世の常識ではなく、主のことばに拠って立つ者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記 第二 6章24-33節◇(7月1日)

「彼は言った。『きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。』」…2列王6:31

サマリヤを襲った飢饉はひどく、さらにアラムの軍隊が町を包囲していたため、人々は苦しみ、通常は食糧とはされない、ろばの頭や鳩の糞さえも売り買いされるようになっていました。そんな中、一人の女性がイスラエルの王を呼び止めました。別の女性から、子どもを食べて飢えをしのごうと持ちかけられ、まずは自分の子どもをそのようにしたのに、次の日にはその女性の子どもが隠されてしまったと訴えたのです。それを聞いた王は自分の服を引き裂いて、感情をあらわにしました。その後、王はなぜかエリシャを殺害しようと考え、そのための使者をエリシャの家に遣わしました。王は女性から「お救いください」と言って呼び止められたとき、事情をまだ何も聞いていないのに、「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか」と答えましたが、それは、今の窮状を見過ごしにしているという、主を責める思いが彼のうちにあったからです。そして、女性からあまりに悲惨でおぞましい現実を聞かされると、彼のうちの屈折した心理によって、それは、イスラエルに対する神のさばきを説く、預言者エリシャへの憎悪へと変わっていったのです。王は、国のリーダーとして、困難な状況への主の介入を求めて祈らなかったわけではありません。それは、彼が身に着けていた荒布が示しています。しかし、その答えが得られない状態が続くと、彼のうちに、不満や怒りの感情が少しずつたまっていったのです。しかし、そうだからこそ、彼はますますへりくだり、神の人エリシャとともに、主のあわれみを祈り求めるべきだったのです。私たちも王のような感情を持つことがあります。しかし、それを人に向けたり、自分の内に押し殺すのは健全ではありません。私たちはすべてを主の前に出すべきなのです。主は私たちのどんな思いも受けとめてくださいます。主に訴えることをやめない者でありたいと思います。

ひたすら主を待ち望むことができますように。