◇聖書箇所: エレミヤ書 8章◇(9月30日)

「わたしは彼らを、刈り入れたい。-主の御告げ-しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」…エレミヤ8:13

4-9節には、背信を続け、悪行を悔い改めようとしない民の頑迷さに対して、あきれ、嘆く主のことばが書かれていますが、「彼らは欺きにすがりつき(偽りを握りしめ:2017訳)、帰って来ようとしない」(5節)、「空のこうのとりも、…山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」(7節)と、民が悔い改め、ご自身のもとに立ち返ることを、依然として主が願い、待っておられることが示唆されています。また、13節には「わたしは彼らを、刈り入れたい」とあります。主は、ご自身が植えたぶどうの木である民が豊かに実を結び、その実を刈り入れることを待ち望んでおられたのです。しかしその期待は裏切られ、ぶどうの実は結ばれず、いちじくの実もならず、葉もしおれている状態であったのです。主はそれを手当てしようとせず、放置して枯れゆくままにすると言われました。その主の思いを知ったエレミヤの心もまた、押し潰されそうになりました。「私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている」(18節)、「私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え(うなだれる中:2017訳)、恐怖が、私を捕らえた」(21節)。エレミヤにとって、主の悲しみは自らの悲しみ、主の喜びもまた自らの喜びであったのです。「わたしは彼らを刈り入れたい」…。その主のことばは、キリストに贖われた私たちに対してのものでもあります。主は、私たちが豊かに実を結ぶことを願っておられます(ヨハ15:16)。そしてそのためには、ぶどうの枝である私たちは、ぶどうの木なる主イエスにとどまり続けなければならないのです。また主がなさる刈り込みを受ける必要があるのです(ヨハ15:1-5)。主の期待に答えて実を結び、主を喜ばせる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 7章16-34節◇(9月29日)

「ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』」…エレミヤ7:23(新改訳2017)

主はエレミヤに、民のために祈るな、とりなすな、あなたの願いを聞かない、と言われました。預言者であり祭司である彼にとってそのことばは、とても辛く苦しいものであったに違いありません。なぜならそれは、ユダへのさばきが決定的となったことを意味していたからです。さらに主は、あなたは見ていないのかと言って、ユダが行っているさまざまな忌み嫌うべきことをエレミヤに指摘した上で、わたしはユダの町々とエルサレムの通りから、人々のいっさいの声を絶やす、それはこの国が廃墟となるからだと、恐るべきことばを告げられました。その主は、民をエジプトから連れ出されたとき、モーセを通して、わたしの声に聞き従え…わたしが命じるすべての道に歩め…そうすればあなたがたは幸せになる…と命じられました。しかし民は、そのことばに耳を傾けず、頑なな心でますます主の前に悪事を重ね続け、民がご自身に立ち返るのを、エレミヤの時代までずっと忍耐をもって待ち続けておられた主の思いを、民は踏みにじることとなったのです。「聞け、イスラエルよ。…あなたの神、主を愛しなさい。…あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい」(申6:4-6、2017訳)。主の御声に聞き従い、主が命じるすべての道に歩むことは、主を愛することであり、主に喜ばれる者、主の栄光を現す者となるために、なくてはならないことなのです。そしてそれは、神の民とされた私たちにももちろん求められていることなのです。私たちの周りにはさまざまな騒音が満ちていますが、静まって主との交わりのときを持ち、みことばを通して語られる主の御声にしっかりと耳を傾け、その御声に聞き従う者、主の道をまっすぐに歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 7章1-15節◇(9月28日)

「それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。」…エレミヤ7:10

エレミヤは主から、礼拝するために神殿の門に入る人々に対して、ご自身のことばを伝えよと命じられましたがそれは、「あなたがたの行いと、わざとを改めよ」というメッセージでした。なぜなら、彼らの信仰は迷信的、形式的なものであって、自分たちには立派な神殿がある…と、その存在自体を誇り、敵の手から守ってくれると考えていたからです。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という彼らのことばがそれを象徴しています。しかし人々はそのように、目に見える神殿に心寄せて満足し、そこに臨在される目に見えない神には、心を向けていなかったのです。彼らはやもめのような弱者たちを虐げ(6節)、さまざまな悪事を働き、偶像を慕い、偽りの神々に従っていたのです(9節)。それなのに、「礼拝」という形だけの儀式で満足するために神殿に集い、「私たちは救われている」と言っている民に対して主は、わたしの名がつけられているこの家は「強盗の巣」と見える、と告げられたのです(11節)。主イエスもまた、神殿の中で売り買いをしていた者たちを追い出し、あなたがたは主の家を強盗の巣にしていると非難されました(マタ21:13)。主の宮、神殿とは本来、神の臨在に満ち、神への真実な礼拝がささげられ、民の罪の赦しのためのいけにえがささげられ、とりなしの祈りがなされるべきところです。しかし、エレミヤが神のことばを告げた人々の信仰の歩みは、それとはかけ離れたものであったのです。「キリスト者」と主の名がつけられ、御霊の住まいである私たちもまた主の宮とされていますが、そこで神に真実な礼拝が絶えずささげられているのか、そこが神の臨在と栄光が現されるところ、祈りの家となっているのかと、自分自身のあり方を吟味したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 6章1-15節◇(9月26日)

「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」…エレミヤ6:14

「ベニヤミンの子らよ。エルサレムの中からのがれよ」と、エレミヤは語っています。エルサレムはユダ族とベニヤミン族の領地の境界にあったたため、多くのベニヤミン族もエルサレムに住んでいたのです。「わざわいと大いなる破滅が北から見下ろしている」とは、バビロンによる聖なる都の破壊を意味しています。11節後半からは主のことばです。それ(主の憤り)を、子どもや若者の上にもぶちまけよと命じています。なぜなら、エルサレムの住民がみな、欲望のままに利得をむさぼり、宗教指導者であるはずの預言者や祭司までもがみな、偽りを行っていたからです(13節)。主は、そのように悪に満ちたエルサレムから、暴虐と暴行の騒ぎの声を聞き、人々が病と打ち傷を絶えず負っている様子を見ておられたのです。その受けた傷を人々は「手軽に(いいかげんに:2017訳)いやし」ていましたが、それは取り繕うだけで、真のいやしではありません。また彼らは、「平安だ、平安だ」と言っていましたが、それはただ自分に言い聞かせているだけで、彼らの心には平安はなかったのです。平安だ、平安だ…何も心配ない…大丈夫だ…。そのように、現実を直視しようとしない楽観主義、また、先のことは考えずに今を楽しもうとする刹那主義、そして、何よりも神に背を向け、自分たちの考えで事をなそうとする人間中心主義は、当時のエルサレムの住民だけでなく、いつの時代のどこの国にもあり、多くの人々はそれに染まっています。しかし、真の平安とは、たとえ現実がどのように厳しくても、すべてを統べ治めておられる神を信じる者に与えられる希望に基づくものであって、その希望は決して失望に終わることがないのです(ロマ5:5)。どんなときにも主に拠り頼み、心安らかにされて歩む者でありたいと思います。

平安が心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 5章20-31節◇(9月25日)

「彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。」…エレミヤ5:28

主はご自身の民についてこう非難しています。愚かで思慮がない…目や耳があっても見えず聞こえない…神を畏れない…かたくなで逆らう心がある…(21,23節)。彼らは表面的には富んでおり、肥えてつややかな者ですが、心の中は利己的な思いで満ちており、みなしごや貧しい人々を助けようとはしないのです。そしてそのような者たちが満ちた国に、主はわざわいをもたらされるのです。「このような国に、わたしが復讐しないだろうか」(29節)。「復讐」ということばに心が留まります。主は、みなしご、やもめ、在留異国人、貧しい者といった、邪魔者扱いされがちな弱者にとりわけ心を配っておられ、彼らが受けた仕打ちに対して憤りを抱いておられるのです。神は、ご自身と同じように、そのような者たちに心を配り支援せよと、民に繰り返し命じておられます(出22:22,申26:13,イザ1:17等)。またヤコブは「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」と言っています(ヤコ1:27)。ともすれば教会ではそのことが軽んじられ、礼拝、宣教、交わりが重視されがちですが、社会の中で、そのような愛のわざを実践することをも、主は求めておられるのです。罪深い民は、主を畏れることをしませんでした。時にかなって与えられる雨を、神の恵みとして受け取っていませんでした(24節)。そのような高慢で身勝手な者たち、弱者をぞんざいに扱う者たちを必ず罰すると、主は告げられたのです(29節)。その主は、今も、ご自身のみこころにかなう者を求めておられます。その聖徒たちに祝福を豊かに注ぎ、さらにそれが周囲に押し流されようにと願っておられるのです。イスラエルとユダの民を反面教師とし、日々神を畏れ、へりくだり、霊の目と耳を開かれ、神のみこころを行う者、主に用いられる者とされたいと願います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 5章1-19節◇(9月24日)

「彼らは主を否んでこう言った。『主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。』」…エレミヤ5:12

「その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」(1節)。主はそのように告げられました。「だれか」とは、「たった一人でも」ということです。主が罪に満ちたソドムの町を滅ぼそうとされたとき、アブラハムは、10人の正しい者がいるなら赦してほしいと主に掛け合い、町は結局滅ぼされてしまいましたが、エルサレムにも善を行う者、主に正しいと認められる者は一人もいないのです。民が主を否み、侮り、うそぶいて言うことばがそのことを象徴しています(12節)。主を認めようとせず、主のことばを信用せず、どうせ…とたかをくくって神を畏れない、そのような傲慢な態度とことばは、神の民とは思えないものです。その彼らはさばきに遭うときにも、何のために主はこれらのことを私たちにしたのか…と言う始末で(19節)、自分たちのうちに罪の自覚がないのです。しかしそんな彼らに対しても主は、「わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない(滅ぼし尽くすことはない:2017訳)」と再び(4:27)言われるのです。ここに、人には到底計り知れない、主の深い愛とあわれみがあります。私たちもかつては、神を認めない、身勝手で傲慢な者でした。しかし、神は一人の正しい人、イエス・キリストを世に遣わし、その方の十字架の身代りの死によって、私たちの罪を赦し、贖い、神の民、信仰によるアブラハムの子孫としてくださったのです。その私たちもときに、どうせ…と主を侮り、不信仰な思いに支配されてしまいますが、神は決して、侮られるような方ではないのです(ガラ6:7)。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて」(伝12:13、新共同訳)。自らの罪深さと小ささを覚えつつ、愛とあわれみに満ちた主、すべてを統べ治められる偉大な神の前に、へりくだって歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 4章19-31節◇(9月23日)

「まことに、主はこう言われる。『全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない』」…エレミヤ4:27(新改訳2017)

私のはらわた、私のはらわた、私は痛み苦しむ(悶える:2017訳)…とエレミヤは告白しています。それは、角笛を吹き鳴らし、戦いの雄叫びを上げながら襲来する敵の軍勢によって、祖国が荒らされ、踏みにじられてしまうからです。エレミヤは祭司として、すべての民に代わって、そのような断腸の思いを吐露しているのです。エレミヤはさらに、主がもたらされるわざわいを幻として見せられましたが、その悲惨な状況が23節以降に描かれています。地は茫漠として何もなく、天には光はなく、山々は揺れ動き、人の姿はなく、鳥も飛び去り、町々は主の燃える怒りによって、打ち壊されていました。それはまるで、この世界の創造における、混沌とし、光がなくやみに満ちた、最初の状態のようであったのです。そしてその光景は、ユダの滅亡だけでなく、この世の終末、神の裁きを暗示するものであったと考えられます。そのような中での主のことばが心に留まります。「ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」と、主は言われたのです。人々を呑み込む洪水の中でも生き延びた、ノアと彼の家族のことが思い起こされます。それは神の恵みとあわれみによることであり、主は、ご自身が創造された世界を、本来のあるべき姿に回復させるために、みこころにかなう者たちを生かして、用いられるのです。私たちもまた、イエス・キリストという、神が備えられた箱舟に乗せられ、罪の洪水が渦巻く中、救い出された者です。そしてそれは、そのようにして贖われた私たちが、やがて来る終わりの日に神がこの世をさばき、すべてが良かった初めの世界を再創造されることを覚えつつ、神が遣わされたキリストにある救いを、人々に伝えるためであるのです。そのために選ばれ生かされていることを感謝し、委ねられた主の働きを忠実になしていきたいと思います。

主の祝福を押し流す者とされますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 4章1-18節◇(9月22日)

「まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。『耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。…』」…エレミヤ4:3-4

主は、ユダの人々、エルサレムの住民に対して、耕地を開拓せよ、心の包皮を取り除けと命じられました。それは、そうしなければ5節以下に書かれているわざわいが現実のものとなるという、警告のことばです。畑を耕せ、いばらの中に種を蒔くな…。主イエスが話された、良い地に蒔かれた種のたとえが思い起こされます。そこでは主ご自身が、種とは神のことばであり、いばらとはこの世の思い煩いと富の誘惑のことだと言われていますが(マタ13:22、2017訳)、エレミヤへのことばにおいても、種とは神の教え、民への祝福の契約であり、いばらとは偶像の神、異教の神々を慕おうとする誘惑のことです。14節にも「心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか(よこしまな思いを宿らせているのか:2017訳)と書かれています。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け…。民は、割礼を受けていました。生まれてから8日目に、すべての男子は、性器の包皮の肉を切り捨てなければならない、それはわたしとあなたがたの間の契約のしるしだと、主はアブラハムに言われたからです(創17:11)。しかし、主がそのときエレミヤを通して求められたのは、「心の割礼」(申10:16)であり、目に見える単なる身体的な意味での割礼ではなかったのです。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩51:17)。偶像とはすなわち、神以外のものに心寄せ、神よりも大切なもの、頼みとする私たちの思いです。そのような邪念、よこしまな思いであるいばらを取り除いて悔い改め、また、心の内のさまざまな思いを包み隠す包皮を取り除き、主の前に正直に自分をさらけ出すことを、主はご自身の民である私たちにも願っておられるのです。そのような者とされることを、主に祈り求めたいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 3章◇(9月21日)

「行って、次のことばを北の方に叫べ。
『背信の女イスラエルよ、帰れ。-主のことば-
わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。
わたしは恵み深いから。-主のことば-
わたしは、いつまでも恨みはしない。』」
…エレミヤ3:12(新改訳2017)

主はアッシリアによって国を滅ぼされた北イスラエルを「背信の女イスラエル」と呼び、バビロンによって同じ目に遭おうとしている南ユダを「裏切る女、妹のユダ」と呼んでいます。神とイスラエルの関係は夫と妻との関係であって、妻はよその男に心奪われ姦通した、すなわち異邦人の偽りの神々を慕って拝んだゆえに、離縁状を夫から渡されて家を追い出されてしまったのです。しかし、そんな背信の女イスラエルに対して、夫である神は、「帰れ」と言われるのです。わたしの元に戻って来いと促されるのです。わたしを裏切ったことを赦そうと約束しておられるのです。それは本来あり得ないことであって、恵みに満ちたそのことばに、イスラエルに対する神の深い愛とあわれみを見ることができるのです。「ただ、あなたはあなたの咎を認めよ」(13節、2017訳)。しかしながら主は、イスラエルの背信の罪を見逃し、水に流すと言われたわけではありません。そのことを認めて悔い改め、立ち返る者を、主は赦し、受け入れ、夫と妻としての関係を回復させてくださるのです(14節)。放蕩息子のたとえにおいて(ルカ15章)、その息子は、財産を使い果たして飢え死にしそうになったとき、神と父との前に罪を犯したことを認め、それを父に告白して赦してもらおうと考えて家に帰りました。そして父は、帰って来た息子を見つけると、自ら走り寄って彼を抱きしめ、息子は実際にそのことばを口にしたのです。帰る場所があるということは何と幸いなことでしょうか。私たちもしばしば過ちを犯してしまいますが、「帰れ」という声に素直に応答する者でありたいと思います。

主の恵みを覚えることができますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 2章1-19節◇(9月19日)

「今、ナイル川の水を飲みにエジプトの道に向かうとは、いったいどうしたことか。ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤの道に向かうとは、いったいどうしたことか。」…エレミヤ2:18

イスラエルの民の先祖たちに対する主からの非難が告げられています。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行って、空しいものとなった…と主が嘆かれるように、彼らはエジプトから連れ出され、実り豊かな地に導き入れられたのにもかかわらず、主を尋ね求めず、その地を汚し、忌み嫌うべきものにしたのです。「湧き水(いのちの水:2017訳)の泉であるわたしを捨てて」(13節)ということばが心に留まります。彼らは愚かにも、その泉の水を飲むことを良しとせず、わざわざ水溜めを掘りました。しかしその水溜めは壊れてしまって、水を溜めることが出来なかったのです。18節には、他国にある立派な大河の水を飲むために、わざわざそこまで出向くイスラエルの民の行動が主に責められています。それは、支援を乞う、あるいは政治的な同盟を結ぶということの象徴的な表現かもしれません。しかしながらそれは、すでに与えられているいのちの水の泉に拠り頼まず、それらの川の水を飲んで生き延びようとする、不信仰で不遜な民の態度であって、神に対する背信の罪にほかならないのです。私たちにも、キリストがくださるいのちの水があります。キリストを信じてそれを飲むなら、渇きは癒され、それは私たちのうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになるのです(ヨハ4:14、7:38)。そのいのちの水の泉がうちにある私たちは、わざわざ水溜めを掘る必要などないのです。掘ってもそれは壊れてしまって役に立たないのです。また、立派に思える他国の大河に心寄せて、その水を飲もうと遠くに出かけてはならないのです。私たちの必要を満たしてくださる主に拠り頼み、主を尋ね求める者は、神の国の豊かな祝福にあずかることができるからです。主を愛し、主に従順に従う者(2節)でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 1章◇(9月18日)

「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主の御告げ─」…エレミヤ1:8

南ユダ王国の預言者エレミヤは、ヨシヤやエホヤキムが王として治めた時代に用いられた器であり、彼の晩年には、バビロンによって国が滅ぼされ、民が捕囚となって連れて行かれるという悲惨な出来事が起こりました。ヨシヤ王の時代のあるとき、主は、祭司であった若いエレミヤに対し、あなたが生まれる前からあなたを知り、聖別し、国々への預言者と定めていたと、その選びとご計画を明らかにし、いよいよ彼を預言者として任命し、王や民衆の前に出て行かせようとされたのです。しかし、主のそのことばを聞いたエレミヤは困惑し、恐れ、私はまだ若くてどう語ってよいかわからない…と、尻込みしました。すると主は、そんな彼を叱咤激励し、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな」と命じ、「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出す」と約束されたのです。主がエレミヤを預言者として遣わす目的、それはユダに警告を与えるためでした。主は、ユダの民が神を捨て、異邦人の信じる偽りの神々にいけにえをささげ、自分たちの手による偶像を拝んでいることに怒りを燃やし、北からバビロンの軍勢を送って国を滅ぼそうとしておられましたが、民がエレミヤを通してそのことを知り、ご自身に立ち返るようにと、願っておられたのです。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハ15:16)。主の選び、主からの召命は、キリストに贖われたすべての聖徒たちにも与えられています。私たちも自らの弱さや足りなさを思い、つい尻込みしてしまいますが、主は、恐れるな、わたしはあなたとともにいてあなたを救い出す、あなたを通してわたしのことばが伝えられ、民がわたしに立ち返るのを願っている…と語っておられるのです。主から委ねられた働きを、忠実に成し遂げる者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 24章36-53節◇(9月17日)

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」…ルカ24:49

エマオへの途上で主イエスと出会った二人の弟子がエルサレムに戻り、事の次第を仲間に話している中、主は突然、弟子たちの真ん中に立たれました。しかし彼らは、それが幽霊だと思って震え上がり、取り乱してしまいました。すると主は、彼らの不信仰を嘆きつつ、十字架にかかったときの釘跡がついた手足を触らせ、なおも半信半疑であった彼らの前で、焼いた魚を食べたのです。弟子たちはようやく、復活の主を認めるようになりました。その後、主は、弟子たちに対して宣教命令を与えられました。罪の赦しを得させる悔い改めを、あらゆる国民に宣べ伝えるために、彼らが主イエスの証人として用いられること、そのためにいと高き所、すなわち天から特別な力が着せられると告げ、それまではエルサレムにとどまり、その力が注がれるのを待ち続けるよう命じられたのです。それは、主が天に昇った後に弟子たちに臨まれるもう一人の助け主、聖霊のことを意味していました。ルカは福音書の続編として、その聖霊の働きを、「使徒の働き」の書においてさらに詳細に記しているのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(1コリ12:3)。私たちはもはやイエスに触ることはできません。しかし確かに、「イエスは主です。私の救い主です」と認め、告白し、救いにあずかることができたのです。それは、聖霊の働きによって、私たちの霊の目が開かれたからにほかなりません。そして聖霊は、今なお人々のうちに働き、「イエスは主です」と告白して救われる者を起こそうと願っておられるのです。主の宣教命令…それは、主に贖われた私たちが、何のためにこの世に存在し、人生において何を目指すべきなのかという問いへの答えです。その主の命令に従う忠実なしもべとして、御霊の力に満たされ、恐れず、大胆に主を証しし、福音を宣べ伝える者とされたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 24章13-35節◇(9月16日)

「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。…」…ルカ24:30-31a

復活された主イエスは、エマオに向かう二人の弟子にも現われましたが、彼らの目はさえぎられていたため、二人はその人がイエスだとはわからず、ただの旅人としか思っていませんでした。そして、会話をしながら3人で歩き続ける中、二人は自分たちの主のことを語りましたが、彼らはイエスのことを、「行いにもことばにも力のある預言者」、「イスラエルを贖ってくださるはずだ(解放する方だ:2017訳)」と説明したのです。また、そのイエスがよみがえったと仲間の女性たちから聞いたことについても、二人は事実として受け取ってはいませんでした。そんな二人を主イエスは、「ああ、愚かな人たち…心の鈍い人たち」と言って嘆かれました。そして、聖書全体からご自分についてのことばを彼らに説き明かし、さらに家に入って一緒に食卓につき、パンを裂いて二人に渡しました。するとそのとき、ようやく彼らの目が開かれ、二人は、その旅人が自分たちの主であるとわかったのです。また、それまで二人はイエスを、人間的、地上的な存在だと誤解していましたが、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」というルカのことばは、二人がイエスを、罪を赦し、救いをもたらす、天から来られたメシアだと、正しく理解したことを示唆しているのです。主が二人とともに食卓につき、パンを取って祝福し、それを裂いて渡されたことは、聖餐式を連想させます。それは言うまでもなく、単なる儀式ではなく、主イエスのみからだと、流された血潮を深く覚えるときであり、墓からよみがえられ、死に勝利された主をほめたたえるときです。そのような主との親しい交わりを持ち、聖書全体から説き明かされるみことばに耳を傾ける中で、私たちの霊の目も開かれていくのです。聖日ごとに礼拝にあずかり、日々時間を取ってみことばを読み、祈り、主と深く交わることの大切さをあらためて教えられます。人の知恵ではなく、御霊の啓示によって、さらに主を深く知る者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 24章1-12節◇(9月15日)

「『人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』」…ルカ24:7

安息日が終わり、日曜日の早朝、香料と香油を準備していた女性たちは、それらを主イエスのからだに塗るために墓へと向かいました。ところが、彼女たちが墓に着くと、入口の石がわきに転がされ、中にあった主のからだがなくなっていたのです。何が起こったのかわからずに途方に暮れていると、二人の御使いが現われ、主はよみがえられたと告げ、ガリラヤにいたときにそのことを予告した主のことばを語りました。すると彼女たちはそれを聞き、確かに主は復活されたのだと理解したのです。一方、弟子たちは、身を守るためにじっと閉じこもっていましたが、墓から戻った女性たちから、イエスがよみがえられたと聞いても、そんなことが起こるはずがないと取り合わず、その話しをたわごととして片付け、まったく信じようとしなかったのです。ふがいない、情けない、弟子として失格じゃないか…。この記事を読んでそう感じるかもしれません。しかし、もし私たちがその場にいたとしたら、おそらく同じように、恐れ、閉じこもり、女性たちをすぐには信用できなかったでしょう。女性たちも、主が語っておられたことばを御使いから告げられ、ようやく、目の前に起こっていることの意味を正しく認識することができたのです。そのように、復活という奇しいみわざを、弟子たちも女性たちも、すぐには信じることができなったこと、そのような弱さがすべての人にあることを、ルカはここで語っています。そして、だからこそ、私たちは、主が語られたこと、神のことばを、日々思い出すべきなのです。みことばは、決して揺るがない、確かな神の約束であって、それをしっかりと受け取らなければ、私たちは、日常の忙しさと世の喧噪の中で、現実に心を奪われ、信仰を失ってしまうのです。主の約束を日々受け取り直し、今も現される主のみわざを待ち望みたいと思います。

霊の目と耳がますます開かれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 23章44-56節◇(9月14日)

「この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。」…ルカ23:51

安息日の前日の金曜日、主イエスは十字架につけられました。太陽の光が失われ全地が闇に覆われる中、午後3時になると主は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と大声で叫び息を引き取られました。そのとき神殿の幕が真っ二つに裂けましたが、それは、人類の罪の贖いが完成し、隔てが取り除かれ、すべての者がキリストにあって神に大胆に近づけるようになったことの象徴でした。この出来事を目撃して、ローマ軍の百人隊長は「本当にこの方は正しい人であった」(2017訳)と告白し、「十字架につけろ」と叫んでいた群衆もみな、胸をたたいて悲しみながら帰って行きました。それがどのような悲しみであったのかは不明ですが、おそらく、「正しい方」を死なせてしまったという良心の呵責であったのでしょう。ところでそのとき、主の弟子たちはいったいどこにいたのでしょうか…。ルカは何も記していませんが、群衆の中に紛れ込んでいたのかもしれません。しかし、そうだったとしても、イエスの仲間だと指摘されることを恐れて、彼らはびくびくしていたに違いありません。そんな彼らと対照的なのが、ヨセフという議員と、主に付き従った女性たちです。ヨセフはピラトから許可を得、十字架上のイエスのからだを取り降ろし、亜麻布で包み、岩に掘られた新しい墓に納めました。彼は、議員の立場を失うことを恐れず、人の目を気にせず、イエスが説いた神の国の実現を切望し、自分に出来ることをしたのです。女性たちもそうです。主のからだに塗る香料と香油を用意して、安息日が開けるのを待ったのです。どのような状況においても、主を愛し、慕い求め、人がどうであれ、自分に示されていること、できることを忠実に行う…。それは、私たちにも求められているのです。神の国の実現のために、労する者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 23章13-25節◇(9月12日)

「すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」…ルカ23:25

ピラトは群衆と宗教指導者たちを呼び集め、イエスを取り調べても死刑に値するような悪事はしていないことがわかった、それはヘロデも同じである、よって私はむちで懲らしめた上で、彼を釈放すると彼らに告げました。しかしそれを聞いた彼らは逆上し、その男を殺せ、バラバを釈放しろと大声で叫び、しつこく要求し続けました。祭りのたびに群衆が望む囚人をだれか一人赦免することが、慣例となっていたからです(マタ27:15)。そのバラバとは、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた者であったと、ルカは繰り返し述べています(19,25節)。結局、ピラトは彼らの要求を認め、バラバを釈放し、代わりにイエスを引き渡して、彼らの好きなようにさせました。ピラトは、この騒ぎが暴動へと発展し、自分がその責任をローマ政府から問われ、総督の地位を追われることを恐れたのです。だから、イエスが無罪だとわかっていたにもかかわらず、保身のために彼らの言いなりになったのです。また、群衆は祭司長たちに扇動され、自分たちの国の占領者であるローマ帝国への不満も相まって、感情のおもむくままに行動したのです。一方、突然釈放されたバラバは、いったいどんな思いだったのでしょうか。まったく予期していかったこと、本来あり得ないことに戸惑いを感じたに違いありません。そしてそのバラバは私たち自身のことでもあるのです。暴動を起こさず、人を殺していなくても、神に背を向けて身勝手な歩みをしていたということにおいては、すべての人が神の前に罪人であるのです。しかしその私たちは、イエスが十字架にかけられて殺されることと引き替えに、特別に赦免され、死刑を免れることとなったのです。それは、本来あり得ないことであって、神の一方的な愛と恵みのみわざなのです。そのことを覚え、救い主なる神に、感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 23章1-12節◇(9月11日)

「するとピラトはイエスに、『あなたは、ユダヤ人の王ですか』と尋ねた。イエスは答えて、『そのとおりです』と言われた。」…ルカ23:3

主イエスはユダヤ総督ピラトのもとに連れて来られました。23章には、群衆、祭司長と律法学者たち、ピラト、ローマ兵士、ヘロデが登場しますが、主イエスと関わったそれらの者たちには、それぞれの思惑があったのです。民衆からの人気があり、自分たちのあり方を批判するイエスを苦々しく思っていた祭司長や律法学者たちは、何とかイエスを消し去ろうと企んでいました。彼らのうちには強い嫉妬心と敵対心があったのです。また、ローマ政府から、ユダヤ全体を統轄するための総督とされたピラトにとって、群衆が暴動などを起こさないようにし、自分の立場を守ることが最大の関心事でした。一方、ローマの属国としてのユダヤの王ヘロデ(幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王の孫)は、イエスへの単なる好奇心から、何かの奇蹟を見たいと考え、さまざまな質問をしたのです。そこには人間的な関心しかありませんでした。そのような者たちとの関わりにおいて、主イエスは冷静かつ毅然とした態度を持ち続けました。興味本位のヘロデの質問には答えず、彼と兵士たちから嘲弄されても、それをやめさせようと、神の力を行使することはなかったのです。ゲッセマネでの祈りの中で、父なる神に従い、「杯を飲む」ことを決意された主は、十字架へ向かう道を、一歩一歩進んでおられたのです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)。私たちがそのように主に従おうとするとき、さまざまな誘惑や妨害がやって来ます。しかし、それが神のみこころ、神の願いであるゆえに、私たちは、主イエスの御名の権威によって、毅然とした態度でそれらを退け、主に従い続けるべきなのです。自分のがんばりではなく、御霊の力と助けによって、主の備えられた道を、一歩一歩進んで行きたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。 

◇聖書箇所: ルカの福音書 22章54-71節◇(9月10日)

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。」…ルカ22:61

捕らえられた主イエスのことが心配になり、遠く離れてこっそりついて行ったペテロは、大祭司の家の中庭にいた人たちから、あなたもイエスの仲間だと指摘されると、いや違うと、三度そのことを否定しました。それは、主がペテロに予告していたとおりのことであり(34節)、あなたと一緒なら死であろうと覚悟はできていると豪語していた(33節)ペテロにとって、屈辱的なことであり、自分が主の弟子として失格であると認めざるを得ない出来事でした。彼は中庭から外に出て、激しく泣いたと書かれています。ペテロがそのように失態を演じたとき、主は振り向いて彼のことを見つめられましたが、その主のまなざしはどのようであったのでしょうか…。おそらくペテロは、自分がしたことの重大さを思い、主から責められているようにしか感じなかったでしょう。あるいは彼は、気が動転していて、自分を見つめる主のまなざしに気づかなかったかもしれません。しかし、ペテロの弱さを知っておられた主のそのまなざしは、「わかっているよペテロ…」という、愛とあわれみに満ちたものであったに違いないのです。なぜなら主は、ペテロの信仰がなくならないようにと、彼のために、すでにとりなして祈っておられたからです(32節)。その主のまなざしは、私たちにも向けられています。主は、私たちの弱さや足りなさをご存じであられ、信仰がなくならないように、父なる神の右の座において、私たちのためにとりなし続けてくださっているのです(ロマ8:34)。愛に満ちた主のそのまなざしの中、たとえ主の道からそれてしまうようなことがあっても、自分はだめだと責めたり落ち込んだりすることなく、罪を言い表して立ち返り、赦され、主に従い続けるべきなのです(1ヨハ1:9)。主がそのように願っておられることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 22章39-53節◇(9月9日)

「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』」…ルカ22:42

主イエスはオリーブ山に行き、父なる神との親密な交わりを持たれました。祈りという対話により、自らの願いや思いを父に伝えると同時に、父の思いを知りその御旨がなるようにと、すべてを明け渡そうとされたのです。具体的には「杯」、つまり自分がかかることになる十字架の苦しみを思い、願わくばそれを取りのけてほしい、しかし父の御旨が優先されるようにと祈ったのです。それは主にとって、激しい葛藤、大きな戦いの時でした。イエスは苦しみもだえて、汗が血のしずくのように地に落ちたと記されています(44節)。そこは「ゲッセマネ」という場所で、オリーブの実を押し潰し、油を搾り取る作業場があったことからそう呼ばれていましたが、そのとき主イエスはまさに、自分が押し潰され、父が願う純粋な油が搾り取られることを、願っておられたのです。一方、そこで主と一緒に祈っていた弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまっていました。その悲しみが何を指すのかは書かれていませんが、主が予告されていたご自分の死が(ルカ18:32-33)、現実のものとなりつつあることを悟ったゆえの悲しみであったに違いありません。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と、主が弟子たちに繰り返し語られたことばが心に留まります(40,46節)。ここでのその「誘惑」の意味とは、神のみこころよりも自分の思いどおりになるよう願う心のあり方です。荒野において悪魔からいくつかの誘惑を受けた主イエスが、神のみこころをみことばによって宣言し、その誘惑を退けたことが思い起こされます(マタ4:1-11)。また、主は弟子たちに、「みこころが天でおこなわれるように地でも行われますように」と祈るよう教えられたのです。祈りによって神の助けを求めなければ、弱い私たちは、そのような誘惑に陥ってしまうことを、あらためて教えられます。絶えず目を覚まして、祈り続ける者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 22章24-38節◇(9月8日)

「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」…ルカ22:26

弟子たちは、自分たちの中でだれが一番偉いのだろうかと議論しました。どのくらい弁が立つか、何人の人をイエスの御名でいやしたか、何回主から声を掛けられる場面があったか…。彼らはそのような人間的な基準により、ああだこうだと主張し合っていたに違いありません。すると、主イエスは彼らに、一番偉い人は一番若い者のようになり、上に立つ人は給仕する者のようになりなさいと言われたのです。一番若い者は、年上の者たちからの命令や依頼を、忠実に遂行することが求められます。そのことに文句を言わず、絶えず自分の立場をわきまえて行動するのです。それが一番偉い人だと言われても、弟子たちにはピンと来なかったでしょう。そのあり方が、この世の価値観とは正反対のものであったからです。主はさらに、食卓につく人と給仕する人者のどちらが偉いのか…わたしはあなたがたのうちにあって、給仕する者のようにしている…と言われました。過越の祭りの前に、弟子たちの足を洗って手ぬぐいで拭かれた主の姿が思い浮かびます(ヨハ13:1-11)。仕える者となるには、へりくだって自分を低くすることが求められます。そして、人からの評価や賛辞ではなく、神に喜んでいただくことを願いとする者こそ、仕える者、主の目に偉い者なのです。私たちは、人々の間で偉くなりたいとは思わないかもしれません。しかし私たちは、人々から自分の存在を無視されれば憤慨し、許せない…と思ってしまうのです。私たちは、自分がキリストに贖われた聖徒であり、主の弟子、しもべとして生かされているということを常に覚えるべきです。そして何よりも、主からの賛辞を受けることを願い、主のあり方に倣い、神と人々とに忠実にへりくだって仕えるべきなのです。御霊の助けと導きのうちに、ますますそのような者として歩みたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 22章14-23節◇(9月7日)

「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」…ルカ22:16

「最後の晩餐」と呼ばれて多くの人に知られている出来事が書かれています。しかし、それが単なる晩餐ではなく、「過越の食事」であったことに大きな意義があることを、あらためて教えられます。主イエスは、その過越の食事を、ご自身の十字架の苦しみの前に弟子たちとともにすることを、切望していたと語られました。それは、イスラエルの民が、奴隷として虐げられていたエジプトから解放されたことを祝う過越の祭りが、ご自身の十字架によって、罪の奴隷として苦しんでいるすべての国の民が贖われるという、霊的な解放を祝う新しい意味合いを持つものとなるからです。「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」とも主は言われました。過越とは、ほふられた羊の血が2本の門柱と鴨居に塗られた家を主が「過越され」、そうでない家の初子はすべて主に打たれて死ぬという、出エジプトの際に起こったわざわいを指していますが、主がそのとき言われた過越とは、ご自身の血によって贖われた聖徒とそうでない者とを区別し、聖徒たちだけを神の国の民として加えるという、やがて終わりの日に起こる、神のさばき、新しいエルサレムの実現を意味しているのです。その新しいエルサレム、聖なる都において、聖徒たちは、都の大通りの中央を流れるいのちの水の川の両岸にある、いのちの木の実を食べ、また、渇きをいやすいのちの水を飲む者とされます(黙22:2,14,17)。教会は、2千年の歩みにおいて、主ご自身が定められたものとして、聖餐式を堅く保持していますが、それは主が再び来られて審判をなさる、その終わりのときまで続けられるのです(1コリ11:26)、私たちもまた、その意義を覚え、自らの出エジプト、罪の奴隷からの解放の感謝と、やがて迎え入れられる都での食事への期待をもって、その聖餐にあずかりたいと思います。

感謝と喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 21章20-38節◇(9月5日)

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」…ルカ21:36

「終わりの日」についての主イエスのことばの続きです。神の都であるエルサレムが軍隊に囲まれ、人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれます。また太陽、月、星に何らかの前兆が現われ、海と波は荒れどよめき、人の子、すなわちキリストが、力と栄光を帯びて、雲に乗って再び地上に来られるのです。そこには、アブラハムの子孫、神の民であるユダヤ人たちを始め、すべての国々の民が、神の御旨からはずれた歩みをし続け、ご自身に立ち返ろうとしないことへの神の怒りがあります。それは、そのようなかたくなな心を持った、地上に住むすべての人にたちに対する(35節)、神の審判の日なのです。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、その審判によって人類が滅びることのないよう、ご自身のかけがえのないひとり子を世に遣わし、そのイエス・キリストは、十字架にかかってご自身のいのちをささげ、3日目に墓からよみがえり、贖いのわざを成し遂げてくださったのです。その良き知らせは、神のことばとして聖書に記され、私たちに与えられています。それは、必ず成就する神の約束であって、そのことばは、人のことばとは異なり、決して滅びることがない、永遠に立つものなのです。その終わりの日が近づいている今、私たちは、キリストに贖われた者として、主の道から外れてしまわないよう油断せずに祈り続け、主の前に立つことができるよう自分自身を吟味することが求められています。そして、神のことば、キリストにある救いを人々に伝え、証しするために、神のご計画の中で、それぞれのところに遣わされているのです。そのことを覚えつつ、主から委ねられている働きを、遅滞なく行う者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 21章1-19節◇(9月4日)

「どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」…ルカ21:15

宮の荘厳さや美しさに感嘆している人々に向かって主イエスは、今見ているこの宮が崩れ去る日がやがて来ると言われました。すると彼らは、それはいつ起こるのか、どんな前兆があるのかと尋ねました。マタイやマルコによれば、その人々とは弟子たちであり(マタ24章、マル13章)、主は、そのように見えるものに心奪われている彼らを、戒めようとされたのです。その問いに対する主イエスの答えが、8-36節に書かれています。天と地が新しくされ、神に認められた義人とそうでない者たちとが分けられて審判を受ける、その「終わりの日」について、主は彼らに告げられたのです。戦争、暴動、大地震、疫病、飢饉…。それらが終わりの日の前兆であると主は言われました。それらのことはすでにこの世界において起こっています。しかし、主はまた、だからといって終わりはすぐには来ない、それらの前に迫害が起こり、あなたがたが人々に証しをするための機会となる、そしてそのときに弁明することばは、わたしがあなたがたに与える、と言われたのです。終わりの日がいつ来るのか…私たちはそのことについてあれこれと考えたり、それがわからないといって恐れてはならないのです。その聖徒たちへの迫害のときに主から与えられる証しのことばは、どんな反対者も反論できないものであり(15節)、また、主の名のためにすべての人から憎まれても、髪の毛一本さえ失われることのないよう、主が守ってくださると約束されているからです(18節)。私たちにとって大切なことは、終わりの日がいよいよ近づいたと思われる状況になっても、恐れず、慌てふためかず、ますます主に信頼し、主との繋がりを強固にしていくことです。そして目に映る事象の背後にある真の意味を見抜く霊の目と、どう弁明するか、主の語りかけを聴く霊の耳を整えることなのです。主に祈りつつ、そのため備えをしっかりとしていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 20章27-47節◇(9月3日)

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」…ルカ20:38(新改訳2017)

復活を信じていないサドカイ人たちが、主イエスのところに来て質問しました。7人兄弟の長男が妻をめとり、子どもがないままで死んだため、モーセの律法に従って次男、三男…と兄弟が代わりにその妻をめとっても、結局7人とも死んで妻も死んだ場合、復活したその妻はだれのものになるのかという、仮定の話の問いです。そこには、イエスが答えに窮するのを期待し、自分たちの神学的主張を認めさせようとする彼らの狙いがあったのです。それに対して主イエスは、復活するのにふさわしいとされる者が入る次の世では、そもそも、今のこの世と同じような営みがなされるわけではなく、そこではめとることも嫁ぐこともないのだと答えられました。復活や次の世、すなわち天の御国についてのサドカイ人たちの理解は、根本的に間違ったものであったのです。主のその答えからあらためて教えられること…それは、死人の中から復活するのにふさわしいと神から認められる人々が、確かに存在するのだ、ということです。その者たちとは、生きている間にイエス・キリストを救い主として信じ、罪を赦されて贖われた人々であり、神がキリストにあって、義なる人と認められた人々なのです。そしてその復活する義人たちは、もう2度と死ぬことがなく、永遠のいのちが与えられ、神の子どもとされて、神とともにとこしえまで生きることになるのです(36節)。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である…。主イエスはそのようにも言われました。神にとっては、生を与えられて生きているすべての者が、そのように、キリストにあって義と認められ、永遠に生きるようにされるべき者であって、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ」るのです(1テモ2:4)。復活の希望をしっかりと持ち、主の再臨を待ち望みつつ、神が救おうと切望しておられる人々に、いのちのことば、御国の福音を伝えていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 20章20-26節◇(9月2日)

「すると彼らに言われた。『では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」…ルカ20:25

主イエスにやり込められた律法学者や祭司長たちは、今度は自分たちの代わりに回し者を使ってイエスに質問させ、その答えのことばじりをとらえて総督に訴え、イエスを自分たちの前から消し去ろうと企みました。その回し者たちは、イスラエルの民衆がカイザルへの税金を納めることの是非を主イエスに尋ねました。それは、納めるべしと答えれば、イエスのことを、神よりもカイザルを第一とする不敬虔な者だとし、拒むべしと答えれば、カイザルを認めずローマ帝国に反逆する者だとして訴えようとする、罠であったのです。ところが、その質問に対する主の答えは、彼らを驚嘆させ、黙らせるものでした。主イエスは、彼らも使っているデナリ銀貨の肖像と銘がカイザルのものだと認めさせた後、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、と告げたのです。それはすなわち、両者は決して対立するものではなく、神の絶対的な主権のもとにカイザルが立てられ、平和がもたらされ、社会的な秩序が保たれ、人々は安心して暮らすことができるのであって、そのカイザルに税金を納めることは当然の義務なのだ、それによって神を敬わないことにはならない、という主張です。「…すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです」(1テモ2:1-2)。神は、私たちがとりなし手として、国の指導者が神の御旨にかなう者となるよう、守りと祝福を祈ることを願っておられます。それは神の介入を求める霊的な対応であって、人間的な手段による訴えより意義あることなのです。難局が続く今こそ、そのとりなしの声を上げていきたいと思います。

信仰をもって祈り続けることができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 20章1-19節◇(9月1日)

「イエスは、彼らを見つめて言われた。『では、「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。」と書いてあるのは、何のことでしょう。』」…ルカ20:17

9-16節に「悪い農夫たちのたとえ」が書かれています。主人からぶどう園を借りた農夫たちは、収穫の分け前を主人のしもべが取りに来るたびに袋叩きにし、4人目として主人の息子が遣わされたときは、主人の財産を分捕ろうと企んでその息子を殺害したのです。怒った主人は彼らを打ち滅ぼし、ぶどう園を別な者たちに与えました。そのたとえにおける主人とは神であり、農夫たちとはイスラエルの王や祭司などの指導者たちです。また主人に遣わされたしもべとは預言者たちであり、主人の息子とは、主イエスご自身のことです。主は、何の権威によって主の宮で教えているのかと非難する祭司長や律法学者たちが主導し、ご自身を十字架につけて殺すこと、また、神の国の祝福がユダヤ人だけでなく異邦人にももたらされることを、このたとえにより示しておられたのです。そのたとえを聞き、そんなことがあってはならない…と憤慨している民衆を見つめ、主は、詩篇118篇22節のことばを語り、それは何のことなのかと尋ねられましたが、「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、たとえにおける、農夫たちに殺された主人の息子、つまり、主イエスご自身のことであり、宗教指導者たちに扇動された民衆が、「十字架につけろ」と叫んで主を見捨てるようになることを、主は預言的に語っておられたのです。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石(要の石:2017訳)となった」。礎とは建物の基礎、土台です。建つ家がどんなに立派でも、その礎石、要石が不完全なら、家は地震や強風で傾いて、倒壊してしまうのです。またその石は、人々を砕いて飛び散らす存在、罪人の審判者として再び来られるのです(18節)。そしてそれは、必ず実現するのです。異邦人である私たちがキリストにあって贖われていることを感謝しつつ、イスラエルの民や日本の人々の救いのために、引き続きとりなしていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。