◇聖書箇所: 詩篇 89篇38-52節◇(12月31日)

「主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。」…詩篇89:49

38-51節ではそれ以前の部分と調子ががらっと変わり、主が油注がれた者に向かって激しく怒っているという、詩人の訴えが書かれています。34節には契約を破らないとの主の約束があるのに、39節では詩人が「あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し」と言っており、読者は38節以降のことばに困惑してしまうのです。しかしそれはあくまで、詩人がそう受け取って主に訴えているのであって、神はもちろん、契約を廃棄される方ではありません。詩人が言う「彼」とは、ダビデの家から出た王であり、その治世のときに、ここに書かれているような苦難が起こったのでしょう。40節は、バビロンによるエルサレムの陥落を指しているのかもしれません。詩人はそのように自分の思いを吐き出した後、主がダビデと結ばれた契約が不滅であることを思わされ、あらためて主の恵みとあわれみを求め、「主よ、心に留めてください」と、すがりつくようにして祈ったのです(50節)。主は苦難の中で神を非難したヨブに言われました。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ」と(ヨブ40:2)。するとヨブは、「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と答えました(ヨブ42:6)。52節は唐突であり読む者は違和感を抱きます。しかし、詩人もまた、ヨブと同じような体験をし、主に立ち返り、「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン」という告白に導かれたのです。私たちはどうでしょうか。今年一年の歩みを振り返るとき、喜べないこともきっとあるでしょう。しかし自分の思いで神に不平を言って一年を終えるのではなく、主が真実であり、変わらないお方であることを覚え、神が良くしてくださったことを忘れず、主に賛美をささげる者、すべての栄光を主に帰す者でありたいと思います。

ただ主の御名だけがあがめられますように。

◇聖書箇所: 詩篇 89篇19-37節◇(12月30日)

「わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。わたしの契約は彼に対して真実である。」…詩篇89:28

詩篇89篇には、ダビデとその子孫に対する祝福が書かれていますが、それは、神がダビデとの間に結ばれた契約に基づいています(3,28,34節)。神は、ご自身のみこころにかなわないサウルに代わる者としてダビデを選び、サムエルを通して彼に油を注いで王とされたのです。神はダビデを祝福されました。主の御手がいつも彼の上にあったので、敵が害を与えることはなく(21-23節)、ダビデは主を、わが父、わが神、わが救いの岩と呼び(26節)、彼は地の王の中で最も偉大な王とされ、さらにソロモン、レハブアム…と、その子孫、ダビデの家から、王になる者が次々に起こされていったのです。しかし、そのダビデのすべての歩みが、主のみこころにかなっていたわけではありません。彼は、ウリヤの妻バテ・シェバを自分のものとするため、ウリヤが戦いの最前線に出るように仕向けて戦死させ、姦淫の罪を犯したのであり(2サム11章)、またダビデの家系として、その先祖には、遊女であったラハブや異邦人であったルツの名が加えられているのです(マタ1:5)。そのように、神が選ばれ、契約を結ばれたダビデとその家は、決して罪とは無縁な、純血の家柄ではなかったのです。そして神はやがてそこからヨセフを選び、いいなづけのマリアの胎に、イエス・キリストを宿らせたのです。そのキリストが十字架にかかって流された血による新しい契約によって、罪からの救いが全世界の人々に対してもたらされ、その良き知らせ、福音は、やがてこの日本にも届けられました。そして多くの迫害の中にあってもそれは語り継がれ、時至って、私たちはそれを聞き、信じて救われ、神の民として加えられたのです。あらためて、主の恵みと真実を思わされます。「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない」(34節)。そのように言われる真実な主の御手の中で、恵みとあわれみによって日々生かされていることを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 89篇1-18節◇(12月29日)

「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」…詩篇89:1

詩篇89篇には、「恵み」とともに、「真実」あるいは「まこと」ということばが繰り返し使われています。詩人は、神がいかに恵み深く、真実なお方であるかを覚えて、最初からその神をほめたたえているのです。神が真実であるとは、神が不変であることを意味します。世が移り変わろうとも、信頼していた人に裏切られたり失望したとしても、、神は決して変わることなく、私たちが信頼するのに値する、唯一のお方なのです。神が真実であるとはまた、神がすべてをご存じであり、隠されていることを明らかにされるということを意味します。神は、どんなときにも偽りがない、聖であり義であるお方なのです。14節には、「義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます」とあります。神が真実であるとはさらに、ご自身の民に対しても真実であるよう求められるということを意味します。とは言え、罪深く弱い私たちは、本質的に不真実な者であって、のような私たちが真実な歩みをするためには、何よりも真実である神に全幅の信頼を置き、主のみ教えに従い、主の光に照らされることが必要なのです。15-16節には、「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます」と書かれています。パウロもこのように言っています。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(2テモ2:13)。不安定で不確実な時代にあって、揺るがない土台であるイエス・キリスト(1コリ3:11)にますます拠り頼み、まことの光(ヨハ1:9)に照らされて歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 88篇◇(12月28日)

「私の目は悩みによって衰えています。主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。」…詩篇88:9

苦悩に満ちた詩人のことばが続いています。「私のたましいは、悩みに満ち…」(3節)、「あなたは私を最も深い穴に置いて…」(6節)、「あなたの激しい憤りが私の上にとどまり…」(7節)。そしてその状況は、神が自分を怒り、さばいているからだと、詩人は感じているのです。詩人が自分の罪を自覚している様子はありません。ヨブのように、そのことが余計に詩人を苦しませています。しかしいずれにしても詩人は、その苦悩の中にあって、ひるまず、投げやりにならず、神にしがみつくようにして、昼も夜も、神に叫び、訴えているのです(1節)。「なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠されるのですか」…と、神に率直に問いをぶつけているのです。そのような姿勢…それは詩人が、すべてのことが主権者なる神の支配のもとにあることを信じているからです。そして、自分の身に起こっていることが、たとえ喜べない状況であっても、なぜだかわからなくても、神には何らかの計画、意図がある…と、認めているからなのです。「しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます」(13節)。「しかし」と、詩人は神に食らいついています。ヤコブが「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言って神の人と夜明けまで格闘した記事(創32:24-26)や、主イエスが、真夜中に友人の家を訪ねてパンを貸してくれと頼み続ける者のたとえを話されたこと(ルカ11:5-8)が思い起こされます。主はその後、弟子たちに、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われました(ルカ11:9)。神に祈り求めることにおいて、私たちに「粘り強さ」が必要なことを教えられます。神の前に遠慮は無用です。キリストにあって、大胆に主に近づき、求める者でありたいと思います。

試みの中でも心とたましいが守られますように。

◇聖書箇所: ホセア書 13章◇(12月26日)

「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」…ホセア13:14

ホセア13章ではエフライム(イスラエル)の偶像礼拝の罪が再び指摘され、ご自身の民に対する神のさばきが宣告されています。「朝もやのように…露のように…もみがらのように…煙のように…」と4つの比喩が使われ、彼らが消え去り、吹き散らされるさまが語られています。そのような文脈の中、14節の解釈が二分しています。わたしは彼ら(イスラエル)を死から贖うだろうか…死よ、おまえのとげと針はどこにあるのか、早く彼らを滅ぼしてしまえ…というさばきと取る見方と、逆に、私はそんな彼らをよみの力から贖い出す…死のとげもよみの針も無力にされる…という祝福の約束と取る見方です。そのみことばを、パウロは引用して語っています(1コリ15:55)。そこでは、主イエスが再び終わりの日に来られ、サタンに対する最終的な勝利を打ち立て、眠っていた聖徒たちがよみがえり、栄光のからだを与えられて永遠に生きる者とされる…という意味で用いられています。彼が逆の意味として引用することは考えづらく、ホセア13:14のことばは、主の愛とあわれみに基づくイスラエルの救いの使信であり、そこにキリストによる贖い、死と悪魔の最終的な敗北が預言されていると考えられるのです。私たちもまた、神に背を向け、「偶像」に心を寄せていた者でしたが、そのような私たちが罪によって滅びてしまうことがないように、死の力から解放し、永遠のいのちを与えるそのために、神は御子をこの世に遣わしてくださったのです(ヨハ3:16)。ホセア書の最後の14章には、「あなたの神、主に立ち返れ」(1節)、「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ」とありますが(4節)、いま主は、すべての人が、キリストにあってご自身に立ち返るよう願っておられるのです。神が備えてくださった救いを感謝し、人々にそれを伝える者でありたいと思います。

救いの喜びに満たされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 2章39-52節◇(12月25日)

「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」…ルカ2:52

「知恵に満ちていった」(40節)、「イエスの知恵と答えに」(47節)、「イエスはますます知恵が進み」(52節)と、ルカは、少年イエスが肉体的、精神的、霊的に成長し、知恵に満ちた者となっていったことを繰り返し述べています。人々はイエスのその知恵に驚きましたが、両親が驚いたのは、12歳になった息子のイエスが、自分たちとは別行動を取り、ガリラヤの家に帰ろうとせず、大人の教師たちに混じって宮で議論をしていたという、イエスの「独立心」であり、彼らは、自分たちと息子の間の距離が開いていっていることを、そこに感じ取ったのです。イエスの知恵…それは、神のことばを説き明かし、真理を明らかにする賜物を意味していますが、それはどのようにして与えられたのでしょうか…。そもそもイエスは神の子なのだから、そのような特別な能力を持っていて当然だと考えることもできます。しかしルカは、「神の恵みがあった」、「幼子は成長し」、「神と人と愛された」と、むしろイエスの人間性を強調しているのです。イエスの知恵…それは、両親の元で育てられつつも、天におられる神を「アバ、父」と呼び、父を愛し、父の愛を受け、父との親密な交わりを絶えず深く持つ中で与えられたものに違いありません。そしてそれは、イエスが宮で両親から見つけられたとき、「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」と言った(49節)そのことばが示唆しているのです。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラ4:6)。神は、すべての聖徒たちが、霊的に成長し、知恵に満ちた者となり、神の国の福音を、みことばの真理を、人々に分かち合う者となることを願っておられます。そのために、ますます主との交わりを深め、神を知るための知恵と啓示の御霊(エペ1:17)に満たされ、イエスのように、神と人とに愛される者、そして、神と人とに仕える者とされたいと願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 2章22-38節◇(12月24日)

「『…御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」…ルカ2:31,32

エルサレムにシメオンという人がいました。彼は敬虔な人で、聖霊が彼の上にとどまっていました。そのシメオンが宮に入ると、ちょうどそこにヨセフとマリアが、律法に従って主にささげるために、幼子イエスを連れて入って来ました。すると彼は両親に頼み込み、幼子を抱かせてもらいながら、神をほめたたえてこう言ったのです。「御救いはあながた万民の前に備えられたもの…異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄…」。万民とは、すべての人々、つまりイスラエルの民だけでなく、世界中のあらゆる国々に住む者たちのことです。神は、イエスを全人類のために、救い主として遣わしてくださった…。そしてイエスは、まことの神を知らず、真理を求めてやみの中でもがき苦しんでいる異邦人をもあわれみ、イエスを啓示の光として用いてくださる、ご自身が備えられた救いの中に導き入れてくださる…。そのメシアがダビデの家から出ることは、イスラエルにとって誉れ、光栄なことだ…と、シメオンは告げたのです。しかしそれは、当時のイスラエルの民がまったく想定していない見方でした。シメオンが語るそのことばを聞いて、イエスの両親が驚いたのも無理はありません(33節)。なぜならイスラエルの民にとって、異邦人は汚れており、一緒に食事をすることも避けるべき存在であったからです。彼らはメシアの到来を待ち望んでいましたが、それは、ローマの圧政から自分たちを解放してくれる強いリーダーを期待してのことであったのです。キリストはそのような政治的な王ではなく、悪しき勢力に勝利し、主権をもって世界を統べ治める、御国の王として来られました。キリストがもたらされた救いは、万民のためのものであって、異邦人である私たちもまた、罪の中から贖い出されたのです。そのことを覚えて主をほめたたえ、さらにそのキリストに、すべての望みをかける者でありたいと思います(ローマ15:12)。

神の国がさらに拡がっていきますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 2章1-25節◇(12月23日)

「『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」…ルカ2:14

「平和」…御使いと天の軍勢が神を賛美して歌った平和とはどのような平和なのでしょうか…。覇権を争う国と国との戦い…、国の中の部族間の内紛…人々の間に起こる日常的ないざこざ…。もちろん神は、それらの中に介入して平和をもたらすことを願っておられ、実際にそのようにしてくださるお方です。しかし、主イエスのご降誕のときに天に響いた歌の「平和」とは、何よりも、神と人との間の平和にほかならないのです。ご自身に似せて造られた人とのうるわしい関係が、アダムの罪によって壊されてしまったことに、神はずっと心を痛めておられました。そしてそれを自ら修復すべく、神はご自身の大切な御子を、仲保者、大祭司、平和の君、救い主としてこの地に遣わし、そのキリストの十字架と復活による贖いによって、神と人との間の和解を実現させてくださったのです。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。神の御心にかなう者、すなわち義人はこの地上にひとりもいません。和解の務めを全うし、人々に救いをもたらすことのできるのは、受肉された神の子、傷のない神の小羊として、自らいけにえとなっていのちをささげてくださった、イエス・キリストのほかにはいないのです。そして「御心にかなう人々」とは、そのキリストを自分の救い主として信じ受け入れる人々であって、その人々の心には、神との本来の関係が回復することによって与えられる、真の平和、揺るがない平安、すばらしい喜び(10節,「大きな喜び」:2017訳)がもたらされるのです。そして主はその聖徒たちを、争いと戦いが絶えないこの世界にあって、平和の君として来られたキリストの救い、和解のことばを人々に宣べ伝える者(2コリ5:19)、神の国の祝福としての平和を受け継ぐ者として、それぞれのところで尊く用いてくださるのです。私たちがそのような平和の使者とされていることを覚えたいと思います。

真の平和がもたらされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 1章67-80節◇(12月22日)

「『…曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。』」…ルカ1:78-79(新改訳2017)

口がきけるようになり、神を賛美し、神がなされたことをあかしした祭司ザカリヤは、今度は聖霊に満たされて、神からのメッセージを人々に伝えるべく預言しました。そのことばは68-79節に記されていますが、そこには、神が永遠の昔から計画され、ご自身の民が背信してもあわれみをもって見捨てず、時至ってメシアを通して実現される、全人類のための救いが語られています。「われらを敵の手から救い出し…」(74節)。その敵とは当時、イスラエルを支配していたローマ帝国、つまり、政治的な意味での特定の国のことではなく、人々を恐れさせ、神に信頼することをやめさせようとする、目に見えない敵、神に反抗する悪しき勢力、悪魔のことです。そして、その敵の手から神の元に取り戻された者たちは、「きよく(敬虔に:2017訳)、正しく、恐れなく」(74,75節)、神に仕えるようにされるのです。そしてそれは、「生涯のすべての日」においてなのです。すなわち、救いにあずかる者たちは、どのような困難な状況に置かれても、絶えず主を畏れ、信頼し、主の御旨にかなった歩みをし、祝福を豊かに受けるようになるのです。「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし…」。主イエスの弟子ヨハネは、その光は、すべての人を照らすまことの光であり、やみの中に明るく輝き、やみはその光に打ち勝つことがきなかったと語っています(ヨハ1:5,9)。その曙の光は、いと高き所から、暗闇と死の陰に住んでいた者たち、すなわちすべての国の人々を照らし、その足を平和の道へと導くために訪れたのです。その光なるメシア、救い主こそ、ザカリヤの子ヨハネが、罪の救いに導く悔い改めのバプテスマを人々に授けて道備えをした、ヨセフとマリアのもとに産まれるイエスにほかならないのです。「平和の道」…それは、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙21:4)、平安と喜びに満ちた天の御国への道です。私たちもまた、その道へと導かれ歩んでいることを覚え、救い主に賛美と感謝をささげたいと思います。

平安と喜びと希望がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 1章57-66節◇(12月21日)

「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」…ルカ1:64

祭司ゼカリヤの妻エリサベツは、男の子を産みました。八日目に、慣習に従って、その幼子に割礼を施すためにやって来た人々は、その子に、父親と同じザカリヤという名をつけようとしましたが、エリサベツはそれを拒み、「ヨハネという名にしなければなりません」と告げました。それは、御使いがザカリヤに現われて、エリサベツは男の子を産む、その名をヨハネとつけよと、事前に命じていたからです。そのザカリヤの口は、御使いが語ったことばを信じなかったために、話すことができなくなっていました。彼は語られたことを筆談によって妻に伝え、二人で祈りつつ、その子の誕生を待ち望んでいたに違いありません。人々は、幼子の名前を何とつけるべきか、身振りでザカリヤにも尋ねましたが、彼が「ヨハネ」と書いて伝えると、夫婦ともにその名を示したことに人々は驚きました。そしてその瞬間、ザカリヤの口は再び話せるようにされ、その口からは神をほめたたえることばがあふれたのです。さらにザカリヤは、自分とエリサベツに主がなしてくださったことの一部始終を、人々にあかししました。すると、それを聞いた人々はみな神を畏れ、そのあかしは、ユダヤの地全体へと拡大していったのです(65節)。不信仰によって閉ざされたザカリヤの口は、そのようにして再び開かれ、今度は神を賛美する口、主のみわざを語り告げる口として用いられました。ひるがえって私たちの口はどうでしょうか…。救いという神のみわざを体験し、主の恵みと祝福のうちに生かされている私たちの口が、不満、嘆き、非難のことばを発する口になっているとしたら、それは神に喜ばれるものではありません。私たちの口もまた、ザカリヤのように、神をほめたたえ、主のすばらしさ、主のみわざの偉大さを人々に語り告げるものとされたいと、心から願います。

主への賛美が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 1章26-38節◇(12月19日)

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』…」…ルカ1:38

御使いガブリエルから、「あなたはみごもって、男の子を産みます」と告げられたとき、マリアはとても驚いたに違いありません。なぜなら彼女は、ヨセフと婚約はしていましたが、当然ながらまだ一緒に暮らしてはいなかったからです。ガブリエルはさらに、その子がいと高き神の子と呼ばれること、ダビデの王位を与えられることなどを告げましたが、マリアはそれらを上の空で聞き、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と御使いに尋ねたのです。すると御使いは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます…神にとって不可能なことは一つもありません」と語り、それが神のみわざであることをあらためて強調しました。そしてそのときマリアの霊の目は開かれ、自分がそのために主に選ばれたことを悟り、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、マリアは自分を主に明け渡して応えたのです。「神にとって不可能なことは一つもありません」。そのみことばが、自分たちの願いが聞かれることの宣言として使われているのを耳にします。しかし御使いがマリアに伝えたのは、神は、人が思うところをはるかに越え、ご自身の計画、御旨を、奇しいわざとして現わされるということであり、その神の主権に対して、人間の側がどう応答するかが問われているのです。そしてマリアは、自分が人からどんな好奇の目で見られるか、ヨセフにどのような思いをさせるか…といった人間的な思い煩いを主に委ねた上で、その迫りに対して全面降伏したのです。私たちも、しばしば想定外のことを体験し混乱します。しかしそれらも、確かに主の御手の中で起こっているのであって、私たちもまた、あなたのみこころ、ご計画がこの身になりますようにと、主の主権を認めてすべてを委ね、自分を明け渡すべきなのです。マリアの信仰と謙遜に倣う者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 1章1-25節◇(12月18日)

「御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。…』…ルカ1:13

あなたの願いが聞かれた…と御使いはザカリヤに告げました。ザカリヤが、妻エリサベツとの間に子が与えられるようにと、主に祈っていたことがわかります。また、エリサベツが身ごもったときに、「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ…」と告白していることから、彼女が不妊の女性というレッテルを貼られて、ずっと恥と苦痛の中に置かれていたことがわかるのです。ところがザカリヤは、御使いから、あなたの願いが聞かれた、エリサベツは男の子を産むと告げられたとき、そのことばを信じることができず、口をきけなくされました。そしてそのことは、ザカリヤが祈っていたにもかかわらず、その願いがすぐには実現せず、高齢になったため、もう子どもは与えられない…と人間的に考えて、あきらめてしまっていたということを示唆しているのです。しかし確かに、ザカリヤの祈りは神に届いていました。そして神は、ご自身の定めた時にそれを実現されたのです。そのように、神のご計画、神の時は、人間には測り知れないのであって、私たちはただ神に信頼し、願いを主に委ね、神の答えを待ち望み続けるべきなのです。「義人は信仰によって生きる」(ロマ1:17、ハバクク2:4の引用)。ザカリヤもエリサベツも、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行って」いました(6節)。しかし神は、それ以上に、ご自身を信頼して信仰に堅く立つことを願っておられるのです。ザカリヤにとって、口がきけなくされた期間は、そのことを主から教えられ、主に立ち返るための特別な時となったに違いありません。私たちは、さまざまな困難や試練を通らされますが、主はザカリヤと同様に、その取扱いの中で、ご自身にますます信頼する者となるようにと、私たちを訓練し、造り変えられるのです。そのことを覚え、感謝と忍耐をもって、信仰によって歩み続けたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 12章◇(12月17日)

「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」…ホセア12:6

3-5節には、イスラエル民族の祖先であるヤコブの歩みが語られています。兄エサウのかかとをつかんで母の胎から出て来たヤコブは、エサウから長子の権利を食べ物と引換えに手に入れ、さらに父イサクをだまし、エサウが受けるべき祝福を横取りしたのです(創25,27章)。その後ヤコブは、母リベカの兄の元で働き、妻をめとり(12節)、兄エサウと再会しようとしますが、彼は途中で人の姿をした御使いと夜明けまで格闘し、もものつがいをはずされ、自分の力に頼ろうとするあり方を砕かれ、自らの弱さを覚えつつも主に拠り頼む者と変えられました。そしてベテルで祭壇を築いたヤコブは、神との深い交わりを持ち、ヤコブ(「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」の意)からイスラエル(「神が支配される」の意)に改名せよと、主から命じらたのです(創32,35章)。ここでホセアが、そのヤコブのことを引き合いに出しているのは、「彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている」とあるとおり(1節)、ヤコブの子孫である当時のイスラエルの民もまた、自分たちの知恵や力、人間的な策略によって生き延びようとしていることを指摘し、ヤコブが弱さを覚えつつも主に拠り頼む者と変えられ、ベテルで祭壇を築いたように、あなたがたも主に立ち返り、主の御旨にかなう歩みをし、主を待ち望む者となれと、民に訴えるためであったのです。しかし彼らは、自分たちが得た財産、勤労の実は不義をもたらさないと言い、主に従おうとはしなかったのです(8節)。そのような頑迷さ、自己中心性は、キリストに贖われ、霊的イスラエルの民とされた私たちの内にもあります。しかし主は、私たちをさらに造り変えるため、しばしば「もものつがいをはずす」ようにされ、自らの弱さを覚えさせるのです。ベテルの祭壇を築かせられるのです。そのように、私たちもまた、主に絶えず立ち返ることが求められていることを忘れず、へりくだって主に従い続ける者、「神に支配される者」とされたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 11章◇(12月16日)

「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」…ホセア11:9

「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した」(1節)。主はイスラエルを「わたしの子」と呼び、その子を愛し、教え、抱き、いやし、導き続けて来たのだと語られています(3-4節)。それにもかかわらず、イスラエルは、父の気持ちを踏みにじるかのように、背を向けて離れて行き、偶像を慕ったのです。「それなのに」、「それでも」、「しかし」と、わがままな我が子に、寛容と忍耐をもって関わり続けようとする、父なる神の真実な姿が心に留まります。そのような背信のイスラエルに対して主は、アッシリヤの剣を用いて懲らしめを与えますが、主の御旨は民を絶ち滅ぼすことではなく、彼らがご自身の元に立ち返ることであるのです。主はなおも、子に愛とあわれみを注ぎ、「どうしてあなたを引き渡すことが…見捨てることができようか…わたしはあわれみで胸が熱くなっている…わたしは再びエフライムを滅ぼさない」と、驚くべきことばをもって、民に約束してくださったのです(8-9節)。「まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る」(10節)。ここでの「ほえる」とは、威嚇することではなく、神がご自身の民を、散らされたところから呼び集める声のことです。すると民は震えながら、その主の元に集まって来るのです。それはさばきを恐れての震えではなく、主の愛とあわれみに満ちた寛大な扱いを覚え、一方で自分たちの背信を恥じ、悔いる思いで、感謝と喜びに打ち震えながら、主に立ち返るさまを表しているのです。それは終末的なイスラエルの救いと同時に、メシアによってもたらされる、異邦の民の救いをも示す預言です。イスラエルにも私たちにも、そのような者とされるに値するものは何一つありません。それはただ、一方的な神からの好意、恵みなのです。私たちもそのことを覚え、感謝と喜びに打ち震えつつ、主のあとに従い続ける(10節)者でありたいと思います。

神の子とされている喜びがありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 10章◇(12月15日)

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。」…ホセア10:12(新改訳2017)

9-11節はイスラエルに対する主のことばです。9節にある「ギブアの日々」とは、ギブアの住民が肉の欲望のままに性的不品行や暴行を繰り返し、旅人をもその獲物とした、おぞましい事件のことを指しています(士師19章)。そのような罪の本質が変わらない彼らのあり方を指摘し、諸国の民を道具として用いて彼らを懲らしめ、彼らがご自身の前に立ち返るようにと、主は働かれるのです。その文脈の中で12節のことばが記されています。主のことばかホセアのことばかは明確ではありませんが、それは、罪の中にある民に対する強い呼び掛け、命令です。正義の種を蒔くならば、誠実の実を実らせ、刈り入れることができる…そしてそれは、主に喜ばれる実であり、イスラエルが真に祝福され、繁栄するために必要なことなのです。そのような主の目に慕わしい実でなければ、それがどんなに多く結ばれる実であっても、民の心は高慢や自己満足や偶像礼拝へ向かっていくのです(1-2節)。誠実の実を刈り入れるためには、蒔かれた正義の種が育つための良い畑地を確保しなければなりません。「耕地を開拓せよ」と命じられているとおりです。主イエスが語られた、良い地に蒔かれた種のたとえが思い起こされます。鍬を入れて土を掘り起こし、不要な石や枯木を取り除き、鳥に食べられないように深く埋めて種を蒔き、生育を邪魔する雑草やいばらも排除し、十分に日が当り、雨が降るなら、そこに実が豊かに結ばれるのです。主は、聖徒とされた私たちに対しても、心の畑を耕し、誠実の実を豊かに結ぶことを求めておられます。自らの心を深く掘り起こして吟味し、不要なものを取り除き、みことばをしっかりとそこに植え付け、正義の雨、聖霊の促しの中で悔い改め、主に立ち返るなら、誠実の実が確かに結ばれていくのです。そのことを覚え、日々、行うべき必要なことをなす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 9章◇(12月14日)

「彼らは主の地にとどまらず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう。」…ホセア9:3

霊的に堕落したイスラエルへのホセアのことば(1-9,14,17節)と、主のことば(10-13,15-16節)が記されています。主はイスラエルを荒野のぶどう、いちじくの木のように見られ、そこに好ましい実が豊かに実ることを期待しておられました。しかし彼らは、異国の偶像神であるバアルを拝んで身を委ね、彼ら自身、忌むべきものとなってしまったのです。主は、エフライム(イスラエル)の栄光は鳥のように飛び去り、子は産まれず、失われ、人がいなくなるようになると、さばきを予告されました。3-5節はイスラエルの民の捕囚の宣告と、その地での民のありさまの預言です。彼らは、異国の地において、霊的に汚れたパンしか得ることができず、ただ生き延びるためにそれを食すようになるのです。またそれは彼らの信仰の歩みにも悪影響を与え、神への正しい礼拝、きよいささげ物はないがしろにされ、定められた例祭の日においても、主にあって楽しみ喜ぶという本来の意義が失われ、彼らはただ自分たちの楽しみのためにそれを行うようになってしまうのです。「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる…」(申8:3)。イスラエルの民は、何よりも、霊的なパンである神のことばを食し、それによって養われるべきであったのです。そうすれば、たとえ異教の地にあってもきよく保たれ、たとえ立派な神殿がなくても、真実に主を礼拝し、自らを主へのいけにえとしてささげ、主に喜ばれる歩みをすることができたのです。私たちの周りにも異教的なものが満ちています。「偶像」につい心が奪われてしまう環境に置かれています。そのような中にあって、私たちもまた、霊の糧であるみことばを日々食し、きよく保たれ、霊的に養われることが大切なのです。そのようにして、荒野においても、主が喜ばれる実を豊かに結ぶ者とされたいと願います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 8章◇(12月12日)

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。」…ホセア8:12

「角笛を口に当てよ」(1節)。吹き鳴らされるその角笛の音は、敵の襲来を告げ、勇ましく戦うようにと兵士や民を鼓舞するためのものです。しかしその敵は、イスラエルの民が主の教えに聞き従わず、自分たちのために偶像を作って神に背いたゆえに、主ご自身が送られたのです。祭壇にまつられた子牛はもちろん神ではなく、何の役にも立たず、敵の手によって粉々に砕かれてしまうのです。イスラエルの民は、大切な主の教えをないがしろにし、人間的な考えによって偶像に頼り、他国に贈り物をし、助けがあることを期待していました。しかしその望みは無残に打ち砕かれました。主から与えられた律法、教えと戒めは、心の板に書き記し、絶えず思い起こし、守り行うべきものです。しかし彼らは、それをまるで他国人のもののようにみなして軽んじ、心に留めようとはしなかったのです。また、みことばを読んでも、主の御旨が何かをそこから尋ね求めようとはせず、ただ形式的にいけにえをささげて自己満足していたのです。もちろん、そのような民の姿勢を、神が喜ばれることはないのです。私たちの信仰生活においても、いつの間にかそれが表面的、形式的なものとなってしまうことがあります。日曜日の午前中に教会の礼拝に集うだけで、あとの週日は聖書に手をつけず、みことばに一切触れることがないとしたら、それもまた、神に喜ばれるあり方ではないのです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい」(申6:5-6,2017訳)。私たちは主を愛し、個人的な主との交わりのときを持ち、みことばを通して主の御旨を尋ね求め、主の御声を聴き、それに従うようにと求められているのです。それこそが、霊的な意味において、祭壇を築き、いけにえをささげ、霊とまこと、御霊と真理によって礼拝するということなのです。そのように、主が求めておられ、喜ばれる歩みを、重ねていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 7章◇(12月11日)

「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった。彼らはエジプトを呼び立て、アッシリヤへ行く。」…ホセア7:11

「彼らはみな姦通する者だ」(4節)。イスラエルは偶像を慕い、頼りにし、主の怒りを買いましたが、彼らは、エジプトやアッシリヤといった他国の力をも頼みにすべく、それらの諸国と同盟を結ぶことによって、国を保とうと考えたのです。8-16節には、そのことについて、主が民を非難したことばが記されています。主は、そのようなイスラエルを懲らしめるべく、彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き降ろされます。そして結局、彼らの政治的な策略は失敗に終わり、アッシリヤの剣によって倒され、エジプト人の嘲笑を買うことになるのです(16節)。彼らはそのように、目に見える地上的なものに頼りましたが、目には見えなくても確かに生きておられる、主に拠り頼むべきであったのです。他国との同盟は、相手が窮地に陥ったとき助けるという、条文が書かれた契約を取り交わすことによって成立します。しかしその契約は確かなもの、不変のものではなく、それぞれの置かれた状況、思惑によって、いとも簡単に破られてしまうものなのです。一方、神がイスラエルの父祖たちと結ばれた祝福の契約はそうではありません。それは取り消されることのない、永遠に有効なものであり、キリストの血による新しい契約として引き継がれ、全きものとされ、イスラエルだけでなくすべての国民に、救いと祝福をもたらすものとなったのです。「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない」(詩89:34)。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブ13:8)。変わることのない主に拠り頼み、確かな主の約束、みことばに立って歩む者こそ幸いなのです。人はしばしば心変わりし、信頼を寄せる者を裏切りますが、主は、決してそのようなことがないお方だからです。心をしっかりその主に向けて歩み続けたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 6章◇(12月10日)

「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」…ホセア6:6(新改訳2017)

1-3節はホセアのことばです。彼は「さあ、主に立ち返ろう」と民に呼び掛け、主は私たちを引き倒し、打ったが、いやし、包んでくださる方であると、告白しています。また彼は、「主を知ることを切に追い求めよう」と促し、主は、朝ごとにやみを破る暁の光のように確かに現われ、大雨のようにその臨在を豊かに示して地を潤されると、民に告げているのです。4-11節は主のことばです。イスラエルに対して主は、あなたがたの誠実(真実の愛:2017訳)は、いつの間にか消えてなくなる朝もやのようだと非難しています。そして、そのような彼らを切り倒し、断罪のことばでいのちを奪うと、さばきを宣告しているのです。主がイスラエルの民に求めておられるのは、何よりも、ご自身に対する真実の愛であって、形式的ないけにえではありません。どんなに立派な牛や羊を持って来て、それらを全焼のささげ物として祭壇に供えても、それが単なる儀式としてのものであるなら、主に喜ばれることはないのです。神を知る…それは、理性によって、知識として、神について知ることではありません。主が求めておられ、喜ばれるのは、主を求めて御前に進み行き、顔と顔を合わせ、主のことばを聴き、主の御旨を悟り、主の霊に満たされる…そのような、霊的で個人的な深い交わりを持つことなのです。そして、受け取った主のことばに聞き従い、主のみこころのうちを実際に歩むことであり、それが主を真実に愛することなのです。私たちがどんなに聖書に精通していても、そのような主との深い交わりを持っていなければ、また、多くのみことばを暗記していても、それらを実践していないとしたら、それでは、神を知っているとは言えないのです。「主を知ることを切に追い求めよう」という促しを、自らのこととしてしっかり受けとめたいと思います。

主との交わりが豊かなものとされますように。

◇聖書箇所: ホセア書 5章◇(12月9日)

「エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。」…ホセア5:11

「エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった」(3節)。エフライムに対する指摘が繰り返されています。エフライム族はイスラエル12部族のうちの一部族であり、彼らの割り当て地は約束の地カナンのほぼ中心にある丘陵地で、民が主を礼拝するための神殿は、エルサレムに置かれる前、エフライムの町シロにあったのです。そのことから、ここでのエフライムは、北イスラエル全体を指していると理解できます。「姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ」(4節)。姦淫とは、主の妻であるイスラエルが他の男性に心奪われて不貞を働くこと、すなわち偶像礼拝を意味していますが、そのような罪を犯させる「霊」が彼らを誘惑し、神から引き離していたのです。そして神の怒りは、そのように姦淫の罪にまみれたイスラエルの上に注がれ、彼らは打ち砕かれてしまうのです(10-11節)。「彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ」…。慕うとは、常に近くにいたいと願うことです。親密になりたいと強く望むことです。エフライム、イスラエルの民は、神ではなく、もの言えず、自ら歩くこともできない、人の手による空しい偶像を慕い求めていたのです。そんな彼らに主はこう言われました。「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう」(15節)。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。そばにいたい、親しくなりたいと願うものとは何でしょうか…。私たちが何よりも慕い求めるべきものは人ではなく、お金や地位でもなく、うるわしい主の御顔なのです。愛とあわれみに満ちた主ご自身なのです。「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ」(詩105:4)。詩人もそのように言っています。空しいものに心を寄せるのではなく、真実で変わることのない主を、ますます慕い求めて歩みたいと思います。

主の守りがありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 4章◇(12月8日)

「民も祭司も同じようになる。わたしはその生き方のゆえに彼らを罰し、その行いのゆえに彼らに報復する。」…ホセア4:9(新改訳2017)

「ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている」(2節)。イスラエルの民は神を畏れようとせず、そのように多くの罪を犯していました。また4-10節では、民を霊的に指導する立場であるはずの、祭司たちの堕落が指摘されています。「彼らはわたしの民の罪を食いものにし」と8節にありますが、祭司たちは、民が主の前にささげた物を貪り食うという、肉の欲望のままに歩む生活をしていたのです。祭司とは、神殿や幕屋において礼拝をつかさどり、また民の罪の赦しのために、神と民との間に立ってとりなしの働きをする者であり、レビ人の中から選ばれて任命され、一般の民とは一線を画した、聖い生活をすることが求められています。しかし当時、彼らはそのような立場にまったくふさわしくない歩みをしていたのであり、主は、その生き方のゆえに彼らを罰すると言われたのです。祭司がそのような状態にあれば、民もまた神の教えを守ろうとはせず、国全体が堕落するのは当然だと言えます。キリストに贖われた私たちもまた、祭司とされています(1ペテ2:9)。また、祭司の上に立つ大祭司とはキリストであって、私たちは絶えずこのお方に倣い、従順に仕えるよう求められているのです(ヘブ3:1)。また主は、真の礼拝者たちが、霊とまことによって、御霊と真理によって神を礼拝することを、いつの時代においても切望しておられるのです。そのために、まず祭司とされた聖徒たちが、そのように真実な礼拝をささげ、とりなし祈るなら、主の回復と救いが、イスラエルに、日本に、この世界にもたらされていくのです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ12:1)。祭司とされていることをしっかりと覚え、その立場にふさわしい歩みへと、さらに導かれていきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 3章◇(12月7日)

「私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」…ホセア3:3

主はホセアに対し、夫に愛されていながら他の男性に心奪われ、彼と子どもたちを置いて離れていった妻ゴメルを愛するよう命じられました。そしてそのことは、わたしに背を向けて他の神々の方を向き、それらにささげる干しぶどうの菓子を大切にしているイスラエルの民を、わたしが真実に愛しているのと同じようにすべきことなのだと、主は言われたのです(1節)。ホセアはその主の命令に従い、銀15シェケルと大麦1ホメル半を支払って、ゴメルを他の男の元から買い戻しました。あるいは彼女は娼婦のようになっていたかもしれません。いずれにしても、もう姦淫をせず、私の所にとどまりなさい、離れてはいけない、私もあなたにそのようにしようと、ホセアはゴメルに告げたのです。私たちもまた、かつては神から離れ、他のものを愛し、頼みとして歩んでいた者でした。しかし神は、そのような罪の奴隷であった私たちをあわれみ、そこから贖い出してくださったのです。買い戻してくださったのです。そしてそれは、銀や大麦によってではなく、ご自身の御子の尊いいのちという、何にも変えられない、高価な代価が支払われることによってなされたことなのです。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハ15:4)。主イエスはそう言われました。主に贖われた私たちも、主にとどまり続けるよう命じらているのです。離れてはならないのです。そうでなければ枝は枯れ、いのちが絶たれてしまうからです。しかし、ぶどうの木なる主にとどまっているなら、豊かな実を結ぶようになるのです。その実は主を喜ばせ、その人だけでなく周りの人々の祝福となるのです。しっかりと主につながり、とどまり続ける者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 2章◇(12月5日)

「わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。」…ホセア2:17

ホセアの妻ゴメルは、他の男性に心奪われ、その愛人のところに行ってしまい、ホセアと3人の子どもたちは取り残されます。そのゴメルに対するホセアの思いは、神に背を向けて離れてしまったイスラエルに対する主の思いとして、ここに示されているのです。ゴメルは恋人たちとの生活で、物質的充足が得られると期待していました(5節)が、イスラエルも、真の神を捨てて、豊作の神とされるバアルを慕い、拠り頼んでいたのです(13節)。しかし神は、そのような彼らを裸にし、その恥を暴き、ぶどうやいちじくの果実の木々を荒れすたらせ(12節)、飢えと渇きで苦しむようにされるのです。そのようなみじめな彼女は、バアルや誰によっても救い出されることはないのです(10節)。14-23節は、そのようなゴメルが表すイスラエルの回復と祝福の約束、預言のことばです。その日、彼女は、「私のバアル」を呼び求めるのではなく、「私の夫」、唯一まことの神に立ち返り、主を恋い慕うようになるのです(16節)。神とイスラエルの関係が、そのように、夫と妻の深い関係としてここに示されています。教会はキリストの花嫁です(エペ5:24)。また教会とは、エクレシア=聖徒たちが召し集められたところであり、キリストのからだの各器官である一人ひとりは、キリストの花嫁とされているのです。それは、ホセアとゴメル、神とイスラエル、キリストと教会、キリストと聖徒たちの間の霊的な関係、夫婦としての深い結びつきの中に入れられているということであり、キリストの血によって贖われた私たちが、その新しい契約によって、永遠の契りを結ばれている(19節)ということなのです。そしてそれは、神の一方的な恵みとあわれみによってなされたことなのです。主はそのように、他のものに心奪われる私たちをも引き戻し、回復と祝福にあずからせてくださるのです。その主の真実の愛、変わることのない愛を、絶えず覚えたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ホセア書 1章◇(12月4日)

「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる。」…ホセア1:10

ホセアは、南ユダの預言者イザヤと同じ年代に生きた、北イスラエルの預言者です。その頃、イスラエルの民は主に背を向け、霊的な淫行、すなわち偶像礼拝にふけっていましたが、主は、そのことによるご自身の痛みと悲しみを、ホセアにも味わわせようとするかのように、彼に対して、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取るようにと命じられたのです(2節)。ホセアは主に従い、ゴメルという女性を妻としました。彼女は男、女、男と、3人の子を産みましたが、主はそれぞれに、イズレエル(地名)、ロ・ルハマ(愛されない・あわれまれないの意)、ロ・アミ(わたしの民ではないの意)という名を付けるよう、ホセアに命じられたのです。主はロ・ルハマが生まれたとき、「わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、けっして彼らを赦さない…」と言われ、ロ・アミのときも、「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではない…」と告げられました。しかし10-11節には、驚くべきことに、そのイスラエルが回復して祝福されることが、ホセアを通して主によって予告されているのです。「イスラエル人の数は、海の砂のようになり…」。それは、主がアブラハムと結ばれた契約の成就にほかなりません。主は、そのように真実なお方であって、たとえイスラエルの民が背信の罪を犯したとしても、愛と忍耐をもって彼らをその誤った道から連れ戻し、ご自身の前に立ち返らせるのです。また、分裂したイスラエルとユダは再び一つとされるのです。そしてそこには「ひとりのかしら」であるメシア、キリストが暗示され、霊的なイスラエル、すべての聖徒たちの回復と祝福という、終末的な出来事が預言されているのです。真実な主の前に、私たちもまた真実に歩む者でありたいと願います。

平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 52章17-34節◇(12月3日)

「バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」…エレミヤ52:31-32

ユダの王エホヤキンは、バビロンによって捕らえられ、彼らの地に連れて行かれ、投獄されました。それから年月が経ち、バビロンの王がネブカデレザルからエビル・メロダクに代わったとき、彼はエホヤキンを釈放し、優しいことばをかけ、衣食住に困ることがないようにしたのです。それは捕囚の立場にあったエホヤキンに対する異例の寛大な取扱いでした。そのときバビロンには、同じように連行されてきた他国の王たちが何人もいましたが、エホヤキンはそれらの者たちの中で最も高い位が与えられ、そのような優遇措置を受けるようにされたのです。なぜそのようなことになったのか…その理由は明らかにされていませんが、その背後において、神の御手が動かされていたに違いありません。そもそも、主の御旨は、ご自身に従わないユダの民を悔い改めさせるために、バビロンを道具として用いて懲らしめを与えることであり、ユダヤの民を根絶やしにすることではなかったのです。バビロンに捕らえ移された神の民が主に立ち返り、真実に主を求めるようになり、彼らが帰還してエルサレムに神殿を再建することは、主のみこころでした。その準備期間として、主の守りと導きのうちに、エホヤキンとユダヤの民は、バビロンで生活をしていたのです。実際、エホヤキン(別名エコヌヤ)の子ペダヤの子のゼルバベルは、バビロンからエルサレムへ帰還する民の指導者として、また帰還後には、神殿再建を進める総督として用いられたのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀3:22)。尽きることのない主の恵みとあわれみによって生かされているイスラエルの民…。その恵みとあわれみは、神の民とされた私たちにも注がれています。その主に感謝と賛美をささげつつ、従い続ける者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 52章1-16節◇(12月2日)

「カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原でゼデキヤに追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。」…エレミヤ52:8

エレミヤ書の最後にある52章は、「付録」であると考えられます。なぜなら51章64節には、「ここまでが、エレミヤのことばである」と書かれているからです。しかし、誰がどのような意図でこの章を書いたのかは不明です。今日の箇所にある出来事は、すでにエレミヤ自身が39章に書き記して記していますが、そこには52章8節のことばはありません。ユダの王ゼデキヤの軍隊の兵士たちは、バビロンの軍勢が攻めて来たとき、恐れをなし、王を守ろうとせずに、みな逃げだしてしまいました。家来を失ったゼデキヤは容易に捕らえられ、バビロンへ連行され、獄屋に投げ込まれ、そこで最期を迎えたのです(11節)。王の家来たちは、たとえどのような状況に置かれても、忠誠を尽くして王を守るべきでした。それが彼らの任務であるからです。しかし実際には、彼らにとって、王よりも自分たちのいのちを守ることのほうが大切だったため、王を一人残し、みな離れて散ってしまったのです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタ16:25)。主イエスは弟子たちにそう言われました。私たちもまた、主に贖われ、王であるイエスに仕えるしもべであり、主イエスから離れずについて行くことが求められています。試練や困難の中で、自分のいのちを救おうとするなら、すなわち、主イエスに従うことを拒み、別の道によって解決を得ようとしても、一時しのぎの慰めしか得られないのです。そこには真のいのちはないのです。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙2:10)。私たちは、王である主イエスに、生涯、忠実に仕え、ついていくべきなのです。そのような者こそが、いのちの冠、永遠のいのちを、主からいただくことができるのです。私たちのためにいのちをささげてくださった主を覚え、そのように主に従い続ける者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 51章45-64節◇(12月1日)

「『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる』と言いなさい。」…エレミヤ51:64

47-58節には、主のさばきによるバビロンの滅亡が、最終的な宣告として語られています。北からの荒らす者ペルシャによって、バビロンにある偶像は破壊され、多くの者が刺し殺され、人や獣が住むことのない、永遠に荒れ果てた地となるのです。そしてそれは主が仕組まれたことであり、彼らが主の宮の聖所にずかずかと入り込み、荒らし回ったことに対して、主が報復されるからです。59-64節には、ゼデキヤ王に同行してバビロンの地に出向いた高官セラヤに対し、エレミヤが、主が起こされるわざわいがすべて書き記した巻物を渡し、それをバビロンの地で読み上げてそのようになると宣告せよ、さらに、読み終えた後にその巻物に石を結びつけ、ユーフラテス川に投げ入れよ、と命じたことが記されています。その行為は、明らかに、預言的な意味を持つ象徴的な行為でした。しかし、そのことばがバビロンの者たちに警告として告げられたとも、バビロンで捕囚となっていたユダの民に励ましと希望を与えたとも書かれていません。その巻物は川の底に沈んでしまい、彼らの目に触れることもなかったのです。主イエスは荒野において、誘惑してくるサタンに対し、みことばをもって撃退されました(マタ4:1-11)。それは主とサタンとの1対1の霊的な戦いでした。セラヤが巻物のことばを読み上げたのも、人へのことばというより、バビロンの背後に働く悪しき者、サタンに対しての宣言であったのです。私たちの日常の歩みもまた、そのような霊的な戦いの中に置かれていることを忘れてはなりません。そして、その戦いにおいて、主ご自身が勝利を取られることを、私たちは、みことばをもって宣言すべきなのです。そうするとき、そこに、霊的な打ち破りが、主によってもたらされるのです。その宣言が現実のものとなるのです。声を出して、信仰の告白、神のことばを大胆に宣言する者でありたいと思います。
主の助けと導きがありますように。