◇聖書箇所: 詩篇 79篇◇(3月31日)

「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。」…詩篇79:9

この詩篇は、エルサレムの神殿が汚され、町が廃墟となったときの詩です。バビロンによる攻撃のことであろうとされています。多くの聖徒たちが殺され、残った者たちも諸国の者たちに嘲られ、笑いぐさとなったと言って、詩人は嘆いています(1-4節)。「あなたを知らない国々に…あなたの激しい憤りを注ぎ出してください」(6節)。詩人はそのような状況の中、主に向かって、敵への復讐を求めて訴えています。そして詩人は、自分たちが受けているその苦難は、先祖たちが偶像を拝んだ罪に対して主が怒り、ねたみを燃やされたゆえだということを悟っていたのです。だからこそ、前の世代の者たちのその咎を思い出さないでほしい、いったいいつまで怒り続けるのかと、詩人は神をなじるような思いになっていたのです(5,8節)。しかし、そのように主に不満をぶつける中で、詩人は気づかされたのです。自分たちのうちにも紛れもなく罪があり、神の主権を認めず、自分たちのあり方を正当化し、砕かれた、悔いた心を持たずに歩んでいることを…。そして、目に見える敵の手からの救い以前に、自分たちのその罪がもたらす滅びから、目に見えない悪魔の手から、まず救い出される必要があるということを…。9節の詩人のことばは、まさにそこから生まれ出たものなのです。「捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください」。11節のその詩人のことばは、単に捕囚となっている人々を解放してほしい…という訴えではありません。それは、罪のゆえに死に定められたすべての捕われ人をあわれみ、そこから救い出してください、永遠に生きる者とさせてください…という、魂の救いを求める叫びなのです。私たちもまた、自分自身のため、人々のため、何よりも御名の栄光のために、そのように主に祈り求めたいと思います。

主が祈りに答えてくださいますように。

◇聖書箇所: 詩篇 78篇40-72節◇(3月30日)

「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。」…詩篇78:70-71

神は、ご自分の民を、奴隷とされていたエジプトから連れ出し、羊の群れの先頭に立つ羊飼いのようにして、荒野における歩みを導かれました(52節)。そして、民の飢え乾きを満たすために、天からマナを降らせ、うずらを与えて肉を食べさせ、岩から水を湧き出させて、彼らの必要に応えてくださったのです(15,23,27,29節)。一方、民は、わがままで、不従順で、神に逆らい、神を悲しませ続けました(40節)。そして、約束の地として神から与えられたカナンの地でも、彼らの子孫は先祖たちと同じように神を裏切り、偶像の神に心を寄せ、神のねたみと怒りを引き起こし、多くの者が、敵の剣によっていのちを奪われることとなってしまったのです(56-64節)。しかし、あわれみ深い神は、そんな民を見捨てることはありませんでした。やがて、羊飼いであったダビデを選び、油を注ぎ、イスラエルの王として任命し、ご自身の民を牧する牧者、すなわち、民を愛し、守り、養い、導く者として立ててくださったのです(70-72節)。その神は、2千年前に、イスラエルの民だけでなく、すべての国民が従うべき王として、ダビデの子孫、ユダ族の中から、イエス・キリストを立てられました。このお方は良き羊飼いとして、弱い羊たちを守り、養い、導かれるのです。また、失われた1匹の羊を必死になって捜し出し、大喜びで群れの元へ連れ戻される羊飼いなのです(ルカ15:4-6)。そしてその羊のように、神から離れてさまよっていた私たちが、神の元に戻ることができるよう、身代りとなって罪の刑罰を受け、十字架でいのちを捨ててくださったお方なのです。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハ10:11)。どんなことがあっても、私たちを導いてくださるこのお方に信頼し、しっかりとついて行きたいと思います。

揺るがない平安と希望が与えられますように。

◇聖書箇所: 詩篇 78篇1-22節◇(3月28日)

「それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行われた奇しいわざとを。」…詩篇78:4

詩篇77篇には、イスラエルの民に対して神がなされたみわざが数多く記されているため、「歴史の詩」とも呼ばれています。しかしそこでの出来事は、必ずしも年代の順序ではなく、詩人の意図に沿って書かれています。最初の段落(1-8節)ではまず、「私の民よ…私の口のことばに耳を傾けよ」とあり、主は民に対して、ご自身のみおしえを心に留めて歩み、それを次の世代の者に教え、彼らがまた次の世代に主のみおしえとみわざを語り継ぎ、神への信仰を継承していくようにと、求めているのです。9-11節ではエフライムの人々が非難されています。いつの時代のどのことかは不明ですが、彼らは先祖たちから聞いていた神の奇しいみわざを覚えず、主の契約とみおしえに従って歩もうとしなかったのです。その指摘は17-22節へとさらに続きますが、それらに挟まれた12-16節では、神が彼らの先祖たちに対して、エジプト脱出から荒野での旅においてなされたみわざが、具体的に記されています。主は、海を分けて民を通らせ、エジプトの軍隊を海に呑み込ませたお方です(13節)、また水を岩から湧き出させ、民の渇きをいやされたお方です(15節)。さらに、昼は雲の柱、夜は火の柱となり、民と常にともにあって、その歩みを守り導かれたお方なのです(14節)。しかし彼らの先祖たちは、確かに水は出たがパンや肉をも用意できるのか…と言って神に信頼せず、不満をモーセと神にぶつけ、主はそれを聞いて激しく怒られたのです(21節)。主は今もご自身の民に対して、私に信頼し、私の教えに従って歩め、と命じておられます。偉大なみわざと御力を現わされた主は、今も確かに生きておられ、主権をもってこの世界を統べ治め、私たちの歩みを、その力強い御手で守り導いてくださるのです。どんな状況にあっても、ひたすらその主に信頼して歩み続けたいと思います。

主はいつもともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 77篇◇(3月27日)

「私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」…詩篇77:12

この詩篇には、苦難の中での詩人の嘆きが前半(1-10節)に、そこから転じて神への賛美が後半(11-20節)に書かれています。「私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる」(3節)、「あなたは奇しいわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です」(14節)。それらのことばはコントラストを示しています。いったい何が詩人のうちに起こったのでしょうか…。それを知るキーワードが11-12節にあります。「思い巡らす」、「思い起こす」、「静かに考える」。詩人は、目の前の困難な状況から目を離し、現実からしばし退き、神の前に出て静まるときを持ったのです。そして、イスラエルの父祖たちがエジプトを脱出した際に現わされた、主のみわざと御力を思い起こし(14-15,19-20節)、さらに世界の創造における、神の主権と威光を思い巡らしたのです。そしてその中で、詩人の霊の目が開かれたのです。神の愛が絶えることはないのです。主の恵みが尽きることもないのです。神の約束のことばは真実なのです。神がいつくしみを忘れたり、あわれみを閉ざされることはないのです。神が変ってしまうことなどあり得ないのです(7-10節)。苦難の中にあって失われていたその思いを、詩人は取り戻しました。そして「神のように大いなる神が、ほかにありましょうか」と告白したのです(13節)。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(ヘブ13:8、2017訳)。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩103:2)。「主の良くしてくださったこと」とは、自分自身の歩みにおけることだけではありません。それは、聖書に書かれているすべての神のみわざであり、神がイスラエルの民に、キリストを信じる聖徒たちに与えられた恵みなのです。私たちも日々、現実から退いて主の前に静まり、主のみわざを思い起こし、主の偉大さを思い巡らす者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 76篇◇(3月26日)

「神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。」…詩篇76:9

3-7節には敵との戦いのことが記されています。「火矢、盾と剣、剛胆な者ら、勇士たち、騎手と馬…」。ではその戦いや敵は具体的に何を指しているのでしょうか…。「騎手も馬も、深い眠りに陥りました」ということばから、イスラエルの民がエジプトを脱出して海を渡ったとき、後を追ってきたエジプト軍の騎兵隊が海に呑み込まれてしまった出来事が思い起こされます(出15:1,21)。またそれは、イスラエルにとって大きな脅威となった、アッシリアやバビロンのような敵をも示唆しています。さらに7節のことばからは、そのような歴史上の目に見える敵だけでなく、終末において滅ぼされるべきサタンのことが語られている、すなわちここには、2重の意味が預言的な意図をもって書かれていると考えられるのです。9節に「貧しい者たちをみな、救うために」とあります。主イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と言われましたが(マタ5:3)、「貧しい者」とは心の貧しい者、すなわち、自分の罪深さ、弱さを認め、ひたすら神のあわれみを求めて生きる、謙遜な者、敬虔な人のことなのです。そしてそのような者は、終わりの日に神のさばきの座に立たされても、滅びに定められることはなく、主とともに永遠に生きる者とされるのです。救いにあずかることができるのです。物質的に貧しくても心の高ぶっている者がいます。逆に、富んでいてもへりくだった人がいるのです。持てる富の多い少ないは問題ではありません。自分がいかに貧しく、何も持っていない者であるかを素直に主の前に認めて、ひたすら神に拠り頼んで生きる者こそ、幸いなのです。「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる」(詩25:9)。悪と不正がはびこる世にあって、主の再臨、御国の完成を待ち望みつつ、公義を行なう者、主の道をまっすぐに歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ユダの手紙 17-25節◇(3月25日)

「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」…ユダ21

「愛する人々よ」(17,20節)と聖徒たちに呼び掛けるユダは、「彼ら」(16節)、「この人たち」(19節)と呼ぶ異端者たちのあり方と対比させるようにして、キリストに贖われた者のあるべき姿を、命令形の動詞を次々に使い、具体的な勧告として提示しています(20-23節)。その勧告は7つに分けられ、前半の4つは聖徒たち自身に対すること(20,21節)、後半の3つが人々に対することです。19節には、「この人たち」が御霊を持たず、分裂を起こす生まれつきのままの人間だとありますが、そのような者ではなく、人々に神の祝福を押し流し、キリストを証しするしもべとして用いられるためには、まず自分自身が神の愛をしっかりと受け取り、御霊に満たされる必要があることを、その順序から教えられます。「最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさい」、「聖霊によって祈りなさい」、「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい」、「永遠のいのちに至らせるキリストのあわれみを待ち望みなさい」。築き上げる、保つ…、それは、キリストという土台の上に、木や草のような燃えてしまうものではなく、金銀、宝石などの朽ちないものをもって建て上げる、すなわち、地上の事柄ではなく永遠の御国に心を留めて歩むあり方(1コリ3:10-13)であり、枝としてぶどうの木にしっかりととどまり、繋がり続けるあり方(ヨハ15:4)のことなのです。「またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい」(23節)。肉に汚された下着さえも忌み嫌えと命じつつ、ユダは、あわれみを持つことの大切さを繰り返しています(22節)。罪と汚れを憎む一方で、その中にある人々を愛し、あわれむ…。それはとりもなおさず、私たち自身が神から受けた取扱い、恵みなのです。そのことを覚えつつ、御霊の助けにより、聖徒としてふさわしく歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ユダの手紙 1-16節◇(3月24日)

「あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。」…ユダ5(新改訳2017)

この手紙の著者であるユダは、1節にあるようにヤコブの兄弟であり、そのヤコブもユダも、主イエスの兄弟であったとされています(マタ13:55)。手紙の内容は、ペテロの手紙第二のそれに近く、神の恵みを放縦に変えて歩み、イエス・キリストを否定さえする不敬虔な者ども、異端者たちが聖徒たちを惑わしていることに危機感を持ったユダが、「ひとたび伝えられた信仰のために戦う」(3節)ことを求めて、この短い手紙を書き送ったのです。「思い起こしてほしい…」と、奴隷として苦しんでいたエジプトから脱出したものの、荒野での試練に不平を漏らし、約束の地カナンに結局入れなかった先祖たちのことを忘れるな…と、ユダは訴えています。この手紙が書かれた当時にも、迫害や困窮の試練があり、異端の教えの風が吹いており、聖徒たちがキリストへの信仰を捨て、滅びる者となってしまうことを、彼は危惧していたのです。6-7節には、暗闇の下に閉じ込められた御使いたちや、永遠の火の刑罰を受けたソドムとゴモラのことが書かれていますが、両者に共通することとして、「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた」(6節、2017訳)と、ユダは指摘しています。人のうちに生じるさまざまな欲もまた、主が与えられている善いものです。しかし、私たちが神のみこころに反し、神が定めた領分を守らずにそれを越えるならば、それは神に喜ばれない「不自然な肉欲」となってしまうのです。そして神は、人が守るべきその領分を、みことばによって示しておられるのです。「まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています」(13節)。あなたがたはそうなってはならない、彼らを反面教師とせよと、主は語っておられます。神を畏れ、自分の領分をわきまえ、神のみこころを行なう者でありたいと思います。

真理の光の中を歩むことができますように。

◇聖書箇所: マラキ書 4章◇(3月23日)

「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」…マラ4:2

「見よ。その日が来る」(1節)。「その日」とは、すべての高ぶる者、すべての悪を行なう者どもが火によって焼き尽くされる、神のさばきの日、主の怒りの日、主の大いなる恐ろしい日(5節)であって、その時は必ずやって来るのです。「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには…」と、主の名を畏れ敬う者たちに与えられる救いが、続く2節に述べられています。「義の太陽が上り…」。「義の太陽」とは、神の義をもたらす光、すなわち、世の人々を照らし、地を覆っているやみの力に打ち勝つまことの光、イエス・キリストを意味しています(ヨハ1:5,9)。そのキリストは、神に背いていた人類の身代りとなって十字架にかかり、罪のために刺し通され、咎のために砕かれ、父なる神からの刑罰、懲らしめを一身に受けてくださいました。それは、罪人であった私たちが神と和解し、その打たれた打ち傷によっていやされ、すべての捕われから解放されるためであったのです(イザ53:4-6)。「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ」(4節a)。それは旧約聖書全体のまとめのことばであり、律法と預言者を心に刻むようにとの命令です(4-6節)。また「預言者エリヤ」とは、バプテスマのヨハネのことであり(ルカ1:17)、彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告げ(ヨハ1:29)、キリストを指し示したのです。新旧約聖書全体のメッセージ、み教えを心に留め、キリストを信じ従い続ける…。それはすべての人に求められているあり方です。そして聖徒である私たちは、やがて救いが完成する終わりの日を迎え、喜びのあまり、子牛のように跳ね回って踊るのです(2節b)。終わりの日が近いと思われるこのとき、愛する人々の救いのために、ますます熱心にとりなす者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: マラキ書 2章◇(3月21日)

「このとき、あなたがたは、わたしが、レビとのわたしの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知ろう。-万軍の主は仰せられる-」…マラ2:4

「祭司たちよ。今この命令があなたがたに下される」。1-9節において、堕落した祭司たちに向けての厳しいことばが語られています。神の教えを民に伝え、正しい道に導くべき祭司たちは、彼ら自身がその道からはずれ、民をその曲がった教えによってつまずかせていたのです。彼らは神がレビ族との契約によって与えられた召命に生きることなく、果たすべきその任務をないがしろにしていたのです。人々から重んじられるはずの祭司たちは、すべての民からさげすまれ軽んじられる者となると、主はマラキを通して告げています(8-9節)。そのように神の御旨に従おうとしないあり方は、民の間にも蔓延していました。10-16節には、異邦人との結婚について述べられています。結婚とは、神から与えられた伴侶を真実に愛するという互いの間の契約であり、何よりも神との契約にほかなりません。しかし民の中のある者たちは、異邦の女性に心を引かれ、妻を裏切り、一方的に離縁し、自らの欲を満たしていたのです(14節)。そしてそれは、異教の神にも心を寄せ、主の聖所を汚す、偶像礼拝の罪に結びついていたのです(11節)。それらに共通しているのは、「神との契約の軽視」です。神はイスラエルを選び、アブラハムと契約を結ばれました。それは彼らが大いなる国民として祝福され、地上のすべての民族の祝福の基となるためです(創12:2-3)。そしてそれは、神がこの世界を回復させ、救いを与えて祝福するためのご計画であり、そのための賜物と召命がイスラエルには与えられているのです。しかしマラキの時代、彼らからその自覚は失われてしまっていたのです。私たちも、キリストの血による新しい契約を神との間に結ばれた、信仰によるアブラハムの子孫、神の民です。その自覚を常に持ち、神の祝福の基として、キリストにある回復と救いを証しする者として、その務めを忠実に果たしていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マラキ書 1章◇(3月20日)

「日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。」…マラ1:11

旧約時代最後の預言者マラキは、BC450~400年頃に活動したとされています。ユダヤの民は、捕囚となっていたバビロンから帰還し、神殿も再建されていましたが、外国の勢力が増す中、さまざまな困難を覚え、不信仰に陥り、神の前に真実に歩もうとしない者たちが現れていたのです。「わたしはあなたがたを愛している」(1:2)との主のことばを告げたマラキは、イスラエルへの神の愛と真実が変らないにもかかわらず、祭司や民が宮へのささげ物をないがしろにしていることを非難しています。神は最上のものをささげたアベルに目を留められたお方です(創4:4)。また傷や欠陥のあるささげ物は神に受け入れられないと明確に規定されています(レビ22:19-20)。ユダヤの民は当然そのことを知っていました。にもかかわらず彼らは、汚れたパン(7節)や、足がなえたり病気にかかっている動物を(8,13節)、平気で主の前にささげていたのです。民のうちには、祝福と繁栄を与えるはずの神が、どうして貧しさと困難の中に自分たちを放って置かれるのか…と神の存在を疑い、どうせ何をささげても同じだ…と神を侮る心がありました。しかしもちろん、神はそれを知っておられ、「それを…喜んで、受け入れるだろうか」(13節)、「ずるい者は、のろわれる」(14節)と、厳しく非難されたのです。「真の礼拝者たちが霊とまこと(御霊と真理:2017訳)によって父を礼拝する時が来ます」(ヨハ4:23)。主が言われたそのことは、マラキにより預言されています(11節)。主はささげ物の外見のことではなく、ささげる者の心を見ておられるのです。困難の中にあってもなお、愛と真実に満ちておられる神に信頼し、最上のものをささげる、すなわち、自分のうちにあるものすべてを主に明け渡す、そのような者でありたいと願います。

喜びがいつも心にありますように。

◇聖書箇所: ゼパニヤ書 3章◇(3月19日)

「イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。」…ゼパ3:13

ゼパニヤの預言は再びエルサレムに向けられています(1-7節)。「反逆と汚れに満ちた暴力の町」と呼び、民が神の呼び掛けと懲らしめを無視し、主に拠り頼まず、神に近づこうとしないというあり方を糾弾しています。腐敗は政治的リーダーや宗教指導者たちにまで及んでいました(3-4節)。そしてすでに告げられたとおり、そのような者たちは、主の日に断ち滅ぼされるのです(1:6-7)。しかしその主の日は、人類がすべて滅亡する時ではありません。主は「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す」と言われるのです(12節)。ゼパニヤはこの書において一貫して、民のおごりと高ぶりの罪を指摘し、へりくだることの大切さを説いていますが、主ご自身が民の中からおごり高ぶる者どもを取り除き、御旨にかなった、へりくだった者たちを残されるのです。彼らは不正を行なわず、偽りと欺きのことばを言わない、謙遜で忠実な者たちであり、主はその残りの者たちを通して、エルサレムを回復し、祝福されるのです。民のうちにご臨在を豊かに現わしてくださるのです。ゼパニヤは、「主は、あなたのただ中におられる」と繰り返し、だから敵やわざわいを恐れるなと、強調しています(15-16節)。「しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる」(エレ23:3)。「イスラエルの残りの者」については、イザヤやエレミヤも多く語っています。そしてそれは、キリストの贖いを信じ、神の民として加えられた私たちのことをも意味しているのです。主が私たちのことを喜んでおられる、平安を与えてくださっている、まことの羊飼いなるキリストがその歩みを導き、主のもとに連れて行ってくださる…そのような約束が与えられているのです(17-20節)。主の日の回復を待ち望みつつ、残りの民がさらに加えられるよう、とりなし労していきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ゼパニヤ書 2章◇(3月18日)

「主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」…ゼパ2:3

ゼパニヤは、主に従うことをやめ、主を尋ね求めないユダの民(1:6)に向かって、恥知らずの国民よと呼び掛け、主の燃える怒りが襲わないうちに、主を尋ね求めよ、義を、柔和を求めよと命じています。そこで「柔和」と訳されている原語は、「へりくだる」と同じ語根を持つことばです。ここでの柔和とは、人に対してではなく、主に対する柔和さ、すなわち柔らかい肉の心、謙遜で従順な態度で、自らの無力さ、無知さ、罪深さを素直に認め、主のあわれみを求めることであって、それが「へりくだる」ということの意味なのです。そのようなあり方ではないユダの周辺国に対するさばきが、4節以降で語られています。まずユダの西側に隣接する、地中海沿岸の都市を持つペリシテ…。その海辺の土地は、ユダの家の残りの者が所有することとなるのです(6節)。また東側に位置するモアブとアモンは、ソドムとゴモラのようになると告げられています。それは彼らが主の民をそしり、高慢な思いになるからです(8-11節)。さらに南側に位置するクシュ(エチオピア)の民も剣で刺し殺され(12節)、北にあるアッシリア(ニネベの町)も、荒れ果てて獣の伏す所となるのです。そしてそれは、「私だけは特別だ」と言って、その民がおごり高ぶっているからです(13-15節)。アッシリア帝国の首都であったニネベの町は、各国から戦利品として略奪した財宝であふれていましたが(ナホ2:9)、それらに心を寄せて安らかに過ごし、自らの力と繁栄を誇っていても、主に打ち砕かれて、惨めな姿をさらすようになってしまうのです。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」(ヤコ4:10)。高慢な思い、頑なな心ではなく、へりくだった思い、柔らかい肉の心をもって、ますます主ご自身を尋ね求め、義と柔和さを追い求めていきたいと思います。

主の恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: ゼパニヤ書 1章◇(3月17日)

「また、主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもを断ち滅ぼす。」…ゼパ1:6

ゼパニヤは、1節にあるようにユダのヨシア王の時代の預言者であり、ヒゼキヤ王の子孫にあたります。彼は、まず1章において、「わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす」との主のことばを告げ、マナセ王の時代にすっかり堕落してしまった生き方を悔い改めよ、そうしなければ主の日にさばきがなされると、主の民に警告しているのです。「罰する」「取り除く」、「絶ち滅ぼす」ということばを繰り返し、率直さと切迫感をもって、そのことを語えようとしています。ゼパニヤは民の堕落を具体的に指摘しています。それはまず、偶像礼拝です。太陽や月を拝んだり、異邦の民が信じる偶像に心寄せたりして、主に従うことをやめる者たちを、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出20:3)と言われる主は、彼らがそのことを悔い改めないなら、絶ち滅ぼしてしまわれるのです(4-6節)。また、民がお金や金銀などの財産を蓄え、そのことで安心し、それらに拠り頼むあり方もまた、主は非難しています。「商人はみな滅びうせ、銀を量る者もみな断ち滅ぼされる」(11節)、「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない」(18節)とあります。それは、目に見える地上的なものを誇りとし、それらによる守りを期待する者に対しても同様です。「城壁」や「高い四隅の塔」ということばに、そのような人間的な思いが示唆されています(16節)。「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る」。このときゼパニヤは、ユダへのバビロンの侵入というさばきと、世界の終わりの日になされる最終的な神のさばきとを重ねて見ていたのです。そしてこの警告は、聖徒である私たちを含め、すべての人々に対して今なお語られているのです。主の前に静まり、みこころを尋ね求め、ただ主に拠り頼んで歩む者とされたいと願います。

主の守りと祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 3章◇(3月16日)

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」…2ペテロ3:9

手紙の最後において、ペテロは「終わりの日」のことに言及しています。それはキリストが再臨し、今の世が終わり、神が約束されている新しい天と新しい地(13節、黙21:1)が実現する時のことです。そしてその時が近づくと、神をあざける者どもが欲望のままに振る舞い、キリストは本当に来るのか…と言って、洪水によるさばきがかつてあったことを認めようとはせず、預言者と使徒たちによって語られた神のことばを無視するのです。しかし今の天と地は、神がそのような不敬虔な者どもをさばいて滅ぼすべく、火をもって焼き尽くされるのです。それは必ず起こることなのです。神は時を支配しておられ、いつでもそのようにすることができるのです。しかしそれがまだ起こっていないのは、神が妥協して計画を変更されたからではなく、優柔不断なのでもなく、誰ひとりとして滅びることなく、すべての人が救われることを願っておられるからなのです。そのように神は、愛とあわれみに満ちたお方であって、途方もない寛容と忍耐をもって、人々がご自身の元に立ち返るようにと、今なお待っておられるのです。しかし、さばきがなされる主の日は必ずやって来ます。「その日の来るのを早めなければなりません」(12節)とペテロは言っていますが、それはすでに救われている私たちが、早く来るようにと単に祈り求めるということではありません。なぜなら、キリストの救いという良き知らせ、福音をまだ受け取っていない人々がたくさんいるからです。「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来」るのです(マタ24:14)。そして主は、私たちの敬虔な生き方とあかしのことばを通して、その終わりの日の到来の確かさを、人々が知るようにされるのです。そのように用いられるよう、日々主に祈り求める者でありたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 2章1-10節◇(3月14日)

「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」…2ペテロ2:9

2章では異端の教えを持ち込む偽教師の存在が語られています。彼らは自分たちを贖ったキリストさえも否定し、好色と放縦の歩みをし、多くの者がその影響を受けて、主が備えられた真理の道を悪いものだとするのです。さらにペテロは、彼らは貪欲であなたがたを食い物にすると、手紙の読者に注意を呼び掛けています(1-3節)。しかし神のさばきにより彼らは必ず滅ぼされ、義人は救われる…とペテロは続け、旧約時代の実例を挙げます。箱舟に入り洪水から守られたノアたち…、灰にされたソドムとゴモラの町から逃れたアブラハムのおいロト…。そこには不敬虔ということばが繰り返されています。そしてそのようにされた主は、敬虔な者たちを救い出し、不義で不敬虔な者どもをさばきの日まで懲罰のもとに置く(閉じ込めておく:2017訳)ことを心得ていると、ペテロは告げているのです。「敬虔」とは、神を畏れることです。主権者なる神を認め、神の御旨を示すみことばと御霊に従い、主の御力とみわざを積極的に祈り求め、待ち望むあり方です。また「不敬虔」とはその逆であり、肉に従って歩み、欲望を満たすことを追求し、自分たちはすべてを知っている…支配することができる…と、人間の知恵と力に頼って生きるあり方のことです。「あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」(1テモ6:11)。パウロはテモテにそのように命じています。不敬虔であった私たちはキリストによって贖われ、神から義と認められました。しかし、不敬虔なあり方に戻そうとする力が常に働いているのです。決して慢心せず、さまざまな誘惑、人間中心の価値観が満ちたこの世にあって、ますます敬虔な生き方を追い求める者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 1章12-21節◇(3月13日)

「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」…2ペテロ1:13

「ですから…私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです」(12節)。あなたがたは永遠の御国に入る恵みを与えられている…とペテロは語りましたが(11節)、それを受けてさらにそのように言っています。その「思い起こさせる」ということばは、13節や15節でも繰り返されています。ペテロ自身、主を3度否むという失態を犯し、信仰を失いかけましたが、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と言われた主のことばを思い起こし、キリストの救いと恵みを人々に伝え、思い起こさせることを、自らの使命としてしっかり握っていたのです。「私の去った後に…思い起こせるよう、私は努めたい…」(15節)。彼はそのために、ことばが書物として残るようにしました。それは世代と国境を越えて人々に伝えられ、実際に私たちは、永遠の御国に入る恵みを思い起こし、自分たちの召しと選びを再認識させられているのです。そして今度はその私たちが、たすきを受け取るようにし、置かれている時代と場所においてそのことをなし、さらに次の世代へとつないで行くのです。ペテロは弟子としてキリストとともに歩み、その栄光を目撃しました(16節)。私たちは、キリストを直接見てはいません。しかし、律法の書と預言書からなる旧約聖書と、キリストを目撃した弟子たちが書いた福音書や書簡からなる新約聖書が与えられているのです。そして御霊によって霊の目が開かれるとき、それを真実な神のことばと受けとめることができ、今もなされる主のみわざを体験し、キリストを証しする者、弟子とされるのです。永遠の御国に入る恵みが与えられている…その良き知らせを人々に伝え、試練にあって弱っている神の家族が、召しと選びを確かにすることができるよう、祈りをもってとりなし、寄り添って励ます者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 1章1-11節◇(3月12日)

「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」…2ペテロ1:10

この手紙の冒頭でペテロは、挨拶に続いて、キリスト者の特権について述べています(3-4節)。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました」とありますが、2つの節で使われている「栄光と徳」とは、キリストが父から受けた「神としての御力」のことです。また「すばらしい約束」とは、キリストをを知ったことにより与えられた「いのちと敬虔」に基づいて、キリストの再臨のときに栄光のからだが与えられ、永遠の御国に入る恵みにあずかることです(11節)。そしてその約束のゆえに、聖徒たちは、神のご性質にあずかる者とされるべく、御霊なる主の働きによって主の似姿へと変えられるのです(2コリ3:18)。同時に、自分たちの側でも、あらゆる努力をして(熱意を傾けて:2017訳)、信仰、徳、知識、時制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛が備わってますます豊かにされることが、主から求められているのです。そしてそれは、自分が御国に入る者とされることで満足することなく、主の働きに用いられ、役に立つ者、実を結ぶ者になるということなのです(5-8節)。10節に「つまずく」とありますが、新共同訳では「罪に陥る」と訳されています。主に贖われた者であるのに、世にある欲に惑わされてしまい、あるいは試練や苦難の中で霊の目が曇ってしまい、主が備えられている信仰の歩みから外れてしまうことが「つまずき」なのです。そしてそのようにならないために、自分たちの召しと選びを確かなものとすることが、とても大切なのです。自らの召しと選びを確かにする…。それは、日々、みことばを通し、主との交わりの中でそのことを深く教えられ、からだに染みつくほどになるということです。自分の召しと選びが土台として据えられている者の歩みは、決して揺るがされることがないのです。そのような者とされたいと心から願います。

救いの確信と喜びがありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 5章◇(3月11日)

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」…1ペテロ5:9

善を行なうようにと勧め続けてきたペテロは、手紙の最後においても、その具体的な事柄として、まず教会の長老たちに対して、神の羊の群れを牧しなさい、羊たちの世話をし、群れの模範となりなさいと命じ(2-3節)、その長老たちに従うようにと、若者たちに告げています(5節)。そして、5節の後半から再び「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と、すべての者に対して、高慢にならず、へりくだりなさいと命じています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」(7節)。文脈的にはこの節は10節につながっています。ここでもペテロは、苦難の中にある聖徒たちに対する励ましとして、思い煩わずにすべてのことを主に委ねよ、神は見捨てることはない、心配してくださっているのだ、しばらくの苦しみの後に、あなたがたを堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるのだと告げているのです。その7,10節に挟まれた8,9節において、身を慎んで目をさまし、堅く信仰に立って悪魔に立ち向かいなさいと、ペテロが命じていることに気づきます。そしてそれは、聖徒たちが苦難に遭い、神はなぜこんなことをされるのか…と、不信仰になって神から離れてしまうことが、悪魔の策略であることを示唆しているのです。しかしその試みは、すべての聖徒たちが通らされるものであって(9節)、私たちはそのような時にも、ひたすら主を呼び求め、神に従い、善を行い続けるのです。神のすべての武具をしっかりと着けて、悪魔に立ち向かうべきなのです。恐れ退く者であってはならないのです。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ4:7)。私たちが主に従い続け、キリストの御名により立ち向かうなら、悪魔はすごすごと退散するのです。どんなときにも恐れずに、主にあって悪魔に立ち向かう者でありたいと思います。

勝利の主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 4章◇(3月10日)

「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行ないつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」…1ペテロ4:19(新改訳2017)

「このように」と書き始められている4章では、特に3章18節のことばを受け、聖徒たちもキリストと同じ心構えで自分自身を武装しなさいと、まずペテロは命じています。すなわち、キリストが不当な苦しみを受けつつも、父なる神に対する信頼と服従をもって歩まれた、そのあり方、その心構えと同じようにしなさいと言うのです。「自分自身を武装しなさい」ということばに心が留まります。2節には「あなたがたが…神のみこころに生きるようになるためです」(2017訳)とありますが、神のみこころに生きる、主の御旨に従う、善を行なうということは、昨日も教えられたように、それを何とか阻止しようとする悪魔との、霊的な戦いであるのです。「武装」ということばから、エペソ書6章にある神の武具が連想されます。私たちは敵を見くびって、丸腰で戦うべきではないのです。「神のすべての武具を」(エペ6:13)取る必要があるのです。12節以降にも、試練や苦難に置かれた聖徒たちがどうあるべきかが書かれていますが、13節にはこうあります。「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです」(2017訳)。善を行なって苦難を受けているあなたがたは、それを耐え忍ぶだけでなく喜ぶ者となりなさい…。なぜなら、キリストが再臨される終わりの日に、歓喜にあふれて喜び踊る者となるからです…と、ペテロは言っているのです。善を行なう、神のみこころに従う…。たとえ迫害されないとしても、そこには必ず戦いがあります。しかし、私たちには武装すべき神の武具が与えられているのです。御霊がとともにいてくださり(14節)、弱い私たちを助け支えてくださるのです。真実な創造者、主権者なる主に自分のたましいをゆだね、善を行い続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 3章13-22節◇(3月9日)

「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」…1ペテロ3:14

今日の箇所においてペテロは、迫害の苦しみの中で、聖徒たちがどのようにあるべきかについて語っています。そしてそこでも、2章の後半から繰り返されている「善を行なうこと」の大切さが強調されているのです。「…あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」(13節)、「…善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです」(17節)。「善を行なう」とはどういう意味でしょうか…。それは、神のみこころがこの地になされるべく、みことばに聞き従うことであり、御国の王なるキリストのしもべとして、キリストに倣う者となるということにほかなりません。ペテロは、そのように善を行なうとき、苦しみを受けると言っています。主イエスも「あなたがたは、世にあっては患難があります」と言われました(マタ16:33)。それは、聖徒たちが善を行なうということが、神に敵対する勢力、サタンとの霊的な戦いであることを示唆しています。そしてそれは、日々の生活において「血肉の争い」として、私たちが直面することになるものなのです。しかしペテロは言うのです。「…あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」。たとえ苦しむことがあったても、害を受けて倒れてしまうことはないのです。弟子たちに、世にあっては患難があると言われた主は、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と告げられたのです。善を行なう…そこには自らのうちにある罪との戦いもあります。しかしそれに動揺し、失望して、行なうことをやめてはならないのです。戦いに勝利させてくださる主に助けを求めつつ、善を行い続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 2章11-25節◇(3月7日)

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」…1ペテロ2:21

「りっぱにふるまい」(12節)、「善を行なって」(15節)、「すべての人を敬い」、「王を尊び」(17節)、「横暴な主人に対しても従い」(18節)…と、ペテロは、贖われた聖徒たちに対して、具体的な行動を求めています。そして、それらのことは神に喜ばれることであって、あなたがたが召されたのは実にそのためだと言っているのです。21-25節には、まさにそのようにして生涯を全うされたキリストの歩みが描かれていますが、ここで引用されているのはイザヤ書53章のことばです。苦難のしもべとして神に従われたメシア…それは私たちの罪を負い、私たちが罪を離れて義のために生きるためであった…あなたがたは、そのキリストの打ち傷のゆえに、罪から解放され、自分のたましいの牧者である神のもとに帰ったのだ…と、ペテロは、その救いの恵みの大きさと、聖徒たちが生かされている意義を、あらためて強調しているのです。「義のために生きる」…。それは、神のため、キリストのため、悪と不義に満ちたこの世界に、神のみこころがなされるために生きる、ということにほかなりません。キリストはその足跡に従うようにと模範を残された…とペテロは言っていますが、その模範は主ご自身であって、それはみことばを通して啓示されているのです。私たちはそのキリストの足跡に従うべきなのです。キリストから決して目を離してはならないのです(ヘブ12:2)。そのような聖徒たち一人ひとりを通して、神は人々の心とたましいに働きかけ、神をあがめる者たちを起こしてくださいます(12節)。そのようにして神の国は拡大し、建て上げられていくのです。福音を語るだけではなく、私たちが主を畏れ、従う、そのあり方、生きざま、存在のすべてを、主は用いてくださるのです。日々、その主の足跡に従う者でありたいと願います。

神に喜ばれる者となることができますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 2章1-10節◇(3月6日)

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」…1ペテロ2:5

4-10節には、神の民の特権と義務が述べられています。それはイスラエルの民にまず与えられ、キリストによって異邦人にも拡げられたのです。ペテロはそのキリストが、「人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」だと言っています(4節)。それは、主が人々から拒絶され、十字架につけられて殺され、しかし死からよみがえられ、今も生きておられ、ご自身を信じる者にいのちを与える方だとの宣言にほかなりません。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」と、ペテロはさらに語ります。聖徒たちもキリストとともに古い罪の自分に死に、キリストとともに死からよみがえらされ、生ける石につながることによって、神のいのちに生かされる「生ける石」とされるのです。そして、霊の家に築き上げられる、すなわち、キリストのからだ、教会の各器官として尊く用いられるのです。このときペテロは、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」との主のことばを思い出していたに違いありません。「聖なる祭司として…霊のいけにえをささげなさい」。祭司とはいけにえをささげて神を礼拝する者です。また神と人との間に立ちとりなす者です。6節に引用されているイザヤ書28章16節を見ると、「失望させることがない」ではなく、「慌てふためくことがない」(2017訳)となっています。神の民の共同体に加えられた者として、礼拝をささげ、自分自身をささげる…。どんなときにも主に拠り頼み、決して失望させられない、恥を見ない(別訳、脚注)、慌てふためかない者とされる…。主の救いのみわざを宣べ伝え(9節)、彼=キリストに信頼する者がさらに起こされるよう労する…。それこそが、主が聖徒たちに願っておられることなのです。終わりの時代、失望と恐れの中にある人々のためにとりなし、主にある平安と希望、永遠のいのちを伝えたいと願います。

主は生きておられます。祝福と守りがありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 1章13-25節◇(3月5日)

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」…1ペテロ1:13

12節までに語られているのは、私たちの救いがキリストによって与えられ、それが再臨の日に完成すること、私たちが朽ちることのない資産を受け継ぐ者とされている、ということです。しかしペテロは、だからと言って、この地上での歩みがどうでもいいと考えるべきではない、また、自分だけ良ければそれでいいとすべきではない、やがてもたらされる恵みを待ち望みつつ、この地上での生活が、聖徒としてふさわしいもの、神に喜ばれるものとなるようにと、手紙の読者に訴えているのです。13節に「心を引き締め」とありますが、その直訳は「心の腰の帯をきつく締め」という意味です。それは緩んだ状態ではないのです。戦いに挑む者や真剣に仕事に取り組む者が帯やベルトをきつく締め直す光景が思い浮かびます。また「身を慎む」ということばには、「酒に酔わない状態を保つ」という意味が含まれています。感覚を研ぎ澄まし、自己制御できるようにするのです。そしてそのペテロのことばには、聖徒たちが直面する、この世の支配者との霊的な戦いが示唆されているのです。17節にもこう書かれています。「地上にしばらくとどまっている間の時を(この世に寄留している時を:2017訳)、恐れかしこんで過ごしなさい」。地上の生涯の先にある永遠への道を歩んでいる者として、この世のあり方が神に喜ばれるものとなるようにするのは当然のことです。パウロは「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした…」と言っていますが(2コリ11:2)、私たちはキリストの花嫁として、小羊との婚宴の座に着くまで、純潔を保つことが求められているのです。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(16節、レビ11:44)と言われる神に従い、「生活のすべてにおいて聖なる者」(15節、2017訳)となるべく、いよいよ心を引き締め、身を慎んで、備えられた道を歩み続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 1章1-12節◇(3月4日)

「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」…1ペテロ1:4

この手紙をしたためたペテロは、最初の挨拶の後、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」とのことばをもって、本文を書き始めています(3節)。そしてそれに続けて、神がどのようなことを私たちになしてくださったかを記し、ほめたたえられるべき理由を明らかにしているのです。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに…」。ペテロはまず、神がいかに愛とあわれみに満ちたお方であるかを強調しています。神に背を向け、身勝手な歩みをしていた罪深い私たちを、神は見捨てず、滅ぼさず、罪の泥沼の中から救い出すために、かけがえのないひとり子をこの世に遣わし、十字架にまでつけてくださったのです。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって…」。そのひとり子、イエス・キリストは、十字架にかけられ、聖い血潮を流し、そのいのちを代価として支払って、私たちの罪を赦し、死からいのちへ、やみから光へと移してくださいました。それだけでなくキリストは、墓から3日目によみがえられたのです。21節には、「死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神」と書かれています。「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」。そのようにキリストがよみがえられたからこそ、罪赦された私たちは、さらに永遠のいのち、神の国という霊的祝福にあずかり、朽ちることのない資産を受け継ぐ者とされたのです。パウロも、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と言っています(1コリ15:17)。私たちも神によってよみがえらされ、終わりの日に御前に立つ者とされていることを覚え、感謝したいと思います。

恵みと平安がますます豊かにされますように。

◇聖書箇所: レビ記 27章26-34節◇(3月3日)

「人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。」…レビ27:29

レビ記27章の前半には、誓願のささげ物の規定が書かれていましたが、26節以下にはその対象外のものが挙げられています。家畜の初子、聖絶されるべきもの、そして地の十分の一です。「…主のものである」と繰り返し書かれ、それらの所有者は主であることが強調されています(26,28,30節)。それは主からの明確な指示であって、民はその教えを常に覚えつつ歩んでいたのです。ヤコブは、石の柱を立てて主に誓願を立てたとき、「すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と言いました(創28:22)。また申命記14章22節には、「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない」と十分の一のささげ物の規定が書かれています。さらに預言者マラキを通して主は民に、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。…わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と告げられました(マラ3:10)。地の十分の一、それは主のものだからです。それは所有者の元に返されたのです。詩人はこう言っています。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩24:1)。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(詩100:3)。またパウロはこう告白しています。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ロマ14:8)。罪に汚れ、聖絶されるべき者のために、主はご自身のひとり子=初子を与え、そのいのちによって私たちを贖ってくださいました。私たちのいのちさえも主のものであることを覚え、すべてを主に明け渡して生きる者とされたいと願います。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 27章1-25節◇(3月2日)

「もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。」…レビ27:8

今日の箇所には、誓願のささげ物についての規定が書かれていますが、そのささげ物は7章16節などにすでに記されているものです。ここではさらに詳しく、人、家畜、家、土地のそれぞれにおける教えが示されています。1-8節は人における場合です。「人身評価にしたがって」とありますが、新共同訳では「終身誓願に相当する代価を」と訳されています。それぞれの年齢と性別に応じた額を主が定め、誓願のささげ物の代価として、お金をささげるようにと命じられたのです。貧しくてそれを用意できない者に対しては、祭司が個別に評価をしました。したがって、その「人身評価」ということばの意味は、人を値付けするということではなく、それぞれに応じた額を誓願のためにささげればよいという、主の配慮であったのです。マタイの福音書25章にある「タラントのたとえ」では、主人はしもべたちの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントのお金を預けて旅立ちました。そして、自分にできることをしてそれを増やした者は主人から称賛され、地に隠して何もしようとしなかった者は厳しく叱責されたのです。主は、一人ひとりから、それぞれにふさわしい分を受けることを願っておられるのです。その主は、聖徒たち一人ひとりに対して計画を持っておられ、異なった賜物を与えておられ、実を豊かに結ばせてくださいます(ヨハ15:16)。そしてその一人ひとりを通して、ご自身の働きを推し進められるのです。神の国を打ち立てられるのです。主は決して、負いきれない重荷を負わせ、苦しませるような方ではないのです。弱い私たちがその働きを全うできるよう、とりなし、支えてくださっているのです。主が備えてくださっているその道を、感謝と平安のうちに進んで行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。