◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第一 2章1-12節◇(1月30日) 「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」…1テサロニケ2:4 2章には、パウロたちがテサロニケの人々にどのようにして関わり、福音を伝えたかが書かれています。パウロたちは、テサロニケに来る前、ピリピにおいて鞭打たれ、投獄されるという大きな苦難を受けましたが、テサロニケにおいても、「激しい苦闘」のうちに人々に福音を語ったのです。その具体的なことは不明ですが、その働きを妨害する勢力があったことがうかがい知れます。しかしパウロたちは、自分が神から認められ、福音を委ねられた者としての自覚を強く持ち、その神に喜んでもらおうとして、キリストの救いと御国の到来を、人々に大胆に語り告げたのです。パウロは人からの栄誉を求めてなどいなかったのです。またパウロたちは、テサロニケの人々を心から愛し、母が我が子を養い育てるように優しくふるまい、彼らに負担をかけないため、昼夜働きながら福音を宣べ伝えました。そしてパウロは、自分たちのいのちまでも喜んで与えたいと思っている…とさえ言っているのです(8節)。同時にパウロたちは、テサロニケの信徒たちが、神の召しにふさわしく歩むよう、父親のような権威をもって勧め、励まし、おごそかに命じたのです。そのようなパウロたちの態度は、主イエスを模範とし、神に喜ばれるあり方を絶えず尋ね求め、神のみこころに従い通したということにほかなりません。そしてそれは、たとえパウロたちのような伝道者とならなくても、キリストに贖われたすべてのキリスト者に対して、神が同じように求めておられることなのです。主イエスのように、愛といつくしみの心を持ち、受けるよりも与えることを優先し、神に喜ばれることを選び取っていく者、また、イエスさまならどうされるだろうか…と常に自らに問いかけ、示されたことを実行する者でありたいと思います。 聖徒としてふさわしく歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第一 1章◇(1月29日) 「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」…1テサロニケ1:3(新改訳2017) テサロニケはローマの属州マケドニアの首都であり、エーゲ海に面する栄えた港町でした。パウロたちは2回目の宣教旅行のときにそこを訪れ、3回の安息日にわたり会堂でパウロが説教しましたが、ユダヤ人たちが暴動を起こしたため、逃げるように町を去ったのです(使17:1-10)。そのような短い滞在期間での宣教にもかかわらず、福音は力と聖霊と強い確信を伴って人々に届き(5節)、教会が誕生しました。そして信徒たちは迫害の中にあっても、信仰から出た働きを推し進め、愛に根差して労苦をいとわずに奉仕し、再臨のキリストへの望みを抱いて試練を耐え忍んでいたのです。その彼らの存在は、マケドニア地方に住むすべての信者に対する慰め、励まし、模範となりました。そしてそれは、彼らが、聖霊によってキリストから与えられたものを周りに受け継ぐ者として、主に尊く用いられたということにほかなりません。信仰、希望、愛…それらは、いつまでも残るものとしてパウロが挙げていますが(1コリ13:13)、主が賜物として私たちにくださるものなのです。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです」(6-7節、2017訳)。できてまだ間もないテサロニケの教会の信徒たちは、信仰と希望と愛をもって神と人々とに熱心に仕え、周りに対して良い影響を及ぼし、神の国の祝福を押し流す存在として用いられました。主は、すべてのキリスト者たちに対して、今を生きる私たちにも、そうあるようにと願っておられるのです。みことばを受け入れて主に倣う者となり、御霊によりさらに主の似姿に変えられるようにと、願い求めていきたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 14章26-45節◇(1月28日) 「さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。」…民数記14:31 わたしを侮った者たちは約束の地に入れないと、モーセに語られた(23節)主は、そのことを民に伝えるようにと告げられました。29-36節にその具体的な内容が書かれています。①20歳以上の登録された者たちは、ヨシュアとカレブ以外はみな約束の地に入れず、荒野で死に絶える。②20歳未満の次世代の者たちは、約束の地に入ることが許される。ただし40年の間、荒野に留まり、親の世代の者たちの背信の罪の責めを負う。③偵察隊のうちヨシュアとカレブ以外の10人も、地を悪く言いふらして民を落胆させたゆえに死ぬ…。そして主は、その3番目のことを速やかに執行され、彼らは疫病で倒れて死んだのです。その後、そのことばを聞いた民が嘆き悲しみ、自分たちの判断で約束の地に上って行こうとしたため、葦の海を通って荒野へ出発せよと主から命じられていた(25節)モーセは、彼らを必死で制止しました。それにもかかわらず彼らは、その行動を止めることなく上って行き、結局、アマレク人とカナン人によって討たれてしまったのです。この14章全体から教えられること、それは、主に対する民の不信仰と不従順、自分たちの考えに固執する姿勢が、彼らに死をもたらしたということです。そしてそのような背信の民のうちに、主はともにおられないということです。民が勝手に山地に上っていったとき、主の臨在を象徴する契約の箱は宿営の中に置かれたままでしたが、そのことが主と民との関係を如実に物語っているのです。しかし同時にそこには主のあわれみがあります。主は民を根絶やしにせず、次世代の者たちを生かされたのです。そしてその者たちはその後、40年間の荒野の訓練を受けることになるのです。「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです…」(ロマ11:22)。イスラエルの民の歩みを教訓とし、信仰と従順をもってただ主に信頼する者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 14章1-25節◇(1月27日) 「主はモーセに仰せられた。『この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。』」…民数記14:11 偵察隊の報告を聞いて落胆した民はみな、嘆いて叫び、一晩中泣き明かしました。そして、なぜ主は我々を敵の剣に倒れるようにされるのか…と言って主ご自身を非難し、モーセとは別の指導者を勝手に立て、エジプトに戻って行こうとさえしたのです(4節)。モーセとアロンはそのことを知ると全会衆の前にひれ伏しましたが、5節には「主の前にひれ伏した」とは書かれていません。それは民の反逆的な態度を自分たちの罪として主に悔い改めたというよりも、暴走する民をなんとか抑えたいとする中で、とっさにそのような行動を取ったかのように思えます。一方、偵察隊のメンバーであったカレブは再び会衆の前に出て、今度はヨシュアと一緒に民を説得しようとしました。主が私たちをあの地に導き入れられる…主に背いてはならない…主が私たちとともにおられる…敵を恐れてはならない…(7-9節)。しかし民は聞く耳をまったく持たず、二人を石で打ち殺そうとさえしたのです。主はそんな民に怒りを燃やし、疫病で滅ぼそうとされました。カレブのことばは、本来、民の指導者であったモーセとアロンが率先して語るべきものでした。申命記1章にそのようなモーセのことばはありますが、そこには、「主は…この私に対しても怒って言われた。『あなたも、そこに、入れない』」とも書かれているのです(申1:37)。そして実際、約束の地にはモーセとアロンは入れず、ヨシュアとカレブの二人だけが入ることができたのです。「…それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(1コリ10:11)。「…だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」(ヘブ3:12)。新約聖書の記者たちは、この出来事を教訓とせよと命じています。主はいつの時代においても、ご自身への信仰に立つ者を求めておられるということを、あらためて覚えたいと思います。 ますます主に信頼して歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 13章25-33節◇(1月26日) 「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。』」…民数記13:32 偵察隊は40日間の任務を終えてカデシュに帰還し、モーセや民の前で、持ち帰った果物も見せながら、その報告をしました。その内容は、土地自体は乳と蜜の流れる良い地であるが、住民は屈強で、町々は城壁があり堅固で、アナクの子孫さえいた、というものでした。アナク人とは、大きくて背が高い民であり、立ち向かえる者がいないと思われていた存在です(申9:2)。それを聞いた民は動揺しました。するとユダ族代表として偵察に参加したカレブは、ざわめく民の前で、ぜひとも上って行ってその地を占領しよう、我々はその者たちに必ず勝てると、民を鼓舞して言ったのです。しかし偵察隊の他の者たちは異口同音に、勝てない、攻め上れない、アナク人と比べると自分たちはいなごのように見えた…と、否定的なことばばかりを並べ立てたのです。彼らのその報告は、肉の目に映った事柄を自分たちの主観を織り交ぜて語ったものであり、それは事実ではありませんでした。何よりも、イスラエルの神が自分たちを助けてくださるとういう霊的事実を、12部族の各代表でありながら、彼らは受けとめていなかったのです。「あの民は私たちよりも強い…」(31節)。確かにそうかもしれません。しかし彼らは、信仰に立って、「あの民よりも神は強い」と告白しようとはしなかったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(2コリ4:18)。信仰によるイスラエルの民である私たちもまた、どんな時にも、すべてのことにおいて、霊の目をもって見るべきです。しかしその霊の目はいつの間にか曇ってしまうのです。御霊によって常に霊の目を開かれ、信仰に立って歩むことができるよう、主に祈り求めたいと思います。 主からの励ましがありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 13章1-24節◇(1月25日) 「『あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。』その季節は初ぶどうの熟すころであった。」…民数記13:20 主はモーセに、ご自身がイスラエルの民に与えようとしておられるカナンの地を偵察させるようにと、モーセに命じられました。そこでモーセは部族ごとにひとりずつを選ばせ、1-10章に記されている族長とは違う意味での「族長」(1節)、つまり各部族からの代表者として12人を集めて偵察隊を結成し(4-15節)、彼らを遣わしたのです。その偵察にあたってモーセは、先住民について、町について、土地について、どのような点に着目すべきか、具体的な指示を出しましたが、それに加えて、「勇気を出して」その地の果物を取ってくるようにと命じました。それは、単にじっと隠れて偵察するだけではなく、果物を取るという行動が先住民に見つかれば、侵入者として攻撃される恐れがあったからです。幸いにも偵察隊は見つかることなく、ぶどう、ざくろ、いちじくの実を取り、課せられた任務を果たすことができました。その偵察隊のメンバーに求められたのは、単に斥候として現地の状況を把握することだけではなく、民の代表者としてふさわしい役割でした。すなわち彼らには、主がご自身の民を導き入れようとしておられる地を、自らの目で見、足で踏み、そこを「約束の地」であると確信し、戻って来てそのことを民に伝え、励まし、導くための信仰とリーダーシップが求められ、さらには、先住民からの攻撃をも恐れない、勇敢さが必要とされたのです。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)。主は私たちにも、同じように、信仰をもって恐れずに進む者、人々に自らが体験した主のみわざを証しして励ます者、主の約束のことばを分かち合い、約束の地、天の御国を指し示し、民の先頭に立って進む者となるよう願っておられるのです。その自覚を持ち、それにふさわしい者として整えられつつ、主に用いられたいと願います。 恐れずに進むことができますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 11章16-35節◇(1月23日) 「民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、-最も少なく集めた者でも、10ホメルほど集めた-彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。」…民数記11:32 「肉が食べたい」という民の不平を聞かれた主は、怒りを燃やされましたが、ご自身の主権と御力を民に知らしめるべく、モーセに対して、「あなたがたは肉が食べられる」と告げられました。しかもそれは一ヶ月もの長期間であり、ついには吐き気を催すほどだと言われたのです。しかしモーセにはその主のことばが信じられませんでした。なぜなら民の人数は男性だけで60万人もおり、民全体に一ヶ月間行き渡る肉の量は、気の遠くなるようなものだったからです。エジプトから連れて来た羊や牛をほふっても到底足りないのでは…と言うモーセに対し主は、「わたしのことばが実現するかどうかは今わかる」と、不信仰なモーセをたしなめるようにして答えられました。すると間もなく主の元から出た風によって大量のうずらが運ばれて来て、宿営の上に落とされました。それは2キュビト=約90センチの高さにまで積み重なり、一番少なく集めた者でも一人当たり10ホメル=2300リットル、ドラム缶10個以上もの量であったのです。民は久々の肉にかぶりつきましたが、それをまだかみ終わらないうちに神の怒りが民に向かって燃え上がり、彼らは非常に激しい疫病で打たれ、キブロテ・ハタアワ、「欲望の墓」という意味の場所に埋葬される事態となったのです。明らかにそのうずらは、神が好意をもって与えられのではなく、怒りをもってさばくために与えられたものでした。「旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」(1ペテ2:11b)。イスラエルの民は、主から毎日与えられるマナに感謝し、それで満足すべきだったのです。肉の欲にとらわれると、それは主への不満、不信仰につながるのです。それは私たちにとっても同じです。与えられているものへの感謝を忘れず、必要を満たしてくださる主に信頼して歩み続けたいと思います。 主の恵みを覚えることができますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 11章1-15節◇(1月22日) 「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」…民数記11:15 イスラエルの民は、荒野の生活において、毎日同じマナしか食べていないことに飽き飽きし、主に対して「繰り返し激しく不平を」(1節、2017訳)言いました。彼らは、奴隷から解放されてエジプトを脱出した感謝と喜びを忘れ、魚や野菜を食べていたことを思い出し、「ああ、肉が食べたい」と、主に不満をぶつけたのです。すると主はそれを聞いて怒りを燃やし、宿営の端を火でなめ尽くすようにされましたが、民は今度はモーセに向かってわめき叫び、モーセの祈りによってその火は消えました。その後も民の不満や嘆きは収まらず、主はまたもや怒りを燃やされ、モーセも腹立たしく、また辛い思いになり、たまらず主に訴えましたが、それは、民を代表してのものではありませんでした。自分がなぜそんな目に遭わなければならないのかという自己憐憫から出たものであり、迷惑を被っているという被害者としてのものであり、いっそのこと殺してほしいという否定的なものであったのです。「なぜ、なぜ…、私、私…」という彼のことばにそれが表われています。そのモーセの訴えは、民の指導者としてのとりなしではなく、全能の主に対しての、助けとあわれみを求める祈りではなかったのです。民やモーセのそのような弱さは、私たちのうちにもあります。しかしみことばは、「すべてのことを、つぶやかず(不平を言わずに:2017訳)、疑わずに行いなさい」と命じているのです(ピリ2:14)。しかしそれは、ただ黙って神に従い、祈るのもやめるということではありません。主は、私たちのどんな思いもしっかりと受けとめてくださるお方であって、苦しいとき、辛いときは、不満を漏らし、つぶやくのではなく、「主よ、助けてください」、「〇〇を与えてください」と、主権者なる主に向かって率直に叫び求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ7:7)。幼子のような純粋な心で、主に求めたいと思います。 主が必要を満たしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 10章11-36節◇(1月21日) 「こうして、彼らは主の山を出て、3日の道のりを進んだ。主の契約の箱は3日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。」…民数記10:33 エジプトを出て2年目の第2の月の20日に、雲が幕屋から離れて上ったので、民は秩序正しく隊列を組み、宿営を出発して荒野に旅立ちました。その順序は主が定められたもので、2章の宿営の場合と同じです。幕屋の周りの東側に宿営していた3部族、ついで南側、西側、北側と、各グループを代表する4つの部族の旗が高く掲げられ、民は整然と荒野を行進していったのです。その先頭を進むのは主の契約の箱でした。それを運んでいたのはアロンとその子らによる祭司です。また、幕屋の聖具を運ぶケハテ族のレビ人たちは、6番目に出発するガド族の後に、さらに幕屋の幕と板に関する用具を運ぶゲルション族とメラリ族のレビ人たちは、3番目に出発するゼブルン族の後に出発しました。そのように分かれているのは、ケハテ族が到着するまでに幕屋を建て終えておくためであり、民が次の宿営地に着いたらまず、主に礼拝がささげられたことが示唆されているのです。ところで、2章には12部族の族長の名前が記されており、10章にも同じ名前が出てきますが、その肩書きは「軍団長」であり、各部族も「軍団」と呼ばれています。それはつまり、民が荒野を進んでいく間、彼らを襲う敵との戦いが想定されているということです。しかし民は「主の民」であって、その隊列の先頭には主の臨在の象徴である契約の箱が進み、また同じく主の臨在を表す雲が彼らの上にあり、民は主の守りのうちに進み、敵の襲来においても、主ご自身が戦われ、勝利をもたらされたのです。また、宿営の間も主は彼らの中に住まわれたのです。それはモーセの祈りのことばどおりなのです(35-36節)。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33b)。主が私たちの先を進まれるのです。主が戦って勝利を与えられるのです。その主の御名を旗のように高く掲げつつ、恐れずに進んで行きたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 10章1-10節◇(1月20日) 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を召集し、また宿営を出発させなければならない。」…民数記10:2 主はモーセに、銀のラッパを2本、打ち物によって作らせるようにと命じられました。それを吹き鳴らすことによって、民を召集したり、宿営から出発させる合図とするためです。そのラッパの音の鳴り方によって合図は異なっており、誰がどう行動するかは主によって定められ、民はそれをあらかじめ伝えられて理解していたのです。2本のラッパが同時に長く吹き鳴らされた場合には、全会衆が会見の天幕の入口のモーセのところに集まりました。2本のラッパの音色や音程は同じではなかったので、民は吹き鳴らされたラッパの音を聞き、ラッパの数が1本か2本かを容易に判断できたのだと思われます。また、1本のラッパが短く吹き鳴らされた場合には、幕屋の東側に宿営している3部族が出発し、そのラッパは2度、3度…と続き、宿営していた残りの9部族も次々に、そのラッパの音を合図にして、秩序正しく順番に出発したのです。さらにそのラッパは、民への合図のためだけでなく、侵略してくる敵との戦いや、例祭と新月の日の喜びのときにも吹き鳴らすことが求められました。「主の前に覚えられ、敵から救われるため」とあります(9節)。それは、そうしなければ主に覚えられないということではなく、ラッパを吹き鳴らすという行為を通して、神への信仰と服従と賛美を表すという意味があったのです。私たちにとっての「ラッパ」とは、祈りの叫びであり、賛美の歌声であり、信仰告白のことばです。主は私たちの必要をご存じですが、その主は同時に、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と命じておられるのです(ピリ4:6)。そして私たちがそのようにするとき、主はその従順を喜ばれ、私たちを神から引き離そうとする悪しき敵の手から、救い出してくださるのです。主に覚えられていることを感謝しつつ、喜びのラッパを吹き鳴らす者でありたいと思います。 主が勝利をもたらしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 9章◇(1月19日) 「雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。」…民数記9:17 15-23節には、神の臨在を象徴する不思議な雲に導かれて行動するイスラエルの民の姿が記されています。その雲は、幕屋が建てられた日に出現し、昼間は幕屋全体をおおい、夕方から朝までの間は火のようなものとなって、幕屋の上にとどまっていたのです。出エジプト記では、「昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」と書かれています(出13:22)。イスラエルの民はエジプトを出て、荒野で宿営をしながら約束の地へ向かっての旅を続けていましたが、その出立の時と宿営の場所は、民とともにあった雲が示しましたた。すなわち、雲が天幕を離れて上ればすぐに旅立ち、雲が天幕にとどまっていればその場所に民もとどまり続け、動いていた雲が止ればそこに宿営したのです。そのようにして民は、雲の動きを主の命令として受けとめて、それに服従しました(23節)。主が命じられれば、たとえ宿営がたった1日でも、また真夜中であっても、すぐに幕屋をたたんで出発し、逆に1年以上も同じ場所に居続けるという、全き従順が求められたのです。特に幕屋に関わる奉仕を担っていたレビ人たちにとっては、いつ命じられても速やかに行動できるよう、すべての面において絶えず備えておくことが必要とされたのです。そしてそれは、自分の思いや都合を主に完全に明け渡すということにほかなりません。現代においては、そのような雲が私たちの前に現われることはありません。しかし主は確かに私たちとともにおられ、ご自身のみことばをもって、また御霊の促しによって、私たちの歩みを導いてくださるのです。そこに求められるのは全き従順です。主からいつどのように示されても、ただちに行動するための、霊的、実際的な備えです。自分の思いと都合を主に明け渡す献身の姿勢なのです。そのようにして、確かな主の導きに従い続けていく者でありたいと思います。 進むべき道が示されますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 8章◇(1月18日) 「レビ人は罪の身をきよめ、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前にささげた。またアロンは彼らの贖いをし、彼らをきよめた。」…民数記8:21 5-26節にはレビ人についての教えが書かれています。主はモーセに、彼らをきよめ、「奉献物」として主の前にささげるよう求められました。それは彼らが、会見の天幕での奉仕を務め、アロンとその子らが祭司として行うことを補佐するのにふさわしい者となるためです。彼らは、罪のきよめの水を振りかけられ、全身にかみそりを当てて毛を剃り、衣服を洗って身をきよめました。24-26節には会見の天幕の奉仕者の年齢制限が示されています。それは25歳以上50歳未満と定められていました。50歳になれば奉仕の務めからを退き、後継者の補助や育成にあたったのです。その理由は書かれていませんが、若い世代の者たちの奉仕の機会がきちんと与えられるようにし、共同体における新陳代謝がなされるようにするという意味があったでしょう。また、高齢になると避けられない、肉体的、知的な衰えも考慮されたでしょう。そのようにしてレビ人たちは身をきよめ、健全な状態で主の働きに携わることが求められたのであり、それはイスラエルの民全体に対して影響を及ぼすことであったのです。なぜなら、イスラエル人のすべての長子の代わりにレビ人が主のものとされ、聖別されていたからです。レビ人たちはすべて命じられたとおりにしましたが、さらに、彼らの罪を贖うための動物のいけにえが求められました。いくら人間の側が努力しても、完全にきよくはなれないからです。それはキリストの贖いの予型です。「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」(レビ11:44)。私たちは、キリストへの信仰によって義とされ、罪をきよめられ、神の民、聖なる祭司とされている者です。ゆえに、世的なものに染まらずに身をきよく保ち(ロマ12:1-2)、地の塩として働くことが求められているのです(マタ5:13)。そのことをしっかり覚えたいと思います。 ますます主に用いられる者とされますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 7章42-65節◇(1月16日) 「6日目にはガド族の族長、デウエルの子エルヤサフであった。」…民数記7:42 12部族の長による祭壇奉献のためのささげ物の続きが書かれています。ささげたのは、第6日はガド族の長、デウエルの子エルサヤフ、第7日はエフライム族の長、アミフデの子エリシャマ、第8日はマナセ族の長、ペダツルの子ガムリエル、第9日はベニヤミン族の長、ギデオニの子アビダンで、ささげ物の内容は第1日から第5日の5部族のときとまったく同じです。そしてそれは明日の箇所に書かれている、第10日から第12日の3部族についても同様です。しかしながらそれらの記述を省略し、「第1日と同じ物がささげられた」とは書かれていません。当然であることとして多くのスペースが割かれ、12日分が延々と繰り返されているのです。それは読む者にとっては退屈で、読み飛ばしてしまう者も少なくないかもしれません。現代においては「効率」が重視されます。繰り返しや余分なものは排除され、必要なものだけが求められる風潮にあります。しかし、神はここで、そのようにしてはおられないのです。それは、12の部族を等しく扱っておられるからであり、主にとって、そのささげ物の記述においても、「省略可能」な部族など一つもないのです。そのように神は、一つ一つの部族を、そしてそこに属する一人ひとりの民を、ご自身の大切な者として、愛し、尊び、心に留めておられるのです。主イエスは、いなくなった1匹の羊を、99匹の羊を残して見つかるまで捜す人のたとえを話されましたが、神はそのように、私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として愛してくださっているのです。良き牧者なる主は、ご自分の羊を決して十把一絡げに扱わず、具合が悪くないか、順調に成長しているかと、一人ひとりのことを、常に気に掛けてくださっているのです。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)。私たち一人ひとりの名前が主に知られ、いのちの書に書き記されていることを感謝したいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 7章1-23節◇(1月14日) 「しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」…民数記7:9 1節に「幕屋を建て終わった日」とありますが、それは、エジプトを出て第2年目の第1月第1日のことです(出40:17)。モーセはその日に、祭壇や聖なる用具なども含めた幕屋全体に油を注いで聖別しました。また12部族の長たちは、覆いのある車を族長2人で1両、雄牛をそれぞれ1頭ずつ、主の前に持って来てささげたのです。それらは幕屋を分解して運搬するときに使用するものですが、幕屋の完成を祝うときにそれらも合わせて確保し、約束の地への荒野の旅を続けるべく体制を整えられた主の導きが心に留まります。そのことを通して、幕屋を建て終えて満足してしまうのではなく、目指すべきゴールはその先にあるのだという意識が、一人ひとりに植え付けられたに違いありません。ささげられたその車と雄牛は、レビ人の3氏族の奉仕に応じて割り当てられました。幕に関する奉仕を担っていたゲルション族には車2両と雄牛4頭が与えられ、板に関する奉仕を担っていたメラリ族には、その倍の車4両と雄牛8頭が与えられました。しかし、契約の箱や祭壇などを肩にかついで運ぶケハテ族には、車も雄牛も与えられなかったのです。主はそのように、必要なものを必要な分だけ与えて、それぞれの奉仕にあたらせたのです。12部族がささげたものがレビ族の奉仕に用いられ、主への礼拝という、民にとっての中心的な営みがきちんとなされ続けていった…。そのあり方から、私たちが主にささげる献金もまた同じであるということを教えられます。「主のご用のためにお用いください…」との祈りとともに礼拝において献金がささげられますが、まさしく主は、ご自身の働きのために、その尊いささげ物を祝福して用いてくださるのです。献金は、自らの献身の思いと主への感謝を表すものであると同時に、実際にそれが用いられ、主の働きが進んでいくということを覚えたいと思います。 主が必要を満たしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 6章◇(1月13日) 「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。」…民数記6:5 6章にはナジル人の聖別の誓願に関する教えが書かれています。ナジル人とは、「分離する、聖別する」という意味の「ナーザル」ということばが由来で、特別な目的のために、神への聖別の誓願を立てる者を指しますが、その中には、サムソンのように生涯ナジル人として生きる者と、一定期間だけそのようにする者とがいました。3節以降にはそのナジル人が守るべき事柄が事細かに記されていますが、ぶどうの木から生じるものを食べないことや、頭の髪の毛を切らないことなど、その理由を理解するのが困難なものもあります。しかしいずれにしても、ナジル人たちは、特に祭司のような特別な任務に就くことなく、聖別された者としての強い自覚を持ちつつ普通に生活をし、主が命じられた規定に従って、さまざまないけにえを主の前に忠実にささげたのです。汚れたものから自らを分離する、聖別する…。ナジル人に求められるそのあり方は、一定の誓願の期間が終われば無視しても良いというわけではありません。そしてそれは、霊的な意味において、すべての聖徒たちが主から求められていることなのです。パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」と命じています(ロマ12:1、2017訳)。24-26節は、アロンとその子らが民を祝福するための祈りであり、礼拝における祝祷として用いられていますが、自分をきよく保つようにと命じている6-7章の文脈の最後に、このことばが記されていることに心が留まります。主が私たちに御顔を向けられるということは、私たちに御目を留めるということにほかなりません。ふだんの歩みの一部始終を見られても恥じることのないよう、主を畏れ、主の教えに聞き従う者でありたいと思います。 主の御旨に従って歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 5章◇(1月12日) 「『またこののろいをもたらす水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももをやせ衰えさせるように。』その女は、『アーメン、アーメン』と言う。」…民数記5:22 5章と6章の内容は、1-4章までとはがらっと変わり、イスラエルの民が身を汚すことなくきよく保つこと、霊的に整えられることの大切さが、挿入的に語られています。その中でも11-31節は、証明できない姦淫の罪に問われた女性の扱いであり、のろいをもたらす苦い水を飲ませ、その人に起こる反応によって罪の有無を判定するというあり方は、読者に特異な印象を与え、それをどう受けとめるべきか…と、私たちも困惑してしまいがちです。幕屋の床のちりを入れ、のろいの書き物を洗い落としたその苦い水自体が、人の肉体に特別な作用をもたらすということは、生理学的には考えにくいことです。しかしそれを飲む者のすべてを知っておられ、隠されたことを明らかにされる主ご自身が、罪を犯した者の心とからだに働きかけ、その罪が隠蔽されたり放置されることがないようにされたのであり、すべての者は、モーセに告げられたこの主のことばを通して、主の前に畏れおののき、身をきよく保てという、全体を通して示されているメッセージを、自らのこととして受けとめるべきなのです。姦淫の疑惑の中にある女性は、祭司から命じられて主の前に立たせられ(16節)、のろいの誓いを誓わせられ、アーメン、そのとおりになりますようにと言うことが定まっていました。おそらく、罪を犯していながら平然とそのように言える者は誰もいなかったでしょう。ヨハネは、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と告げています(1ヨハ1:9)。それはキリストの贖いによる救いであり恵みです。しかし神の民として、世にあって自分をきよく保つということは、旧約の時代から変わらない神のみこころなのです。知らぬ間に霊的に汚染されてしまうことがないよう、しっかりと祈り備えて歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 4章21-49節◇(1月11日) 「彼らのになうものと奉仕にかかわるゲルション族のすべての奉仕は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは、彼らに、任務として、彼らがになうものをすべて割り当てなければならない。」…民数記3:49 民数記4章には、レビ人の3つの氏族が担う幕屋の奉仕について記されており、後半である今日の箇所には、ゲルション族とメラリ族の任務が明らかにされています。実際に奉仕にあたるのは30歳から50歳までの者たちであり、登録されたその人数はレビ族全体で8,580人いました。3つの氏族は幕屋に使われる聖なるものや器具を分担して運搬しましたが、ケハテ族はあかしの箱や祭壇などを、ゲルションは幕と付属のものを、メラリ族は板と付属のものを、それぞれアロンとその子らの指示に従って行動しました。またアロンとその子らは、ケハテ族が運ぶ前に、青色と布とじゅごんの皮により、聖なるものに覆いをかぶせる必要もありました。もしその作業をしないでケハテ族のレビ人たちがその聖なるものを一目でも見るなら、主にいのちを取られてしまったからです(20節)。そのように、アロンとその子らの役割は重要でした。アロンの子のうちエルアザルはケハテ族を監督する責任を持ち、一方イタマルはゲルション族とメラリ族を同様にして受け持ったのです(16,28,33節)。たった2人で8,500人あまりのレビ人たちをです。そしてさらにイスラエルの民全体が、彼らとともに荒野を移動して行ったのです。それは主ご自身が定められたことであって、民は各々が担っている役割を理解し、尊重し、秩序をもって、その共同体としての歩みを進めたのです。その原則は新約時代の教会においても同じです。主は、一人ひとりにさまざまな賜物を与えられ、それぞれが役割を担い、奉仕にたずさわり、実際的な働きをなし、キリストのからだを建て上げるようにしておられるのです。神の民の共同体として、互いに尊重し合い、一致と秩序をもって主の導きに従う群れでありたいと思います。 一人ひとりが主に尊く用いられますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 3章40-51節◇(1月9日) 「こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。」…民数記3:49 主はモーセに対し、イスラエルの子らのうち、生後1ヶ月以上の男子の長子をすべて登録し、その人数を数えよと言われました。そしてさらに、そのすべての長子の代わりにレビ人を、また民が所有する家畜の初子の代わりにレビ人の家畜を取り、それらをわたしのものとせよ、と命じられたのです。モーセがそのようにすると、その長子の数は22,273人で、レビ人全体の数である22,000人(39節)よりも273人多い人数でした。すると主は、その多い分の者たちについては、代わりとするレビ人がいないため、代金、つまりお金で支払い、それを「贖いの代金」として、一人当たり5シェケルを取り、総額1,365シェケルをアロンとその子らに渡すようにと命じられたのです。「代金」とは、得ようとする物につけられた価値と等価な額のお金を支払い、「代わりに」その物を得るためのものです。男子の長子の贖いの代金は一人5シェケルでした。また、かつては奴隷が「物」として売買されていましたが、その時にも、それぞれの奴隷に値踏みされた代金が支払われました。しかし本来、人は物ではなく、値がつけられないほど価値ある高価なものであり、また、奴隷のような束縛の状態から解放され、自由が与えられるべきなのです。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました」(1テモ2:6a)。神は罪の奴隷であった人類を自分のものとして取り戻すために、ご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。そしてキリストは、罪のないご自身の血を流し、その尊いいのちを贖いの代価として支払い、私たちを罪の奴隷の鎖から解放し、自由を取り戻してくださったのです。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(ロマ6:17-18)。キリストの贖いを心から感謝しつつ、義の奴隷、キリストのしもべとして、神と人とに忠実に仕える者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 3章14-39節◇(1月8日) 「レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった。」…民数記3:32 今日の箇所を読んであらためて気づかされること、その第一は、レビの氏族であるゲルション、ケハテ、メラリは、それぞれが幕屋の奉仕のどの部分を担うのか、任務の範囲が主によって定められ、明確に指示されていたということです。 主の働きを全うすることができますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 3章1-13節◇(1月7日) 「初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、 人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」…民数記3:13 モーセの兄アロンには4人の息子がいましたが、長子ナダブと2男アビフは、主の前に異なった火をささげために主 の前から出た火によって焼死してしまい(レビ10:1-2)、残りのエルアザルとイタマルが祭司として仕えました。 主は、アロンとその子孫を祭司職に任じられたのです。 また主はモーセに、イスラエルのすべての初子(=長子) の代わりにレビ人を取ることにしたと告げられました。 出エジプトの時、神はエジプト人の初子を打って殺し、一方、羊の血がかもいと2本の門柱に塗られたイスラエルの民の家は過ぎ越され、初子のいのちは救われましたが、その聖別されたすべての初子はわたしのものであり、実際にはそれらの初子を取る代わりに、レビ人たちをわたしのものとするのだと、主は宣言されたのです。 初子がそのようにして聖別されたとはすなわち、いけに え(=羊)の血によって贖われ、いのちを取られずに生かされたということです。そしてレビ人がその初子の代わりとして聖別され、聖所の任務に就く者とされ、さらにその中のアロンの家系から祭司が立てられ、神と人との間に立ってとりなす祭司の役割を担う者とされたのです。 神のひとり子(=長子)であるキリストは、世の罪を取り除く神の小羊として来られ、傷(=罪)のない完全ないけにえとしてご自身をささげて血を流され、その贖いを信 じる私たちを救ってくださいました。罪深い私たちはそのようにしていのちを取られず生かされ、神の民とされ、聖別されたレビ人として神の働きを担い、祭司として人々のためにとりなし祈ることが求められているのです。 「レビ人はわたしのものである」、「彼ら(=初子)は私 のものである」とありますが、キリストに贖われた私たちは確かに主の所有の民なのです(1ペテ2:9)。「主よ、 私はあなたのものです」と、主に告白したいと思います。 救いの喜びが心にありますように。 |
聖書箇所: 民数記 2章◇(1月6日) 「イスラエル人は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、おのおのその氏 族ごとに、父祖の家ごとに進んだ。」…民数記2:34 民数記2章には、イスラエルの各部族に対して定められた、 幕屋の周りの宿営の位置と荒野の行進の順序が記されて います。それらを整理すると下記のようになります。 [宿営位置] / [行進の順序] / [部族名] / [兵士登録数] 宿営の位置と行進の順序のどちらにおいても、レビ族が 中央であることがわかります。12部族が幕屋の周りに3 部族ずつ4つのグループを形成し、東西南北に別れて宿 営したのに対し、レビ族は中央にある会見の天幕のすぐ そばに宿営しました。また荒野を進むときも、幕屋の器 具を運搬する役割を担う彼らは、前後を6部族に挟まれ、 行進の中央の位置を保っていました。しかし、幕屋の中 の至聖所に置かれている契約の箱は、行進のときには行 進の先頭を進んでいたのです(民10:33)。 それらの位置と順序は、主ご自身が命じられたものでし た。神の民にとって、幕屋、すなわち神への礼拝を常に 中心に置き、十戒が書かれた板が納められた契約の箱、 すなわち神のことばに導かれて歩むということが、神が 願われるあるべき姿であったのです。霊的な神の民であ る私たちも、ますますそのように歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 1章30-54節◇(1月5日) 「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。」…民数記1:47 民数記1章5節から15節に記されている、イスラエル12部族の各リーダーのリスト中に、レビ族の名前はありません。なぜなら、レビはヤコブとレアとの間に生まれた3番目の男子ですが、その子孫であるレビ部族については、他の部族と同じように人口調査や兵士登録をしてはならないと、主がモーセに命じられたからです(49節)。またレビ人たちは、他の部族とは異なり、宿営の場所をあかしの幕屋の周りとすることが求められました(50,53節)。それは彼らが、幕屋に関わるさまざまな奉仕に従事し、さらに祭司として礼拝を導き、動物のいけにえをささげ、民の罪のとりなしをするという、特別な役割を果たす存在として、神が立てられていたからです。イスラエルの民が約束の地であるカナンに入ったとき、12部族はそれぞれの割り当て地が与えられましたが、レビ人たちには土地の割り当てはありませんでした。彼らは各部族の中に居住区を与えられてそこに住み、奉仕の報酬である奉納物の十分の一によって養われたのです。主ご自身が彼らの相続地であったからです(申10:9)。キリストに贖われた私たちもまた、祭司とされています(1ペテ2:9)。それはつまり、私たちが霊的なレビ人であるということです。主ご自身が私たちの相続地なのです。この地上での歩みは一時的であり、天の住まいでの永遠の歩みを待ち望みつつ、私たちは荒野での天幕生活を続けているのです。しかし乏しいことはありません。主がすべての必要を満たし、養ってくださるからです。主イエスはこう言われました。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタ6:26)。地上的なものによってではなく、主ご自身によって養われる者として、絶えず主に拠り頼んで歩んでいきたいと思います。 主が必要を満たしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: 民数記 1章1-29節◇(1月4日) 「第2の月の1日に全会衆を召集した。そこで氏族ごと、一族ごとに、20歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認した。」…民数記1:18(新改訳2017) 民数記1章には、荒野においてモーセが主から命じられて実行した、1回目の人口調査のことが記されています。その調査は、ヤコブ(=イスラエル)の子孫としての部族ごとに行われ、20歳以上で戦いに出ることができる者が登録されました。その作業においてモーセとアロンの助け手となったのはイスラエル12部族のリーダーであり、それらの者の名前が挙げられています(5-15節)。そこにはエフライムとマナセの名もありますが、二人はヤコブにとって孫にあたります。つまり、ヨセフとエジプトの祭司の娘アセナテとの間に生まれた子なのです。しかしヤコブは、その二人を自分の子とすると宣言して彼らを祝福し(創48:5,20)、その子孫は確かにイスラエル12部族を形成していたのです。そのことからも、神は、血肉におけるユダヤ人だけをご自身の民とされたのではない…ということを、あらためて教えられます。ところで、モーセが行ったその人口調査は、単に人口、つまり人の数を数えるということではありません。主は、集団として、単に数を把握することを求められたのではないのです。そこでは、対象となる者の名が挙げられ、家族表というものを使って本人の確認がなされ、その一人ひとりの名前が記されて登録されていったのです。主は、ご自身の民一人ひとりの名を知っておられます。その個性豊かな一人ひとりを心に留めておられるのです。主は、私たちのことを、決して十把一絡げでまとめて扱うようなことはされないのです。そして、キリストによって贖われた私たち一人ひとりの名前は、小羊のいのちの書に確かに書き記されているのです(黙21:27)。それは、モーセのときの、荒野での敵との戦いのための兵士としての登録ではなく、この世の荒野の歩みを終え、戦いのない、聖なる都、新しいエルサレムに入り、永遠に神とともに生きる者としての登録なのです。そのような者とされている幸いを覚えたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇 91篇◇(1月2日) 「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」…詩篇91:9 主は狩人の罠から、破滅をもたらす恐ろしい疫病から救い出してくださるお方です。夜に不意に敵が襲って来ても、昼に矢が飛んで来ても、主が大盾となってそれを防ぎ、砦となってかくまい、さらに御使いたちを遣わして、いっさいの敵の手から守ってくださるお方なのです。では、主はすべての者に対して等しく、そのような扱いをなされるのでしょうか…。詩人は、いと高き方の隠れ場に住む者、避け所である主を自分の住まいとする者こそ、主が顧みられ、ご自分の羽根で覆われるのであり、その人々は主の御翼の下に身を避けて、滅びをもたらすあらゆるものから救い出されると、語っているのです。そのように、いと高き方である神、避け所なる主を自分の住まいとするとはどういうことでしょうか…。それは、嵐のような困難の中で神にすがり、一時的な避難所とし、その嵐が過ぎ去ってしまえば自分の家に戻って自由気ままに過ごすというのではなく、常に主のみそばに身を置き、そこを自分の居場所とする、ということなのです。そして、すべての道において主を尋ね求め、主のみ教えに聞き従う…、そのようにみことばを愛し、守り行うことこそ主を愛することであり、主はその人を愛し、その人のところに来て、その人とともに住んでくださるのです(ヨハ14:23)。そのように、主を住まいとするということは、主を求め、主に従い、自分を明け渡し、そこを宮として、主に住んでいただくということなのです。14-16節は、詩人を通して語られている、主ご自身のことばです。「彼」への祝福が約束されています。その「彼」とは、主を住まいとし、主が住んでくださる人のことです。主はその人を、人類にとって最大の敵である死からも救い出し、とこしえのいのちで満たしてくださるのです(16節)。その主に信頼して、恐れずに進んで行きたいと思います。 主がともにおられます。守りと祝福がありますように。 |