◇聖書箇所: 詩篇 100章◇(5月31日) 「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。 喜びをもって主に仕えよ。 喜び歌いつつ御前に来たれ。」…詩篇100:1-2 「感謝の賛歌」という標題は、脚注によれば「感謝のいけにえの賛歌」という意味でもあります。「いけにえ」とはすなわち「犠牲」です。神の前に差し出すささげもののことです。主の宮においては、牛や羊などの動物がほふられ、いけにえとされました。ヘブル人への手紙の著者は「賛美のいけにえ」と言っています(ヘブ13:15)。それらのことから、私たちが感謝と賛美を主にささげるには、「犠牲」が伴うのだということを教えられます。私たちはうれしいことがあったから、そういう気分だから、主に感謝し、賛美するのではありません。神が賛美を受けるにふさわしいお方であり、主の恵みが人の考えをはるかに越えたものであるからこそ、私たちは意志を向けてそうするのです。1~2節の中に「喜び」ということばが3回繰り返されていますが、この喜びもまた私たちが選び取るものです。喜びとは幸せな気分と同じではありません。たとえ幸せな気分になれないときでも、そこに喜びはあるのです。なぜなら喜びは、主が私たちを愛し、いつもともにおられ、すべてを受けとめてくださるお方であると知ることから来るからです。主にある者にとっては、悲しみがあっても、喜びはなくならず、同時にそこにあるのです。「私たちは主のもの…その牧場の羊である」。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」というダビデの賛歌が思い起こされます(詩23:1)。私たちは、良き牧者である(ヨハ10:11-15)キリストによって、悪しき者の手から守られているのです。進むべき道へと導かれているのです。緑の牧場やいこいのみぎわに伴われているのです。だから私たちは、その主にあって、安心なのです。迷うことはないのです。乏しいことはないのです。そのような者とされているのはなんと幸いなことでしょうか。その主に絶えず感謝と賛美のいけにえをささげ、ますます喜びをもって仕えていきたいと思います。 主の御名があがめられますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 23章24-32節◇(5月29日) 「ダビデがこう言ったからである。『イスラエルの神、主は、御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。』」…1歴代23:25 ダビデは、主の宮の奉仕にあたるレビ人たちに対して、「主は…とこしえまでもエルサレムに住まわれる」…もうモーセの時代のように、幕屋を持ち運ぶ必要はなくなった…と告げました(26節)。そしてそれは、神が、イスラエルの民をエジプトから連れ出し、40年間の荒野の歩みを守り導き、約束の地に確かに住まわせられた、真実なお方であることを意味していたのです。そのレビ人たちの役目は、アロンとその子ら、つまり主の宮において神と人との間に立ってとりなしをする大祭司を補佐し、また、礼拝に用いる主へのささげものとしてのパン、小麦粉などをきちんと軽量し、祭りのときに主への全焼のいけにえが、定められた数に従って、絶やさずにささげられるようにすることでした。彼らがそのように忠実に奉仕をすることによって、朝ごとに、夕ごとに礼拝がささげられ、主がほめたたえられたのです。その神は、大いなる救いの計画を実行され、御子イエス・キリストを全人類の救い主として遣わし、その贖いのゆえに、キリストを信じる異邦人をも、神の民として加えてくださいました。そして主は、その聖徒たち一人ひとりを、ご自身が住まわれる宮とし、そこに住んでくださっているのです。「私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる…』」とパウロが語ったとおりなのです(2コリ6:16)。そのようにして聖徒とされ、生ける神の宮である私たちは、大切な務めとして、そこで、賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実が、朝夕だけでなく、神に絶えずささげられるようにするのです(ヘブ13:15)。また、祭司としてとりなしの祈りをささげ、やみの中から光の中へと招いてくださった方のすばらしいみわざを、証しし宣べ伝えるのです(1ペテ2:9)。そのような働きが主から求められているということを覚えたいと思います。 主から安息を受け取ることができますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 23章1-23節◇(5月28日) 「そして、4千人は門衛となり、4千人は私が賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者となりなさい。」…1歴代23:5 老年を迎えたダビデは、息子のソロモンに王位を継承しましたが、彼はなお、自分がなすべき重要なこととして、ソロモンによる神殿建設が完成した後に必要となる、さまざまな働きの分担を綿密に計画して整えました。27章までの4章にわたってその詳細が記されていますが、23章ではまずその概要が書かれています。ダビデはまず、レビ人の30歳以上の男子の数を数え、その3万8千人のうち、主の宮の務めを指揮する者として2万4千人、民のためのつかさとさばき人として6千人、門衛として4千人、楽器を手にして主を賛美する者として4千人をそれぞれ割り当てました。ダビデは、主から、あなたが神殿を建てるのではない…と告げられても、それならソロモンがすべてを行うべきだ…と、すねた態度は取りませんでした。また、年老いたからもう休みたい…とも考えませんでした。彼は主のみこころを受け入れ、自分がなすべきことを熟考し、22章にあるように神殿建設の材料を準備しただけでなく、建設工事前から奉仕者を割り当て、それぞれが事前に十分な備えをすることができるように整えたのです。この記事から、ダビデの謙遜さ、忠実さ、先見性を見習って、私たちもそのようにすべきだということを教えられます。また、それぞれがダビデの指示に従って奉仕を担い、喜びと使命感をもってその役割を果たしていったことを思わされます。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)。主に贖われた私たちもまた、キリストのしもべとして、神と人々に仕える者とされているのです。そしてそのための賜物が、一人ひとりに、聖霊によって与えられているのです。自分が担うことができる役割は何か…今の状況の中でできることは何か…と、絶えず主に尋ね求め、示されたこと、導かれたことを忠実に行う者でありたいと思います。 それぞれの働きが尊く用いられますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 22章◇(5月27日) 「今、あなたがたは心とたましいを傾けて、あなたがたの神、主を求めよ。立ち上がって、神である主の聖所を建て上げ、主の御名のために建てられる宮に、主の契約の箱と神の聖なる用具を運び入れよ。」…1歴代22:19(新改訳2017) ダビデは、エブス人オルナンの打ち場に祭壇を築き、いけにえをささげて主を礼拝しましたが、あらためて、常に祭壇が設けられ、礼拝がささげられるための場所、すなわち主の宮を建てることへの思いを強くし、そのための人員を確保し、建築材料を大量に用意しました。しかし彼は、自分が主の宮を建てるのではなく、息子のソロモンがその働きを担うのだと、主から告げられたことを忘れてはいませんでした。またそのことに逆らおうとも考えませんでした。ダビデはソロモンを呼び、その主のことばを彼に伝えた上で、「立ち上がって、行いなさい」と命じたのです。また、イスラエルのすべてのつかさたちに、ソロモンを助けるようにと命じたのです。そのようにダビデは、神殿建設の働きをソロモンと民の長たちに託しましたが、ソロモンに対しては、まず、主の律法を忠実に守り行うように求め(12,13節)、長たちに対しても、「心とたましいを傾けて、あなたがたの神、主を求めよ」と命じたのです。そしてそれは、神殿建設という主のための実際的な働き、行動を伴う奉仕を実行する前に、何を置いても、それらのことを最優先にすべきであるという、大切なメッセージであったのです。「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタ6:33,2017訳)。主イエスは弟子たちにそう言われました。それが、いつの時代にあっても変わることのない霊的な原則であり、またどのような状況にあっても、私たちが従うべき、優先順位なのです。そのようにするなら、必要は満たされ、祝福がもたらされ、そうでないなら、混乱と恐れが生じてしまうのです。行動する前にまず、心とたましいを傾けて主を求め、御霊の助けと導きのうちに事をなす者でありたいと思います。 主がともにおられます。祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 21章18-30節◇(5月26日) 「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」…1歴代21:24 主が望まない人口調査を自分が強行したことにより、7万人ものイスラエルの民が主に疫病で打たれたことに心を痛めたダビデは、悪いのは自分であって、民には罪はないのだから、これ以上彼らを疫病に渡さないでほしいと、主に願い求めました。すると主は御使いとガドを通し、エブス人オルナンの打ち場でご自身のための祭壇を築くようにと、ダビデに命じられたのです。その主のことばに従い、ダビデはそこに行き、地にひれ伏して王を迎えたオルナンに対して、この打ち場の地所を譲ってほしいと訴えました。すると彼は、この土地も、ささげもののための牛や小麦も、すべて差し上げますと申し出ましたが、ダビデはそれを断り、十分な金額を払って買いたいと主張し、そのようにしたのです。その後、ダビデがそこに祭壇を築いていけにえをささげ、主を呼ぶと、主は祭壇の上に火を下して答えられ、御使いは剣をさやに納め、疫病はやみました。「費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくない…」。それは、犠牲を払わずに主を礼拝するのを良しとしないということであり、その姿勢は主の御旨にかなっているのです。そのような「ささげる心」こそ、礼拝者に求められる重要なことなのです。アブラハムは、ひとり子イサクをささげるよう主から命じられ、従順に従いました。何よりも神は、ひとり子イエスを、罪人である私たちの贖いのためにささげてくださったのです。主に贖われた私たちもまた、時間や労力やお金を進んでささげ、主を礼拝するのです。そして主は、その心を、あり方を喜んでくださるのです。「私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます」(詩54:6a)。私たちもそのように告白して礼拝をささげ、また自分自身を主に献げる者でありたいと思います。 主への感謝と賛美がいつもありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 21章1-17節◇(5月25日) 「しかし、ヨアブへの王のことばは激しかった。ヨアブは出て行き、イスラエル中を行き巡り、エルサレムに帰って来た。」…1歴代21:4(新改訳2017) ダビデはヨアブと民の長たちに、イスラエルの民の人数を調べて報告せよと命じました。するとヨアブは、それが主の御旨に反したことだと気づいていたため、その調査をやめるようにダビデに進言しました。ところが、ダビデは彼のことばに全く耳を貸さず、命令にしたがえと激しいことばで叱責し、その調査を強行したのです。「その命令は神の目に悪しきことであった」とこの書の作者は記しています(7節、2017訳)。ヨアブは兵士の数を報告しましたが、おそらくダビデは、その兵力に頼り、それを誇示しようとする人間的な思いにあったのです。そして作者は1節に、それはサタンがダビデを誘い込んだ(そそのかした:2017訳)ためだと告げているのです。この記事から教えられること、それは第一に、サタンは、あたかも神がそのことを求めておられると思い込むように、そしてそれを正当化するように、巧みに人に働きかけるということです。この同じ出来事を記したサムエル記第二24章の1節には、主がその調査を命じたように書かれていますが、実際にはあのヨブへのサタンの働きかけのように、神の許容の中でサタンがダビデをそそのかしたのです。「サタンさえ光の御使いに変装する」とパウロは言っています(2コリ11:14)。教えられることの第二、それは、調査を思いとどまらせようとヨアブが進言したとき、ダビデが彼のことばに素直に耳を傾け、真摯に受けとめていれば、罪に陥ることはなく、7万人もの民が死ぬ(14節)こともなかったということです。主は、ご自身のみことばや、祈りの中での語りだけでなく、しばしば人を通して御旨を示されるのであって、私たちは、人からの訓戒を軽んじることなく、謙虚に受けとめることが求められているのです。ダビデの失敗を教訓として学び、自らのあり方が主の目にかなっているか、吟味したいと思います。 ますますへりくだって歩む者とされますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 20章(5月24日) 「年が改まり、王たちが出陣するころ、ヨアブは軍勢を率いてアモン人の地を荒らし、さらに進んで、ラバを包囲した。ダビデはエルサレムにとどまっていた。…」…1歴代20:1 ヨアブは、軍勢を率いて再びアモン人を攻撃し、首都ラバを攻め取り、町を破壊しました。一方、ダビデは、その戦いに参加せず、エルサレムにとどまっていましたが、勝利の知らせを聞くと彼もラバに行き、アモン人の王の冠や分捕り物を持ち去るとともに、そこの人々を連れて来て、道具を使って行うさまざまな仕事に就かせました。その後、ペリシテとの国境の町ゲゼルでペリシテ人との戦いが起こりましたが、ダビデに仕える勇士たちの一人、フシャ人シベカイは、背の高い巨人ラファ(レファイム)の子孫の一人シパイを打ち殺しました。また、エルハナンはガテ人ゴリアテの兄弟ラフミを打ち殺し、さらにダビデのおいであるヨナタンは、手足の指が6本ずつある、同じくラファの子孫の背の高い男を打ち倒したのです。そのように有能で勇敢な部下たちが、周辺諸国との戦いにおいて力を発揮していたため、ダビデがそれらの戦いに出て行く必要はありませんでした。しかし、サムエル記の作者は、彼がエルサレムにとどまっていた間に起こった出来事を記しています。ダビデはバテ・シェバという女性との間に姦淫の罪を犯し、さらに彼女の夫ウリヤを戦いの最前線に出すようヨアブに命じ、彼を戦死させ、バテ・シェバを自分の妻としたのです(1サム11章)。ダビデは、自分が王としてなすことがすべてうまくいっている状況を見て、慢心していたのかもしれません。そしてしばしばそのようなときに、人は、悪しき者からの誘惑を受けるのです。神に祝福されるとき、サタンの誘惑や攻撃もまた増すのだということを、私たちは覚えるべきなのです。そして、どんなときにも決して油断せず、身を引き締め、主のみこころを行うべく、みことばの教えに聞き従うことが大切なのです。絶えず主の前にへりくだり、そのように歩む者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 19章(5月22日) 「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が、御目にかなうことをされるのだ。」…1歴代19:13(新改訳2017) アモン人の王ナハシュが死んだと聞いたダビデは、王位を継いだ彼の子ハヌンに対し、使者を送って悔やみを伝えようとしました。しかし、そのことに懐疑的なアモン人のつかさたちの進言によって、ハヌンはその使者たちを捕らえ、ひげをそり落とすなどして恥をかかせたのです。そのことを知ったダビデは怒り、アモン人に制裁を加えるべく、家来のヨアブと勇士たちを送りました。それに対してアモン人たちは、銀千タラントを隣国のアラムに贈り、彼らの戦車と騎兵を雇って援軍とし、その戦いに臨みました。しかしヨアブたちがアラムの前方に近づき、いよいよ戦いを交えようとすると、恐れをなしたアラム人の兵士たちは、逃げ出してしまったのです。一方、アモン人に対してはヨアブの兄弟アブシャイが立ち向かっていましたが、アラム軍の逃亡を見た彼らもまた、アブシャイと戦うことをせず、町に逃げ帰ったのです。そもそもこの出来事は、アモン人の王ハヌンが、ダビデが使者を遣わしたのには悪意があるに違いないと疑ってかかった、つかさたちのことばを鵜呑みにしたのが発端でした。彼は、「真実を尽くそう」と考えたダビデが遣わした使者を、素直に受け入れるべきであったのです。私たちは何を信じるべきなのか…。困難なときに何を頼りにするのか…。自分は誰のために存在しているのか…。この19章の記事を通して、そのことをあらためて教えられます。つかさたちのことばを信じ、自分たちやアラムの戦力を頼みとし、自分の王位を守ろうとし、打ち負かされてしまったハヌン…。それに対して、神を信じ、神を拠り所とし、神のため、民のためにと勇敢に戦い、勝利を得たダビデとその部下たち…。何よりも、主が彼らとともにあり、主ご自身がその戦いを導き、勝利を与えられたのです。人のことばやこの世のものに心が動かされないよう、絶えず主に信頼し、導きを求め、主のため、神の国のためにと、奮い立って進みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 18章(5月21日) 「ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」…1歴代18:6 ダビデは、全イスラエルの王として国を治め、周辺諸国との戦いに次々に勝利しました。屈服させられた異邦人たちは、しもべとなってダビデに服従し、貢ぎ物を納めるようになりました。また、ツォバの王ハダデエゼルが勢力拡大のために進出して来ると、ダビデは、イスラエルから遠く離れた北のハマテまで出て行ってその勢力と戦い、勝利を収めました。すると、ハダデエゼルからしばしば戦いを挑まれていたハマテの王トウは、自分の息子をダビデのもとに遣わし、感謝の意を伝えさせ、金や銀などによる高価な器を贈ったのです。そのように、ダビデの歩みには、多くの勝利と祝福がもたらされました。さらに勝利の戦いは、ダビデ自身だけでなく、彼の家来であるツェルヤの子アビシャイにも与えられました。彼は、塩の谷でエドムを討ち、そこに守備隊を置き、全エドムがダビデの支配下に入り、しもべとして仕えるようにしたのです。歴代誌の作者は、そのことも含め、「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」と繰り返し記して(6,13節)、そのことを強調しています。「行く先々で勝利を与えられた」…。それは、ダビデがどこに行っても、主が彼とともにおられ、ダビデを通して敵と戦われ、打ち破り、勝利をもたらしてくださったということです(17:8)。その主は、ダビデの子孫として生まれ、私たちを罪の中から贖うために死なれたキリストをよみがえらせ、死にさえも勝利させられたのです。そしてそのキリストは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタ28:20)と私たちに約束され、さまざまな戦いにおいて、私たちに勝利をもたらしてくださるお方なのです(1コリ15:57)。私たちは、つい目の前の現実に心が奪われ、恐れたり失望したりしてしまいますが、主が私たちとともにおられ、勝利と祝福を与えてくださることをしっかりと覚え、ますますその主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。 恐れずに進むことができますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 17章(5月20日) 「今、主よ。あなたが、このしもべとその家についてお語りになったことばを、とこしえまでも真実なものとし、お語りになったとおりに行ってください。」…1歴代17:23(新改訳2017) ダビデは、自分が杉材の家に住んでいるのに、神の箱が天幕の下に置かれていることを思い、神が住まわれるための家、すなわち神殿を建てるべきだと考えました。しかし、彼のその思いを知った神は、あなたがそれを行うのではない…あなたの先祖たちに対して、わたしの家がないと非難したことなどなかった…と、預言者をとおして、ダビデに告げられたのです。しかし、そのことばを聞いたダビデが、機嫌を悪くすることはありませんでした。彼は主の前に座し、「この私はあなたの御目には取るに足りない者…」(17節)、「このしもべに誉れを与えてくださった…」(18節)と言ってへりくだり、そのような自分を王としてくださっている主の恵みとあわれみを覚え、感謝したのです。また主は彼に、「あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」とも言われましたが(11節)、ダビデはそのことを喜び、お語りになったとおりに行ってください…と主に願い求めたのです。そして実際に、彼の子ソロモンが王位を継ぎ、彼が神殿の建設を担い、それを完成させたのです。私たちも、主のためにこの事をなそうと考えることがあります。そしてそれは主に喜ばれることに思えます。しかし、だからといって、すぐにそれを始めるべきではないのです。それが本当に主が願っておられることなのか、みこころであるのかを、主に尋ね求めることが大切なのです。そうでなければそれは、ひとりよがのもの、人間的な思いに基づくもの、自分を満足させるためのものとなってしまうのです。なそうとしている事は、確かに主が願っておられることであっても、それをなすべきなのは、自分ではなく他の人かもしれないのです。へりくだって、主のみこころだけがなされるように願う…。ダビデに倣い、私たちもそのような者でありたいと思います。 従順に主に従うことができますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 16章23-43節(5月19日) 「言え。『私たちの救いの神よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集め、私たちを救い出してください。…』」…1歴代16:35 23~33節には詩篇96篇と、34~36節には詩篇106篇の一部とほぼ同じ表現のことばが記されています。この歌は、ダビデの時代、神の箱がエルサレムに運び込まれたときにとどまらず、主の恵み、救いへの感謝を表し、また主の偉大さ、御名の栄光をほめたたえる賛美として歌い継がれ、後の時代においても用いられたに違いありません。「国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。御名の栄光を主にささげよ。…」(28-29節)。「主にささげよ」と、繰り返して強調されているそのことばは、新改訳2017では「主に帰せよ」と訳されています。そのように命じている対象が「国々の民」、つまり異邦人を含むすべての人々であることに心が留まります。「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創12:3)とアブラハムに言われた主は、天と地にあるすべてのものを造られたお方であり(26節)、世界はその主によって堅く建てられているので、揺らぐことはないのです。「救いの神よ。私たちをお救いください。…私たちを救い出してください。…」その「救い」とは、罪からの救い意味するだけではありません。それは、私たちを神から引き離そうとするすべてのものからの守りであり、試練と苦難の中におけるおりにかなった主の助けであり、私たちの弱さのうちに完全に現わされる神の御力にほかならないのです。そのように、すべての造られた者は、「私を救い出してください」と、創造主であり、いのちの源なる主に、へりくだって叫び求めるべきなのです。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる」(ゼカ4:6)。自らの知恵や力によってではなく、救いの神である主にひたすら拠り頼むなら、私たちは主からの勝利と祝福にあずかることができるのです。その主に絶えず感謝と賛美をささげて、栄光と誉れと力を主に帰す者でありたいと思います。 主がともにおられます。祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 16章1-22節◇(5月18日) 「主とその御力を尋ね求めよ。 絶えず御顔を慕い求めよ。」…1歴代16:11 ダビデが準備させた専用の天幕の真ん中に、神の箱は無事に運び込まれて置かれました。その後、全焼のいけにえと和解のいけにえが主にささげられ、丸形のパン、なつめ椰子と干しぶどうの菓子が、イスラエルの民全員に分け与えられました。さらに、箱を運び上げたときと同様に、レビ人たちの中からラッパや立琴などの楽器を使う奉仕者が任命され、その者たちの導きのうちに、感謝と賛美を表すほめ歌が、主の前にささげられたのです。8~36節にはその歌のことばが記されており、11節には、「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ」とあります。私たちは特に違和感なくそのことばを受けとめますが、当時のユダヤ人たちにとっては、驚きであったに違いありません。なぜなら、主は近づきがたいお方であって、その御顔を直接見る者はいのちが取られるとさえ、彼らは理解していたからです。しかしダビデは、主の臨在の象徴である神の箱を、人々から遮断されたところに置いたのではなく、誰もがいつでも容易に主の御前に近づくことができるようにすべく、天幕を用意し、その中に神の箱が置かれるようにしたのです。「…あなたがたの数は少なく、実にわずかで、そこでは寄留者であった」(19節,2017訳)。私たちもまた、キリストに贖われ、天の御国を目指しつつ、旅人、寄留者としてこの地上を歩んでいる、信仰によるアブラハムの子孫、神の民です。私たちの国では、人口の1%程度にしか過ぎない少数派の者です。その私たちが世に出て行くとき、そうでない残りの人たちが持つ価値観ややり方の中で、押し潰されそうに感じることもあります。しかし、主はこう言われるのです。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな」(22節)と…。主はそのように、今も、ご自身の民である一人ひとりを御霊によって満たし、人々に語り伝えるべきことばを備え、御手の中で守り、支え、導き、神の国の拡大のためにそれぞれの働きを用いてくださるのです。そのことを覚え、ますます主に信頼して歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 15章◇(5月17日) 「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」…1歴代15:13 ダビデは、エルサレムの町に自分のための家を造り、その後、神の箱を置くための場所を定めて天幕を張り、ガテ人オベデ・エドムの家に緊急的に置かれていた神の箱を、そこに運び上げようと考えました。そして、召集した祭司やレビ人たちの中から、その奉仕を担う者たちを選んで任命したのです。その奉仕者たちは身を聖別し、神の箱を「担い棒」を使って肩にかつぎ、定められた場所へと進んで行きましたが、その一行には、同じくダビデによって任命された、神に賛美をささげるための、歌うたいたちや、楽器を奏でる者たちも含まれていました。そして、彼らの導きのうちに、全イスラエルは歓声をあげ、ダビデ自身も飛び跳ね、喜び踊りながら、エルサレムに入ったのです。ウザが主に打たれたときは、神の箱は荷車に載せて運ばれましたが、それが定めに従った方法ではなかったことをダビデは悟りました(13節)。だからこそ、主がモーセに命じられたとおり(民7:9)、神の箱を、レビ人たちによって、肩にかついで運ばせるようにしたのです。私たちも、失敗を通して、主のみこころをあらためて教えられることがあります。それまで漠然と理解していたみことばの意味を、はっきりと悟る経験をするのです。そのように主は、神を求め、愛し、主のみこころのうちを歩みたいと願っている者たちに対して、すべてのことを働かせて益としてくださるお方なのです(ロマ8:28)。聖徒たちにとって、失敗が単なる失敗で終わることはないのです。自らの歩みを振り返り、主に立ち返り、気づかされたことを修正して次に活かそうとするあり方を、主はよしとされるのです。そのような敬虔で謙遜な者をあわれみ、祝福してくださるのです(ヤコ4:10)。絶えず主の御声を聴き、その教えと導きに従順に従う者でありたいと思います。 主の祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 13章◇(5月15日) 「その日、ダビデは神を恐れて言った。『どうして、神の箱を私のところに運び込むことができようか。」…1歴代13:12(新改訳2017) ダビデは、キルヤテ・エアリムという町のアビナダブの家に置かれていた神の箱を、ダビデの町、すなわちエルサレムに運び入れようと計画して、全イスラエルを召集しました。その神の箱は、「ケルビムに座しておられる主」という名で呼ばれ、「贖いのふた」がかぶせられていたもので、中には、神がモーセに与えられた、十戒が刻まれた「あかしの板」が入っていました。新しい荷車に乗せられた神の箱は、アビナダブの子、ウザとアフヨが牛を御して進みましたが、途中、牛がよろめき、車がひっくり返りそうになったため、ウザが手を伸ばして神の箱を押えたところ、主の怒りが彼に向かって燃え上がり、ウザは打たれてその場で死んだのです。それを見たダビデの心は激し、神を恐れた彼は、神の箱を自分のもとに運び込むことを中断し、ガテ人オベデ・エドムの家にとどまらせました。そしてそのダビデの行動は、御者として当然のことをしたと思われるウザを打たれた神に対して、「どうして…」という疑問や反発の思いを、彼が抱いていたことを暗示しているのです。その事件が起こった場所は、ペレツ・ウザと呼ばれているとあります(11節)。「ペレツ」とは、「割り込む」ということばの派生語です(新改訳3版脚注)。なぜ神はウザを打たれたのか…。その理由は明確には書かれていません。あるいはウザは、車が体勢を立て直した後も心配になって、手で押え続けようとしたのかもしれません。いずれにしても、彼のうちに何か、神のなさることに「割り込む」ものがあったのです。そしてそれに対し、厳しい対応ではありましたが、神は怒りを燃やし、彼を打たれたのです。私たちも、主権者なる主に全き信頼を置き、自らの思いを明け渡すということをせずに、人間的な思いで「余計な心配」をするなら、それは「割り込む」ことであって、主の喜ばれるあり方ではないのです。どんなときでも、主の主権を認める者でありたいと思います。 思い煩いから解放されますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 12章19-40節◇(5月14日) 「これらすべての、戦いに備えて集まった戦士たちは、ダビデを全イスラエルの王にしようと、全き心でヘブロンに来た。イスラエルの残りの者たちも、ダビデを王にすることで心が一つになっていた。」…1歴代12:38(新改訳2017) ダビデがツィケラグに行ったとき、マナセに属する千人隊のかしらたちが彼のもとに下って来ました。ダビデを助け、その町を攻撃して住民を連れ去った、アマレク人の略奪隊に対抗するためでした。また彼ら以外にも、ダビデに加勢するために多くの人々が彼のもとにやって来て、一大勢力となりました。歴代誌の作者は「ついに神の陣営のような大陣営となった」と記しています(22節)。そのときダビデは、まだサウルに追われる身でしたが、人々はサウルに代えてダビデを王とすることを願っており、さらに多くの勇士たちが各部族から続々と彼のもとに集まって来ました。23-37節はそのリストですが、集結した戦士たちの数は34万人以上にも達していたのです。38節には、ダビデを王にしようと、彼らの心が全きものとなっていたこと、みなの心がその思いで一つになっていたことが記されています。そしてそれは、主ご自身がみこころとして、サウル王の支配をダビデに移すために、人々の心をそのようにされたからなのです(23節)。主に贖われた私たちも、この世の統治が、御国の王なるキリストによって完全になされるように、すなわち神の国が打ち建てられるために、全き心で、心を一つにして、主のために立ち上がる者とされています。サタンによって占領されているさまざまな領域を奪い返すため、主が世界中から召集している勇士として加えられているのです。そしてその主のご計画は必ず実現するのです。黙示録には、終わりの日に主の御前に立つ聖徒たちが描かれていますが、それは「すべての国民、部族、民族、言語から」なる、「だれも数え切れないほどの大勢の群衆」なのです(黙7:9,2017訳)。神の国のさらなる拡大のために、全き心、主と同じ一つの心とされ、置かれたところでますます用いられる者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 12章1-18節◇(5月13日) 「…『ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。』…」…1歴代12:18 要害にいたダビデのもとに来て、敵と戦うために従軍を申し出る勇士たちが各部族から現われましたが、ベニヤミンとユダの部族にもそのような者たちがいました。しかし、ダビデは彼らをすぐには受け入れず、本当に自分を助けるつもりなのか、もし私をだまして敵に渡そうとするなら、神がそれをみて裁かれるように…と、釘を刺すようにして彼らに告げたのです。その発言は、悪意をもって近づく者が実際にいたこと、そしてダビデがそれを恐れて警戒していたことを示唆しています。そう言われた彼らのうち、アマサイに御霊が臨み、彼はダビデにこう答えました。「私たちはあなたとともにいる…平安があるように…あなたの神はあなたを助ける」。すると、ダビデはそのことばを聞いて安心し、彼らを受け入れ、部隊のかしらとして任命しました。自分の身がどうなるのか…とダビデは不安と恐れを抱いていました。そのダビデに対して主の御霊は、「平安があるように」と、アマサの口を通して語られたのです。復活された主イエスが、迫害を恐れていた弟子たちの前に現われ、「平安があなたがたにあるように」と繰り返し告げられたこと(ヨハ20:19,21,26)が思い起こされます。その主は、さまざまな恐れを抱いてしまう私たちに対しても、平安があるように…わたしはあなたを助ける…と語っておられます。主は「平和の君」と呼ばれる方であり(イザ9:6)、また、インマヌエル(=「神は私たちとともにおられる」)と呼ばれる方であり(マタ1:23)、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と弟子たちに約束された(マタ28:20)お方なのです。静まってその主の御声を聴き、心安らかにされ、主の助けと導きのうちに歩む者でありたいと思います。 心に平安がありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 11章22-47節◇(5月12日) 「彼は、実に、あの30人の中で最も誉れが高かったが、あの3人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。」…1歴代11:25 力ある勇士の一人として、エホヤダの子ベナヤのことが記されています。彼もまたダビデ王に忠実に仕えて勇敢に戦い、モアブの2人の英雄を打ち倒し、また身長が220センチほどもあるエジプト人の槍をもぎ取り、その槍で彼を打ち殺して名をあげたのです。ダビデはベナヤの実力を高く評価し、自分を護衛する隊の長としました。26節以降には、勇士たちの名前が一人ひとり挙げられており、実にさまざまな部族や町の出身の者たちが選ばれ、用いられたということがわかります。またその中から勇士たちを統率するかしらが立てられ、さらに、ヤショブアム、エルアザル、シャマの3人が「3勇士」として活躍したのです。そして、それらの勇士たちの存在があったからこそ、ダビデの王権は強固にされたのだと、歴代誌の著者は読者に伝えているのです(10節)。「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします」(2テモ2:3,2017訳)。そのようにパウロは、主に贖われた聖徒たちはみな、キリストに仕える兵士とされており、その役割を立派に果たすことが求められているのだ、と語っています。その戦いとは必ずしも目に見える敵との戦いではありません。もしそうだとしても、その敵の背後にあるのは、この世を支配することを願い、私たちを神から引き離そうとする悪しき勢力、サタンなのです。しかし恐れる必要はありません。なぜなら主は、すでに世に勝たれたお方であり(ヨハ16:33)、そのイエスを神の御子と信じる私たちは世に勝つ者であり(1ヨハ5:5)、その霊的な戦いにおいて私たちが身に着けるべき武具は、神によって備えられているからです(エペ6:11-17)。キリストの兵士として、置かれたところで、御霊の守りと導きのうちに、主のために勇敢に戦い抜く者でありたいと思います。 主がともにおられます。祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 11章1-21節◇(5月11日) 「…『そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。』…」…1歴代11:19 10節以降に、イスラエルの新しい王として油注がれたダビデの指揮のもとに戦う勇士たちの中でも、特に勇敢で忠誠を尽くした3人の勇士たちのことが記されています。その1人目はヤショブアム、彼は槍を振るって一度に3百人を打ち殺したとあります(11節)。2人目はエルアザル、彼もまた、敵であるペリシテ人に立ち向かい、その戦いぶりは、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるほどであったとあります(2サム23:10)。3人目は、歴代誌には名前が書かれていませんが、シャマという人物で、畑の真ん中に踏みとどまってペリシテ人を打ち殺したのは(14節)、彼のことだと思われます(2サム23:12)。王ダビデは、エブス人の住むシオンの要害を攻め取り、住む所をヘブロンからエルサレムに移していましたが、ある日、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲めたら…と、無理だと思いつつ、その願いをつい口にしました。すると3勇士は、ペリシテ人の陣営を突き破ってその井戸に行き、汲んだ水を王に持ち帰ったのです。しかし王は、その水を飲みませんでした。主の前に注いで、いのちをかけた彼らの血を飲むことなどできないと言ったのです。キリストもまた、父なる神の切なる願い、すなわち、すべての人が救われて永遠のいのちを持つようになることを実現させるべく、父のみこころに従い、十字架にかかり、いのちをささげて、全人類を罪の奴隷から贖い出してくださいました。そのことを信じる私たちは、今、死からよみがえられたそのキリストのいのちに生かされているのです。そしてその贖いのみわざに感激しつつ、キリストのいのちを表すぶどう液を、聖餐においていただいているのです。またキリストのしもべとして、王に忠実に仕える者とされているのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタ25:21)と、主に喜んでいただくために、みこころを果たすべく、持てるものをささげて、主に仕えていきたいと思います。 主が戦いに勝利させてくださいますように。 |
◇聖書箇所: 歴代誌第一 10章◇(5月10日) 「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」…1歴代10:13-14 サウル王の悲惨な最期が記されています。イスラエルはペリシテ人と戦いましたが、敵が優勢となり、多くの民がギルボア山で刺し殺されました。また、サウルの3人の息子も打ち殺され、さらにサウル本人も射手たちから狙い撃ちにされ、傷を負うこととなってしまったのです。サウルは、自分が敵のなぶり者となるのを拒み、刺し殺してくれと道具持ちに頼み込みましたが、彼は、王に対してそのようにすることを恐れ、言われたとおりにしませんでした。するとサウルは、剣の上に倒れて自害したのです。サウルが息絶えているのを見たペリシテ人は、彼の首をはねて持ち帰り、偶像の宮にさらしました。サウルの死について、歴代誌の著者は、彼が主の信頼を裏切り、不信の罪を犯したために死んだ、主が彼を殺されたのだと記しています。サウルを初代の王として選ばれた主は、彼のことを信頼し、期待していたのです。しかし彼は、主に尋ね求めようとせず、みことばに聞き従わず、霊媒に伺いを立てるという、主が忌み嫌われることまで行ったのです(1サム28:8)。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サム15:22)。敵から奪った聖絶すべき家畜を、勝手にいけにえとしてささげたサウルに対して、サムエルはそのように告げました。サウルは、「聖絶せよ」という主の御声に聞き従うべきだったのです。霊媒をする者は主が忌み嫌われると代々教えられて来たことに、きちんと心を留めるべきだったのです。そして、そのように主の御声、み教えに聞き従うことは、今も、主の民とされた私たちに対しても、変わることなく求められていることなのです。そのことを覚え、主の前にへりくだり、ますます従順に聞き従っていく者でありたいと思います。 主の守りと助けがありますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 7章44-53節(5月8日) 「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」…使徒7:51 ステパノの弁明の最後の部分です。彼は、議員たちを追い詰めるようにして、それまでの批判のトーンを上げて語りました。あなたがたはうなじの固い、強情で頑なな者たちであり、からだには割礼を受けてはいても、心と霊の耳には割礼を受けていない…すなわち、心には覆いがかかっており、神の声を聴く耳が塞がれているのだ…先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのだ…と。さらに彼は迫りました。あなたがたの先祖たちは、正しい方の到来を告げていた預言者たちをみな殺した…そして今やあなたがたが、そのお方、すなわちメシアである主イエスを殺す者となったのだ…律法を神から受けたのに、それを守り行おうとはしなかったのだ…と。すると、それを聞いた人々は、「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりし」(54節)、彼を町の外に追い出し、石で打ち殺してしまったのです(58節)。ペテロも同じように、あなたがたがイエスを十字架につけたのだ…と人々を責めましたが、そのときは、彼らはそれを聞いて心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ね、ペテロの教えに従い、悔い改めてバプテスマを受けました(2:36-41)。しかし、ステパノのことばを聞いた者たちは、心に覆いがかかり、霊の耳が塞がれ、聖霊に逆らい続けていたために、そのような頑なな態度を改めようとしなかったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。彼らのようなうなじの固い、頑なな者となって、主のみこころに逆らうことがないように、心と耳とに割礼を受け、肉のような柔らかい心と、開かれた耳を持つ者でありたいと思います。そしてますます、主の御声をしっかりと聴き、御霊の促しと導きに敏感になり、主の教えを忠実に守り行う者とされたいと願うのです。そのような者とさせてくださいと、主に祈り求めていきたいと思います。 主のみこころにかなう者とされますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 7章31-43節(5月7日) 「『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現われた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。」…使徒7:35(新改訳2017) 神は、奴隷としてエジプトに虐げられていたイスラエルの民を解放し、救い出すために、ご自身が選ばれたモーセを遣わされました。神は民の苦難を見、うめき声を聞き、愛とあわれみをもってそうされたのです(34節)。実際、神はそのモーセを通して、紅海を分けられ、岩から水を出し、天からマナを降らせ、多くの不思議としるしをなされました。またシナイ山では、民が守り行うべき戒めを与えられました。そのようにして民は、40年間の荒野の歩みにあっても、神によって立てられたモーセのもと、守られ、養われ、教えられ、導かれたのです。ところが民は、モーセに従うことをよしとせず、アロンに作らせた金の子牛を神の代わりに拝み、被造物に過ぎない天の星を頼みとしました。そして神は、そんな民に背を向け、後の世代において、彼らの国を異邦人の手によって滅ぼし、捕らえ移されるようにされたのです。それは、民が神に背を向け、身勝手な歩みをしたからです。ステパノは、ペテロ同様、そのモーセがキリストの型であることを示唆し(3:22)、弁明を聞いている人々が、神に背を向けて身勝手な歩みをし、みこころを損なった彼らの先祖たちと同じだと、ここで批判しているのです。イエス・キリストは、罪の奴隷として捕われ、苦難の中にあった私たちを解放し、救い出してくださいました。そのキリストは、主権をもってすべてを統べ治め、ご自の民に先立って進んで行かれるお方なのです。このお方にひたすら拠り頼み、聞き従うなら、私たちは確かに、神によって守られ、養われ、天の御国に導き入れられる者となるのです。「このお方以外には、だれによっても救いはありません」(使4:12)。先立って進まれるこのお方にしっかりと目を留めつつ、歩み続けたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 7章17-30節(5月6日) 「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。」…使徒7:22 エジプトの王パロは、エジプトに寄留しているイスラエルの民が増え、大きな勢力となったことを恐れ、彼らに過酷な労働を課して苦しめ、さらに、生まれたイスラエルの男子はすべて、ナイル川に投げ込んで殺すよう命じました。しかし、ある夫婦がその命令に背き、3ヶ月育てた男の子をかごに入れて川辺の葦の茂みに置いたところ、パロの娘がそれを見つけ、自分の子として育てたのです。それが、後に民の指導者となったモーセです(出2:1-10)。彼は、王女の息子として、エジプトの一流の学問を教え込まれ、それを実務に活かす訓練を受けて育ちました。それゆえに「ことばにもわざにも力があった」のです。そしてそれは、神が備えられたことであって、もちろんモーセがエジプトの王位を継ぐためではなく、イスラエルの民が奴隷から解放され、救われるためだったのです。モーセが40歳になった頃、主は彼に、同胞を顧みる心を起こされました。彼は王宮において、何一つ不自由のない日々を送りながら、苦役に苦しむ仲間を見て、心を痛め続けていたのです。そして、その彼らの救いのために、自分が神から召されているということを、はっきりと自覚していたのです(25節)。神は、さまざまな苦難の中で苦しむ人々を、今も顧みておられます。そしてその人々が解放され、救い出されるために、聖徒たちを召し、遣わし、用いられるのです。キリストに贖われた私たち一人ひとりも、確かにそこに加えられているのです。モーセは、神の守りと備えの中で生かされましたが、私たちも主の主権と導きによって、それぞれのところに置かれ、教育や訓練を受ける機会が与えられています。それらは、たとえこの世に属するものであっても、主にあって有益なものとされ、聖徒たちが整えられ、成長するために用いられるのです。そのことを覚え、主に感謝しつつ、自分たちに与えられている働き、使命を全うすることができるよう、さらに祈り求めていきたいと思います。 主にますます用いられますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 7章1-16節(5月5日) 「そして、こう言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。』」…使徒7:7 教会の実務担当として選ばれた7人のうちの一人ステパノは、恵みと力に満ち、人々の間でしるしと不思議を行っていましたが、ある者たちはそれを止めさせるべく、民衆を扇動して彼を捕らえさせ、偽りの証人まで立てて、議会に引っ張り出しました。するとステパノは、議員たちの前で弁明を始めましたが、彼は、訴えは事実無根だ、自分を釈放してほしいと主張したのではなかったのです。そこでステパノは、神が歴史において、イスラエルを祝福すべくどのように真実に関わって来られたのか、そのことをアブラハムまでさかのぼって、一つ一つ説き明していきました。彼は使徒ではありませんでしたが、キリストの弟子の一人として、置かれた状況の中で、自分ができること、なすべきことを、忠実に果たしたのです。16節までの彼の弁明においてあらためて教えられること、それは、イスラエルの民が苦難の中にあっても、神は、ご自身の民を見捨てず、見放さず、彼らとともにあり、力強い御手をもって救い出し、導かれたということです。神は、400年もの長い間、奴隷としてエジプトに虐げられていたイスラエルの民をあわれみ、そこから救い出されました。また、兄弟たちから妬まれ、エジプトに売り飛ばされたヨセフとともにあり、エジプト王パロの厚い信任を受け、エジプトの国を治める大臣となるようにされました。そしてそのヨセフを通して、ヤコブの家族を飢饉の中にあって守られ、養われ、祝福されたのです。その神は、今も生きておられ、さまざまな苦難の中にあっても、キリストにあって神の民とされた私たちを見捨てることなく、いつもともにあり、守り、支え、導いていてくださいます。そして、キリストの弟子である私たちは、献身者かどうかにかかわらず、その真実な神の救いと祝福について、「だれにでもいつでも弁明できる」(1ペテ3:15)ことが求められているのです。御霊の助けと導きの中で、そのことを果たしていきたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 6章(5月4日) 「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」…使徒6:7 教会員が増し加えられる中、ギリシャ語を話すユダヤ人たちのうちのやもめが、毎日の配給の際に不公平な扱いを受けていたため、ヘブル語を話す弟子たちや人々への苦情が出るということが起こりました。それは、ことばが違うために意志の疎通が不十分だったからですが、そのことをきっかけに、それまでその配給をしていた使徒たちは、教会の実務にあたる者たちを選ばせ、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専念するようにしたのです。使徒たちが決めたその対応において注目すべきこと、それは、その者たちの選定基準が、実務を遂行する能力の高さではなく、御霊と知恵とに満ち、人々の評判の良いという点にあったことです。また、使徒たちが祈りとみことばの奉仕に専念することによって、神のことばがますます広まっていき、救われる人々が次々に起こされ、弟子の数が非常に増えていったということです。パウロは、コリント人への手紙第一12章において、御霊の賜物について記していますが、彼は、教会の働き、奉仕にはさまざまなものがあり、その務めを果たすため、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物が、御霊によって分け与えられており、その一人ひとりは、キリストのからだの各器官なのだと言っているのです。御霊の賜物は、今でも、教会に加えられた一人ひとりに確かに与えられています。それは実に多種多様であり、そこには優劣はないのです。そしてそれらが活かされ、各器官が補完し合い、からだ全体が建て上げられることによって、神の国が拡大していくのです。救われる人々が起こされていくのです。そしてそのために、一人ひとりが、自分の召命と賜物が何かを主に尋ね、それを用いていただくべく、何よりも御霊の満たしを求めること、また互いに、それぞれの働きを認め合い、尊重し合い、祝福のためにとりなし合うことが大切なのです。そのような群れとして進んでいきたいと思います。 主の祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 5章33-42節(5月3日) 「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」…使徒5:42 留置場に入れたはずの使徒たちが、夜明けから宮で、人々にイエスのことを宣べ伝えているのを知った大祭司たちは、彼らを議会に呼び出し、やめさせようとしました。しかし、使徒たちがそれを断固として拒否したため、大祭司たちは怒り狂い、彼らを殺そうとしたのです(33節)。ところが、律法の教師でガマリエルというパリサイ人が議場に立ち、議員たちを説得してそれをやめさせたため、使徒たちは釈放されました。ガマリエルは、使徒たちをかばって助けようとしたわけでありません。彼は、神の主権を認め、使徒たちの計画や行動が神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼせないし、神に敵対する者となってしまうのだ…と、主張したのです(39節)。その後、使徒たちは毎日、宮や家々において、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けました。議会で大祭司から、やっていることをやめるように迫られたとき、彼らは「人に従うより、神に従うべきです」ときっぱり答えましたが(29節)、そのことばどおり、彼らは捕らえられることを恐れずに、大胆に語り続けたのです。「人に従う」とは、他者の意見を受け入れ、命令に服従するということだけを意味するのではありません。「人」とは「人間」であって、自分自身の考えや感情に従うということをも意味しているのです。そして、使徒たちは、そうすることをせずに、祈りの中で聴いた神の御声、示された神のみこころに従ったのです。また、ガマリエルも、神の促しに従って、議員たちを説得したのです。ひるがえって、私たちは、誰に従って歩み、何に従って行動しているのでしょうか…。「人に従うより、神に従うべきです」と告白した使徒たちのことばを心に留め、他者の主張に安易に同調し、自らの感情やこの世の流れに従うことがないよう、ますます、祈りのうちに主の御声をしっかりと聴き、みことばを通して主の御旨を悟り、神に従い、みこころをなす者でありたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 使徒の働き 5章1-11節(5月1日) 「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」…使徒5:4 アナニヤとサッピラという夫妻が行った悪事が記されています。4章32節以降にあるように、当時、信じた者の群れは、心と思いを一つにし、それぞれ自分の持ち物を差し出して共有していましたが、その夫妻は、自分たちの地所の売上金の一部をひそかに取り置き、残りを、あたかも全部であるかのように見せかけて差し出したのです。しかし、御霊に教えられてそのことを見抜いたペテロは、まず夫であるアナニヤを非難しました。すると彼は、そのことばを聞くや否や、ばったりと倒れて息が絶えました。その後しばらくして何も知らずに入ってきた彼の妻サッピラも、ペテロが二人の悪事を指摘すると、同じように、即座に倒れて息絶えてしまったのです。ペテロが繰り返し語っていること、それは、二人が「神を欺いた」ということです(3,4,9節)。たとえ人をだませたとしても、すべてをご存じである神を欺くことはできません。神は侮られるような方ではないのです(ガラ6:7)。また、著者のルカがここで強調していること、それは、この出来事を知ったすべての人に、大きな恐れが生じたということです(5,11節)。11節に「教会全体」とありますが、この書において「教会」ということばが出てくるのはその節が初めてです。パウロは、教会はキリストのからだであり、聖徒たちは主に召し集められてそこに加えられた者であり、教会のかしらはキリストご自身であると語っていますが(コロ1:18,24)、ルカもまた、教会は、権威を持った王であるキリストによって建てられ、統べ治められているということを、ここで示そうとしているのです。キリストに贖われ、キリストのからだの各器官として加えられている私たちもまた、ますます主を畏れ、へりくだって、神と人々とに仕えていく者でありたいと思います。 主のみこころにかなう者とされますように。 |