◇聖書箇所: 歴代誌第一 11章1-21節◇(5月11日)

「…『そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。』…」…1歴代11:19

10節以降に、イスラエルの新しい王として油注がれたダビデの指揮のもとに戦う勇士たちの中でも、特に勇敢で忠誠を尽くした3人の勇士たちのことが記されています。その1人目はヤショブアム、彼は槍を振るって一度に3百人を打ち殺したとあります(11節)。2人目はエルアザル、彼もまた、敵であるペリシテ人に立ち向かい、その戦いぶりは、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるほどであったとあります(2サム23:10)。3人目は、歴代誌には名前が書かれていませんが、シャマという人物で、畑の真ん中に踏みとどまってペリシテ人を打ち殺したのは(14節)、彼のことだと思われます(2サム23:12)。王ダビデは、エブス人の住むシオンの要害を攻め取り、住む所をヘブロンからエルサレムに移していましたが、ある日、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲めたら…と、無理だと思いつつ、その願いをつい口にしました。すると3勇士は、ペリシテ人の陣営を突き破ってその井戸に行き、汲んだ水を王に持ち帰ったのです。しかし王は、その水を飲みませんでした。主の前に注いで、いのちをかけた彼らの血を飲むことなどできないと言ったのです。キリストもまた、父なる神の切なる願い、すなわち、すべての人が救われて永遠のいのちを持つようになることを実現させるべく、父のみこころに従い、十字架にかかり、いのちをささげて、全人類を罪の奴隷から贖い出してくださいました。そのことを信じる私たちは、今、死からよみがえられたそのキリストのいのちに生かされているのです。そしてその贖いのみわざに感激しつつ、キリストのいのちを表すぶどう液を、聖餐においていただいているのです。またキリストのしもべとして、王に忠実に仕える者とされているのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタ25:21)と、主に喜んでいただくために、みこころを果たすべく、持てるものをささげて、主に仕えていきたいと思います。

主が戦いに勝利させてくださいますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 10章◇(5月10日)

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」…1歴代10:13-14

サウル王の悲惨な最期が記されています。イスラエルはペリシテ人と戦いましたが、敵が優勢となり、多くの民がギルボア山で刺し殺されました。また、サウルの3人の息子も打ち殺され、さらにサウル本人も射手たちから狙い撃ちにされ、傷を負うこととなってしまったのです。サウルは、自分が敵のなぶり者となるのを拒み、刺し殺してくれと道具持ちに頼み込みましたが、彼は、王に対してそのようにすることを恐れ、言われたとおりにしませんでした。するとサウルは、剣の上に倒れて自害したのです。サウルが息絶えているのを見たペリシテ人は、彼の首をはねて持ち帰り、偶像の宮にさらしました。サウルの死について、歴代誌の著者は、彼が主の信頼を裏切り、不信の罪を犯したために死んだ、主が彼を殺されたのだと記しています。サウルを初代の王として選ばれた主は、彼のことを信頼し、期待していたのです。しかし彼は、主に尋ね求めようとせず、みことばに聞き従わず、霊媒に伺いを立てるという、主が忌み嫌われることまで行ったのです(1サム28:8)。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サム15:22)。敵から奪った聖絶すべき家畜を、勝手にいけにえとしてささげたサウルに対して、サムエルはそのように告げました。サウルは、「聖絶せよ」という主の御声に聞き従うべきだったのです。霊媒をする者は主が忌み嫌われると代々教えられて来たことに、きちんと心を留めるべきだったのです。そして、そのように主の御声、み教えに聞き従うことは、今も、主の民とされた私たちに対しても、変わることなく求められていることなのです。そのことを覚え、主の前にへりくだり、ますます従順に聞き従っていく者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 7章44-53節(5月8日)

「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」…使徒7:51

ステパノの弁明の最後の部分です。彼は、議員たちを追い詰めるようにして、それまでの批判のトーンを上げて語りました。あなたがたはうなじの固い、強情で頑なな者たちであり、からだには割礼を受けてはいても、心と霊の耳には割礼を受けていない…すなわち、心には覆いがかかっており、神の声を聴く耳が塞がれているのだ…先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのだ…と。さらに彼は迫りました。あなたがたの先祖たちは、正しい方の到来を告げていた預言者たちをみな殺した…そして今やあなたがたが、そのお方、すなわちメシアである主イエスを殺す者となったのだ…律法を神から受けたのに、それを守り行おうとはしなかったのだ…と。すると、それを聞いた人々は、「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりし」(54節)、彼を町の外に追い出し、石で打ち殺してしまったのです(58節)。ペテロも同じように、あなたがたがイエスを十字架につけたのだ…と人々を責めましたが、そのときは、彼らはそれを聞いて心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ね、ペテロの教えに従い、悔い改めてバプテスマを受けました(2:36-41)。しかし、ステパノのことばを聞いた者たちは、心に覆いがかかり、霊の耳が塞がれ、聖霊に逆らい続けていたために、そのような頑なな態度を改めようとしなかったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。彼らのようなうなじの固い、頑なな者となって、主のみこころに逆らうことがないように、心と耳とに割礼を受け、肉のような柔らかい心と、開かれた耳を持つ者でありたいと思います。そしてますます、主の御声をしっかりと聴き、御霊の促しと導きに敏感になり、主の教えを忠実に守り行う者とされたいと願うのです。そのような者とさせてくださいと、主に祈り求めていきたいと思います。

主のみこころにかなう者とされますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 7章31-43節(5月7日)

「『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現われた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。」…使徒7:35(新改訳2017)

神は、奴隷としてエジプトに虐げられていたイスラエルの民を解放し、救い出すために、ご自身が選ばれたモーセを遣わされました。神は民の苦難を見、うめき声を聞き、愛とあわれみをもってそうされたのです(34節)。実際、神はそのモーセを通して、紅海を分けられ、岩から水を出し、天からマナを降らせ、多くの不思議としるしをなされました。またシナイ山では、民が守り行うべき戒めを与えられました。そのようにして民は、40年間の荒野の歩みにあっても、神によって立てられたモーセのもと、守られ、養われ、教えられ、導かれたのです。ところが民は、モーセに従うことをよしとせず、アロンに作らせた金の子牛を神の代わりに拝み、被造物に過ぎない天の星を頼みとしました。そして神は、そんな民に背を向け、後の世代において、彼らの国を異邦人の手によって滅ぼし、捕らえ移されるようにされたのです。それは、民が神に背を向け、身勝手な歩みをしたからです。ステパノは、ペテロ同様、そのモーセがキリストの型であることを示唆し(3:22)、弁明を聞いている人々が、神に背を向けて身勝手な歩みをし、みこころを損なった彼らの先祖たちと同じだと、ここで批判しているのです。イエス・キリストは、罪の奴隷として捕われ、苦難の中にあった私たちを解放し、救い出してくださいました。そのキリストは、主権をもってすべてを統べ治め、ご自の民に先立って進んで行かれるお方なのです。このお方にひたすら拠り頼み、聞き従うなら、私たちは確かに、神によって守られ、養われ、天の御国に導き入れられる者となるのです。「このお方以外には、だれによっても救いはありません」(使4:12)。先立って進まれるこのお方にしっかりと目を留めつつ、歩み続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 7章17-30節(5月6日)

「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。」…使徒7:22

エジプトの王パロは、エジプトに寄留しているイスラエルの民が増え、大きな勢力となったことを恐れ、彼らに過酷な労働を課して苦しめ、さらに、生まれたイスラエルの男子はすべて、ナイル川に投げ込んで殺すよう命じました。しかし、ある夫婦がその命令に背き、3ヶ月育てた男の子をかごに入れて川辺の葦の茂みに置いたところ、パロの娘がそれを見つけ、自分の子として育てたのです。それが、後に民の指導者となったモーセです(出2:1-10)。彼は、王女の息子として、エジプトの一流の学問を教え込まれ、それを実務に活かす訓練を受けて育ちました。それゆえに「ことばにもわざにも力があった」のです。そしてそれは、神が備えられたことであって、もちろんモーセがエジプトの王位を継ぐためではなく、イスラエルの民が奴隷から解放され、救われるためだったのです。モーセが40歳になった頃、主は彼に、同胞を顧みる心を起こされました。彼は王宮において、何一つ不自由のない日々を送りながら、苦役に苦しむ仲間を見て、心を痛め続けていたのです。そして、その彼らの救いのために、自分が神から召されているということを、はっきりと自覚していたのです(25節)。神は、さまざまな苦難の中で苦しむ人々を、今も顧みておられます。そしてその人々が解放され、救い出されるために、聖徒たちを召し、遣わし、用いられるのです。キリストに贖われた私たち一人ひとりも、確かにそこに加えられているのです。モーセは、神の守りと備えの中で生かされましたが、私たちも主の主権と導きによって、それぞれのところに置かれ、教育や訓練を受ける機会が与えられています。それらは、たとえこの世に属するものであっても、主にあって有益なものとされ、聖徒たちが整えられ、成長するために用いられるのです。そのことを覚え、主に感謝しつつ、自分たちに与えられている働き、使命を全うすることができるよう、さらに祈り求めていきたいと思います。

主にますます用いられますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 7章1-16節(5月5日)

「そして、こう言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する。』」…使徒7:7

教会の実務担当として選ばれた7人のうちの一人ステパノは、恵みと力に満ち、人々の間でしるしと不思議を行っていましたが、ある者たちはそれを止めさせるべく、民衆を扇動して彼を捕らえさせ、偽りの証人まで立てて、議会に引っ張り出しました。するとステパノは、議員たちの前で弁明を始めましたが、彼は、訴えは事実無根だ、自分を釈放してほしいと主張したのではなかったのです。そこでステパノは、神が歴史において、イスラエルを祝福すべくどのように真実に関わって来られたのか、そのことをアブラハムまでさかのぼって、一つ一つ説き明していきました。彼は使徒ではありませんでしたが、キリストの弟子の一人として、置かれた状況の中で、自分ができること、なすべきことを、忠実に果たしたのです。16節までの彼の弁明においてあらためて教えられること、それは、イスラエルの民が苦難の中にあっても、神は、ご自身の民を見捨てず、見放さず、彼らとともにあり、力強い御手をもって救い出し、導かれたということです。神は、400年もの長い間、奴隷としてエジプトに虐げられていたイスラエルの民をあわれみ、そこから救い出されました。また、兄弟たちから妬まれ、エジプトに売り飛ばされたヨセフとともにあり、エジプト王パロの厚い信任を受け、エジプトの国を治める大臣となるようにされました。そしてそのヨセフを通して、ヤコブの家族を飢饉の中にあって守られ、養われ、祝福されたのです。その神は、今も生きておられ、さまざまな苦難の中にあっても、キリストにあって神の民とされた私たちを見捨てることなく、いつもともにあり、守り、支え、導いていてくださいます。そして、キリストの弟子である私たちは、献身者かどうかにかかわらず、その真実な神の救いと祝福について、「だれにでもいつでも弁明できる」(1ペテ3:15)ことが求められているのです。御霊の助けと導きの中で、そのことを果たしていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 6章(5月4日)

「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」…使徒6:7

教会員が増し加えられる中、ギリシャ語を話すユダヤ人たちのうちのやもめが、毎日の配給の際に不公平な扱いを受けていたため、ヘブル語を話す弟子たちや人々への苦情が出るということが起こりました。それは、ことばが違うために意志の疎通が不十分だったからですが、そのことをきっかけに、それまでその配給をしていた使徒たちは、教会の実務にあたる者たちを選ばせ、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専念するようにしたのです。使徒たちが決めたその対応において注目すべきこと、それは、その者たちの選定基準が、実務を遂行する能力の高さではなく、御霊と知恵とに満ち、人々の評判の良いという点にあったことです。また、使徒たちが祈りとみことばの奉仕に専念することによって、神のことばがますます広まっていき、救われる人々が次々に起こされ、弟子の数が非常に増えていったということです。パウロは、コリント人への手紙第一12章において、御霊の賜物について記していますが、彼は、教会の働き、奉仕にはさまざまなものがあり、その務めを果たすため、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物が、御霊によって分け与えられており、その一人ひとりは、キリストのからだの各器官なのだと言っているのです。御霊の賜物は、今でも、教会に加えられた一人ひとりに確かに与えられています。それは実に多種多様であり、そこには優劣はないのです。そしてそれらが活かされ、各器官が補完し合い、からだ全体が建て上げられることによって、神の国が拡大していくのです。救われる人々が起こされていくのです。そしてそのために、一人ひとりが、自分の召命と賜物が何かを主に尋ね、それを用いていただくべく、何よりも御霊の満たしを求めること、また互いに、それぞれの働きを認め合い、尊重し合い、祝福のためにとりなし合うことが大切なのです。そのような群れとして進んでいきたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 5章33-42節(5月3日)

「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」…使徒5:42

留置場に入れたはずの使徒たちが、夜明けから宮で、人々にイエスのことを宣べ伝えているのを知った大祭司たちは、彼らを議会に呼び出し、やめさせようとしました。しかし、使徒たちがそれを断固として拒否したため、大祭司たちは怒り狂い、彼らを殺そうとしたのです(33節)。ところが、律法の教師でガマリエルというパリサイ人が議場に立ち、議員たちを説得してそれをやめさせたため、使徒たちは釈放されました。ガマリエルは、使徒たちをかばって助けようとしたわけでありません。彼は、神の主権を認め、使徒たちの計画や行動が神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼせないし、神に敵対する者となってしまうのだ…と、主張したのです(39節)。その後、使徒たちは毎日、宮や家々において、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けました。議会で大祭司から、やっていることをやめるように迫られたとき、彼らは「人に従うより、神に従うべきです」ときっぱり答えましたが(29節)、そのことばどおり、彼らは捕らえられることを恐れずに、大胆に語り続けたのです。「人に従う」とは、他者の意見を受け入れ、命令に服従するということだけを意味するのではありません。「人」とは「人間」であって、自分自身の考えや感情に従うということをも意味しているのです。そして、使徒たちは、そうすることをせずに、祈りの中で聴いた神の御声、示された神のみこころに従ったのです。また、ガマリエルも、神の促しに従って、議員たちを説得したのです。ひるがえって、私たちは、誰に従って歩み、何に従って行動しているのでしょうか…。「人に従うより、神に従うべきです」と告白した使徒たちのことばを心に留め、他者の主張に安易に同調し、自らの感情やこの世の流れに従うことがないよう、ますます、祈りのうちに主の御声をしっかりと聴き、みことばを通して主の御旨を悟り、神に従い、みこころをなす者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 5章1-11節(5月1日)

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」…使徒5:4

アナニヤとサッピラという夫妻が行った悪事が記されています。4章32節以降にあるように、当時、信じた者の群れは、心と思いを一つにし、それぞれ自分の持ち物を差し出して共有していましたが、その夫妻は、自分たちの地所の売上金の一部をひそかに取り置き、残りを、あたかも全部であるかのように見せかけて差し出したのです。しかし、御霊に教えられてそのことを見抜いたペテロは、まず夫であるアナニヤを非難しました。すると彼は、そのことばを聞くや否や、ばったりと倒れて息が絶えました。その後しばらくして何も知らずに入ってきた彼の妻サッピラも、ペテロが二人の悪事を指摘すると、同じように、即座に倒れて息絶えてしまったのです。ペテロが繰り返し語っていること、それは、二人が「神を欺いた」ということです(3,4,9節)。たとえ人をだませたとしても、すべてをご存じである神を欺くことはできません。神は侮られるような方ではないのです(ガラ6:7)。また、著者のルカがここで強調していること、それは、この出来事を知ったすべての人に、大きな恐れが生じたということです(5,11節)。11節に「教会全体」とありますが、この書において「教会」ということばが出てくるのはその節が初めてです。パウロは、教会はキリストのからだであり、聖徒たちは主に召し集められてそこに加えられた者であり、教会のかしらはキリストご自身であると語っていますが(コロ1:18,24)、ルカもまた、教会は、権威を持った王であるキリストによって建てられ、統べ治められているということを、ここで示そうとしているのです。キリストに贖われ、キリストのからだの各器官として加えられている私たちもまた、ますます主を畏れ、へりくだって、神と人々とに仕えていく者でありたいと思います。

主のみこころにかなう者とされますように。