◇聖書箇所: 歴代誌 第二 2章◇(6月24日)

「さらに、フラムは言った。『天と地とをお造りになったイスラエルの神、主はほむべきかな。主はダビデ王に、思慮と悟りとを備えた知恵ある子を授け、主のための宮と、自分の王国のための宮殿とを建てさせられるのです。』」…2歴代2:12

ソロモンは、主の御名のための宮、すなわち神殿と、自分の王国のための宮殿を建てようと考え、それを実行に移しました。彼はまず、父ダビデが王宮を建てた際、杉材や職人を送ってくれたツロの王フラム(ヒラム)に対し、自分にも同様にしてほしいと、協力を要請したのです。フラムはそのことを快諾しました。そして、ダン族の子孫を母に、またツロの人を父に持つ熟練工フラムを遣わし、杉材も必要なだけいかだに組んで海路で届けると、ソロモンに約束したのです。その熟練工フラムは、金、銀、石材などの細工、織物の製造、彫り物、種々の設計等、多くのことに秀でている、うってつけの人物でした。ソロモンは、その神殿建設にあたり、偉大な神にふさわしい壮大なものを建てようと決意していました(5節)。そしてその実現のためには、自前主義にならず、積極的に他国の優れた材料や人材を用いるようにしたのです。そこには人間的なこだわりや妥協はありませんでした。彼は主に、最良のものをささげようとしていたのです。さらにソロモンは、主を畏れ、御前にへりくだり、神殿建設という偉大な事業は、自分の知恵や力では到底やり切ることができないと告白していました(6節)。彼は、その働きのための助け手が与えられるようにと、主に祈ったに違いありません。そして主はその願いに答え、フラム王のうちに働き(12節)、必要を備えられたのです。このソロモンのあり方から、主に最良のものをささげること、自前主義にならず、さまざまな賜物を持った者たちと協力して主の働きを進めること、そして、へりくだって主の助けと導きを祈り求めることの大切さを教えられます。そのような者として、委ねられた主の働きを、さらに推し進めていきたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 1章◇(6月23日)

「今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」…2歴代1:10

ソロモンは、父ダビデから継承した王権を確立し、イスラエルの全会衆とともに、ギブオンにある高き所に行き、そこで多くのいけにえをささげて、主を礼拝しました。するとその夜、神がソロモンに現われ、何を与えればよいだろうか、欲しいものを願い求めよと告げたのです。するとソロモンは、知恵と知識が与えられるようにと主に願いました。それを聞いた神は、彼が富や名誉や長寿や敵のいのちなどではなく、知恵と知識を求めたことを良しとされ、それらを授けるだけでなく、それに加えて富や誉れをも与えようと、約束してくださったのです。ソロモンが主に知恵と知識を願い求めた理由、それは、イスラエルの民をさばくため、すなわち、民の訴えを聞き、彼らの間に生じるいざこざ、争いが大ごとにならないよう、指示を与えて解決させ、国を安泰に保ち、王としての自分の職務を全うするためであったのです。そしてそのことは、主のみこころにかなっていたのです。1節には、主がソロモンとともにおられて、彼を並外れて偉大な者とされたとありますが、偉大な者とは、単に力がある者、有能な者ということではありません。それは何よりも、主の前にへりくだり、主のみこころを常に尋ね求め、その導きに従順に従う者であるのです。この書の16章9節には、「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と書かれています。そのようにソロモンは、心が主と一つになっていました。そして神はそのことを喜ばれ、彼が求めたとおりに知恵と知識を与え、願わなかった富と誉れも与え、神殿建設の働きを委ねられ、イスラエルの国と民を祝福すべく、彼を尊く用いられたのです。私たちも、主と同じ心を持ち、委ねられた働きを全うする者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 12章18-25節◇(6月22日)

「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」…使徒12:23

ヘロデ王はカイザリアの町に滞在していましたが、そこに、ツロとシドンの人々が訪ねて来ました。彼らはユダヤから食糧の供給を受けていましたが、自分たちが何らかの理由で王の機嫌を損ねてしまい、王が立腹していることを知り、和解を願い出ようとしてやって来たのです。数日後、ヘロデは王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説を始めました。すると会衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び、王を称賛したのです。それはおそらく、本心ではなく、自分たちがヘロデに良くしてもらいたいための、お世辞であったことでしょう。そのように言われて、ヘロデは、有頂天になって演説を続けましたが、何と彼は、突如虫にかまれ、息絶えてしまいました。ルカは、彼のいのちを取られたのは主ご自身であっこと、そしてそれは、彼が神に栄光を帰さなかったからだと記しています。ヘロデは虫にかまれて毒がからだに回ったのではなく、神によるさばきを受けてそのいのちを取られたのです。彼の演説の内容は不明ですが、「神の声だ」とおだてられ、その気になり、傲り高ぶった言動を取ったに違いありません。「神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように」(詩57:11)。ダビデはそのように主に祈りました。主イエスもまた、弟子たちに、「御名があがめられますように」と、天の父に向かって最初に祈るようにと教えられました(マタ6:9)。私たちは、ヘロデのように神気取りになることはないでしょう。しかし、日々の歩みにおいて神がなしてくださるみわざを、当然のことのように受け取っているなら、それに対して神をほめたたえ、感謝をささげようとしないなら、神に栄光を帰しているとは言えないのです。小さなことの中にも、神が働いておられることを覚え、主への賛美と感謝を絶やさない者でありたいと思います。

すべての栄光が神にありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 11章18節◇(6月19日)

「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」…使徒11:18

異邦人が神のことばを信じ、聖霊を受けたという知らせは、ペテロがエルサレムに戻る前にすでに伝えられ、人々に衝撃を与えていました。なぜならその起こったこと自体もさることながら、使徒であるペテロが、汚れた存在とされている異邦人と交わって食事を共にするなど、彼らにとっては全く考えられないことだったからです。エルサレムに帰ったペテロは、そのことへの非難に対して、自分の身に起こった事を順序立てて説明しました。その内容はすでに見た10章の繰り返しですが、著者ルカがいかに、この最初の異邦人の救いと聖霊の注ぎの出来事を重視していたかがわかります。確かに神は、主イエス以前の時代において、イスラエルという民族を通してご自身の救いの計画を明らかにしてこられました。そしていよいよ、そのイエス・キリストの十字架と復活を通し、イスラエルと異邦人との間には何の差別もないこと、全人類が神の救いの対象とされていることを、異邦人への聖霊の傾注によって証しされたのです。そこには割礼や他の儀式は不要でした。神の恵みのことば、主イエスの福音が語り告げられ、聞く者がそれを信じて受け入れるだけで十分であったのです。ペテロの話しを聞いた人々は、彼への非難をやめて沈黙しました。それは彼らにとって、主がなさったことを受け入れ、自分たちの考えを改め、異邦人への偏見を捨てるために必要な時間でした。そしてその沈黙の後、神はいのちに至る悔い改め、すなわち罪からの救いを、自分たちだけでなく異邦人にもお与えになったのだと言って、神をほめたたえたのです。ここに、神の主権を全面的に認め、主の前にへりくだる者の姿があります。私たちもそのように、人間的な思い、先入観や偏見を取り除かれ、主がなさるすべてのことを、信仰をもって受け入れる者でありたいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 10章34-48節◇(6月18日)

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」…使徒10:44

ペテロは、コルネリオを初め、彼の家に集まっていた人々に向かって話し始めました。神は民族に差別をされる方ではなく、ユダヤ人だけでなく今や異邦人に対しても救いをもたらされること。そしてそれは、イエス・キリストがすべての人のために十字架にかかり、よみがえられ、贖いを成し遂げられたゆえであること。さらに、多くの預言者たちが、その名によって罪の赦しをもたらすメシアを神が遣わされると、昔から証言していたことを、ペテロは彼らに宣べ伝えたのです。するとペテロの話がまだ終わっていないにもかかわらず、そのことばに熱心に耳を傾けていた人々全員に、なんと、突然、聖霊が下られたのです。彼らは御霊が導かれるまままに異言を語り、賛美を主にささげました。それは、あのペンテコステの日に起こった事と同じであり、ペテロに同行してヨッパから来た信徒たちは、すっかり驚いてしまいました。一方ペテロは、そのように聖霊のバプテスマを受けたのであれば、速やかに水のバプテスマも受けるべきだと判断し、そのように彼らに命じたのです。このようにして、カイザリヤにいたコルネリオ、彼の親族や友人たちは聖霊の油注ぎを受けました。そしてそれは、異邦人の救いがもたらされた最初の出来事であり、以来、2千年間にわたって聖霊の働きはますます拡大し、この日本においても救われる者、聖霊に満たされる者が次々に起こされ、そこに私たちも加えられているのです。コルネリオたちには、聖霊のバプテスマが水のバプテスマよりも先になされました。そのように神のみわざは常に、人の考えや過去の事を超越しているのです。私たちは常識や先入観にとらわれないように、偉大な神を自分の狭い枠の中に押し込めないようにすべきなのです。私たちが見聞きしたことのないもの、心に思い浮かべたことがないものを備えてくださる(1コリ2:9)神に、ますます期待し、拠り頼んで歩んでいきたいと思います。

主のみわざを待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 10章17-33節◇(6月17日)

「『それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。』」…使徒10:33

ペテロが、見せられた幻について思い巡らしていたちょうどそのとき、彼が滞在していた家にコルネリオの使者たちが到着しました。「彼らを遣わしたのはわたしです」と御霊から語られ、玄関を開けて彼らと会ったペテロは、その訪問の意図を聞くと、彼らを家に迎え入れて泊まらせました。御霊は、ためらわずに(別訳:「何の差別もつけずに」)、彼らといっしょに行けと命じていましたが、異邦人のところに出向くことが主のみこころなのだと、その晩、ペテロは思わされたことでしょう。翌日、ペテロは使者とともにカイザリヤに向かい、ヨッパの6人の兄弟たちも(11:12)同行しました。そして次の日にコルネリオの家に着くと、ペテロは丁重なコルネリオの挨拶を受けて迎え入れられましたが、そこに多くの異邦人が集まっているのを見たとき、主から、食べるのを律法で禁じられている多くの生きものを幻で見せられ、さあほふって食べよと命じられたその真意は、異邦人を汚れたものとするなというメッセージなのだということを、彼はあらためてはっきりと悟ったのです(28節)。そのようにして神は、コルネリオとペテロの出会いを計画し、実現されました。またそこには、御使いや御霊の介入がありました。そして何よりも、ローマ軍の百人隊長、異邦人でありながら、イスラエルの神を信じる敬虔なコルネリオを用いて、主は、大いなる救いのみわざを、ユダヤ人だけでなく異邦人へと拡げていかれたのです。ペテロたちがコルネリオの家に着いたとき、そこにはコルネリオの親族、友人たちが呼び集められていました。そしてコルネリオはペテロに、「いま私たちは…すべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております」と言ったのです。私たちもそのように、主を心から待ち望み、主の救いと祝福を人々と積極的に分かち合おうとする者でありたいと思います。

御霊の助けと導きが与えられますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 10章1-16節◇(6月16日)

「すると、もう一度、声が聞こえた。『神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。』」…使徒10:15(新改訳2017)

カイザリヤに駐留していたローマ軍の「イタリア隊」の百人隊長であったコルネリオ(コルネリウス)は、異邦人でありながら、家族とともにイスラエルの神を信じて畏れ、祈りを欠かさず、民への施しをしていましたが、彼はある日、見せられた幻の中で御使いから、ヨッパに滞在しているペテロのところに人を遣わし、彼を家に招くようにと命じられました。そこでコルネリオは、しもべや部下の中から3人を選び、ヨッパに送り出しました。一方ペテロは、祈るために家の屋上に上ると夢心地になり、そこで、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、鳥が入った入れ物が天から地上に降りて来る幻を見せられ、それらをほふって食べよとの主の声を聞きました。すると彼は、そんなことはできない、そんな汚れたものをこれまで食べたことなどないと、即座に、反発するようにして拒否したのです。それは、彼がユダヤ人として、レビ記11章で規定された食べ物についての律法を、ずっと厳格に守っていたことを示唆していました。弟子たちが手を洗わずにパンを食べているのを批判したパリサイ人たちに対し、主イエスはこう言われました。「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません」。そして、「すべての食物をきよいとされた」のです(マル7:15,19)。同様にパウロもこう言っています。「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです」(ロマ14:20)。ペテロは主イエスのそのことばを聞いていたはずでした。しかし、彼の霊の目はまだ完全には開かれていなかったのです。そして主は、キリストにあって律法が成就され、神がきよめたものを恵みとして受け取ることができることを、その幻を通して彼に教えようとされたのです。私たちも、形式に縛られた律法主義的な生き方ではなく、キリストが開かれた自由と解放の中に、感謝と喜びをもって、主が喜ばれる心で歩む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 9章32-43節◇(6月15日)

「ペテロは彼にこう言った。『アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。』すると彼はただちに立ち上がった。」…使徒9:34

ペテロがルダという町に下って行くと、そこにアイネヤという名の、8年間床についている中風の人がいました。そこでペテロがアイネヤに、「イエス・キリストがあなたをいやしてくださる…」と告げ、立ち上がるよう命じると、彼はそのとおりに、すぐさま床から起きて立ち上がったのです。「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言われて立ち上がった、足の不自由な人のいやしの記事が思い起こされます(使3:1-10)。すると今度は、ほど近いヨッパの町から来た遣いが、すぐ来て欲しいとペテロに頼みました。ドルカスという女性が病気で亡くなり、彼女を慕っていた多くの人々は悲しみの中にありましたが、噂を聞いて、ペテロなら生き返らせてくれる…と期待を抱いたのです。そして町に着いたペテロが、ドルカスのからだを前にして主に祈り、「タビタ、起きなさい」とその名を呼んで命じると、なんと彼女は、ただちに目を開けて起き上がったのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と主は弟子たちに命じられましたが(マル16:15)、そのことばに続けてこう言われました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、…病人に手を置けば病人はいやされます」。それはもちろん、その時代だけのことではありません。それは今も起こることであり、主ご自身がそれをなさるのです。それは神の国の祝福なのです。そしてそのことを通し、人々は主を信じるようになるのです(35,42節)。そのことを覚え、聖徒とされた私たちもまた、信仰と権威をもって、もっと積極的に、大胆に、病人に手を置き、イエス・キリストの名によって祈るべきなのです。主の御力の現われを待ち望むべきなのです。そのように、純粋な信仰を持ち、用いられる者でありたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 9章19b-31節◇(6月14日)

「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」…使徒9:31

9章の1-31節には、サウロの回心と宣教の開始、殺害の危機からの脱出と、めまぐるしく起こった事が記されていますが、それらのまとめとしてのことばを、ルカは31節に記しています。「教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて…」。それは、それらの地方にいくつかの教会が建てられたという意味ではありません。教会は建物ではなく、キリストを信じる者たちの群れを指しているのです。そしてそれはたとえ数人であっても、力強く築き上げられていったのです。「平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので…」。教会が拡大しようとするとき、迫害が起こりました。しかし信者たちは、主からの平安に満たされ、聖霊の励ましを受けていたのです。人を恐れず主を畏れ、主の助けと導きのうちに歩んでいたのです。そしてそれぞれの群れに、聖徒たちがどんどんと増し加えられていったのです。「こうして…」。31節の最初のそのことばは、30節までに書かれた一つ一つのことを指しています。サウロはダマスコへの途上で主に打たれましたが、アナニヤという聖徒を、主はサウロの救いと回復のために用い、ダマスコのユダヤ人たちがサウロを殺そうとすると、聖徒たちは夜中にかごでつり降ろして彼を逃がし、サウロがエルサレムに着くと、今度はバルナバという聖徒が使徒たちとの間に入って彼を弁護し、そこでも殺されそうになったサウロは、聖徒たちの手でタルソへ送られたのです。そのような多くの聖徒たちの支援、協力なくして、偉大な伝道者パウロ(サウロ)の活躍はあり得ませんでした。そして主は、今も、私たちの忠実な働きを用いて、御国を拡大され、それぞれの群れに、聖徒たちを増し加えてくださるのです。さまざまな困難の中、主の平安、聖霊の励ましを受けつつ、さらに前進したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 8章26-40節◇(6月12日)

「すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。』」…使徒8:31

サマリヤにおいてキリストの福音を宣べ伝えたピリポは、主の使いの命令に従って、今度は、エルサレムから南の地中海沿岸の町ガザに下る道を進んで行きました。すると彼は、途中で、馬車に乗ってイザヤ書を読んでいたエチオピアの宦官に出会い、そこでも御霊の促しに従って、一緒に進んで行くことになったのです。ピリポがその宦官に、読んでいることがわかるかと尋ねると、彼は、導く人がいないのでわからない…と答え、その導き手になってもらうべく、一緒に馬車に乗って欲しいとピリポに頼みました。そしてピリポが、聖書全体からメシアのことを説き明かし、福音を語ると、宦官はイエス・キリストを信じ、水のある所に来るとピリポに頼み込んで、早速バプテスマを授けてもらったのです。その宦官が読んでいたのはイザヤ書53章のことばでしたが、そこには苦難のしもべとしてのメシアが示されており、キリストを説き明かすにふさわしい箇所でした。またピリポはバプテスマを授けた後、主の霊によって取り去られましたが、そのような御使いの命令、御霊の指示と取扱いは、すべて主が計画され、導かれたことでした。そして、その宦官の救いを通して、アフリカのエチオピアの国にも福音が伝えられることとなったのです。私たち一人ひとりも、主のご計画の中に組み込まれ、御霊の助けと導きのうちに、さまざまの人々との関わりを持っています。そしてその中で、主を証しし、福音を語る機会が与えられるのです。そのように、主は私たちを、導き手として用い、主を求める人々、救われる人々を起こしてくださるのです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(1ペテ3:15)。語る機会が実際に与えられた時に戸惑うことがないよう、しっかりとふだんから用意をし、祈り備えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 8章14-25節◇(6月11日)

「ペテロは彼に向かって言った。『あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。』」…使徒8:20

サマリヤに住む大勢の人々が神のことばを受け入れて救われたとエルサレムに伝えられると、ペテロとヨハネの二人は使徒の代表としてサマリヤに遣わされました。そして二人が聖霊を受けるようにと祈って一人ひとりに按手すると、神はただちに聖霊を与えてくださったのです。その様子を見ていた魔術師シモンは、二人と同じように、自分が手を置いた者が聖霊を受けるようにするための権威を手に入れたいと考えました。そこで、二人の前にお金を出して、その権威を私にも下さいと願ったのです。ペテロは彼のその態度とことばに憤慨し、そのようなあり方を厳しく叱責し、主に悔い改めるよう命じました。シモンの間違い…それは第一に、人々に聖霊を授ける権威をペテロたちが持っていたと考えたことです。そうではなく、権威を持っているのはあくまで主であり、その主が二人を通して働かれ、人々に聖霊が注がれたのです。間違いの第二、それは、ペテロたちが主に用いられるために与えられた賜物を自分も欲しいと考え、それをお金で買おうとしたことです。主は一人ひとりに異なる計画を持ち、賜物と召命を与えられるのに、彼はその主権を認めず、自らの願いをお金で実現させようとしたのです。間違いの第三、それは、自分が人々から一目置かれる存在でありたいと願い、神の賜物がそれを実現する手段だと考えたことです。彼は主を信じて救われましたが、それまでの歩みで染みついたそのような肉なる思いは、キリストにあってきよめられなければならなかったのです。神に属する霊的な事柄について、それを人間的、地上的な次元に引き下げようとしたシモン…。そのような彼の誤ったあり方を通して、どのような心と態度で神に仕えるべきなのかを、あらためて教えられます。主に喜ばれない心がきよめられるよう、祈り求めたいと思います。

主のしもべとしてふさわしい者とされますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 8章1-13節◇(6月10日)

「群衆はピリポの話しを聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。」…使徒8:6(新改訳2017)

ステパノが殉教の死を遂げると迫害はエスカレートし、使徒たちを除くエルサレムの教会の信徒たちはみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました。しかし彼らはひっそりと身を隠していたわけではありません。それぞれのところで、人々に福音を大胆に宣べ伝えたのです。ステパノとともに教会の執事であったピリポは、サマリヤの町に下って行きましたが、その町には以前からシモンという名の魔術師がいて、人々は彼が行う魔術に驚いており、中には「この人こそ、大能と呼ばれる神の力だ」と言う者さえいました。しかし、ピリポが臆せずにみことばを語り、キリストを宣べ伝え、みことばに伴うしるしを行うと、人々は彼の語ることを信じてバプテスマを受け、その町には大きな喜びが湧き起こったのです。そのようにサマリヤの町の人々の関心は、以前は魔術師のシモン自身に向けられていました(10,11節)。しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について語るのを聞き、彼が行う病のいやしや悪霊からの解放のしるしを見た彼らは、「人」でも「しるし」でもなく、「彼が語ること」に対して関心を抱くようになったのです。コンサートやセミナーなど、人々が関心を抱くようなプログラムを教会が提供することが、昔から試みられてきました。確かにそのようにすれば、多くの人数を集めることができるかもしれません。しかしそこで神のことばが、福音のメッセージが語られなければ、それは空しいのです。人々が教会につながるようにならないのです。しかし、散らされた信徒たちが、ピリポが語ったように、神の国とキリストの御名を人々に宣べ伝えるならば、聖霊の働きによって、人々の霊の目が開かれ、心とたましいに飢え渇きが起こされ、人々の関心は神ご自身へと向けられていくのです。救われる人々が起こされ、みことばに伴うしるしが現わされていくのです。どのような時代にあっても、そのような群れでありたいと願います。

救われる人々がますます起こされますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 29章20-30節◇(6月9日)

「彼らはその日、大いに喜んで、主の前に食べたり飲んだりし、あらためてダビデの子ソロモンを王とし、油をそそいで、主のために、君主とし、ツァドクを祭司とした。」…1歴代29:22

ダビデの最後の務めが記されています。彼はイスラエルの全会衆に神をほめたたえさせましたが、それは、自分の後継者であるソロモンが王として立ち、彼を通して神殿建設工事が進められ、それがやがて完成するはこびとなったからであり、何よりも、それらすべてのことを計画し、成し遂げられるのは、主ご自身であったからです。そのように命じられた会衆は、主と王の前に身をかがめてひれ伏し、翌日にはおびただしい数の動物のいけにえを主にささげ、主にあって大いに喜び、主の前に食べたり飲んだりしました。そしてあらためてソロモンに油をそそぎ、イスラエルの君主としたのです。そこにはもちろんダビデも同席していたことでしょう。老いて目はかすみ、耳も遠くなっていたかもしれません。そして自らの手で神殿を建てることを願っていた彼は、あなたがそれをするのではないと主から告げられたにもかかわらず、さまざまな計画と準備を着々と進め、自分がなすべきことをしっかりとやり遂げ、ソロモンにバトンタッチしたのです。ダビデは自分の存命中に神殿の完成を見ることはありませんでしたが、そこに悔いはありませんでした。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(2テモ4:7)。パウロはそのように言っています。走るべき道のり…主が備えられるその道程は一人ひとり、それぞれ異なっています。また、その途中には山や谷もあります。疲れて動けなくなることもあります。ダビデのように、罪を犯し、道から外れてしまうこともあります。しかし、それでもなお、悔い改めて主に立ち返り、戻って走り直すことができるのです。自分がなすべきことを果たし、走るべき道のりを走り抜き、この地上での歩みを全うする…。私たちもそのような者でありたいと願います。

主がともにおられます。守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 29章1-19節◇(6月8日)

「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。」…1歴代29:9

この書の最後の章です。間もなく生涯を終えるダビデが、イスラエルの全会衆に語ったことばが1-5節に、また神に祈ったことばが10-19節に書かれています。ダビデは、準備してきた主の宮が完成されることがうれしくなり、個人的に宝としていた金銀を宮のためにささげましたが、民に対しても、同じように持てるものをささげるようにと促したのです(3-5節)。すると彼らはそれに応え、各部族の長、軍隊の長たちは金銀や宝石などをささげ、ダビデもまたそのことを大いに喜びましたが、それは王からの命令だからではなく、主のさばきを恐れたからでもなく、それが主に喜ばれ、主の宮のために用いられるゆえ、彼らが喜んで、「みずから進んで」(5,6,9,1,17節)ささげたものだったのです。その後ダビデは主に賛美と感謝をささげ、祈りましたが、その中で彼は、自分や民がささげたすべてのものは、本来、神から出たもの、与えられたものであって、自分たちはそれを神にささげたにすぎない、つまり神の元にお返ししたものなのだと告白しています(14,16節)。「すべてはあなたのものです」。「みずから進んでささげました」。ダビデのそのことばは、主にささげ物を差し出そうとするすべての者が、同じように口にすべきものであることを教えられます。富や財産を初め、自分が所有しているすべてのものは、主から与えられたものであって、自分の力でがんばって得たものではないのです。それなのに「これは私のものだ」と言って手放そうとしないなら、それは神が喜ばれるあり方ではないのです。パウロも「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と言っています(ロマ11:36,2017訳)。私たちもそのような全き心で、主の前に、みずから進んで、喜びをもってささげる者でありたいと思います。

主の喜びが自らの喜びとなりますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 28章◇(6月7日)

「今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」…1歴代28:10

ダビデは、イスラエルの各部族の長、軍の長、勇士たちをエルサレムに召集し、神殿を建てるという志を自分がずっと持っていたこと、しかしそれをなすのは、戦いで多くの血を流した自分ではなく、息子のソロモンであると主から語られたことを、それらの者たちの前で率直に伝えました。そのことばには後悔や無念さは感じられません。謙遜に自分の立場をわきまえ、主のみこころに従い、神殿建設の事業の成功のために、最後まで自分の分を果たそうとするダビデの姿勢をそこに見るのです。11節以降には、ダビデがソロモンに、神殿の建設に必要となる設計仕様書を渡したこと、それが御霊によって示されていた内容であること、それには、レビ人たちの組分けや、奉仕の内容、聖なる用具の重さに至るまでが、事細かに書かれて指示されていたことが記されています。神殿を完成させるためには、行き当たりばったりではなく、そのような事前の準備、緻密な計画が不可欠であり、ダビデは主との深い交わりを持ちつつ、御霊の助けと導きのうちに、そのことを着々と進めていたのです。また、9-10節、20節には、それらの実際的な事柄を挟むようにして、ダビデがソロモンに対し、そのことにあたる上での何よりも大切なこととして、主との関係を確かにするようにと命じたそのことばが書かれています。彼は、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えよ、それは主が心を探ってすべての思いの動機を読み取られるからであると語り、さらに、神を求めるなら神はあなたにご自身を現わされ、神を離れるなら神もあなたをとこしえまで退けられると告げたのです。私たちも「実行すること」、「結果を出すこと」が求められます。そしてそのためには、主を求め、主と交わり、祈り備え、御霊の助けと導きをいただくことが必要なのです。主のご計画の中で用いられることを喜びとしつつ、全き心をもって主に仕えていきたいと思います。

すべての事の中に主が働いてくださいますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 27章1-24節◇(6月5日)

「ダビデは20歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」…1歴代27:23

1-15節には「軍団」のことが記されています。それは、2万4千人の兵から編成された12の部隊であり、彼らは月ごとに交代して国を守る任務に就き、敵が侵入してきたときには勇敢に戦ったのです。各軍団にはリーダーが立てられましたが、彼らは11章において「ダビデの勇士」として名が挙げられている者たちであり、第3軍団の長はダビデの護衛長(11:25)であったベナヤが務めました。16節からは各部族の長の名が挙げられていますが、そのことに続いてやや唐突に、「ダビデは20歳以下の人々は数に入れなかった」と、この書の作者は記しています。21章には、ダビデがヨアブたちに命じて行わせた、イスラエルの民の人口調査のことが書かれ、それにより「王は神のみこころをそこなった」と、ダビデの非が指摘されていますが、作者はそのことをここで蒸し返し、ダビデを責めようとしたのでしょうか…。しかし、23節からはそのような響きは感じられないのです。23節の後半には、「主が…天の星のようにふやそうと言われたから…」とありますが、それは明らかに、主が父祖アブラハムに言われたことを指しています(創15:5)。ダビデは、はるか昔のその主の約束を、自分のこととして受けとめていたのです。実際、そのように20歳以下の者については、数がどんどん増えて調査が追いつかなかったため、彼は人口として数えようとしなかったのです。アブラハムとの間に主が結ばれた契約を心に留め、それに基づいて行動したダビデ…。それは、彼が常に、主のことばに耳を傾け、主への信頼、従順、感謝の心をもって歩んでいたということにほかなりません。そしてそのあり方は、私たちに対しても求められているのです。聖書には、神の約束、命令、警告、促しなどのことばが数多く書かれていますが、その一つ一つを、自分へのものとしてしっかり受けとめて歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 26章20-32節◇(6月4日)

「このシェロミテと彼の兄弟たちは、ダビデ王と一族のかしらたち、および、千人隊の長、百人隊の長たち、将軍たちが聖別してささげた聖なるささげ物のすべての宝物倉をつかさどった。」…1歴代26:26

20-28節には、神の宮の宝物倉および聖なるささげ物の宝物倉を管理する奉仕者について書かれています。前者は、宮において用いられる聖なる器具や通常のささげ物を保管する倉であり、後者は、敵から奪った戦利品を聖別してささげた物を納めた倉だと言われています。それらの奉仕に就いたのもまたレビ族の者たちでした。大切なささげ物を任されたその奉仕者には、単に物を倉に納めるだけでなく、何がどこにどれだけ保管されているのかを把握すべく、一つ一つの品を台帳に登録して管理する忠実さ、几帳面さが求められました。また、宮を修理する必要が生じたときなどには、その倉からささげ物を速やかに出し、それが活用されるように準備するといった、幅広い管理運営能力が求められたのです。主イエスは、主人から与えられたタラントを活用しようとせず、土に埋めたままにしたしもべが叱責されたというたとえを、弟子たちに話されました。タラントを増やしたしもべは主人から、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と称賛されたのです(マタ25章)。パウロもこのように言っています。「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます」(1コリ4:1-2)。私たちも、神から委ねられている良きものを、忠実に管理し、活用することが求められています。その良きものとは、賜物であり、キリストの福音であり、富や財産です。それらを土に埋めたままにし、「宝の持ち腐れ」となるようであってはならないのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」との称賛を主から受けるべく、それをしっかりと管理し、主のために大いに用いていく者でありたいと思います。

神に喜ばれることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 26章1-19節◇(6月3日)

「これはみな、オベデ・エドムの子たちで、彼らとその子、兄弟たちは、その奉仕にふさわしい力のある勇敢な人であった。…」…1歴代26:8

1~19節には門衛の組分けが書かれています。その奉仕にあたったのは、レビの子ケハテの子孫のコラ族と、同じくレビの子メラリ族でした(19節)。コラ族の中にはメシェレムヤ(シャルム)、オベデ・エドムがおり、二人の子たちの名が挙げられていますが、特にオベデ・エドムについては、その彼の子たちは、神が祝福として与えられた…と言及されています(5節)。そのオベデ・エドムは、ウザの事件が起こり、急遽、神の箱が自宅に運び込まれたとき、忠実にそれを管理した人物です。そのときもこの書の作者は、主は彼の家と彼に属するすべてを祝福されたと記しています(13:14)。また、6~8節には、彼の長男シェマヤに生まれた子の名が挙げられ、さらにその子や兄弟たちが門衛の奉仕に就いたことが書かれていますが、そこでも作者は、彼らが勇者、勇敢な人だと称賛し、その奉仕にふさわしい、力のある者たちであると強調しているのです。門衛という奉仕は、賛美の奉仕などにくらべれば、退屈で地味なものに思えるかもしれません。しかし、門を通る一人ひとりの中に、怪しい者がいないかチェックし、いざというときは体を張って、敵の侵入を阻止しなければならないのです。だからこそ、その奉仕には、勇敢さ、忠実さ、油断しないあり方が求められるのです。「朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩5:3b)。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」(箴4:23a)。私たちもまた、自らの心や歩みを見張るようにと命じられています。敵が侵入して来ないように、油断せずに、常に見守る必要があるのです。そして、勇敢な者とは、何よりも、主に全き信頼を置き、主の守りと導きを信じて、敵や失敗を恐れずに事に当たる者のことなのです。主にあって、そのような者として、歩み続けていきたいと思います。

敵を見破ることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 25章◇(6月2日)

「彼らおよび主にささげる歌の訓練を受けた彼らの同族-彼らはみな達人であった-の人数は288人であった。」…1歴代25:7

この章には主への賛美をささげる者たちの割り当てが書かれています。アサフとヘマンとエドトンは、それぞれゲルショム、ケハテ、メラリの氏族の者ですが、レビの子孫には神からそのような賜物と召命が与えられ、主の宮において、賛美の奉仕にたずさわったのです。1-3節には、彼らの奉仕の内容として、「預言する」とあります。パウロは「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」と言っていますが(エペ5:19)、彼らは、奉仕の中で主から与えられたことばや使信を旋律に乗せて即興的に歌い、神の御旨を人々と分かち合ったのかもしれません。そのことから、礼拝とは神との交わりであり、人が神に向かって一方的にささげるものではない、ということをあらためて教えられます。そして、「賛美奉仕者」は、単に上手に歌を歌ったり、楽器を奏でたりするだけでなく、一人ひとりが主の霊に満たされ、霊的な器とされ、主の臨在が神殿に現わされるために用いられたのです。その彼らが「訓練を受け」、「みな達人であった」ことに心が留まります。賛美の働きに限らず、神への奉仕もまた「ささげもの」であって、それは最上のものであることが求められるのです。そしてそれは神に喜ばれるのです。だからこそ、彼らは訓練を受けることをいとわず、上達することを目指し、それを喜びとしていたのです。「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか」(ヘブ12:7,2017訳)。聖徒たちの日々の歩みにおいてもまた、神からの「訓練」が与えられています。それは私たちが整えられ、成長し、神に用いられる者、主の栄光を現わす者となるためなのです。そのことを覚えつつ、感謝と喜びと忍耐のうちに、与えられている必要な訓練を、しっかりと受けていきたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌第一 24章◇(6月1日)

「彼らはくじを引いて互いにそれぞれの組に分かれた。聖所の組のつかさたち、神の組のつかさたちは、エルアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたからである。」…1歴代24:5

1-19節には、アロンの子ら、つまり祭司たちの組み分けが記されています。2節にはアロンの子のナダブとアビフが先立って死んだとありますが、それは二人が、主が命じなかった異なった火を主の前にささげたために、主からの火によるさばきを受けて死んだことを指しています(レビ10:1-2)。なぜこの書の作者がそのことに触れなかったのか…。それが周知の事実であったからか、または特にここであえて言及する必要はないと作者が判断したのか、それはわかりません。いずれにしても、アロンの子の残りの二人であるエルアザルとイタマルが祭司となり、彼らは、兄たちの失敗を教訓とし、自分たちのやり方ではなく、すべて主が命じられたとおりに、主の宮で奉仕したのです。5節には、二人の子孫の祭司の組み分けが、くじを引いてなされたと書かれています。また残りのレビ族の奉仕の割り当てにおいても、同様にくじを用いました(31節)。それを知ると私たちは、よい組み分けを決めるためには、くじ引きというやり方ではなく、もっときちんと検討して話し合うべきだと考えるかもしれません。しかしそれは、主の主権を認め、主が最善をなされると信頼し、主にすべてを委ねるという、信仰に基づく行為なのです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)。人の知恵、考え、やり方によるのではなく、神のことば、教えに忠実に従い、主のみこころがなるよう願いつつ、なそうとすることを主に委ねる…。それが神が私たちに対して求めておられるあり方なのです。ナダブとアビフは、まさにそのあり方を破ったために、主から退けられてしまいました。私たちも、彼らを反面教師として主の前にへりくだり、最善をなしてくださる主に信頼し、歩むべき道を主にゆだねる、そのような者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。