◇聖書箇所: 使徒の働き 16章11-24節◇(7月28日)

「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」…使徒16:14

トロアスから海を渡り、パウロたちはピリピの町に着きました。その町はマケドニア地方の主要都市で、ローマ帝国の「植民都市」でもありました。パウロたちは、それまでの訪問地であった小アジアの各地とは異なるさまざまな状況に接し、その地における宣教が決して容易でないことを感じ取ったに違いありません。ピリピにはユダヤ人の会堂はありませんでした。パウロたちは川岸にある「祈り場」に集う婦人たちに福音を伝えていましたが、あるとき占いの霊につかれた若い女奴隷につきまとわれ、宣教活動ができなくなってしまったのです。何日もそのことが続いたため、パウロは、キリストの御名の権威によってその霊を彼女のうちから追い出し、ようやくその状況を脱することができました。ところが、一難去ってまた一難、彼女を「占い師」として金儲けをしていた者たちは、その道が断たれたことに立腹し、パウロとシラスを捕らえて役人に引き渡し、役人の長官は騒乱罪のかどで二人を投獄したのです。二人は足かせをはめられ、厳重な監視のもとに置かれました。パウロたちにとっては、そのような状況は想定外だったことでしょう。しかしそのような困難な中でも、異教の強い影響下にあったピリピの町でも、主はルデヤという婦人を救われたのです。主は、祈り場に集っていた敬虔な彼女に目を留め、その心を開き、パウロが語る福音を信じるようにされたのです。そればかりか、彼女を通して家族にもその救いが及ぶようにされたのです(15節)。私たちも、さまざまな困難な状況の中にしばしば置かれます。しかし主は、そのただ中に働いておられ、遣わされた者の忠実な働きを通して、ご自身のみわざを現わしてくださるのです。主権者なる神の御手の中で、私たちの日々の歩みが導かれていることを覚えつつ、ますますその主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 16章1-10節◇(7月27日)

「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。」…使徒16:3

パウロは、自分たちの宣教によって教会が建った地域を再び訪問し、そこにいる信者たちを励ますために、ユダヤ人の母とギリシャ人の父を持ち、聖徒たちの間で評判の良かったテモテという名の弟子を連れ、町々の巡回を開始しました。その際、パウロはテモテに割礼を受けさせましたが、それはもちろん、割礼を受けていることが献身者としての証しだと、パウロが考えたわけではありません。異邦人における割礼の必要性については、すでにエルサレム会議で結論が出されており、パウロはあくまで、テモテにも割礼を受けさせることによって、自分たちが宣教していく上で、ユダヤ人たちが抵抗や偏見を持つことなく、キリストの福音を受け入れ、多くの信じる者が起こされるようにとの強い願いから、そのようにしたのです。それがパウロの人間的な考えから出たのではないことは明らかです。なぜなら彼は、聖霊によって禁じられたり、幻を通して促されたことに対し、ことごとく従っていったからです(6-10節)。テモテに割礼を施すことについても、パウロは主のみこころについて、祈りを通して主の導きを尋ね求め、その答えを得ていたに違いありません。パウロはこう言っています。「律法の下にある人々には…律法の下にある者のようになりました。…律法を持たない人々に対しては、…律法を持たない者のようになりました。…それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。…」(1コリ9:20-23)。それは、なんでもかんでも相手に合わせるということではありません。彼は、福音の本質にかかわることは、一切妥協しなかったのです。私たちも、人々への配慮を忘れず、「内輪」だけに通じる言動を慎み、少しでも福音が届きやすくするための知恵と導きを、主に祈り求めていきたいと思います。

主の導きに従順な者となることができますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 15章30-41節◇(7月26日)

「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』」…使徒15:36

異邦人の聖徒たちに割礼の重荷を負わせないという、エルサレム会議で出た結論を知らせるべく、エルサレム教会から、ユダとシラスがアンテオケの教会に遣わされました。二人は、パウロとバルナバとともにその朗報を人々に伝え、さらにしばらく滞在して、信徒たちと主にある交わりを持ち、多くのことばをもって一人ひとりを励まし、力づけました。それから数日して、パウロはバルナバに、これまで宣教してきた地を再び訪問しようと提案しました。彼はおそらく、エルサレム会議での決定を、他の地域にいる異邦人の聖徒たちにも伝える必要を感じたのであり、また、ユダとシラスによる訪問と交わりによって、アンテオケ教会の信徒たちが大きな励ましを受けたことを思い、自分たちもまたそのようにすべきであると、主から示されたに違いありません。福音を聞いて主を信じ、救われた聖徒たちは、さらに主との関係を深め、みことばによって教えられ、霊的に成長していくことが求められています。一方で主は、聖徒たちが、神の家族としての交わりを持ち、その中で主の恵みを分かち合い、励まし合い、重荷を負い合うようにとも願っておられるのです。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使2:42)。「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(1テサ5:11)。聖徒たちの交わりとは、必ずしも、いっしょに何か楽しいことをすることではありません。それは、何よりも、それぞれが主から受けた恵みを分かち合い、必要が満たされるように心を合わせて祈り、ともに主を見上げてほめたたえることなのです。そのような主にある交わりを、私たちも保ち続けていきたいと思います。

励ましを与える者とされますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 15章12-21節◇(7月24日)

「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。」…使徒15:19-20

会議の参加者たちは自分の意見を言い合っていましたが、ペテロが、異邦人に重荷を負わせてなぜ神を試みるのか、異邦人も主イエスの恵みによって救われるのだと主張すると、その場は静けさに包まれました。そして彼らは、パウロたちが語った、神が異邦人の間でなされたしるしと不思議なみわざについて、じっと耳を傾けたのです。その話しが終わると、主イエスの兄弟でありエルサレム教会の指導者であったヤコブが発言しました。彼はペテロ(=シモン=シメオン)が語ったコルネリオのことや、預言者のことばについて言及し、神は確かに異邦人をも顧みておられるのであり、神に立ち返る彼らを悩ましてはならない、ただし、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるべきだと告げたのです。ではそのヤコブの主張にはどのような意図があるのでしょうか…。それはまず、偶像礼拝を避け、神にのみ従い、汚れたものを避け、自分をきよく保つように求めるということであり、さらに、ユダヤの律法や伝統を無視せず、ユダヤ人キリスト者たちをつまずかせないよう、愛と配慮をもった行動を求める、ということでもありました。私たちは、誤った律法主義を避けるべきですが、同時に、与えられている自由をはき違えるべきではありません。言うまでもなく、救われているから何をしても良いというわけではなく、細心の注意を払い、この世のさまざまな汚れを避ける必要があるのです。また、他の人が重んじている伝統や教えについて、自分には馴染みがないからといって揶揄したり批判したりすべきではないのです。ヤコブの教えは、民族にかかわらず、すべての聖徒たちが従うべきものであって、そのような規範となる教えは、神から与えられた聖書にすべて示されているのです。いつの時代にあっても変わらない神のことばを心に留め、その教えに聞き従う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 15章1-11節◇(7月23日)

「私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」…使徒15:9

1節のユダヤから下って来た「ある人々」とは、おそらく5節の「パリサイ派の者で信者になった人々」のことであり、彼らはアンテオケ教会にいた異邦人の多くの信者たちに対して、キリストの福音を信じるだけでなく、ユダヤ人たちが行っている割礼を受けなければ救われないと、誤った教えを主張して人々を困惑させていたのです。パウロとバルナバは彼らと論争して激しく対立しましたが、決着がつかなかったため、その問題を使徒たちや長老たちと話し合うべく、教会の代表としてエルサレムに上りました。するとそこでも、誤った主張をする者たちとの激しい論争となりましたが、その後、使徒の代表格であるペテロが立ち上がり、神から幻を見せられ、神がきよめたものをきよくないと言ってはならないと言われたこと、そしてローマの百人隊長コルネリオの家に招かれてキリストの福音を語ると、そこにいた人々がみな聖霊に満たされ、救いを受けたことを証ししたのです。神は私たちユダヤ人と異邦人との間に何の差別もつけず、異邦人の心を信仰によってきよめてくださったのだ…。主イエスの恵みによって救われるのは、ユダヤ人も異邦人もまったく同じなのだ…と、ペテロは主張しました。そのように神の救いは、キリストの十字架と復活によって、すべての人々の贖いが成し遂げられたゆえに、「信仰によって」、「恵みによって」与えられるのです。モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない…。神はそのようなことをいっさい言われていないのに、自分たちの人間的な考えによって誤った「教え」を作り出し、人々を困惑させ、不要な重荷を与えてしまう…。それはある意味恐ろしいことです。なぜならそれは、神と人との間に勝手に割り込んで、神が人々に喜び、恵み、祝福を与えるのを妨害することだからです。私たちも律法主義的になって人々の救いを妨げていないか、自分自身、不要な重荷を背負ってしまっていないかと吟味し、絶えず信仰の原点に立ち戻る者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 14章19-28節◇(7月22日)

「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言った。」…使徒14:22

足の不自由な人のいやしを通して、群衆から神に祭り上げられたパウロたちは、彼らが自分たちにいけにえをささげるのをなんとかやめさせましたが、その後、アンテオケとイコニオムから来たユダヤ人たちが群衆を抱き込み、パウロを石打ちにして町の外に引きずり出しました。パウロは瀕死の重傷を負いましたが、主の守りといやしによって弟子たちが見ている前で立ち上がり、危険をかえりみず、町の中へと戻っていきました。それは、自分を殺そうとした者たちに復讐するためではありません。神が自分を守り生かしてくださったことを証しし、福音をさらに多くの人々に伝え、悔い改めを促し、救われる者たちが一人でも多く起こされるためであったのです。パウロとバルナバはデルベの町へと進み、そこでも福音を宣べ伝えて多くの人を弟子とし、ルステラ、イコニオム…と、来た道を戻っていきました。それはそこにいる弟子たちを励まし、信仰にしっかりとどまるよう勧めるためでした。二人は「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と彼らに語りました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハ16:33)。主イエスも弟子たちにそう語りました。患難とは必ずしも、パウロが受けたような、身に危険が及ぶ直接的な迫害ではありません。それは、聖徒たちが主に従って歩もうとするときに直面する、さまざまな苦労や困難をも意味するのであり、今の時代にあって私たちも経験していることなのです。そこには、聖徒たちを通して神の国が拡大するのを、なんとか阻止しようとする悪しき者の働きがありますが、私たちはそれにひるむことなく、世に打ち勝たれた主イエスへの信仰にしっかりととどまり、勇敢であり続けるべきなのです。私たちの弱さのうちに完全に現わされる主の力を待ち望みつつ、主にあって力強く前進していきたいと思います。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 14章1-18節◇(7月21日)

「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」…使徒14:9-10

アンテオケからイコニオム、さらにルステラへと移動していったパウロたちは、そこで生まれつき足の不自由な一人の人に出会いました。彼は、パウロが語る主イエスについてじっと耳を傾けていましたが、その様子を見たパウロが、彼のうちに神への信仰があるのを見て取り、自分の足で立って歩くように命じると、彼は、そのことばのとおり、即座に飛び上がって歩き出したのです。群衆はそれを見て驚きました。そしてなんと、パウロとバルナバのことを人間の姿をとった神々だと言ってあがめ、ギリシャの神ゼウスの神殿の祭司は雄牛と花を携え、群衆とともに二人にいけにえをささげようとしたのです。群衆のそのような反応に対し、今度はパウロたちが驚きました。そして衣を引き裂いて群衆の中に入り、自分たちも同じ人間であると伝え、さらに、神でないものをあがめようとする空しいことをやめ、天地万物の創造主、まことの神に立ち返るようにと、人々に促したのです。群衆は、神がなされた奇蹟を目にし、いやしをもたらしたのは目の前にいるパウロたちである、彼らは人の姿をとった神々であると、あまりにも単純に理解しました。そのように人は、目に見えるものに心を奪われ、またそれらを拠り所にしようとしがちです。しかし、生まれつ足が不自由だった人は、パウロが語る福音を聞き、主イエスが自分をもいやしてくださると信じたからこそ、その信仰によって歩くことができるようにされたのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(2コリ4:18)。目に見える存在に安易に助けを求めるのではなく、たとえ目には見えなくても確かに生きておられるお方にますます信頼し、主がなしてくださる奇しいみわざを日々体験する者でありたいと心から願います。

霊の目と耳がさらに開かれますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 13章42-52節◇(7月20日)

「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。」…使徒13:45

今日の箇所に出てくる「ユダヤ人」は、同じ人たちを指してはいません。45節、50節の「ユダヤ人たち」とは、イエスをメシアと認めず、律法を基にした自分たちの教えを守ることによってのみ、神の救いと祝福を受けられると考えていた「律法主義的ユダヤ人」たちのことです。一方、43節の「多くのユダヤ人」とは、イエスを信じる者はだれでも神から義と認められて救われるという、パウたちが語った福音(39節)を聞いて受け入れた者たちのことであり、彼らが喜びに満たされているさまを見て、「律法主義的ユダヤ人」たちはねたみに燃え、腹立たしく思ったのです。だからこそ彼らは、パウロが語ることに異を唱え、パウロたちを口汚くののしったのです。では、なぜ同じユダヤ人でありながら、そのように二分されてしまったのでしょうか。それはまず、律法主義的ユダヤ人たちが、好ましくない「プライド」を持っていたからです。プライド自体は悪いものではありません。健全なプライドは、人が自信をもって積極的に生きるための原動力となり得ます。しかし、そのプライドが揺るがされたとき、心にねたみや怒りが引き起こされるのであれば、そのプライドは高ぶりと結びついているのであって、そのようなあり方は神に喜ばれないのです。彼らはまた、「がんばり」を必要以上に重要視しました。がんばることは大切です。しかし「がんばって」自分たちの教えを守り抜くことを人生の目標とするのであれば、そのあり方もまた、神に喜ばれるものではないのです。そうではなく、自分の弱さ、足りなさ、罪深さを神の前に素直に認め、自らを全面的に明け渡し、神に拠り頼んで歩む者を、キリストにある救いと祝福を切に求めて生きるあり方を、主は喜ばれるのです。そして、その願いに対して、主は確かに答えてくださるのです。私たちも、福音を聞いて救われた異邦人の聖徒として、「神の恵みにとどまり続けて」(43節)歩む者でありたいと思います。

キリストを誇りとすることができますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 13章26-41節◇(7月19日)

「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。」…使徒13:30

13章の16節から41節は、パウロとバルナバがピシデヤのアンテオケに行き、安息日にユダヤ人の会堂において、会衆に向ってパウロが語った弁明のことばです。神は、ご自身の民であるイスラエルを愛し、奴隷とされていたエジプトから脱出させ、カナンの地に導き入れ、ダビデを王として与え、その子孫の中からメシア、つまり救い主であるイエスを送ってくださったのです。ところがユダヤ人たちはイエスを認めず、メシアの出現を告げていた預言者たちのことばを理解せず、イエスの存在を消し去りたいと願っていた宗教指導者たちに扇動された民衆は、イエスを殺すことを総督ピラトに求め、十字架につけさせたのです。しかし、神はイエスを使者の中からよみがえらせました。イエスは葬られた墓から3日目によみがえり、弟子たちの前にその姿を現わされ、彼らはそのことを人々に力強く証言しました。なぜなら、メシアであるそのお方が、死につながれていることなどあり得なかったからであり(使2:24)、主イエスは悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし(ヘブ2:14)、闇に打ち勝たれたのです(ヨハ1:5)。「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(1コリ15:17)。パウロがイエスの復活を繰り返し語って強調していることに心が留まります(30,33,34,37節)。そのキリストを信じる私たちは、罪赦され、贖われ、永遠のいのちを持つ者とされています。そしてそれは、死からよみがえられ、もはや朽ちることのない方とされたキリストのいのちに私たちが生かされ、勝利にあずかり、私たちもまた、朽ちないものを着、不死を着るということなのです(1コリ15:54)。私たちは、この地上における歩みを終えた後も、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙21:4)聖なる都において、神とともに永遠に生きる者とされるのです。その希望をしっかりと持って、歩み続けたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 使徒の働き 13章1-12節◇(7月17日)

「しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。』」…使徒13:9-10

アンテオケの教会には、信徒とともに預言者や教師たちがいましたが、彼らがいつものようにともに主を礼拝し、断食をしていると、聖霊から、バルナバとサウロを福音宣教の働きに送り出すようにと命じられました。二人は船でキプロス島に渡り、神のことばを早速ユダヤ人の諸会堂で宣べ伝えましたが、パポスという町に来ると、地方総督が二人を招いて神のことばを聞きたいと願っているのにもかかわらず、ひとりの魔術師がそれを妨害してきました。そこでパウロ(サウロ)が彼をにらみつけ、「おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか…おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と告げると、たちまちかすみと闇が彼を覆い、そのとおりになったのです。この一連の出来事を通してあらためて教えられるのは、聖霊の主導的な働きです。聖霊は二人を「わたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と命じられ(2節)、二人をキプロス島に遣わし(4節)、魔術師に立ち向かったパウロを満たして強め(9節)、魔術師を盲目にし(11節)、総督に信仰を与えられた(12節)のです。「主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか」と、パウロは魔術師を非難しました。彼は魔術により人々を驚かせ、人のことばを神のものとして語って人々を惑わし、総督が信仰に入るのを邪魔しようとしましたが、結局、それらは聖霊ご自身によって打ち砕かれたのです。霊的な戦いは、魔術師のような存在を通してでなくても、さまざまな形で今も起こっています。私たちがその最前線に置かれることもあります。しかし、恐れる必要はありません。私たちは主イエスの御名によって立ち向かい、聖霊の働きを待ち望むことができるからです。どんなときにも主にあって雄々しく歩む者でありたいと思います。

ますます御霊に満たされますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 20章20-37節◇(7月16日)

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」…2歴代20:22

ユダの民は、いよいよモアブ人やアモン人たちと戦うべく、テコアの荒野に向って出陣しました。するとヨシャパテ王は、「あなたがたの神、主を信じ、…勝利を得なさい」と言って民を激励し、さらに、主に向って歌う者たちと聖なる装いをして賛美する者たちを任命し、彼らを武装した者たちの前に配置して進ませたのです。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と、その賛美隊が主をほめたたえ始めると、主は伏兵を設け、ユダに攻め上ってきた敵を襲わせたので、彼らは打ち負かされました。さらに彼らは、同士討ちを始め、互いに滅ぼし合ったため、一人残らず自滅してしまったのです。ユダの民は一人も失われることなく、喜びのうちにエルサレムに凱旋し、主の宮に入って主に栄光を帰しました。王から任命された賛美隊は、ある意味、後に続く者たちよりも勇敢な者たちでした。なぜなら、彼らは武装しておらず、敵が放つ矢の標的とされ、真っ先に命を落とす危険があったからです。しかしヨシャパテが励ましたとおり、主を信じて進むなら、その者は主によって守られ、人の思いをはるかに超えた神の奇しいみわざによって、敵に勝利することができるのであって、彼らは賛美の奉仕者であると同時に、信仰の勇者であったのです。この不思議な戦いの出来事は、私たちが問題や戦いに巻き込まれたとき、どうあるべきかを教えてくれます。そこで何よりも大切なこと、優先すべきことは、どう戦うかという戦術ではなく、何を装備するかということでもなく、主をほめたたえること、主に感謝をささげることなのです。そのようにするなら、主は「伏兵」を設け、私たちの思いもよらぬ方法をもって、敵が敗北し、また問題が解決するようにしてくださるのです。窮地に陥ったとしても、決してあたふたとせず、すべてを統べ治めておられる主に、賛美と感謝をささげたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 20章1-19節◇(7月15日)

「この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにおられる。」…2歴代20:17(新改訳2017)

ヨルダン川の東に位置するモアブとアモンの軍勢が、ユダの国に攻め上って来ました。その知らせを聞いたヨシャパテはユダ全土に断食を呼び掛け、集まって来た多くの民とともに主に助けを求めました。彼は主に対して、「あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方…その御手には勢いと力があり、あなたに立ち向かえる者はだれもいません…敵の大軍に当たる力は私にはありません…ただあなたに目を注ぐのみです…」と告白しました。王と民はそのように、主権者なる主をあがめ、自分たちの弱さを認めてへりくだり、ただ主に拠り頼んだのです。するとヤハジエルという一人のレビ人に主の霊が臨み、主のことばを王と民の前で告げました。それは、「この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。明日、彼らのところに攻め上れ」(15-16節)という主の命令であり、それは繰り返されて強調されたのです(17節)。17節を新改訳3版では、「しっかり立って動かずにいよ」と訳していますが、それは、何もせずにいよ、ただ主に任せておけ、という意味ではなく、動揺するな、心を騒がせるな、ということです。主は、この戦いは神の戦いである、あなたがたが戦うのではないと言われましたが、同時に、「攻め下れ」、「出陣せよ」とも言われたのです。そしてそれは、決して矛盾してはいないのです。私たちも日々、さまざまな戦いに直面します。そこには多くの緊張や苦労が伴います。逃げ出したくなるかもしれません。しかしその戦いもまた、私たちが自らの力で頑張って戦うのではないのです。主が私たちとともにおられ、主ご自身が戦ってくださり、勝利にあずからせてくださるのです。どんな強敵であっても、恐れず、おののかず、主にあって立ち向かっていきたいと思います。

堅く立って主の救いを見ることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 19章◇(7月14日)

「なお、ヨシャパテはエルサレムでは、レビ人と祭司の中から、またイスラエルに属する一族のかしらたちの中から、主のさばき、および訴訟に携わる者たちを任命していた。」…2歴代19:8

王宮に戻ったヨシャパテに対して、先見者エフーは、アハブ王と関係を持って一緒にアラムと戦ったことを非難しましたが(2節)、そのことばを謙虚に受けとめたヨシャパテは、王として内政に専念すべく、自ら民の中に出て行き、彼らを主に立ち返らせようとしました。また、さばきつかさを任命して町に置き、さらにエルサレムにおいては、レビ人からだけでなく、各氏族のかしらたちの中からも、主のさばきに携わる者を任命したのです。では、そのようにしたヨシャパテの意図とは何だったのでしょうか。彼はこう言っています。「彼らが主に対して責めを負わないように、またあなたがたとあなたがたの兄弟たちの上に御怒りが下ることのないように、彼らに警告しなさい」(10節,2017訳)。そのように、立てられたさばきつかさたちは、民の訴訟を扱うだけでなく、民に主の律法を教え、訓戒を与え、それに従って歩むように指導する「教育」の働きを担ったのです。それは本来、祭司の役目でしたが、それがより広く、日常的に行われ、主の教えが民の間に浸透するようにと、ヨシャパテはレビ人以外からもその働きを担う者を立て、彼らが用いられるようにしたのです。私たちもまた、日々、さまざまなことに巻き込まれます。その解決のためにいろいろと動き回ります。ヨシャパテの時代であれば、その問題を「さばきつかさ」のところに持っていったことでしょう。しかし私たちは、神から与えられた聖書のみことばと祈りを通して、それを主に直接尋ね求めることができるのです。その問題の本質は何か、どのように考え、行動すべきなのか…。みことばは真理の光をもって私たちを照らし、主のみこころを教え、祈りに答えて主は、私たちを全き道へと導いてくださるのです。御国の民として、王であるキリストにますます信頼し、確かな歩みを重ねて行きたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 18章12-34節◇(7月13日)

「戦車隊長たちはヨシャパテを見たとき、『あれはイスラエルの王に違いない』と思ったので、彼を取り囲んで戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。」…2歴代18:31

預言者ミカヤはアハブ王のもとに連れて来られました。彼は、自分を呼びに来た使者から、王に対して良いことだけを述べるよう求められましたが、神が私に告げられることをそのまま述べるのだと、それを拒否しました。実際、最初は400人の預言者たちと同じことを語った彼は、本当のことを言えと王から促されると、アハブが敵に倒され、イスラエルが散らされるというわざわいを幻として見たことを、恐れずに王に告げたのです。王の機嫌を損ねさせた彼はその場で捕らえられ、投獄されました。ミカヤのことばを意に介さなかったアハブは、ヨシャパテとともに出陣しました。ただし彼は、自分が敵の攻撃目標にされないようにと変装し、ヨシャパテには王服を着るようにと指示したのです。しかしそのような策を弄しても、それは、主権者なる神の前には無意味でした。敵の一人の兵士が何気なく放った矢は、アハブが着けていた防具のわずかな隙間を射抜き、彼のからだに突き刺さったのです。重傷を負った彼は息絶えました。一方、主に助けを呼び求めたヨシャパテは、敵が彼から離れるように神が仕向けられたので、その命は守られたのです。「主を畏れる人々の望みをかなえ 叫びを聞いて救ってくださいます。主を愛する人は主に守られ 主に逆らう者はことごとく滅ぼされます」(詩145:19-20,新共同訳)。主に逆らう者、主のことばを侮る者は、人間的な策を弄して危機を逃れようとしても、主から退けられ、滅ぼされてしまうのです。しかし、主を愛し、畏れる者、御前に真実に歩む者は、主の御手によって守られ、敵の手から救い出されるのです。神のことばは私たちに、聖書として与えられています。また御霊なる主は、折あるごとに、私たちにみこころを告げてくださいます。ますます主を畏れ、そのことばに耳を傾け、教えを心に留めて歩む者でありたいと思います。

主があらゆる敵の手から守ってくださいますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 18章1-11節◇(7月12日)

「ところが、ヨシャパテは、『ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか』と言った。」…2歴代18:6

イスラエルの王アハブは、アラムの支配下にあった、ヨルダン川の東側にあるラモテ・ギルアデの町を攻め取ろうと考えました。そこで彼は、すでに姻戚関係にあったユダの王ヨシャパテに対して、私の民はあなたの民と同じようもの…と言って、両国が同盟を結び、一緒になってアラムと戦おうではないかと呼び掛けたのです。それに対してヨシャパテは、すぐにアハブに同調して行動を起こすことなく、それがはたして主のみこころなのか、まず主のことばを伺ってほしいとアハブに求めました。すると彼は、国の中から400人の預言者を集めてそのことを尋ねましたが、彼らは異口同音に、攻め上るべきだ、神は王の手に敵を渡されると、王に答えたのです。しかしなお、ヨシャパテは慎重な態度を崩しませんでした。それは、400人もの預言者のうち、異なる見解を示す者が一人もおらず、王に忖度するかのように、全員が王の勝利を告げ、戦うべきだと答えていたからです。主の預言者は他にいないのかとヨシャパテが尋ねると、アハブは、ミカヤという者がいるが、自分の意に反することをいつも告げるので私は彼を憎んでいる、と答えました。ヨシャパテは、一緒にラモテ・ギルアデに攻め上り、アラと戦おうとムアハブから呼び掛けられても、姻戚関係にあるからそれは当然だとは考えませんでした。また、同盟を結んだほうが得策だと打算的に動くこともありませんでした。そのような人間的な基準で事を判断するのではなく、そのことが主のみこころであるかが、何よりも彼にとって重要なことであって、それを尋ね求めて知ることを、彼はまず求めたのです。そしてそのような敬虔な態度、主の命令に忠実に従って歩むあり方は、彼がアサから王位を引き継いだときから、ずっと続いていたのです(2歴17:3-4)。私たちもまた、何を置いても、まず主のことばを伺い、主のみこころを知り、それに従って歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 16章◇(7月10日)

「それから、アサはその治世の第39年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。」…2歴代16:12

アサの治世の第36年に、イスラエルの王バシャはユダに上り、ラマの町を築き直して、人々がアサのもとに出入りするのを阻止しようとしました。するとアサは、アラムの王ベン・ハダデに金銀を送り、イスラエルとの同盟を破棄し、代わりにユダと同盟を結ぶよう申し入れたのです。ベン・ハダデはそれを承諾し、アラム軍をイスラエルに差し向けたので、バシャは計画を断念しました。アサの策略は功を奏したように見えました。しかし、予見者ハナニはアサに対して、あなたが主に拠り頼まずにアラムの王に拠り頼んだことは主のみこころではなかった、あなたは愚かなことをした、これからあなたは、数々の戦いに巻き込まれることになる、と告げたのです。アサは、クシュ人との戦いにおいては主に拠り頼み、兵力において劣っていたにもかかわらず、主の介入によって敵に勝利しました(14章)。しかし彼は、イスラエルに対しては、主に拠り頼まず、一戦を交えようともせず、金銀を送ってアラムの王の好意を得、同盟を結んで守ってもらうという、安易で人間的な方法によって、その危機を逃れようとしたのです。なぜ彼はそうしたのでしょうか…。長年の治世の中で、自分のやり方に自信を深めていたのかもしれません。主に拠り頼むのはリスクがあると感じ、より確実な方法に頼って安心を得たいと考えたのかもしれません。しかしそれは、主が喜ばれるあり方ではなかったのです。「主の心」(9節)とは、「王である主が主権をもってすべてを統べ治める」ということであり、その心と自らの心を一つにし、主にひたすら拠り頼む者に、主は御力を現わしてくださるのです。アサは晩年まで人間的なものを優先しました(12節)。医者が不要というのではなく、主を第一とすることが主の民には求められるのです。どんなときにも、主権者なる主に拠り頼んで歩みたいと思います。

主と心を一つにすることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 15章◇(7月9日)

「だれでもイスラエルの神、主に求めようとしない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、殺されるという契約を結んだ。」…2歴代15:13

オデデでの子アザルヤは、アサ王とユダの人々に向って、あなたがたが主を求めるなら、主はともにおられ、ご自分を示してくださる、しかし主を捨てるなら、主もあなたがたを捨ててしまわれると、主のことばを告げました。さらに彼は、実際にイスラエルがそのような歩みの中にあったこと、しかし主に立ち返ったときに、主は彼らにご自身を示してくださったことを語り、「勇気を出しなさい。…あなたがたの働きには報いがある」(7節,2017訳)と言って、王と民を励ましを与えたのです。そのことばを聞いてアサは奮い立ちました。そして、町々に残って忌むべき物をすべて取り除き、主の宮の祭壇を新しくし、人々を召集し、分捕り物の家畜をいけにえとして献げたのです。そればかりでなく彼らは、心を尽くし、いのちを尽くして主を求め、もしそうしないなら誰でも死刑にされるという契約を、主と結んだのです。そのようにアサとユダの民は、文字どおり、いのちがけで主を求めるという決断をし、喜びの叫びをあげ、主に誓いを立てました。一方、私たちはそのような誓いを立ててはいません。しかしみことばは、「心を尽くし、いのち(「精神」:新改訳3版)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)と命じているのです。イエス・キリストは、父なる神のみ旨に従い、私たちをいのちがけで愛してくださいました。その尊いいのちによって、私たちは罪から贖われ、救い出されたのです。キリストの血による新しい契約の民とされたのです。その私たちも、たとえ、ユダの民が誓った契約の中にはいなくても、殺されることはないとしても、同じように、喜びの叫びを上げ(14節)、主への感謝と賛美を献げつつ、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、主を愛し、主を求め、主に従う者でありたいと願うのです。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 14章◇(7月8日)

「…主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください。」…2歴代14:11(新改訳2017)

アビヤの死後、代わってユダの王となった、彼の子アサの治世について記されています。アサ王は主の目にかなうことを行ない、異教の祭壇と高き所を取り除き、アシェラ像を打ち砕き、ユダの人々に主の律法を遵守させました。また彼は、周辺諸国との将来の戦いに備え、防備の町々を築き、王国は平穏を保っていました。しかしその後、クシュ人ゼラフが、百万の軍勢と3百台の戦車を率いてエチオピアからユダに攻め上って来たため、アサはそれを迎え撃つべく出陣しました。ユダとベニヤミンの兵士合わせて58万人が、ツェファテの谷で戦いの備えをしましたが、そのときアサが行ったことは、敵の兵力に数で劣る自軍の兵士たちを鼓舞することではなく、何よりも主を呼び求めることであったのです。アサは神に求めました。「私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。…人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください」。すると神は、その祈りを聞かれ、クシュ人は主に打たれ、ユダの軍勢は勝利を得たのです。クシュ人たちが戦う相手は、アサを王とするユダの兵士たちでした。しかしアサは、神の所有の民である自分たちに対して立ち向かうということは、すなわち、神ご自身に対して力を行使し歯向かうことなのだと考え、それを阻止してくださいと、主に祈り求めたのです。「あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。…」(イザ43:1-2)。われらは神のものである、神はわれらとともにある、われらの敵は神の敵である…。アサと同じように、私たちもそのよう意識を常に持ち、敵を恐れず、主に拠り頼み、主がもたらされる勝利にあずかる者でありたいと思います。

恐れずに前に進むことができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 13章◇(7月7日)

「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」…2歴代13:18

レハブアムの王位を継承した、彼の子アビヤが率いる南ユダと、ヤロブアムが率いる北イスラエルとの戦いが記されています。ユダの軍勢の数は兵士40万人、それに対してイスラエル側はその倍の80万人であり、兵力には大きな差がありました。常識から言えば、ユダにとって、ほとんど勝ち目はなかったのです。そのような中、アビヤは、ヤロブアムと彼につく民に向って山の上から語り、彼らが、金の子牛を神として仕える「祭司」を勝手に立てていると非難し、一方、自分たちは、アロンの子らが真の祭司として、レビ人たちとともに主への務めを忠実に果たしていると強調し、神はわれらとともにおられ、かしらとなっておられる、だからおまえたちにとうてい勝ち目はない、と告げたのです。アビヤのそのことばを聞いてもヤロブアムは意に介さず、伏兵を回してユダの背後から攻める作戦で戦いを開始しました。すると、ユダの人々はときの声を上げ、神はイスラエルの軍勢をユダの手に渡されたので、彼らは大打撃を受け、80万人の兵士たちのうち、精鋭50万人が剣に倒れ、ヤロブアムも神に打たれて命を絶たれたのです。「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(1サム17:47b)。ダビデはそのように、ペリシテ人の巨人ゴリヤテに宣言し、石投げと一つの石により、彼を一発で倒しました。主に拠り頼む者たちにとっては、たとえ持っている武器や兵力が十分でなくても、力が相手よりも劣っているとしても、それは問題ではないのです。なぜなら、主ご自身がその戦いを戦われ、勝利をもたらしてくださるからです。「主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である」(詩115:11)。詩人もそのように告げています。私たちもさまざまな戦いに巻き込まれますが、自分の知恵や力に拠り頼まず、全能者なる主にひたすら拠り頼み、主にあって勝利する者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 12章◇(7月6日)

「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」…2歴代12:12

レハブアムがユダの王として、その力と権威を内外に十分に発揮できるようになると、彼と民は、神がご自身の民に与えられた律法に聞き従うことをやめ、自分たちの考えに従って歩むようになりました。すると主は、そのことを憤られ、背信に対するさばきとして、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上るようにされたのです。ユダの国の中に設けられていた防備の町々は、シシャクが率いる多くの軍勢によって次々に攻め取られ、その攻撃の手は、いよいよエルサレムへと迫りましたが、そのとき、預言者シェマヤが王とつかさたちの前に立って、あなたがたがわたしを捨てたのでわたしもそうしたのだ、という主のことばを告げたのです。それを聞いた王たちは自らの罪を認め、「主は正しい」と言って、ただちに主の前にへりくだりました。すると主はその姿を見て、私は彼らを滅ぼさない、とシェマヤを通して告げられました。結局、シシャクはエルサレムに攻め上り、神殿と王宮の財宝は略奪されましたが、王や民の身に危害が及ぶことはなかったのです。「…こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』」。ヤコブは、箴言4章6節のことばをを引用してそのように語っています。へりくだるとは、おごり高ぶることをせず、自らを低くすることです。自分の力、知恵、知識を誇ったり、それらに頼って歩もうとはしないことです。そして何よりも、主の主権を認め、すべてを明け渡して従順に主に従う者となる、ということなのです。そこには自らの罪を認め、悔い改め、主に立ち返ることも伴います。そして、そのような者を主は喜ばれ、恵みを与えてくださるのです。私たちの主イエス・キリストは、絶えず自らを低くして歩まれ、弟子たちの足をも洗われ、実に、十字架の死にまで従われたのです。そのことを感謝しつつ、私たちも、ますますへりくだって歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 11章◇(7月5日)

「彼らの後に続いて、イスラエルの全部族の中から、イスラエルの神、主を尋ね求めようと心に決めた者たちが、その父祖の神、主にいけにえを献げるためエルサレムに来た。」…2歴代11:16(新改訳2017)

10-12章には、ソロモンの子レハブアムの治世における出来事が記されています。ネバテの子ヤロブアムと彼につく民は、自分たちに課せられた過酷な労働と重い租税の軽減を王に願い出ましたが、王はそれを退けたため、国は、レハブア王の南ユダ王国と、ヤロブアムを王とする北イスラエル王国とに分裂してしまったのです。そのヤロブアムは、イスラエルの神に従おうとせず、それまで祭司として奉仕していたレビ人たちの職を解き、自分たちが築いた高き所で、「雄やぎと子牛」、つまり偶像の神に仕える「祭司」たちを新たに任命しました。彼らはもちろんレハブアムの側につきましたが、彼らに続き、民の中からも、ヤロブアムに従おうとしない者たちがエルサレムに移り住み、王に力添えをしたのです。それらの者たちには葛藤があったに違いありません。なぜなら、レハブアムのもとでは、きつい労働と重い税に苦しまなくてはならず、また、ヤロブアムや彼につく者たちから裏切り者とされ、移住を阻止され、危害を受ける恐れがあったからです。しかし彼らは決断し、行動したのです。何よりも「主を尋ね求めようと心に決めた」からです。そして、主がそのことを喜ばれ、必ず守って導いてくださると、主に信頼していたからです。今を生きる私たちも、ともすれば、人間的な思い、この世の富、肉的な誘惑に心が奪われ、何を置いても主を尋ね求めようという決心が揺るがされ、いつの間にか、世と妥協してしまいがちです。しかし、ヤロブアムのもとを離れた者たちは、神を第一とすること、純粋に主を愛すること、神のみこころに従うことを何よりも願い求め、決断し、行動したのです。私たちもまた、彼らに倣い、そのように歩む者でありたいと思います。

神の国と神の義を第一とすることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 9章13-31節◇(7月3日)

「ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。」…2歴代9:22

13節以降には、ソロモンの治世における「祝福」が記されています。アラビヤの王たちは金銀を携えてソロモンのところにやって来ましたが、その量は1年間で22トン以上にも達しました。ソロモンはそれを惜しげもなく使って、兵士たちが使う盾を作り、宮殿で用いる器を作り、また象牙製の大きな王座にも純金をかぶせたのです。また、ソロモンは地上のどの王よりも知恵を持っていたので、その知恵を聞こうとして、あらゆる国の王たちが彼との謁見を求めました。さらにソロモンは、戦いのための備えとして馬と戦車を用意し、1万2千の騎兵部隊を自分のもとや国の中のいくつかの町に配置しました。そのようにして、知恵と戦力を有するソロモンは、周辺諸国の王たちを自分の支配下に置くようになったのです。しかし彼は、神のみこころにかなった歩みを全うしたわけではありません。すでに8章で見たように、その霊的なほころびはパロの娘を妻としたときから始まっており、列王記第一11章によれば、晩年の彼の心は、異邦人の妻たちの影響により異教の神々に向いていったのであり、「父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」のです(1列11:4)。そして主から離れるその流れは、その後の国の分裂や、歴代の王たちのさらなる偶像礼拝へとつながっていったのです。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙2:10)。私たちの生涯は、この地上での歩みで終わりではありません。その後に、主のみもとでの永遠の歩みが備えられているのです。そして私たちがこの地上に残す遺産は、後の世代の者が受け継ぐことになるのです。ソロモンは富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていたとありますが、私たちは何よりも、主を愛し、主に従順に従い、忠実であるということにおいて、誰よりもまさっていたと、主から言われる者でありたいと思います。

主に従い通すことができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 9章1-12節◇(7月2日)

「『あなたを喜ばれ、その王座にあなたを着かせて、あなたの神、主のために王とされたあなたの神、主はほむべきかな。…』」…2歴代9:8a

シェバの女王が大勢の従者を率い、高価な贈り物を携え、はるばる遠くからやって来て、ソロモンを訪問しました。彼女は、うわさに聞いた王の知恵を、自分が出す難問によって試そうとしたのです。しかし、ソロモンにとって、答えられない彼女の質問は一つもありませんでした。女王はそのことに驚嘆しましたが、彼女の驚きはそれだけではありませんでした。宮殿で振る舞われた料理、給仕たちの態度と身のこなし、その服装など、それらは彼女がそれまで見たことも想像したこともない、非常に上質で、優れており、礼が尽くされたものであったのです。「息も止まるばかりであった」という表現がとても印象的です。そのような体験をした女王が、ソロモンに賛辞を贈ったことは言うまでもありませんが、彼女はさらに、そのソロモンを王として立て、彼に優れた知恵を与え、最上のものをもって仕える人々を備えさせたのは、ほかでもないイスラエルの神であることを、そのときはっきりと悟ったのです。だからこそ、彼女自身、「あなたの神、主はほむべきかな」と言って、その神をあがめたのです。「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」(エペ6:5-7)。私たちもまた、王であるキリストのしもべであり、主に仕えるようにして、最上のものをもって、地上の主人や人々に仕えることが求められています。そしてそれは、そのことを通して、私たちの王であるキリストご自身があがめられ、神に栄光が帰されるためであるのです。そのような者として生かされていることを覚え、置かれたところで、神と人々とに、善意をもって、真実に仕えたいと思います。

感謝と喜びをもって仕えることができますように。

◇聖書箇所: 歴代誌 第二 8章◇(7月1日)

「ソロモンはパロの娘を、ダビデの町から彼女のために建てた家に連れて上った。『私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである』と彼が言ったからである。」…2歴代8:11

8章には、神殿建設を担ったソロモンが関わった他の事柄についての記事がありますが、その中で、自分の妻、すなわち王妃のための家を建て、彼女をそこに連れ上って住まわせたことが11節に書かれています。それは、彼女がエジプト王パロの娘であり、たとえ妻であっても異邦人である彼女が、主の箱が置かれている聖なる場所、エルサレムの町に身を置いて王宮で過ごすことは、神のみこころにかなっていないとソロモンが考えたからです。ソロモンのその対応は、神への畏れに基づく良いことであるように思えますが、そもそもその結婚自体、神のみこころにかなわないことでした。異邦人の中に入って行くな、彼らを迎え入れるなと、神はモーセを通して、イスラエルの民に命じておられたのです(出34:12-16)。しかし、ソロモンはそれを破り、パロの娘のほかにも多くの異邦人の女性を愛して、妻、あるいはそばめとしたのです。その結果、彼の心は主から離れ、異国の神々に心奪われ、従うようになっていったのです(1列11:1-13)。「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴11:2)。ソロモンは、祝福と繁栄の中を歩み、その名声は諸国に届いていました。彼には、順風満帆と思えたことでしょう。しかしそこに落とし穴があったのです。彼はおごり高ぶり、油断して神の警告を無視し、主のみこころに背く者となってしまったのです。ソロモンは神から与えられた知恵に満ちていましたが、真の知恵とは、単に問題を分析し解決できる能力のことではなく、神のみこころを悟り、善悪をきちんと判断し、それに従うためのものであり、それは、ご自身の前にへりくだる者に対して、神が与えてくださるものなのです。ソロモンの失敗を教訓とし、自らを低くし、油断せず、主のみことばに聞き従う者でありたいと思います。

主からの知恵と導きが与えられますように。