◇聖書箇所:詩篇 106篇24-48節(12月31日) 「主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし 豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた。」…詩篇106:45 「そのとき ピネハスが立ち 仲立ちをしたので 主の罰は終わった」(30節)。その出来事は民数記25章に記されています。イスラエルの民がモアブの神であるバアル・ペオルを慕っていけにえをささげるようになったため、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がって多くの者が死に至りましたが、ミデアン人の女性を兄弟たちのところに連れて来た者と彼女の二人のいのちを、祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスが奪うと、その罰がやんだのです。主は、そのときモーセに、ピネハスはわたしのねたみを自分のねたみとしたので、わたしは民を絶ち滅ぼすことはしなかった…と告げられました。さらに34節以降にも、イスラエルの民が異邦の民と交わり、その習わしに倣って偶像に仕えたこと、自分たちの子どもを悪霊へのいけにえとしたことが記されています。民は、自分たちが絶ち滅ぼされることを免れたのにもかかわらず、主に立ち返ろうとはせず、相変わらず、罪と不義と汚れに満ちた歩みを続けていたのです。「それでも 彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められた」(44節)。そんな、どうしようもない民であったのに、主は彼らを見捨てられませんでした。彼らの嘆きと叫びを聞き、苦しんでいる彼らに目を留め、先祖アブラハムとの契約のゆえに、その苦しみの中から、捕われ移されたところから、救い出してくださったのです。それは一方的な主の好意、豊かな恵みであり、主が彼らを深く愛し、あわれまれたゆえなのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハ4:10)。神に逆らっていた私たちをも神は愛し、あわれみ、御子を遣わし、その十字架と復活による贖いによって救い出してくださいました。そのことを覚えて感謝するとともに、ピネハスのように、神の心を自らの心とする、主と思いを一つにする、そのような者でありたいと願います。 すべての栄光が神に帰されますように。 |
◇聖書箇所:詩篇 106篇1-23節◇(12月30日) 「…もし 神に選ばれた人モーセが 滅ぼそうとする激しい憤りを収めていただくために 御前の破れに立たなかったなら どうなっていたことか。」…詩篇106:23 105篇同様、詩人は、イスラエルの先祖たちの歩み、特にエジプトを脱出した後のことに思いを巡らせ、民の罪深さと、主のいつくしみの深さを対比させています。そして、詩人自身、先祖たちと同じく罪を犯す者として、自らを捉えているのです。「しかし主は 御名のゆえに 彼らを救われた。ご自分の力を知らせるために」(8節)。7節には、「私たちの先祖は…海のほとり 葦の海で逆らいました」とあります。イスラエルの民は、エジプト兵に追われ、行く手を葦の海に阻まれた時、エジプトで奴隷として仕えていたほうが良かったと、モーセに文句を言いました。しかし主は、そんな彼らになおもご自身の御力を知らせるべく、海を干上がらせて乾いた地を渡らせ、追ってきたエジプトの兵士たちを一人残らず海に呑み込ませたのです(出14章)。「しかし 彼らはすぐに みわざを忘れ 主のさとしを待ち望まなかった」(13節)。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」…。イスラエルの民は大いなることをなさった神の御力をあらためて知ったはずなのに、喉が渇いた、肉が食べたいと荒野の生活での不満を訴え、主がその飢え渇きを満たされたにもかかわらず、その後、またもや主に逆い、金の子牛を拝んだのです。主はそのことを激しく憤り、彼らを根絶やしにすると言われました(出32:10)。しかし主は、燃える怒りをおさめるようモーセがとりなすと、その災いを思い直されました。詩人はそのことについて、「御前の破れに立たなかったなら どうなっていたことか」と言っています。そしてキリストも、罪人である私たちのためにとりなし、ご自身のいのちをもって贖ってくださったのです。今もなお、天の父の右の座においてとりなし続けておられるのです。そのようにキリストが破れに立ってくださったからこそ、罪人である私たちは滅ぼされることなく、今も生きる者とされているのです。そのことを忘れずに歩みたいと思います。 感謝と喜びがいつも心にありますように。 |
◇聖書箇所:詩篇 105篇25-45節◇(12月29日) 「これらのことは 主がそのしもべアブラハムへの 聖なることばを 覚えておられたからである。」…詩篇105:42 「主は人々の心を変えて ご自分の民を憎ませ ご自分のしもべたちを 悪賢く扱うようにされた」(25節)。エジプト人たちは、彼らの地でイスラエルの民が増え、一大勢力となったことを恐れ、自分たちの支配下に置くべく、奴隷としてこき使いました。そしてイスラエルの民が苦しみ、エジプトを出て行こうとしたとき、パロ王はそれを拒み、労役を増し加えたのです。「彼らは人々の間で 主の数々のしるしを行い…もろもろの奇跡を行った」(27節)。強情なパロの心を変えるべく、主はモーセとアロンを遣わされ、エジプトに対して数々の災いをもたらされました。全土の水を血に変えて魚を死なせ、いなごの大群で大地の実りを食い尽くさせ、雹を降らせて人や獣を打ち、エジプトのすべての初子のいのちを奪われたのです。そうしてついに、イスラエルの民はエジプトを脱出することができました。しかしモーセが民に、「エジプトから連れ出す」と主が告げられたことを話しても、彼らは落胆しており、そのことを信じようとはしなかったのです。「民が願い求めると 主はうずらをもたらし また 天からのパンで彼らを満ち足らせた」(40節)。39節以降には、脱出後の民が、主の守りと導きと養いの中で、約束の地に向って進んで行ったことが記されています。しかし、そこでも民は、水がない、食べるものがないとつぶやき、モーセに不満をぶつけました。そして主は、そのことに答え、うずらとマナで彼らを養い、岩から水を湧き出させ、彼らの渇きを満たされたのです。詩人はそのように歴史を振り返り、主がアブラハムへの契約を忘れず、ご自身の民に真実を尽くし、愛と恵みとあわれみを注ぎ続けたことを深く覚えているのです。私たちもまた、キリストに贖われ、神の民とされたこと、主が真実を尽くし、必要を満たしてくださっていることを覚え、感謝をささげたいと思います。 感謝と喜びがますます満ちあふれますように。 |
◇聖書箇所:詩篇 105篇1-24節◇(12月28日) 「主はご自分の契約を とこしえに覚えておられる。命じられたみことばを 千代までも。」…詩篇105:8 詩人は開口一番、「主に感謝し 御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ」(1節)と、主を賛美するようにと読者に呼び掛けています。そしてその中で、「奇しいみわざ」(2,5節)、「奇跡と御口のさばき」(5節)、「その御力」(4節)と繰り返し、イスラエルの神である方が、主権者であり全能者であることを強調し、その主の御名を誇りとし、その御力を尋ね求め、その御顔を慕い求めるよう命じているのです。その主は、ご自身の民との間に契約を結ばれました。アブラハムに与えられたその契約は、イサク、ヤコブへと受け継がれ、さらにヤコブの12人の息子、その中のヨセフを通して、神の奇しいご計画のうちに成し遂げられていったのです。主は真実なお方であって、それはご自身の民に対する永遠の契約なのです(7-11節)。12節からは、イスラエルとエジプトとの間の出来事が語られています。彼らは元々少数民族であり、他民族から圧力を受けました。しかし主は、彼らを虐げさせず、守られたのです(14節)。「わたしの油注がれた者たちに触れるな…」と言って主が諸国の王たちを戒めたことを、詩人は記しています(11節)。主は、民を、かけがえのないご自身の者たちとされていたのです。さらに詩人は、ヨセフがエジプトに奴隷として売られたことも、「主は一人の人を彼らに先駆けて送られた」のだと言っています(17節)。そして忍耐と訓練の期間を経て、ヨセフを用い、祝福し、ヤコブの一家もエジプトに来てそこで繁栄し、彼の子孫であるイスラエルの民の数は増えていったのです(24節)。それはすべて神のご計画であったのです。キリストに贖われ、神の民に加えられた私たちもまた、その真実な神の顧みと取扱いの中で導かれているのです。守られ、養われているのです。祝福の基として尊く用いられるのです。神の永遠の契約の中に入れられた者として、ますます主の御力を尋ね求め、御顔を慕い求めたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所:詩篇 104篇19-35節◇(12月27日) 「あなたがお与えになると 彼らは集め あなたが御手を開かれると 彼らは良いもので満ち足ります。」…詩篇104:28 「わがたましいよ 主をほめたたえよ」。前の103篇と同様に、詩人は、主へのその賛美のことばをもって、詩を書き始め、結んでいます。そして、その間に挟まれた部分において、彼は神を、天地のすべてを創造された創造主、それらを支配しておられる主権者、そして、被造物の必要を満たされる良きお方として描いているのです。「彼らはみな あなたを待ち望んでいます。あなたが時にかなって 食物をお与えになるのを」(27節)。「彼ら」とは、主が造られたすべての生き物のことです。それらのものは、自分が誰によって造られ、誰から食物を与えられて生かされているかを、本能的に知っているのです。たとえ遅れるようなことがあっても、それが時にかなって必ず与えられることを疑わず、主を待ち望んでいるのです。そして、主から与えられるものは「良いもの」であり、必要を満ち足らせるものであるのです(28節)。ダビデもこのように賛美しました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます」(詩23:1-2)。主は良い羊飼いであられ、私たちはその牧場の羊であって(詩100:3)、主に養われているゆえに、乏しいことがないのです。良いもので満ち足りるのです。そして主は、そのようにして私たちのからだを養うだけでなく、心とたましいが干からびるようなことがあっても、その飢え渇きを満たし、それを生き返らせてくださるのです(詩23:3)。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています」(ヨハ10:14)。主イエスはこう言われました。そのキリストは羊たちのためにご自分のいのちさえも捨てられたお方なのです(同10:15)。このお方にしっかりと目を留め、その御声に聞き従い、良きものを待ち望みつつ、「私はいのちの限り 主に歌い 生きるかぎり 私の神をほめ歌います」(33節)と、主を賛美する者でありたいと思います。 主からの良いもので満ち足りますように。 |
◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章14-18節(12月25日) 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」…ヨハネ1:14 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。御子として、御父とともに世の初めからおられ、すべてのものを創造された神であるキリストは、いのちの源なるお方であり、人の光となるために、御父のみもとから来られました。そして、肉体を持った、人の目に見える者として、この地上を歩まれたのです。キリストはそのように、全き神であり同時に全き人であるという、唯一無二の存在として人々の間に住まわれ、ご自身のことばと行ないによって、神がどのようなお方であるかを啓示され、また神の御思いを説き明かされました(18節)。「この方は恵みとまことに満ちておられた」。「恵みとまこと」という表現は17節にもありますが、そこでは、モーセの律法とキリストの「恵みとまこと」が、対比されて書かれています。パウロは、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです」と語っていますが(2コリ3:6)、神は、文字に仕え、律法を守り通そうとしても、罪の性質のゆえにそうできない人類をあわれみ、そこから救い出そうとしてキリストを送ってくださったのです。もちろん神は、旧約の時代においても、恵みとあわれみに満ちたお方です。律法が悪いものであるわけではありません。しかし律法による恵みにまさる恵みとして、その恵みを包みこむさらに豊かな恵みを人類に与えるべく(16節)、恵みとまことに満ちたキリストを、神は遣わしてくださったのです。その恵みとまことは、罪人の身代りとなって十字架にかかるという愛のわざによって頂点に達しました。そしてそれは、ご自身の血による新しい契約としてすべての人にもたらされたのです。「まこと」とは「真理」であり「真実」でもあります。恵みとまことに満ちておられるキリストに贖われた者として、ますます主に拠り頼み、御霊に仕え、従いたいと思います。 主の祝福が豊かに満ちあふれますように。 |
◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章6-13節◇(12月24日) 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」…ヨハネ1:12 いと高き所で、栄光が神にありますように。 |
◇聖書箇所:ヨハネの福音書 1章1-5節◇(12月23日) 「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」…ヨハネ1:4-5 ヨハネの福音書の最初に、御子、すなわちキリストの本質が記されています。御子は神として、この世界が存在するより前からおられ、御父とともに、権威に満ちた力あるご自身のことばをもって、この世界のすべてを造られました(コロ1:15-17)。地が茫漠として何もなく、まだ闇に覆われているときに、「光、あれ」と仰せられると、そのことばのとおりに光が生じたのです(創1:3)。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」。ヨハネは、この方、すなわちキリストが、いのちの源であり、そのいのちがすべての人にとっての光なのだ、と語っています。それは、闇の中に置かれている人間は、いのちであり光であるキリストにあって、その闇を恐れず生きることができる、という真理なのです。「闇」…それは光をなくそうとするものです。私たちの心に不安と恐れを生じさせ、疑心と失望をもたらします。もしも闇に覆われて光が失われてしまうなら、人は生きることができません。そこには絶望しかないからです。しかしキリストは人の光として、闇の中にある私たちに希望を与え、いのちをもたらすために来てくださったのです。この光に闇は打ち勝つことはできないのです。目に見える現実が、たとえどのような否定的な状況であっても、私たちの心が、「もうだめだ…」と、すでに決着がついたような思いに支配されても、いのちをもたらし、人の光となり、闇を打ち破るお方、イエス・キリストにあって、私たちは絶望することなく、あきらめてしまうことなく、希望をもって進むことができるのです。権威に満ちた力ある神のことばを信じ、それを握り、口で告白し、宣言し、闇に立ち向かうことができるのです。そのことばは神ご自身であって、そのことばが人の姿を取ってお生まれになったのが、キリストなのです。絶えずこのキリストを「私の救い主」と告白し、キリストに拠り頼んで歩む者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所:ハガイ書 2章◇(12月22日) 「さあ、あなたがたは今日から後のことをよく考えよ。第9の月の24日、主の神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えよ。」…ハガイ2:18 ソロモンが立てた神殿は破壊されており、かつての栄光に輝く主の宮を見たことがある者は残っていませんでした。しかし主は、再び、「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいる…」と告げて民を励まし(4節)、「わたしはこの宮を栄光で満たす…この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる」と言われたのです(7-9節)。「間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。わたしはすべての国々を揺り動かす…」(6-7節)。それは終末の時に起こることであり、主が告げられた栄光に満ちた宮とは、バビロンから帰還した民が修復する神殿のさらに先にある主の宮、すなわち新しいエルサレム、聖なる都を表しています。そしてその都には神殿はありません。それは、万物の支配者である神と小羊なる主ご自身が、都の神殿となるからなのです(黙21:23)。「後のことをよく考えよ」(15,18節)。「主は言われる」(6,7節等)、「主のことば」(4,8節等)。それらのことばが繰り返し使われ、強調されています。それは、主のことばを心を留め、後に起こることをしっかりと受けとめ、それが必ず実現すると堅く信じつつ、今をどう歩むべきかをよく考えよ(7節)、という促しにほかなりません。ユダの総督ゼルバベルは、ハガイの時代に神殿の再建を導きましたが、その子孫であるキリストによって(マタ1:12-16)、御国が完成され、主に贖われた私たちは、新しいエルサレムにおいて、主とともに永遠に生きる者とされるのです。一方で神の国はこの地上にすでにあり、主は今も、多くの残りの者たちが御国に入るようにと、みわざをなし続けておられるのです。そして私たちは、その神の国の拡大のため、残りの者たちが救われるために、主に選ばれ、生かされ、用いられているのです。そのことを覚えつつ、ますます主のことばに心を留め、後のことをよく考え、主のみこころにかなった、今の時の歩みを重ねる者でありたいと思います。 主の祝福を押し流す者とされますように。 |
◇聖書箇所:ハガイ書 1章◇(12月21日) 「万軍の主はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている。」」…ハガイ1:2 ハガイは紀元前530-460年頃に活躍した預言者です。彼が生まれたとき、南ユダ王国はすでにバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚となっていましたが、その後、ペルシャのクロス王の勅令によって民はユダの地に帰還し、破壊されたエルサレム神殿の再建が進められました。ところが、敵対者たちの圧力によりそれが中断させられたため(エズ4:4,24)、主の宮は廃墟のままであったのです。ペルシャの次の王ダレイオスの第2年、ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して主は、ご自身の宮の再建がそのように放置されていることについて、ハガイを通して語りました。そして、民が主の宮を建てる時はまだ来ていないと勝手に決め、自分たちの家を建てることを優先させ、立派な家に住んで満足している民を、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか」(4節)と言って非難したのです。すると、彼らと民の残りの者すべては、主を畏れ、ハガイによって語られた主の御声に聞き従いました。一方、主も、「わたしは、あなたがたとともにいる」と民を励まし、すべての者の霊を奮い立たせられたので、彼らは、中断していた神殿再建工事を再開させ、それぞれが担うべき仕事に取りかかったのです(12-14節)。「あなたがたの歩みをよく考えよ」と主はハガイを通して言われました(5,7節)。その主は私たちに対しても、あなたがたは何を優先させているのか、第一としているのか、よく考えよ…と語っておられます。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」と、主イエスは言われました(マタ6:33)。私たちの歩みがその原則に従っているか、自分のことを優先させてしまい、神を求め、神に従うことを後回しにしていないか、霊的なことを軽視していないか…、よく考え、正しい優先順位を選択する者でありたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
◇聖書箇所:オバデヤ書 1章◇(12月20日) 「岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。」…オバデヤ1:3 南ユダの預言者であったオバデヤが預言したのは、エドムの滅亡です。エドム人はエサウの子孫であり、ユダヤ人とは血が繋がっていましたが、エサウとヤコブとの間の敵意がそのまま引き継がれ、いがみ合っていました。そして、バビロンによってユダが攻撃された際も、彼らはそれに加担するような立場を取り、エルサレム神殿が破壊されたときには、それを喜ばしく思っていたのです。オバデヤは、そのようなエドムが永遠に絶たれ(10節)、生き残る者がいなくなる(18節)と告げ、一方、ユダの逃れの者、残る者が救われ、主が与えられる地を占領し、主がその王国を治められると預言したのです(17-21節)。エドム人たちは、死海の南東の山岳地帯に住んでおり、彼らの首都は岩壁の上の高台にあり、そこは自然の要塞、難攻不落の町でした。そして彼らは、それを誇り、高慢になり、自分たちを負かす者などいないと思っていました。しかし、主はそんな彼らに言われたのです。「わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす」(4節)と。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴18:12)。「悪しき者のたましいは悪事に憧れ、その目に隣人へのあわれみはない」(箴21:10)。エドムは、自分たちが置かれていた状況を誇らしく思い、高ぶり、滅ぼされる日が来るなどとは考えていませんでした。また、仲違いをしていたとは言え、血の繋がったユダヤの民が滅びそうになっているのに、あわれみの心を全く持たず、素知らぬ顔で立って喜んでいたのです(11-12節)。そして主は、そのような彼らのあり方を厳しく非難し、結局は、オバデヤの預言のとおり、エドム人は滅びてしまったのです。そしてそのことは、すべての者が心に留めるべきことなのです。高ぶらずに謙遜に歩む者、家族、信仰の友、隣人を真実に愛する者でありたいと思います。 日々の歩みがみことばによって導かれますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 42章◇(12月18日) 「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」…ヨブ42:5-6 いよいよヨブ記の最後の章です。「わたしを不義に定めるのか」(40:8)、「あなたには神のような腕があるのか(40:9)と問われ、また、河馬やレビヤタンについて語られた神に対し、ヨブは再び答えました。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました」(2節)…と。彼は、全能者であり主権者である神の前に全面降伏し、自らの無知と無力さを認めているのです。「確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました」(3節)。ヨブは神についてすべてを知り得ないにもかかわらず、さも理解しているかのように語っていたのです。「~できるか、~知っているか」と主から問われたことに対して、できること、知っていることなどなかったのです。彼は、神に対していかに自分が傲慢であったかを思い知らされ、ちりと灰の中で悔い改めました。その後、主はヨブの3人の友人たちに怒りを燃やされました。それは彼らもまた、神について無知であったのに、ヨブに対して説教し、裁き、悔い改めを迫ったからです。そのような態度もまた、高慢であり、自分を神の立場に置くことであったのです。主は彼らに、ヨブのところに行き、全焼のささげ物を献げ、ヨブにとりなして祈ってもらうようにと指示を与えられました。そして、ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされました。わざわいの前に持っていた財産はすべて2倍となり、息子7人、娘3人が与えられ、彼はその後も140年生きたのです。著者は、彼の生涯が満ち足りたものであったと言ってこの書を結んでいます(17節)。私たちの人生にもさまざまな試練や苦難が起こりますが、どんなときにも、創造者であり、全能者であり、主権者なる主の前にへりくだり、自らの無知と無力さを認め、ひたすら主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。 主の祝福が豊かに満ちあふれますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 41章13-34節◇(12月17日) 「地の上に、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。高いものすべてを見下ろし、誇り高い獣すべての王である。」…ヨブ41:33-34 レビヤタンについての詳しい描写が続いています。「その背は並んだ盾、封印したように固く閉じている」(15節)。「その口からは、たいまつが燃え出し、火花が噴き出す」(19節)。「その心臓は石のように硬く、臼の下石のように硬い」(24節)。そのからだは、外側が頑強なだけでなく、内にある心臓も強固なものであるのです。人々はその存在を恐れ、力ある者もおじけづいて逃げ惑い、勇気ある者がそれに立ち向かおうとしても、槍も矢も石もまったく歯が立たず、びくともしないのです。そのように25-29節には、まるで怪獣のような、レビヤタンの恐るべき屈強さが示されています。33-34節は長い描写の結びです。「誇り高い獣」ということばは、自らの力を誇り、神に背を向けるだけでなく、自分が神となるという野心を持つ存在を暗示しています。そのような者たちはレビヤタンを自分たちの「王」とし、その手下として人々を惑わし、神から離れさせるのです。しかし恐れを知らぬ無敵の存在であるようなレビヤタンもまた、元々は神によって造られた被造物であって、天の下にあるものはすべて神のものなのです(11節)。イザヤ書には、悪魔についての描写だとされる箇所があります。「おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。』だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(イザ14:13-15)。「『神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。』ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい…」(ヤコ4:6-7)。主はレビヤタンの描写を通して、ヨブの高慢を間接的に非難されたのです。そのような高ぶった思いがないか…絶えずへりくだって歩んでいるか…と、私たちも自らを吟味したいと思います。 悪しき者の攻撃から守られますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 41章1-12節◇(12月16日) 「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。」…ヨブ41:11 前の40章では、主がご自身が造られたものとして「河馬」について語られ(15-24節)、「その目をつかんで、これを捕らえられるか。罠にかけて、その鼻を突き通せるか」とヨブに問われたとありますが、41章ではさらに、「レビヤタン」と呼ばれる存在のことが語られています。このレビヤタンについては、異教の神話的巨獣であって、実際に存在するものではないとする見方があり、また、口語訳聖書にあるように「わに」とする解釈がありますが、イザヤ書27章1節には、「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタンを、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される」と書かれています。預言者イザヤは、「その日」、すなわち終末の日における神のさばきを幻として見せられ、黙示的にそれを表しましたが、彼は、レビヤタンが「逃げ惑う蛇」であり、神から罰せられる存在だと言っているのです。使徒ヨハネも彼の黙示録の中でこう記しています。「また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り…千年が終わると…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた」(默20:1-2,7,10)。主はヨブに言われました。「その戦いを思い出して、二度と手を出すな。見よ。それに立ち向かう期待は裏切られる」と(8-9節)。あるいはヨブが、自分を義だとする「自信過剰」のゆえに、サタンの存在をみくびっており、主はそれを指摘されたのかもしれません。いずれにしても神に敵対するサタンは確かに存在しており、人を神から引き離そうとあらゆる手段で働きかけてくるのです。そして、私たちは、そのことをしっかりと覚え、油断せず、サタンを恐れず、すべてを統べ治めておられる主権者なる神に、絶えず拠り頼み、聞き従うべきなのです。主にあって慎重かつ大胆に歩んでいきたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 40章◇(12月15日) 「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。」…ヨブ40:4 神のヨブへの語りかけはひとまず終わりますが、その最後に神は、次のように言ってヨブに迫りました。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ」(2節)。神からのことばをずっと聴いて、自分の無知と高慢さを思い知らされたヨブにとって、私は取るに足らない小さな者であって、神であるあなたに何の口答えもできない…と答えるしかありませんでした。ヨブは、自らの正しさを神の前に主張し、なぜわざわいを与えて責め立てるのかと神を非難しましたが、それがなんと罪深く、傲慢なことであったのかを思い、すっかり打ちのめされ、恥じ入っていたに違いありません。ヨブはそのように答えましたが、神は再び彼に語りかけ始められました(6節)。執拗に思える神のヨブへの取扱いは、彼がいかに弱くて無力であるかをさらに思い知らせ、ご自身が主権者であることをあらためて明らかにするためでした。8~14節はヨブに対する神の痛烈な皮肉です。「さあ、誉れと気高さで身を飾り、威厳と威光を身にまとえ」(10節)。「すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ」(12節)。それらはもちろん、神のみがなし得ることであって、神に造られた人がそのような存在となるなど、本来あり得ないのです。しかし、神の立場に自分を置こうとする罪の性質が、アダム以来、すべての人のうちに宿っているのです。「そうすれば、わたしもあなたをたたえて言う。『あなたの右の手は自分を救うことができる』と。」(14節)。ヨブをそう皮肉った神は、今も、すべての人に問いかけておられます。あなたの右の手は自分を救うことができるのか…と。もちろんできません。しかし、それができると思って、自分の力、知恵、富に頼り、困難を乗り切ろうとする者、神を否定する者たちがいるのです。そしてその者たちは、それがいかに愚かで罪深いことか、悟る必要があるのです。聖徒とされた私たちも、自らのうちにそのような部分がないか、吟味したいと思います。 主の偉大さを思うことができますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 39章◇(12月14日) 「あなたはあぜ溝で、野牛に手綱をかけることができるか。それが、あなたに従って谷間を耕すだろうか。」…ヨブ39:10 39章において、神は、動物たちの生態について語り、それらのことをヨブがどれほど知っているのか、その営みに対してヨブが何かをなし得るのか、従わせることができるのかと迫り、自分がいかに力も知恵もない小さな者であるかを、ヨブに思い知らせようとしておられます。「それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す。その子たちは強くなり、野で大きくなる…」(3-4節)。野生のやぎや鹿の子どもは、親から手厚く保護されなくても、弱り果てて倒れることなく、野でたくましく育ち、ひとり立ちしていきます。それは、神がそれらを生かし、支え、養われ、不毛な荒野の地さえも、その住みかとしてくださるからなのです(6節)。また、鳥であるだちょうは、翼を誇らしげに羽ばたかせても空を飛ぶことができず、産んだ卵を自分の足で踏み潰してしまうような愚かさを持っています。それについて神は、これに悟りを授けなかったからだと告げています(17節)。一方、馬は、人間の戦いにおいて用いられ、投げ槍が飛び交う中でも決して尻込みせず、角笛の音を聞いていななき、敵陣に向って前進するのです(21-25節)。「あなたの命令によってか。鷲が高く上がり、その巣を高いところに作るのは」(27節)。ヨブは鳥たちに命令を与えることはできません。また獰猛な野牛をてなずけ、農耕作業を行わせることもできないのです(10節)。それらのものは、創造者であり全能者である神によって造られ、支配され、生かされているのです。そしてヨブ自身、そのような神の被造物の一存在に過ぎないのです。「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と」(詩91:1-2)。神に造られ、生かされている私たちもまた、全能者である主の陰に宿り、避け所、砦としてそこに身を置き、主に全幅の信頼を寄せて歩むことができる幸いを覚えたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 38章22-41節◇(12月13日) 「あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。」…ヨブ38:31 ヨブに対する神の語りかけは続きます。神は大自然のさまざまな事象を生じさせ、保ち、支配しておられるお方であり、それらを神に代わってなすことのできる者など、もちろんだれもいないのです。神はそのことをヨブに告げ、彼の誇りや高ぶりを打ち砕こうとされているのです。エリフは、神が雲から雨を降らせ、稲妻を放たれるのだとヨブに語りましたが(36:27-37:6)、それに追い討ちをかけるように神は、「だれが、大水のために水路を、稲光のために道を切り開き…雨を降らせ…地を満ち足らせ…に若草を生えさせるのか。…露のしずくはだれが生んだのか。氷はだれの胎から出て来たのか。空の白い霜はだれが生んだのか…」とヨブに迫っています(25-29節)。また、夜空に輝く星々を造られ、配置しておられるのも神であって、人が星座をばらばらにし、星を自由に動かすことなど、もちろんできないのです(31-32節)。さらに、獣や鳥などに獲物を与え、餌を備えるのも神であって、そのことを知っているそれらのものは、食物がなくてさまようときは、神に向って鳴き叫ぶのです(39-41節)。「私は山に向って目を上げる。私の助けはどこから来るおか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」(詩121:1-2)。詩人はそのように告白しました。また、主イエスはこう言われました。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」(マタ6:26)。私たちもヨブのように、苦難の中で、主よなぜですか…私を見捨てるのですか…と、神を非難する思いになることがあります。しかし、創造主であり、主権者なる神は、私たちを愛し、あわれみ、決して見放さないのです。一人ひとりを守り、養い、助けてくださるのです。その主にますます信頼して歩む者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 38章1-21節◇(12月11日) 「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。」…ヨブ38:4 38章から、これまで沈黙していた神がいよいよ登場し、ヨブに語りかけられます。主はまずこう言われました。「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(2節)。あえてヨブの名を呼ばずに、「この者」と突き放した言い方に、主の憤りが感じられます。「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(3節)。主はそのように告げ、ヨブに多くの質問を浴びせられます。しかし主は、彼がそれに答えることを期待しているのではなく、「だれが~」と問うことによって、神ご自身がそれをなしたことをヨブに思い出させ、「~ことがあるか」と問うことによって、そのようなことはない、とてもできない…と、自分がどんなに小さく力のない存在であるかを、ヨブに思い知らせようとしておられるのです。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか…だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったか…その要の石はだれが据えたのか…」(4-6節)。主からのその問いに対し、ヨブは畏れをもって地にひれ伏し、偉大な神の御力、創造のわざの奇しさを思い、ただ神をあがめるのみであったに違いありません。また、「あなたは海の源まで行ったことがあるか。深淵の奥底を歩き回ったことがあるか…死の陰の門を見たことがあるか。地の広さを見極めたことがあるか…」と問われたとき、ヨブは、ちっぽけな自分の存在を思い知らされ、そんな自分が神を非難し、「私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う」(13:3)とさえ言ったことを思い出して、ひたすら恥じ入っていたことでしょう。ひるがえって私たちはどうでしょうか。すぐに自分の知恵や力を誇り、高ぶる者となってしまう罪深い私たちは、ヨブに対するその主の問いを、自分へのものとして受けとめ、ヨブと同じような思いにさせられるべきなのです。日々そのような主の取り扱いを受けて、自らの罪深さ、愚かさを認め、ますますへりくだり、偉大な神をあがめる者とされたいと願います。 主の御声を聴くことができますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 37章◇(12月10日) 「私たちが見出すことのできない全能者は、力にすぐれた方。さばきと正義に富み、苦しめることをなさらない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心に知恵ある者を顧みられないだろうか。」…ヨブ37:23-24 13節までの前半でエリフは、前章に引き続き、神が起こされる稲妻と雷鳴について述べ、雷鳴とはすなわち神の御声であって、それを聞いて心を留めない者には、神からの懲らしめとさばきがある、だからその雷鳴を聞いたら、悪から離れ、神に立ち返るべきなのだと、ヨブのみならず、すべての人への警告として主張しています。また14節以降でエリフは、ヨブに対し、雲を起こし、雨を降らせ、雷を起こし、この世界のすべてを統べ治めておられる神は、創造主であり、全能者であり、主権者であって、静まってその神のみわざを思い巡らし、自分が神に対して何ができるのか、何か言い得るのか、そのことをよくよく考えよ、人はただ、神の前にへりくだり、あわれみを待ち望むしかないのだと語っています。神は聖なるお方であり、悪と不義と汚れを忌み嫌われ、悪者をさばかれる…。一方、ご自身のみこころにかなう者を顧みられ、苦しめることをなさらず、恵みを与えられる…。だからこそ、神のことば、教えに聞き従う、知恵のある者となるべきなのだと、彼は言っています(13,24節)。それがエリフの主張の結論であり、長く続いた彼のことばはそれで閉じられているのです。「聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。神は善であれ悪であれあらゆる隠されたことについてすべての業を裁かれる」(伝12:13,聖書協会共同訳)。伝道者もまたそのように語っています。エリフの存在と彼の主張は、いよいよ神が登場され語られる前に、ヨブに心備えをさせるためだったと言えます。バプテスマのヨハネのようです。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。…わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(ヨハ14:21)。主を畏れ、愛し、戒めである神のことばを守り行う者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 36章15-33節◇(12月9日) 「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。」…ヨブ36:26 「見よ、神は力にすぐれておられる…」(22節)と語るエリフは、偉大な神のご性質とみわざについて提示しています。人はすぐれた教師である神から真理を学ぶべきであり(22節)、その神に対して注文をつけるようであってはならない(23節)。神がなされる力あるみわざを覚えるならば、人は神をあがめ、賛美の歌をささげるようになるのであり、ヨブもそうすべきである(24節)。神はいと高きお方であって、神について人が知り得ることはごくわずかなのだ(26節)…。そのように彼は主張しています。また神は、空に雲を生じさせ、雨を降らせて地を潤し、生きものに水を飲ませられるのであって(27-28節)、神がその雨をとどめられるなら、地は干上がってしまい、それに対して人は、神の恵みとあわれみをただ願うのみで、雲を生じさせることはできないのです。そのように、創造主であり、主権者である神は、自然界を含めてすべてを支配し治めておられるのであって、すべてのものは、その神の前にへりくだり、ひざをかがめるべきなのです。「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる」。詩人もそのように告白しています(詩19:1)。そして、「だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。…私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように…」(12-14節)と、主に願い求めているのです。エリフもまた、ヨブがその詩人のようになるのを願っていたのかもしれません。そして主は、私たちに対しても、神の絶対的主権を認め、御前にへりくだり、自らが神に受け入れられるよう願う者となることを、求めておられるのです。「主よ、御名をあがめます。あなたはすべてを統べ治めておられます。私のことばと思いが、あなたのみこころにかなうものとなりますように…」と、日々主に賛美をささげ、告白し、祈り求めたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 36章1-14節◇(12月8日) 「もし彼らが聞き入れて神に仕えるなら、彼らは自分の日々を幸せのうちに、自分の年々を楽しみのうちに全うする。」…ヨブ36:11 「神のために言い分がある…」と言って、エリフはヨブに対してさらに語っています。彼は、神の代弁者として自分が用いられているという自覚を持って、ヨブに接しています。「私の意見」(3節)と言っても、それは神から示されたもの、真理だと確信しているのです(4節)。5~10節では人に対する神の扱いが、11~15節ではそれに対する人の態度が論じられています。神は偉大で強いお方であっても、弱くて小さい一人ひとりを顧みられる…(5節)。悪しき者が人々を苦しめようとしても、擁護して守ってくださる…(6節)。ご自身の御旨にかなう者に目を留め、高く上げてくださる…(7節)。確かに神はそのように、正義と公正をもって地を治めておられるのです。そして、もし正しく歩む者たちが「鎖で縛られ、苦しみの縄に捕らえられたら」(8節)、それは、彼らが神に背いて、おごり高ぶったからであって、神は、その苦難を通して彼らを戒め、悔い改めるように促しておられるのであって、それを素直に受け入れて神に立ち返るなら、幸せな日々を送ることができ、そうでなければ滅びと死が臨むのだと、エリフは語っています(8-12節)。そのようにして彼は、一般論を述べつつ、ヨブの高ぶりを指摘して、それを悔い改めさせようとしているのです。「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申30:19)。神がモーセを通してイスラエルの民に語られたその教えは、エリフだけでなく、もちろんヨブも、また彼の友人たちもよくわかっていたに違いありません。そして神は、そのことを、ご自身の民のみならず、すべての国民が知り、祝福の道に進むように、いのちを選び取るようにと願っておられるのです。そのために、道であり、真理であり、いのちなるお方、イエス・キリストを遣わされたのです。そのキリストに贖われたことを感謝しつつ、いのちの道からそれずにまっすぐに歩み続けたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 35章◇(12月7日) 「というのは、あなたがこう言っているからだ。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪から離れると、どんな利益があるのでしょうか』と。」…ヨブ35:3 「何があなたの役に立つのでしょうか…どんな利益があるのでしょうか…」。エリフは、ヨブがそのように言っている、つまり、自分がいくら正しくあったとしても、神がその義を認めないのなら、結局のところ、自分のあり方は神に何の影響も与えていないということなのかと、疑問を呈していることを取り上げています。エリフは、そのことばを、私の正しさ、義を神は認めるべきだという、ヨブの非難のことばだと理解しているのです(2節)。もちろん、神と人との関係は、神の「役に立つ」ゆえに、神に「利益」をもたらすゆえに仕えるという、まるで雇用主と従業員の関係のような事務的、一方的なものではありません。神と、ご自身の似姿として造られた人との関係とは、人格的な交わりに基づく、生き生きとしたものであって、神が人を愛し、一人ひとりの存在を喜ばれ、人もまた神を愛し、神を喜ばせることを追い求めるという、感情が伴った、双方向のものであるのです。「あなたが罪を犯したとしても、あなたは神に対して何ができるのか。あなたの背きが多くあるとしても、神に対して何をなし得るのか」(6節)。エリフはまた、そのように言い、神の絶対的な主権を強調しています。確かに、人が罪を犯したからといって、自らのがんぱりで善行に励んでも、その罪を帳消しにすることはできません。しかし、それもまた、表面的な捉え方であって、神の前に罪を認め、真実に悔い改める者に対して、確かに神はその者を顧みて、赦しと救いを与えてくださるのです。神は、有無を言わさずに、私たちのことをばっさりと切り捨てる、冷酷で無慈悲なお方ではないのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀3:22,新改訳3版)。神の深い恵みとあわれみを覚えるとき、心に感謝と喜びが湧いてきます。主との親密な、愛の関係の中に、わが身を置き続けたいと思います。 感謝と喜びをもって歩むことができますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 34章16-37節◇(12月6日) 「神が黙っておられるなら、だれがとがめることができるだろうか。神が御顔を隠しておられるなら、だれが神を認めることができるだろうか。一つの国民においても、一人の人間においても同様だ。」…ヨブ34:29 エリフはさらに、主権者なる神の統治について語ります。「~だろうか」という表現を繰り返し用い、そんなことが断じてないことを強調しています。「いったい、公正を憎む者が、治めることができるだろうか。正しく力ある方を不義に定めることができるだろうか」(17節)と説くエリフは、なぜ神は潔白な自分にわざわいをもたらすのか…と言って神を非難するヨブは、正しく力ある神を不義に定めていることになるのだ、と言っているのです。神は、正しく公正であり、高い地位にある者や上流階級の者に特別に目を掛けるようなことをせず(19節)、一人ひとりの歩みの上に絶えず御目を留めておられ(21節)、不法を行う者が闇に身を隠そうとしてもすべてを明るみに晒し(22節)、ご自身に背く悪しき者どもを放置せずに、速やかに打ち倒される(25-27節)お方なのです。神は黙っておられない…神は御顔を隠したりはしない…神は弱い者、苦しむ者の叫びを確かに聞き入れられる…神は正しく力ある方であり、義なる主権者として、ご自身のみこころに従って、すべてを統べ治められるのだ…。エリフが神について語ったそれらのことは、誤りのない真理でした。そして彼は、ヨブがそのことを改めて認め、主の前にへりくだり、自らの義を一方的に主張して神を非難したことを、悔い改めるように願っているのです。なぜ神は沈黙しておられるのか…なぜ神は答えてくださらないのか…。苦難の中で、祈っても状況が変わらないとき、私たちもついそのようにつぶやいてしまいます。しかし神は、苦しむ者の叫びを確かに聞いておられるのです。私たちを見捨てたわけではないのです。正しく力ある主権者として、一人ひとりの歩みに介入し、最善をもって導いてくださっているのです。その主に信頼し、なお主を待ち望み続ける者でありたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 34章1-15節◇(12月4日) 「神は決して悪を行わない。全能者はさばきを曲げない。」…ヨブ34:12 さらにエリフは続けます。彼はヨブに向って語るのをいったんやめて、「知恵のある人々よ、私のことばを聞け…」と呼び掛けていますが、その人々にはもちろん、ヨブと3人の友人も含まれています。そのようにエリフは、自分が神の真理、みこころを多くの人に伝えるために、主から遣わされているのだと認識していたのです。エリフはまずヨブのことを持ち出し、彼が、自分は正しい、それなのに神がその正義を取り去った、と主張していることを問題視し、そんなことはない、神は決して公義を曲げないお方であって、不正をするなどあり得ない、神はご自身の義に従って、人の行ないに応じて報いをされるのだと、神の公正さを訴えています(10-12節)。「神は、一人ひとり、その人の行ないに応じて報いられます」(ロマ2:6)。そのことは友人たちもそれぞれ主張しました。しかし彼らは、ヨブの悲惨な状況を目にし、ひどい悪行をヨブがしでかしたに違いない、それを今すぐ告白して悔い改めよと、短絡的にとらえて迫ったのです。それに対してエリフは、ヨブのうちにある「自己義認」という神に喜ばれないものを見て、それに気づくようヨブに促しつつ、神の絶対性を強調していたのであり、彼にはより深い洞察が与えられていたことがわかります。「もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え、人は土のちりに帰る」(14-15節)。神に従おうとしない罪深いこの自分に、神が心を留めてくださっている…滅ぼされて当然のこの私を、神は、愛とあわれみをもって生かしてくださっている…。私たちにとってその理解こそが何よりも大切であり、地のちりから造られ、神の息吹によって生きるものとされたすべての人が、そのことに目が開かれ、神を畏れ、神をあがめ、神に拠り頼んで歩む者となるようにと、神は願っておられるのです。私たちもエリフのように、人々にそのことを告げ知らせ、救い主の訪れを宣べ伝える者でありたいと思います。 主のみこころに従うことができますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 33章12-33節◇(12月3日) 「神は彼をあわれんで仰せられる。『彼を救って、滅びの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を見出した』と。」…ヨブ33:24 ヨブが自らの潔白を主張し、苦難を与える神に不満を抱いていることを見て取ったエリフは、人よりも偉大な神に対するそのような態度は間違っているとまず指摘し、さらに、神が何も答えてくれないと思っても、神は夢や幻の中でも語られるお方であって、人がそれに気づかないこともあるのだと語っています(12-16節)。いずれにしても神は正しいお方であり、ご自身のみこころにかなわないことについて、あるときは病や痛みを通して人に気づかせ、叱責を与えられるのです(19節)。しかし神の本意は人を滅ぼすことではなく、人が悔い改め、神に立ち返り、真のいのちを得ることであるのです。18節以降には「滅びの穴に下らないように」という意味のことばが繰り返し使われており(18,24,28,30節)、神が、人を滅びから救い出そうと願っておられ、そのために神が仲介者を遣わし、その者が神と人との間に立ってとりなすことが、エリフによって示唆されています(23節)。その仲介者は「身代金」を」神に差し出すのです。そして神は、それを良しとされ、人を受け入れ、そのたましいが滅びることがないように「贖い出し」、そのいのちが光を見ることができるようにされるのです(28節)。また、人の肉、つまり生まれつきの古い性質は、幼子のように新しくされるのです(25節)。そのようにエリフは、ここで預言的なことばを語っており、来たるべきメシアがそこに暗示されていると捉えることができます。「このすべてのことを神は行われる…」(29節)。そのような救いのみわざを、神が計画され、初めから終わりまで一切のことを導かれ、一方的に成し遂げられるのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハ4:10)。私たちが自らの正しさではなく、一方的な神の愛とあわれみによって救われたことを改めて覚えたいと思います。 救いの喜びに満たされますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 33章1-11節◇(12月2日) 「実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。」…ヨブ33:6 「ヨブよ、どうか私の言い分を聞いてほしい…」と呼び掛け、エリフはヨブに対して語り始めました。彼はまず、自分のことばは神から与えられた知識に基づいて率直に語るものであり、ヨブを言い負かし、さばく意図がないことを告げています(3節)。ここにも、彼が、神の代理者として立つ思いであったことが示唆されています。次にエリフは、自分が人より優れた特別な者ではなく、ヨブと同じく、地のちりで形造られ、神からいのちの息、霊を吹き込まれて生きる者とされたのだと告白しています(4,6節)。そこから、エリフが、決して高ぶっているわけではなく、主の前にへりくだり、神に生かされている、みこころに従う者となる、そのような意識をもってヨブに語ろうとしている、ということがわかります。そのエリフが、ヨブと友人たちとのやり取りを耳にする中で、どうしても聞き捨てならなかったのが、ヨブの主張でした。9-11節には、エリフがヨブの発言としてまとめた内容が記されています。ヨブは、自分がきよく、純潔で、咎がないと訴え、にもかかわらず、神は自分のことを敵のように扱って攻め立てている、それは不当だ、なぜそのようなことが起こるのか…と、神に対して憤っているヨブの心を、エリフは問題視しているのです。ヨブは確かに、誠実で直ぐな心を持ち、神を畏れて悪から遠ざかっていました。彼のような者はほかにいないと、神ご自身がその正しさを認めていたのです(1:8)。しかしヨブが、思いがけない苦難に遭い、悲しみと痛みの中で、理不尽な取扱いを受けていると感じ、なぜ神はこのことを許しているのか、自分のことをきちんと評価してくれないのかと、神に不満をぶつけたい思いになっていたことも事実なのです。私たちはどうでしょうか…。神との関係、他者との関係において、自分は正しいとする心は、神に喜ばれるものではありません。絶えずへりくだり、自らの罪深さ、誤りを素直に認め、主に立ち返る者、反省のことばと態度を表す者でありたいと思います。 砕かれた心を持つことができますように。 |
◇聖書箇所:ヨブ記 32章◇(12月1日) 「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」…ヨブ32:8 エリフという人が登場します。彼はヨブと3人の友人たちのやり取りをずっと聞いていましたが、ヨブが自らの義を主張することをやめようとせず、一方、友人たちもヨブにまともに反論できず、語るのをあきらめてしまったために、そのどちらに対しても怒りを燃やしたのです。6節以降はそのエリフのことばであり、37章まで延々と続いています。彼はまずヨブの友人たちを取り上げ、自分よりも年上である彼らに遠慮し、意見するのを控えていたと話し、年長者は人生の経験から得た知恵を持っており、高齢者はみな道理をわきまえていると思っていたが、そういうわけではないことに気づいたと告げ、だから今こそ、若輩者の自分がヨブに対して意見を述べるのだと、ヨブの友人たちへの不満を込めて語っているのです。「私にはことばがあふれていて、内なる霊が私を圧迫しているからだ」(18節)。彼は、自分の意見を述べたくてもずっとがまんしていたのです。内なる霊によって語るようにたびたび促され、その圧力で、彼の皮袋は張り裂けんばかりに膨れていたのです(19節)。しかし彼は、単に自分の考えを主張しようとしたわけではありません。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える」と彼は言っています。それは、人の知恵と悟り、何が正しいことかを知る知識は、神からの霊によって与えられるのであって、この世の常識や自分の経験に基づくものではない、ということです。エリフはそのことをわきまえ、主の前にへりくだり、内におられる神の霊が示されることを取り継ぎ、分かち合う、預言者のような役割を担う思いでヨブの前に出てきたのです。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである」(箴9:10)。知恵と悟りは神から与えられることを覚え、ますます主を畏れ、主の前に静まり、御霊が語られることをしっかりと聴き取り、その教えと導きに従って歩む者でありたいと思います。 主のみこころを知ることができますように。 |