◇聖書箇所:申命記 1章19-46節◇(1月15日)

「それで私はあなたがたに言った。『おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。』」…申命1:29-30

ホレブ(シナイ山)を出発し、カナンの地の南端の町カデシュ・バルネアまで進んだイスラエルの民は、斥候を編成してカナンの地を偵察させました。そして任務を終え、その地の果物を持ち帰った彼らが、その地は良い地だと報告したにもかかわらず、民は、主は私たちを憎み、敵の手に渡し、根絶やしにされると言って恐れ、おののき、カナンの地に上って行くことを拒んだのです(19-28節)。モーセはそんな民を説得しました。主があなたがたのために戦われる…自分の子を抱くように守られ導かれる…だからおののくな、恐れるな…。そのことをあなたがたは、エジプト脱出の際に、またその後の荒野での歩みにおいて、実際に見て体験したではないか…と(29-33節)。しかし主は、民の不平の声を聞いて怒り、成人の者たちはモーセも含めて約束の地には入れない…ヨシュアとカレブの二人だけが入ることができる、それは彼らが主に従い通したからだ…と言われました。すると民は急に心変わりし、武具を身に帯びて山地へ上って行こうとしたのです。主があなたがたとともにおられないから、敵に打ち負かされてしまう…と言ってモーセは止めましたが、彼らは聞かず、壊滅的な打撃を受けました(34-46節)。そのように民は、主に対して不信仰でした。不従順でした。行けと言われても行かず、上るなと言われたのに上り、いのちを失ってしまったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。彼らのようにではなく、「主に背いてはならない…主が私たちとともにおられるのだ…恐れてはならない」(民14:9)と言ったヨシュアとカレブのように、信仰の勇者として、主に信頼し、みことばに聴き従い、恐れずに前進する者でありたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 1章1-18節◇(1月14日)

「あなたがたは向きを変えて出発せよ。そしてアモリ人の山地に、またそのすべての近隣の者たちの地、すなわち、アラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。」…申命1:7

1~5節は申命記の序文です。「これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである」とあるとおり、神の民イスラエルが約束の地に入る直前に、モーセが民に説教したことばが書かれています。そしてそこには、荒野での40年間の民の歩みを回顧しつつ(1~3章)、彼らが神の民としてふさわしく、ひたすら神に聴き従って歩むべく、主の「みおしえ」が示されているのです。「あなたがたは向きを変えて出発せよ…」。シナイ山のふもとに長い間留まっていた民に、主はそう命じられました。カナンの地に行けと求められたのです。「向きを変えて」とのことばには、単に違う方向にという意味だけでなく、「心を新たにして」、「わたしに聴き従って」というニュアンスがあります。なぜなら民は、エジプトを出てからそれまでの間に、のどが渇いた、腹がへったと不平を言い、神に呼ばれてモーセがシナイ山に登っている時も、アロンが作った金の子牛を拝んでいたのです。「見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ」(8節)。神はそのように、約束の地はすでに民の手に渡っていると、完了形で告げられました。民はそこに進み、渡されているその地を、主に感謝して受け取ればよかったのです。そしてそれは、主が、父祖たちに対して、彼らとその子孫に与えると誓われた約束を、確かに果たしてくださるからなのです。その真実な神は、キリストの贖いによって、私たちをもご自身の民として加え、天の御国において永遠に生きる者となるという約束を与えてくださっています。この地上での繁栄と安息に留まることなく、向きを変えて、心を新たにし、みおしえに聴き従い、ひたすら主に拠り頼み、荒野の道を進んで行く者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 6章11-21節◇(1月13日)

「しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」…1テモテ6:11-12a

11節でパウロは、前節からの流れの続きとして、金銭を愛して追い求めることをせず、「義と敬虔と信仰」、すなわち神を畏れ、神がすべてを支配して良きものを備えてくださると信じ、神の前に正しいことを追い求めるようにと言っています。また「愛と忍耐と柔和」、すなわち神がどれほど私たちのことを愛しておられるか、キリストの十字架を通して現わされたその愛をさらに深く知り、苦難の中にあってもその主を信頼して待ち望み、すべてを主に委ね、平安と柔和な心をもって歩むことを追い求めなさいと、テモテに命じています。「信仰の戦い」(2節)。それは霊的な戦いであり、神に敵対する勢力、悪魔との戦いです。具体的には、偽教師たちが主張している、聖書の真理とは異なった「知識」(20,21節)が教会の中にまん延し、人々が正しい進行の道から外れてしまわないように、祈り、とりなし、みことばをもって偽教師たちに反論することです。そしてそれは、決して孤独な戦いではなく、神がともにおられ、主ご自身が敵を打ち破ってくださる勝利の戦いであって、テモテがそのことを信じ、恐れずに立派に戦い抜くようにと、パウロは願い、彼に命じているのです。「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで」(14節)。「キリストの現れの時」とはキリストの再臨の時です。主がそれを、ご自身が定められた時にもたらされるのであって、それがいつかは誰にもわからず、すでにパウロもテモテも天に召され、さらに2千年が経った今も、それはまだ起こっていません。しかし、今を生きる私たちもまた、キリストに贖われた聖徒として、パウロがテモテに命じていることを、自分のものとして受けとめ、守り抜くべきなのです。地上の歩みを終えた後に用意されている「永遠のいのち」を、悪しき者に奪われてはならないのです。パウロを通して語られた神のことばを、しっかり心に留めて歩みたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 6章1-10節◇(1月12日)

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」…1テモテ6:10

1-2節は奴隷に対する教えです。奴隷は当然ながら自分の主人に忠実に仕えることが求められますが、ある者たちはそのようにせず、問題を起こしていたのです。そこでパウロは、「自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません」と言って、そのような心を持つようにと説いています。そしてそれは、主人を与えてくださっている神への畏れと感謝から生まれるのであり、何よりも神に喜ばれることであり、そのことによって、神の御名があがめられ、主の教えが尊ばれるのです。3-10節では再び偽教師たちのことが取り上げられています。彼らは高慢で、議論によって自己満足し、ねたみ、争い、ののしりなど、肉の心から生じる悪いものによって、人々との間にさまざまな問題を起こしていました。パウロは、彼らが「知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たち」だと断じています(5節)。敬虔であるように見せかけても、それが利益を得るため、人々からの賛辞を受けるためであるなら、彼らは、主イエスが非難したパリサイ人と同じく、偽善者なのです。さらにパウロは、金銭を愛することがそのような悪の根であって、そのような者は悪しき者の誘惑と罠に陥り、神から引き離され、滅びと破滅に至るのだと警告しています(9節)。そのように、金銭を愛し、満ち足りた生活を得ようとするなら、それは、神ではないものに心を奪われる「偶像礼拝」にほかなりません。しかし神は、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして」神である主を愛することを求めておられるのであり(申6:5,マタ22:37)、どのような偶像をも、拝んだり仕えたりする対象としてはならないのです(出20:5,申5:9)。私たちは何を愛し、第一とし、何に拠り頼んで歩んでいるのでしょうか…。だれを畏れ、だれに仕え、感謝しているのでしょうか…。そのことを絶えず吟味し、神のみこころのうちを歩み続ける者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 5章17-25節◇(1月11日)

「ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。」…1テモテ5:24-25

教会における長老に対する扱いについて書かれています(17-19節)。長老とは信徒たちを指導・教育し、霊的な面で牧師を補佐する、信徒リーダーあるいは教職者です。彼らは「みことばと教え」、すなわちみことばを実践するよう人々に奨励し、学びを導く役割を担っていました。そのような彼らに敬意を払わず批判する者たちがいましたが(19節)、パウロは、忠実に務めを果たしている長老は2倍の尊敬(別訳:報酬)を受けるべきだと語り、申命記や民数記のみことばを引用しつつ(18節)、彼らに対してふさわしい処遇を与えるようにとテモテに命じています。「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい…」(20節)。牧会者として人々を指導・監督していたテモテにとって、神に背いて罪を犯している者の存在は、心を痛めるものでした。しかしパウロは、それらの者たちの罪を看過せず、毅然たる態度をもって人々の前で責めるよう命じています。それは見せしめではなく、そのことを通して、他の人たちが主の前にますます畏れをもって歩むようにするためであり、高い社会的地位にある者や教会の奉仕で実績を持つ者に対しても、先入観やえこひいきなく、厳格に対処するよう求められているのです。たとえ罪が人には知られていなくても、すべては神の目には明らかであって、悪いことも良いことも、後にはだれの目にも明らかとなるのです。「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません」と、主イエスが言われたとおりです(ルカ8:17)。その神を畏れ、主のまなざしを覚えつつ、神を喜ばせることを願いとし、みことばに忠実に聞き従って歩むことが、すべての時代の聖徒たちに対して求められているのです。私たちも、そのような成熟したキリスト者となることを祈り求め、御霊によって日々変えられたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 5章1-16節◇(1月10日)

「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。」…1テモテ5:1-2

今日の箇所にはやもめへの支援について書かれています。パウロは「本当のやもめ」とそうでないやもめに分け、身寄りがなく、望みを神に置き、絶えず祈りをささげている敬虔なやもめを教会は支援すべきであると語っています。当時、そうでないやもめの中には、神殿娼婦であった者もおり、たとえやもめという境遇にあっても、神の前に正しくあることを、パウロは求めているのです。子どもや孫がいるやもめについては、その者たちにやもめの世話をさせるべきだとパウロは教えています(4節)。母親が愛情をもって育ててくれた恩に報いて、また、祖母に対する敬愛の情を示してそのように関わることは、神のみこころであり、主に喜ばれることだからです。さらに若いやもめの中には、自立しようとせず、怠けて人に依存してばかりで、情欲に駆られたり、うわさ話をする者もいました。それに対してパウロは、若いやもめが再婚し、子を産み、家庭を築くことを願い、そのように指導するようにとテモテに求めているのです(13-14節)。1-2節でパウロは、年配の人には自分の親に対するようにさとし、若い人には自分の兄弟に対するようにさとし、「真に純粋な心」で勧めなさいとテモテに命じています。それは、老若男女の区別なく、すべての人に対し、神が願っておられるあり方、すなわち神のみこころを語り伝え、一人ひとりが主に喜ばれる者となり、神の国の祝福に豊かにあずかる者となるように願い求め、そのための指導にあたりなさいということです。そして、そのような心を持つことは、テモテだけでなくすべての聖徒たちが求められているのであり、まず自分自身に対して「勧める」、つまり肉なる自分にそのことを言い聞かせ、神の教えに聞き従わせることが大切なのです。御霊の助けと導きを受け、そのような者として歩みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 3章◇(1月8日)

「たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」…1テモテ3:15

3章には監督と執事の働きに就く者に求められる資質が記されています。監督とは、教会の信徒が霊的に成長するように教え導く者であり、牧師など、羊を守り育てる羊飼いとしての役目を担う立場の者を意味しています。監督には、教会内外での良い評判、自制心、慎み深さなどを持ち、柔和で、金銭に無欲で、家庭をよく治める夫かつ父親であることなどが求められています(1-7節)。また執事とは、教会の中で実際的な働きを担い、監督が霊的な事柄に専念できるよう、補佐する立場の者です。初代教会において、食事の配給のことで問題が起こり、弟子たちはその解決のために奉仕者を立てて任せましたが、それが執事を意味しているのです(使6:1-6)。パウロはなぜここでそのことに触れているのでしょうか。当時、霊的な成熟に達していない者たちが、人間的な思いからそれらの職に就くのを求めたために(1節)、教会に混乱が生じ、テモテを悩ましていたからです。しかし、言うまでもなく、教会は、誰かが人から注目されたり、自己実現を果たしたりするところではありません。教会は、キリストを土台また柱とする生ける神の家であって(15節)、聖徒たちがそれを構成するさまざまな部分として加えられ、機能し、主ご自身によってその全体が建て上げられていくのであり、そこではただ主の御名があがめられ、すべての栄光は神に帰されるのです。そして、神が、人間的に見れば求められる資質には至らない者たちをそこに置き、ご自身の栄光のために尊く用いてくださるのであって、それは監督や執事に限らず、すべての聖徒たちに当てはまることなのです。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われる主にすべてを明け渡し、神と人々に対して、感謝と喜びをもって、忠実に仕える者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 2章(1月7日)

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」…1テモテ2:1

「そこで」と前置きし、パウロは、すべての人のために、王たちと高い地位にある人たちのためにとりなすよう、テモテに命じています。1章では、誤った教えを説く偽教師たちや、健全な良心を捨てて信仰を失った者たちのことが言及されていましたが、そのような霊的危機に際し、「そこで」と、すべての人が救われて神に従うよう、祈ってとりなすことを、パウロは求めているのです。そしてその中で、社会的地位を持った者たちの救いと祝福をとりなすことは、自分たちの日々の生活が平穏になり、敬虔に歩むための環境を得ることにつながるのだと、パウロはその大切さを語っています(2-3節)。4節のみことばは、神のみこころはすべての人が救われて真理を知ることだという意味ですが、同時に、「すべての人」のために、聖徒たちが、神と人との間の仲介者、キリストの弟子として、同じように、すべての人の救いと祝福のためにとりなすべきだ、という勧めでもあるのです。8節以降では、男性と女性に対するそれぞれの教えが語られています。そのことばを表面的に捉えれるなら、女性に対して、「静かにしていなさい」、「女はだまされて過ちを犯した…」など、パウロの女性蔑視発言に思えますが、そうではなく、彼は、必要以上に華美な身なりをし、思いと行ないにおいて聖徒としてふさわしくない女性や、男性を言い負かし、上に立って支配しようとする女性を戒めようとしているのです(12節)。神が定めた正しい秩序を覚えるよう命じているのです(創2:18-25)。テモテはそのように、教会が混乱しないようにと、牧会的指導をパウロから求められました。そしてそこにも、まず、祈りととりなしが不可欠なのです。人間的にではなく、霊的に捉えて対処することが求められるのです。それは私たちの日々の歩みにおいても同じです。祈り、とりなし、主の介入を待ち望む者でありたいと思います。

祈りに主が答えてくださいますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 1章12-20節◇(1月6日)

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」…1テモテ1:15

11節で、私は神から福音を委ねられた、と語ったパウロは、12節でも「キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださった…」と、感謝をもって語っています。しかし彼は、救われる前には、暴力をふるってキリスト者たちを迫害し、次々に牢に入れていたのです。そのパウロは、さらに聖徒たちの殺害の意に燃えてダマスコへ向う途中、突然天からの光に照らされて倒れ、視力を失い、「なぜわたしを迫害するのか…わたしはあなたが迫害しているイエスである」という声を聞き、その体験によって180度変えられた彼は、イエスは神の子だと宣べ伝えるキリストの使徒とされたのです(使9:1-22)。パウロはそのことを思い出しつつ、私はあわれみを受けた、それはキリストがこの上ない寛容を自分に示し、自分を先例として、罪から救われて永遠のいのちを得る人々を起こすためであった、と告白しています(16節)。多くの聖徒たちを、そして主イエスご自身を迫害していた自分は何と罪深い者か…。自分の罪は極めて重く、神のさばきは免れない…。ところが神はそんな自分を愛し、あわれみ、恵みによって救ってくださった…。パウロは自分のことをそう受けとめていました。だからこそ、キリストは罪人を救うために来られた…私はその罪人のかしらである…と彼は告白したのです。そして強い使命感をもって、主から与えられた務めを全うしたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。パウロのように迫害などせず、劇的な回心は経験しなかったでしょう。しかし主は、神に背を向けて身勝手な歩みをしていた、罪深い私たちにも愛とあわれみを注ぎ、キリストにあって、恵みによって、その罪の中から救い出してくださったのです。私たちも、そのことを覚えて主に感謝をささげ、使命感をもって、委ねられている務めを忠実に果たす者でありたいと思います。

感謝と喜びがいつもありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 1章1-11節◇(1月5日)

「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。」…1テモテ1:5

この手紙は、晩年のパウロが「信仰による、真のわが子」と呼ぶ、彼の弟子であり同労者でもあるテモテに宛てた手紙です。パウロはアジアのエペソからエーゲ海を渡ってマケドニアへと宣教の旅を進めましたが、テモテはエペソにとどまり、ある人たちが間違った教えを説いたり、主のみこころではないことに関心を寄せたりしないよう命じなさいと、パウロから指示されたのです(3-4節)。8-11節では律法の意義が語られています。当時、律法も含めて、さまざまな教えを議論することが目的化し、そのような空虚な歩みをして、神が願っておられることを実践しない者たちが多くいたことが示唆されています。律法は、罪と悪と不法の中にある者たちに、それが正しくないことを強く自覚させ、彼らを神に立ち返らせるための教師、キリストへと導くための養育係としての役割を持っているのであって(ガラ3:24)、律法はもちろん悪いものではなく、そのように適切に用いられることによって人々に救いをもたらす、良いものなのです。「祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです」(11節)。律法について語ったパウロは、そのように言っています。そのことばから、パウロがテモテに対して、偽教師たちと対決し、彼らを打ちのめすことを願っていたのではないことをあらためて教えられます。パウロは5節でも、彼らがきよい心、健全な良心、偽りのない信仰から生まれる愛を持つことを目標としていることを、エペソ教会の牧会を託したテモテに伝えようとしているのです。「祝福に満ちた神の栄光の福音」…。それは主イエスが、至るところで多くの人々に宣べ伝えた「神の国の福音」にほかなりません(ルカ4:43)。その主の働きを継続すべく、パウロが、テモテが、そして多くの聖徒たちが、それぞれ置かれた所で、委ねられたその福音を伝えていったのです。私たちもその働きの一端を担っていることを覚え、さらに主に用いられる者とされたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 110篇◇(1月4日)

「あなたの右におられる主は 御怒りの日に 王たちを打ち砕かれる。国々をさばき 屍で満たし 広い地を治める首領を打ち砕かれる。」…詩篇110篇5-6節

この詩篇はダビデの作とされています。彼は、来たるべきメシアが永遠に王であり祭司であることを、預言的に語っており、そのことばはしばしば引用されています。「主は 私の主に言われた。『あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで』」(1節)。キリストはだれの子か、と主イエスがパリサイ人たちに尋ねると、彼らは、ダビデの子だと答えましたが、主はこの1節を引用し、ダビデがキリストを「私の主」と呼んでいるなら、キリストはダビデの子ではあり得ないと言われました(マタ22:41-46)。その「私の主」、すなわちキリストに対して、「私の右の座に着いていなさい」と言われた主(新改訳聖書において太文字となっている「主」)とは、ヤーウェ、すなわち父なる神であり、キリストはその神の御子なのです。「『あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である』」(4節)。ヘブル人への手紙の著者は、この4節のことばを引用しつつ、「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」と言っています(ヘブ5:6-7)。キリストは、すべての人が罪から救われるために、とりなし、祈り、ご自身を完全ないけにえとして神にささげられた偉大な大祭司であられ、その贖いのゆえに、私たちは罪赦され、救われているのです。「あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える」(3節)。主イエスは弟子たちに、「世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われました(ヨハ16:33)。永遠の王なる主が主権をもって治めておられること、大祭司なる主がとりなし続けておられること、勝利者なる主が私たちをも「圧倒的な勝利者」(ロマ8:37)としてくださることを覚えつつ、主に喜んで仕え、従っていきたいと思います。

恐れずに進む勇気が与えられますように。

◇聖書箇所:詩篇 109篇◇(1月3日)

「しかし 神よ 私の主よ あなたは 御名のために 私にみわざを行ってください。 御恵みのすばらしさのゆえに 私を救い出してください。」…詩篇109篇21節

詩人は1-5節で、悪者から受けている仕打ちを神に訴えています。「彼らは 善に代えて悪を 愛に代えて 憎しみを 私に返しました」(5節)。詩人にとってそれは、まったく理不尽なことでした。なぜなら、彼は彼らに対して、愛と善をもって接しているにもかかわらず、彼らは逆に憎しみと悪をもって挑んで来るからであり、それが「ゆえもなく」なされていると感じていたからです。そのような彼らに対し、詩人は神のさばきを求めます。「子どもたちはみなしごとなり 妻はやもめとなりますように」(9節)。彼は、悪者のいのちが奪われるようにとさえ願うのです。それは、詩人がそれだけ切羽詰まった状況にまで追い込まれていたことの表われに違いありません。しかし詩人は感情的になることなく、義であられる神が、彼らの咎に対して正しいさばきをされ、ふさわしい報いを与えられるよう願っているのです(14,20節)。「私の神 主よ 私を助けてください。あなたの恵みによって 私をお救いください」(26節)。詩人は、あらためて「私の神 主よ」と呼び掛けています。彼にとって神は、人生の全領域を支配し導いておられる、全能者であり主権者であって、彼は、その神への揺るがない信仰をもって、苦難の中から主を呼び求めているのです。「私はこの口で 大いに主に感謝し 多くの人々のただ中で 主を賛美します」(30節)。詩人が置かれている状況、目に見える現実はまだ変わっていません。しかし彼は、神の介入により、悪者の呪いが取り除かれ、彼らが恥を見る一方で、自分が神の祝福にあずかり、喜びが取り戻されることを先取り感謝し、主に賛美をささげているのです。「主が貧しい人の右に立ち 死を宣告する者たちから彼を救われる」と、神の救いを宣言しているのです(31節)。私たちも理不尽と思える苦難の中に置かれることがありますが、神よ、私の主よ、と御名を呼び求め、主の救いを信じて、先取り感謝したいと思います。

主への信仰がますます強められますように。