◇聖書箇所:テモテへの手紙 第二 3章◇(2月26日)

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」…2テモテ3:16

1~9節において、パウロは、終わりの日が近づくと、人々がさまざまな罪と悪に満ち、汚れた者、不敬虔な者、欲望に満ちた者になると告げ、そのような者たちを避けるようにとテモテに命じています。神の真理に逆らう彼らの愚かさは、誰の目にも明らかであって、信仰の失格者である彼らを、主は決して放置されないのです(9節)。一方パウロは、テモテに対し、自分の教えや生き方から学び、同じ信仰や愛や忍耐を持っていること、また、アジアでの宣教における多くの迫害や苦難にも耐え、自分について来てくれたことを称賛しています(11節)。そして、そのような中でも、主がそのすべてから救い出してくださったことを覚え、今の困難な状況にあっても、恐れ退くことがないようにと、彼を励ましているのです。さらにパウロは、どのような苦難にあっても、それまで教えられ、与えられた確信をしっかりと握って、そのところにとどまるように、信仰に堅く立つようにと、テモテに命じています(14節)。そのように、神の霊感によって書かれた神のことばは、すべての人に知恵と導きを与え、真理に目を開かせ、キリストにある救いへと導くものであり、また、人々が救われて聖徒とされた後も、主の働きに間に合う者として整えるために、有益な訓練をもたらすものであるのです。その聖書のことばは、時代を越え、国を越え、私たちの元にも届きました。そして、そこに書かれている救いの良き知らせを知り、その約束を信じた私たちは、キリストに贖われ、主の弟子、聖徒として加えられたのです。私たちもまた、そのみことばによって、さらに日々教えられ、戒められ、主の道から外れることがないよう、矯正されるべきなのです。悪と闇がますますこの世界を覆っていく今の時代にあって、神のことばによって十分に整えられ、主の働きのために間に合う者、主に用いられる者とされたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第二 2章14-26節◇(2月25日)

「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」…2テモテ2:15

今日の箇所においてパウロは、人々が、人の徳を建てることば、益となることば、真理に根差したことばを語らず、俗悪な無駄話をし、特に偽教師と呼ばれる者たちが、無益で、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばの論争に明け暮れていることを、大きな問題として指摘しています。それによって人々は、真理の道から外れ、不敬虔になってしまい、ある人たちは、約束されている聖徒の復活はもう起こったと聞かされ、持っていた信仰が揺さぶられ、くつがえされてしまっていたのです(18節)。そのような者たちに対して、パウロは、牧会者であるテモテが適切に対処することを望み、そのようなことをやめるよう、神の御前で彼らに厳かに命じなさいと伝えています(14節)。そして、テモテが、主の務めにふさわしい者として、ますますみことばをまっすぐに説き明かし、すべてを主に献げて最善を尽くすよう願っているのです。一方でパウロは、テモテがすべての人に対して優しくし、忍耐をもって誠実に関わり、丁寧によく教え、それに対して反論する者たちにも、柔和な態度で教え導くようにと命じています。そしてそれは、そうすることにより、神がその者に悔い改めの心を与えられ、霊の目を開いて真理を悟らせ、悪しき者の手から逃れることができるようにしてくださるという望みがあるからなのです。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」(エペ4:2-3節)。そのような態度は私たちにも求められています。主に従おうとしない者をさばくのではなく、真理のみことばを語り続け、御霊によって霊的な一致が与えられよう主に祈りつつ、謙遜と柔和と忍耐をもって、最善を尽くすべきなのです。そのようにして、主の働きのためにますます用いられていきたいと思います。

望みを抱いて進むことができますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第二 2章1-13節◇(2月24日)

「ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。」…2テモテ2:10

「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください」(3節)。パウロは、さまざまな困難の中で弱気になっているテモテに対し、「兵士」ということばを用い、福音宣教の働きには、それを妨害しようとする悪しき勢力との霊的な戦いが伴うことを示唆し、また、自分に与えられたその尊い務めを忠実に全うする者、「兵を募った人」、すなわち兵士に召してくださった主を喜ばせる者であってほしいと願っています(4節)。次にパウロは、「競技をする人」、「労苦している農夫」について述べ、彼らが栄冠を得、収穫を得るためには、訓練を積み、規定に従って競技し、また、畑を耕し、種を蒔いて日々世話する必要があること、すなわち、一朝一夕にはそうなれない、ということを強調しています。さらに彼は、「次のことばは真実です」と言って、テモテがそのことばを心に留めるよう、また人々に思い起こさせるように命じています(11~13節)。そのことばがどこからの引用なのかは不明ですが、いずれにしてもパウロはテモテに、自分の弱さから目を転じて、真実である方、キリストに目を向けるよう促しているのです。「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。」そこでもパウロは、忍耐することの大切さを訴えています。そして、すべてのことを、神に選ばれた人たち、残された人たち、すなわち、救われるべき人たちのために耐え忍んでいる、今も鎖に繋がれつつ主を待ち望み、とりなし続けている自分に倣う者となってほしいと、愛弟子であるテモテに訴えているのです。私たちも、苦難の中に置かれるとき、すべてを捨ててそこから逃げ出したくなるような思いになることがありますが、忍耐をもって、常に真実であるお方を待ち望みたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第二 1章◇(2月23日)

「そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」…2テモテ1:12

パウロが、彼の弟子であり同労者であるテモテに宛てたこの手紙は、パウロがローマで処刑される前に獄中で書いた最後の手紙です。死が目前に迫る中、パウロは、弱気になっているテモテに対し、信仰に堅く立つように、賜物を燃え立たせるようにと、励ましを与えています。「ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません」(8節)。その前の7節には「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました」とあって、「ですから」ということばはそれを受けているのです。恥とする…。そこには、人の目や声を気にし、周囲からばかにされたくないという思いがあります。また臆病とは、すなわち何かへの恐れであり、避けようとする心です。そのときテモテは、人々に拒絶されるのを避けたいと願い、また、パウロのように自分の身に危険が及ぶのではないかと考え、福音の宣教に対して、いつのまにか消極的な態度を取るようになってしまっていたのです。しかし、パウロにとっては、恥じるもの、恐れるものは何もありませんでした。それは、主イエスが、計画と恵みをもって、永遠の昔から自分を選ばれ(9節)、ご自身のいのちをささげ、罪の中から贖い出し、福音の宣教のため、神の国の拡大のために用いてくださっているということを、よく知っていたからです。そして、終わりの日には義の栄冠が自分のために用意されていると、信じて疑わなかったからです。私たちもテモテのように恥じたり、恐れたりすることがあるかもしれません。しかし、聖徒たちに力と愛と慎みをもたらす御霊は、確かに私たちのうちに住んでおられるのです。自分の力ではなく、その御霊の力と助けと導きによって、自分に与えられた召しを最後まで全うさせていただきたいと願います。

主にますます拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所:申命記 30章◇(2月22日)

「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」…申命30:14

1節に「主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中」とありますが、それは、イスラエルの民が、住んでいる土地を追われて、他の国々に連れて行かれる、その異邦の地を指しています。このことばが語られたのは、民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入る直前のことですが、そのように、人々が捕囚の民となる将来のことがすでにこのときに預言的に語られているのです。また、3節には「主はあなたを元どおりにし」とありますが、新改訳2版では「主は、あなたを捕われの身から帰らせ」と訳されています。主の民が、主に立ち返り、心を尽くし、いのちを尽くして主の御声に聞き従うならば、主はそのようにして、散らされた人々を集め、捕囚の地から自分たちの国へと、連れ戻してくださるのです。主は、ご自身の命令、すなわち教えと掟は、決して理解し、実行するのが難しいものではないと言われています(11節)。またそれは、天にあったり、海のかなたにあって、それを容易に知ることができないものではないのです(12,13節)。主のみことばは、学問として探求する難解なものではなく、民のすぐ近くにあり、口にあり、心にあり、日々の生活の中で、素直に従って実践すべきものであって、それに聞き従うすべての者が、主からの祝福、いのちと幸いを得るために与えられているのです。キリストは、罪の奴隷、捕われの身であった私たちを救い出し、解放し、奪われていた自由と喜びと希望を取り戻してくださいました。そのようして主の民に加えられた私たちに対しても主イエスは、ご自身のみことばを守り行うよう求めておられるのです。それは主を愛することであり、主もその人を愛し、その人のところに来て、その人とともに住む、と言っておられるのです。また、御霊がすべてのことを教え、みことばを思い起こさせてくださると約束されたのです(ヨハ14:23,26)。感謝しつつ、その一つ一つのみ教えに従って歩みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 29章◇(2月21日)

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」…申命29:29

主は、荒野の歩みを終えて約束の地に入ろうとしている民に対して、モーセを通して与えた律法は、民と結ばせた契約であって、そのことばを守り行うなら祝福され、繁栄がもたらされ、そうでないならのろわれ、断ち滅ぼさてしまうと告げ、あらためて注意を喚起しています。「しかし私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いを結ぶのではない」(19節)。そしてその契約は、そのときの世代の者だけでなく、彼らの子孫に対しても有効であって、それらの者たちが主の道から外れてしまうことがないように、契約を忘れずに歩み続けるように、自分たちの次の世代へ、さらに次の世代へと、リレーのようにして教え伝えていくことが求められたのです。しかし中には、「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」…と言う者がいました。それは、神は私の心の中までわかるはずがないと考える、神を侮る者であり、偶像の神が守ってくれるはずだと、それに頼って仕える不遜な者であって、主は、そのような者を容赦されないのです。怒りを燃やされ、その者の名、すなわちその存在を、天の下から消し去ってしまわれるのです(20節)。神の御思い、神のご計画のすべてを、私たちは測り知ることはできません。それは隠されていて、主はみこころのままに、私たちを取り扱われるのです。しかし、だからと言って、私たちは操り人形のようにされて歩むわけではありません。主は、イスラエルの歴史において多くのみわざを現わされ、また、祝福とのろいを契約として与え、その上で、私たちが、その現わされたことから何が正しいかを悟り、「契約の民」として、教えに従って歩むようにと求めておられるのです。自由意志が与えられている私たちは、主が喜ばれる道の選択を、日々重ねていく必要があるのです。御霊の助けと導きを受けつつ、そのように歩み続けて行きたいと思います。

ますますへりくだって歩むことができますように。

◇聖書箇所:申命記 28章38-57節◇(2月19日)

「あなたは包囲と、敵がもたらす窮乏のために、あなたの神、主が与えてくださった、あなたの胎の実である息子や娘の肉を食べるようになる。。」…申命28:53

昨日に引き続き、主ののろいが告げられています。38~42節には、木の実や畑の実りが、落ちたり虫に食われたりして収穫できない状況、また、子どもが産まれても、奪い去られて自分のものにできない状況が記されています。そしてそれは、民が主の御声に聞き従わず、主の命令と掟を守らないからだ…と書かれ(45節)、主への不従順がのろいの原因であることが強調されているのです。また、49~57節では、遠くの異国の民が来襲し、国の中の町々を包囲し、主の民はその中に閉じ込められるために食糧が欠乏し、ついには自分たちの子どもの肉を食べるようになるという、おぞましいことが告げられています。そしてそのような状況になると、ふだんは優しく上品な者たちも、自分が生き延びることだけを考えるようになり、物惜しみして誰にも何も分け与えようとせず、本能のままにふるまう動物的な者に豹変するのです。そのような描写に触れても、自分たちには起こり得ないこと…と多くの人は考えるかもしれません。しかし、主ののろいの本質は、人のうちにある罪の性質が顕著に表われ、自我や肉欲がむき出しになるということであって、そこは、光ではなく闇が満ち、いのちではなく死が支配しているところなのです。神の統治、神の国の祝福からかけ離れた領域であり、私たちもまた、主の御声に聞き従わないなら、主の教えを守り行わないなら、いつのまにかそこに迷い込んでしまうことが起こり得るのです。「受けるよりも与えるほうが幸いである」と主は言われました(使20:35)。主の教えは、自己中心、身勝手さ、むさぼりとは正反対のあり方であり、主は実際にそのように歩まれ、十字架にまで至る道を全うされたのです。自らのいのちをもって私たちを贖ってくださったのです。そしてそれは、エデンの園の回復、神の国の完成という、主の救いのご計画の中にあることなのです。その祝福にあずかっていることをあらためて感謝したいと思います。

主の確かな守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 28章15-37節◇(2月18日)

「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。」…申命28:15

昨日の箇所、1~14節に書かれている主の祝福の約束とは打って変わって、主ののろいが告げられています。そしてそれは、この章の最後、68節まで延々と続いています。読んでいると気が重くなってきて、思わず読み飛ばしたくなるような箇所です。しかし、祝福とのろいの象徴として、シェケムの町の南北にゲリジム山とエバル山があったように、主は、御自身のことばを聞く者が、主の祝福とのろいの両方を知るようにと願っておられるのです。「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる」。「あなたのかごも、こね鉢ものろわれる」。「あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる」(16,17,19節)。そのようにのろいは、祝福の場合と同じ表現で、祝福がのろいに置き換わる形で告げられています。その強い対比によって、聞く者は、祝福とのろいがもたらす結果が、いかに大きく異なるものであるかということを、畏れをもって知ることとなったのです。「根絶やしにされて、たちまちにして滅びる」。「あなたを絶ち滅ぼす」。「あなたが滅びるまで、あなたを追いかける」。「あなたは根絶やしにされる」…(20-22,24節)。それらが意味するのは「死」です。いのちの源なる主から見捨てられ、見放され、切り離され、霊的にも肉体的にも、いのちを失うことなのです。「わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます」(ヨハ15:6)。主イエスもそう言われました。主にとどまる…主に繋がり続ける…主の愛にとどまり、主の戒めを守り行う…。そのようにして人は真のいのちを得、永遠に生きる者とされるのです。そしてそれは、神の国の祝福にほかならないのです。その祝福にあずかり、主にあって生きる者とされている幸いを覚え、感謝したいと思います。

ますますしっかりと主に繋がる者とされますように。

◇聖書箇所:申命記 28章1-14節◇(2月17日)

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。」…申命28:1

今日の箇所である1~14節には、主の祝福の約束が書かれています。「地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる」(1節)、「祝福があなたに臨み、あなたについて行く」(2節)とあり、その祝福の前提条件として、「私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら」、「あなたの神、主の御声に聞き従うので」と告げられています。そしてそれは、その後の節でも繰り返され、その大切さが強調されているのです(9,13,14節)。3節以降に、その祝福がより具体的に告げられています。祝福はその人自身だけでなく、飼っている家畜が産むもの、群れの中の子牛などにも及ぶのです。また、豊かな収穫や繁栄だけでなく、向かい立つ敵が敗走させられ、その攻撃から守られるという形で与えられるのです。そしてそれは、主がその人を、ご自身の聖なる民として守り、養い、導くということであり、主の祝福とは、そのように、御自身の御声に聞き従う者を喜ばれ、そこにもたらされる、特別な好意、恵みにほかならないのです。10節には、「地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう」とあります。それは、その人が聖なる民とされ、主の祝福を受けているのを見て、その人に、そしてその人が信じて仕えている主御自身に対して、畏れを抱くということです。そのように、主の民が祝福されるなら、そのことを通して、主の御名が周りに知らしめられることになるのです。その祝福は、キリストに贖われ、神の民とされている私たちにも与えられています。そしてそれは、アブラハムの契約の成就です。私たちは律法をすべて守り通すことはできませんが、その精神を尊び、律法を成就されたキリストの教えに従い、キリストを信じる信仰によって、神の国の祝福にあずかることができるのです。その祝福を通して、人々に主を証ししていきたいと思います。

主の祝福を押し流す者とされますように。

◇聖書箇所:申命記 27章◇(2月16日)

「『このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい。」…申命27:26

モーセとイスラエルの長老たちは、民に対して、ヨルダン川を渡って約束の地に入った後、エバル山に石の祭壇を築き、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ、また、大きな石を立ててそれに石灰を塗り、その上に主のすべてのみおしえを書き記すよう命じました(1-8節)。そのエバル山とゲリジム山のことはすでに語られており、ゲリジム山の上には祝福を、エバル山の上にはのろいを置くよう定められていました(11:29)。12,13節では、12部族が2グループに分かれ、民の祝福とのろいのために、その2つの山にそれぞれ立つようにと命じられています。そのようにして主は、いよいよ約束の地に入る直前、あらためて、どちらを選択するのかと民に迫ったのです。14~26節は、レビ人が民に告げた「のろいの宣言」です。「~者はのろわれる」という同じ表現を使って12のことが挙げられており、十戒の内容や(15,16,24,25節)、性的な罪(20-23節)が含まれています。そしてそれを聞いた者はみな、「アーメン」、そのとおりです、そのような者が主からのろわれることを受け入れます…と言って応答したのです。しかし「このみおしえのことば」(26節)とは、すべての律法であって、それを守り通せる者などいないのです。パウロはこう言っています。「律法の行ないによる人々はみな、のろいのもとにあります。…律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。…」(ガラ3:10-11)。そのように罪を持ったすべての人のために、キリストは、私たちの代わりに、十字架、すなわち木にかけられ、のろわれた者となることによって、私たちを律法ののろいから解放し、贖い出してくださいました(ガラ3:13)。そのことを信じる信仰によって、私たちは神から義と認められているのです。のろいではなく祝福を受ける者とされているのです。そのことを覚えて、主をあがめ、主に栄光を帰す者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:申命記 26章◇(2月15日)

「あなたは今日、この主をあなたの神とし、主の道に歩み、主の掟と命令と定めを守り、御声に聞き従うと誓約した。」…申命26:17

16~19節は、5章から続いてきたのモーセのことば、すなわち主がモーセを通して民に命じられた、さまざまな掟と定めの結びの部分です。そこには「今日」ということばが3度繰り返されています。主はその日を、民がご自身の御声に聞き従う者となることをあらためて決断し、誓約する、特別な日にしようとされたのです。そして主は、そのことにあたり、「告白」をするように民に命じられましたが、それは、5~10節に書かれてあるとおり、父祖ヤコブが息子たちとその家族を連れてエジプトに下って寄留し、その子孫の数が増えて強大な民となり、恐れを抱いたエジプト人によって奴隷として虐げられ、その苦難の中での叫びを聞かれた主が、しるしと不思議をもって民をそこから連れ出し、乳と蜜の流れる約束の地に導き入れてくださったという、イスラエルの民の歩みにおける主のみわざにほかなりませんでした。その「告白」を民が主に対してするということ…。それは、人間的に考えれば、わかりきったことであり、意味のないことにも思えます。しかし主は、民が決断と誓約をしようとするその特別な日を迎えて、あえてそのようにせよと命じられたのです。そしてそれは、主がいかに偉大なお方であるかを民が思い起こし、それを自らの口をもって語り、そのことばを自らの耳で聞くということを通して、その主のみわざを単なる「知識」として持つのではなく、からだ全体で受けとめ、覚え、追体験するという意味合いがあったのです。そしてそれは、その日だけでなく、民の歩みにおいて、世代を越えて繰り返しなされ続けたことなのです。私たちもまた、主がなされたみわざ、主の約束を告白すべきです。それは、賛美や祈りと本質的に同じであり、私たちの感情や置かれた状況によらずに主に差し出すべき、「いけにえ」であるとも言えます。そのように、絶えず主に、信仰の告白をする者でありたいと思います。

主との深い交わりを持つことができますように。

◇聖書箇所:申命記 25章◇(2月14日)

「四十までは彼をむち打ってよいが、それ以上はいけない。それ以上多くむち打たれれば、あなたの同胞はあなたの目の前で卑しめられることになる。」…申命25:3

1~3節には、むち打ちの刑についての規定が書かれています。争い事が起こり、裁判が開かれ、非があるとの判決を受けた者がむち打ちの刑に処せられる場合には、さばき人によってその罪の重さに応じた回数だけむち打たれましたが、その上限は40回と定められていました。この教えに対して、イスラエルの民は、むち打つ回数を間違えて40回を越えてしまうことがないように、1つ手前の39回で止めることにしていました。パウロも実際に自分がそうされたことを記しています(2コリ11:24)。そのように、40回を越えてむち打つことを主は禁じられました。3節にはその理由として、同胞(兄弟:3版)が人々の前で卑しめられないようにするためだとあります。つまりそれは、罪を犯した悪い者であっても、人としての尊厳が失われないようにする、またその者が共同体の中から永久に追放されないようにという、主のあわれみ、配慮、守りが与えられていたということです。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」(イザ53:5)。イザヤのその預言のとおり、キリストはむち打たれ、その肉体は砕かれました。それを行ったのはローマ軍の兵士であり、彼らにとってこの申命記の規定は無関係だったに違いありません。そして主イエスは、瀕死の状態で十字架を自ら背負い、ゴルゴダの丘に上って十字架にかかられ、神への背きの罪を犯した全人類のために身代りとなって死なれ、3日目に復活し、私たちの贖いを成し遂げられたのです。そしてそれは、私たちに罪からの赦し、癒しと解放と平安がもたらされるためであったのです。罪のないキリストによるその救いのみわざの中にも、私たちに対する神の愛とあわれみと守りがあったことことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

救いの喜びが心にありますように。

◇聖書箇所:申命記 23章◇(2月12日)

「異国人からは利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福されるためである。」…申命23:20

1~8節には、主の集会に加わる資格が規定されています。アンモン人とモアブ人にはその資格がありませんでしたが、それは、荒野を旅するイスラエルの民を迎えず、呪いをもたらそうとしたからであり、主はその呪いを祝福に変え、ご自身の民を守って養われたのです(4-5節)。19~20節には、利息の取り立てについての規定が書かれています。金銭だけでなく食物においても「貸す」という習慣は、元々イスラエルの民にはなく、カナン人の習慣をまねようとしたとも言われていますが、ここでは、異国人に対してはそのようにしてもよいが、同胞にはするなと命じられています。そしてそれは、主が民のすべての手のわざを祝福されるためであるというのです。そのように、主は、わたしはわたしの民を必ず祝福する、だから必要が生じても心配したり、思い煩ったりするな、同胞からまで利息を取って儲けようなどという、人間的なことを考えるな、わたしの恵みはあなたがたに十分にある、だからただたしに信頼せよ…と言われたのです。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」(マタ6:8)。主イエスは、異邦人のように同じことばをただ繰り返して祈っている者を批判して、そう言われました。そのように主は、ご自身の民に対して、この世の価値観、人間的な考えに基づいて行動するのではなく、祝福をもたらし、必要を満たすご自身に、心を向け、ただ信頼して歩むようにと求めておられるのです。私たちもまた、キリストに贖われ、信仰によるアブラハムの子孫、契約の民とされています。そのことを覚えて、ますます主に拠り頼み、主の祝福にあずかり、その祝福を周りに押し流す者とされたいと願います。

神の国と神の義を求め続けることができますように。

◇聖書箇所:申命記 22章◇(2月11日)

「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。」…申命22:2

21~12節には、さまざまな規定が書かれており、5節には、「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の衣服を着てはならない」とあります。おそらくそれは、例えば男性が赤い衣服を着るという程度のことではなく、女性用として作られたものを意図的に身に着けて快感を得る、というようなことに言及しているのだと思われます。なぜならそれは、主の創造の秩序と定められた性を無視し、あくまで自分の欲望を押し通そうとすることであり、そのような心の者を主は忌み嫌われるからです。13~30節には、男女間における性的な不品行や犯罪について書かれています。そこにはさまざまなケースが挙げられていますが、いずれの場合も、肉の思いに支配され、自らの好みを押し通し、性的欲望を満たそうとする身勝手な行動であり、そのような者もまた主は忌み嫌われ、石打ちの刑という厳罰に処するよう命じているのです。「その悪い者を除き去りなさい」(21,22,24節)。21章21節にもそのことばが書かれています。主のみこころは、民に与えるゆずりの地から、またご自分の民の中から、悪と汚れを取り除き、聖なるものとして保つことなのです。そしてそれは、聖なるお方である主にとって、いつの時代においても変わらない強い願い、御旨なのです。私たちは、キリストの贖いによって義と認められた者です。キリストの血潮によって罪を赦され、きよめられ、神の目に正しい者とされています。今日の箇所に書かれているような行動に走ることはないでしょう。しかし、主の教えに聞き従わず、自分の肉の思いを優先させ、欲望を満たそうとするならば、主はそのようなあり方を良しとされないのです。この世の価値観はますます神のみこころから離れていきますが、この世と調子を合わせず、主が願っておられる、聖徒としてふさわしい生き方を、しっかりと貫き通したいと思います(ロマ12:2)。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 21章◇(2月10日)

「町の長老たちに、『私たちのこの息子は強情で逆らいます。私たちの言うことに聞き従いません。放蕩で大酒飲みです』と言いなさい。」…申命21:20

18~21節には、父母に従わない子についての教えが書かれています。その子は、父や母の言うことを聞かず、懲らしめられても一向に改めようとしない「強情で(かたくなで:3版)逆らう」者であって、手に負えない両親がその子を町の長老たちのところに連れて行き、その旨を訴えると、その子は長老たちだけでなく、町の人々によって石打ちにあい、殺されなければならなかったのです。そのような適用は出エジプト記にも書かれており、自分の父または母を打ったりのろったりする者は、必ず殺されなければならない」とあります(21:15,17)。それは主の律法ですが、あらためてその厳しさに心が留まります。また、一人の親不孝者の問題を、全体のこととして受けとめる、民の連帯意識についても教えられます。現代であれば、逆に親や人々が、人権侵害、殺人の罪に問われることになるでしょう。しかし主は、親の権威を認め、親の言うことに聞き従うことを求められたのです。私たちはそんな強情で逆らう子ではなかった…と、この律法を自分とは無関係のように思うかもしれません。しかし私たちは、天の父である神の権威を認めず、神に逆らい、好き勝手に生きていた「放蕩息子」であり、そのことのゆえに、さばきを受けるべき存在であったのです。しかし、死刑にあたる私たちのその罪過を、ご自分が身代りとなって負うために、キリストは石打ちの刑ではなく、十字架刑のための木にかけられ、のろわれた者となってくださったのです(23節)。そのことによって私たちが無罪となるようにし、私たちを律法ののろいから贖い出してくださったのです(ガラ3:13)。そしてそれは、アブラハムへの祝福が、イスラエルの民だけに留まらず、キリストによって私たち異邦人にも及ぶためであったのです(同3:14)。そのことを覚え、主に感謝するとともに、ますます主に従順に聞き従う者とされたいと願います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 20章(2月9日)

「女と婚約して、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰るがよい。戦死して、ほかの人が彼女と結婚するといけないから。」…申命20:7

1~4節には、敵と戦うときの教えが書かれています。モーセは民に、あなたがたをエジプトから連れ上った神がともにおられるのだから、自分たちより数の多い軍勢を見ても恐れるなと命じ、さらに、戦いの際には祭司が民の前に出てそのことを告げ、主が敵と戦って勝利を得させてくださると語って、民を励ますよう命じました。そのように勇敢に戦うよう鼓舞される一方で、民の中には、戦わずに家に帰ることを認められる者たちがいました(5~8節)。それは、家を新築した者、畑を作って未収穫な者、婚約中の者であり、戦いで戦死して他者にその立場を奪われないようにとの配慮でした。また、戦いを恐れて弱気になっている者も、他の兵士たちの士気を下げてしまうため、戦うことが免除されたのです。それにしても、もしかつての日本で、戦時中にそのようなことを主張して戦いを拒否する者がいたなら、非国民扱いされるのは必至です。しかしイスラエルの民は、何よりも神を畏れ、その教えを生活の規範として歩むことが、常に求められたのです。人の目やことばを気にしたり、自分の感情に左右されるのではなく、神のことばに従って生きることの確かさを、彼らは知っていたのです。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる」(箴29:25)。私たちはどうでしょうか…。ときに人の目やことばを恐れ、窮屈さを感じ、心の平安、自由を奪われてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし主イエスが、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」と言われたとおり(ヨハ8:32)、真理に満ちた神のことばに従って歩む者は、そのような束縛から解放され、平安と自由の中を歩むことができるのです。そして、何よりもそれは、私たちにとって、揺るがされることのない、確かな歩みなのです。ますます主に信頼し、主の御声に聞き従って歩む者でありたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 19章◇(2月8日)

「血の復讐をする者が怒りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いためにその人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は前から相手を憎んでいたわけではないから、死刑に当たらない。」…申命19:6

1~13節には、「逃れの町」に関する教えが書かれています。それは、過失によって他者を死に至らせた者がそこに逃げ込み、怒りの心に燃えた復讐者の手からその者を保護しようとする、主の配慮です。モーセはすでに、ヨルダン川の東側にベツェル、ラモテ、ゴランの3つの町をそのために取り分けており(4:41-43)、ここでの教えは、所有しようとしている地、すなわちヨルダン川の西側の領土においても、逃れの町をまず3つ設け、その後、領土がさらに広げられたとき、さらに3つの町を取り分けよとの命令でした。15~21節は、さばきにおける証言についての教えです。どんな罪でも、決して一人の証人の証言だけで判断せず、二人か三人の証言によってその罪が立証されることが求められました。そこにも、不正な証言によって人がえん罪に陥れられないようにとの、主の配慮があります。そして、もし誰かが企んで偽りの証言をしようとしたのなら、そのような者は厳しく罰せられたのです。主は、それらの教えによって、逃れの町に逃れる者、さばきでの被告を守ることだけを意図されたのではありません。10節には、「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、咎のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の責任を負うことのないようにするためである」とありますが、罪のない者の血が流されることによってさらにそこに罪が生じるという、「罪の連鎖」を断つ意図があったのです。21節の規定も「それで留めよ」という意味であって、主は、民が感情にまかせて行動することを戒めておられたのです。私たちも、「絶対に許せない…」と怒りの感情に縛られそうになることがありますが、主イエスの教えに従い(マタ5:38-42)、主のみこころにかなう者として行動したいと願います。

主が心を治めてくださいますように。

◇聖書箇所:申命記 18章◇(2月7日)

「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」…申命18:15

15節以降に、神がご自身の民のために、モーセのような一人の預言者を起こされることが書かれています。モーセは主から、約束の地に入ることができないと言われていましたが、主は、その地に住むことになる民が、自分勝手な歩みをし、ご自身のみこころから外れ、偶像や異邦人の神々を慕うことがないようにするために、歩むべき道を指し示す預言者を立てようとされたのです。そしてその後、実際に多くの預言者が起こされ、主の教えを民に語り告げましたが、民は素直にそれに聞き従おうとはしませんでした。主の忌み嫌うことを繰り返し行ない、やがて、約束の地に建てられた国は、異邦人の手によって滅ぼされることになってしまったのです。しかし主は真実なお方であり、彼らを見捨てず、御前に立ち返らせるため、そしてさらに、異邦の民をも、イスラエルの父祖たちとの契約にあずからせ、ご自身の民として加えるために、一人の預言者を起こされました。それが、預言者でありかつ祭司であり王である、油注がれたメシア、イエス・キリストなのです。そのようにして15節のみことばが確かに成就したことが、主イエス自身、またペテロによって語られました(ヨハ5:46,使3:22)。アダムの子孫であるすべての人は、罪の性質のゆえに自分勝手な道を歩もうとするのです。そしてその道の先にあるのは滅びであり死なのです。だからこそ、正しい道、主の道を指し示す「預言者」がいつの時代にあっても必要であって、それは、今、神のことば、聖書としてすべての人に与えられているのです。そしてその意味がわかるように、知恵と啓示の御霊が、私たちに解き明かしてくださるのです。「あなたがたはその人に聞き従わなければならない」。道であり、真理であり、いのちであるお方イエス・キリストに、絶えず聞き従う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 16章◇(2月5日)

「この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。」…申命16:14

この章では、主が民に、1年の中で3つの大きな祭り、すなわち①過越の祭り(種なしパンの祭り)、②七週の祭り(刈り入れの祭り)、③仮庵の祭りを行うよう命じられたことが書かれていますが、そこを読んで気付くことは、3つの祭りとも、民の出エジプトの出来事に関係していること、また、家族だけでなくすべての者とともに喜び楽しむようにと、主が命じておられるということです。過越の祭りにおいては、民がエジプトを脱出した夕方の時刻に羊と牛をいけにえとして屠り、また食べるパンは種なしパンを使うよう求められましたが、それは、エジプト脱出時には急いでいたため、パン種(イースト菌)を入れてパンを発酵させふくらませる時間がなかったという、当時の状況を覚えるためであったのです(3節)。また七週の祭りは、小麦の初穂の刈り入れを感謝して祝うものであり、過越の祭りの日から7週が経った日に行われました。またそれは50日目にあたるため、後に五旬節とも呼ばれるようになりました。さらに仮庵の祭りは、「仮庵」、すなわち、イスラエルの民が荒野を旅した際、仮の住まいとしての天幕での生活をしたことを覚え、主の守りと導きを記念するという意味があったのです。私たちが日常接するさまざまな「祭り」は、単に人々を集めて交流を深めるのを意図したり、商品を宣伝・販売することを目的とするものであったりしますが、主がイスラエルの民に行うように命じた3つの祭りは、エジプトでの奴隷生活から解放してくださった主、荒野においても守り、養い、導いてくださった主を覚え、感謝するという意図があったのです。そしてそれを、レビ人、寄留者、孤児、やもめといった者たちとともに、喜び楽しむよう求められたのです。神の民とされた私たちにとって、毎週の安息日の礼拝にもそのような意図があることを覚えて(5:15)、そこで多くの人々とともに、主の救いを喜び楽しみたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 15章◇(2月4日)

「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」…申命15:10

1~6節には、負債の免除について書かれています。7年を期間とし、その間に隣人や同胞に貸したものを取り立てる権利を放棄せよとの教えです。もっとも、主が約束の地において民を祝福されるので、民がすべての命令を守り行うならそのようになることはなく、周辺国からも借りることなく支配されもしないと主は言われました。続く7~11節でも、主は、同胞の貧しい者に対して必要なものを惜しまず、十分に貸し与えるようにと命じています。そうするならば主は、そのことを喜ばれ、その人の働きと手のわざを祝福してくださるのです。さらに12~18節でも、7年目に奴隷を自由の身として去らせる際も、主から受けている祝福を分け与えよと命じられています。主イエスもこう言われました。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです」(ルカ6:38)。その前の35-36節では、自分の敵を愛し、返済を求めず貸すようにせよ、そうすればあなたがたの受ける報いは多く、いと高き方の子どもになる…あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くなれとあります。私たちは、キリストにあって、いと高き方、父なる神の子どもとされています。言うまでもなくそれは、神がくださる祝福を私たちが独り占めするためではなく、それを周りに分け与えるためであり、それが、愛とあわれみに満ちた父の子どもとしてふさわしいあり方であり、主のみこころとして求められていることなのです。そして、そのように主の御声に聞き従い、命令を守り行う者を、主はさらに豊かに祝福してくださるのです。それは旧約の時代から変わらない霊的原則です。主から与えられている祝福を、喜んで隣人と分かち合いたいと思います。

主のみこころを行うことができますように。

◇聖書箇所:申命記 14章◇(2月3日)

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」…申命14:2

3~20節には、食物についての規定が書かれています。きよいもの=食べてよいもの、汚れているもの=忌み嫌うべきもの=食べてはならないものとして、具体的に何がそうであるかが挙げられていますが、主は民に対し、なぜそのように分ける必要があるのか、その理由を最初に示しています(1-2節)。民は、主の子ども、主の聖なる民、主の宝の民として選ばれているのであり、常にそのことを自覚して生きるよう、求められていたのです。主が定めた食べてもよい動物は、牛や羊のような、ひづめが分かれていてかつ反芻する、つまり、一度飲み込んだ食物を胃から口の中に戻して再び噛むものであり、魚であれば、ひれがありかつ鱗があるものであり、鳥であれば羽根があって群がらないきよいものでした。豚やだちょうなどはその基準からはずれているため、民はそれらを汚れたものとし、食べることはしなかったのです。22節以降には、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず献げよとの教えがあり、3年の終わりごとにそれを町囲みの中において、相続地のないレビ人や、孤児、やもめのような弱者が食べられるようにすることが求められました。そして「それはあなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるため」(29節)だと、主は民に言われました。それらは、神を愛し、また隣人を愛せよという教えを、具体的な行動として表わすものであるとも言えます。そのことを主は喜ばれ、ささげる者、与える者を豊かに祝福してくださるのです。私たちは豚肉を平気で食べます。主イエスは「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」と言われましたが(マタ15:11)、律法を成就されたキリストにあって、私たちは感謝して食べるのです。また、主を愛し、隣人を愛し、主のこども、聖なる民、宝の民とされていることに誇りを持つのです。そのように、絶えず聖徒としてふさわしく歩みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 13章◇(2月2日)

「あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。」…申命13:4

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:2-3,申5:6-7)。主はイスラエルの民に十戒を与えた際、真っ先にそう命じられました。今日の13章では、カナンの地に入って行く民に対して、あらためてそのことが語られています。1~3節を通して教えられること、それは、預言者や「夢見る者」と呼ばれる者たちがしるしや不思議を行うことが、確かに起こり得るということ、それらの者は、イスラエルの神ではないほかの神々がそれをなしたのだ、だからその神々に従い仕えようと言ってそそのかすこと、そしてそれは、民が真実に主を愛しているかを知るために、神ご自身が与えられた「試み」だということです。それにしても、それらの者たちに対する扱いについて、神が民に与えた命令は、容赦のない厳しいものでした。その預言者や夢見る者たちは殺されなければならず、同じようにそそのかす者が家族や親友などの親しい関係の者たちであっても、彼らは石打ちの刑罰を受け、いのちが取られなければならなかったのです。あらためて神が、「ねたみの神」(6:15)であることを強く思わされます。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4-5)。キリストは私たちを愛し、まさしく、いのちを尽くして、罪人である私たちの身代りとなって十字架にかかってくださいました。その真実の愛に応えるべく、私たちも真実を尽くして、主を愛するよう、主の命令を守り、御声に聞き従うようにと、求められているのです。この世には、私たちの心を惹き付け、時間と思いを占有しようとするものが満ちていますが、誘惑から守られ、それを「神」とすることがないよう、御霊の助けを求めたいと思います。

主の愛にますます満たされますように。

◇聖書箇所:申命記 12章◇(2月1日)

「そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」…申命12:7

「これは、あなたの父祖の神、主があなたに与えて所有させてくださった地で、あなたがたがその土地に生きるすべての日々に、守り行わなければならない掟と定めである」。1節のそのことばは12~16章全体に対するものであり、主は、イスラエルの民が入っていく地において、どのように日々歩むべきかをそこで示し、12章では、最も大切なこととして、礼拝について教えられています。そこでもまず、先住の異邦の民による偶像礼拝の影響を徹底的に排することが求められています。彼らは高い山や丘の上、木の下などに祭壇を築き、そこで主が忌み嫌うことを行っていましたが、主は、ご自身の民がそれを真似しないように、それらを打ち砕き、焼き払い、そこから完全に取り去るようにと命じられました(2-4節)。その後で主は、礼拝で民がささげるべき物を示され、家族だけでなく、奴隷やレビ人とも一緒になって、食事を取ってご自身の前で喜び楽しみむようにと命じています(7,12,18節)。しかしそれは、食事自体を楽しむのではなく、主が祝福してくださったすべての手のわざを喜び楽しむのです。つまり民は、生活におけるさまざまな「成果物」が、自らの努力によるものではなく、神の祝福であることを覚え、人々とともに主をあがめ、主にあって喜び楽しむようにと、求められていたのです。そこでは肉も食されましたが、血を一緒に食べることは固く禁じられました(16,23,24節)。「血はいのちだからである」とあります。ささげ物の羊や牛などが屠られるとき、必ずその血が流されましたが、主はささげ物のいのちを求められたのです。キリストは、私たちの罪のためのささげ物として十字架の上で屠られ、いのちが取られ、その血によって私たちの罪の汚れはきよめられました。その血による新しい契約によって、永遠のいのちの祝福が与えられているのです。その救いを感謝しつつ、日々、主にあって、喜び楽しむ者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。