◇聖書箇所:エステル記 9章1-19節◇(5月16日)

「これはアダルの月の十三日のことであり、その十四日に彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。」…エステル9章17節

ハマンは王の命令により柱にかけられましたが、それで事は終わりませんでした。彼が王に出させたユダヤ人撲滅を命じる文書が、国の各州において発布されていたからです。そこでエステルは、その取消を告げる詔書の発布を王に認めさせ、さらに、ユダヤ人を迫害する者たちを逆に根絶することの許可をも取り付けたのです(以上8章)。王が発布したその命令と法令は第12の月の13日に実行されました。実はその日は、ハマンが主導したユダヤ人撲滅の実行日でしたが、皮肉なことに、まさにその日に、まったく逆のことが行われることとなったのです。その日、ユダヤ人たちは彼らの敵を剣で打ち殺し、王がいるスサの城でも500人を滅ぼし、さらにハマンの10人の子たちを殺しました。そのことが報告されると、王はエステルにさらなる望みを尋ね、彼女は王に、殺したハマンの息子たちを柱にかけること、またスサにいるユダヤ人たちが次の日も敵を倒すことを認めさせたのです。第12の月、すなわちアダルの月の14日は、スサ以外に住むユダヤ人にとって祝宴と喜びの祝福となり、スサのユダヤ人たちは、翌日である15日をその日としました。ユダヤ人たちが敵を殺害した記事に接し、そこまでしなくても…と、私たちは違和感を覚えるかもしれません。しかし聖書が伝えるのは、ご自身の民を守ろうとされる神が望まれ、導かれた、敵に対する徹底的な処分です。実際、そうしなければ、民は、自分たちのいのちを守ることができなかったのです。聖書の中には、そのような「聖絶」の記事がしばしばみられます。そしてその神は、霊的な意味においても、ご自身の民が「全き者」となるようにと求めておられるのです。「あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない」(申18:13)とあるとおりです(詩19:13-14参照)。自らのうちから、神に喜ばれないものを、中途半端にせず、徹底的に取り除く…。日々そのように断行する者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エステル記 7章◇(5月14日)

「こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りは収まった。」…エステル7章17節

エステルが設けた宴会の2日目、王とハマンはそこに同席していましたが、王は前日同様、あなたは何を願うのかと、王妃に尋ねました。するとエステルは、私と私の民族にいのちを与えてほしい、私たちは迫害者の手によって虐殺され、滅ぼされようとしていると訴え、それは、王にとって大きな損失になると告げたのです。それを聞いた王は驚き、そんなことを企んでいる者はだれだ、どこにいるのか、と言っていきり立ちました。そこでエステルはすかさず、私と私の民族を迫害する者、敵とは、この悪人ハマンだと、彼の面前で王に告げたのです。ハマンは、またもや起った想定外の展開に驚き、恐ろしくなって震え上がりました。王はエステルから知らされたことに憤り、宮殿の園に出て行きました。残されたハマンは、自分が王からさばかれることを悟り、王妃にいのち乞いをしましたが、宴会の席に戻って来た王の目には、エステルのいた長椅子にひれ伏していたハマンが、王妃を辱めようとしていたと映ったのです。そのとき、王の前にいた宦官の一人が、ハマンが立てた柱のことを告げたので、王は、ハマンをその柱にかけるようにと命じました。こうしてハマンは、王によってさばかれ、滅ぼされました。モルデカイを殺そうとして立てた柱に、自分がかけられるようになるとは、なんとも皮肉なことでした。エステルは主から知恵と導きを与えられ、そのように果敢に行動し、ハマンの心のうちにあった企みを、王の前であばいたのです。「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」と主イエスは言われました(ルカ12:2)。悪者の企みは明らかにされるのです。主は、私たちの心の思いもすべてご存じなのです。そのことを覚え、いよいよ主を畏れ、主の前に真実に歩み続けたいと思います。

主の守りがありますように。

◇聖書箇所:エステル記 6章◇(5月13日)

「…『あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところに座っているユダヤ人モルデカイにそのようにしなさい。あなたの言ったことを一つも怠ってはならない。』」…エステル6章10節

エステル主催の宴会があった日の夜、王はなぜか眠れなかったため、記録の書である年代記を侍従たちに読ませました。すると、ちょうどそこに、宦官のビグタナ(ビグタン)とテレシュによる王の暗殺計画を、モルデカイが察知して報告したことが記されており、そのことでの彼への処遇が何もなかったことを、王は知ったのです。翌朝ハマンは、モルデカイを柱にかけることを王に上奏すべく、王の元にやって来ました。しかしそれを言い出す前に、ある者に栄誉を与えるにはどうすればよいかと王から尋ねられ、てっきりそれが自分のことだと思い込んだ彼は、その者に王服を着せ、馬に乗せて広場に導き、その者の栄誉を群衆に向って告げるよう提案しました。すると王は、その提案を受け入れ、モルデカイにそのようにせよと、ハマンに命じたのです。栄誉を受けるのは自分ではないのか…よりによってモルデカイがその者だとは…。自分を買いかぶっていたハマンは、想像だにしなかった事態に驚愕し、非常なショックを受けたに違いありません。しかし彼は、屈辱を味わいながらも、なんとか王の命令に従ったのです。その後、彼は、嘆き悲しんで頭をおおい、急いで家に帰ったとあります(12節)。なぜ王は、その夜眠れなかったのか…年代記を読ませたのか…なぜちょうどそこにモルデカイの一件が書かれていたのか…なぜすでに報告・記録されていること(2:22-23)に王が関心を持ち、モルデカイの処遇を気に掛けたのか…。なぜなら、それらはすべて、神が導かれたことであったからです。エステル、モルデカイ、多くのユダヤ人たちの祈りに、主が答えられたからです。そしてその主は、今も生きておられ、神に拠り頼む私たちの祈りにも、確かに答えてくださるのです。その答えは、しばしば私たちの考えを超えたものとなるのです。そのことを確信し、絶えず主に祈り続ける者でありたいと思います。

祈りに主が答えてくださいますように。

◇聖書箇所:エステル記 5章(5月12日)

「ハマンは自分の輝かしい富について、また子どもが大勢いることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを、すべて彼らに話した。」…エステル5章11節

3日間の断食を終えたエステルは、意を決し、王妃の衣装をまとい、王宮の奥の中庭に立ちました。すると王は、彼女に向って金の笏を差し伸ばし、歓迎の意を表わしました。本来、召されていないのに王に近づく者は、必ず殺されることになっていましたが、王はエステルに好意を抱いていたため、そのようにして受け入れたのです。王は、エステルには願いごとがあると察し、それを彼女に尋ねると、エステルは、自分が設ける宴会にハマンと一緒に来てほしい、と答えました。王はその求めに応じましたが、まだ何かあると感じ、それを宴会の席でエステルに尋ねると、彼女は、明日もう一度、自分が設ける宴会にハマンと一緒に来てほしい、と答えたのです。一方、宴会に招かれたハマンは上機嫌で帰宅しました。その途中、王の門のところにいるモルデカイが、自分に対してまったく敬意を表わさないことに憤りましたが、何とかその怒りを収め、自分の持っている輝かしい富、地位、受けた特別扱いなど、さまざまな自慢話をするため、人を送り、妻や友人たちを連れて来させたのです。そのように彼らに得意げに話していたハマンでしたが、その心には常にモルデカイのことが引っ掛かっていました。彼はハマンにとって忌まわしい存在だったのです。そのことを聞いた彼らは、22mの高い柱を立てさせ、そこにモルデカイを吊させれば良いとハマンに進言し、彼はそれを気に入り、早速そのようにさせました。ハマンは、肉的な思いに支配され、自らの地位や名誉や富を誇り、おごり高ぶっていました。しかし、そのような者は、主によって低くされて退けられるのです(イザ2:12)。私たちは、ハマンを反面教師とし、ますます主の前にへりくだり、ただ主を誇る者でありたいと願います。

主の似姿へとさらに変えられますように。

◇聖書箇所:エステル記 4章◇(5月11日)

「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。…あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」…エステル4章14節

ユダヤ人根絶の法令発布を知ったモルデカイは、心を大いに痛め、衣を引き裂いて粗布をまとい、灰をかぶり、叫びながら王の門のところまで進んで行きました。また国中のユダヤ人たちも同じように、粗布をまとって灰の上に座り、断食をし、そのことを嘆き悲しんだのです。一方、王妃となったエステルは、モルデカイの様子を侍女や宦官から聞いて痛み苦しみ、彼に衣服を送って着せようとしましたが、彼はそれを受け取りませんでした。するとエステルは、そのような状況に至った経緯を知るべく、ハタクという宦官をモルデカイの元に遣わし、その報告によって、ようやく事の次第を理解したのです。モルデカイはハタクに、法令の文書の写しを渡しましたが、それは、エステルが立場を活かし、その法令発布を撤回させるべく、王にあわれみを乞い求めるよう、彼女に命じるためでした。しかしエステルは、まだ召しを受けていないのに勝手に王のところに行けば殺される…と、自分の身を案じてそれを拒みました。するとモルデカイは、このような時に沈黙すべきではない…あなたが王妃になったのはこのような時のためではないのか…今こそ同胞のために立ち上がるべきだ…と、エステルに強いメッセージを送って、彼女を奮起させたのです。そのことばを聞いたエステルは覚悟を決めました。3日3晩断食をした上で、王に直談判しに行くことを決意したのです。「私は、死ななければならないのでしたら死にます」(16節)。自らのいのちを惜しまない、彼女のことばが心に留まります。それは、神のみこころなら、自分のいのちが用いられ、神のご計画が成し遂げられるのだ、という信仰の告白にほかなりません。パウロも、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」と言っています(ピリ1:21)。聖徒とされた私たちもまた、自らのいのちを主にささげる覚悟を持ちたいと思います。

キリストに倣う者とされますように。

◇聖書箇所:エステル記 3章(5月10日)

「…それでハマンは、クセルクセスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を根絶やしにしようとした。」…エステル3章6節

クセルクセス王は、家来のうちハマンをそのトップの座に着かせ、他の家来たちに、彼に膝をかがめひれ伏すようにと命じました。しかし、モルデカイはそれに従いませんでした。その理由は書かれていませんが、そのよううな行為はあくまで神に対してなすべきものであり、人に対するその好意は偶像礼拝だと考えたからでしょう。ハマンは、モルデカイだけが自分に対して膝をかがめず、ひれ伏さないのを見て憤りました。そしてハマンは、モルデカイを処刑するだけでなく、彼の同胞である、国中のすべてのユダヤ人を根絶やしにしようと考えたのです。ハマンは早速そのことを王に上申し、そのための法令が発布され、そのことは国中に布告されました。モルデカイは、エステルが王妃の候補として集められた際には、彼女に対して、自分の生まれを明かさないよう命じていました。そこには、主からの知恵と導きがあったに違いありません。しかし彼自身は、以前から、ユダヤ人であるということを周囲に打ち明けていたのです。それは、彼がユダヤ人としての誇りを持ち、異国の地における異質なものからの支配を、一方的に受けることがないようにと、あらかじめ一線を引いていたからに違いありません。そして、ヘマンの一件はまさにその現れであり、それは、決して譲れないことであったのです。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ロマ12:2)。私たちもまた、自分がキリストに贖われた、御国の民、天に国籍を有する者であることを隠さず、人々に証しすべきであり、この世のものに支配されず、人に迎合せず、主のみこころに従って生きるべきなのです。さまざまな局面において、御霊の助けと導きにより、また愛と祈りをもって、対処したいと思います。

主のみこころを知ることができますように。

◇聖書箇所:エステル記 2章◇(5月9日)

「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と寵愛を受けた。王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」…エステル2章17節

エステル記は、ペルシアの王クセルクセス(アハシュエロス)の時代に起ったことを記した書物です。そこにはユダヤ人を絶滅させる陰謀を阻止したエステルとモルデカイの二人による、知恵と勇気に満ちた行動が描かれており、神ということばは一度も出て来ませんが、それらの背後に神の御手が動かされていることを、読者は知るのです。クセルクセス王は大宴会を催し、王妃ワシュティにも王冠をかぶってその場に出てくるよう命じましたが、なぜか彼女はそれを拒み、王は激しく憤りました。そして、側近の助言により、彼女を退位させ(以上1章)、代わりの者を王妃とすべく国中から美しい未婚の娘を集めさせましたが、その中に、王の下級官吏であったモルデカイが養育していた、いとこのエステルも加えられたのです。集められた娘たちは、12ヶ月間もの特別な化粧の期間を経て準備し、王のところに入っていき、「審査」を受けました。そしてエステルものようにしたところ、彼女は王に気に入られて召し入れられ、新しい王妃とされたのです。一方、モルデカイは、そのことを喜びをもって受けとめていましたが、ある日、王の二人の宦官が王を暗殺しようとしているのを察知し、そのことを、エステルを通して王に知らせたため、二人は処刑され、その計画は未遂に終わりました。そのように、伏線もあり、一つ一つのことが進んでいくのは、人間的に見れば、よくできたドラマの筋書きのようです。しかし、もちろんそうではありません。それは、神の配剤であって、すべては主の主権によってなされたことなのです。それらは遠い国での遠い昔の出来事ですが、その主は、確かに今も生きておられ、私たちの日常の歩みの一つ一つの中にも主権をもって介入され、守り、導いてくださっているお方なのです。そのことを覚え、ますます主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:哀歌 5章◇(5月7日)

「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。」…哀歌5章21節

哀歌の最後の章です。ここでも作者は、自分たちに起っている苦難、その悲惨さについて、心に留め、よく見てほしいと、主に訴えています。そのとき、もはや、主からのゆずりの地は異邦人に占領され、人々は自分の家に住むことができず、衣食住がままならない状況に置かれ、疲れ果てて安息からほど遠い状態であったのです。「女たちはシオンで、おとめたちはユダの町々で、辱められました。首長たちは彼らの手で木につるされ、長老たちは尊ばれませんでした。若い男たちはひき臼をひかされ、幼い者たちは薪を背負ってよろめきました」(11-13節)。凌辱、殺害、強制労働…と、人々はそのような屈辱的な扱いを敵から受け、その心からは喜びが消え、痛みと悲しみと絶望が支配していたのです。しかし作者は、主に向って声を上げることをやめませんでした。主が主権者であられ、自分たちの状況もまたその御手の中にあることを認めつつ、自分たちのことを忘れないでほしい、いつまでも捨て置かないでほしい…と、切実に願い、主に訴えたのです。その苦難は、自分たちや先祖たちが神に従わず、身勝手な歩みをしてきたその罪の結果であることを、作者は理解していました(7,16節)。なおその上で、主からの赦しと回復を求め、「主よ、あなたのみもとに帰らせてください…あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ」と言ったのです。作者はそうであると信じていました。だからこそ、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」(3:22)と告白したのです。主は、すべての人が、ご自身のみもとに立ち返るのを待っておられ、それを喜び、その人を受け入れ、赦し、回復させてくださいます。主イエスが放蕩息子のたとえで話されたとおりです(ルカ15章)。主が愛とあわれみに満ちた方であることを覚え、いつもそのみもとに帰る者でありたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:哀歌 4章◇(5月6日)

「主は憤りを出し尽くし、燃える怒りを注ぎ出された。主はシオンに火を放ち、火はその礎を焼き尽くした。」…哀歌4章11節

4章には、バビロンにエルサレムの都を攻められ、包囲されたときのことが記されています。かつては栄光に満ちた町であったエルサレムは、もはや見る影もなくなり、そこに住む人々は、食糧が尽きたために飢餓に苦しみ、多くの者が痩せ衰えて死に、母親が自分の子を煮るという、おぞましく悲惨な状況となったのです(1-10節)。神の都エルサレム…そこは地形的にも天然の要塞のような場所であり、その町が敵の攻撃を受けて陥落してしまうということは、だれも想定していないことでした。しかし、それは主から出たことであり、憤りを出し尽くし、怒りを注ぎ出され、シオンに火を放ってその礎を焼き尽くしたのは主であると、作者は告げているのです。「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである」(13節a)。そのように、預言者や祭司たちの罪と咎が非難されているということに心が留まります。「彼らは、その町のただ中で、正しい人たちの血を流した」(13節b)とありますが、それは、彼らが人々を傷つけたということではなく、霊的な導き手であるはずの彼らが堕落し、神のメッセージを民に伝えることを怠ったため、結果的に町が敵によって侵略され、多くの人の血が流された…ということを示唆しているのです。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」(1ペテ2:9)。闇から光へ…罪の中から救い出し、死からいのちへと移してくださったキリストのみわざを、その福音を、私たちが、預言者、また祭司として、人々に告げ知らせることが求められています。そのようにして、神の国はさらに拡げられていくからです。そのことを覚え、私たちに託されているその尊い務めを、忠実に果たす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:哀歌 3章40-66節◇(5月5日)

「主よ。あなたは私のたましいの訴えを取り上げ、私のいのちを贖ってくださいました。主よ。あなたは、私が虐げられるのをご覧になりました。」…哀歌3章58-59節a

40節から48節では、「自分たち」、「私たち」、「私の民」と、複数形が使われています。作者は、イスラエルの民の代表としての意識をもって主の前に出るととともに、民に対して、自分たちの罪を悔い改め、主に立ち返るようにと呼び掛け、促しているのです(40-41節)。46節以降では、「敵」の存在が言及されています。さらに52節以降では、それが、「私たちの敵」から「私の敵」に変わっています。作者は、再び、自分自身に目を向け、敵から受けた仕打ちを思い返し、その敵に報復し、彼らを滅ぼしてほしいと、主に訴えているのです(55-66節)。「主よ、私は御名を呼びました。穴の深みから」(55節)。「私があなたを呼び求めると、あなたは近づき、『恐れるな』と言われました」(57節)。「あなたは、私に対する彼らの復讐を、彼らの企みのすべてをご覧になりました」(60節)。「…彼らの企みのすべてを聞かれました」(61節)。そのように作者は、主が、敵の企みの一部始終をすでに知っておられ、自らの訴えに耳を傾けてくださっていることを確信し、それを告白しているのです。詩篇の作者もこう言っています。「主を呼び求める者すべて まことをもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられます。また 主を恐れる者の願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救われます」(詩145:18-19)。私たちが、苦難の中で、この辛さはだれにもわかってもらえない…だれも助けてくれない…と嘆く思いになったとしても、主は、眠ることもまどろむこともないお方であって、私たちの叫び、訴えに耳を傾け、それに答え、そこから必ず助け出してくださるのです。だから私たちは、その主にあって、恐れることなく、平安と希望のうちに歩み続けることができるのです。そのことを覚え、どんなときにも主に信頼し、主の守りと導きを祈り求めつつ、前に進む者でありたいと思います。

主の御手によって支えられますように。

◇聖書箇所:哀歌 3章19-39節◇(5月4日)

「主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。」…哀歌3章31-32節

主がなされたわざわいにより、苦難の中に置かれていた作者のたましいは、打ちひしがれ、沈み込んでいました。しかし彼は、そのままでいることはありませんでした。顔を上げ、天を仰ぎ見、主の恵み、救いを、何よりも主ご自身を待ち望む者となって、声を上げたのです。「『私は待ち望む。主の恵みを。』実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」(21-22節)。もしも、主が単に、罪のゆえに人を受け入れようとされないのであれば、主は、ノアの時代の洪水のようなものにより、人を滅ぼすことさえできるお方なのです。しかし、今なお、人は滅び失せずに生かされています。そしてそれは、主の恵みとあわれみが尽きることなく、朝ごとに新しく与えられ続けているからなのです。「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない」(33節)。示唆に富んだことばです。主は、私たちをいじめようとして、試練や苦難を与えているわけではなく、それにはちゃんと理由があるのだと、作者は言っています。ではそれは、なんのためなのでしょうか…。それは、それらを通し、人が自らのうちにある罪を認め、それを悔い改め、主の御前に立ち返るためです。また、人がますます主を求め、自らの知恵と力によってではなく、主にひたすら拠り頼む者となり、砕かれ、きよめられ、訓練され、成熟した者とされるためなのです。「霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」と、ヘブル書にもあります(ヘブ12:10-11)。主が愛とあわれみのうちに、わたしたちをそのように取り扱い、導いておられることを感謝しつつ、さらに主に喜ばれる者となることを願い求めていきたいと思います。

主の栄光を現わす者とされますように。

◇聖書箇所:哀歌 3章1-18節◇(5月3日)

「私のたましいは平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。私は言った。『私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた』と。」…哀歌3章17-18節

3章に入ると作者は、「主の激しい怒りのむちを受けて苦しみにあった者」として、その怒りのむち、受けた苦しみについて具体的に語っています。「主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ…」とありますが(2節)、真っ暗な闇の中に放り出されたら、私たちはどうすることもできません。そこにあるのは恐れと絶望と無力感のみです。「主は、私の肉と皮をすり減らし、私の骨を砕き、私に対して陣を敷き、苦味と苦難で私を取り巻き…」(4-5節)。それは、バビロンの侵略によってエルサレムの都が取り囲まれ、兵糧攻めに遭い、飢餓に苦しんだことを語っているのかもしれません。「主は私を囲いに入れて出られなくし、私の青銅の足かせを重くされた…」(7節)。そのことばから、作者が投獄され、囚人として足かせをはめられ、拘束されている状況が示唆されています。作者は、民への宗教的指導者として、そのような仕打ちを受けたのかもしれません。「私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった…私は言った。『私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた』と。」(14,18節)。主イエスは、十字架につけられたとき、群衆や祭司長たちからののしられ、嘲られました。また、息を引き取られる直前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。全人類の罪の刑罰を受けるために、身代りとなって十字架にかかられた主にとって、神から見捨てられるという絶望は、何よりも大きな痛み、悲しみ、苦しみであったのです。そしてそれは、本来、私たちが受けるべきものであったのです。哀歌における「私」もまた、そのように、神に見捨てられた者の代表者として語っていると言えるのです。しかし、その絶望がそのままで終わることはありません。主が救いをもたらしてくださるからです。苦難の中にあってもなお、信仰と忍耐をもって、主を待ち望み続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所:哀歌 2章◇(5月2日)

「主は敵のようにして、弓を引き絞り、はむかう者のようにして、右の手でしっかり構え、いとしい者たちをみな虐殺した。主は娘シオンの天幕に、火のように憤りを注がれた。」…哀歌2章4節

神の都エルサレムの荒廃を歌うこの「哀歌」は、その名のとおり、嘆きと悲しみと痛みのことばに満ちています。作者は不明ですが、預言者エレミヤとする説があります。いずれにしても作者は、荒れ果てた都と残された住民の惨状を目にし、悲嘆に暮れているのです。何よりも辛かったのは、それが単に他国の侵略によることではなく、民が犯した罪のゆえに、主ご自身が怒りをもってユダをさばき、バビロンを用いて都を破壊されたことでした。「ああ、主は娘シオンを御怒りの雲でおおい、イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし…ヤコブのすべての住まいを主は吞み込み…憤って娘ユダの要塞を打ち壊し…燃える怒りをもって、イスラエルのすべての角を折り…あたりを焼き尽くす炎のように、ヤコブを焼かれた…」(1-3節)。1~8節にはそのように、起こったすべてのわざわいの主体者が、神ご自身であるとされているのです。「あなたの心を主の前に、水のように注ぎ出せ。あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ…」(19節)。詩人はそのように、都の人々に向って命じています。それは、なおもすがりつくようにして救いを主に願うなら、きっと顧みてくださると信じているからです。そして彼自身も主に訴えているのです(20-22節)。哀歌を読んでいると気持ちが暗くなります。戸惑いの思いが湧いてきます。それは、神が、愛とあわれみに満ちたお方としてではなく、怒りに満ち、容赦なくご自身の民をさばく主権者として描かれているからです。しかし、私たちは知るべきなのです。神に背を向けて歩んでいた私たちもまた、その怒りとさばきを受けるべき者であったということを。そして、その私たちの身代りとなり、キリストが十字架にかかられたということを…。そのことを忘れることなく、絶えず主への感謝と賛美をささげる者でありたいと思います。

救われた喜びがいつも心にありますように。