◇聖書箇所:ヨハネの福音書 13章1-11節◇(8月17日)

「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。』イエスは答えられた。『わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。』」…ヨハネ13章8節

過越の祭りの前の夕食の席において、主イエスは立ち上がり、上着を脱いで手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い始めました。そのとき、すでに主は、この世を去って父のみもとに行くご自分の時が来たことを知っておられ、ご自分の者たちへの愛を最後まで表わされたのだと、ヨハネは記しています。そのとき弟子たちは、自分の番が回ってくるのを複雑な思いで待っていましたが、ペテロの番になると彼は、師がしもべの足を洗うなどとんでもない…と、いたたまれなくなり、自分の足を洗わないでほしいと固辞しました。しかし、そうするならあなたはわたしと無関係になる…とイエスから言われると、急に態度を変え、足だけでなく手も頭も洗ってくださいと、思わず口走ったのです。すると、主は彼に、水浴した者は足以外は洗う必要がない…全身がきよいのだ、と言われましたが、それは霊的な意味であり、ご自分を信じる者は、十字架で流される血による贖いのゆえにきよくされるのであって、からだの各部分を洗う必要はないと言われたのです。またそれは、信じる者が受けるバプテスマを暗示していました。私たちは、そのように、キリストを信じてきよくされ、罪赦されて救われた者です。ペテロは主イエスがなされ行為が指し示していることを悟ることができませんでした。だから、自分の足など洗わないで…と言ったのです。しかしそれは、キリストの贖いなしに生きていけるとする、傲慢で罪深い人間の姿であるのです。師がしもべの足を洗うというあり得ないようなその行為は、主イエスの愛と謙遜と神への従順に基づくものでした。そしてそれはさらに、十字架へとつながっていくのです。真実の愛をもって愛し、御父のみこころに従順に従い通された主が、その血潮をもって私たちを洗いきよめてくださったことを覚えて感謝し、賛美をささげたいと思います。

ますますへりくだって歩む者とされますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 12章36b-50節(8月16日)

「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」…ヨハネ12章47節

主イエスは、人々の前で多くのしるしを行なわれ、真理のことばを語って教えられましたが、群衆のうちには飢え渇きがなく、彼らの霊の目も開かれていなかっため、彼らはイエスを信じようとはしませんでした。そしてそれは、イザヤの預言のとおりであり、その預言が成就するためであったと、ヨハネは記しています。一方、イエスの言動を見聞きした議員たちの中には、イエスを信じる者が少なからずいました。しかし彼らはそのことを公にせず、信仰を隠して生きる者たちでした。それは、そのことが明らかになれば、裏切り者として会堂から追放され、パリサイ人たちから罵られることになるからです。彼らは神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した…と記されています(43節)。その後、主イエスは、再び人々の前に出て叫ばれ、わたしのことばを守らない人をわたしはさばかない、と告げられ、続けて、わたしのことばを受け入れない者にはその人をさばくものがある…と言われましたが(47,48節)、それらの間には矛盾はありません。なぜなら、イエスのことばは、人々に話すべきものとして父から与えられたことば、神のことばであって、主は、救いについて語られ、永遠のいのちを説かれ、同時に、終わりの日のさばきのことを告げておられたからです。人は光のあるうちに光を信じなければならないのです。その光は、聖書の神のことばとして、今もすべての人に与えられています。そして人は、それを聖霊が照らされる啓示の光によって理解し、自分のものとして受け取り、主イエスを信じて救いにあずかることができるのです。聖徒たちは、「光の子ども」として、キリストのみわざ、救いの良き知らせを、人々に伝える者とされているのです。だれも闇の中にとどまらないよう(46節)、その役割をしっかり果たしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 12章20-36a節◇(8月15日)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」…ヨハネ12章24節

イエスと弟子たちはエルサレムに入りました。その時、主はろばの子に乗られましたが、それは預言の成就でした(ゼカ9:9)。その後、何人かのギリシア人がイエスとの面会を願い出ましたが、主はそれを伝えたピリポとアンデレに、人の子が栄光を受ける時が来た、一粒の麦が地に落ちて死ぬなら豊かな実を結ぶ、と告げられたのです。主が言われたそのたとえは、ご自身の十字架の死、葬りからのよみがえり、そしてそれによってもたらされる、すべての人の罪の赦しと救い、永遠のいのちを意味していました。麦の種が地に落ちて朽ちるなら、たとえ死んでいるように見えても、その中にいのちがあるので、それは芽を出し、成長し、豊かな実りをもたらすのです。さらに主は、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」とも言われましたが、それは決して、この世における生の否定ではありません。主は、地上での歩みに執着し、利己的、刹那的な生き方をし、そこに生きがいを見い出そうとするなら、やがてそれを失い、絶望に至るだけだ…。しかし、自らのうちにある罪を認め、そこからの解放を願う者は、わたしにあってそれを得、永遠に生きるようになる…と言われたのです。人の子とはだれか…と尋ねる群衆に対して主は、光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい、と言われました。その光とは、闇に打ち勝つ光、すべての人を照らすまことの光なるイエス・キリストであって(1:5,9)、主は、そのようなメシアとしてご自分を信じる者はすべて、光の子ども、神のこどもとされて、闇に襲われことはないのだ…だから、わたしを信じなさい、と言われたのです。私たちがその救いの恵みにすでにあずかっていることを感謝しつつ、救いの良き知らせ、キリストの福音を、人々に証しし、伝えたいと思います。

栄光と誉れがキリストにありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 12章1-11節◇(8月13日)

「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」…ヨハネ12章3節

過越の祭りが近づきました。主イエスの一行は、退いていたエフライムの地から再びベタニアにやって来て、生き返ったラザロとともに夕食の席に着いていました。そこでマルタは忙しく給仕していましたが、マリアはイエスのそばにいて、純粋で非常に高価なナルドの香油を取り、それを主の足に惜しみなく注ぎ、自らの髪でぬぐったのです。家の中はたちまちかぐわしい香りで満ち、人々は彼女が取った大胆かつ献身的な行動に感嘆しました。ところが、それを見た12弟子の一人で、後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダは、「どうして、この香油を3百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言って、マリアを非難しました。著者ヨハネは、そのことばは彼の本心ではなく、弟子の中で会計係であったユダがお金を着服していたからだと記しています。彼は、3百デナリ(3百万円に相当)もあれば、ごまかしてその穴埋めに使えたのに…と考えていたのです。高価な香油を主イエスの足に惜しみなく注ぐ、というマリアの行動…。それは、彼女にとって、ラザロを生き返らせてくれたことへの感謝と、メシアであるイエスへの尊敬と、主を愛し、主に仕える思いを見える形とした、油注ぎであり、献身の表明であり、愛情の表現でした。マルタのように動き回って奉仕することはなくても、何よりも、主のみそばにいて、自分ができる最善、最高のことを行なった彼女のあり方を、主は喜ばれたのです。それに対して、心にもないことを偉そうに言って、マリアを咎めた偽善者ユダ…また、ラザロを見て主イエスを信じる者が多く起こされているのを知り、イエスとともにラザロをも殺そうと企んだ祭司長たち(10-11節)…。ヨハネは彼らを対照的に描いています。私たちもまた、マリアのように、自分のできる最善をもって、主にささげ、主を愛し、主に仕える者でありたいと思います。

ますます喜んでささげることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章45-57節◇(8月12日)

「また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」…ヨハネ11章52節

ラザロが生き返るという奇蹟、主イエスがなされた偉大なみわざを目撃した多くの人々は、イエスがメシアであることを信じましたが、ある者たちは素直に受け入れず、イエスに対して敵意を抱いていたパリサイ人や祭司長たちのところに行き、起ったことをすべて報告しました。すると彼らは、最高法院と呼ばれる議会を急遽召集し、イエスが人々に与えている影響の大きさを問題視して、このまま放置しておくとイエスの信者が一大勢力となり、ローマ当局が暴動を恐れて介入すれば、ユダヤの国の自治権は奪われてしまう…と、そのことを懸念しました。ところが、大祭司カヤパが、一人の人が民に代わって死ねば、国民全体が守られるということを、どうして考えないのか…と発言すると、それがイエスの殺害を示唆しているのだと悟った彼らは、それに同意し、心を一つにして、その実行に向けての企みを議論し始めたのです。そのことについてヨハネは、カヤパがそれを自分から言ったのではないこと、そして、ユダヤの民だけでなく、「散らされている神の子ら」、すなわち、神に愛されている、救われるべきすべての人のために、主イエスが贖いの死を遂げられることを預言したのだと記しています。祭司長たちによるイエスの殺害…それは、彼らの嫉妬から生まれたものであり、人の目には、彼らの陰謀はうまくいったように映ったことでしょう。しかしそれは、神が主権をもって、御手の中でなされたことであり、罪をもった全人類のための救いのみわざであり、永遠の昔から計画されていたことであったのです。メシアの出現については、旧約の時代の多くの預言者たちによって語られており、その神のみこころが、時至って成就したのです。そのように、神は真実なお方であること、主権をもって私たちの歩みにも介入し、ご自身のみこころをなしてくださるということを、しっかり覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章30-44節◇(8月11日)

「イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』」…ヨハネ11章40節

家にいたマリアは、自分がイエスから呼ばれていると聞くと、村の外にいたイエスのところに出て行きました。そして、イエスを見ると足もとにひれ伏し、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったのに…と、彼女は、主とマルタとの会話を聞いていなかったのに、彼女とまったく同じことを主イエスに言ったのです。主は、そのマリアと彼女について来た人々が、ラザロを失ったことを悲しんでただ泣いているのを見て、「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」られました。それは、メシアであるご自分がすぐそばにいるのにもかかわらず、彼らが何も求めようとしなかったからであり、また、死というものが、いかに人を深い悲しみと絶望へ追いやるのかということを、あらためて思わされたからです。そして主が、ラザロをどこに置いたのかと彼らに尋ねると、彼らは、イエスが墓の場所を尋ねたと思い、「来てご覧ください」と答えましたが、それを聞いた主は、彼らがラザロは死んだと決めつけ、墓の中に閉じ込めたことを思い、そのような不信仰を嘆き悲しまれました。と同時に、そのように、希望を持つことができずにいる人々に対して深いあわれみを覚え、涙を流されたのです。その後、墓に向う道中で、盲人の目を開けたこの方も、ラザロを死なせないようにはできなかったのか…と、つぶやく人々のことばを聞き、主はまたもや心に憤りを覚えましたが、墓に着くと、感謝を先取りして御父をあがめ、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫びました。すると、彼はただちに、布で巻かれたまま中から出てきたのです。その前に主はマルタに、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」と言われ、彼女を励まそうとされましたが、主は今も、そのことばを、すべての聖徒たちに告げておられるのです。どんな状況にあっても、全能の主のみわざを待ち望み、信じて神の栄光を拝する者でありたいと思います。

信仰が増し加えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章17-29節◇(8月10日)

「彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。』」…ヨハネ11章27節

主イエスの一行がマルタたちの家に着いたのは、ラザロが墓に葬られてから4日目のことでした。彼らを知る大勢の人々が、ラザロの死を悼み、姉妹を慰めるためにその家に集まっていた中、主イエスの到着を知ったマルタは、一行を出迎えました。一方、悲しみに打ちひしがれていたマリアは、家の中にとどまり、そこでずっと泣き続けていたのです。主イエスと会ったマルタは、開口一番、「ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう…」と言いました。そこには、使いを送ったのに、なぜもっと早く来てくれなかったのか…という、非難の響きが感じられますが、同時に、いてくだされば助かったはずだ…という、イエスへの信仰が表わされています。続けて彼女はこう言いました。「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と。すると主はマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります」と告げられましたが、彼女はそれを、終末の日のよみがえりだと捉え、そのことは知っていると主に答えたため、主はさらに、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と告げ、死んだラザロの上に、今そのみわざが起ることを暗示されたのです。そのことをマルタは、まだ完全に理解できていませんでしたが、イエスがメシアだと信じていた彼女は、そのことを告白しました(27節)。「信じます」ではなく、「信じております」ということばに、その信仰が以前からのものであったことがわかります。ラザロもそうであったでしょう。そして、すべての者が同じように告白し、永遠のいのちを得るために、ヨハネは本福音書を記したのです(20:31)。すでにその恵みにあずかっていることを感謝しつつ、その信仰に導かれる人々がさらに起こされるよう、とりなしたいと思います。

キリストへの信頼がますます深められますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章1-16節◇(8月9日)

「これを聞いて、イエスは言われた。『この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。』」…ヨハネ11章4節

エルサレムの神殿においてパリサイ人たちと議論した主イエス、またその弟子たちの一行は、彼らの手から逃れてヨルダンの川向こうに滞在していましたが、そこに一人の使いがエルサレム近郊の村ベタニアからやって来て、その村に住むマルタとマリアの姉妹の兄弟であるラザロが、病気であるとの知らせをもたらしました。その使いは、姉妹からのメッセージをこう伝えました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。彼らと主イエスとは、おそらく以前から親交があり、姉妹たちは、主イエスに一刻も早く駆けつけてほしい、と願っていたのです。しかし主イエスは、彼らのところにすぐには行こうとはせず、その場所になお2日とどまられました。その後、弟子たちに、もう一度ユダヤに行こうと言われ、またエルサレムに行くのかと主の身を案ずる弟子たちに対し、主は、ラザロが眠ってしまったので彼を起こしに行くのだ、と言われ、さらに、そのことばを額面通りに受け取った彼らに、ラザロは死んだのだ、と告げたのです。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」。主は、あえて、すぐにラザロの元に行かず、ラザロが死ぬことをみこころとされ、彼の死と生き返りを通して、ご自身の栄光を現そうとしておられました。それは、死が、決して終わりではなく、敗北でもなく、キリストによって打ち破られること、そしてそのキリストを救い主として信じる者に、永遠のいのちがもたらされるということが明らかにされるための、いわば、プロローグであったのです。私たちの日々の歩みにおいても、なってほしくないようなことが起こりますが、しかしそれもまた、主にあって、それで終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものである、ということを、信仰をもって受け取りたいと思います。

主の栄光の現れを待ち望むことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 10章31-42節◇(8月8日)

「しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」…ヨハネ10章38節

「わたしと父とは一つです」というイエスのことばを聞いたユダヤ教の指導者たちは、イエスが自分を神としていると断定し、その冒瀆の罪のゆえに、再び石を取って、イエスを石打ちにしようとしました。しかし主は、自分は父から出た良いわざを多く示してきたが、いったいどのわざが冒瀆にあたるのかと、彼らに尋ねられました。すると彼らは、良いわざのゆえではなく、自分を神だと言って、神を冒瀆しているからだと答えました。彼らは、イエスが多くの病人を癒し、悪い霊につかれている人々を解放しているのを、見て知っていながら、そのことについては無視していたのです。彼らは、自分たちにとって都合の悪いことには触れず、とにかくイエスを殺したい…と、短絡的な思いに捕らわれていたのです。そこで主イエスは、王たちが「神々」と呼ばれているみことば(詩82:6)を持ち出し、それらの者たちが、たとえ不完全ではあっても、神のことばを受け、主のみこころを具現したのであれば、そしてそのみことばが確かに神からのものなら、わたしは神の子だ、というその主張のゆえに、神から遣わされた自分が神を冒瀆していると、どうして決めつけるのか…と彼らを非難しました。結局、宗教指導者たちは、自分たちにとって都合の悪いものは無視し、イエスがなされていた良いわざは見ようとはせず、イエスのことばじりだけを捉えて冒瀆罪を適用し、殺害しようとしていたのです。彼らは、宗教の専門家を自称していながら、神のことばを先入観なく受け取る者ではなかったのです。ともすれば私たちも、先入観を持ったり、選り好みしたりしてみことばを読んでしまいがちですが、聖書に書かれたすべての神のことばに対して、へりくだり、それを自分のものとして受け取り、従順に聞き従う者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 10章1-18節◇(8月6日)

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」…ヨハネ10章10節

主イエスはパリサイ人たちの霊的盲目ぶりを非難されましたが(9章)、10章1節からの主のことばは、その彼らに対して語られたものです。主は、羊の門を通らずに、囲いを乗り越えて来る者は、羊たちを盗む強盗だと言われましたが(1節)、それは明らかに、パリサイ人たちのことです。目が開かれた盲目の人を追い出した彼らに、人々への愛はなく、ただ尊敬されたいだけであって、人々を食いものにしてる…と、主は暗に批判されたのです。それに対して、羊のところに門を通って入るのは、羊たちの牧者である主イエスご自身であって、羊たちはその声を聴き分け、羊飼いは自分の羊の名を一頭ずつ呼び、囲いの外へと連れ出すのです。そこには牧者の羊への愛があふれ、羊たちもまた牧者を信頼しているのです。そのように主イエスは、パリサイ人たちのあり方を非難されましたが、霊の目が閉ざされていた彼らには、その意味がわかりませんでした。彼らはユダヤ教の専門家として、「私たちは目が見えている」と誇っていましたが、自分たちが神の前にいかに愚かで罪深い者であるということ、そして主イエスが預言されたメシアであるということが、実はまったく見えていなかったのです。そんな彼らが理解できるように、主イエスは、比喩で語ったことをさらに詳しく語りましたが(7-18節)、その中で、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」と告げられました。それはすなわち、ご自身が十字架にかかり、そのいのちを代価とし、羊を殺そうとする者の手から買い取り、ご自身の所有のものとして、羊たちを生かしてくださるということです。そしてその主は今もなお、囲いの外の傷ついた羊たちを心に留めておられるのです(16節)。良き牧者なる主イエスに守られ、養われ、生かされていることを感謝し、羊を導くその御声に聞き従って歩み続けたいと思います。

主の御声を聞き分けることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 9章24-41節◇(8月5日)

「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」…ヨハネ9章39節

盲目であった人の癒しを通し、パリサイ人たちはイエスを何とか罪に定めようとしましたが、当人や両親から決定的なことばが得られないことに苛立ち、またもやその人を呼び出して、イエスはどのようにして目を開けたのか…と、前と同じことを執拗に問いただしました。するとその人は、彼らの態度に辟易しつつ、それはすでに話したが聞いてくれなかったではないか…あなたがたもあの人の弟子になりたいのか…と応じ、さらに、あの者がどこから来たかは知らないという言う彼らに対して、宗教指導者であるあなたがたがそれを知らないとは驚いた…盲目だった自分の目を開けたあの方は、神から出ておられるに違いないと、皮肉たっぷりに答えたのです。それを聞いたパリサイ人たちは、怒り心頭に発し、その人を外に追い出しましたが、主イエスは彼をフォローし、あなたは人の子を信じるかと尋ねられました。そして、あなたと話しているのがその人だ、と告げると、彼は、主よ信じますと言って、そこでイエスを礼拝しました。そのように、盲目であった彼の目は、そのとき、肉の目だけでなく、霊の目もまた開かれることとなったのです。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためにわたしは来た…と主は言われました。それは、癒されたその人やパリサイ人だけでなく、私たちたちを含む、すべての人へのことばです。自分は「見える」と言い張る者は、自分は知っている、わかっている、自分の力で進んで行けると高ぶっているのです。そして、主イエスの助けと導きを拒むなら、闇の中を、おじ惑いながら、おどおどと脅えながら歩むことになってしまうのです。そうならないように、すべての人は、自分もまた盲目であることを自覚し、キリストを求め、霊の目を開かれ、みことばの光に照らされて歩むべきなのです。主の前にますますへりくだり、そのように、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

霊の目がさらに開かれますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 9章13-23節◇(8月4日)

「人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」…ヨハネ9章13-14節

主イエスに癒され、目が見えるようになった人が帰宅すると、近所の人たちは驚き、何があったのか、と尋ねました。そして、事情を聞いた彼らは、その人をパリサイ人たちのところに連れて行きました。なぜなら、その癒しがなされたのが安息日であったため、律法違反の事例として、パリサイ人たちに知らせようとしたからです。盲目であった人が連れて来られると、パリサイ人たちも人々と同じことをその人に尋ねて答えを得ましたが、彼らの中のある者たちは、安息日の教えを破ってそのことを行なったのだから、そんな者は神のもとから来た者なんかではないと言い、別の者たちは、いや、そうでなければ、こんなしるしを行なうことなんかできないと反論し、意見が分かれて分裂が生じることとなったのです。そこで彼らが、その人に、イエスについてどう思うかと尋ねると、「あの方は預言者です」との答えであったため、業を煮やした彼らは、さらに、その人の両親までも呼び出して、息子に間違いないか、そうだとしたら、なぜ見えるようになったのかと、問いただしました。すると、面倒なことに巻き込まれたくない両親は、その人が自分たちの息子だと認めた上で、あとは本人に聞いてほしい…と言って、それ以上関わるのを避けたのです。それにしても、パリサイ人はともかくとして、近所の人たちもが、その人の目が開かれたことよりも、それが安息日に行なわれたのを問題視したことに驚きます。生まれつき盲目であった人にとって、癒され、見えるようになったことは、大きな喜びであったに違いありません。それなのに、そのことを一緒に喜ぶ者はいないのです。それは、彼らもまた、霊的な目が閉ざされ、律法主義の教えに染まり、心がかたくなであったからです。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ロマ12:15)。そのように、キリストの心、愛の心、柔らかい心を持つ者でありたいと思います。

主の似姿へとさらに変えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 9章1-12節◇(8月3日)

「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」…ヨハネ9章4-5節

主イエスの一行は、道中、生まれつきの盲人に出会いました。すると弟子たちは、その人の「不幸」は、本人が罪を犯したからか、それとも彼の両親の罪のせいなのか、と主に尋ねました。当時、そのような因果応報的な考えが一般的であり、弟子たちも例外ではなかったのです。それに対して主イエスは、この人が盲目に生まれついたのは、本人や両親が罪を犯したからではない…それは、この人に神のわざが現れるようになるためだ…と答えられました。そしてさらに、わたしたちは、夜が来る前に御父のわざを行なわなければならない、わたしが世にいる間は、わたしが世の光なのだ、と言われたのです。その後、主イエスは、地面の土に唾をし、それで泥を作って盲人の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと命じられました。そして彼が、そのことばに従って目を洗うと、たちまち見えなかった目が見えるようになったのです。それは、主イエスがなされた奇蹟のみわざでした。主イエスは弟子たちに、だれも働くことができない夜が来る前、昼のうちに、神のわざを行なわねばならない、と言われました。その「昼」とは、12弟子にとっては、イエスが地上におられる間であり、今を生きる、主の弟子である私たちにとっては、「終わりの日」、すなわち、すべての者が神の審判を受けるときが来る前の、主がともにいてくださる、今このときのことです。そして御父のわざとは、神が備えられた御子による救いの知らせ、すなわちキリストの福音を人々に伝えることなのです。生まれつきの盲人の目は主イエスによって開かれました。その主は、生まれつき霊的に盲目なすべての人の目を開いて救い出すために来られたお方です。ますます、その主のことばに忠実に従い、神のわざの現われを体験し、世の光である主を証しする者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 8章48-59節◇(8月2日)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」…ヨハネ8章51節

わたしのことばに聞き従わないあなたがたは、神から出た者ではない…悪魔から出た者だ…と主イエスに指摘されたユダヤ教の指導者たちは、神のことば、律法の専門家としてのプライドを傷つけられて憤り、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている」と自分たちが言うのも当然のことだ…と、語気を強めてイエスを罵りました。すると主イエスは、「わたしは悪霊につかれてはいません」と、彼らの言うことをすぐに否定し、さらに、「むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています」と彼らのありかたを責め、そして、そのような者に対してさばきをなさる方がおられる…と告げられました。主は、自分を卑しめている彼らは、御父をも侮辱しているのであって、結局、神に背き、律法を守っていないのだと、彼らの過ちを指摘したのです。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」。主イエスはあらためて、ご自身のことばを聞いて、ご自身を遣わされた父なる神とご自分を信じるならば、その者は、罪が赦され、死からいのちに移され、永遠のいのちを持つことができるのだ…と言われました(5:24参照)。主イエスは、まさにそのために、この世に来られ、人の姿を取って歩まれ、十字架にかかり、死からよみがえり、その贖いのわざを成し遂げてくださったのです。そして主は、律法を成就するために来られたお方であって(マタ5:17)、その主のことばを守るなら、信じて聞き従うなら、それは、神のことばを行なう者、義なる者とされる、ということなのです。パリサイ人たちは、自分たちが作った独自の規定を守り、人々にも強要していましたが、それで満足するあり方は罪深く、滑稽でさえあるのです。私たちが同じ過ちを犯さないよう、人のことばではなく、ますます神の国の福音、キリストのことばを心に留め、その光の中を歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 8章31-47節◇(8月1日)

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」…ヨハネ8章31-32節

31節以降は、主イエスがご自分を「信じた」ユダヤ人たちに語られたことばです。彼らはイエスをメシアとして受け入れておらず、単にすぐれた教師としてその教えを認めていたに過ぎず、宗教指導者たちの一部の者たちであった(40節参照)と考えられます。主は、彼らがご自分の教えを表面的に受け取るだけであることを見抜き、わたしのことばにとどまるならば、真理を知り、その真理によって自由にされるのだと、彼らに告げられました。それを聞いた彼らは、自分たちが「不自由」だとの自覚がなかったため、なぜそう言うのか…と反発しました。彼らは、自分たちは神に義とされ、契約の中に入れられたアブラハムの子孫であり、自分たちの義と祝福の根拠はそこにあるとしていたのです。また、今は政治的にはローマの支配下にあるが、奴隷として従属させられてはいないし、その中で自分たちは神を信じて、モーセの律法を学び、人々に指導する働きをしており、そのことは神に喜ばれているはずだと、誇りをもって答えたのです。しかし主イエスは、そんな彼らの高慢を打ち砕くかのように、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と告げ、さらに、律法を守っていると言いながら、神の真理を語っているわたしを殺そうとしているあなたがたは、実は、神ではなく、悪魔に従っている者たちなのだと、彼らの偽善的なあり方を、厳しく非難されたのです。彼らにとっての「自由」とは、あくまでも自分たちが感じる自由であり、自己評価に過ぎませんでした。彼らは、自分たちの民族的な血筋を誇り、持っている律法の知識と、人々にそれを教える立場に安住し、自己満足していたのです。そして、そのような自己義認、自己中心のあり方こそが罪であって、あなたがたはそれに捕われている罪の奴隷なのだ、と主は指摘されたのです。聖徒とされた私たちも、そのような過ちに陥ることがないよう、主のみことばにしっかりととどまり続けたいと思います。

ますます自由の中を生きる者とされますように。