◇聖書箇所:エゼキエル書 16章1-29節◇(9月27日)

「あらゆる忌み嫌うべきことや姦淫をしているとき、あなたは、かつて自分が丸裸のまま、血の中でもがいていた若いころのことを思い出さなかった。」…エゼキエル16:22

主はエゼキエルに、エルサレムが行なってきた忌み嫌うべきことを指摘するように命じられました。それは、その生い立ちから始まり、彼女に対してご自身が、どれほどの愛とあわれみをもって関わって来られたか、それにもかかわらず、彼女が裏切り、他の男と姦通を重ね、どれほどご自身を悲しませ、怒りを引き起こしてきたことを明らかにし、それを認めさせるためであったのです。主はまず、エルサレムが生まれたとき、彼女は適切な処置を受けず、誰からも顧みられず、嫌われ、捨てられ、自分の血の中でもがいていたこと、そして、ご自身が彼女をあわれみ、「生きよ」と告げ、育て上げ、やがて彼女と契りを結んでご自身のものとされ、さまざまな装身具で飾り、女王の位に進ませたと言われましたが、それは、主がエルサレムから先住民を追い払い、ご自身の都として民に与え、繁栄させてきたことを意味しています。ところが彼女は、契りを結ばれた主に背を向け、異国の神々に心奪われ、像を作り、高き所を設け、淫行、すなわち偶像礼拝を行い続け、自分たちの子どもさえささげ物とするという、おぞましく忌み嫌うべきことを行なってきたのです。そしてそれは、エルサレムを持つユダ国が、主に頼らず、周辺国と同盟を結び、バビロンに対抗しようとした政治的な淫行をも意味しているのです。エレサレムは、「生きよ」と励まし、育て上げ、契りを結んでくださった主の愛と恵みとあわれみを忘れたのです。そしてそれは主を大いに悲しませ、憤らせたのです。「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と詩人は自らのたましいに命じています(詩103:2)。かつて罪の中でもがき苦しんでいた私たちもまた、「生きよ」と言われ、キリストの血による契りを結ばれ、ご自身の者とされたことを覚え、感謝と喜びをもって主をほめたたえたいと思います。

主の恵みを忘れず感謝をささげる者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 15章◇(9月26日)

「それゆえ、神である主はこう言われる。『わたしが薪として火に投げ入れた、森の木立の間のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。』」…エゼキエル15:6

聖書において、ぶどうの木、あるいはぶどう畑は、神の民であるイスラエルにしばしばたとえられていますが、主はエゼキエルに、ぶどうの木は森の中にあって、ほかの木よりもすぐれていることはない、そこから役に立つものを作るための木材は取れない、だからそれは薪として火に投げ込んで燃やすしかないと言われました。さらに主は、偶像を慕い求め、ご自身の信頼を裏切ったユダのエルサレムの住民は、まさにそのぶどうの木のような、役立たずで、失望を与え、怒りを引き起こさせるだけの存在であって、火に投げ込まれることになるのだと告げられました。たとえ民がその火から逃れようとしても、その火は確実に彼らに追い迫るのです。主がぶどうの木に対して願っておられること、それは何よりも、甘いぶどうの実を結ぶことです。ぶどうの木は太い幹をもたず、また柔らかいため、ほかの木のように木材として用いるのには適していません。実を結ばないぶどうの木は、期待されている役割を果たさないため、切り倒され、その枝が薪として燃やされるだけなのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。…わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます」(ヨハ15:5-6)。主イエスは、そのように弟子たちに言われました。キリストに贖われた私たちが、主の期待どおりに実を結ぶ者となるためには、キリストにしっかりととどまり続けなければなりません。枝が幹から離れるなら、枯れてしまうのです。いのちを失ってしまうのです。そうならないように、日々、主との交わりを保ち、みことばによる養いを受け、ますます主との繋がりを強めていきたいと思います。

実を豊かに結ぶ者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 13章◇(9月24日)

「実に彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を築くとすぐ、それに漆喰で上塗りをしてしまう。」…エゼキエル13:10

主はエゼキエルに、自分の霊に従い、自分の心のままに、「主のことば」と言って人々に対して偽りの預言をし、民を惑わしている者どもに次のことを宣告せよと言われましたが、それは、彼らが見ていたのはむなしい幻であり、まやかしの占いによって語る彼らに主が手を下し、イスラエルの家から追放されるという預言的内容でした。主はまた、彼らは壁を築くとそれに漆喰で上塗りしてしまう、と言われましたが、それは、神がエゼキエルの口を通して預言として語られている真実のメッセージを、漆喰で上塗りするようにして覆い隠し、平安と安全という、民に喜ばれる偽りのメッセージを語っている彼らのあり方を、たとえを用いて非難するためでした。さらに主は、呪法のひもを縫い合わせて人々の手首につけさせ、ベールを作り、神が忌み嫌われる占いにより、人々のたましいを罠にかけている女偽預言者たちに対しても、主ご自身がそのひもを彼女たちの腕からもぎ取り、人々のたましいを罠から解放し、彼女たちの手から救い出されると告げよと、エゼキエルに命じられました。「自分の心のままに預言する」(2,17節)、「自分の霊に従う」(3節)、「自分たちのたましいのために人々を生かしている…」(18節)。偽預言者たちは、そのように、自分たちが神に成り代って、自分たちのうちから出たメッセージを語り、自分たちの意のままに人々を動かそうとしていたのです。そして人々も、彼らが語る、平安、安全、守りという、自分たちにとって喜ばしいメッセージを歓迎し、鵜呑みにし、信じてしまったのです。そのようなことはいつの時代にもあります。しかし真理は一つであり、まことの神のことばを私たちは聞かなくてはならないのです。ともすれば私たちも、耳障りの良いメッセージだけを歓迎するような思いになりがちですが、みことばを選り好みせず、へりくだって、すべての神のことばを受け取る者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 12章◇(9月23日)

「人の子よ。今、イスラエルの家は言っている。『彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。』」…エゼキエル12:27

主はエゼキエルに、2つのことを演技するよう命じられました。それは、彼がバビロンの地で一緒にいた民が「反逆の家」であり、彼らが、エルサレムの残留者たちと同じく都の不滅を信じ、捕囚生活はすぐに終わって帰還できると幻想を抱いていたため、エゼキエルの演技を通して、象徴的な預言を彼らに与えようとされたからです。1つ目の演技は3-6節にあるように、捕囚の者として荷物を担ぎ、壁に開けた穴から暗いうちに逃げ出すということでした。そしてそれは、エルサレムに残っている者たちも、その演技を見る者たちが経験したように、バビロンに捕らえ移されるということを暗示していたのです。2つ目の演技は18節にあるように、震えながらパンを食べ、おののきながら水を飲むということでした。そしてそれは、エルサレムがバビロンによって包囲され、そこの住民が恐怖にとらわれ、いつ敵が攻め込んで来るか…と、びくびくしながら食事することを暗示していたのです。エゼキエルの演技が主の預言であることを、民は認めました。しかし彼らは、それは遠い将来のことだと言って、楽観的な考えを捨てようとはしませんでした。そんな民に対して主は、「わたしのすべてのことば、わたしが語ることは、もはや引き延ばされることはなく、必ず成就する」と、エゼキエルを通して告げられたのです。ともすれば私たちも、そのような楽観主義に陥ってしまいますが、主の再臨はまだまだ先のことだと考えるのではなく、それがもう間近に迫っているとの切迫感を持つことが大切なのです。花婿が来た時に油を持っておらず、あたふたした愚かな娘のようではなく(マタ25:1-13)、また、畑が色づいているにもかかわらず、まだ早いと考えて刈り入れようとしない怠惰な農夫のようにならず(ヨハ4:35)、主の預言、すなわち神のみことばをしっかりと受けとめ、主のみこころに従って歩みたいと思います。

主の導きに従順な者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 11章◇(9月22日)

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」…エゼキエル11:19

主はエゼキエルに対して、主の宮の東の門にいた25人について、彼らは悪いはかりごとをめぐらし、この都は鍋で、自分たちはその肉だと言っているから、彼らに預言せよ、と命じられました。彼らは高慢な者たちであり、エルサレムは頑丈な鍋であって周囲の敵を寄せつけない、中にある大切な肉のように自分たちは守られていると考え、戦いの備えなど不要だと、楽観視していたのです。しかし彼らは、本当に大切な「肉」、すなわち主の御旨に従おうとしていた者たちを刺し殺し、自分たちの思いどおりにしたのです。そこで主は、「鍋」の町エルサレムに対して、ご自身が剣をもたらし、民を連れ出し、他国人の手に渡すと、エゼキエルを通して告げたのです。そして、そのように預言している間にも、25人のうちの一人、ペラテヤが打たれて死ぬこととなりました。それを見たエゼキエルは、民が絶ち滅ぼされてしまうことを恐れ、主にその旨を尋ねました。すると主は、民を諸国の中から集め、イスラエルの地を与える…すべての忌む嫌うべきものをそこから取り除く…彼らに新しい霊、肉の心を与えると彼に告げられました。そのようにして、神の民にふさわしい霊と心を主から与えられた者こそ、主の掟に聞き従い、定めを守り行なうようになるのです。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる」(ゼカ4:6)。何かを行なおうとするときに、このみことばがしばしば引用されますが、もっと広い意味で捉えれば、それは、私たちの歩み、存在が、主の御旨にかない、主の民にふさわしい者とされるということでもあります。罪の性質を持った私たちは、自分の努力で主の道を歩み通すことはできませんが、主から霊と肉の心を与えられるなら、主の教えに聞き従い、主のみことばを守り行なう者とされるのです。主の似姿へと変えられるのです(2コリ3:18)。新しい霊と肉の心を与えてください…と、日々主に祈り求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 10章◇(9月21日)

「彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。」…エゼキエル10:20

エゼキエルが次に見せられた幻は、神殿のケルビムについてでした。主は亜麻布の衣をまとった者に対し、ケルビムの間の炭火を両手に満たし、それを都の上にまき散らすように命じられ、主に従ったその者は、ケルビムから炭火を受け取ると出て行きましたが、それは、神のさばきがエルサレムに下ることを暗示していたのです。「主の栄光がケルビムの上から上り」(4節)、「主の栄光が…ケルビムの上にとどまった」(18節)、「イスラエルの神の栄光が彼らの上にあった」(19節)。主の栄光が常にケルビムとともにあったと、エゼキエルは記しています。そして、彼がバビロンの地、ケバル川のほとりで捕囚の民と一緒にいたとき、幻の中で見せられた4つの生きものもまた(1章)、ケルビムであることを彼は知ったのです。元よりケルビムは、エルサレムの神殿の中で、主の臨在を象徴する契約の箱を覆い、支える存在ですが、そのケルビムが、ケバル川のほとりにいたエゼキエルに幻の中で現れたということは何を意味するのでしょうか…。それは主の栄光と臨在が、エルサレムの神殿、イスラエルの国の中にとどまらず、バビロンの地で捕囚となっている神の民とともにあり、神が彼らを見捨てず、見放さず、守り、支え、導いておられることを意味していたのです。「主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」。モーセはそのようにヨシュアに告げました(申31:8)。詩人もこう告白しています。「まことに主はご自分の民を見放さず ご自分のゆずりの民を お見捨てになりません」(詩94:14)。そしてインマヌエルなる主イエスは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束されたのです(マタ28:20)。エゼキエルはその幻を見、バビロンの地で大きな励ましを受けたに違いありません。私たちもまた、みことばを通して、主からの励ましを受け取りたいと思います。

平安と希望が増し加えられますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 9章◇(9月20日)

「主は彼にこう言われた。『都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。』」…エゼキエル9:4

主はエゼキエルに対して大声で、エルサレムの都を罰するための武器を持った者たちを連れて来いと命じられました。その後、彼は幻をまた見せられ、そのように武器を持った6人の男たちと、別の書記の者が神殿の中に入って来て、青銅の祭壇のそばに立ったのを見たのです。主はその書記の者に、エルサレムの中を行き巡り、忌み嫌うべきことを行なおうとせず、それが多くの者たちになされているのを嘆き悲しんでいる人々を見つけ出し、それらの者たちの額に、見分けるためのしるしをつけるように命じられました。そして6人の男たちには、そのしるしがない者を、容赦なく打ち殺すよう命じたのです。それは神殿の前の老人たちから始められました。次々に人々が打たれ、神殿の庭はその者たちのしかばねでたちまちいっぱいになりました。それを見ていたエゼキエルがたまらず、イスラエルの残りの者たちをことごとく滅ぼされるのか…と主に尋ねると、私はあわれみをかけず、惜しまないとの答えがありましたが、その書記は、命じられたとおりに行なったと報告しました。つまり、都には、忌み嫌うべきことを嘆き悲しむ者たちがいたのです。後に、主イエスの使徒ヨハネが見せられた幻では、獣(悪魔)が人々に、666の数字の刻印を額に受けさせ、それがない者は、物の売り買いができないようになっていましたが、エゼキエルが見せられた幻においてはその逆でした。世の人々が当然のように偶像を拝み、それに頼って歩んでいる中、主と心を一つにし、そのことに心を痛め、嘆き悲しんでいる者たちが確かにいたのです。それはおそらく、ごく少数の者たちであったでしょう。しかし彼らは、主に喜ばれる者、用いられる者たちであったのです。私たちも、今の世にあって、主と同じ心を持ち、そのような者がさらに起こされていくようにとりなし、また、神のことばを宣べ伝える者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 8章◇(9月19日)

「見たか、人の子よ。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、些細なことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。…」…エゼキエル8:17

エゼキエルがユダの長老たちとともに自分の家に座っていたとき、主の御手が彼の上に下り、霊が彼を引き上げ、幻のうちにエルサレムの神殿へと携え移し、そこでさまざまなものを彼に見せられました。最初のものは、北の方の祭壇の門の入口にあった「ねたみ」という像であり、主は彼に、「イスラエルの家は…ここで大きな忌み嫌うべきことをしている」(6節)と言われたのです。次に主は、彼が壁に穴を開けて通り抜け、一つの部屋に入るようにさせました。すると、驚いたことに、そこの壁の一面に、這うものや動物のあらゆる形が彫られ、その前に立っていたイスラエルの家の70人の長老たちが、手に香炉を持って、香を立ち上らせていたのです。また主は、彼を主の宮の入口に連れて行き、そこで女の者たちがタンムズという偶像の神のために泣いているのを見せられ、さらに、主の宮の内庭へと進ませましたが、そこではなんと、30人弱の者たちが、主の祭壇に背を向けて、東の方を向いて、太陽を拝んでいたのです。そして主は、それらの忌み嫌うべき行為に対して、それは決して些細なことではない…わたしは激しい憤りをもって彼らに応じる…と、エゼキエルに告げられたのです。日本においても、高い所から見る日の出を「ご来光」と呼んでそれに手を合わせて拝んだり、樹齢何百年という大木にしめ縄を張ってそれを神格化したりすることが、平気で行なわれています。しかしそれは、この世界を造られた神の怒りを引き起こすことであって、神の民とされ、そのことを知っている私たちは、人々がそのことを改め、唯一まことの神に立ち返るように、主がこの国をあわれんでくださるようにと、とりなすべきなのです。それを見て、しょうがない…と、無関心であってはならいのです。今こそとりなし手が必要とされている…。そのことを覚えて、祈り続ける者でありたいと思います。

主の前に祈りの香を立ち上らせる者とされますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 6章◇(9月17日)

「彼らは、わたしが主であること、また、わたしが理由もなく、このわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知る。」…エゼキエル6:10

主はまたエゼキエルに対し、イスラエルの山々、すなわちそこに住む民に向って預言するよう命じられました。それは、神である主が、剣を民の上にもたらし、彼らが高き所に築いた偶像を破壊し、その祭壇はもちろんのこと、民が住む町々まで廃墟とし、刺し殺された者を投げ捨てるという、恐ろしいわざわいについての警告です。しかしまた主は、民が諸国に追い散らされても、そのうちのある者たちは、剣から逃れるようになるとも言われました。そしてその彼らは、自分たちが偶像を慕ったことがいかに神を傷つけ、悲しませたかを思い知り、悔い改め、それまで行なってきた忌み嫌うべきことを嫌って捨て去るようになる、それこそ、わざわいを民に下す真意なのだ…と、主はエゼキエルに明かされたのです。そのように、ご自身の民に対する主のさばき、わざわいは、彼らへの憎しみをぶつけるためではなく、彼らを根絶やしにするわけでもなく、民が主に立ち返り、イスラエルの神が主であることをあらためて知るためであったのです。そして、そのような荒療治によらなければ、頑なな民は、自らの過ちを認めようとはしなかったのです。「そのときあなたがたは、わたしが主であることを知る」(7節)。同じことが繰り返されています(10,13,14節)。「知る」とは、単に、神についての知識を得ることではありません。それは、神の存在を認め、自らの主として信じ、受け入れることです。そして、その主の前に、自分が握っているものを明け渡し、へりくだり、その主に自分が造られ、生かされている…すなわち自らのいのちが主の御手にうちにあることを覚え、主を畏れて生きるということなのです。「知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊」(詩100:3)。日ごとに主の偉大さを知り、その主を待ち望んで生きる者でありたいと思います。

霊の目がさらに開かれますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 5章◇(9月16日)

「わたしが、怒り、憤り、また憤りによる懲罰をもってあなたにさばきを下すとき、あなたは周りの国々のそしりとののしりの的、教訓と恐怖となる。主であるわたしがこれを告げる。」…エゼキエル5:15

エゼキエルに対する主の要求は続きました。今度は、彼の髪とひげを剃り、その毛を3等分し、一つを町の中で焼き、もう一つを町の周りで剣で打ち、残りの一つを風に乗せて散らすように、またその中からいくらかを取り、火の中で燃やすようにと、主は彼に命じられたのです。それらのことは、イスラエルの民への主のさばきを表わしていました。彼らは主の定めを嫌い、掟に従って歩もうとしなかったので、主は、エゼキエルを通して民に、「あなたのしたすべての忌み嫌うべきことのゆえに、これまでしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたに対して行う」(9節)と言われたのです。11節には「忌まわしいもの」、「聖所を汚した」とありますが、特に民の偶像礼拝に対し、主は怒りを燃やされたのです。その結果、あなたは肉親の肉を食べるようになると、おぞましいことが主から告げられましたが(10節)、それはひどい飢饉が起こるからです。エゼキエルが主から命じられたことは、疫病と飢饉、敵の剣、なお剣に追われるという、主による3つのわざわいを暗示していたのです。それらを主がなされるのは、単にご自身の民を懲らしめ、悪と不義から立ち返らせるためだけではありません。そのことによって、周りの国々、すなわち異邦人たちに対し、ご自身の存在を知らしめ、畏れさせ、教訓を与えるためであったのです。そしてそれは、その時代の者だけではなく、この預言の書のことばを通して、すべての人々がそのようになるためであり、主は、人を悪と不義へと向わせる罪の支配を断ち切るために、御子をメシアとして遣わし、十字架と復活による贖い、罪からの救い、永遠のいのちという霊的な祝福をもたらしてくださったのです。そのように神が、聖であり義であられると同時に、愛とあわれみに満ちたお方であることを覚え、その主の前に、ますますへりくだって歩みたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 4章◇(9月15日)

「あなたは左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎をその上に置け。あなたがそのように横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。」…エゼキエル4:4

主はエゼキエルに対し、奇妙なことを要求されました。それは、まず粘土板を一枚取り、その上にエルサレムの町を描き、さらにそれに対する包囲壁として、鉄の板を一枚取って町が描かれた板と自分との間に立てよ、ということでした。そしてそれは、エルサレムの町とそれを包囲するバビロンの軍隊の「模型」であったのです。また、主はエゼキエルに、左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎の年数を日数とした期間、すなわち390日の間その咎を負うようにし、その後、今度は右脇を下にして同じようにし、40年を意味する40日の間、イスラエルの家の咎を負うようにせよ、と命じられました。さらに主は、小麦、大麦、そら豆などの種々の穀物を合わせて材料としたパンを作り、イスラエルの家の咎を負うために横たわっているその期間、毎日、一日一回、約2百グラムのパンと630ccの水を摂り、人の糞で焼いた大麦のパン菓子も食べよとさえ言われたのです。祭司として汚れに敏感であったエゼキエルが、さすがに難色を示し、それは耐え難いことだと訴えると、主は彼に、それなら、人の糞の代わりに牛の糞でよいと言われました。そのようなことをエゼキエルが主から命じられた理由…それは、彼のその行動や姿をイスラエルの民が見て、やがて実際に町が包囲されることを示し、また、民とその先祖たちの罪と咎がいかに大きなものであるかを示すためであり、そのことを知って彼らが、悔い改め、ご自身に立ち返ることを、主が願っておられたからなのです。寝返りも打てずに1年以上の間、民の咎を一身に負って横たわるエゼキエルの痛みと苦しみ…。それは、メシアであるイエス・キリストが、全人類の罪と咎を負って十字架上で受ける痛みと苦しみを暗示しています。エゼキエルの比ではないその苦悩、そして何よりも、主イエスのいのちによって私たちの罪咎が赦されていることを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 3章◇(9月14日)

「…もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」…エゼキエル3:18

主は、エゼキエルに対し、あなたに与えるこの巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ、と命じられました。そして、彼が実際にその巻物を食べてみると、それは蜜のように甘い味がしました。預言者エレミヤは、私はあなたのみことばを食べました…と言い(エレ15:16)、詩人は、あなたのみことばはなんと甘いことでしょう…と歌いましたが(詩119:103)、主が与えられた巻物とは、明らかに、神のことば、主の戒めを意味していたのです。5節には、「あなたは、難しい外国語を話す民にではなく、イスラエルの家に遣わされるのだ」とありますが、主は、あなたが異邦人に語るなら、彼らはよくわからない外国語でのその話しに関心を示すが、イスラエルの民はそうではないので、関心を示さず聞こうとはしない、そしてそれは、彼らの額が硬くて柔軟な思考ができず、心が頑なだからだ…とエゼキエルに言われたのです(6-7節)。その後、霊によって引き上げられたエゼキエルは、捕囚の民のところに行って7日間ただ座っていましたが、主から、わたしの口から出ることばを聞き、わたしに代って警告せよ、と命じられました。そしてもし警告しないなら、悪と不義の中にある者は死に定められ、その血の責任をあなたに問うと、彼は主から釘を刺されたのです。そのように主の代弁者となるには、まずその人自身がしっかりと主のことばを聞き、信じ、自分のものとしなければなりません。そのことばを食べ、咀嚼し、消化していなければ、主の代りに取り継ぐことができないのです。私たちも、主の代弁者として福音を宣べ伝えるよう求められていますが、自分が神に愛され、罪を赦され、神の子どもとされていることを心から感謝し、喜んでいるなら、その福音の宣教は単なる説明ではなく、生きた証しとなって人々に届いていくのです。そのために、日々みことばを食し、その甘さを十分に味わいたいと思います。

救いの喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 2章◇(9月13日)

「彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」…エゼキエル2:7

主は、バビロンの捕囚の民とともにいたエゼキエルを、同胞に対してご自身のことばを伝える預言者として立てられましたが、その民について主は、「反抗する国民」、「反逆の家」と言われ、その背きは、今の世代だけでなく、彼らの先祖たちの時代からずっと続いてきたことなのだと、民の持つ罪の深さ、頑なさを非難されました。その反抗とは、直接的には、主がご自身のみこころとして示すために民に与えられた律法、戒めに従わないことであり、それは主ご自身への反逆にほかなりません。その律法の土台と言えるものは十戒として示されましたが、そこではまっ先に、イスラエルの神以外にほかの神があってはならない、偶像を造ってそれを拝み、それに仕えてはならないと命じられています。しかし民は、繰り返しその教えを破り、主の御怒りを引き起こしたのです。心に留まるのは5節のことばです。「反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、彼らは自分たちのうちに預言者がいることを知らなければならない」。同じ内容のことばが7節にもあります。主は、民があなたのことばを聞かなくても語るようにせよ…すなわち、あなたを通して語られたわたしのことばに民が従うか従わないか、その反応とは無関係に語れ…民の反応を恐れてはならない、彼らの顔をおびえるな…とエゼキエルに言われたのです。パウロは、アテネでキリストの復活のことを語ったとき、人々からあざ笑われ、そのことについてはまたいつか聞くことにしよう…と、相手にしてもらえませんでしたが、だからと言って落ち込むことなく宣教を続けました。私たちも主の弟子たちとして、「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と命じられています(マル16:15)。それは、そのことばを聞いてもらえるかどうか、聞いた人が信じるかどうかに関わりなく、神のことば、救いの良き知らせを語る、ということなのです。相手の反応を恐れず、まっすぐに語り続ける者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:エゼキエル書 1章◇(9月12日)

「生きものが進むときには輪も進み、生きものが止まるときには輪も止まり、生きものが地上から上がるときには輪も上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。」…エゼキエル1:21

エゼキエルはユダの国の祭司でした。彼は、2節にあるとおり、ユダの王エホヤキンの捕囚、最後の王ゼデキヤの統治へと進む中、捕囚の民とともにバビロンにいましたが、ある日、幻を見せられ、受け取ったそのメッセージを預言者として民に語るよう、主から召されたのです。彼が見ていると、人間のような姿をした生きもののようなものが4つ現れました。それらには4つの顔と4つの翼があり、さらにその翼の下から人間の手が四方に出ており、その顔の右側は獅子の顔、左側は牛の顔となっていて、4つとも鷲の顔を持っていました。それらは前を向いてまっすぐに進み、そのそばには「輪」があって常に一緒でしたが、その輪の中に「生きものの霊」があって、その生きものを進ませていたと書かれています(12,20,21節)。そしてそれらの生きものの頭上には、高く広がるまばゆい水晶のような大空に似たものがあり、さらにそのはるか上方にはサファイアのように見える王座に似たものがあり、そのまたはるか上には、人間の姿に似たものがありました。エゼキエルは、その存在の周りは輝きがあり、主の栄光の姿のようであったと記しています。彼はそれを見ると畏れ、ひれ伏し、それが語ることを聞きました。エゼキエルが見た、4つの生きもののようなものが何かは不明ですが、翼を持っていることから、契約の箱の蓋の上で翼を広げていた、ケルビムのような存在であると考えられます。またそれらとともにあった輪は、モーセの時代に、昼は雲の柱、夜は火の柱がイスラエルの民を導いたのと同じく、主の臨在の象徴であると言うことができます。生きものの霊が輪の中にあった…生きものはその輪が進ませるところに進んで行った…。その輪は常に生きものとともにあった…。エゼキエルが見たその関係は、神と私たちとの関係をも示唆しています。主に生かされ、御霊の導きに従って進む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書◇ 21章1-14節◇(9月10日)

「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。』そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。」…ヨハネ21:6

ヨハネの福音書の最後の章です。場面はエルサレムからティベリア湖、つまりガリラヤ湖の畔へと移っています。他の福音書によれば、復活された主イエスは、弟子たちに対して、ガリラヤへ行くようにと命じられていましたが(マタ28:10)、それはなぜだったのでしょうか…。ヨハネは、そのときガリラヤ湖畔にいたのはペテロたち7人の弟子であったと記しています。リーダー格であったペテロは「私は漁に行く」と言い出し、他の者も一緒に行きましたが、「人間を取る漁師」として召し出されたはずのペテロのそのことばと取った行動に、主を3度否んでしまった…という彼の敗北感のようなものを感じます。しかし主イエスは、ペテロだけでなくそれぞれの弟子の心のうちを良くご存じでした。そして彼らを赦し、解放し、回復させ、御国の福音の宣教という重要な働きをしっかりと引き継ぐために、主は、その「原点」であったガリラヤに、彼らをもう一度呼び集められたのです。そのところで主は、一晩中漁をしても何も取れなかった弟子たちに、舟の右側に網を打つよう命じ、彼らがそのようにするとおびただしい数の魚が捕れました。そのとき彼らは、深みに漕ぎ出して網をうつよう命じられ、舟が沈むほどの大漁になったこと(ルカ5:7)を思い出していたことでしょう。また、主は、炭火をおこして弟子たちに魚とパンを用意しておられましたが、それを見た彼らは、5千人以上の群衆が2匹の魚と5つのパンによって養われたこと(ヨハ6章)を連想したに違いありません。そして主は、その後、ペテロとの会話の中で、「わたしの羊を牧しなさい」、「わたしに従いなさい」と命じられたのです(16,19節)。主は、私たちをも、しばしば「原点」に連れ戻されますが、それは、私たちが何のために生かされているのかを、思い起こさせるためなのです。その召しを忘れずに歩み続ける者でありたいと思います。

主の導きと支えがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 20章19-31節◇(9月9日)

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。』」…ヨハネ20:29

主イエスは、復活された週の初めの日、日曜日の夕方に、弟子たちが戸に鍵を掛けてこもっていた家に行かれ、壁をすり抜け、彼らの真ん中に立ち、「平安があながたにあるように」と言われました。その姿を見た弟子たちは、死んだと思い込んでいたイエスが忽然と現われたことに驚き、状況が理解できず、怯えたに違いありません。さらに主は、十字架で釘打たれた手と、槍で突き刺された脇腹を彼らに見せられました。おそらく彼らは、その主のからだに、恐る恐る触ってみたことでしょう。すると、初めは、幽霊ではないか…と怯えていた彼らも、ようやく、目の前にいる人物がよみがえられた主であると確信でき、一転して、彼らのうちに喜びが湧き起こったのです。ところが弟子の一人のトマスは、そのとき彼らと一緒におらず、後に皆が、私たちは主を見た、と言っても取り合わず、その手と脇腹に自分の指と手を入れてみなければ決して信じない、と言い張ったのです。すると、その8日後に主は再び弟子たちに現われ、そこにいたトマスは、あなたが望んでいたとおりに手をわたしの脇腹に入れよ…と主から命じられると、「私の主、私の神よ」と言って主が復活されたことを信じ、不信仰であった自分を恥じたのです。主はトマスにこう言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。…見ないで信じる人たちは幸いです」。トマスは、3日目によみがえると言われていた、主のことばを信じるべきだったのです。主を見たと証言した、他の弟子たちのことばを信じるべきだったのです。しかし彼は、あくまで自分の考え、五感、判断を重んじました。そしてそのようなかたくなな態度、自分中心、人間中心のあり方は、主に喜ばれるものではなかったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。ともすれば、実証主義、科学万能主義の世にあって、私たちもその影響を受けてしまいがちですが、主がトマスに言われたことばを、自分のものとして、しっかり受けとめたいと思います。

ますます主の前にへりくだる者とされますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 20章11-18節◇(9月8日)

「彼らはマリアに言った。『女の方、なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。』」…ヨハネ20:13

ペテロともう一人の弟子は、失意と困惑の中、墓から戻っていきましたが、マグダラのマリアは、墓を離れがたい思いで、引き続きそこに留まり、泣き続けていました。そして、ふと彼女が墓の中をのぞき込むと、そこに二人の御使いが座っていたのです。なぜ泣いているのかと彼らから尋ねられた彼女は、主のからだがだれかに取られた…どこに置かれているかわからない…と答えました。その後、人の気配を感じたマリアが振り向くと、そこに園の管理人とおぼしき人が立っていました。そして、御使いと同じことを尋ねられたので、彼女はその人が主のからだを動かしたのだと考え、私が引き取るので、主のからだがどこにあるかを教えてほしい、と伝えました。ところが、その人はそれに答えず、「マリア」と彼女の名を呼びました。驚いたマリアが良く見ると、それは、死からよみがえられた主イエスだったのです。「ラボニ」(先生)と応え、思わず主の足にすがりついた彼女を優しく見つめつつ、主は、わたしの兄弟たちのところに行き、わたしがよみがえったこと、そして父のみもとに行こうとしていることを伝えるようにと、彼女に命じました。「私の主」と御使いに言ったマリア…そのことばに、主に対する彼女の深い愛情、変わらない思慕の念を見ることができます。また、「わたしの兄弟たち」と言われた主イエス…そのことばにも、弟子たちへの深い愛とあわれみ、また彼らへの期待を感じることができます。恐れを抱いてご自身から離れて行った不信仰な弟子たちに対し、主はそのように言われましたが、主は、ご自身の教えに従いきれない弱い私たちに対しても、同じように愛し、あわれみ、関わり続けてくださるのです。そのことを感謝しつつ、マリアのように「私の主」と、主をさらに深く愛し、慕い求める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 20章1-10節◇(9月7日)

「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」…ヨハネ20:9

安息日の翌日である週の初めの日、すなわち日曜日の朝早く、夜が明ける前の暗いうちに、マグダラのマリアは主イエスが納められた墓にやって来ました。すると、驚いたことに、その墓の入口を封じていた石が、脇にどかされていたのです。そのときマリアが墓の中をのぞき込んだかどうかは不明ですが、彼女は、主のからだが誰かに取られてしまったと思い込み、そのことを弟子たちに急いで知らせるべく、来た道を走って戻ったのです。マリアからその報告を聞いたペテロともう一人の弟子は、自分たちの目でそれを確かめるべく、走って現地に向かいました。そして、墓に着き、中に入ってみると、主の亡きがらはそこにはなく、からだが包まれていた亜麻布と頭を包んでいた布だけが、そこに残されていたのです。二人はそのとき、マリアが告げたとおり、主のからだが何者かに盗まれたことを認めました。8節に「そして見て、信じた」とありますが、それは、主の復活を信じた、という意味ではありません。なぜなら、ヨハネは次の9節に、それとは逆のことを記しているからです。また、もし復活を信じたのなら、二人は、他の弟子たちにそのことを急いで知らせるべく、走って戻ったはずだからです。主は、ご自分が死からよみがえるということを、繰り返し弟子たちに語っておられました(マルコ8:31,9:31,10:34)。しかし彼らは、実際にそのことが起こったとき、それが主の復活だとは思わなかったのです。そしてそれは、弟子たちの霊の目がまだ開かれていなかったからにほかなりません。そしてそれは、私にも起こり得ることなのです。どんなに繰り返してみことばを聞き、それが暗記できるほどになっていても、その霊的な意味が理解できていなければ、それは主のみこころを受け取ったとは言えないのです。知恵と啓示の御霊によって霊の目が開かれ、みことばの意味を悟ることができるように、さらに主に祈り求めていきたいと思います。

主のみこころを受け取ることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 19章31-42節◇(9月6日)

「その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。」…ヨハネ19:42

ユダヤ人たちは、翌日が安息日であったため、十字架の上に遺体が残ることを嫌い、処刑された者たちのからだの取り下ろしをピラトに願い出ました。すると足の支えをなくし、呼吸困難に陥らせて死を早めるべく、兵士たちは3人の脚を折ろうとしましたが、イエスはすでに死に至っていたため、そのことは行なわれませんでした。その後、兵士の一人がイエスの脇腹を槍で突き刺すと、そこから血と水がただちに流れ出ましたが、そのことについてヨハネは、それは「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と聖書にあるとおりであり(ゼカ12:10)、また兵士たちがイエスの脚を折らなかったことについても、「彼の骨は、一つも折られることはない」というみことばの成就(詩34:20)であったと記しています。そのように、起こった一つ一つは、神が計画され、準備され、実現に至らせたことであったのです。それらは決して、偶発的、想定外のことではないのです。主が息を引き取られる直前の「わたしは渇く」というそのことばも、みことばの成就(詩22:15,69:21)であったのです。イエスのからだは取り下ろされ、墓に葬られましたが、それを担ったのは、ユダを除く11人の弟子たちではありませんでした。イエスへの信仰をそれまで隠していたアリマタヤのヨセフと、パリサイ人の議員として真理を追求していたニコデモの二人がそれを行なったのです。なぜなら弟子たちは、自分たちの師が処刑されてしまったことにショックを受け、また、同じように捕らえられるのではないかと恐れ、身を隠していたからです。ペテロは、あなたのためならいのちも捨てる、と豪語していましたが、結局、主を3度否み、主の死の場面でも、表に出ることはありませんでした。にもかかわらず主は、彼らを見捨てず、信仰を回復させ、後に彼らは、死に至るまで忠実なしもべとなって用いられたのです。私たちもまた、その主のあわれみの中で、そして主のご計画に従って歩み、用いられる者でありたいと願います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 19章17-30節◇(9月5日)

「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには『ユダヤ人の王、ナザレ人イエス』と書かれていた。」…ヨハネ19:19

祭司長たちからの訴えによりイエスを取り調べたユダヤ総督ピラトは、イエスに何の罪も見いだせなかったため釈放しようとしましたが、群衆は「十字架につけろ」と叫び続けました。そしてピラトは、皇帝カエサル以外に王はない、もし釈放するならあなたはカエサルの友ではない…と彼らに言われると、自分の立場が危うくなることを恐れ、彼らにイエスを引き渡したのです(1-16節)。イエスは重たい十字架を負わされ、どくろの場所と呼ばれる丘まで歩かされ、そこで二人の犯罪人とともに十字架に釘づけられました。そのイエスの十字架の上には、ピラトが書いた罪状書きとして、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記された札が掲げられましたが、それはつまり、ローマ帝国に対する政治的な反逆を企てた、という意味です。ローマ当局は、そのような者を、人々への見せしめのために、十字架刑に処していたのです。当時、ユダヤの人々は、ローマ帝国の支配下にあって、自分たちの国を再興してくれる強い政治的なリーダーの登場を待ち望んでいました。そして、イエスがそのような存在かと初めは期待していましたが、そうでないとわかると失望し、祭司長たちに扇動され、十字架につけるよう要求したのです。しかし、イエスは確かに王であられました。政治的ではなく霊的な王として、主権をもってすべての領域を統べ治め、人々を病や悪しき霊から解放し、ご自身の十字架と復活による贖いを成し遂げ、ユダヤ人だけでなく、すべての国の人々を罪から解放するためのメシア、神の国の王として来られたお方なのです。そして、すべての人は、このお方を王としてあがめて生きるように求められているのです。私たちは、このお方を信じて救われ、御国の民とされ、日々、祝福を受けています。そのことを感謝しつつ、ますますその王の主権を認め、自らを明け渡し、主を私たちの心の王座にお迎えしたいと思います。

王の前にますますへりくだる者とされますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 18章28-40節◇(9月3日)

「ピラトはイエスに言った。『真理とは何なのか。』」…ヨハネ18:38a

大祭司カヤパのもとで夜通し裁判を受けた主イエスは、明け方になり、ユダヤ総督であるピラトの官邸に連れて来られました。汚れを避けるため、異邦人であるピラトの官邸の外にいたユダヤ人たちのところに出てきたピラトは、彼らに、自分たちの律法に従ってイエスを裁くよう命じましたが、彼らは石打ち刑ではなく、ローマの刑である十字架刑に処することをあくまで求めたのです。そのようなユダヤ人たちの一方的な要求に困惑したピラトは、主イエスを官邸内に呼んで尋問を始めました。すると主は、わたしの国はこの世のものではない、と言われ、ピラトが、ではやはりあなたは王なのかと確認すると、そのことを認めた上で、わたしは真理について証しするために世に来たのだ、と答えられました。「真理とは何なのか」…。その時、ピラトはそのことが理解できませんでした。それについてさらに詳しく尋ねることもできたのです。しかし、群衆を恐れ、イエスとの関わりを持ちたくないと考えた彼は、それ以上深追いせず、あの人には何の罪も認めないと言って、刑の執行に応じませんでした。そして、過越の祭りの慣習に従って恩赦をイエスに与えるかと促しましたが、ユダヤ人たちはそれを拒否し、強盗人バラバを…と願ったのです。真理とは何か…。真理とは、すべての人のうちにある罪が赦される道を示すものです。また、それによってもたらされる永遠のいのちの祝福を明らかにするものです。そしてそれは、そのことを実現するために来られた救い主、イエス・キリストご自身であり、その教え、みことばなのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と主は言われました(14:6)。心が頑ななユダヤ人たちはその真理を拒絶し、事なかれ主義のピラトもまたその真理を尋ね求めませんでしたが、主は今も、人々がその真理と出会うよう願っておられます。そのためにさらにとりなす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 18章15-27節◇(9月2日)

「すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、『あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね』と言った。ペテロは『違う』と言った。」…ヨハネ18:17

ユダの主導により捕らえられ、大祭司カヤパのしゅうとアンナスのところに連れていかれた主の後を、ペテロともう一人の弟子が追い、家の中庭に入って行きました。するとペテロは、門番の女性から、あなたはイエスの弟子ではないのかと怪しまれ、ばれたら大変だと恐れた彼は、即座に「違う」と言ってそのことを否定しました。その後ペテロは、しもべたちや下役たちに混じり、火のそばで暖を取っていましたが、気づいた人々からまたもや、あなたはイエスの弟子だろうと言われると、彼は慌てて、「弟子ではない」と否定しました。そしてさらに、ペテロに耳を切り落とされたしもべの親類から、あなたが園でイエスと一緒にいるのを見かけた、と指摘されると、彼は三たび、イエスとの関わりを否定したのです。その時、鶏が鳴きました。ペテロははっとしたことでしょう。なぜなら、そのように自分が三度イエスを否むこと、そしてそれが鶏が鳴く前に起こることを、主は前もって彼に告げておられたからです(13:38)。ペテロはその主のことばを思い出し、悔恨の念にかられ、外に出て行って激しく泣いたと、ルカは伝えています(ルカ22:62)。ペテロは主に対して、「あなたのためなら、いのちも捨てます」と、自信たっぷりに告白していました(13:37)。しかし、その決意表明は結局、口先だけのものとなってしまったのです。それは彼が、自分もイエスの弟子として、同じように捕らえられてしまう…と、恐れにとらわれたからです。自分を買いかぶり、自信過剰であった彼は、そんな自らの弱さ、現実を、認めることができなかったのです。そしてそれは、自分の知恵、力、正しさに頼って生きようとする霊的な高慢であり、そのようなあり方は、主に喜ばれるものではないのです。そのことを覚え、「信仰のないこの者をあわれんでください…」と主の前にへりくだり、すべてのことにおいて、主に拠り頼む者、祈り求める者でありたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 18章1-14節◇(9月1日)

「イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。』」…ヨハネ18:11

主イエスと弟子たちは、ゲツセマネと呼ばれるオリーブの木の園の中に入りました。するとそこに、夕食の席でイエスからパン切れを受け取り出て行ったイスカリオテのユダが、ローマの兵士たちと宗教指導者たちの下役たちを引き連れ、イエスを捕らえるべくやって来ました。その一隊は6百人もの武器を持った兵士で構成されており、一人の人物を捕らえるには過剰と言える規模でした。彼らに対して、だれを捜しているのかと主が尋ねると、「ナザレ人イエスを」と答えたため、「わたしがそれだ」と主が返されると、彼らは、その権威ある声に圧倒され、後ずさりして地に倒れました。そして、そのやり取りを再度行なった後、イエスは、弟子たちには手を出さずに去らせるよう促し、ご自身の身を渡そうとされたのです。ところが、血気盛んなペテロは、そうはさせまいと、持っていた剣でマルコスという大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としました。すると主は彼をいさめ、剣をさやに収めるよう命じ、父がわたしに下さった杯を飲まずにいられようかと言って進み出たため、彼らはイエスを捕らえて縛り、尋問するために、大祭司カヤパのしゅうとであるアンナスの家にまず連れて行きました。そのときペテロは、師であるイエスを守ろうとする一心で、そのような激しい行動に出たに違いありません。それは、人間的に捉えれば、弟子として当然のことであったと言えるかもしれません。しかし、主イエスが求めておられたのはそのようなあり方ではなく、弟子として、苦難の中にあっても、感情に動かされることなく、イエスに信頼し、決して離れずに従い続けるということであったのです。そしてペテロは、自分がそのような者ではないということを、その後、思い知らされることになるのです。私たちはどうでしょうか…。どのような状況に置かれても、決して感情的にならずに、主のみことばに立ち、主のみこころを行なう者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。