◇聖書箇所:詩篇 113篇◇(1月31日)

「主は弱い者をちりから起こし 貧しい人をあくたから引き上げ 彼らを 高貴な人々とともに 御民の高貴な人々とともに 座に着かせられる。」…詩篇113:7-8

ハレルヤということばで始まり終わっているこの詩篇は、詩人が抱いている、神への賛美、感謝、驚嘆の思いで満ちています。詩人はヤーウェ、イスラエルの神が、天地を創造され、世界を統べ治めておられるお方であることを覚えつつ、「今よりとこしえまで」、時を超えて永遠に、主があがめられるようにと願っているのです。詩人はまた、その神が、イスラエルを通してすべての国民を愛し、あわれみ、ご自身の民としてくださることを予見しつつ、「日の昇るところから沈むところまで」、東の果てから西の果てまでの「すべての国々の上に高くおられ」、天の上だけでなくそれらの国々の上にも、御力と栄光を現わしてくださるようにと願っているのです。「だれが 私たちの神 主のようであろうか」(5節)。そのような大いなる神はほかにいないのです。「神」と呼ばれる他のものは、何も言わず、動くことができず、人々の必要に答えることができないのです。唯一まことの神なる主だけが、天の高い御座に座し、主権をもってこの世界を治めておられ、かつ、身を低くして、この地に住む一人ひとりに御目を注いでいてくださるのです。その主は、弱い者、貧しい者、不妊の女性など、人々からつまはじきされる者たちを顧み、ちりから起こし、あくた(別訳:灰捨て場)から引き上げ、子を持って喜ぶ母とされ、高貴な者とともに、ご自身が備えられる座に着かせてくださるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザ43:4)と言ってくださるのです。そのように、主は、いつくしみ深く、あわれみ深く、人を差別されないお方なのです。私たちもまた、その主に見いだされ、キリストに贖われ、主のしもべ、聖徒とされた者たちであることを覚え、この詩人と同じ心をもって、「ハレルヤ!」と、絶えず主をほめたたえ、賛美と感謝をささげたいと思います。

主の御名が全地であがめられますように。

◇聖書箇所:詩篇 111篇◇(1月29日)

「主は 御民のために贖いを送り ご自分の契約をとこしえに定められた。 主の御名は聖であり 恐れ多い。」…詩篇111:9

詩篇111篇と112篇は、22行からなる各行の書き出しがヘブル語のアルファベットとなっている形式の、いわゆる「いろは歌」です。そのような遊び心を持ちつつ、詩人は主のみわざについて語り、主をほめたたえています。「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう」(1節)。民の集いにおいてそのように告げる詩人は、主のみわざが偉大なものであり、威厳と威光に満ち、人の考えを越えた奇しいものであることを覚え、あらためて主をあがめています(1-4節)。「奇しいみわざ」とはすなわち、主がなされた「しるしと不思議」であり、イスラエルの民がエジプトを脱出し、カナンの地に導き入れられるまでの間、その奇しいみわざは何度も現わされ、民の心に刻まれたのです。主のみわざとは、そのように、義なる神がご自身の民を敵の手から解放し、救い出し、備えられた相続地へと導き入れる救済のみわざなのです。5節以降で詩人は、その主のみわざをより具体的に語っています。主は民を養うために天からマナを降らせ、うずらを与えられ、約束の地としてカナンの地を与えられ、そこの先住民や周辺の国々の異邦人との戦いにおいて勝利を与えられ、その「みわざの力」を現わされたのです。そしてそれは、彼らの父祖たちとのとこしえの契約を忘れることなく(5,9節)、その約束を実現してくださる、真実な主の贖いのみわざにほかならないのです。主はやがて、ご自身の御子をメシアとして遣わされ、そのキリストは、人類を罪の奴隷から解放するために、ご自身の十字架と復活によって贖いを成し遂げてくださいました。そして、そのことを信じる私たちを、信仰によるアブラハムの子孫、神の民として加え、ご自身の血による新しい契約により、永遠のいのちにあずかる約束を与えてくださっているのです。そのことを覚え、私たちも主に向って、ハレルヤ!と、感謝と賛美をささげたいと思います。

主のみわざを待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所:申命記 11章◇(1月28日)

「あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。」…申命11:18

「これら主がなさった偉大なみわざのすべてを自分の目で見たのは、あなたがたである」(7節)。エジプトを出てから40年が経ち、イスラエルの民の世代交代が進んでいました。主が海を分けて作られた道に民が進み、追っ手のエジプト軍が戻された海に呑み込まれたこと…レビ人のコラが、ダタンやアビラムとともにモーセとアロンに逆らったとき、彼らが割れた地面に呑み込まれたこと…。それらを含めた多くの主の力あるみわざを経験した者は、民の中で少なくなりつつあったのです。だからこそ主は、民が主の掟と定めと命令を心とたましいに刻み、さらに手に結びつけ、記章として額につけ、家の戸口にも書き記し、生活の中で頻繁に語って、次世代の者たちに教え込むよう命じられたのです(18-20節)。その記章は「経札・テフィリン」と呼ばれ、今でも正統派のユダヤ教徒は祈りの際に身に着けます。その小箱の中には申命記や出エジプト記のみことばが入っており、今日の箇所の11章13-21節も含まれるとされています。この章に書かれているのは主の祝福とのろいです。民が主を愛し、主に仕え、主の命令に聞き従うなら、主は民と地を祝福し、豊かな産物を与えてくださるのです。しかしそうでないなら、主の怒りが民に向って燃え上がり、呪われ、その地から滅び去ることになるのです(26-28節)。祝福かのろいか…それはつまり、いのちか死かの選択です。そしてその選択権は民に与えられているのです。かつてアブラハムが祭壇を築いたシェケムの町(創12:6-7)の南には、祝福を象徴するゲリジム山が、北にはのろいを象徴するエバル山が向かい合ってそびえていましたが、民はその二つの山に挟まれ、祝福とのろいのどちらを選ぶかを迫られたのです。そしてそれは、神の民とされている私たちも同じなのです。主を愛し、主に仕え、主の教えに聞き従い、神がもたらされる祝福といのちにあずかる者でありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 10章◇(1月27日)

「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。」…申命10:12-13

主は、ご自身の十戒を書き記してモーセに授けた2枚の石の板が、偶像を拝んでいた民に投げつけられ、砕かれてしまったため、再度与えるべく、またその板を納めさせるべく、2枚の石の板と箱を持って山に登って来るようにとモーセに命じられました。すると彼は、また四十日四十夜、山に留まって民のためにとりなしたのです。その後モーセは、民に対してあらためて、主が求めておられることとして、主を畏れ、主のすべての道に歩み、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕え、主の命令と掟を守るよう命じました。それはつまり、神の主権を認め(14節)、徹底的に主に従うということにほかなりません。主は、イスラエルの父祖たちを愛し、慕い、彼らと契約を結ばれましたが、その約束を果たすべく、後の子孫に対しても、真実に関わり続けられたのです。民がご自身に逆らうことがあっても、忍耐とあわれみをもって、導き続けて来られたのです。モーセは民に、「心の包皮に割礼を施しなさい」と命じましたが(16節)、それはつまり、心の覆いを取り除け、主の前に何も包み隠さず、すべてを主に明け渡すようにせよ、ということなのです。主は、キリストによって贖われ、神の民に加えられた私たちに対しても、モーセが民に命じたのと同じことを求めておられます。私たちも、主を畏れ、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛するのです。みなしご、みなしご、寄留者…私たちの隣人を自分自身のように愛するのです。自分の願いや思いに従って生きるのではなく、他の人や組織の期待に応えることに身を捧げるのではなく、何よりも主ご自身に従い、主のみことばに従って歩むのです。主は真実なお方であり、祝福の神であることを覚えたいと思います(21-22節)。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 9章◇(1月26日)

「それから私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず水も飲まなかった。あなたがたが罪ある者となって、主の目に悪であることを行い、御怒りを引き起こした、そのすべての罪のゆえであった。」…申命9:18

あなたがたが約束の地に入り、そこを占領するようになるのは、自分たちが正しいからではない…。主がそこの国々の邪悪さのゆえに、また父祖たちへの誓いを果たすために、彼らを滅ぼしてくださるのだ…。モーセはそのように民に繰り返し語りました(1-5節)。実際、民は、主に従わないうなじの固い民であり、エジプトの地を出てから主に逆らい続け、何度も主を怒らせて来たのです。主の最大の怒り、それはホレブにおいて、民がアロンに作ってもらった鋳物の子牛を拝んだことに対してでした。モーセがシナイ山に登り、四十日四十夜そこで主と過ごし、十戒が書かれた二枚の石の板を持って山から下りて来たとき、まさにその十戒の中で真っ先に禁じられている偶像礼拝の罪を、イスラエルの民は犯していたのです。モーセはそれを目にし、怒ってその板を民に投げつけ、それは割れて粉々になりました。そして彼は、またもや四十日四十夜主の前にひれ伏し、民とアロンの罪の赦しのためにとりなし、鋳物の子牛を火で焼き、打ち砕いてすりつぶし、そのちりを川に流したのです(15-21節)。四十日四十夜…このことばが本章に何度も出て来ます。イスラエルの民の荒野の歩みも四十年…四十という数字は聖書において「試練」を意味しますが、モーセにとっての四十日四十夜は、民のためのとりなしの期間でもあったのです。主イエスも荒野で四十日四十夜、断食のうちに悪魔の試みを受けられましたが、それは主にとっても全人類の罪の赦しをとりなす期間であったのです。そして主は、身代りとなって十字架にかかられ、自らのいのちを神にささげられ、その贖いによって、主に逆らって歩み続け、多くの怒りを引き起こした私たちを、救ってくださったのです。その主に、絶えず感謝と賛美をささげたいと思います。

主の恵みとあわれみを覚えることができますように。

◇聖書箇所:申命記 8章◇(1月25日)

「…主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」…申命8:3

イスラエルの民にとって、40年間の荒野の歩みは楽なものではありませんでした。飲み水がなく、食べ物がなく、暑さや寒さに耐え、異邦の民と戦い、恐れと疑いを持ちながら歩み続ける、辛くて苦しい行程でした。しかしそれは主のご計画であり、主は、民がご自身に信頼するかどうか、命令を守り行うかどうかを知るために、そのような試練を与えられたのです。そして、ご自身の御口から出ることば、み教えに従うなら、岩から湧き出る水、また天から降ってくるマナによって必要が満たされ、養われ、生かされることを、民に学ばせられたのです。モーセは民に、これから入って行く約束の地がいかに素晴らしいところであるかを、あらためて語りました。そこは荒野とは異なり、水が絶えず湧き出て、食べ物が豊富に取れる地であり、民は何一つ不自由なく満ち足りて、立派な家を建てて生活し、家畜の群れなど、多くのものを所有するようになるのです(7-10節)。さらにモーセは、民がそのような豊かな生活をするようになるときに、自分たちの力が富を築き上げたのだと言って高ぶり、主の恵みを忘れてしまうことがないように、また偶像の神に心奪われて従って行くことがないようにと、警告を与えることも忘れませんでした(11-20節)。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)。この地上での私たちの歩みも、決して楽ではありません。しかし、主を畏れ、主に拠り頼み、主の教えに聞き従って歩むなら、神の国と神の義を第一に求めるなら、私たちの必要は満たされるのです。そして、いのちの水の川が流れ、いのちの木の実がなっている聖なる都、天の御国に入ることができるのです。その希望をしっかり抱きつつ、主の道を歩み続けていきたいと思います。

主からの助けと満たしがありますように。

◇聖書箇所:申命記 7章◇(1月24日)

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」…申命7:6

主がイスラエルの民に約束され、導き入れてくださる地には、先住の民がいました。彼らは数多くまた強い者たちでしたが、主は彼らを追い払われると約束されました。同時に主は、イスラエルの民に対し、それらの異邦人を必ず聖絶せよ、何の契約も結ぶな、彼らと姻戚関係に入るな、彼らの偶像を焼けと命じられたのです(1-5節)。それらのことは、この章の後の節でも繰り返し触れられていますが、25-26節においては「忌み嫌う」ということばが強調されています。神以外の偶像を神として拝み、それに仕えることは、十戒で真っ先に禁じられており(申5:7-9、出20:3-5)、主はねたむ神であって、そのようなあり方を忌み嫌われるのです。しかしイスラエルの民は、後の世代においても偶像を慕い続け、ついには他国によって国が滅ぼされることとなってしまったのです。この章には、主の掟と定めを民が守り行うことによってもたらされる祝福についても書かれています(9-15節)。その祝福は、主が彼らの父祖たちに誓われた恵みの契約に基づいており、民の歩みのあらゆる領域に及ぶのです。「主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた」。この6節のことばが心に留まります。宝とは、かけがえのない大切なものであり、主は、所有するその宝が奪われないよう全力で守られるのです。そしてそのようにイスラエルの民が選ばれ、宝の民とされているように、私たちもまた、キリストによって贖われ、選ばれ、神の民、宝の民として加えられているのです。そのことを覚え、感謝し、誇りとするととともに、自分の歩みの領域から、主が忌み嫌われる偶像、すなわち、神以外の心奪われるものを排除し、その支配を断ち切るなら、信仰によるアブラハムの子孫として、恵みの契約に基づく主の祝福に、さらに豊かにあずかる者とされるのです。そのような主に喜ばれる歩みを、今日も進めたいと思います。

主の祝福が豊かに満ちあふれますように。

◇聖書箇所:申命記 5章22-33節◇(1月22日)

「あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」…申命5:33

ホレブにおいて主がイスラエルの民にご自身の教えを与えられたとき、長老たちはモーセとともに山の麓まで登り、神の足もとだけを見ることが許されました(出24:10)。23節に書かれているのは、そのときのことかもしれません。いずれにしても、民は、神の御顔を見、御声を聞く者はいのちが絶たれてしまうと考えていたため、それ以上そのようなことが続くのを恐れていたのです(26節)。そこで彼らは、モーセが代表としてさらに主の御声を聞き、告げられたことを伝えるようにしてほしい、私たちはそれを聞いて行うとモーセに訴えたのです(27節)。そのことばは主も聞いておられました。そして主は、彼らがご自身を畏れ、そのように告白したことを良しとされ、いつまでもそのとおりであってほしい、そうすれば彼らも子孫も永久に幸せになると言われたのです(29節)。主から、あなたはわたしとともにここにとどまれ、彼らに伝えるべき掟と定めを告げようと言われたモーセは、民に対して、あなたがたが言うとおり、主から命じられたとおりに守り行え、右にも左にもそれずに主が示す道を進め、それは、あなたがたは生き、幸せになり、所有する地で日々が長く続くようになるためだと告げました。私たちは今、肉の目で神を見ることはできません。しかし霊の目をもって主の御顔を仰ぎ見、霊の耳をもって御霊が語られる主の御声を聴くことができます。また、神のことばである聖書が与えられており、そこには私たちが歩むべき道が示されています。そして、今も生きておられる主、道であり、真理であり、いのちであるキリストが、私たちの前に先立って導いてくださっているのです。その道は直線ではなく曲がりくねっています。平坦ではなく山も谷もあります。しかし私たちは、そのいのちの道から右にも左にもそれずに歩み続けるのです。御霊の助けを受けつつ、その歩みを進めたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 5章1-21節◇(1月21日)

「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」…申命5:15

主は、ホレブ(シナイ山)においてイスラエルの民と契約を結ばれ、民が守るべき大切な教え、十戒を与えられました。それは出エジプト記に記されていますが(出20:2-17)、申命記5章にも再度書かれています(6-21節)。両者の内容を比較してみるとほぼ同じですが、申命記5章15節の内容は出エジプト記にはないことがわかります。その15節では、奴隷として虐げられ苦しんでいたイスラエルの民を、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、エジプトから連れ出してくださったことを忘れないようにするために、安息日ごとにそのことを覚え、主に感謝し、主をあがめて礼拝するよう教えられているのです。またその前の14節でモーセは、この世界の創造において、主が7日目にそのわざを休んで安息日と定められたこと、また、その日にはいかなる仕事もしてはならず、それは、奴隷や家畜や町囲みの中にいる寄留者に対しても、同じように適用されるべき定めであると告げ、「そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる」と言っています。エジプトにいた時は、イスラエルの民は安息日に休むことなどできなかったでしょう。しかしそこから脱出し、自由の身とされている民は、かつての苦しい状況を忘れず、主の救いを繰り返し覚え、感謝をささげるように、その安息の恵みを奴隷や寄留者とも分かち合うようにと、主から命じられているのです。それはキリストに贖われ、神の民とされた私たちにとっても同じです。安息日ごとになされる礼拝において、他の多くの聖徒たちとともに、キリストのいのちによって贖われ、罪の奴隷から解放されたその「出エジプト」を主に感謝し、喜びをもって主に礼拝を献げるのです。キリストにあるその安息の恵みを、さらに多くの人々と分かち合いたいと願います。

感謝と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所:申命記 4章25-49節◇(1月20日)

「あなたの神、主はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないからである。」…申命4:31

あなたがたが偶像を拝んで主の御怒りを引き起こすなら、ヨルダン川を渡って導き入れられようとしている地から追い出され、また諸国の民の中に散らされ、ごくわずかな者となり、そこの住民が信じる木や石の神々に仕えることになる…と、モーセは民に警告しました(25-28節)。それに続くモーセのことばが心に留まります。彼は、たとえそうなっても、主はあなたがたを見捨てず、見放さず、心を尽くし、いのちを尽くして主を求めるなら主にお会いし、主に立ち返るなら再び御声に聞き従って生きる者とされる、と告げたのです(29節)。そしてそれは、主が彼らの父祖たちに誓われた契約のゆえなのです。そのように、主は真実なお方であり、ご自身が父祖たちと結ばれた契約を決して忘れず、破らず、後の世代の者たちが主に背いて怒りを引き起こしたとしても、深い愛とあわれみをもって、関わり続けてくださるのです。「今日、私が命じる主の掟と命令を守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も幸せになり…」(40節)。モーセのそのことばから、主が民に対して、ご自身の掟と定めを守るよう命じておられるのは、その世代の幸せのためだけではなく、後の世代の幸せのためでもあること、また今の世代が受けている恩恵は、先の世代の歩みのゆえであるということを、あらためて教えられます。そしてそれは、キリストにあって神の民として加えられた私たちにもあてはまり、私たちが主の教えに聞き従って歩むなら、また、とりなし手として祝福を祈るなら、それは、後の世代の幸せへとつながるのです。さらに、今置かれている学校、職場、地域、国においても、祝福の基として主に用いられるのです。そのような「繋がり」の意識、遠くまでを見通す霊の目をしっかりと持ちつつ、ますます主のみこころをなす者、主に喜ばれる者として、歩んでいきたいと思います。

主の恵みと祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:申命記 4章1-24節◇(1月19日)

「ただ、あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」…申命4:9

40年間の荒野での歩みを振り返ったモーセは、いよいよこれからヨルダン川を渡って約束の地に入ろうとしているイスラエルの民に対して、「私が教える掟と定めを聞き、それらを行いなさい」とあらためて命じました(1節)。それはすでに、主がモーセを通して、ホレブ(シナイ山)において、十戒とともに民に与えられていたものでした。そのように、所有する地において、イスラエルの民が神の掟と定めを守り行うことによって、民は、諸国の民に対して、自分たちの知恵と悟りが神から与えられていることを示すことになるのであり、それによってすべての国民が、イスラエルの神を畏れ、あがめるようになるのであって、それが主のみこころであったのです(6-8節)。その神の御姿を人は見ることができず、その御声を聴くことしかできません。そして主は、人がそれで満足せず、目に見えるものを神とすべく、さまざまな神の被造物を拝み、それらに仕えようとすることを知っておられ、そうしてはならないと命じておられたのです(15-19,23節)。9節の「それら」とは何を指すのか…。それは8節からの文脈からすれば主の掟と定めですが、それだけではありません。モーセは「あなたが自分の目で目で見たことを忘れず…」と言っているのです。すなわちそれは、神が、民の歩みの上に現わされる、さまざまな力あるご自身のみわざであり、「しるし」なのです。それを「証し」として、新しい世代となる子どもや孫たちに語り伝えるよう命じられたのです。「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」(マル16:20)。主の弟子である私たちも、みことばとそれに伴うしるしを人々に証しし、語り伝えていきたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:申命記 3章◇(1月18日)

「ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼がこの民の先頭に立って渡って行き、あなたが見るあの地を彼らに受け継がせるからだ。」…申命3:28

モーセとイスラエルの民はさらに北へと進み、バシャンの王オグとその兵との戦いに勝利し、アルゴブと呼ばれるバシャンの地にあるすべての町々を征服しました。その結果、ヨルダン川の東側、アルノン川からヘルモン山までの領土はイスラエルの所有となり、モーセはアルノン川からギルアデの山地をルベン族とガド族に、バシャンの全土をマナセの半部族に与えたのです(12-13節)。その後モーセは次世代のリーダーであるヨシュアに対し、ヨルダン川を渡っていく先の国々にも、シホンとオグの二人の王にしたように主がなされ、主ご自身が戦ってくださるのだから、敵を恐れるなと命じました(22節)。そしてモーセは、自分も川を渡って約束の地を見たいと願いましたが、主はそれを認めませんでした。なぜなら主は、イスラエルの先の代の者たちの不信仰と不従順のゆえに怒り、モーセも含めて彼らを約束の地に入れさせないと、すでに決めておられたからです(1:37)。主はモーセに、四方を見渡せるピスガ(ネボ山)の頂きに登り、ヨルダン川と塩の海の西に横たわる約束の地を見るように命じ、さらに、ヨシュアに対して、これから民の先頭に立ってそこに入って行き、その地を民に受け継がせ者として、彼を力づけ、励ませと命じられました。するとモーセは自分の立場と役割をあらためて悟り、主に従ってそのようにしたのです。キリストにあって神の民とされた私たちは、主が打ち立てられる新天新地に入ることができるという約束が与えられています(黙21章)。それがみことばによって示され、その地を霊の目で見るよう促されています。そして、次世代の者や残りの者たちに、そこを目指すよう励ますのです。モーセは約束の地に入れませんでしたが、キリストを信じて従うすべての者は入ることができるのです。そのことを感謝しつつ、ますます信仰と忍耐をもって、その約束の地へと一歩一歩進んで行きたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 2章16-37節◇(1月17日)

「アルノンの渓谷の縁にあるアロエル、およびその渓谷の中の町からギルアデに至るまで、私たちの力が及ばない町は一つもなかった。私たちの神、主がそれらをみな私たちの手に渡されたのである。」…申命2:36

カデシュ・バルネアを出た後、38年間もの間セイル山の近くに留まっていたモーセとイスラエルの民は、北に進めとの主の命令に従ってゼレデ川を渡り、モアブ人の領土を通ってアンモン人が住む地に近づきました。すると主は、そこの住民に敵対するな、戦いを仕掛けるな、その地はロトの子孫の所有地だと言われたのです(19節)。また主は、アルノン川を渡ってさらに北に進み、アモリ人が住む町ヘシュボンの王シホンと戦い、その国を占領せよと言われました。それに対してモーセは、まずはシホンに使者を遣わし、モアブ人のときと同じように領土を通過することを許可し、食べ物や飲み水を売ってほしいと願い求めましたが、主が王の心を頑なにしたため、彼はそれを認めようとはしなかったのです(30節)。すると主はあらためて、シホンをあなたの手に渡す、彼と兵を討て、その地を所有せよと、モーセに命じられました。そしてモーセとイスラエルの民は、その命令に従い、彼らを迎え撃つために出て来たシホンや兵たちと戦って勝利を収め、すべての町を攻め取ったのです(34節)。アンモン人と戦うなと言われた主は、シホンと戦えと言われました。そしてその主の命令に忠実に従ったイスラエルの民は、勝利を得、約束の地に近づいていくことができたのです。それは神がすべてを支配しておられ、敵をモーセと民の手に渡されたからです。私たちにも日々戦いはありますが、私たちがやみくもに戦うことを、主は求めておられません。むやみに争いに巻き込まれることは主のみこころではなく、「近寄らずに」進むべき場合もあるのです(37節)。大切なことは、絶えず主の御声を聴き、それに従って歩むことであり、戦いにおいても、主が敵を私たちに渡して勝利させてくださることを確信し、恐れずに主に信頼して敵に立ち向かうことなのです。ますます主に拠り頼み、前に進んでいきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:申命記 1章19-46節◇(1月15日)

「それで私はあなたがたに言った。『おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。』」…申命1:29-30

ホレブ(シナイ山)を出発し、カナンの地の南端の町カデシュ・バルネアまで進んだイスラエルの民は、斥候を編成してカナンの地を偵察させました。そして任務を終え、その地の果物を持ち帰った彼らが、その地は良い地だと報告したにもかかわらず、民は、主は私たちを憎み、敵の手に渡し、根絶やしにされると言って恐れ、おののき、カナンの地に上って行くことを拒んだのです(19-28節)。モーセはそんな民を説得しました。主があなたがたのために戦われる…自分の子を抱くように守られ導かれる…だからおののくな、恐れるな…。そのことをあなたがたは、エジプト脱出の際に、またその後の荒野での歩みにおいて、実際に見て体験したではないか…と(29-33節)。しかし主は、民の不平の声を聞いて怒り、成人の者たちはモーセも含めて約束の地には入れない…ヨシュアとカレブの二人だけが入ることができる、それは彼らが主に従い通したからだ…と言われました。すると民は急に心変わりし、武具を身に帯びて山地へ上って行こうとしたのです。主があなたがたとともにおられないから、敵に打ち負かされてしまう…と言ってモーセは止めましたが、彼らは聞かず、壊滅的な打撃を受けました(34-46節)。そのように民は、主に対して不信仰でした。不従順でした。行けと言われても行かず、上るなと言われたのに上り、いのちを失ってしまったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。彼らのようにではなく、「主に背いてはならない…主が私たちとともにおられるのだ…恐れてはならない」(民14:9)と言ったヨシュアとカレブのように、信仰の勇者として、主に信頼し、みことばに聴き従い、恐れずに前進する者でありたいと思います。

主がともにおられます。守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:申命記 1章1-18節◇(1月14日)

「あなたがたは向きを変えて出発せよ。そしてアモリ人の山地に、またそのすべての近隣の者たちの地、すなわち、アラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。」…申命1:7

1~5節は申命記の序文です。「これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである」とあるとおり、神の民イスラエルが約束の地に入る直前に、モーセが民に説教したことばが書かれています。そしてそこには、荒野での40年間の民の歩みを回顧しつつ(1~3章)、彼らが神の民としてふさわしく、ひたすら神に聴き従って歩むべく、主の「みおしえ」が示されているのです。「あなたがたは向きを変えて出発せよ…」。シナイ山のふもとに長い間留まっていた民に、主はそう命じられました。カナンの地に行けと求められたのです。「向きを変えて」とのことばには、単に違う方向にという意味だけでなく、「心を新たにして」、「わたしに聴き従って」というニュアンスがあります。なぜなら民は、エジプトを出てからそれまでの間に、のどが渇いた、腹がへったと不平を言い、神に呼ばれてモーセがシナイ山に登っている時も、アロンが作った金の子牛を拝んでいたのです。「見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ」(8節)。神はそのように、約束の地はすでに民の手に渡っていると、完了形で告げられました。民はそこに進み、渡されているその地を、主に感謝して受け取ればよかったのです。そしてそれは、主が、父祖たちに対して、彼らとその子孫に与えると誓われた約束を、確かに果たしてくださるからなのです。その真実な神は、キリストの贖いによって、私たちをもご自身の民として加え、天の御国において永遠に生きる者となるという約束を与えてくださっています。この地上での繁栄と安息に留まることなく、向きを変えて、心を新たにし、みおしえに聴き従い、ひたすら主に拠り頼み、荒野の道を進んで行く者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 6章11-21節◇(1月13日)

「しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」…1テモテ6:11-12a

11節でパウロは、前節からの流れの続きとして、金銭を愛して追い求めることをせず、「義と敬虔と信仰」、すなわち神を畏れ、神がすべてを支配して良きものを備えてくださると信じ、神の前に正しいことを追い求めるようにと言っています。また「愛と忍耐と柔和」、すなわち神がどれほど私たちのことを愛しておられるか、キリストの十字架を通して現わされたその愛をさらに深く知り、苦難の中にあってもその主を信頼して待ち望み、すべてを主に委ね、平安と柔和な心をもって歩むことを追い求めなさいと、テモテに命じています。「信仰の戦い」(2節)。それは霊的な戦いであり、神に敵対する勢力、悪魔との戦いです。具体的には、偽教師たちが主張している、聖書の真理とは異なった「知識」(20,21節)が教会の中にまん延し、人々が正しい進行の道から外れてしまわないように、祈り、とりなし、みことばをもって偽教師たちに反論することです。そしてそれは、決して孤独な戦いではなく、神がともにおられ、主ご自身が敵を打ち破ってくださる勝利の戦いであって、テモテがそのことを信じ、恐れずに立派に戦い抜くようにと、パウロは願い、彼に命じているのです。「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで」(14節)。「キリストの現れの時」とはキリストの再臨の時です。主がそれを、ご自身が定められた時にもたらされるのであって、それがいつかは誰にもわからず、すでにパウロもテモテも天に召され、さらに2千年が経った今も、それはまだ起こっていません。しかし、今を生きる私たちもまた、キリストに贖われた聖徒として、パウロがテモテに命じていることを、自分のものとして受けとめ、守り抜くべきなのです。地上の歩みを終えた後に用意されている「永遠のいのち」を、悪しき者に奪われてはならないのです。パウロを通して語られた神のことばを、しっかり心に留めて歩みたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 6章1-10節◇(1月12日)

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」…1テモテ6:10

1-2節は奴隷に対する教えです。奴隷は当然ながら自分の主人に忠実に仕えることが求められますが、ある者たちはそのようにせず、問題を起こしていたのです。そこでパウロは、「自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません」と言って、そのような心を持つようにと説いています。そしてそれは、主人を与えてくださっている神への畏れと感謝から生まれるのであり、何よりも神に喜ばれることであり、そのことによって、神の御名があがめられ、主の教えが尊ばれるのです。3-10節では再び偽教師たちのことが取り上げられています。彼らは高慢で、議論によって自己満足し、ねたみ、争い、ののしりなど、肉の心から生じる悪いものによって、人々との間にさまざまな問題を起こしていました。パウロは、彼らが「知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たち」だと断じています(5節)。敬虔であるように見せかけても、それが利益を得るため、人々からの賛辞を受けるためであるなら、彼らは、主イエスが非難したパリサイ人と同じく、偽善者なのです。さらにパウロは、金銭を愛することがそのような悪の根であって、そのような者は悪しき者の誘惑と罠に陥り、神から引き離され、滅びと破滅に至るのだと警告しています(9節)。そのように、金銭を愛し、満ち足りた生活を得ようとするなら、それは、神ではないものに心を奪われる「偶像礼拝」にほかなりません。しかし神は、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして」神である主を愛することを求めておられるのであり(申6:5,マタ22:37)、どのような偶像をも、拝んだり仕えたりする対象としてはならないのです(出20:5,申5:9)。私たちは何を愛し、第一とし、何に拠り頼んで歩んでいるのでしょうか…。だれを畏れ、だれに仕え、感謝しているのでしょうか…。そのことを絶えず吟味し、神のみこころのうちを歩み続ける者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 5章17-25節◇(1月11日)

「ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。」…1テモテ5:24-25

教会における長老に対する扱いについて書かれています(17-19節)。長老とは信徒たちを指導・教育し、霊的な面で牧師を補佐する、信徒リーダーあるいは教職者です。彼らは「みことばと教え」、すなわちみことばを実践するよう人々に奨励し、学びを導く役割を担っていました。そのような彼らに敬意を払わず批判する者たちがいましたが(19節)、パウロは、忠実に務めを果たしている長老は2倍の尊敬(別訳:報酬)を受けるべきだと語り、申命記や民数記のみことばを引用しつつ(18節)、彼らに対してふさわしい処遇を与えるようにとテモテに命じています。「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい…」(20節)。牧会者として人々を指導・監督していたテモテにとって、神に背いて罪を犯している者の存在は、心を痛めるものでした。しかしパウロは、それらの者たちの罪を看過せず、毅然たる態度をもって人々の前で責めるよう命じています。それは見せしめではなく、そのことを通して、他の人たちが主の前にますます畏れをもって歩むようにするためであり、高い社会的地位にある者や教会の奉仕で実績を持つ者に対しても、先入観やえこひいきなく、厳格に対処するよう求められているのです。たとえ罪が人には知られていなくても、すべては神の目には明らかであって、悪いことも良いことも、後にはだれの目にも明らかとなるのです。「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません」と、主イエスが言われたとおりです(ルカ8:17)。その神を畏れ、主のまなざしを覚えつつ、神を喜ばせることを願いとし、みことばに忠実に聞き従って歩むことが、すべての時代の聖徒たちに対して求められているのです。私たちも、そのような成熟したキリスト者となることを祈り求め、御霊によって日々変えられたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 5章1-16節◇(1月10日)

「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。」…1テモテ5:1-2

今日の箇所にはやもめへの支援について書かれています。パウロは「本当のやもめ」とそうでないやもめに分け、身寄りがなく、望みを神に置き、絶えず祈りをささげている敬虔なやもめを教会は支援すべきであると語っています。当時、そうでないやもめの中には、神殿娼婦であった者もおり、たとえやもめという境遇にあっても、神の前に正しくあることを、パウロは求めているのです。子どもや孫がいるやもめについては、その者たちにやもめの世話をさせるべきだとパウロは教えています(4節)。母親が愛情をもって育ててくれた恩に報いて、また、祖母に対する敬愛の情を示してそのように関わることは、神のみこころであり、主に喜ばれることだからです。さらに若いやもめの中には、自立しようとせず、怠けて人に依存してばかりで、情欲に駆られたり、うわさ話をする者もいました。それに対してパウロは、若いやもめが再婚し、子を産み、家庭を築くことを願い、そのように指導するようにとテモテに求めているのです(13-14節)。1-2節でパウロは、年配の人には自分の親に対するようにさとし、若い人には自分の兄弟に対するようにさとし、「真に純粋な心」で勧めなさいとテモテに命じています。それは、老若男女の区別なく、すべての人に対し、神が願っておられるあり方、すなわち神のみこころを語り伝え、一人ひとりが主に喜ばれる者となり、神の国の祝福に豊かにあずかる者となるように願い求め、そのための指導にあたりなさいということです。そして、そのような心を持つことは、テモテだけでなくすべての聖徒たちが求められているのであり、まず自分自身に対して「勧める」、つまり肉なる自分にそのことを言い聞かせ、神の教えに聞き従わせることが大切なのです。御霊の助けと導きを受け、そのような者として歩みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 3章◇(1月8日)

「たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」…1テモテ3:15

3章には監督と執事の働きに就く者に求められる資質が記されています。監督とは、教会の信徒が霊的に成長するように教え導く者であり、牧師など、羊を守り育てる羊飼いとしての役目を担う立場の者を意味しています。監督には、教会内外での良い評判、自制心、慎み深さなどを持ち、柔和で、金銭に無欲で、家庭をよく治める夫かつ父親であることなどが求められています(1-7節)。また執事とは、教会の中で実際的な働きを担い、監督が霊的な事柄に専念できるよう、補佐する立場の者です。初代教会において、食事の配給のことで問題が起こり、弟子たちはその解決のために奉仕者を立てて任せましたが、それが執事を意味しているのです(使6:1-6)。パウロはなぜここでそのことに触れているのでしょうか。当時、霊的な成熟に達していない者たちが、人間的な思いからそれらの職に就くのを求めたために(1節)、教会に混乱が生じ、テモテを悩ましていたからです。しかし、言うまでもなく、教会は、誰かが人から注目されたり、自己実現を果たしたりするところではありません。教会は、キリストを土台また柱とする生ける神の家であって(15節)、聖徒たちがそれを構成するさまざまな部分として加えられ、機能し、主ご自身によってその全体が建て上げられていくのであり、そこではただ主の御名があがめられ、すべての栄光は神に帰されるのです。そして、神が、人間的に見れば求められる資質には至らない者たちをそこに置き、ご自身の栄光のために尊く用いてくださるのであって、それは監督や執事に限らず、すべての聖徒たちに当てはまることなのです。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われる主にすべてを明け渡し、神と人々に対して、感謝と喜びをもって、忠実に仕える者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 2章(1月7日)

「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」…1テモテ2:1

「そこで」と前置きし、パウロは、すべての人のために、王たちと高い地位にある人たちのためにとりなすよう、テモテに命じています。1章では、誤った教えを説く偽教師たちや、健全な良心を捨てて信仰を失った者たちのことが言及されていましたが、そのような霊的危機に際し、「そこで」と、すべての人が救われて神に従うよう、祈ってとりなすことを、パウロは求めているのです。そしてその中で、社会的地位を持った者たちの救いと祝福をとりなすことは、自分たちの日々の生活が平穏になり、敬虔に歩むための環境を得ることにつながるのだと、パウロはその大切さを語っています(2-3節)。4節のみことばは、神のみこころはすべての人が救われて真理を知ることだという意味ですが、同時に、「すべての人」のために、聖徒たちが、神と人との間の仲介者、キリストの弟子として、同じように、すべての人の救いと祝福のためにとりなすべきだ、という勧めでもあるのです。8節以降では、男性と女性に対するそれぞれの教えが語られています。そのことばを表面的に捉えれるなら、女性に対して、「静かにしていなさい」、「女はだまされて過ちを犯した…」など、パウロの女性蔑視発言に思えますが、そうではなく、彼は、必要以上に華美な身なりをし、思いと行ないにおいて聖徒としてふさわしくない女性や、男性を言い負かし、上に立って支配しようとする女性を戒めようとしているのです(12節)。神が定めた正しい秩序を覚えるよう命じているのです(創2:18-25)。テモテはそのように、教会が混乱しないようにと、牧会的指導をパウロから求められました。そしてそこにも、まず、祈りととりなしが不可欠なのです。人間的にではなく、霊的に捉えて対処することが求められるのです。それは私たちの日々の歩みにおいても同じです。祈り、とりなし、主の介入を待ち望む者でありたいと思います。

祈りに主が答えてくださいますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 1章12-20節◇(1月6日)

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」…1テモテ1:15

11節で、私は神から福音を委ねられた、と語ったパウロは、12節でも「キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださった…」と、感謝をもって語っています。しかし彼は、救われる前には、暴力をふるってキリスト者たちを迫害し、次々に牢に入れていたのです。そのパウロは、さらに聖徒たちの殺害の意に燃えてダマスコへ向う途中、突然天からの光に照らされて倒れ、視力を失い、「なぜわたしを迫害するのか…わたしはあなたが迫害しているイエスである」という声を聞き、その体験によって180度変えられた彼は、イエスは神の子だと宣べ伝えるキリストの使徒とされたのです(使9:1-22)。パウロはそのことを思い出しつつ、私はあわれみを受けた、それはキリストがこの上ない寛容を自分に示し、自分を先例として、罪から救われて永遠のいのちを得る人々を起こすためであった、と告白しています(16節)。多くの聖徒たちを、そして主イエスご自身を迫害していた自分は何と罪深い者か…。自分の罪は極めて重く、神のさばきは免れない…。ところが神はそんな自分を愛し、あわれみ、恵みによって救ってくださった…。パウロは自分のことをそう受けとめていました。だからこそ、キリストは罪人を救うために来られた…私はその罪人のかしらである…と彼は告白したのです。そして強い使命感をもって、主から与えられた務めを全うしたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。パウロのように迫害などせず、劇的な回心は経験しなかったでしょう。しかし主は、神に背を向けて身勝手な歩みをしていた、罪深い私たちにも愛とあわれみを注ぎ、キリストにあって、恵みによって、その罪の中から救い出してくださったのです。私たちも、そのことを覚えて主に感謝をささげ、使命感をもって、委ねられている務めを忠実に果たす者でありたいと思います。

感謝と喜びがいつもありますように。

◇聖書箇所:テモテへの手紙 第一 1章1-11節◇(1月5日)

「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。」…1テモテ1:5

この手紙は、晩年のパウロが「信仰による、真のわが子」と呼ぶ、彼の弟子であり同労者でもあるテモテに宛てた手紙です。パウロはアジアのエペソからエーゲ海を渡ってマケドニアへと宣教の旅を進めましたが、テモテはエペソにとどまり、ある人たちが間違った教えを説いたり、主のみこころではないことに関心を寄せたりしないよう命じなさいと、パウロから指示されたのです(3-4節)。8-11節では律法の意義が語られています。当時、律法も含めて、さまざまな教えを議論することが目的化し、そのような空虚な歩みをして、神が願っておられることを実践しない者たちが多くいたことが示唆されています。律法は、罪と悪と不法の中にある者たちに、それが正しくないことを強く自覚させ、彼らを神に立ち返らせるための教師、キリストへと導くための養育係としての役割を持っているのであって(ガラ3:24)、律法はもちろん悪いものではなく、そのように適切に用いられることによって人々に救いをもたらす、良いものなのです。「祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです」(11節)。律法について語ったパウロは、そのように言っています。そのことばから、パウロがテモテに対して、偽教師たちと対決し、彼らを打ちのめすことを願っていたのではないことをあらためて教えられます。パウロは5節でも、彼らがきよい心、健全な良心、偽りのない信仰から生まれる愛を持つことを目標としていることを、エペソ教会の牧会を託したテモテに伝えようとしているのです。「祝福に満ちた神の栄光の福音」…。それは主イエスが、至るところで多くの人々に宣べ伝えた「神の国の福音」にほかなりません(ルカ4:43)。その主の働きを継続すべく、パウロが、テモテが、そして多くの聖徒たちが、それぞれ置かれた所で、委ねられたその福音を伝えていったのです。私たちもその働きの一端を担っていることを覚え、さらに主に用いられる者とされたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 110篇◇(1月4日)

「あなたの右におられる主は 御怒りの日に 王たちを打ち砕かれる。国々をさばき 屍で満たし 広い地を治める首領を打ち砕かれる。」…詩篇110篇5-6節

この詩篇はダビデの作とされています。彼は、来たるべきメシアが永遠に王であり祭司であることを、預言的に語っており、そのことばはしばしば引用されています。「主は 私の主に言われた。『あなたは わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで』」(1節)。キリストはだれの子か、と主イエスがパリサイ人たちに尋ねると、彼らは、ダビデの子だと答えましたが、主はこの1節を引用し、ダビデがキリストを「私の主」と呼んでいるなら、キリストはダビデの子ではあり得ないと言われました(マタ22:41-46)。その「私の主」、すなわちキリストに対して、「私の右の座に着いていなさい」と言われた主(新改訳聖書において太文字となっている「主」)とは、ヤーウェ、すなわち父なる神であり、キリストはその神の御子なのです。「『あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である』」(4節)。ヘブル人への手紙の著者は、この4節のことばを引用しつつ、「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」と言っています(ヘブ5:6-7)。キリストは、すべての人が罪から救われるために、とりなし、祈り、ご自身を完全ないけにえとして神にささげられた偉大な大祭司であられ、その贖いのゆえに、私たちは罪赦され、救われているのです。「あなたの民は あなたの戦いの日に喜んで仕える」(3節)。主イエスは弟子たちに、「世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われました(ヨハ16:33)。永遠の王なる主が主権をもって治めておられること、大祭司なる主がとりなし続けておられること、勝利者なる主が私たちをも「圧倒的な勝利者」(ロマ8:37)としてくださることを覚えつつ、主に喜んで仕え、従っていきたいと思います。

恐れずに進む勇気が与えられますように。

◇聖書箇所:詩篇 109篇◇(1月3日)

「しかし 神よ 私の主よ あなたは 御名のために 私にみわざを行ってください。 御恵みのすばらしさのゆえに 私を救い出してください。」…詩篇109篇21節

詩人は1-5節で、悪者から受けている仕打ちを神に訴えています。「彼らは 善に代えて悪を 愛に代えて 憎しみを 私に返しました」(5節)。詩人にとってそれは、まったく理不尽なことでした。なぜなら、彼は彼らに対して、愛と善をもって接しているにもかかわらず、彼らは逆に憎しみと悪をもって挑んで来るからであり、それが「ゆえもなく」なされていると感じていたからです。そのような彼らに対し、詩人は神のさばきを求めます。「子どもたちはみなしごとなり 妻はやもめとなりますように」(9節)。彼は、悪者のいのちが奪われるようにとさえ願うのです。それは、詩人がそれだけ切羽詰まった状況にまで追い込まれていたことの表われに違いありません。しかし詩人は感情的になることなく、義であられる神が、彼らの咎に対して正しいさばきをされ、ふさわしい報いを与えられるよう願っているのです(14,20節)。「私の神 主よ 私を助けてください。あなたの恵みによって 私をお救いください」(26節)。詩人は、あらためて「私の神 主よ」と呼び掛けています。彼にとって神は、人生の全領域を支配し導いておられる、全能者であり主権者であって、彼は、その神への揺るがない信仰をもって、苦難の中から主を呼び求めているのです。「私はこの口で 大いに主に感謝し 多くの人々のただ中で 主を賛美します」(30節)。詩人が置かれている状況、目に見える現実はまだ変わっていません。しかし彼は、神の介入により、悪者の呪いが取り除かれ、彼らが恥を見る一方で、自分が神の祝福にあずかり、喜びが取り戻されることを先取り感謝し、主に賛美をささげているのです。「主が貧しい人の右に立ち 死を宣告する者たちから彼を救われる」と、神の救いを宣言しているのです(31節)。私たちも理不尽と思える苦難の中に置かれることがありますが、神よ、私の主よ、と御名を呼び求め、主の救いを信じて、先取り感謝したいと思います。

主への信仰がますます強められますように。