◇聖書箇所:詩篇 126篇◇(6月30日)

「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。」 …詩篇126篇5節

1節に「主がシオンを復興してくださったとき」とありますが、新改訳3版では「シオンの繁栄を元どおりにされたとき」、2版では「シオンの捕われ人を帰されたとき」と訳されています。それは明らかに、バビロンの手によってエルサレムが陥落し、住民が捕らえ移され、その後、ペルシアのキュロス王の指示により、神殿再建のために民がエルサレムに帰還したことを指しています。その復興は主がなされた奇蹟であって、イスラエルの民にとっては、まさに夢を見ている者のような、現実とは思えない出来事であったに違いありません。しかし、実際にエルサレムに帰還したとき、人々は笑い合い、喜び、主がなされたその大いなることのゆえに、主を賛美し、諸国の者たちも、それが主のみわざだと認めたのです。4節では、調子が一変し、詩人は主に祈り求めています。「ネゲブ」とはユダの南の乾燥地帯であり、そこの川は、雨季以外には干上がっていますが、そこに水が豊かに流れる様子を思い描きつつ、「私たちを元どおりにしてください」と詩人は主に願っているのです。エズラ記、ネヘミヤ記には、神殿再建の困難さが記されていますが、詩人は、そのような状況の中、何よりも自分たちの内面、霊的な飢え渇きを覚え、その回復を切望しているのです。種を蒔く者には希望があります。種が芽を出し、成長し、豊かな収穫が与えられる…と。しかし、乾ききった地に種を蒔くなら、そのような希望を持てず、つい涙があふれてくるのです。けれども、バビロンから帰還させてくださった主は、回復を与え、元どおりにしてくださるお方であって、自分たちの渇いたたましいをもうるおし、元どおりにし、再び喜び叫ぶ者としてくださると信じ、民は、目に見える現実の先にある祝福を霊の目で見て、涙とともに種を蒔くのです。神のことばを心に植え付け、それに従うのです。そして主は、確かにそのように祝福してくださるのです。私たちも不毛な場所にしばしば置かれますが、信仰をもって種を蒔き続けたいと思います。

希望をもって進むことができますように。

◇聖書箇所:詩篇 125篇◇(6月29日)

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなく とこしえにながらえる。」 …詩篇125篇1節

「主に信頼する」…。それは、単に神を信じるということではありません。人は、物事が順調に進んでいるときには神に感謝しますが、逆境のときには、なぜこんなことになるのか…と、神を非難するのです。しかし、そのような苦難の中でも、主が良いお方であり、最善をなしてくださっていると受けとめ、自らの思いを主に明け渡し、みことばに従って行動する…、それが「主に信頼する」ということなのです。そしてそのような人々は、揺らぐことなく、主が助け、主が支え、主にあってとこしえにながらえる者、永遠に生きる者とされるのです。そしてまた、いつの時代においても、人を神から引き離そうとする存在、サタンがおり、人が神に信頼するのをやめさせ、不正と不法の道へと誘惑しているということを、私たちは忘れてはなりません。その罠にかからないためにも、私たちは、自らの知恵と力によって歩むことなく、ひたすら主に信頼し、それらの悪しき者から守られるように、ご自身の備えてくださる道をまっすぐ歩めるようにと、主に祈り求めるべきなのです。「エルサレムを山々が取り囲んでいるように 主は御民を 今よりとこしえまでも囲まれる」(2節)。「主は 曲がった道にそれる者どもを 不法を行う者どもとともに追い出される」(5節)。主は確かに、ご自身に信頼する人々とともにあり、その者たちを絶えず取り囲み、悪しき者どもの手から守ってくださるのです。戦い、争いに巻き込まれないようにし、その歩みに平和をもたらされ、一人ひとりの心を平安で満たしてくださるのです。「まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む」(詩33:21)。そのように詩人は告白しています。私たちもまた、天と地とそこにあるすべてのものを創造された主、そして私たちを母の胎の中に形造り、今もいのちを与えてくださっている主にますます拠り頼み、主を待ち望む者でありたいと思います。

主の守りと助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 123篇、124篇◇(6月28日)

「ほむべきかな 主。 主は私たちを 彼らの歯の餌食にされなかった。」 …詩篇124篇6節

・詩篇123篇
詩人は、天の御座に着いておられる主に向って目を上げています。それは主人に仕える者たちの目が主人の手に向けられるように、すなわち、主人が権威をもって、自分に対して命じ、指示し、事を行わせてくださるように、また、主人が悪者に対して悪事を指摘し、それをやめさせるべく介入するように、主が権威と力をもって正義を行ってくださるよう待ち望み、主に目を向けています。そのように詩人は、高慢な者たちが蔑み、安逸を貪る者たちが嘲り、たましいが弱り果てそうになる中、主の助けとあわれみを切に求めて、天を仰いでいるのです。
・詩篇124篇
「もしも 主が私たちの味方でなかったなら」。続く詩篇124篇は、詩人のそのようなことばで始まっています。彼は、そのようなことがあるはずがない…主は確かに私たちの味方であり、悪しき者たちの手から私たちは必ず守られる…そのことを強調すべくそう言っているのです。6~8節は詩人が出した結論です。主は、ご自身の愛する聖徒たちを守ってくださるので、敵の餌食にされることなどないのです。そのたましいは罠から助け出され、敵の怒りが荒れ狂う水のようであっても、それに押し流されてしまうことはないのです。それは主が、聖徒たちの味方であり、恵みとあわれみに満ちたお方であって、折りにかなう助けを、確かに与えてくださるからなのです。「私たちの助けは 天地を造られた主の御名にある」(8節)。詩篇121篇にも、「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から」とあります(2節)。その前の1節には、「私の助けはどこから来るのか」とありますが、それはただ、創造者であられ、主権者であられ、救い主であられる主から来るのです。私たちも、苦難のただ中にあって、主に向って目を上げ、その御手が動かされるように、主の御名を呼び、祈り求めたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:雅歌 8章◇(6月27日)

「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」…雅歌8章6節

6節に「封印」とありますが、当時の「印」は、紐を通して首から掛けるリング状のもの、あるいは指輪として指にはめるもので、契約などにおいて、それを使って「押印」することによって、自分の所有であることや、その内容を承認する意志が示されました。花嫁はそのように、自分が花婿の身体に「押印」され、花婿の所有の者だと、公然と認められることを願っているのです。また同節に「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しい…」とありますが、花嫁も花婿も、互いに相手を自分のものとして所有し、独占したいと強く願っており、そのことが叶わないならば、その愛はねたみや憎しみにさえ変わる、激しいものなのです。ここではそのねたみについて、よみのように激しく、すべてを焼き尽くしてしまうような、すさまじい炎だと語られています。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたみの神である」(申4:24)。神もまた、イスラエルの民をご自身の所有のものとされ、彼らが神に背を向けて偶像を礼拝したとき、激しく怒りを燃やしてねたまれました。そして、キリストに贖われた私たちをも、神はご自身の民に加えられ、その私たちが神以外のものに心を奪われようになるなら、激しく怒ってねたみの炎を燃やされるのです。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」(エペ1:13)。私たちは、聖霊によって証印を押されています。確かに神の所有の民であることを、御霊ご自身が保証してくださっているのです。それによって、私たちへの神の真実な愛が示されているのです。そのことを感謝し、主に賛美と礼拝をささげ、みことばに聞き従い、ささげ物をもって、その愛に応えていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:雅歌 6章◇(6月25日)

「『このひとはだれでしょう。暁のように見下ろし、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。』」…雅歌6章10節

もし花婿を見つけたら、「愛に病んでいる」と、自分のことを彼に伝えるよう花嫁から依頼されたエルサレムの娘たちは、一緒に花婿を捜しましょうと、彼女に申し出ました。しかし花嫁は彼女たちに、「私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました」と言い、そこでゆりの花を摘んでいるのだと告げました。4節以降には、再び、花嫁の美しさ、すばらしさを、たとえを用いて語る花婿のことばが書かれており、その一部は、すでに見た4章の表現と重複しています。4節には、「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しい。あなたはエルサレムのように愛らしい」とありますが、その後に、「だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる」ということばが続いています。またそれは、王妃たちが花嫁を描写することばとしても繰り返されているのです。ではそれは、どういう意味なのでしょうか…。「旗を掲げた軍勢」とは、敵との戦いに勇んで進軍する者たちのことですが、その勢い、恐れない態度、しゃにむに突き進んでいく姿勢などを、なんとしても花婿を自分のものとして「獲得」、「占有」しようとする花嫁の姿勢に重ね、それをたとえとして語っているのかもしれません。続く「あなたの目を私からそらしておくれ」(5節)という花婿のことばも、そのことを示唆しています。花婿や王妃たちは、彼女のその一途さに、感嘆しているのです。「神よあなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいはあなたに渇き 私の身も あなたをあえぎ求めます」(詩63:1)。詩人はそのように告白しています。私たちも、花嫁やその詩人のように、あなたがいないと私は生きていけない…と、そのような切実な、ひたむきな姿勢で、主を慕い求めるべきなのです。そしてそれは、主を深く愛する者にとっての当然のあり方であり、主はそのことを喜ばれるのです。主をさらに切に求めていきたいと思います。

主との交わりが豊かなものとなりますように。

◇聖書箇所:雅歌 5章◇(6月24日)

「…『わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。』」…雅歌5章2節

「私の愛する方が庭に入って、その最上の実を食べることができるように」(4:16)。その花嫁のことばに応答すべく花婿は、「わが妹、花嫁よ、私は私の庭に入った」と語り、友人たちに食べて飲むようにと勧めています。それは、花嫁との結婚の祝宴への招きかもしれません。2~7節には、花嫁が見た、2回目の夢の内容が書かれています。戸を開けておくれという花婿の声を聞いた花嫁は、すでに着替えて寝床に入っていましたが、起き上がって戸を開けて、花婿を中に迎え入れようとしました。ところがなぜか、愛する花婿は背を向け、去って行ってしまったのです。その後、彼女は必死になって彼を捜し回りましたが、結局、見つけることができませんでした。そのように、夢の中で花婿に去られてしまった花嫁は、自らのうちにある花婿を慕う思いが、いかに強いかをあらためて覚えました。そしてエルサレムの娘たちに対し、現実にはどこかにいるはずの花婿を見つけたなら、花嫁は花婿への愛に病んでいる、心が奪われていると、そのように彼に伝えてほしい、と要請したのです。自身の夢の中で、「わが愛する者よ…戸を開けておくれ…」と戸の外に立つ花婿の声を聞いた花嫁は、そのようにしたのにもかかわらず、花婿にきびすを返して去られてしまいました。それは、もう寝てしまったので…着替えないと…と、戸をすぐに開けるのを躊躇した花嫁の態度に対して、花婿が失望したからかもしれません。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙3:20)。主もまた、私たちの心の扉の外に立ち、戸を開けてほしいと扉を叩かれるのです。そのとき私たちは、ためらわず、速やかに戸を開けて、主を中に迎え入れ、恵み豊かな食事のときを持たせていただく者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:雅歌 4章◇(6月23日)

「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、 あなたには何の汚れもない。」…雅歌4章7節

4章において花婿は、花嫁の美しさをたたえ、身体の各部分をさまざまなものにたとえて語っています。その比喩には、動物や自然界のものから武具までもが用いられていますが、花婿は、愛する花嫁の美しさを、ことばでは言い尽くせないとわかりつつも、それらを語って花嫁に伝えたいという思いを抑えきれないのです。「あなたの目は、ベールの向こうの鳩。髪は、ギルアデの山を下って来るやぎの群れのようだ」(1節)。「唇は紅の糸のようで、口は愛らしい。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ」(3節)。花嫁の瞳は愛らしく柔和であり、その髪はつややかに輝いている…。また彼女の唇は紅色できりっと結ばれており、頬はふっくらとして血色良く全体に赤みが差している…。そのように、花婿は花嫁の美しさを具体的に伝えようとしています。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない」(7節)。「あなたは私の心を奪った。私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った」(9節)。もはや花婿の花嫁に対する好意はぞっこんであり、彼女のうちに何も欠点を見いださず、花婿の心は完全に奪われています。その心は愛する花嫁への思いで支配されており、他のどんなものも入り込む余地がない状態なのです。「神よ 私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌い ほめ歌います」(詩57:7)。詩人はそのように神に告白しています。私たちの心が揺らぐのは、心に湧いてくるさまざまな不安、疑い、失望が雲のように拡がり、心を支配していくからですが、私たちの内側が、神の愛、救われた喜び、真実な神のことばに満ちるなら、その心は揺るがされることはないのです。そしてその神は、罪によって汚れている私たちのことを愛し、キリストにあって、聖い者、義なる者としてくださっているのです。何と感謝なことではありませんか。その主に対して私たちも、賛美と従順と献身をもって愛を表わし、全き信頼のうちに歩んでいきたいと思います。

心とからだが守られますように。

◇聖書箇所:雅歌 3章◇(6月22日)

「私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。」…雅歌3章1節

1~4節には、「私のたましいの恋い慕う方」という表現が繰り返されています。花嫁は花婿を見つけられず、捜し続けていたのです。「床についていても」とあることから、それは夢の中でもなされ続けていたのでしょう。彼女が町を行き巡る夜回りたちに尋ねても、その答えは得られませんでした。ところが彼らと別れてから間もなく、ついに花嫁は花婿を見つけることができたのです。もう二度と離さない…とばかりに、彼女は花婿をしっかりと捕まえ、彼女の母の家の奥の間に連れて行きました。6~11節にはソロモン王のことが記されています。没薬、乳香などの貴重な香料は、王などの高貴な者に用いられるものであり、みどりごのイエス・キリストを尋ねてやって来た、東方の博士たちの贈り物でもあったことが思い起こされます。ソロモン王は駕籠に乗り、剣を帯びた勇士たちに護衛されて行進しましたが、その駕籠の支柱には銀、背の部分には金、座席には紫布が使われ、内側には切りばめ細工が施されていました。そしてその行列は実は、王自身の婚礼のためのもので、その駕籠も、喜びの日、祝いの日のために作られたものであったのです。「私のたましいの恋い慕う方」…。花嫁にとって花婿は、常にそのような存在でした。現実においてであっても、夢の中でであっても、花婿が見つからないときには、彼女は嘆き、焦り、落胆し、見つかったときには、それとは対照的に、心から喜び、感謝し、安堵したのです。「私のたましいは、夜にあなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます…」。預言者イザヤも、そのように主に告白しました(イザ26:9)。神の民、聖徒たちにとって、主はそのように、私たちのたましい、霊があえぎ求める、慕わしいお方なのです。朝に昼に夜に、絶えずそのお方を慕い求め、その主が、王であるお方が、私たちとともにいてくださることを心から喜び、感謝し、平安のうちに歩み続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:雅歌 2章◇(6月21日)

「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。 『わが愛する者、私の美しいひとよ。 さあ立って、出ておいで。』」…雅歌2章10節

1~7節は花嫁と花婿の対話の続きです。花嫁が「私はシャロンのばら、谷間のゆり」と言えば、花婿は彼女のことを、「茨の中のゆりの花のようだ」と言い、さらに花嫁はその彼のことを、「林の木々の中のりんごの木のよう…」と称賛し、相手が他者とは異なる、特別な存在、愛の対象であることを、お互いに告白しているのです。8~17節では春の訪れが語られており、10節以降では、花婿のことばを花嫁が引用する形となっています。「冬は去り、雨も過ぎて行った…」、「地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て…」、「いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけ…」と。イスラエルでは、雨が多く寒い冬が過ぎて春を迎えると一斉に花が咲きますが、春は人々にとって喜びの季節なのです。その春を迎えて、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」と、花婿は繰り返し花嫁に語りかけて促しています。そしてそれは、冬の間閉じこもるようにしていた花嫁と会い、その顔を見、その声を聞き、親密な交わりの時を持つことによって、楽しみ喜ぶためなのです。花婿はそれを心待ちにしているのです。「あなたに代わって 私の心は言います。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ あなたの御顔を私は慕い求めます」(詩27:8)。花婿の切なる願いを知るとき、神もまた私たちを愛し、そう願っておられることを教えられます。私たちにとっても、主を知らなかった「冬」の季節が過ぎ、キリストと出会い、キリストに贖われ、今「春」の季節を迎えていますが、主は、その私たちに対して、親密な交わりの時をもっと持ちたいと切に願っておられるのです。それを心待ちにしておられるのです。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」、「わたしの顔を慕い求めよ」…。その招きに応答し、さらに主の御前に近づき、御顔を仰ぎ見、御腕に抱かれ、主にある楽しみと喜びの中を歩み続けたいと思います。

主との交わりの時がさらに与えられますように。

◇聖書箇所:雅歌 1章◇(6月20日)

「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」…雅歌1章15節

聖書の中の書「雅歌」は、男女の愛を主題として書かれた詩ですが、そこに登場する人物を誰ととらえ、そのことばをどう理解するか、その解釈についてはさまざまな見解があります。例えば、そこに書かれているのは「型」であり、イスラエルに対する神の愛を表わしている、あるいは、花嫁である教会に対するキリストの愛を表わしているとするものです。しかしながらこの詩の中に、そのような目的のために書かれたとする根拠となるものを見いだすことはできません。よってこの雅歌を、男女のさまざまな感情が表現されている詩として、そのまま受け取るのが自然なのです。なお、この書の作者は1節にあるように、イスラエルの王ソロモンだとされています。1~7節は、花嫁から花婿へのことばです。2節にいきなり、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」と、熱烈な願いを、隠すことなく言い表しています。花婿の愛は慕わしく、麗しく、花嫁だけでなく多くの娘たちが恋い慕っていましたが、4節には「私を引き寄せてください」とあり、彼女は嫉妬していたのかもしれません。9~17節は、花婿と花嫁の間の呼び掛けと応答です。「わが愛する者よ…あなたの頬は美しい…あなたの首も…ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ…」と花婿は花嫁に呼び掛け、花嫁もまた、「私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方…」と応答しています。そのように、相手への愛、慕わしいとする思いを、互いに言い表し、それを受け取るときに、私たちのうちには喜びが湧き起こるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザ43:4a)。私たちもまた、日々、神からの愛のことばを受け取り、感謝と喜びにあふれて、「主よ、私もあなたを愛します」と告白し、主に従って歩む者であるのです。キリストに贖われ、そのような愛の関係の中に入れられているのです。そのことを覚え、主にある楽しみ喜びをさらに深く味わいたいと思います。

平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 13章1-18節◇(6月18日)

「私の神よ、どうか、このことのゆえに私を覚えていてください。私が神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行いを、ぬぐい去らないでください。」…ネヘミヤ記13章14節

ネヘミヤ記の最後の13章には、イスラエルの民の中にあったさまざまな問題と、それに対してネヘミヤが主導した改革が記されています。1節の、アンモン人とモアブ人が神の集会に加わることの禁止は、申命記23:3にあり、その理由は次の2節にあるとおりです。その律法が朗読されるのを聞いた民は、それが守られていなかったため、該当する者たちをただちに集会から締め出しました。4-9節には、トビヤが受けていた処遇とそれに対するネヘミヤの対応が書かれています。そのトビヤは、サンバラテとともにネヘミヤに敵対し、城壁再建工事を妨害しようとした人物であり(6:1)アンモン人でしたが(2:10)、祭司エルヤシブは、彼に取り込まれていたのか、彼のために、神の宮の大きな部屋をあてがうという便宜を図っていたのです。それを知ったネヘミヤは、その部屋の家財を一掃してきよめ、本来の目的の部屋に戻させました。さらに10-14節には、主の宮で奉仕するレビ人たちが、受けるべき手当が支給されないため、その奉仕を投げ出して自分の農地に戻ってしまったことをネヘミヤが知り、それはつまり、神の宮をないがしろにすることだと代表者たちを非難し、ささげられた物が正しく管理、分配されるよう、その任務を忠実に行う者を新たに選出した、ということが書かれています。12章の城壁奉献式の後に、そのような問題と改革のことが書かれているのは、不断の改革、すなわち、絶えず主に立ち返ること、主の道に戻り続けるというあり方が、神の民に求められているということを示唆しています。それは、私たち人間の側に求められている自己改革ですが、何よりもそこに御霊による変革がなされなければならないのです。そのように、自らの努力とともに、ますます自らを主に明け渡しつつ、主の御旨に従う者となっていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 12章27-47節◇(6月17日)

「彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」…ネヘミヤ記12章43節

再建工事が完了した城壁の奉献式の様子が記されています。奉献式には多くの歌い手や、いけにえをささげる者が必要であったため、その任務にあたるレビ人たちが各地から集められました。そして式に先立ち、祭司とレビ人たちは自らの身をきよめ、また民と門と城壁もきよめました。そのように、その式は単なるお祝いではなく、何よりも城壁を再建させてくださった神への礼拝として、城壁を「奉献」すべく、喜びと感謝をもってささげられたのであり、一人ひとりがその意識を持っていたのです。その後ネヘミヤは、二組の聖歌隊を編成し、それぞれ右回り、左回りに城壁の上を行進するようにしました。彼らは賛美と感謝の歌を歌い、ラッパを吹き鳴らし、ダビデの楽器を奏でながら進んで行きましたが、出発地点の反対側でその二組が落ち合ったときには、確かに城壁がひとつの輪として繋がったことを実感し、彼らの感激は、ひとしお大きなものとなったに違いありません。44-47節には、その城壁奉献を機に、それまで滞っていたなすべき事柄が再び行われるようになり、それぞれの奉仕が忠実になされ、民もそれを喜んだことが記されています。それはまさに、ネヘミヤが意図したこと、神が願われたことであり、物理的な城壁の再建にとどまらず、イスラエルの民全体が、神のみこころにかなうあり方を取り戻す、主に立ち返るということであったのです。私たちもまた、キリストに贖われた神の民として、安息日ごとに共同体の礼拝をささげていますが、それが単なる形だけのものになっていないか、心からの感謝と喜びをもってささげるものとなっているか、また、礼拝の中で語られる神のことばに応答し、主に立ち返り、週日においても「礼拝者」として歩んでいるか(ロマ12:1)を吟味し、そのような神に喜ばれるあり方を、さらに追い求めていきたいと思います。

主の喜びがますます心にありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 12章1-26節◇(6月16日)

「レビ人のかしらたちは、ハシャブヤ、シェレベヤ、およびカデミエルの子ヨシュアであり、その兄弟たちが彼らの向かい側に立って、組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に基づき、賛美をして感謝をささげた。」…ネヘミヤ記12章24節

12章に書かれている人名のリストは、11章のリストの続きであるとともに、城壁奉献式に向けての準備としての意味を持っています。1-7節には、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの時代の祭司とその同族のかしらたちで、一緒に帰国した者たちの名前が挙げられています。8,9節はレビ人のリストです。彼らは主の宮の奉仕を担っていましたが、感謝の歌をささげる者として、マタンヤとその兄弟たちがその役割を受け持っていました。また、9節や24節によれば、彼らは二組に分かれ、向かい合う配置となり、「組と組が相応じて」とあるように、一方が歌うとそれに応答してもう一方が歌う、交互に歌う形式での「交唱」を、おそらく行っていたのです。12-21節には、大祭司ヨシュアの子であるエホヤキムの時代の祭司たちの名が書かれています。ネヘミヤとエズラの時代は、ゼルバベルとヨシュアの時代から約100年後にあたりますが、彼らはその間を埋めるようにして、祭司としての役割を果たし、神殿と城壁の物理的再建が進められる中、民が心からの賛美と感謝をもって主を礼拝するようにとりなし、その霊的な導きをしたのです。そのように、主がイスラエルの民に求めておられるあり方を回復させようとする思いは、レビ人たちも同じでした。24節に「ダビデの命令に基づき」と書かれてありますが、その時から約500年も前のダビデの時代になされた礼拝が、偶像礼拝、他国の侵略、神殿の破壊、捕囚という国の歴史の中で失われ、それが再び行われるようになるということは、イスラエルの民全体にとって、大きな喜びであったに違いありません。キリストにあって神の民とされた私たちも、時代は移り、国や民族は異なっても、変わることのない神の御旨に従い、求められているあり方をなす者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 11章◇(6月15日)

「民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した。」…ネヘミヤ記11章2節

11章に書かれているのは、エルサレムの町に居住した者たちと、他の町々の居住者のリストです。民の指導者たちの多くは城壁再建以前からエルサレムに住んでいましたが、その他の民は、農耕などの生活に適した他の町や村に住んでいました。しかし、城壁の完成後は、エルサレムの町の警備を強化する必要が生じ、人数が多くなかったエルサレムの住民を増やすために、他の地域の住民の中から、くじによって10人に1人の割合で選び出した者たちを、エルサレムに移住させるようにしたのです。2節には、「民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した」とありますが、それは、多くの人々にとって、その移住は決して容易なことではなく、犠牲を伴うものであったことを示唆しています。人々が生活するには、地方のほうが経済的にも環境的にも適しており、一方エルサレムには、敵からの攻撃を受けるリスクが絶えずあったからです。そのような中、そのことを受け入れ、自発的にエルサレムへ移住する者たちがおり、人々は彼らに感謝し、主の祝福をとりなしたのです。4~24節には、エルサレムに住んだ者たちの名が書かれています。それはユダ族、ベニヤミン族、祭司、レビ人、門衛の奉仕者のうちのある者たちでした。また、その後の25~36節には、エルサレム以外の居住地となった町々や村々の地名のみが記されています。それは、もちろん、人数的にそちらのほうが圧倒的に多かったからでもありますが、ここでの筆者の主な意図が、エルサレムの居住者を示すことにあったからに違いありません。そのように、犠牲が伴っても、自発的に、あるいはくじの結果を主のみこころと受けとめ、主への従順と感謝をもってエルサレムに移り住み、聖なる都を守り、主の宮で奉仕する者たちがいたということに心が留まります。主のための奉仕をし、ささげ物を献げるには犠牲が伴いますが、私たちもそれを感謝と喜びをもってうけとめ、進んでそのことをなす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 10章◇(6月14日)

「彼らの親類のすぐれた人々と歩調を合わせつつ、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めと掟を守り行うという、次のような、のろいの誓いに加わった。」…ネヘミヤ記10章29節

10章の内容は9章38節からの繋がりです。イスラエルの民は、第7の月の24日に断食し、自分たちと先祖たちの罪を悔い改め、主に立ち返り、神がモーセを通して与えられた律法に従って歩むことをあらためて決断しましたが、彼らは、そのことを文書に記して印を押し、そのような「盟約」として、主の前に提示しました。1~27節はその印を押した者のリストです。総督ネヘミヤを筆頭として、祭司たち、レビ人たち、民のかしらたちの名前が挙げられていますが、そのほかの民も「歩調を合わせつつ」とあるとおり、押印はしなかったものの、律法の遵守に同意し、印を押した者たちと心を一つにし、神に従順に従うという決意を新たにしたのです。その盟約の具体的な内容が30節以降に書かれています。それは、(1)異邦人との結婚をしない、(2)安息日に異邦人から物を買わない、(3)安息年の規定を遵守する、(4)神殿での礼拝のためにささげ物をする、(5)祭壇の薪を携えて来る、(6)初物や初子を携えて来る、(7)十分の一のささげ物を携えて来る、ということであり、特に新しい内容はなく、すべて律法で命じられている事柄です。しかしそれが守られていなかったからこそ、民は悔い改め、盟約を結び、主との関係を修復しようとしたのです。それは、目に見える物理的な城壁再建、神殿の修復とともになされた、霊的な意味での神殿の再建、主の道からはずれていた歩みの軌道修正であって、そのようなあり方こそ、主が願われ、喜ばれることでした。そしてそれは、いつの時代においても、神の民、聖徒たちが、主から求められていることなのです。私たちも日々、自らの歩みを振り返り、主の道からそれていないか、みこころにかなうあり方であったかを吟味し、軌道修正し、聖霊の住まわれる宮として建て上げられたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 9章16-38節◇(6月13日)

「しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てにもなりませんでした。あなたは、情け深くあわれみ深い神です。」…ネヘミヤ記9章31節

第7の月の24日に、イスラエルの子らは集まって断食をし、悔い改め、自分たちと先祖の罪を主に告白しました。昼の間の1/4の時間には主のみおしえの書が朗読され、次の1/4の時間には主に罪を告白し、礼拝をささげたのです(9:1-3)。そしてそれは、その月の15日から7日間行われた、仮庵の祭りの後のことでした。民は、喜び祝う中で、真実な神の恵みとあわれみを深く覚え、それに対して、いかに自分たちと先祖が不誠実であるかを強く示され、主の前に悔い改めるようにと促されたに違いありません。9章の5~37節は、イスラエルの国とその民に対する神の救済の歴史であり、それは、立てられた何人かのレビ人たちにより、悔い改めていた民の前で告白されました。奴隷となっていたエジプトから連れ出されたイスラエルの民は、荒野の旅路においても、主が天から降らせたマナによって養われ、岩から湧き出た水を飲むようにされたことなどが書かれています。そのようにして民は、主に守られ、導かれ、約束の地カナンに入り、その肥えた土地を所有し、食べて満腹し、主の大いなる恵みを楽しんだのです。それなのに、しばしば民は主に逆らい、自分たちの思いどおりに歩み、主が送られた預言者たちをも抹殺したため、主はついにご自身の国と民を、他国の手に渡され、彼らを苦しめました。しかし神は、彼らを絶ち滅ぼさず、見捨てず、愛とあわれみと忍耐をもって彼らを生かし続け、エズラとネヘミヤの時代にバビロンから帰還させ、城壁を再建させてくださったのです。そしてそれは、神がアブラハムとの契約を守られたことの証しなのです。その神は、私たちに対しても真実であられます。情け深くあわれみ深い主は、忍耐をもって私たちを導いておられます。キリストの贖いにより救われ、神の民に加えられたことを覚え、感謝し、賛美をささげたいと思います。

ただ主に栄光がありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 8章◇(6月11日)

「さらに、彼は彼らに言った。『行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。』」…ネヘミヤ記8章10節

「水の門」の広場に一斉に集まったイスラエルの民は、モーセの律法の書の朗読をエズラに依頼し、その一つ一つのみことばに耳を傾けました。そして、エズラが主をほめたたえると、民はみな両手を上げて「アーメン」と応答し、ひざまずき、ひれ伏して主を礼拝したのです。その際、みおしえはレビ人たちによって解き明かされたので、民はその意味をよく理解することができましたが、彼らはみな、その律法のことばを聞いて涙を流しました。なぜなら、過去の歴史における律法への違反が、自分たちの国の滅亡を招いたことを改めて悟り、また、現在の自分たちのあり方も、神のみこころに従っていないことを知り、心を刺され、悔やむ思いにさせられたからです。そんな民に対し、ネヘミヤとエズラは、「今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない」と言って励まし、ごちそうを食べ、ぶどう主を飲むようにと勧めました。それは、その日、第7の月の1日は聖なる日であり、そのあとの10日は「宥めの日」であり、15日からは「仮庵の祭り」という喜びの期間を迎えるのであって、神は、律法に従わない民を切り捨てる方ではなく、御前に真実に悔い改め、立ち返るなら、赦しと回復を与えられる方だからです。「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」。それは私たちへのことばでもあります。主を喜ぶとは、私たちがキリストにあって愛されていること、赦されていること、神の子とされていることを覚え、喜ぶことです。そのような者は、未熟なゆえに失敗しても、人のことばに傷ついても、主の御旨に従い切れなくても、その喜びが力となり、立ち上がることができるのです。主によって守られ、支えられるのです。悲しみを喜びに変えてくださる主に、ますます拠り頼んで歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 7章61-72節◇(6月10日)

「そのほかの民の献げたものは、金二万ダリク、銀二千ミナ、祭司の長服六十七着であった。」…ネヘミヤ記7章71節

バビロンから帰還した人々の中には、自分たちの家系が確かにイスラエル人であると、証明することができない者たちがいました。また、祭司の中にもそのような者たちがおり、彼らは、自分たちの系図書きを見つけられなかったため、祭司職を果たす資格がない者とされ、最も聖なるものを食べることも当然ながら禁じられました。帰還者の中で、祭司の任務にあたることができる者は限られており、その人員を十分に確保する必要がありました。しかしネヘミヤは、だからといって、その任命基準を曖昧にしたり緩めたりすることなく、血統を確認し、律法に厳格に基づき、奉仕者を立てるようにしたのです。そしてそれは、彼が神を畏れ、人間的な思いと方法によらずに、事を進めようとしたことの表われだったのです。69~71節には、ささげ物について記されています。一族のかしらのある者たちは、工事のための資金や、祭司が着用する長服をささげ、そのほかの民は、それ以外の用途にも使われる金銀や、同じく祭司の長服をささげました。72節には「こうして」とありますが、それは、そのようなささげ物によって、祭司、宮の奉仕にあたるレビ人、町の警備にあたる門衛などの者たちも、生活に困窮することなくその職務を遂行し、自分たちの町々に住むことができたことを示唆しています。イスラエルの民は、そのように、神の共同体として、主の権威と支配の下、進んでささげ、互いに仕え合い、支え合っていたのです。パウロはマケドニアの諸教会のささげ物について記していますが(2コリ8章)、それによれば、彼らは、自ら進んで、力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかることを望み、熱意をもってそれを行ったのであり、それは、いつの時代にあっても、主が聖徒たちに対して求めておられるあり方なのです。私たちもまた、そのように、感謝と喜びをもって、その恵みのわざに加わる者でありたいと思います。

神の祝福を押し流す管とされますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 7章1-60節◇(6月9日)

「私は兄弟ハナニとこの城の長ハナンヤに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナンヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからであった。」…ネヘミヤ記7章2節

敵の妨害に遭いながらも築き直された城壁に、いよいよ扉が取り付けられました。それによって、エルサレムの町の防護が機能し、人々が城壁の内と外を出入りすることが可能になったのです。残る必要は、その門の開閉の運用を含め、町の警備のための人員を配置し、敵の侵入を阻止すべく、監視を怠らないようにすることでした。ネヘミヤは、それらの警備を統轄する責任者として、自分の兄弟ハナニと城の長ハナンヤを指名し、その任にあたらせました。それはハナンヤがその務めにふさわしい能力を有しているということ以上に、何よりも、彼が誠実な者であり、他の人にまさって神を畏れていたからであり、ネヘミヤはそのような霊的な面を重視したのです。ネヘミヤは彼らに、太陽が高く昇って暑くなるまで、門を開けないように命じました。通常なら、城壁の門は、日の出とともに開門し、日没すれば閉門しますが、諸状況を考慮し、民が全員活動する時間になってから開門することとして、警備が手薄にならないようにしたのです。さらに彼は、エルサレムの住民を、物見のやぐらや自分の家の前に、見張りとして立つようにさせました。「主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい」(詩127:1)。城壁の再建が完成した時点では、エルサレムの町の住民はまだ少なく、家もまだ十分に建てられておらず(4節)、見張りにあたる者たちの数は十分とは言えませんでした。そのような、万全ではない警備体制ではありましたが、ネヘミヤも、ハナンヤも、町の人々も、主ご自身が町を守ってくださると信じ、その奉仕を忠実に行ったのです。私たちも、自分を守るには限界がありますが、主が絶えず見張り、守ってくださっていることを覚え、その主にますます信頼していきたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 6章◇(6月8日)

「私たちの敵がみなこれを聞いたとき、周囲の国々の民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が私たちの神によってなされたことを知ったからである。」…ネヘミヤ記6章16節

城壁の再建が完成に近づいたことを知ったサンバラテたちは、今度は、ネヘミヤに危害を加えようと企み、何度も使いをよこして、話し合いの場に誘い出そうとしましたが、ネヘミヤは、工事はまだ途中であるとして断り続けました。すると彼らは、5度目には、ネヘミヤが王となり、民と一緒になってペルシアに反逆しようとしている、と書いた手紙を使者に持たせ、それがペルシアの王に知られないよう相談しようと言ってきたのです。しかしネヘミヤは、そんなことはでっち上げだと一蹴しました。彼らの執拗な働きかけは続きます。今度はシェマヤという祭司であり預言者である者を買収し、彼からネヘミヤに対し、敵があなたを殺しにやって来るから、神殿に逃げ込むがよいと言わせ、祭司でないネヘミヤのその行為は律法違反だと非難し、悪評を立たせ、民の信頼を失わせようとしたのです。しかしネヘミヤは、それもまたサンバラテたちの罠だと見破り、相手にしませんでした。そのようにして、敵の妨害、企みはことごとく失敗し、城壁の再建工事は、52日間という短期間で完了しました。それはもちろん、そのために民が一致協力し、それぞれが熱心に作業にあたったからですが、何よりも、そこに神のあわれみ、助けと導きがあり、神ご自身がその再建を計画し、それを成し遂げてくださったからなのです。「主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください」(詩138:8)。私たちは、なすべきことを前にすると、自らの弱さを覚えておじけづいたり、逆に自分の力を過信してなめてかかったりしますが、どのようなことであっても、すべてを成し遂げてくださる主の前にへりくだり、主にただ拠り頼み、主のみわざを待ち望みつつ、事をなす者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 5章◇(6月7日)

「私も、私の親類の者も、私の配下の若い者たちも、彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう。」…ネヘミヤ記5章10節

5章には、外敵の脅威ではなく、内部、すなわちユダヤの民の中で起った問題が記されています。それは、富裕層の者たちが、生活に困窮している貧しい者たちに対して高い利子をつけて金を貸し、情け容赦なく取り立てるために、借り手たちはその返済のために、自分の息子や娘たちを奴隷に売らなければならないという事態でした。同胞に対してそのような扱いをする彼らへの抗議の声は、民の間で日に日に強くなっていきました。その訴えを聞いたネヘミヤは激しく憤り、弱者に対して愛とあわれみを示すことなく、自分たちの利益を優先させている有力者たちを責め、彼らの厳しい取り立てが、結果的に、同胞を異邦の民に売り渡すことになっているのだと指摘して、そのあり方を強く非難したのです。貧しい者たちに金を貸すことは、ネヘミヤと彼の親族や従者たちも行っていました。しかしそれは、彼らを助けたいとの思いからのことであり、彼らが困窮し、負債に苦しんでいる今、その負債を帳消しにすべきだと考えたネヘミヤは、有力者たちの前でそのことを表明しました。そして、彼らにも、取り立てた中からせめて利息分を借り手に返すようにと迫り、それを承諾させたのです。主イエスは、天の御国のたとえとして、負債のあるしもべから返済の猶予を願う訴えを聞き、その負債を免除してやった王のことを語られましたが(マタ18章)、その王とはすなわち神であり、負債のあるしもべとは、罪という大きな負債を抱えた私たちのことなのです。そして、キリストの贖いによって罪赦され、その負債を帳消しにされた私たちもまた、主に倣い、他者を赦し、愛とあわれみの心を持つようにと、主は願っておられるのです。それが、御国の民としてのあり方であって、私たちがその主のみこころに従って歩むとき、神の国はさらに拡げられていくのです。そのために用いられる者とされたいと思います。

慈愛の心が与えられますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 4章◇(6月6日)

「…『彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。』」…ネヘミヤ記4章14節

4章には、城壁再建を妨害する反対者たちの存在が記されています。彼らはすでに、2章の最後にあるように、再建にとりかかろうとする民を嘲っていましたが、ネヘミヤはそんな彼らに対して、「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる…」と告げていたのです(2:20)。その反対者、サンバラテたちは、城壁の再建が進んでいることを知ると非常に憤慨し、またもやユダヤ人たちを嘲りました。アンモン人トビヤは、狐が一匹上っただけで築き直した城壁は崩れる…と言い、民をばかにしたのです。しかしネヘミヤは彼らへの怒りを神への訴えとし、なおも信仰をもって工事を進めました。そしてその結果、城壁は、半分の高さまでではありましたが、一周分つなぎ合わされるところまで修復が進んだのです。すると、それを知った反対者たちはますます激しく怒り、妨害をエスカレートさせようと企みました。ユダヤの民に紛れ込んで一人ひとりを殺害し、工事をやめさせようと、テロのような手段を取ろうとしたのです。そのため、ユダヤ人たちは再建工事と敵の攻撃への守備の両方を、同時に行わなければならなくなりました。そんな中、弱気になっていた民を見て、ネヘミヤは民に向って命じました。敵を恐れるな、神を畏れよ…主の守りと助けと導きを信じて、勇敢に戦え…城壁再建工事を止めずにやり続けよ…と。そして、実際的な対応として、見張りの者と工事の者を分け、工事にあたる者にも武器を携行させ、さらに、角笛が鳴ったら全員が集結するように取り決め、少しでも民が安心して作業を進めることができるように配慮したのです。ともすれば私たちも、試練や困難に遭うと弱気になり、主の働きを進めることをためらってしまいますが、主を畏れ、ますます主に拠り頼み、祈りの声を上げつつ、なすべき事を止めずに、推し進めていきたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 3章15-32節◇(6月4日)

「その向こうでは、ザカイの子バルクが続きの部分を、城壁の曲がり角から大祭司エルヤシブの家の門のところまで熱心に修復した。」…ネヘミヤ記3章20節

城壁再建工事の記述の続きです。今日の箇所においても、「その向こうでは」、「その傍らでは」、「続きの部分を」と書かれており、それぞれが自分の担当部分の作業を忠実にこなし、隣り合う部分を担当する別な人の作業と「つなぎ合わせ」ていくようにして、ユダの民全体が、一つのチームとして、皆で一致協力して、その再建工事を進めていったことがわかります。21節に書かれている、ハ・コツの子ウリヤの子メレモテは、4節にあるように、北にある「魚の門」の近くの城壁を修復していましたが、そことは別な部分、ちょうど反対側に位置する南側の部分の修復も担当しました。つまり彼は、2箇所を一人で作業したのです。しかも彼は祭司であり(エズ2:61)、人間的にとらえれば、霊的な働きに就いている者はそのような労働を免除されても良いとも思えますが、しかし、彼はそうしなかったのですそのように、祭司も、レビ人も、職務や立場に関係なく一緒になって、城壁再建の作業に積極的に加わりました。ある者は2倍の労力を費やし、ある者は自分の家のそばの部分だけでしたが、城壁が再建され、神殿全体が建て上げられ、そこで多くの人々が喜びをもって神を礼拝する、その日が再び来るのを待ち望む思いは、皆同じであったのです。そして、その作業分担の量の違いを問題にし、他者を非難するような者はいなかったのです。「…神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」。「目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません」(1コリ12:18,21)。ユダヤ人たちが神の所有の民、共同体としての意識をもって行動したように、私たちもまた、キリストに贖われた聖徒たちとして、キリストからだに属する者たちとして、互いを尊重し合い、一つとなって、主のわざに励みたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 3章1-14節◇(6月3日)

「その傍らでは、エルサレム地区の残りの半区の長、ハ・ロヘシュの子シャルムが、自分の娘たちと一緒に修復を行った。」…ネヘミヤ記3章12節

いよいよエルサレムの城壁の再建が開始されました。城壁は神殿の境内を囲む「輪」になっており、途中に出入りするための門がいくつか設けられています。3章では、城壁の北側にある「羊の門」を始めとし、反時計回りに、それぞれの門とその作業担当者の名が書かれ、ぐるっと一周して羊の門まで戻ってくるよう記述されています。羊の門の再建にあたったのは、大祭司エルヤシブとその仲間の者たちです。彼らは焼き尽くされた門を修復すべく、扉を建て直し、錠やかんぬきを取り付け、そこから城壁を、西にあるハナンエルのやぐらまで伸ばしていきました。またその傍らでは、エリコの町の人々が、さらにその傍らではイムリの子ザクルが単独で、工事を担当していました。そのように、城壁再建の作業は、専門職だけが任されて行ったのではありません。「その傍らでは」、「その続きの部分は」という表現が示唆するように、非協力的な者も一部いましたが、多くの者たちが、城壁を完成させ、一つの大きな輪をつなぐために、協力し、一つとなってその工事を進めたのです。娘も一緒になって家族総出で作業にあたる者もいれば、自宅のそばのほんの一部の部分を担う者もありましたが、それぞれが進んで、自分の力に応じて、できる部分を、感謝と喜びをもって、城壁が完成することを待ち望みつつ、事にあたったのです。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」(1コリ12:27)。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ…愛のうちに建てられることになります」(エペ4:16)。キリストに贖われ、キリストのからだの各部とされている私たちもまた、からだ全体を建て上げるべく、それぞれの働きを担っています。互いに助け合い、励まし合い、そのからだの完成、御国の実現を待ち望みつつ、自らの務めを忠実になす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 2章◇(6月2日)

「そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また王が言ったことばを彼らに告げた。すると彼らは「さあ、再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。」…ネヘミヤ記2章18節

アルタクセルクセス王は、献酌官として自分に仕えているネヘミヤがいつになく沈んだ様子なのを見て心配し、悲しいことがあるに違いないと思って彼に尋ねました。するとネヘミヤは、エルサレムの都が廃墟となり、その門が火で焼き払われたままであることが、自分にとって何より悲しいことなのだと、率直に王に答えたのです。それを聞いた王は、自分に何かできることはないかと考え、ネヘミヤに尋ねました。そこで彼は、自分をユダの地に一時帰国させてほしい、そこでエルサレムの都の再建にあたらせてほしいと願い出て、その承諾を得ることができたのです。またネヘミヤは、ユダまでの道中の通行許可と、木材の手配依頼を、それぞれの関係者に対する手紙として、王に書いてもらうことができました。ネヘミヤはエルサレムに着くと、誰にも知られないように、町全体を一人で視察し、特に、城壁と門の現状を詳しく調べました。それらは、想定していたとおり、無残にも崩れ落ち、焼き尽くされていましたが、彼は、それを目にして再建の思いを新たにし、民に対して、城壁を築き直そう、もうこれ以上屈辱を受けないようにしようと呼び掛け、彼らを励まして仕事に着手させたのです。ネヘミヤは、それらの一連の行動において、常に祈り深く事を進めました。望みは何かと王から尋ねられたとき、彼は神に祈ってから、主からの知恵と導きによって王に答え(4節)、また、民に再建を命じ、励ましのことばを語る際にも、恵みを下さった神の御手のわざと、好意を示してくれた王のことばを証ししました。そして、それを聞いた民は、都の再建が主のみこころであると確信し、「さあ再建に取りかかろう」と言って奮い立ったのです。そのように私たちも、すべての行動において、主に拠り頼み、主からの知恵と助けと導きをいただいて、事を進める者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ネヘミヤ記 1章◇(6月1日)

「ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。…」…ネヘミヤ記1章11節

ネヘミヤ記は、エズラ記と同様、バビロンにより捕囚となったユダヤの民の帰還と、神殿の再建について伝えている書です。著者はネヘミヤかエズラとされています。エズラは、祭司かつ書記として民を励ましましたが、ネヘミヤは、帰還後、ペルシアの王から信任された総督として民を指導し、神殿の城壁の再建を導いた人物です。そのネヘミヤもまた、捕囚の民の一人でしたが、彼は、ペルシアの王アルタクセルクセスにより献酌官という重要な役職に登用され、バビロンの地にあるスサの城で王に仕えていました。しかしある時、ユダから来た者たちから、捕囚とならずにユダに残った人々が大きな困難と恥辱の中にあると聞くと、彼は座り込んで泣き、嘆き悲しみ、数日間断食して主の前に祈ったのです。「私は今…昼も夜も御前に祈り…イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました」(6節)。ネヘミヤは、自分自身と民が犯した、主への背信の罪をまず告白しました。その上で、民が主に立ち返り、主の命令を守り行うなら、主はその者たちを顧みてくださること、また、奴隷であった父祖たちが、主の偉大な力と力強い御手をもってエジプトから贖い出されたことを覚え、その主のあわれみを求めたのです。そのようにネヘミヤは、祖国から遠く離れたバビロンの地で、王の献酌官という地位にあって不自由なく暮らしていましたが、ユダヤの地に残っている同胞の困難な状況を知ると、そのことを深く嘆き悲しみ、主が彼らを助けくださるよう、心を注ぎだして祈り、とりなし、また、自分が何をすべきか、主のみこころを尋ね求めたのです。そして主は、その彼の祈りに答え、ネヘミヤを尊く用いられたのです。私たちもまた、置かれている時代、状況は異なりますが、主に贖われたしもべとして、人々の救いと祝福のために主にとりなし、委ねられた主の働きを忠実に行い、主に用いられる者でありたいと思います。

主のみこころがなりますように。