◇聖書箇所:詩篇135篇◇(8月31日)

「まことに 私は知っている。主は大いなる方 私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」…詩篇135篇5節

「ハレルヤ 主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ 主のしもべたち」。そのように、主をあがめ、礼拝するよう民に促すことばをもって、詩人はこの詩を始めています。そして最後においても、主をほめたたえよ、と繰り返し、ハレルヤということばをもって閉じています。3節以下に、そのようにすべき理由が記されています。主はいつくしみ深く、その御名は麗しく、すべての神々にまさっておられ、ご自身の望むところ、すなわちみこころをことごとくなされる、偉大なお方なのです。元より主は、天と地とこの世界のすべてを造られた創造主であり、今もそれらを統べ治めておられる主権者なのです。その主は、アブラハムと契約を結び、その子イサクの子ヤコブ、後のイスラエルをご自分の宝とされ、飢饉の中、彼とその子らをエジプトの地で守り養われました。そして、彼らが祝福されて数が増え、エジプトの奴隷となって虐げられるようになると、数々のしるしと奇跡を現わしてそこから連れ出し、荒野の旅路を経て、約束どおり、カナンの地をゆずりとして与えられたのです(8-12節)。詩人はまた、偶像を慕って頼る者の愚かさにも触れています(15-18節)。そのことは、神が民に与えられた十戒において、ほかの神があってはならない、という最初の戒めとして示されていますが(出20:3-6)、神を神としないことは罪の本質であって、人が容易に陥りやすい過ちなのです。ちなみにその偶像とは、形ある、目に見えるものとは限りません。それは、神以外のすべてであって、それに人が心を奪われ、神よりも重要視するのならば、仕事や趣味や社会奉仕活動さえも、その人にとっての偶像となり得ます。主をほめたたえよ、と強調する詩人は、そのような者となることなく、主を畏れて、「ただ主だけをほめたたえよ」と訴えているのです。神の民とされている私たちも、常に神を中心とし、みことばに従い、主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇133,134篇◇(8月30日)

「…主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」…詩篇133篇3節b

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。 兄弟たちが一つになって ともに生きることは。」詩人はそのように、幸せと楽しみを、兄弟たちが一つになってともに生きることの中に見いだしています。「兄弟」とは、血肉によるそれだけでなく、霊の兄弟姉妹、すなわち、イスラエルの神の民として一つである者たち、神の家族だと言うことができます。その兄弟たちは個性豊かなので、時にはそれがぶつかり合うこともありますが、彼らは神にあって同じ一つの家族であるゆえに、そのような中でも互いに認め合い、尊重し合い、愛し合うことをやめないのです。まさにそれは「ともに生きる」ということであって、神に生かされ、ともに支え合いながら、同じ道を進む者たちなのです。詩人はそのようなご自身の民の歩みを、頭に注がれた油にたとえています。その油は顔を伝い、ひげに流れ、さらに全身に至って、衣の端にまで流れ滴るのです。そしてその貴い油とは、神の祝福であって、それは一つの部分に留まることなく、必ず全体に行き渡るのです。そしてそれは、ある部分が隣の部分から受け、さらにまた隣へ…とリレーのようになされるのであって、それぞれが油をしっかり押しながすことによって実現するのです。「それはまた ヘルモンから シオンの山々に降りる露のようだ」。ヘルモンとは、イスラエルの北の端、シリア、レバノンとの国境にある、標高2,814mの高山です。その頂上には万年雪があり、それが解けて山麓に流れ、南のガリラヤ湖に注ぎ、さらにヨルダン川となって死海に流れ込みます。またその雪が蒸発して雲となり、シオンの山々にも雨を降らせるのです。そのように神の祝福は、いのちの川、恵みの雨となって人々をうるおし、生かすものとなります。そしてそれは、メシアによってもたらされる「とこしえのいのちの祝福」につながるのです。そのことを覚え、感謝し、聖所に向って手を上げ、主をほめたたえたいと思います(134:2)。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:詩篇132篇◇(8月29日)

「そこにわたしはダビデのために 一つの角を生えさせる。 わたしに油注がれた者のために ともしびを整える。」…詩篇132篇17節

「主よ ダビデのために 彼のすべての苦しみを思い出してください」。詩人はそのように主に願い求めています。ダビデは主のための宮を立てることを切に願いましたが、主は、それが彼の治世の間になされることを御旨とせず、彼の子ソロモンにその働きを委ねられました。「苦しみ」とはダビデの葛藤、ソロモンのために建築材料を用意した彼の労苦を意味しています(1歴22:14)。「主よ 立ち上がってください。あなたの安息の場所にお入りください。あなたと あなたの御力の箱も」(8節)。そのようにして、ソロモン王の時代にエルサレム神殿は完成し、ユダヤ人たちにとって大切な契約の箱がそこに安置されることとなりました。8-9節は、その献堂式におけるソロモンの祈りの引用です(2歴6:41)。主はシオンを選び、ご自分の住まいとして望まれたのです(13節)。しかしそれは、主の住まい、主の臨在が、エルサレムの宮という建物に限定されるという意味ではもちろんありません。元より、主はイスラエルの賛美を住まいとされるお方であって(詩22:3,3版)、ダビデの子孫である、油注がれたメシア、イエス・キリストは、儀式主義、形式的な礼拝に陥ってしまった神殿での礼拝を打破し、霊とまこと、すなわち御霊と真理による礼拝をささげる真の礼拝者たちが、ユダヤ人だけではなくすべての国民から起こされるために、ご自身の血による新しい契約を、神と人との間に結んでくださったのです。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」(ヨハ4:21)。どこで神を礼拝すべきなのかと尋ねたサマリアの女性に、主はそう答えられました。主が聖徒たちといつもともにおられること、御霊がその一人ひとりを宮として内に住んでくださっていることを覚え、その恵みに感謝したいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 17章20-26節◇(8月27日)

「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」…ヨハネ17章23節

主イエスは、ご自分が選ばれ、弟子として任命された者たちが、世にあって悪い者から守られるよう、また、真理によって聖別されるようにと御父に祈り求めました。そしてさらに、彼らだけでなく、後に彼らのことば、すなわち宣教によって伝えられる福音を聞いて、イエスを信じる人々もまた同じように扱われ、弟子として一つにされることを、御父に願われたのです。そのように聖徒たちが一つとされるのは、単に彼らが同士として一致団結し、協力し合うということではなく、その一致とは、彼らとともに主イエスがおられ、イエスのうちに御父がおられ、もう一人の助け主、御霊が彼らを宮として住まわれるという、三位一体なる神と聖徒たちとの霊的な一体性によりもたらされるものなのです。「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです」…「あなたが…わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです」。それらの主のことばは、聖徒たちが、主の証し人、代理者として世に遣わされ、イエスが救い主であることを人々に語り告げ、さらに、彼らが神の愛や聖さを体現する、つまり、ことばだけではなく、それを行いをもって現わす、そのような存在とされていることを示唆しています。「あなたがたは地の塩です…世の光です」(マタ5:13,14)、「あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハ15:12)と主は言われ、ヨハネは、「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」と促しています。それは聖徒たちを通して、世の人々が、神がどのようなお方であるのか、そしてその神が自分とどう関わりがあるのかを知るためなのです。そのために私たちが生かされていることを覚え、それぞれのところで、主を証ししていきたいと思います。

ますます主の似姿に変えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 17章1-19節◇(8月26日)

「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」…ヨハネ17章5節

多くのことを弟子たちに語られた主イエスは、その後、御父に向って祈られましたが、17章全体にそのことばが記されています。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」(1節)。主は、ご自分が十字架にかかる時がいよいよ来たことを知り、そのように御父に願い求められました。では、その「栄光を現わす」とは、何を意味するのでしょうか…。2節には、あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さった、それは、すべての人に子が永遠のいのちを与えるため…とあり、また5節には、世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を…と書かれています。三位一体なる神は、この世界をみこころのうちに創造され、人をご自身のかたちとして造られました。そしてそれらはすべて、非常に良かったのです。しかしその後、悪魔の誘惑によって最初の人アダムは罪を犯し、人と神との親密な関係は壊れてしまったのです。神の御子であるイエスが、御父から遣わされて地上に来られたのは、まさにその人類の罪を取り除き、神との本来の関係を修復し、永遠のいのちを与えるためであり、主イエスの栄光とは、ご自身の十字架と復活によって、その救い、贖いのわざを成し遂げ、メシアとして働きを全うし、神が人々からあがめられることであったのです。その栄光は今から2千年前に、エルサレムで確かに現わさました。そして今を生きる私たちは、その救いの良き知らせ、福音のことばを聞き、イエスを救い主だと信じ、罪の縄目から解放されたのです。神の子どもとされ、永遠のいのちにあずかる約束をいただいたのです。そこに神の栄光が現わされ、主の御名があがめられたのです。そしてその栄光は、さらに多くの人々の救いを通して現わされていくのです。そのために私たちは、自らに委ねられている働きを忠実に行なっていきたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 16章16-33節◇(8月25日)

「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」…ヨハネ16章24節

しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る…。主は弟子たちにそう言って長い語りかけを終えましたが、弟子たちは、そのことや、わたしは父のもとに行く…という主のことばの意味がわからず、互いにささやき合っていました。すると主は、彼らの恐れを取り除くべく、そのようになるとあなたがたは泣いて嘆き悲しむが、それはしばらくのことであって、その悲しみは喜びに変わるのだ…なぜなら、あなたがたはわたしに会えなくなっても、再び会うことができるからだ…と言われました(20節)。主は、ご自身の死とよみがえりを、改めて予告されたのです。さらに主は、わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださる…と言われましたが、それはつまり、神の御子としてご自身が持っておられる権限を、イエスの御名によって弟子たちが用い、御父に祈り求めることができるということであり、主イエスはそのような特権を、彼らにお与えになったのです。その主の教えを受けた弟子たちは、その後、人々にもそのことを伝え、初代教会の時代から今に至るまで、聖徒たちはそのように、イエス・キリストの御名によって、主に祈り続けて来ました。そして主は、人々のその祈りに答え、人の思いを越えたさまざまなみわざを行なわれ、ご自身の御力と栄光を現わされました。そしてそれは、とりもなおさず、主が今も生きておられ、主権者として、この世界のすべてを統べ治めておられるからなのです。「求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです」。主は、今もそのように、私たちを励ましておられます。どんな困難の中に置かれても、祈ることをやめず、幼子のような心で主に願い求め、喜びを受け取る者でありたいと思います。

喜びがますます満ちあふれますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 16章1-15節◇(8月24日)

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」…ヨハネ16章13節

主イエスは、これから起こることについて弟子たちに語られました。人々が彼らを会堂から追放し、殺そうとし、それによって神に奉仕していると思うようになる…と。なぜなら、イエスを信じない者たちは、その教えは異端であり、撲滅すべきだと考えていたからです。聖徒たちを片っ端から牢に入れていたサウロが思い起こされます。そのことを聞き、恐れを抱いた弟子たちに対して、主はさらに、ご自分を遣わされた方、天の御父のもとに行こうとしていることを告げられました。そして、彼らの心が悲しみに満ちていると知った主は、彼らを励ますようにして、わたしが去って行くことはあなたがたの益になる…なぜなら私は行って、助け主、すなわち御霊を、あなたがのところに遣わすからだ…と言われたのです。御霊の働き、それは、世の人々に対して、罪について、義について、さばきについて明らかにすることだと、主は言われました。罪とは、神に背を向けイエスを信じようとしないことであり、義とは、イエスを信じて神から正しい者とされることであり、さばきとは、終わりの日に、罪ある不義の者とこの世を支配する悪魔が、永遠の滅びに定められることであって、それらについて御霊は、人々に働きかけ、悟らせてくださるのです。真理の御霊が来るとすべての真理に導いてくださる…御霊はわたしの栄光を現わす…わたしのものを受け、あなたがたに伝えてくださる…(13-15節)。御霊の働きについて、主はさらに、そのように弟子たちに教えられました。ここに主イエスと御霊の一体性、父、御子、御霊の三位一体なる神が示されています。そしてその主は今も、わたしたちをすべての真理に導いてくださるのです。御霊の助けと導きにより、啓示の光に照らされつつ、真理の道、主の道を、まっすぐに歩み続けたいと思います。

誤りを認めることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 15章18-27節◇(8月23日)

「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」…ヨハネ15章19節

わたしにとどまりなさい…互いに愛し合いなさい…と、主は、弟子たちに対し、ご自分との関係、彼ら相互の関係におけるあり方について教えられ、さらに、彼らと世の関係についても語られました。この場合の「世」とは、この地上での悪と闇を愛する人々、世を支配しようとする勢力、すなわちサタンとその手下どもを指しています。「世はあなたがたを憎むのです」(19節)。「あなたがたも迫害します」(29節)。主は弟子たちにそう告げられました。そしてそれは、主が彼らを世から選び出し、取り分け、ご自身に属する者とされたからであって、自分たちとは違う者として、世が認識しているからなのです。そして、そのような弟子たちに対する世の態度は、イエスの名のゆえに、つまりイエスへの悪意や憎しみに基づくものであり、引いては、世がイエスを遣わされた御父をも憎んでいることになるのだ…と主は言われました(21,23節)。そしてその憎しみは、世が、闇に光を照らす存在を、疎ましく感じることから生じているのです。「…彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました」(24節)。主は人々の間で多くのみわざをなされましたが、人々の病のいやし、悪い霊からの解放などは、世にとっては喜ばしいことではなく、むしろ迷惑なこと、阻止したいことであったのです。ここに、自分たちのことだけに関心がある彼らの姿、罪の持つ自己中心性を見ることができます。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。他者に対して無関心ではなく、キリストの心をもって、キリストのように接しているでしょうか…。主は、ご自身が選ばれた聖徒たちを、世に遣わし、それぞれのところで、地の塩、世の光として用いようとしておられるのです(マタ5:13-16)。さらに主に祈りつつ、その使命を果たす者とされたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 15章1-17節◇(8月22日)

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」…ヨハネ15章5節

主イエスは弟子たちに、ご自分にとどまるようにと命じられましたが(4節)、それが具体的に意味することについて明らかにされました。7節には、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」とあり、9節には「わたしの愛にとどまりなさい」とあり、さらに10節には、「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」とあります。そのように、主イエスのうちにとどまるとは、すなわち、主イエスのことば、戒めのうちにとどまり、その教えを守り行なうことであり、かつそれは、主の愛にとどまるということなのです。そして主の愛にとどまり、その愛を受けるならば、一方通行ではあり得ず、当然ながらその者は、主から愛されていることを感謝し、喜び、その応答として自分も主を愛するのであって、その愛を、主の戒めを守ることによって表わすのです(14:21,23,24)。では、そのようにして、人が主イエスにとどまり、戒めを守り、主への愛を表わすことにより、何がもたらされるのでしょうか…。主は、ご自分がぶどうの木であり、人はその木の枝であって、人がご自分にとどまっているなら実を結び、そうでないなら実を結ぶことができず、刈り込みされ、枯れてしまうのだと言われました(1-6節)。明らかに主は、その実を求めておられます。一人ひとりに豊かな実が結ばれるのを、期待しておられるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(12節)。主イエスが愛してくださったように、互いに自らを与え合うこと、仕え合うこと、犠牲を払い合うこと、それを、日々の生活において実践すること、それが、主が私たちに与えておられる重要な教えなのです。主にあって、そのように、真実に愛し合っていきたいと思います。

御霊の助けがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 14章1-14節◇(8月20日)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」…ヨハネ14章12節

わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない(13:33)…とイエスから言われた弟子たちは当惑し、不安になりました。すると、そんな彼らに対して主は、あなたがたは心を騒がせず、神を信じ、わたしを信じなさい…わたしは父の家に行って、あなたがたの住む場所を用意する…そして再び来て、あなたがたをわたしのもとに迎えるのだ…と告げられました(3節)。そして、わたしがどこに行くのか、その道をあなたがは知っているのだ…と主が言われると、弟子のトマスは率直に、いやわからない、それをどうして知ることができるか…と答えましたが、主は彼に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と、ご自身がその道であることを明らかにされたのです(6節)。また主は、あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる、すでにあなたがたは父を見たのだ…と、ご自身と御父が一体であることを示されましたが、弟子たちはその意味がわからず、ピリポは、では父を見せてほしい、そうすれば満足する…と、見当違いな要求をし、主を嘆かせてしまったのです(8-9節)。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる…(10,11節)。わたしを信じる者はわたしが行うよりもさらに大きなわざを行なう…(12節)。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる…(マタ28:20)。ここに、御父と御子の一体の奥義、また神と神の子どもとされた聖徒たち、主と主の弟子たちとの一体の奥義が示されています。そしてそれは、私たちが、主から委ねられた働きを、人間的な力で行なうのではなく、主の権威によって、御霊の助けと導きのうちになすことを意味しているのです。そのことを覚え、神の御力の現われを待ち望みつつ、さらに主に仕えていきたいと思います。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 13章21-38節◇(8月19日)

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」…ヨハネ13章34節

ご自分を裏切る者の存在をほのめかしてきた主イエスは、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ると、はっきり弟子たちに告げ、わたしがパン切れを浸して与える者がそれだと言って、ユダにそのようにされました。しかし、弟子たちはその意味がわからず、主が会計係のユダに、何かの出費を指示したものと思ったのです。ユダはパンを受け取ると、行動に移すべくすぐ出て行きました。その後、十字架の時がいよいよ迫ったことを知った主は、パリサイ人たちに言ったことを繰り返し、わたしが行くところにあなたがたは来ることができない、と弟子たちに言われ、さらに、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと、命じられました。その命令は十字架とは関係ないようにも思えます。しかし、主はこうも言われたのです。「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」と。それはつまり、弟子たちが真実に愛し合うことを通して、彼らが確かに主イエスの弟子であると、誰もが理解する、認めるようになる、ということです。34節と35節において「愛」と訳されていることばはすべて、「アガペー」というギリシャ語ですが、それは友愛や恋愛という人の愛ではなく、十字架で現わされた神の愛、犠牲の愛、見返りを求めない愛を意味しています。主が弟子たちに、わたしが愛したように互いに愛し合え、と言われた真意は、単に互いに親切にせよ、仲良くせよという人間的なレベルのことではなく、他者に対して真実に仕えよ、持てるものを喜んで与えよ、それがわたしの心であり、それによって神の御旨がこの地になされるのだ…ということであったのです。そしてそれは、今も、すべての聖徒たちが日常生活において実践すべき教え、主のみこころなのです。そのことをしっかりと受けとめ、ますます互いに愛し合うことを実行したいと思います。

御霊の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 13章12-20節◇(8月18日)

「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」…ヨハネ13章14節

弟子たち全員の足を洗い終わった主イエスは、上着を着て再び席に着き、ご自分がなされたことの意味を彼らに尋ねられました。そして、師である自分がしもべであるあなたがたに行なったとおり、それを模範として、互いに足を洗わなければならないと言われました。そしてそれは単に、一つの決まりとしてそのことを守れ、ということではなく、ご自身と同じ心を持ち、真実に他者を愛し、へりくだり、主のことば、みこころに忠実に従う者となれ、それらを実践せよ、ということだったのです。その後、主は、このことをあなたがた全員に対して言っているのではない…なぜなら「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と聖書にあり(詩41:9)、そのみことばが成就するからだ、と言われましたが、それは、ユダの裏切りを意味していました。主はすでに、ペテロに対しても、あなたがたはきよいが皆がきよいわけではない…と告げておられましたが(10節)、今まさにそのことが起ろうとしていたのです。主イエスはさらに、「わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」と言われました。主が遣わす者とは弟子たちであり、主は、彼らが人々から拒絶、迫害を受けることを知っておられたので、そのように、弟子たちが神の代理人とされ、神の権威を与えられ、神の強い意志によって遣わされる者であることを明らかにし、彼らを励まされたのです。その主のことばは、もちろん、その時そこにいた12弟子たちだけでなく、後にキリストにあって聖徒とされたすべての者に対するものです。私たちも、そのことをしっかりと受けとめ、自分たちが主に選ばれ、任命されていることを自覚し(15:16)、主と心を一つにして、主のみこころを忠実になす者でありたいと思います。

主の助けと守りがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 13章1-11節◇(8月17日)

「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。』イエスは答えられた。『わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。』」…ヨハネ13章8節

過越の祭りの前の夕食の席において、主イエスは立ち上がり、上着を脱いで手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い始めました。そのとき、すでに主は、この世を去って父のみもとに行くご自分の時が来たことを知っておられ、ご自分の者たちへの愛を最後まで表わされたのだと、ヨハネは記しています。そのとき弟子たちは、自分の番が回ってくるのを複雑な思いで待っていましたが、ペテロの番になると彼は、師がしもべの足を洗うなどとんでもない…と、いたたまれなくなり、自分の足を洗わないでほしいと固辞しました。しかし、そうするならあなたはわたしと無関係になる…とイエスから言われると、急に態度を変え、足だけでなく手も頭も洗ってくださいと、思わず口走ったのです。すると、主は彼に、水浴した者は足以外は洗う必要がない…全身がきよいのだ、と言われましたが、それは霊的な意味であり、ご自分を信じる者は、十字架で流される血による贖いのゆえにきよくされるのであって、からだの各部分を洗う必要はないと言われたのです。またそれは、信じる者が受けるバプテスマを暗示していました。私たちは、そのように、キリストを信じてきよくされ、罪赦されて救われた者です。ペテロは主イエスがなされ行為が指し示していることを悟ることができませんでした。だから、自分の足など洗わないで…と言ったのです。しかしそれは、キリストの贖いなしに生きていけるとする、傲慢で罪深い人間の姿であるのです。師がしもべの足を洗うというあり得ないようなその行為は、主イエスの愛と謙遜と神への従順に基づくものでした。そしてそれはさらに、十字架へとつながっていくのです。真実の愛をもって愛し、御父のみこころに従順に従い通された主が、その血潮をもって私たちを洗いきよめてくださったことを覚えて感謝し、賛美をささげたいと思います。

ますますへりくだって歩む者とされますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 12章36b-50節(8月16日)

「だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。」…ヨハネ12章47節

主イエスは、人々の前で多くのしるしを行なわれ、真理のことばを語って教えられましたが、群衆のうちには飢え渇きがなく、彼らの霊の目も開かれていなかっため、彼らはイエスを信じようとはしませんでした。そしてそれは、イザヤの預言のとおりであり、その預言が成就するためであったと、ヨハネは記しています。一方、イエスの言動を見聞きした議員たちの中には、イエスを信じる者が少なからずいました。しかし彼らはそのことを公にせず、信仰を隠して生きる者たちでした。それは、そのことが明らかになれば、裏切り者として会堂から追放され、パリサイ人たちから罵られることになるからです。彼らは神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した…と記されています(43節)。その後、主イエスは、再び人々の前に出て叫ばれ、わたしのことばを守らない人をわたしはさばかない、と告げられ、続けて、わたしのことばを受け入れない者にはその人をさばくものがある…と言われましたが(47,48節)、それらの間には矛盾はありません。なぜなら、イエスのことばは、人々に話すべきものとして父から与えられたことば、神のことばであって、主は、救いについて語られ、永遠のいのちを説かれ、同時に、終わりの日のさばきのことを告げておられたからです。人は光のあるうちに光を信じなければならないのです。その光は、聖書の神のことばとして、今もすべての人に与えられています。そして人は、それを聖霊が照らされる啓示の光によって理解し、自分のものとして受け取り、主イエスを信じて救いにあずかることができるのです。聖徒たちは、「光の子ども」として、キリストのみわざ、救いの良き知らせを、人々に伝える者とされているのです。だれも闇の中にとどまらないよう(46節)、その役割をしっかり果たしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 12章20-36a節◇(8月15日)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」…ヨハネ12章24節

イエスと弟子たちはエルサレムに入りました。その時、主はろばの子に乗られましたが、それは預言の成就でした(ゼカ9:9)。その後、何人かのギリシア人がイエスとの面会を願い出ましたが、主はそれを伝えたピリポとアンデレに、人の子が栄光を受ける時が来た、一粒の麦が地に落ちて死ぬなら豊かな実を結ぶ、と告げられたのです。主が言われたそのたとえは、ご自身の十字架の死、葬りからのよみがえり、そしてそれによってもたらされる、すべての人の罪の赦しと救い、永遠のいのちを意味していました。麦の種が地に落ちて朽ちるなら、たとえ死んでいるように見えても、その中にいのちがあるので、それは芽を出し、成長し、豊かな実りをもたらすのです。さらに主は、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」とも言われましたが、それは決して、この世における生の否定ではありません。主は、地上での歩みに執着し、利己的、刹那的な生き方をし、そこに生きがいを見い出そうとするなら、やがてそれを失い、絶望に至るだけだ…。しかし、自らのうちにある罪を認め、そこからの解放を願う者は、わたしにあってそれを得、永遠に生きるようになる…と言われたのです。人の子とはだれか…と尋ねる群衆に対して主は、光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい、と言われました。その光とは、闇に打ち勝つ光、すべての人を照らすまことの光なるイエス・キリストであって(1:5,9)、主は、そのようなメシアとしてご自分を信じる者はすべて、光の子ども、神のこどもとされて、闇に襲われことはないのだ…だから、わたしを信じなさい、と言われたのです。私たちがその救いの恵みにすでにあずかっていることを感謝しつつ、救いの良き知らせ、キリストの福音を、人々に証しし、伝えたいと思います。

栄光と誉れがキリストにありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 12章1-11節◇(8月13日)

「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」…ヨハネ12章3節

過越の祭りが近づきました。主イエスの一行は、退いていたエフライムの地から再びベタニアにやって来て、生き返ったラザロとともに夕食の席に着いていました。そこでマルタは忙しく給仕していましたが、マリアはイエスのそばにいて、純粋で非常に高価なナルドの香油を取り、それを主の足に惜しみなく注ぎ、自らの髪でぬぐったのです。家の中はたちまちかぐわしい香りで満ち、人々は彼女が取った大胆かつ献身的な行動に感嘆しました。ところが、それを見た12弟子の一人で、後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダは、「どうして、この香油を3百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言って、マリアを非難しました。著者ヨハネは、そのことばは彼の本心ではなく、弟子の中で会計係であったユダがお金を着服していたからだと記しています。彼は、3百デナリ(3百万円に相当)もあれば、ごまかしてその穴埋めに使えたのに…と考えていたのです。高価な香油を主イエスの足に惜しみなく注ぐ、というマリアの行動…。それは、彼女にとって、ラザロを生き返らせてくれたことへの感謝と、メシアであるイエスへの尊敬と、主を愛し、主に仕える思いを見える形とした、油注ぎであり、献身の表明であり、愛情の表現でした。マルタのように動き回って奉仕することはなくても、何よりも、主のみそばにいて、自分ができる最善、最高のことを行なった彼女のあり方を、主は喜ばれたのです。それに対して、心にもないことを偉そうに言って、マリアを咎めた偽善者ユダ…また、ラザロを見て主イエスを信じる者が多く起こされているのを知り、イエスとともにラザロをも殺そうと企んだ祭司長たち(10-11節)…。ヨハネは彼らを対照的に描いています。私たちもまた、マリアのように、自分のできる最善をもって、主にささげ、主を愛し、主に仕える者でありたいと思います。

ますます喜んでささげることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章45-57節◇(8月12日)

「また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」…ヨハネ11章52節

ラザロが生き返るという奇蹟、主イエスがなされた偉大なみわざを目撃した多くの人々は、イエスがメシアであることを信じましたが、ある者たちは素直に受け入れず、イエスに対して敵意を抱いていたパリサイ人や祭司長たちのところに行き、起ったことをすべて報告しました。すると彼らは、最高法院と呼ばれる議会を急遽召集し、イエスが人々に与えている影響の大きさを問題視して、このまま放置しておくとイエスの信者が一大勢力となり、ローマ当局が暴動を恐れて介入すれば、ユダヤの国の自治権は奪われてしまう…と、そのことを懸念しました。ところが、大祭司カヤパが、一人の人が民に代わって死ねば、国民全体が守られるということを、どうして考えないのか…と発言すると、それがイエスの殺害を示唆しているのだと悟った彼らは、それに同意し、心を一つにして、その実行に向けての企みを議論し始めたのです。そのことについてヨハネは、カヤパがそれを自分から言ったのではないこと、そして、ユダヤの民だけでなく、「散らされている神の子ら」、すなわち、神に愛されている、救われるべきすべての人のために、主イエスが贖いの死を遂げられることを預言したのだと記しています。祭司長たちによるイエスの殺害…それは、彼らの嫉妬から生まれたものであり、人の目には、彼らの陰謀はうまくいったように映ったことでしょう。しかしそれは、神が主権をもって、御手の中でなされたことであり、罪をもった全人類のための救いのみわざであり、永遠の昔から計画されていたことであったのです。メシアの出現については、旧約の時代の多くの預言者たちによって語られており、その神のみこころが、時至って成就したのです。そのように、神は真実なお方であること、主権をもって私たちの歩みにも介入し、ご自身のみこころをなしてくださるということを、しっかり覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章30-44節◇(8月11日)

「イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』」…ヨハネ11章40節

家にいたマリアは、自分がイエスから呼ばれていると聞くと、村の外にいたイエスのところに出て行きました。そして、イエスを見ると足もとにひれ伏し、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったのに…と、彼女は、主とマルタとの会話を聞いていなかったのに、彼女とまったく同じことを主イエスに言ったのです。主は、そのマリアと彼女について来た人々が、ラザロを失ったことを悲しんでただ泣いているのを見て、「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」られました。それは、メシアであるご自分がすぐそばにいるのにもかかわらず、彼らが何も求めようとしなかったからであり、また、死というものが、いかに人を深い悲しみと絶望へ追いやるのかということを、あらためて思わされたからです。そして主が、ラザロをどこに置いたのかと彼らに尋ねると、彼らは、イエスが墓の場所を尋ねたと思い、「来てご覧ください」と答えましたが、それを聞いた主は、彼らがラザロは死んだと決めつけ、墓の中に閉じ込めたことを思い、そのような不信仰を嘆き悲しまれました。と同時に、そのように、希望を持つことができずにいる人々に対して深いあわれみを覚え、涙を流されたのです。その後、墓に向う道中で、盲人の目を開けたこの方も、ラザロを死なせないようにはできなかったのか…と、つぶやく人々のことばを聞き、主はまたもや心に憤りを覚えましたが、墓に着くと、感謝を先取りして御父をあがめ、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫びました。すると、彼はただちに、布で巻かれたまま中から出てきたのです。その前に主はマルタに、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」と言われ、彼女を励まそうとされましたが、主は今も、そのことばを、すべての聖徒たちに告げておられるのです。どんな状況にあっても、全能の主のみわざを待ち望み、信じて神の栄光を拝する者でありたいと思います。

信仰が増し加えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章17-29節◇(8月10日)

「彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。』」…ヨハネ11章27節

主イエスの一行がマルタたちの家に着いたのは、ラザロが墓に葬られてから4日目のことでした。彼らを知る大勢の人々が、ラザロの死を悼み、姉妹を慰めるためにその家に集まっていた中、主イエスの到着を知ったマルタは、一行を出迎えました。一方、悲しみに打ちひしがれていたマリアは、家の中にとどまり、そこでずっと泣き続けていたのです。主イエスと会ったマルタは、開口一番、「ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう…」と言いました。そこには、使いを送ったのに、なぜもっと早く来てくれなかったのか…という、非難の響きが感じられますが、同時に、いてくだされば助かったはずだ…という、イエスへの信仰が表わされています。続けて彼女はこう言いました。「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と。すると主はマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります」と告げられましたが、彼女はそれを、終末の日のよみがえりだと捉え、そのことは知っていると主に答えたため、主はさらに、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と告げ、死んだラザロの上に、今そのみわざが起ることを暗示されたのです。そのことをマルタは、まだ完全に理解できていませんでしたが、イエスがメシアだと信じていた彼女は、そのことを告白しました(27節)。「信じます」ではなく、「信じております」ということばに、その信仰が以前からのものであったことがわかります。ラザロもそうであったでしょう。そして、すべての者が同じように告白し、永遠のいのちを得るために、ヨハネは本福音書を記したのです(20:31)。すでにその恵みにあずかっていることを感謝しつつ、その信仰に導かれる人々がさらに起こされるよう、とりなしたいと思います。

キリストへの信頼がますます深められますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 11章1-16節◇(8月9日)

「これを聞いて、イエスは言われた。『この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。』」…ヨハネ11章4節

エルサレムの神殿においてパリサイ人たちと議論した主イエス、またその弟子たちの一行は、彼らの手から逃れてヨルダンの川向こうに滞在していましたが、そこに一人の使いがエルサレム近郊の村ベタニアからやって来て、その村に住むマルタとマリアの姉妹の兄弟であるラザロが、病気であるとの知らせをもたらしました。その使いは、姉妹からのメッセージをこう伝えました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」。彼らと主イエスとは、おそらく以前から親交があり、姉妹たちは、主イエスに一刻も早く駆けつけてほしい、と願っていたのです。しかし主イエスは、彼らのところにすぐには行こうとはせず、その場所になお2日とどまられました。その後、弟子たちに、もう一度ユダヤに行こうと言われ、またエルサレムに行くのかと主の身を案ずる弟子たちに対し、主は、ラザロが眠ってしまったので彼を起こしに行くのだ、と言われ、さらに、そのことばを額面通りに受け取った彼らに、ラザロは死んだのだ、と告げたのです。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです」。主は、あえて、すぐにラザロの元に行かず、ラザロが死ぬことをみこころとされ、彼の死と生き返りを通して、ご自身の栄光を現そうとしておられました。それは、死が、決して終わりではなく、敗北でもなく、キリストによって打ち破られること、そしてそのキリストを救い主として信じる者に、永遠のいのちがもたらされるということが明らかにされるための、いわば、プロローグであったのです。私たちの日々の歩みにおいても、なってほしくないようなことが起こりますが、しかしそれもまた、主にあって、それで終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものである、ということを、信仰をもって受け取りたいと思います。

主の栄光の現れを待ち望むことができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 10章31-42節◇(8月8日)

「しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」…ヨハネ10章38節

「わたしと父とは一つです」というイエスのことばを聞いたユダヤ教の指導者たちは、イエスが自分を神としていると断定し、その冒瀆の罪のゆえに、再び石を取って、イエスを石打ちにしようとしました。しかし主は、自分は父から出た良いわざを多く示してきたが、いったいどのわざが冒瀆にあたるのかと、彼らに尋ねられました。すると彼らは、良いわざのゆえではなく、自分を神だと言って、神を冒瀆しているからだと答えました。彼らは、イエスが多くの病人を癒し、悪い霊につかれている人々を解放しているのを、見て知っていながら、そのことについては無視していたのです。彼らは、自分たちにとって都合の悪いことには触れず、とにかくイエスを殺したい…と、短絡的な思いに捕らわれていたのです。そこで主イエスは、王たちが「神々」と呼ばれているみことば(詩82:6)を持ち出し、それらの者たちが、たとえ不完全ではあっても、神のことばを受け、主のみこころを具現したのであれば、そしてそのみことばが確かに神からのものなら、わたしは神の子だ、というその主張のゆえに、神から遣わされた自分が神を冒瀆していると、どうして決めつけるのか…と彼らを非難しました。結局、宗教指導者たちは、自分たちにとって都合の悪いものは無視し、イエスがなされていた良いわざは見ようとはせず、イエスのことばじりだけを捉えて冒瀆罪を適用し、殺害しようとしていたのです。彼らは、宗教の専門家を自称していながら、神のことばを先入観なく受け取る者ではなかったのです。ともすれば私たちも、先入観を持ったり、選り好みしたりしてみことばを読んでしまいがちですが、聖書に書かれたすべての神のことばに対して、へりくだり、それを自分のものとして受け取り、従順に聞き従う者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 10章1-18節◇(8月6日)

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」…ヨハネ10章10節

主イエスはパリサイ人たちの霊的盲目ぶりを非難されましたが(9章)、10章1節からの主のことばは、その彼らに対して語られたものです。主は、羊の門を通らずに、囲いを乗り越えて来る者は、羊たちを盗む強盗だと言われましたが(1節)、それは明らかに、パリサイ人たちのことです。目が開かれた盲目の人を追い出した彼らに、人々への愛はなく、ただ尊敬されたいだけであって、人々を食いものにしてる…と、主は暗に批判されたのです。それに対して、羊のところに門を通って入るのは、羊たちの牧者である主イエスご自身であって、羊たちはその声を聴き分け、羊飼いは自分の羊の名を一頭ずつ呼び、囲いの外へと連れ出すのです。そこには牧者の羊への愛があふれ、羊たちもまた牧者を信頼しているのです。そのように主イエスは、パリサイ人たちのあり方を非難されましたが、霊の目が閉ざされていた彼らには、その意味がわかりませんでした。彼らはユダヤ教の専門家として、「私たちは目が見えている」と誇っていましたが、自分たちが神の前にいかに愚かで罪深い者であるということ、そして主イエスが預言されたメシアであるということが、実はまったく見えていなかったのです。そんな彼らが理解できるように、主イエスは、比喩で語ったことをさらに詳しく語りましたが(7-18節)、その中で、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」と告げられました。それはすなわち、ご自身が十字架にかかり、そのいのちを代価とし、羊を殺そうとする者の手から買い取り、ご自身の所有のものとして、羊たちを生かしてくださるということです。そしてその主は今もなお、囲いの外の傷ついた羊たちを心に留めておられるのです(16節)。良き牧者なる主イエスに守られ、養われ、生かされていることを感謝し、羊を導くその御声に聞き従って歩み続けたいと思います。

主の御声を聞き分けることができますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 9章24-41節◇(8月5日)

「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」…ヨハネ9章39節

盲目であった人の癒しを通し、パリサイ人たちはイエスを何とか罪に定めようとしましたが、当人や両親から決定的なことばが得られないことに苛立ち、またもやその人を呼び出して、イエスはどのようにして目を開けたのか…と、前と同じことを執拗に問いただしました。するとその人は、彼らの態度に辟易しつつ、それはすでに話したが聞いてくれなかったではないか…あなたがたもあの人の弟子になりたいのか…と応じ、さらに、あの者がどこから来たかは知らないという言う彼らに対して、宗教指導者であるあなたがたがそれを知らないとは驚いた…盲目だった自分の目を開けたあの方は、神から出ておられるに違いないと、皮肉たっぷりに答えたのです。それを聞いたパリサイ人たちは、怒り心頭に発し、その人を外に追い出しましたが、主イエスは彼をフォローし、あなたは人の子を信じるかと尋ねられました。そして、あなたと話しているのがその人だ、と告げると、彼は、主よ信じますと言って、そこでイエスを礼拝しました。そのように、盲目であった彼の目は、そのとき、肉の目だけでなく、霊の目もまた開かれることとなったのです。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためにわたしは来た…と主は言われました。それは、癒されたその人やパリサイ人だけでなく、私たちたちを含む、すべての人へのことばです。自分は「見える」と言い張る者は、自分は知っている、わかっている、自分の力で進んで行けると高ぶっているのです。そして、主イエスの助けと導きを拒むなら、闇の中を、おじ惑いながら、おどおどと脅えながら歩むことになってしまうのです。そうならないように、すべての人は、自分もまた盲目であることを自覚し、キリストを求め、霊の目を開かれ、みことばの光に照らされて歩むべきなのです。主の前にますますへりくだり、そのように、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

霊の目がさらに開かれますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 9章13-23節◇(8月4日)

「人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」…ヨハネ9章13-14節

主イエスに癒され、目が見えるようになった人が帰宅すると、近所の人たちは驚き、何があったのか、と尋ねました。そして、事情を聞いた彼らは、その人をパリサイ人たちのところに連れて行きました。なぜなら、その癒しがなされたのが安息日であったため、律法違反の事例として、パリサイ人たちに知らせようとしたからです。盲目であった人が連れて来られると、パリサイ人たちも人々と同じことをその人に尋ねて答えを得ましたが、彼らの中のある者たちは、安息日の教えを破ってそのことを行なったのだから、そんな者は神のもとから来た者なんかではないと言い、別の者たちは、いや、そうでなければ、こんなしるしを行なうことなんかできないと反論し、意見が分かれて分裂が生じることとなったのです。そこで彼らが、その人に、イエスについてどう思うかと尋ねると、「あの方は預言者です」との答えであったため、業を煮やした彼らは、さらに、その人の両親までも呼び出して、息子に間違いないか、そうだとしたら、なぜ見えるようになったのかと、問いただしました。すると、面倒なことに巻き込まれたくない両親は、その人が自分たちの息子だと認めた上で、あとは本人に聞いてほしい…と言って、それ以上関わるのを避けたのです。それにしても、パリサイ人はともかくとして、近所の人たちもが、その人の目が開かれたことよりも、それが安息日に行なわれたのを問題視したことに驚きます。生まれつき盲目であった人にとって、癒され、見えるようになったことは、大きな喜びであったに違いありません。それなのに、そのことを一緒に喜ぶ者はいないのです。それは、彼らもまた、霊的な目が閉ざされ、律法主義の教えに染まり、心がかたくなであったからです。「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」(ロマ12:15)。そのように、キリストの心、愛の心、柔らかい心を持つ者でありたいと思います。

主の似姿へとさらに変えられますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 9章1-12節◇(8月3日)

「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」…ヨハネ9章4-5節

主イエスの一行は、道中、生まれつきの盲人に出会いました。すると弟子たちは、その人の「不幸」は、本人が罪を犯したからか、それとも彼の両親の罪のせいなのか、と主に尋ねました。当時、そのような因果応報的な考えが一般的であり、弟子たちも例外ではなかったのです。それに対して主イエスは、この人が盲目に生まれついたのは、本人や両親が罪を犯したからではない…それは、この人に神のわざが現れるようになるためだ…と答えられました。そしてさらに、わたしたちは、夜が来る前に御父のわざを行なわなければならない、わたしが世にいる間は、わたしが世の光なのだ、と言われたのです。その後、主イエスは、地面の土に唾をし、それで泥を作って盲人の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと命じられました。そして彼が、そのことばに従って目を洗うと、たちまち見えなかった目が見えるようになったのです。それは、主イエスがなされた奇蹟のみわざでした。主イエスは弟子たちに、だれも働くことができない夜が来る前、昼のうちに、神のわざを行なわねばならない、と言われました。その「昼」とは、12弟子にとっては、イエスが地上におられる間であり、今を生きる、主の弟子である私たちにとっては、「終わりの日」、すなわち、すべての者が神の審判を受けるときが来る前の、主がともにいてくださる、今このときのことです。そして御父のわざとは、神が備えられた御子による救いの知らせ、すなわちキリストの福音を人々に伝えることなのです。生まれつきの盲人の目は主イエスによって開かれました。その主は、生まれつき霊的に盲目なすべての人の目を開いて救い出すために来られたお方です。ますます、その主のことばに忠実に従い、神のわざの現われを体験し、世の光である主を証しする者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 8章48-59節◇(8月2日)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」…ヨハネ8章51節

わたしのことばに聞き従わないあなたがたは、神から出た者ではない…悪魔から出た者だ…と主イエスに指摘されたユダヤ教の指導者たちは、神のことば、律法の専門家としてのプライドを傷つけられて憤り、「あなたはサマリア人で悪霊につかれている」と自分たちが言うのも当然のことだ…と、語気を強めてイエスを罵りました。すると主イエスは、「わたしは悪霊につかれてはいません」と、彼らの言うことをすぐに否定し、さらに、「むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています」と彼らのありかたを責め、そして、そのような者に対してさばきをなさる方がおられる…と告げられました。主は、自分を卑しめている彼らは、御父をも侮辱しているのであって、結局、神に背き、律法を守っていないのだと、彼らの過ちを指摘したのです。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」。主イエスはあらためて、ご自身のことばを聞いて、ご自身を遣わされた父なる神とご自分を信じるならば、その者は、罪が赦され、死からいのちに移され、永遠のいのちを持つことができるのだ…と言われました(5:24参照)。主イエスは、まさにそのために、この世に来られ、人の姿を取って歩まれ、十字架にかかり、死からよみがえり、その贖いのわざを成し遂げてくださったのです。そして主は、律法を成就するために来られたお方であって(マタ5:17)、その主のことばを守るなら、信じて聞き従うなら、それは、神のことばを行なう者、義なる者とされる、ということなのです。パリサイ人たちは、自分たちが作った独自の規定を守り、人々にも強要していましたが、それで満足するあり方は罪深く、滑稽でさえあるのです。私たちが同じ過ちを犯さないよう、人のことばではなく、ますます神の国の福音、キリストのことばを心に留め、その光の中を歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨハネの福音書 8章31-47節◇(8月1日)

「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」…ヨハネ8章31-32節

31節以降は、主イエスがご自分を「信じた」ユダヤ人たちに語られたことばです。彼らはイエスをメシアとして受け入れておらず、単にすぐれた教師としてその教えを認めていたに過ぎず、宗教指導者たちの一部の者たちであった(40節参照)と考えられます。主は、彼らがご自分の教えを表面的に受け取るだけであることを見抜き、わたしのことばにとどまるならば、真理を知り、その真理によって自由にされるのだと、彼らに告げられました。それを聞いた彼らは、自分たちが「不自由」だとの自覚がなかったため、なぜそう言うのか…と反発しました。彼らは、自分たちは神に義とされ、契約の中に入れられたアブラハムの子孫であり、自分たちの義と祝福の根拠はそこにあるとしていたのです。また、今は政治的にはローマの支配下にあるが、奴隷として従属させられてはいないし、その中で自分たちは神を信じて、モーセの律法を学び、人々に指導する働きをしており、そのことは神に喜ばれているはずだと、誇りをもって答えたのです。しかし主イエスは、そんな彼らの高慢を打ち砕くかのように、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と告げ、さらに、律法を守っていると言いながら、神の真理を語っているわたしを殺そうとしているあなたがたは、実は、神ではなく、悪魔に従っている者たちなのだと、彼らの偽善的なあり方を、厳しく非難されたのです。彼らにとっての「自由」とは、あくまでも自分たちが感じる自由であり、自己評価に過ぎませんでした。彼らは、自分たちの民族的な血筋を誇り、持っている律法の知識と、人々にそれを教える立場に安住し、自己満足していたのです。そして、そのような自己義認、自己中心のあり方こそが罪であって、あなたがたはそれに捕われている罪の奴隷なのだ、と主は指摘されたのです。聖徒とされた私たちも、そのような過ちに陥ることがないよう、主のみことばにしっかりととどまり続けたいと思います。

ますます自由の中を生きる者とされますように。