◇聖書箇所:ヨシュア記 6章◇(5月31日)

「主はヨシュアに告げられた。『見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」…ヨシュア記6:2

主はヨシュアに対して、城門を堅く閉ざしているエリコの町の攻略について、奇妙なことを命じられました。それは、6日間町の周りを1周だけ回り、7日目には7周回った後にときの声をあげよ、というものであり、さらに、7人の祭司がそれぞれ雄羊の角笛を吹き鳴らし、主の契約の箱の前を進むようにせよ、という命令でした。するとヨシュアは、祭司と民にそのことを伝え、その隊列の順序として、武装した者たちを先頭にし、その後に角笛を吹き鳴らす7人の祭司たち、さらにその後に主の契約の箱、最後に角笛を吹き鳴らすしんがりの者、となるようにしました。そして、命令どおり、その隊列が町の周りを6日間1周し、7日目には7周してときの声をあげると、要塞となっていたエリコの城壁が崩れ落ちたのです。そしてイスラエルの民は町に攻め上り、そこにいた住民と家畜を残らず聖絶したのです。しかし、エリコの町を以前に偵察した2人をかくまった遊女ラハブと親族だけは、その2人によって連れ出されて命拾いしたのです。そのようにして、難攻不落と思われたエリコの町を、ヨシュアとイスラエルの民は難なく攻め取ることができました。そしてそれは、「あなたの手に渡した」と完了形で言われた主の約束の成就であり、奇妙に思える主の命令に彼らが忠実に従った結果現わされた、主の偉大なみわざ、奇蹟であったのです。私たちの歩みにおいても、しばしば問題が前に立ちはだかりますが、それに対して不平を漏らしたり、解決策をすぐに話し合うべきではないのです。隊列が町の周りを回るとき、不要な声を出すのは禁じられました(10節)。私たちがなすべきこと、それは、角笛を吹き鳴らし、ときの声をあげることです。そしてそれは、祈りの声であり、賛美の歌であり、主への礼拝なのです。主の約束のことばの告白と勝利の宣言なのです。そのとき、壁は崩れ落ちるのです。そのことを覚えたいと思います。

勝利を信じて前進することができますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 5章◇(5月30日)

「マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。」…ヨシュア記5:12

水がせき止められるという主のみわざが現わされ、ヨルダン川を渡り終えたイスラエルの民の男子に対して、主はヨシュアを通し、割礼を受けるよう命じられました。なぜなら彼らは、40年間の荒野の生活の中で生まれた者たちであり、割礼をまだ受けていなかったからです。割礼は、アブラハムが神から受けた契約のしるしであり、主の契約の民であることを覚えるためのものでした。民はまた、宿営の期間中に、過越のいけにえをささげました。それは、小羊の血が塗られた家を主のさばきが過ぎ越し、自分たちの父祖たちがエジプトを脱出したことを記念するための祝い、主への感謝と礼拝のときでした。またその翌日、彼らは初めてその地の産物を食べましたが、その翌日からは、それまで毎日得ていた天からのマナはやみ、その地での収穫物を食料とするようになりました。そしてそれは、それまでの移住生活が終わり、カナンでの定住生活に変わったことを意味していたのです。そのように、イスラエルの民は、過越のいけにえを主の前にささげ、エジプトでの奴隷生活から解放されたことを記念して祝いました。そして、神の民とされた私たちもまた、キリストが過越の小羊となって血を流され、すべての人を罪の奴隷から解放してくださったことを記念し、賛美のいけにえをもって主に礼拝をささげるのです。その中で主の聖餐にあずかり、パンとぶどう液を通して主の贖いのみわざを深く覚え、感謝をささげるのです。また、彼らの中の男子は割礼を受けましたが、私たちはからだの割礼ではなく心の割礼を受けるのです。すなわち、砕かれた悔いた心をもって主に従うのです。さらに、荒野の旅を終えた彼らはマナを食べなくなりましたが、私たちは地上の荒野の歩みを続けており、神からのマナ、みことばによって、日々養われるのです。そのような、神の民としての自覚を持って歩み続けたいと思います。

主の恵みを覚えることができますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 4章◇(5月29日)

「あなたがたは彼らにこう言いなさい。『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』」…ヨシュア記4:7

主はヨシュアに対して、水がせき止められたヨルダン川の真ん中、主の契約の箱を担ぐ祭司たちが立ったその場所から12の石を取り、12部族の中から一人ずつ選んだ者たちにそれを運ばせ、民が泊ることになっている宿営地に据えるようにと命じられました。その12の石とは「しるし」であり、民がその石を見るときに、ヨルダン川で起こった奇蹟のみわざを思い起こし、それをなされた神をあがめ、畏れ、神に拠り頼んで歩む思いを新たにするためのものでした。そしてそれは、そのことを経験した者たちだけでなく、後の世代の者たちに対しても、神が生きて働かれた証しとして、永久に記念すべきものだったのです。出エジプトにおいて、紅海が分かれるという奇蹟を民は経験しましたが、過越の祭りもまた、それを覚えるための「しるし」なのです。私たちにとっての「12の石」…。それは、キリストがあのカルバリの丘でかかられた十字架です。十字架は、イエス・キリストの贖いのしるし、神の愛と恵みとあわれみのしるし、私たちに与えられている永遠のいのちのしるしなのです。12の石自体はただの石に過ぎません。同様に、十字架それ自体には特別な意味はなく、ローマによる死刑の道具のひとつに過ぎません。しかしその十字架に、罪人である私たちの身代りとなってイエス・キリストがかかられ、尊い血潮を流され、いのちをささげてくださったからこそ、そして、その死から3日目によみがえり、死に勝利してくださったからこそ、全人類にとって、十字架は意味あるしるしなのです。だからこそ教会は、この十字架を高く掲げているのです。主が私たちにどのような偉大なみわざをなしてくださったのか…。日々、十字架を仰ぎ見、神をあがめ、賛美し、神に愛されていることを感謝して歩みたいと思います。

救いの喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 3章◇(5月27日)

「主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。」…ヨシュア記3:17

エリコの町を偵察した二人からの報告を受けたヨシュアは、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ることを決断し、翌朝早く、すべての民とともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のほとりに宿営しました。そして3日後、つかさたちは民に、祭司たちが主の契約の箱を担いで進むその後を、距離をおいて進むようにと命じ、ヨシュアは祭司たちに、契約の箱を担いで民の先頭に立って進み、ヨルダン川を渡るようにと命じたのです。主はヨシュアに告げられました。「わたしはあなたを大いなる者とする…祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、川の中に立ち続けよ』と命じよ」と。するとヨシュアは、イスラエルの民に対して、主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が川の中にとどまるとき、その水はせき止められ、堰となって立ち止まるようになる、と告げたのです。そのときヨルダン川は、その川岸まで水が満々と流れていました。先頭を進む祭司たちは、そこに入って進むことを一瞬ためらったかもしれません。しかしヨシュアから告げられたことばを信じ、足を川の水に浸すや否や、そのことばのとおり、川上から流れて来る水は堰となって立ち止まり、水は完全にせき止められ、あの出エジプトのときの紅海と同じようになったのです。祭司たちがしっかりとその乾いたところに立ち続ける中、民はそこを通り、その後に祭司たちが続き、民全員がヨルダン川を渡り終えることができたのです。「主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ」(イザ52:12)。主の契約の箱は、主主の臨在の象徴です。その契約の箱が、イスラエルの民がヨルダン川を渡るときに、先頭になりしんがりとなって、民を守り導いたのです。私たちも試練により行く手を阻まれますが、その主が道を備えてくださることを覚え、信仰をもって足を踏み出す者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 2章◇(5月26日)

「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」…ヨシュア記2:11b

ヨシュアはひそかに、偵察のために二人の者を、ヨルダン川の西側にあるエリコの町に遣わしましたが、その二人が身を隠したのは、ラハブという遊女の家でした。遊女とは売春婦であり、そこなら怪しまれないだろうと考えたのでしょう。また、彼女の家が城壁の中に建て込まれていたので、人々の目につきにくいだろうと判断したのかもしれません。しかし、町に侵入して彼女の家に入った彼らを目撃し、エリコの王に告げる者がいたのです。二人を捜索に来た者たちに対してラハブは、確かに来たがすでに出て行ったと嘘をつきました。彼女は二人を、屋上に積まれた亜麻の茎の中に隠していたのです。事なきを得た二人にラハブは告げました。主がこの地をあなたがたに与えておられ、この地の住民はみな、震えおののいている…。私たちは主がなされた偉大なみわざを聞いており、その主は天と地において神であられる…と。彼女の言う「主」(太文字の「主」)とは、原文を見るとわかるように、「ヤーウェ」、唯一まことの、イスラエルの神のことです。ラハブが二人をかくまい、嘘までついて逃がしたのは、その主を畏れ、それが主が願っていること、自分に求められていることだと受けとめて従った、主に対する信仰に基づく行為であったのです。そのラハブは、のちにユダの子孫であるサルモンと結婚し、モアブ人ルツを買い戻して夫となったボアズを生みます。そしてルツが生んだオベデの子エッサイの子がダビデ王となり、その家系からイエス・キリストが生まれるのです。ラハブはカナン人の遊女であり、姦淫の罪を犯す者です。その彼女がキリストの系図に連なっているのです。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました」(ヘブ11:31)。神は、異邦人であっても、どんな罪を犯しても、まことの神を認め、受け入れ、信じるならば、神はその者を救いにあずからせ、ご自身の民としてくださるのです。私たちもキリストにあって神の民とされたことを、感謝したいと思います。

主の愛とあわれみを覚えることができますように。

◇聖書箇所:ヨシュア記 1章◇(5月25日)

「ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。」…ヨシュア記1:7

イスラエルの民をエジプトから脱出させ、荒野の旅路を導いた指導者モーセに代わり、彼の従者であったヨシュアが民を率いてヨルダン川を渡り、いよいよカナンの地へ入って行こうとしていました。そして、そのヨシュアに対して主は、「強くあれ。雄々しくあれ」と3度繰り返して命じられ、そのことの重要性を強調されたのです。「強くあれ。雄々しくあれ」。その命令の理由の第1は、主がヨシュアの父祖たちに誓われた地であるカナンに、イスラエルの民を導き、乳と蜜の流れるその地の祝福と繁栄を、彼らが受け取るようにするためでした(6節)。イスラエルの民の代表であるヨシュアがまず、その自覚をしっかり持って立つよう、主は願っておられたのです。「強くあれ。雄々しくあれ」。その命令の理由の第2は、主がモーセを通して民に与えられた律法のすべてを守り行い、右にも左にもそれずに、主が備えられた道をまっすぐに進むためでした(7節)。イスラエルの民の祝福と繁栄は、カナンの地に入れば自動的に与えられるわけではなく、そのような姿勢、心が求められていたのです。「強くあれ。雄々しくあれ」。その命令の理由の第3は、主がいつも、どんな状況でもともにおられ、その主によって守られ、導かれるからです(9節)。たとえ様々な困難や敵の出現があっても、恐れたりおののいたりしてはならないのです。また、自分の力ではなく、主にひたすら拠り頼んで進むべきなのです。自らの弱さ、足りなさにではなく、主に目を向けて、強く雄々しく歩むのです。その主は、神の民である私たちに対しても同じように、「強くあれ。雄々しくあれ」と命じておられます。恐れず、おののかず、主に拠り頼んで前進するようにと願っておられるのです。そのことを覚えたいと思います。

主からの力によって強められますように。

◇聖書箇所:創世記 50章15-26節◇(5月24日)

「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」…創世記50:20

父ヤコブが亡くなった後、ヨセフの兄たちは、自分たちがしたことをヨセフが恨み、仕返しをするのではないかと恐れを抱きました。ヨセフとの涙ながらの再会を経てもなお、兄たちの心には、依然としてそのようなわだかまりがあったのです。彼らはヨセフに、ヤコブは生前、「兄たちの背きと罪を赦してやるようにとヨセフに伝えよ」と、自分たちに命じていたとに言いましたが、おそらくそれは、兄たちの作り話だったことだったでしょう。私たちはあなたの奴隷です…と、命乞いをするようにヨセフの前にひれ伏す兄たちに対して、ヨセフが告げたことばが心に留まります(19-21節)。「私が神の代わりになることができるでしょうか」…報いをされるのは神であり、自分は一人の人間に過ぎず、神の代わりになどなり得ない…。「神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」…自分への兄たちの行為は確かに罪、悪であったが、神はそれをも、ご自身の祝福をもたらすために用いられた、それは神のご計画であった…。「それは…多くの人が生かされるためだった」…それによってヤコブの子孫は飢饉から守られ、繁栄できた…。そればかりでなく、エジプトの国にもその祝福は及んだ…。だから恐れることはない、あなたがたを恨んではいない、あなたがたも子どもたちも養おう…。ヨセフはそのように兄たちに優しく語りかけ、彼らを安心させたのです。ヤコブの11番目の息子であったヨセフは、兄弟の中で実質的な長子とされました。そして彼は、自分に対して兄たちが犯した背きと罪を赦したのです。キリストは「長子」となられたとパウロは言っていますが(ロマ8:29)、兄たちを赦すこのヨセフに、キリストの予型を見ます。ヨセフは兄たちを安心させたとありますが、罪人であった私たちも、キリストにあって神から赦され、裁かれることへの恐れから解放され、平安のうちに歩む者とされたのです。そのことを感謝したいと思います。

主からの平安がありますように。

◇聖書箇所:創世記 50章1-14節◇(5月23日)

「それで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともに、ファラオのすべての家臣たち、ファラオの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、ヨセフの家族全員、彼の兄弟たちとその一族が上って行った…」…創世記50:7-8a

ヤコブは息を引き取る前に、自分の遺体はカナンの地、ヘブロン近郊にあるマムレに面したマクペラの墓に葬るようにと、息子たちに指示していました。そこは、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そしてヤコブの妻レアが、すでに葬られているところでした(49:27-33)。そこでヨセフは、父ヤコブが亡くなってその喪の期間が明けたとき、ファラオに対し、父をカナンの地に葬るために上って行くことを、彼の家の者を通して申し出て許可を得ました。そして、ヤコブの家族だけでなく、ファラオの家臣やエジプトの国の長老までもが同行し、戦車と騎兵を伴った大きな一団として上って行ったのです。彼らは、ゴレン・ハ・アタデという地に着くと、まずそこで盛大で荘厳な葬儀を7日間行い、ヤコブの死に対する哀悼の意をあらためて表わしましたが、その葬儀の立派さは、それを見て感嘆した住民のカナン人が、その場所を、「エジプトの葬儀」を意味する「アベル・ミツライム」という名を、わざわざその場所につけるほどでした。その後、一行はさらにマムレに遺体を運び、ヤコブの指示通りに墓に葬り、エジプトへと戻って行ったのです。「エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ」(3節)。その喪の期間の長さは異例と言えます。それは、ヤコブがヨセフの父であり、ファラオの指示があったからだと思われますが、ヤコブがファラオに会ったときに彼をすぐに祝福したように、ヤコブが、自分が受けて来た神の祝福を、エジプトという異国にも押し流そうとする、そのあり方、スピリットが、王を始め、国民にも認められていた、そのことの証しだと言えるのです。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます」(ルカ6:38a)。私たちも、どこにあっても、受けている神の祝福を周りに押し流す者でありたいと思います。

神の祝福の基とされますように。

◇聖書箇所:創世記 49章◇(5月22日)

「これらはすべてイスラエルの部族で、十二であった。これは、彼らの父が彼らに語ったことである。彼らを祝福したとき、それぞれにふさわしい祝福を与えたのであった。」…創世記49:28

49章はヤコブの臨終の場面です。彼の12人の息子たちは彼のもとに呼び集められ、遺言とも言える彼のことばを聞きました。そのときヤコブは、ルベンから始め、彼ら一人ひとりに対して、持っている性格やそれまでの歩みについて述べ、将来についても預言的に語ったのです。長子ルベンに対しては、「威厳と力強さでまさる者」とたたえる一方、「おまえは父の床に上り…それを汚した」と、彼が父の側女のビルハと関係を持ったことを(35:22)責めました。また、シメオンとレビについては、「彼らは怒りに任せて人を殺し」と、妹ディナを辱めたシェケムへの復讐として、彼だけでなくその町のすべての男たちを殺したことを(34:25)非難し、「のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは」と告げたのです。ユダに対しては、ベニヤミンを父の元に帰すため、自分が代わりに人質となると申し出たこと(44:33)のゆえに、兄弟たちから称賛と尊敬を受けるにふさわしいとほめ、さらに、「王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない」と告げました。そして、そのユダの子孫から実際にダビデが生まれ、さらにキリストが生まれたのです。そのようにしてヤコブは、「それぞれにふさわしい祝福を与え」ましたが、ルベン、シメオン、レビに告げたのは、むしろ責めることば、のろいのことばでした。そこでの「祝福」とはつまり、それぞれにふさわしい「報い」という意味であったのです。罪人である私たちへの報い、それは「死」です。しかし私たちの身代りとなられたキリストの贖いによって、その報いは「永遠のいのち」となりました。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあるとおりなのです(ロマ6:23)。神が、一方的な愛とあわれみにより、賜物として与えてくださったその救いといのちを感謝し、主をほめたたえたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:創世記 47章◇(5月20日)

「さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得て、多くの子を生み、大いに数を増やした。」…創世記47:27

ヨセフは、父と兄弟たちとその家族がカナンから到着したことをファラオに報告し、5人の兄弟を彼に引き合わせました。するとファラオは、ヨセフの想定どおりに彼らの職業を尋ね、兄弟たちもヨセフの指示どおりに羊飼いだと答えると、王は、彼らをエジプトの最も良い地であるゴシェンに住まわせよ、とヨセフに命じました。神がヨセフに示されていたとおりに、すべてが進んだのです。一方、起こっていた飢饉はますますひどくなり、エジプトの地もカナンの地もそのために衰え果てました。人々は食物を得るために、銀を納め、家畜を渡し、農地を売り、ついには自分たちの身を奴隷として売って、ファラオに仕える者とならなければなりませんでした。しかしゴシェンの地に住むことを認められたイスラエル(ヤコブ)一族は、神に豊かに祝福され、そこで多くの子どもたちが生まれ、非常に数を増やしたのです。神は、ヤコブの祖父であるアブラハムに対し、「わたしは、あなたをますます子孫に富ませ…」と言われました(創17:6)。またヤコブの父イサクにも、「あなたの子孫を空の星のように増し加え…」と約束されました(創26:4)。そしてヤコブ自身に対しても、「生めよ。増えよ…王たちがあなたの腰から生まれ出る」(創35:11)、「わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする」(創46:3)と仰せられました。ゴシェンにおける一族の繁栄は、神が与えられたその契約、約束の実現であったのです。そしてそれはやがて、約束の地カナンでさらに拡がるのです。ヤコブがファラオの前に立ったとき、彼は王を祝福したとあります(7,10節)。そのときヤコブは130歳、王の目には、ただの老いぼれた人であったでしょう。しかしヤコブは、王にへつらうことなく、アブラハム、イサク、そして自分に与えられている神の祝福を分かち合うべく、そのように行動したのです。私たちも、神の民としての自覚と誇りを持ち、主の祝福を押し流したいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:創世記 46章28-34節◇(5月19日)

「…そうすれば、あなたがたはゴシェンの地に住めるでしょう。羊を飼う者はみな、エジプト人に忌み嫌われているからです。」…創世記46:34

ついにヨセフとヤコブの再会のときがやって来ました。先に遣わしたユダの案内によりエジプトの地ゴシェンに着いたヤコブの一行を迎えたヨセフは、父に会うやいなや父の首に抱きつき、感極まってそのまましばらく泣き続けました。そしてそれは、死んだと思っていた息子に思いがけなく再び会うことができた、ヤコブも同じでした。彼はヨセフに向って、「もう今、私は死んでもよい…おまえの顔を見たのだから」と言ったのです。その後、落ち着きを取り戻したヨセフは、兄弟たちや父の家の者たちをファラオに引き合わせ、エジプトの地に安全に住むことができるようにすべく、ある指示を彼らに出しました。それは、ファラオから職業を尋ねられたら、家畜を飼う者である、と答えるようにとのものでした。そうすれば、エジプト人は羊飼いたちを忌み嫌っているため、彼らが近くの住民と接触せずに住むことができるからです。財産を奪われたり、異教の神の影響を受けたりすることがないからです。ヨセフはヤコブたちをゴシェンに住まわせようと決めていましたが(45:10)、そのように神から示されていたに違いありません。私たちも「エジプト」というこの世に住んでいます。そして主は「ゴシェンに留まる」ようにと願っているのです。パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」と言っていますが(ローマ12:2a)、それはつまり、この世の人間的な考え方に同化しないということです。異教的な風習やしきたりに染まらないということです。絶えず神の国と神の義を第一に求めて生きるということです。しかしそれは、エジプトの人々との関わりを一切持たずに暮らすということではもちろんありません。むしろそこで、神の民、霊的なアブラハムの子孫としての自覚と誇りを持って歩み、受けている神の祝福を押し流し、キリストにある神の救い、福音を伝える者となるのです。そのような自らの役割と立ち位置をしっかりと覚え、地の塩、世の光として、主に用いられたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 46章1-27節◇(5月18日)

「すると神は仰せられた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。』」…創世記46:3

ヤコブは、「ヨセフはまだ生きています」と告げられても、そのことが信じられず茫然としていました(45:26)。しかし、ヨセフから送られた、エジプトへ行くための車を目にすると、死んだはずのヨセフに会えると知って元気づき、計66名の息子、娘、孫、ひ孫たち、さらに息子たちの妻が加わり、エジプトに向けて出発したのです。けれども、ヤコブにとって、ヨセフの招きだとは言え、カナンの地を離れてエジプトの地に行くことは、必ずしも喜ばしいことではなかったはずです。かつて同じように飢饉があったとき、主はイサクに対して、エジプトへ下ることを禁じられました(26:2)。ヤコブも、異教の神を信じているエジプトの民に、アブラハムの子孫である一族が同化してしまうのを、恐れたに違いありません。彼は、ベエル・シェバでいけにえを献げて神を礼拝しました。そこは以前、イサクに主が現われて、「恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる…わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える…」と言われた場所です(26:23-24)。すると、主はヤコブに、「エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする…このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る」(3-4節)と、約束してくださったのです。イサクの時とは違い、エジプトに下れと主は彼に命じられました。「わたしは」、「このわたしが」と強調されていることに心が留まります。エジプトには、先に遣わされたヨセフがいました。大飢饉の中で、エジプトや周辺諸国に対し、神の祝福を押し流す者とされたのです。そして、彼の子であるマナセとエフライム、すなわちヤコブの孫である二人の子孫が、のちにヤコブの息子たちと同じ立場となり、イスラエル12部族を形成することになるのです。偉大な神が、私たちの思いを超え、ご自身の計画を実現されるということを、覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 45章◇(5月17日)

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」…創世記45:7

ヨセフは、自分が死んだと思い込み、今も悲しみの中にある父のこと、そして末の弟の身代りとしてくださいというユダの申し出を聞くと、胸が熱くなり、それ以上真実を隠すことが耐えられなくなって、「私はヨセフです」と、ついに自分のことを明かしました。それを聞いた兄弟たちは、驚きのあまりことばを失いましたが、自分たちがヨセフにしたひどい仕打ちを思い、強い自責の念にかられたに違いありません。また、何らかの報復がなされるでは…と恐れた者もいたことでしょう。ヨセフは、そんな兄たちの気持ちを察して言いました。「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください」と(5節)。彼には、兄たちを非難するつもりはありませんでした。そしてこう言ったのです。このひどい飢饉において、あなたがたを生き延びさせるために、神が先に私を遣わされたのだ…すべては神のご計画の中で神がなされたことなのだ…と(5-8節)。そこには、ヨセフが持っていた、主権者である神への揺るがない信仰と、自分をひどい目に遭わせた兄たちに対する、愛と赦しの実践があります。そのヨセフのことばを聞いた兄たちは、愛とあわれみに満ちた神を思い、ひれ伏す思いにさせられたに違いありません。ヨセフは、兄弟たちに対し、カナンに戻り、父や自分たちの家族を連れて、エジプトに下ってくるようにと指示しました。このヨセフこそ、イエス・キリストの予型です。神は、罪ある人類のためにひとり子をこの世に遣わし、そのキリストの十字架と復活の贖いによって救いの道を開き、「生きる者」としてくださいました。そして私たちは、辛く苦しいところを通らされ、そのキリストと出会って救われ、さらに私たちを通して、人々は神の愛を知り、救いにあずかるのです。その苦難は益とされるのです。すべてが主の御手の中にあることを覚えたいと思います。

私たちの証しがますます用いられますように。

◇聖書箇所:創世記 44章18-34節◇(5月16日)

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」…創世記44:33

再びエジプトのヨセフの元に食糧を買いにきたヨセフの兄弟たちは歓待を受け、父が待つカナンの地へと戻って行こうとしましたが、ヨセフは、前回と同じように、銀を彼らの袋に戻させ、さらに、ベニヤミンの袋には自分が愛用している杯を入れ、彼らを罠に陥れるようしもべに指図しました。そしてそれが見つかって戻った彼らに対し、ベニヤミンを奴隷にすると告げたのです(1-17節)。18-34節はそれを受けてのユダの弁明です。ベニヤミンは父にとっての最後の子、死んだ最愛の妻の2番目の子であり、その兄は行方不明で、獣にかみ殺されと思っている父は、いまだにその悲しみに暮れている…これで末の弟が帰れなかったら、父は死んでしまうに違いない…だから、その子の代わりに自分を奴隷としてください…と、ユダはヨセフに申し出たのです。そのユダは、ヨセフを売ることを兄弟に提案し、獣の血をつけたヨセフの服を見せて父をだますことに加担し、父を嘆き悲しませました。しかしそのユダが、ベニヤミンの身代りになると申し出たのです。奴隷になれば、故郷に戻れなくなるかもしれません。しかし、自分のことよりも、父ヤコブと弟のベニヤミンのことを第一に考え、二人を助け出すべく、ユダはそのように行動したのです。このユダの子孫からイエス・キリストが生まれます。ベニヤミンの身代りになろうとしたユダは、キリストの予型です。罪の奴隷として苦しむ人間を見て、悲しんでいる父の思いを知り、人間がそこから解放され父の元に帰ることができるようにと、その身代りとなってキリストは十字架にかかられたのです。その愛と自己犠牲と献身の血が、キリストに贖われた私たちのうちに流れています。ユダは結局一緒に帰ることができました。キリストもまた死からよみがえられました。イサクも生き延びました。神は犠牲を犠牲で終わらせない贖い主なのです。その神に私たちも自らを献げたいと思います。

キリストの愛を覚えることができますように。

◇聖書箇所:創世記 44章1-17節◇(5月15日)

「ユダが答えた。『あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです…』」…創世記44:16

ヤコブの息子たちがヨセフの家で昼食と酒を振る舞われ、酔い心地になっている間、ヨセフは、家を管理するしもべに命じて、またもやそれぞれの銀を穀物の袋に返させ、さらに、ベニヤミンの袋には、彼が愛用している銀の杯を一緒に入れさせました。その後、昼食を終えた彼らは、そうとは知らず、カナンの父の元へと帰っていきました。すると、ヨセフから命じられたしもべは、後を追って彼らを引き留め、なぜヨセフの大切な銀の杯を盗んだのか…と彼らを責めました。彼らは、そんなことをするなどめっそうもない…と否定し、そのことを証明すべくそれぞれ穀物の袋を開けましたが、なんと、ベニヤミンの袋の中に、言われたように、その銀の杯が入っていたのです。「何かの間違いに違いない…」と思いつつ、彼らは仕方なく町へ戻り、ヨセフの前に進み出ました。そして、ユダが兄弟を代表し、何の申し開きも弁解もできないと断った上で、銀の杯が見つかった者だけでなく、全員があなたの奴隷となります…と申し出ました。しかし、ヨセフはそれを認めようとせず、銀の杯が見つかった者だけが私の奴隷となり、他の者たちは父の元へ帰ることができる、と彼らに告げたのです。「神がしもべどもの咎を暴かれたのです…」とユダはヨセフに言いましたが、彼は、そのとき、自分たちがヨセフを、ミディアン人の商人たちに銀20枚で売ったことを思い出していたことでしょう。ではヨセフは、ユダのそのことばを聞いて、ようやく仕返しができた、と溜飲を下げたのでしょうか…。そうではなく、神が自分のことをあわれみ、守り、導き、祝福し、その祝福が、自分を通して、家族や同胞にまで及ぶようになる…ということを思っていたに違いありません。そのように彼は、すべてのことが主の御手のうちにあると信じていたのです。私たちもそのような者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 43章1-15節◇(5月13日)

「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」…創世記43:14

ひどい飢饉は続きました。ヤコブの息子たちがエジプトから買ってきた穀物も、しばらくすると食べ尽くされてしまったので、ヤコブは、またエジプトで食糧を買い求めるよう、息子たちに依頼しました。すると、彼らを代表してユダが、ベニヤミンが一緒でないとあの人は会ってくれない…と、エジプトで言われたことをあらためて父に伝えたのです。しかしヤコブは、なぜ私を苦しめるのか…と言い、連れて行くことを承諾しませんでした。父のうちにある痛みと恐れを知ったユダは、「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います」(9節)とヤコブに告げました。それは、自分のいのちと引換えにベニヤミンを必ず返してもらう…ということです。すると父は、そのユダのことばで目を覚まされたかのように、ベニヤミンを連れて行くことに同意したのです。42章では「ヤコブ」であった父の名は、43章では「イスラエル」として記されています。彼はこう言いました。「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんで…」と。そしてさらに、「私も、息子を失うときには失うのだ」と言ったのです。それまで感情的になっていた彼は、すべてのことが主権者である神の御手の中にあることを覚え、覚悟を決めて、神に委ね、明け渡したのです。ヤコブの名がイスラエルへと変わったのは、彼が神と格闘し、ももの関節を外されたときでした(創世32:25)。それには、彼の自我が砕かれたという霊的な意味があります。頑なになって自分の思いにしがみついていたヤコブは、ユダのことばによって神への信仰を呼び覚まされたのです。神ご自身が息子たちのいのちを保証してくださる…神ご自身がすべての責任を負ってくださる…と。私たちも、全能の神のあわれみを信じ、主権者なる主にすべてを委ね、握りしめているものを主に明け渡す者でありたいと思います。

全能の神に信頼することができますように。

◇聖書箇所:創世記 42章18-37節◇(5月12日)

「それから彼らが自分たちの袋を空けると、見よ、一人ひとりの銀の包みが自分の袋の中にあった。彼らも父も、この銀の包みを見て恐れた。」…創世記42:35

おまえたちのうちの誰か一人をカナンの地に戻らせ、その者に末の弟を連れて来させよ、それまでおまえたちを監禁する…と言って、兄たちを監獄に入れたヨセフは、3日目にその考えを変えたことを、彼らに告げました。それは、逆に彼らのうちの一人を人質として監禁したままとし、他の者たちがみな穀物を持ってカナンの地に戻り、ベニヤミンを連れて戻って来るということでした。監禁してから3日目にそのように告げたヨセフの意図…それは、カナンの地で飢えて待っている父ヤコブたちを思ってのことであり、何よりも兄たちが、思いもよらずにすぐに父の元に帰れることになることを通し、神の恵みとあわれみを覚える者となるためでした。そのときヨセフは兄たちに、「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから」と告げましたが、そのことは、神がヨセフに示されたことであったに違いありません。すっかり長期間の監禁を覚悟していた兄たちは、ヨセフからそのように言われ、わずか3日で監獄から出されることになり、確かに神の恵みとあわれみを覚えることとなりました。だからこそ、自分たちにあわれみを求めたヨセフを無視し、商人に売り飛ばしたことに良心の呵責を感じたのです。ヨセフへの愛とあわれみがなかったと悔いたのです(21節)。そのような兄たちの姿とことばに接したヨセフは、彼らから離れて涙を流しました。シメオンを残して戻る兄たちの穀物の袋には、ヨセフの指示により戻された彼らの銀が入っていました。それもまたヨセフの取り計らいでしたが、カナンに着いて袋を開けてそれを発見した兄たちと父は、自分たちが疑われるのでは…と恐れました。そして、報告を聞いた父は、ベニヤミンまで取られるのか…と嘆いたのです。私たちも想定外の事を恐れ、嘆きますが、その背後には神のご計画があり、主は意図をもって私たちを取り扱っておられるのです。そのことを覚えたいと思います。

主に信頼し続ける者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 42章1-17節◇(5月11日)

「次のことで、おまえたちを試そう。ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちの末の弟がここに来ないかぎり、おまえたちは決してここから出ることはできない。」…創世記42:15

エジプトに起こったひどい飢饉はカナンの地にも及びました。穀物がエジプトにあることと聞いたイスラエルは、それを買うために10人の息子たちをエジプトに行かせましたが、妻ラケルが生んだ自分の12番目の子、ヨセフの弟ベニヤミンは、彼らと一緒に行かせませんでした。ヨセフが獣にかみ殺されたと思い込んでいた彼は、ベニヤミンも同じようになるのを恐れていたのです。彼の受けた悲しみが、いかに大きいかがうかがい知れます。エジプトに着いたヨセフの兄たちは、今やエジプトの総理大臣の地位にあったヨセフに謁見し、エジプトにある穀物を買いたいと願い出て、顔を地につけてヨセフのことを伏し拝みました。そのとき、兄たちの束が自分の束におじきをしたという、ヨセフが見た夢(37:7)は、現実のもの、正夢となったのです。もちろんヨセフは、彼らが兄たちだとすぐにわかりましたが、気づかれないよう、見知らぬ者のようにふるまいました。そして回し者、つまりスパイだとわざと言いがかりをつけ、誰かが戻って末の弟を連れて来るまで、監禁すると告げたのです。9節には、ヨセフについて、「かつて彼らについて見た夢を思い出して」と書かれていますが、彼は、兄たちから受けた仕打ち、その後の数々の試練と苦難、その中で味わった痛み、悲しみ、悔しさを思い起こしていたに違いありません。そして、その中にあっても、主が自分とともにおられ、守り、支え、導いてくださったこと、祝福してくださったことを覚え、感無量となり、あらためて心の中で、主に感謝と賛美をささげたことでしょう。39章に、「主がヨセフとともにおられたので」と、繰り返し書かれていたことが思い起こされます。そして、その主は、私たちとも、世の終わりまで、いつもともにいてくださるインマヌエルなるお方なのです(マタ28:20)。そのことを覚え、どんなときにも主に信頼して歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 41章46-57節◇(5月10日)

「ヨセフはエジプトの地で穫れた七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々に蓄えた。町の周囲にある畑の食糧を、それぞれの町の中に蓄えたのである。」…創世記41:48

エジプト全土を監督せよとパロに命じられたヨセフは、早速出て行ってエジプト全土を巡り歩きました。7年間の豊作の後に7年間の飢饉が来るということを、パロだけでなく全国民がきちんと受け取り、そのための備えを着実に進める必要があったのです。人々の中には、豊作が毎年続いている状況において、そのあとに飢饉が来るとヨセフが言っても、信じようとしない者もいたでしょう。ヘブル人であるヨセフに偏見を持つ者もいたでしょう。しかしヨセフは、町の住民としっかり対話をしながら、豊作の後に必ずやって来る飢饉に備えるべく、食糧とするための穀物を、町の中に蓄えさせたのです。役割を果たすために労を惜しまず、積極的に出て行って人々に伝え、周到な準備をしたヨセフのあり方に教えられます。飢饉の年が来る前、ヨセフと妻アセナテとの間に、二人の子、すなわち、長子マナセと二男エフライムが生まれました。そして、その名前はそれぞれ、「忘れる」、「実り多い」という意味のことばの派生語であり、「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」、「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」という思いから、ヨセフが名付けたのです。そしてそれは、兄たちにいじめられ、穴に落とされた…エジプトに連れて行かれ、ポティファルに売られた…その妻から濡れ衣を着せられ監獄に入れられた…夢を解き明かした献酌官長に忘れられてしまった…そのような、自分が受けた苦しみを、神は忘れさせてくださった、不思議な導きの中で神は私を用い、豊かに実を結ぶ者としてくださったという、神への感謝と賛美に基づく名前なのです。そして主は、私たちの歩みにおいても、御手の中ですべてを統べ治め、試練や苦難をも益とし、そのことを通して、一人ひとりに実を豊かに結ばせてくださるのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:創世記 41章25-45節◇(5月9日)

「ファラオはヨセフに言った。『神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。』」…創世記41:39

ヨセフは、ファラオが見た2つの夢を解き明かしました。それは実は1つの夢であり、7頭の立派な雌牛、7つの立派な穂は、どちらも7年間の大豊作の期間を意味し、また、7頭の痩せた雌牛、7つのしなびた穂は、どちらも大豊作の後に起こる7年間の激しい飢饉を意味しているのだと、説明したのです。さらにヨセフは、そのような14年間をこれから迎えるにあたり、豊作の7年間に地の収穫の5分の1を徴収し、町々に穀物を蓄えさせ、その後に起こる飢饉のために備えること、そしてそのために、さとくて知恵のある者を任命し、王の権威のもとにそれを推し進めさせ、国全体を監督するようにすべきだと、ファラオに進言しました。するとファラオは、ヨセフが自分の夢を解き明かし、さらに、やがて来る飢饉への対策まで考えて提案したことにいたく感心し、彼の主張を全面的に受け入れました。そして、ヨセフをそのために、エジプト全土を支配するいわば総理大臣として任命し、王位以外のすべての権威を与えると告げ、自分の指輪を彼の指にはめたのです。ヨセフはファラオに、「夢が二度ファラオに繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神が速やかにこれをなさるからです」と告げ(32節)、ファラオとそこにいたすべての家臣、呪法師、知恵者などの前で、主権者なる神を指し示しました。そしてそのことばを聞いたファラオは、「神がこれらすべてのことをおまえに知らされた…」と言って、そのことを認めたのです。そのように神は、ご自身のご計画に従い、すべてのことの中に働き、事をなしてくださるお方です。その神は、私たちの日常生活の隅々にまで介入してくださっているのです。そのようにして、私たちも、神が主権者であられることを日々体験し、人々にそのことを証しし、神を指し示す者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所:創世記 41章1-24節◇(5月8日)

「彼ヨセフはファラオに答えた。『私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。』」…創世記40:16

濡れ衣を着せられ、監獄に入れられていたヨセフのところに、あるとき、過ちを犯した献酌官と料理官が拘留されました。その後、ヨセフは二人が見た夢を解き明かし、献酌官はその解き明かしのとおりに3日後に釈放されて元の地位に戻されましたが、そうなったらこの監獄から出られるようファラオに話してほしいと、ヨセフから依頼されたことを、彼はすっかり忘れてしまいました(40章)。それから2年が経ち、ある夜、ファラオは二つの夢を見ました。1つは、肉づきの良い7頭の雌牛が、醜く痩せ細った7頭の雌牛に食い尽くされるという夢であり(2-4節)、もう1つは、よく実った7つの良い穂が、しなびた7つの穂に呑み込まれるという夢でした(5-7節)。目覚めて心が騒いだファラオは、すべての呪法師や知恵者を集めましたが、その夢を解き明かせる者はいなかったのです。そのとき、献酌官長は思い出しました。2年前に自分が見た夢を解き明かしてくれたヨセフのこと、そして彼から依頼されていたことを。そこで献酌官長が、そのような人物がいるということをファラオに伝えると、早速ヨセフは監獄から呼び寄せられ、ファラオの前に出されて、王が見た夢の内容を聞くこととなったのです。おまえは夢を解き明かすと聞いた…とファラオに言われたヨセフは、それは私ではなくて神がなされるのです…と答えました。彼は、献酌官と料理官にも同じように話していましたが(40:8)、そのことばに、神を畏れ、へりくだり、神がなさることを受け入れ、その導きに従順に従う、そのようなヨセフを見ます。そしてそれは、かつて自分が見た夢を兄たちに無遠慮に話し、反感を買って殺されかけ、奴隷として売られるという歩みの中で、彼が、神に取り扱われ、恵みと守りを体験することによって、神に信頼することを学んだゆえなのです。すべてのことの中に働き、益としてくださる主に、私たちも、ますます信頼して歩んでいきたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所:創世記 39章◇(5月6日)

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。」…創世記39:3

兄たちによってイシュマエル人の隊商に売られたヨセフは、エジプトに連れて行かれ、エジプト王ファラオの廷臣で侍従長であるポティファルに買い取られ、彼のしもべとなりました。するとヨセフはたちまち頭角を現わし、彼がすることすべてを主が成功させてくださったので、主人は自分の全財産をヨセフに任せるようになりました。ヨセフは体格が良く、顔立ちも美しかったので、主人の妻は、毎日彼に言い寄って誘惑しましたが、彼は拒み続けました。すると彼女は、ヨセフと二人だけのときに強引に迫り、上着を残して逃げた彼のことを、乱暴されかけたと言って夫に訴えたため、怒った主人はヨセフを捕らえ、監獄に入れてしまいました。しかし、そこでもヨセフは、監獄の長に気に入られ、すべての囚人を委ねられ、一切のことを任されて管理するようになったのです。「主がヨセフとともにおられ」(2,21節)、「主が彼とともにおられ」(3,23節)、「主が…成功させてくださる/くださった」(3,23節)。そのように繰り返され、強調されていることに心が留まります。そして、ヨセフの成功と祝福は、彼自身の知恵や力によることではなく、彼とともにいてくださった「主」(太文字の「主」)、イスラエルの神「ヤーウェ」がもたらされたものなのだ…ということを、そこからあらためて教えられるのです。ポティファルも監獄長も、そのように、イスラエルの神、主が、ヘブル人であるヨセフとともにおられることを目撃し、それを認めざるを得ませんでした。そしてその主は、今も、キリストのしもべである私たちと、ともにいてくださるのです。私たちの歩みの上になされる主のみわざを見て、周りの人々はそれを認めるのです。神の祝福が、私たちが置かれているところに、私たちを通してもたらされていくのです。また、主を求め、信じる人々が起こされていくのです。主がなされるその「生きた証し」のために、ますます用いられたいと願います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所:創世記 38章12-30節◇(5月5日)

「ユダはこれを調べて言った。『あの女は私よりも正しい。私が彼女をわが子シェラに与えなかったせいだ。』彼は二度と彼女を知ろうとはしなかった。」…創世記38:26

タマルは、ユダの三男であるシェラが成人したのに、自分がその妻とされる見込みがないのを知ると、あることを企てました。それは、自分を実家に帰らせ、シェラから遠ざけたままにしていた義父のユダを欺き、遊女に変装して彼との性的関係を持ち、子を宿し、死んだ夫エルの跡継ぎを得ようとする策略でした。ユダは、死んだ妻の喪が明けると、羊の群れの毛を刈るところ、ティムナへ上って行きましたが、それを知ったタマルは、遊女の姿で彼を待ち伏せました。すると、その罠にまんまとはまったユダは彼女を欲し、見返りに自分の群れの中から子やぎを送ると約束し、そのしるしとして、持っていた印章とひもと杖まで与えたのです。その後ユダは、約束どおり子やぎを送ってしるしを取り戻そうとしましたが、もちろん遊女は見つかりませでした。それから約3ヶ月後、タマルが姦淫をして身ごもったと知ったユダは憤り、彼女を焼き殺せと命じましたが、その相手の持ち物だとして彼女から送られてきたものを見て、彼は驚愕しました。それらが自分のものだったからです。タマルとの関係を拒んだオナンは主に殺されましたが、タマルにシェラを与えないユダはいわば同罪であり、しかも姦淫を犯した彼もまた殺されて当然だったのです。後にエジプトのヨセフの元に兄弟たちが行ったとき、末っ子のベニヤミンが人質にされようとするのを知り、ユダは、自分が身代りになると申し出ました(44:33)。自分は主に殺されて当然だった、しかし生かされた…彼はタマルとの一件の後、自らの身勝手さ、あわれみのなさを示され、主の前に悔い改めたに違いありません。ダビデが犯した姦淫の罪と悔い改めが思い起こされます。そしてそのユダ、ダビデの子孫からメシアが生まれるのです。たとえ罪を犯しても、真実に主の前に悔い改める者は、赦され、変えられ、主に用いられる者とされる…。そのことを覚えたいと思います。

愛とあわれみに満ちた主を思うことができますように。

◇聖書箇所:創世記 38章1-11節◇(5月4日)

「しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。」…創世記38:9

創世記38章は、読む者に戸惑いを与えます。37章からヨセフの記事が始まっていますが、それが39章へとつながっていく文脈の中で、なぜ、その間に挿入されたかのようにこの章があるのか…。そして、そこに登場する者たちの罪深い行動を、どう受けとめればよいのか…。しかし、そのような中、ユダ、タマル、ペレツの子孫からやがてダビデが生まれ、さらにその子孫としてキリストが生まれるのあって(マタ1:3)、それは、人の思いを越えた、神の奇しいご計画であると言えるのです。ユダは、兄弟たちから離れて下って行き、自分だけで生活するようになり、そこで、カナン人であるシュアの娘をめとりました。そしてその妻は、エル、オナン、シェラという3人の息子をユダに産みましたが、エルが主の目に悪しき者であったため、主に殺されてしまいました。エルの弟のオナンには、兄嫁のタマルを妻とし、兄の子孫を絶やさないようにする義務がありましたが(申命25:5)、オナンはタマルと関係を持っていたにもかかわらず、タマルが妊娠する可能性を自らつぶしていたのです。「生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように…」。それが、彼がそのような行動を取った理由です。そしてそれは「主の目に悪しきことであったので」(10節)、彼もまた、主に打たれて殺されてしまったのです。オナンはただ自分の損得勘定によって行動しました。タマルに対する愛、あわれみの心、与える心を持っていませんでした。何よりも、神が定めた教えに従おうとしなかったのです。一方ユダも、残った息子シェラをタマルに与えるのを避けようとしました(11節)。それは同じ悲劇が繰り返されるのを恐れたからです。しかしそのユダは後に、自分のいのちを末の弟ベニヤミンのいのちと引換えに差しだそうとするのです(43:9)。自分の思いではなく、神のみ旨に従って生きる…そのような者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 37章18-36節◇(5月3日)

「また、ルベンは言った。『弟の血を流してはいけない。弟を荒野の、この穴に投げ込みなさい。手を下してはいけない。』これは、ヨセフを彼らの手から救い出し、父のもとに帰すためであった。」…創世記37:22創世記37章は「妬み」が中心の主題です。ヨセフは、ヤコブが最も愛していた妻ラケルの子であり、ヤコブが年老いてから生まれた年寄り子であり、ヤコブがそのヨセフを誰よりも愛して特別待遇し、あや織りの長服を与えていたことが、ヨセフに対する兄たちの妬みの原因です。そして、自分の束に兄たちの束がおじぎをしたという、自分が見たその夢をヨセフが兄たちに話したことから、その妬みは決定的になったのです。父に遣わされ兄たちを追って来たヨセフ…。彼がそのとき着ていたのは、そのあや織りの長服です。兄たちは、はるかかなたにヨセフを見たときに、ヨセフを殺そうと企んだとありますが(18節)、野でヤコブの偏愛の象徴であるその長服を見たときに、兄たちにくすぶっていたその思いに火が着いたのです。しかし、そこには主の守りの御手が置かれていました。レアが生んだ長子であるルベンは殺すことに反対し、ヨセフを荒野の穴に投げ込むよう提案したのです。投げ込まれたその穴の中には水がありませんでした。また同じくレアの4男ユダも、ちょうどそこにイシュマエル人の隊商が通りかかったとき、ヨセフを殺すより奴隷として売ったほうが得策だと主張し、ルベンが一人離れている間に、穴から彼を引き上げ、銀貨20枚で売ったのです。主の受難も、祭司長たちの妬みがきっかけでした(マル15:10)。主が神の真理のことばを語り、さまざまなみわざを現し、人々に慕われているのを嫉妬し、イエスの弟子ユダから銀貨30枚でイエスを買い取って、十字架につけて殺したのです。しかし神は、御子であるイエスを死からよみがえらせ、その死と復活による贖いによって、すべての人々を罪から救い出してくださったのです。ヨセフはキリストの予型です。私たちの上にも主の守りの御手が置かれていることを覚えたいと思います。

主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所:創世記 37章1-17節◇(5月2日)

「兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。」…創世記37:11

37章からは、イスラエルの12人の息子たち、とりわけヨセフにスポットが当たり、起こったさまざまな事が記されています。そのヨセフは、ラケルが産んだ二人の子どものうち上の者であり、イスラエルは、年寄り子であった彼を息子たちの中で一番に愛し、あや織りの長服を作って着せるなど、特別扱いをしていました。そして、兄たちはそれを見て嫉妬し、ヨセフを憎んでいたのです。そんな中、ヨセフは自分が見た夢を兄たちに話しました。それは、畑で彼と兄たちが束を作っていると、ヨセフの束が起き上がり、兄たちの束が周りに来て伏し拝んだ…というものでした。兄たちは彼からそれを聞くと怒り、ますますヨセフのことを憎むようになりました。さらに、それに追い討ちをかけるように、ヨセフは別の夢の内容を兄たちに話しましたが、それは、太陽と月と11の星が、ヨセフを伏し拝んでいるというものでした。それを聞いた兄たちは、より一層ヨセフに怒りを燃やし、また、それを聞いた父も、「いったい何なのだ、おまえの見た夢は」と言って、彼を叱ったのです。11節には、「…父はこのことを心にとどめていた」とありますが、「このこと」とは、その夢の内容のことです。イスラエルは、兄たちのヨセフに対する憎しみを知っており、ヨセフが無遠慮に自分が見た夢を話しているのを見て彼をとがめましたが、その一方で、彼の見た夢が、幻や妄想ではなく、神から見せられた、預言的なものであると感じていたのです。そしてそれは、のちに現実のものとなるのです。単に道徳的な観点から言えば、ヨセフのしたことは、兄たちへの配慮を欠いたものとして責められるべきですが、そもそも父の偏愛が兄たちの妬みを引き起こしていたのです。いずれにしても、それらのことの上に、神が働いておられたということを、私たちは覚えるべきです。神の思いは、私たちの思いとは異なるのです。どんなときにも神に信頼し、主がなされるみわざに期待し、すべてを委ねる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:創世記 36章20-43節◇(5月1日)

「…これらはエドムの首長であり、所有地で住んでいた場所ごとに挙げたものである。エドム人の先祖はエサウである。」…創世記36:43

36章には、エドム人の先祖となった、ヤコブの兄エサウの子孫や、彼らが住んだセイルの地の者たちの名が挙げられています。エサウは、カナン人の女性である、ヒッタイト人エロンの娘アダ、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ、イシュマエルの娘ネバヨテの妹バセマテを妻に迎えましたが(2節)、異教の神を信じていた彼女たちからエサウが受けた影響は好ましいものではなく、そのことは父イサクと母リベカを悩ませたのです(26:35)。そのようにエサウは、肉の欲や目の前の必要を満たすことだけを考え、刹那的に生きる者であり、まことの神への畏れを持ってはいませんでした。そのことのゆえに、野から帰って空腹であった彼は、一杯の赤い(エドム)豆の煮物を食べるために、自らの長子の権利を侮って弟のヤコブに売ったのです(25:34)。そして、それはさらに、父イサクから受けるべき祝福を、ヤコブに横取りされるという事態へとつながっていったのです。しかし、そんなエサウを神が顧みてくださったことが、36章には記されています。33-39節には、エサウの子孫が住むエドムの地において、王として治めた者たちの名が挙げられていますが、「~が死ぬと、~が代わりに王となった」と繰り返されており、民の指導者が立てられ続け、民族の持続と繁栄がなされたことがわかるのです。聖書にはしばしば、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とあり、エサウが「傍流」であることは間違いありません。しかしその彼と彼の子孫のことが、1つの章として記されているのです。その36章は、読み飛ばされ、割愛されてもよいものではないのです。そしてそのことから、どのような存在であろうとも、神にとってどうでもよい者など一人もなく、主の恵みとあわれみはすべての人の上にあるのだということ、また神の主権が全世界に及んでいるということを、あらためて教えられるのです。ますますその主を畏れ、あがめる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。