◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章50-58節◇(7月31日)

「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」…1コリント15:57

15章において、死者の復活のこと、復活の前と後のからだについて述べてきたパウロは、こここであらためて、血肉のからだは神の国を相続できないと明言し(1節)、相続できる朽ちないからだの復活は、どのようにして実現するのかを語っています。それは、終わりの日、キリストの再臨において、キリスト者たちの血肉のからだは、朽ちない不死の栄光のからだに変えられ、またそのときすでに生涯を終えていた聖徒たちも、それに先立ち、同じように栄光のからだを与えられて、よみがえるのです。56節に「死のとげは罪であり」とありますが、それは、アダムの原罪が死をもたらしたことを指しています。しかしそのことが書かれた創世記を見ると、神が蛇(悪魔)に対して、「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」と、「原福音」と呼ばれることばを告げているのです。そしてそのとおりに、人類の罪からの救い、神との関係の修復、死と悪魔に対する勝利、それらすべては、キリストの十字架と復活によりなされ、再臨によっ完成されるのです。そのような壮大な救いの計画は、今も、神ご自身によって着々と進められているのです。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。そしてその勝利は、将来における完成の前触れとして、聖徒たちが現に体験できるものとして与えられているのです。なぜなら、キリストによってすでに死は滅ぼされ、神の国の祝福が聖徒たちにもたらされているからです。キリストは主権者として、今もすべてを統べ治めておられるからです。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」(58節)。パウロは、主によって与えられているその勝利を確信し、地上において労苦し、奮闘しているすべての聖徒たちを励ましています。キリストという確かな土台の上にしっかりと立ち、勝利の戦いを続けていきたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章20-34節◇(7月29日)

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。」…1コリント15:20-21

「死が一人の人を通して来たのです…」。「一人の人」とは、22節にあるように、取って食べてはならない、と神から禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまった、最初の人アダムのことです(創3章)。その違反により、「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という、神の警告のとおりになりました。すなわち、からだは有限の寿命を持つようになり、神との親密な関係も失われるという、肉体的、霊的な死が人に入ったのです。「死者の復活もひとりの人を通して来るのです」。神は、御子であるキリストをよみがえらせることにより、アダム以来、罪の奴隷となって、また、神のさばきを恐れてもがき苦しんでいた人類に、解放を与えてくださいました。嘆きを喜びに、束縛を自由へと変えてくださったのです。そしてそれは、アダムとエバを誘惑して罪を犯させ、彼らとその子孫である人類に死をもたらした悪魔を、神がキリストの十字架と復活によって打ち滅ぼされ、その勝利に私たちをもあずからせる、ということなのです。「『神は万物をその方の足の下に従わせた』」(27節)。そのことばは詩篇8篇6節の引用ですが、「従わせた」と完了形で書かれていることに心が留まります。そしてその神は今も、すべてのものをその方、すなわち王の王、主の主であるキリストの足の下、権威のもとに従わせておられるのです。私たちの目にはそう見えないかもしれません。悪がこの世界を牛耳っているように思え、なぜこのようなことが…と、苦難の中で悩み苦しむかもしれません。しかし神は、ご自身の完全な統治がなされている神の国を、キリストによって、この地に、私たちのただ中に、確かにもたらされたのです。それを今も、教会と聖徒たちを通して、この地に拡げておられるのです。その御国の完成、聖徒の復活という希望を、しっかり持ち続けたいと思います。

霊の目がさらに開かれますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章12-19節◇(7月28日)

「そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。」…1コリント15:17

キリストによってもたらされ、パウロが宣べ伝えた救いの知らせ、福音…。それは、15章3-5節にはっきりと書かれているとおり、キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、その墓から3日目によみがえり、弟子たちに現われた…それを信じる者はみな救われるということです。その福音の要素のどれが欠けても、それはもはや、福音ではないのです。不完全であり神のものではないのです。当時のコリントの教会には、ギリシャの思想の影響により、たましいの不滅は信じても、からだの復活は信じられない、霊は善、肉体は悪だと考える者がいました。彼らはキリストの復活も信じなかったのです。しかし、キリストがよみがえらなかったのなら、私たちの救いは完成しない、とパウロは強調しています。ただキリストの十字架と復活により、贖いが成し遂げられたからです。「神がキリストをよみがえらせた」というパウロのことばに心が留まります(15節)。それは、キリストが自ら神としての力によって復活されたのではなく、死からのよみがえりは父なる神によったということです。そしてそれは、キリストが十字架にかかり、死なれ、よみがえってからだをもって現われたことは、全き人としての歩みであったということです。さらにそれは、聖徒たちもまた、そのキリストにあって、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、やがて終わりの日に、栄光のからだが与えられるという、主の約束の根拠となっているのです。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」(19節)。私たちのいのちがこの地上だけだとするなら、そこには希望がありません。この世の繁栄を求める刹那的な生き方になってしまいます。しかし贖われた私たちは、天に国籍を持つ者であって、そこに迎え入れられる希望をもって歩むことができるのです。その幸いを感謝したいと思います。

感謝と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章1-11節(7月27日)

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」…1コリント15:10

「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます」とパウロは言っていますが(1節)、なぜ彼は、すでに救われているコリント教会の聖徒たちに対して、福音を語る必要があったのでしょうか…。それは、彼らの中に、パウロが伝えた福音とは異なる教えによって惑わされ、福音の恵みに歩むことができない者が出て、教会が混乱と不一致に陥ってしまっていたからです。パウロは、福音の核となる内容を3節以降に記していますが、その文脈の中で、復活して12弟子に現われたキリストが、自分にも現われてくださったこと、その自分は、月足らずで生まれた未熟児のようなものであること、使徒の中では最も小さい者、使徒と呼ばれる価値がない者であるとパウロは強調しています。彼は、自分がかつて教会とキリスト者たちを迫害していた者であったことを忘れることはなく、それが負い目になっていたのです。しかし、そんな自分が神の恵みにより救われ、変えられ、他の使徒たちよりも多く働いたのだとパウロは言っています。それはもちろん自慢しているのではなく、他の使徒たちを批判しているのでもなく、神の恵みとあわれみがいかに深いものであるかを、彼は強調しているのです。同様に、自分がいかに罪深く、神が恵み深くあわれみ深いお方であるかを、心にしっかりと刻むようにと、パウロはコリント教会の聖徒たちに伝えようとしています。言うまでもなく福音は単なる教えではありません。福音とは、神がキリストにあって私たちに与える、いのちそのものなのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです…」(ガラ2:19-20)。私たちもまた、福音の恵み、キリストのいのちによって生かされていることを、あらためて覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 14章20-40節◇(7月26日)

「ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」…1コリント14:40

14章の後半でも、パウロは引き続き、異言と預言のことについて語っています。そしてそこで強調されているのは、そのように御霊の賜物を用いることも含めて、すべてのことを、秩序をもって適切に行うということです。パウロは決して異言を話すことを禁じているわけではありません。「だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい」(27節)。そうでないなら、教会ではなく一人の場で、自分と神に対して語るべきだ、とパウロは言うのです。そこには秩序と配慮があり、混乱や困惑はありません。そしてそれは、自分、自分…という思いを自制し、神のみこころに従う、成熟した大人としての考え、ふるまいであって、すべての聖徒たちはそうあるべきなのです。「預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい」(29節)。預言においても、一人の人が一方的に語ってそのままにするのではなく、語られたことが他の人によって吟味される、すなわち、それが人から出たものではなく、確かに神からのものかどうかを、聖書に照らして判断することが求められるのです。またその預言は、人を励まし、徳を高めるのが目的であって、律法的に人をさばくためのものではないのです。「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」(33節)。言うまでもなく、私たちが御霊の導きに従順に従うならば、神の全き支配の中に置かれるならば、そこには混乱はないのです。34節でパウロは「女の人は教会では黙っていなさい」と言っていますが、それはもちろん、女性蔑視の発言ではなく、当時のコリント教会の中に、自己顕示するかのように時と場をわきまえずに発言する女性たちがおり、秩序を乱していたため、それをやめさせる必要があったからです。すべてのことを適切に、秩序正しく行う…。そこには一人ひとりの神への服従が求められます。そのような者、群れとされるべく、御霊の助けのうちに、すべてを主に明け渡したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 14章1-19節◇(7月25日)

「それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」…1コリント14:15

14章においてパウロは、異言の賜物と預言の賜物について語っています。今日の箇所では異言を話す者たちに対して注意を与えていますが、それは、異言の賜物を用いることこそ「霊的」なあり方だと考える者たちが、集会において競い合って異言を話していたため、教会に混乱と不一致が生じていたからです。ここでもパウロの行動原理は、他者に対して愛の配慮をし、自分のことを優先させない、ということです。教会の公同の礼拝において、自己顕示するかのように無遠慮に異言を話すとしたら、それは、その賜物が与えられていない人たち、教会に来て間もない人たち、聖書の知識が不十分な未信者たちに対して、つまずきさえ与えかねない…パウロはそのような懸念を抱いていたのです。そこでパウロは、異言…つまり神から与えられる霊のことばだけでなく、すべての者が意味を理解することができる知性のことばをもって祈り、賛美し、預言することが大切だと語っています。そのように、教会においても、個人においても、霊的な部分と知的な部分とのバランスを取ることが必要であり、それが、健全性を保つことに繋がるのです。それは私たちのからだを考えてもわかることです。野菜や魚を一切摂らずに肉だけを食べる偏った食事をするなら、いつか病気になってしまうのです。人の霊と知性は、本来、一体となって働くものですが、私たちはそれを分けて捉えがちです。聖日には主を礼拝し霊が満たされますが、平日には知性だけで考えて行動しようとします。しかしそこには、人間の理性を重視し、合理性だけを追求する人間中心主義に陥る落とし穴があります。だからこそ、普段から祈りと賛美を絶やさず、主との交わりのうちに歩むことが大切なのです。日常の生活においてもハレルヤ!と短く口に出し、主を礼拝する思いを持ち続ける…。何をするにも異言と知性のことばで短く祈る…。そのような者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 13章◇(7月24日)

「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」…1コリント13:3

「愛がなければ…愛がないなら…」と、パウロは1-3節において繰り返し、御霊の賜物によってさまざまなわざを行っているコリント教会の聖徒たちに対して、そこに愛がないなら、それらは空しく値うちのないものであり、何の役にも立たないのだと、厳しいことばで指摘しています。それに対して私たちは、そこまで言わなくても…と納得がいかない思いになります。少しは値うちがあり、少しは役に立つはずだと考えるのです。しかしパウロは、そこに愛があるのか、何に根差してのわざ、良い行いなのか、その動機、心を問うているのであって、愛がすべてのことの根本でなければならない、と言うのです。4節以降では、「愛は…」ということばが繰り返され、愛の持つ特質が挙げられています。寛容、親切、ねたまない、自慢しない、高慢にならない…。私たちのうちにそのような性質があるとしても、それは全体の一部であり、またそれは不完全なものなのです。完全な愛…それは、私たちのために十字架にかかり、いのちをささげてくださったキリストのうちにあるのです。大切な御子を世に遣わしてくださった神のうちにあるのです。「愛」と訳されているギリシャ語は「アガペー」ということばですが、それは、神が私たちにくださる、ささげる愛、見返りを求めない愛、無条件の愛を意味しているのです。この章を読むとき、自分には愛がないということを思い知らされます。しかしパウロは、そのように読者を悲観させることを意図していません。「愛」もまた神からの賜物であって、贖われた聖徒たちを通して、教会に現わされるものだからです。一人ひとりは愛の足りない不完全なものであっても、その各部分が組み合わされるとき、キリストのからだ全体が、愛を豊かに現わすようになるのです。大切なことは、各部分がかしらなるキリストにしっかりと繋がることであり、そのとき、キリストから流れる愛が、一人ひとりを通して周りに押し流されていくのです。そのことを覚えたいと思います。

主の愛がますます満ちあふれますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 12章1-11節◇(7月22日)

「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」…1コリント12:11

12-14章には御霊の賜物のことが書かれています。そしてパウロはまず、「あなたがたに知らずにいてほしくありません」と言って、それを正しく知ることの大切さを強調しています。なぜなら、コリント教会においては、御霊の賜物が、自分を高める自己実現のためのものとなっており、教会の中に混乱と分裂が生じていたからです。この賜物について知るべきことの第1、それは、8-10節にあるようなさまざまな賜物が、同じ御霊によって、聖徒たち一人ひとりに対して必ず与えられているということです(7,11節)。人が「イエスは主」と告白して救われる上で御霊の働きは必要不可欠ですが、御霊はさらに、聖徒たちを通してご自身の働きをなし、神の栄光を現わすために、それぞれに賜物を分け与えられるのです。知るべきことの第2、それは、御霊の賜物は、皆の益となるため、教会全体の徳を高めるために与えられているのであって、それぞれが自己満足、自己顕示するためのものではない、ということです(7節)。そのことをわきまえていないと、教会の奉仕が主のためのものでなくなり(5節)、高慢になったり、優越感を抱いてしまうのです。知るべきことの第3、それは、一人ひとりの賜物を定められるのは御霊ご自身である、ということです。何かの賜物を主に願い求めることはできます。しかし、それを判断されるのはあくまで御霊であり、それはみこころのままになされるのです。ですから私たちは、他の人の賜物をうらやんだり、与えられている自分の賜物を、否定的に捉えたりしてはならないのです。聖徒たちそれぞれの賜物が豊かに用いられ、皆の益となり、キリストのからだが建て上げられていく…福音宣教の働きが前進し、神の国が拡大していく…。それは主が強く願っておられることです。そのようにして用いられることを、私たちも主に熱心に祈り求めたいと思います。

喜びをもって主に仕えることができますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 11章17-34節◇(7月21日)

「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。」…1コリント11:29
パウロが、今日の箇所で問題として指摘しているのは、「食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという」(21節)、コリント教会の中で起こっていた状況です。当時、多くの教会では愛餐と聖餐を一緒に行なっていました。愛餐は皆が一つになって食事をともにする愛の交わりであり、そこでは社会的な差別や格差は無縁のはずなのに、コリント教会ではそうではなく、自分の腹を満たすことしか考えず、酔っていい気分になる者たちがいたのです。しかしそれは、愛餐の趣旨と目的を大きく外れたあり方であって、それでは、せっかく一緒に集まって集会を持っても、めいめいが好き勝手に飲み食いをする場に過ぎない、だったらわざわざ教会に来ないで家で食べなさい(34節)と、パウロは憤ってそのように命じているのです。そこに見られるのは、自己中心という罪です。神の家族、隣人に対する愛と配慮の欠如です。そのような者たちが平気で聖餐にあずかるのだとしたら、それは、主のからだと血に対して罪を犯すことになるのです(27節)。主イエスは過越の食事の席において、手に取ったパンを裂いて弟子たちに渡されましたが、それは後に、主のみからだが十字架において裂かれ、手足を釘打たれ、槍で脇腹を突き刺されること、そしてその贖いによって救われ召し集められる者たちが、教会、キリストのからだの尊い各部分であることを表わすのです。それなのに、貧しい者や弱い者たちをないがしろにするあり方は、そのことを覚える聖餐にあずかる者にはふさわしくないのです。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」(24節)。主の愛、犠牲、贖いを感謝し、主の弟子として、主に倣う者となる決意を新たにする…。それは聖餐のときだけのことではありません。日々、主の御前に出て、主のように歩んでいるかと自己吟味することが、聖徒たちに求められているのです。そのことを覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 11章1-16節◇(7月20日)

「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」…1コリント11:3b

パウロは、コリント教会における混乱の問題を取り上げ、11章2節以降では、一部の女性が頭にかぶり物を着けずに礼拝に出ていることを非難しています。当時の女性はみな、公の場では頭にかぶり物を着けていたのに、なぜそうしなかったのか…。それは、その者たちが自由をはき違え、また、神の定めた秩序を無視しているからであって、それが礼拝、引いては教会全体の混乱を引き起こしているのだ…と、パウロは指摘しているのです。3節でパウロは、「かしら」ということばを何度も使っていますが、その原語には「源」という意味もあります。つまり、「かしら」が他のものの存在の起源であって、そこから生じたということです。実際、アダムの妻であるエバは、アダムの助け手となるべく、アダムのあばら骨から神によって造られました。それは、神の創造の秩序において、男性であるアダムがかしら…源、女性であるエバがそこから出たものということであって、両者の間に優劣があるわけではなく、ただ、神が定めた立場と役割があるということなのです。したがって、ここでの「かしら」は「支配者」を意味しておらず、女性は男性に服従せよ、とパウロが命じているわけではないのです。「とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません」(11節)。女性はかしらなる男性に従い、男性を助け、支えることが求められています。また男性は、女性を守り、導き、いたわることが求められているのです。そのように、男性と女性が一致し協力することにより、より完全な人となるのです。それは神が定められた秩序であり、聖書が示す真理、奥義なのです。それなのに、女性の権利を主張する者たちが、頭にかぶり物をせず、そのような男性と女性のあり方を無視し、礼拝の中で我先にと祈りや預言をしていたため、教会に混乱が生じていたのです。そしてそれは、神の国の拡大の停滞に繋がるのです。神が定めた秩序を覚え、それに従う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 10章14-33節◇(7月19日)

「私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。」…1コリント10:33

偶像に献げた肉については、パウロはすでに8章において論じています。そこでの結論は、偶像の神は実際には存在しないのであり、その偶像に献げた肉自体は食べても食べなくてもよく、律法的に考える必要はない…。しかしながら、そのような知識を皆が持っているわけではないのだから、信仰の弱い人の良心を傷つけないよう、愛の配慮をもって行動すべきである…ということでした。パウロは、今日の箇所においてさらに、「偶像礼拝を避けなさい」と命じています。知識のある人々にとって、偶像に献げた肉を食べることが偶像を礼拝することに繋がらないとしても、そうでない人の良心を傷つけるということを引き起こし、偶像の背後にある悪霊の存在を無視することになっている…。「すべてのことが許されている」と言って、自分たちの自由を主張しているが、だからといってすべてのことが益になるわけではなく、人を育てるとも限らない…。そのような態度が、結果的に悪魔に利用されてしまっている、とパウロは言うのです。パウロが、知識のある人々に命じていること、それは、「自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい」(24節)と言うことです。彼はここでも、自分のことだけを考え、他者のことはどうでも良いとする、そのような自己中心的な生き方を捨て、信仰の弱い人への配慮を忘れず、他者の益となることを優先させるようにと命じているのです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず…」(1コリ13:4-5)。パウロが主張していること、それは何よりもキリストのあり方、愛の性質であって、彼はコリント教会の信徒たち、そしてすべての聖徒たちにそのように願い、すべてのことを神の栄光を現わすためにせよ、と命じているのです(31節)。そのような者として歩みたいと思います。

キリストに倣う者とされますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 10章1-13節◇(7月18日)

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」…1コリント10:11

今日の箇所の最後にある13節は、良く知られているみことばです。私たちが試練に会って苦しみ、この状況がいつまで続くのか…と先が見えないとき、神さまはここから脱出する道を必ず備えてくださる…だから忍耐をもって主に信頼していこう…と、私たちは、そのみことばを通して、主からの慰めと励ましをいただくのです。しかし、文脈の中でその13節をあらためて見るならば、また違った視点から気づかされることがあります。1節から11節まででパウロが語っていることは、旧約のイスラエルの民が犯した罪とその結果です。彼らは金の子牛を作って拝み、異邦人の娘と淫らなことをし、不平を言って主を試みるという、神のみこころに反するさまざまな罪を荒野で犯し、多くの者が滅ぼされてしまったのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません」(13節a)。「試練」と訳されている原語には、主イエスが荒野で会われた悪魔の試み(マタ4:1)と同じことばが使われています。試みとは誘惑です。私たちを神から引き離そうとする、悪魔の攻撃です。イスラエルの民の多くが荒野で滅びてしまったのは、主に罪を犯したからですが、パウロはその背後にいる悪魔を見ているのです。霊的な側面を論じているのです(3,4節参照)。私たちも、この地上の荒野において悪魔の攻撃を受けます。それは、さまざまな苦難の中で神に不満を抱かせ、私たちの心を神から引き離そうとする誘惑なのです。しかし神は、試練とともに脱出の道も備えてくださるのです。キリストにある勝利を与えてくださるのです。そしてそれは、キリストに信頼し、キリストが再解釈された聖書全体の教え、みことばに聞き従うことであり、また、御霊の助けと備えのうちに歩むことなのです。どんなときでもキリストに拠り頼む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 9章19-27節◇(7月17日)

「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」…1コリント9:23

「私は福音のためにあらゆることをしています」。以前の訳では、「私はすべてのことを、福音のためにしています」となっています。同じ意味にも思えますが、語順が違うとそのニュアンスも違ってきます。19-22節の文脈の繋がりでそこを捉えるならば、「私がすべての人の奴隷になったのは、福音の宣教のためである」との意味と理解できます。一方、23節後半-27節の文脈に繋げるならば、「福音を伝える私自身が失格者にならないために、あらゆることをして自分を神に従わせている」という意味にも取れます。そして、そのときパウロは、どちらの思いも持っていたに違いないのです。「私は福音のためにあらゆることをしています」。そのように考えると、そのことばは、伝道者、牧会者としてのパウロのものであると同時に、まず一人のキリスト者としてのことばであるということに気づかされます。パウロは決して、自分を「すでに救われた者」と捉え、一段高い所に立って、さまざまな立場、背景の人々を獲得しようとしたのではないのです。彼は自分自身が、福音、すなわちキリストによる救いをなお必要としており、救いの完成への途上にあるとわきまえていたのです。彼は、「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とさえ言っているのです(ローマ7:19,24)。「私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」。私もあなたも罪ある者…だから、福音の恵み、キリストの救いを、ともに受けなければならないのだ…と、パウロは、そのようなへりくだった思いで宣教したのです。彼は決して、上から目線で福音を語ったのではないのです。そして「自分自身が失格者にならないようにするため」、まず一人のキリスト者として、罪人である自分を打ちたたいて、キリストの教え、神のことばに従わせ続けたのです。私たちもそのようでありたいと思います。

主の支えと励ましがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 8章◇(7月15日)

「次に、偶像に献げた肉についてですが、『私たちはみな知識を持っている』ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」…1コリント8:1

パウロはここで、偶像に献げた肉を食べることについて論じています。コリントの町では、そのような肉が市場で売られていましたが、偶像は神ではないのだから、それに献げた肉は汚れていないとする者がいる一方、そのように受けとめることができない者がおり、その肉を平気で食べる者たちは、食べない者たちのことを、「何もわかっていない…」と言って、ばかにしていたのです。その問題においても、パウロの思考と行動は、キリスト者にはすべてが許されているが、すべてが益になるとは限らず、与えられている自由を正しく用いるべきだ、という原則に基づいています(6:12)。しかしその自由をはき違え、また自らの知識を誇って高ぶる者がいたため、信仰の弱い人々がつまずいてしまっていたのです。そのことを嘆くパウロはまず、愛をもって他者に配慮すべきだ…と主張しています。それは、自己中心的な思いとふるまいを捨てよということです。聖徒たち一人ひとりは、キリストのからだの各部分であって、自分とは異なる他の部分を非難してはならないのです(1コリ12:25)。パウロはまた、自らの知識を誇り、高ぶってはならないと戒めています。かつて偶像の神を信じ、そこからキリストへの信仰へと導かれた人々にとって、偶像に献げた肉は単なる肉ではないのであって、その彼らを、信仰が弱いと見下してさばくことは、あってはならないのです。さらにパウロは、人々が神に近づき、神につながるよう願って行動することの大切さを教えています。それが、他者の益となる、徳を建てるということであり、それは主に喜ばれることなのです。「食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません」(13節)とのパウロの強い思いを私たちも持ち、愛をもって行動したいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 7章25-40節◇(7月14日)

「私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。」…1コリント7:35

パウロは、引き続き男女の結婚のことについて述べていますが、既婚者も未婚者も今のままの状態にとどまるようにと、すでに展開してきた主張を繰り返しています。しかしここでは、「差し迫っている危機のゆえに」(26節)という新たな理由を示しているのです。そしてそれは、コリント教会における個別なことではなく、主の再臨に伴う審判を指していると考えることができるのです。またパウロは、その主張を、律法的な命令ではなく、益をもたらすための助言として語っています。それはあくまで原則であって、それぞれが神との関係において判断し適用すべきことなのです。「『すべてのことが私には許されている』と言いますが、すべてが益になるわけではありません。『すべてのことが私には許されている』と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません」(6:12)。自分にとって、教会にとって何が益なのか、神が望まれているのは何かを知るのはとても大切です。そしてそれは、常に「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配る」(32節)信仰のあり方なのです。そのような者の歩みは、無益な時間を過ごすことを避け、世のことや、周りの人々に心を配る(32-34節)から離れ、何よりも、主のみこころを知り、主に仕えることをますます求めるようになるのです。そしてそれは、いつの時代にあっても、神が聖徒たちに願っておられることなのです。神の国と神の義を第一とし、多くの中から益となるものを賢く選択し、秩序ある生活を送ること、主に忠実に仕えることが、私たちに求められているのです。この終わりの時代、神の国の建設は急がれています。そして、主がいつ再び来られるのかはわからないのです。主に贖われた者として、自らの立場と使命をしっかり覚え、差し迫っている危機の中で、与えられている働きを全うする者でありたいと思います。

主のことに心を配ることができますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 7章17-24節◇(7月13日)

「兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」…1コリント7:24

パウロは、コリント教会の聖徒たちに対して、それぞれが召されたときの状態にとどまるようにと、繰り返し命じています(17,20,24節)。それは、ユダヤ主義的なユダヤ人のキリスト者が異邦人のキリスト者に対して、キリストを信じる信仰だけでなく割礼も受けなければ救われないと主張しており、そのような誤った考えに惑わされるな、と伝える必要があったからです。一方パウロは、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません」とも言っています。ユダヤ人キリスト者の中には、ギリシャ文化に染まり、自分の民族的アイデンティティを捨てたいと考え、割礼を受けた後を消そうとする者が実際にいたのです。しかしパウロは、次のようにきっぱりと言っています。「割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです」(19節)。キリスト者にとって割礼の有無は救いとは無関係であり、またそれぞれの持つ民族的、文化的、社会的な背景を信仰と結びつけ、それらを否定したり変えようとするのは、神のみこころではない…。何よりも重要なことは、みことばに聞き従うことだと、パウロは言っているのです。「それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」(20節)。それはもちろん、霊的な意味において、救われたときのままでいいという意味ではありません。すべての聖徒には、霊的な成熟が求められています(ヘブ6:1)。パウロはここで強調しているのは、人の考えによる、「キリスト者はこうあらねばならない」という主張に惑わされてはならない、また逆に、他の人を裁いて、つまずきを与えてはいけないということなのです。絶えず私たちが拠って立つべきところは神のみことばです。そして私たちは、形式的、律法的な信仰ではなく、いのちを代価として買い取ってくださった(23節)キリストを土台とし、信仰を築くことが大切なのです。「人の奴隷にならないよう」(23節)、気をつけたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 7章1-16節◇(7月12日)

「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」…1コリント7:7

7章1-16節でパウロは、結婚と独身のことを取り上げ、7節までにおいてまず、その一般的原則を述べています。1節で「男が女に触れないのは良いことだ」とありますが、それは、コリント教会の一部の人の、禁欲主義的な主張です。それに対してパウロは、神は決してそのように男女を造られておらず、結婚は神の祝福であることを示し、それぞれ自分の伴侶を持つようにと命じています(2節)。パウロはさらに、そのような原則を踏まえた上で、異なる立場にある者たちのことにも触れています。8-9節では、結婚していない人とやもめに対して、「私のようにしていられるなら、それが良い」と述べています。それは、巡回伝道者としての自分の立場を思っての発言であって、もしもそのような召しがあるのならば、そのほうが望ましい…と彼は考えているのです。そのようにパウロは、それぞれが主から与えられている召しと賜物を尊重しており、また、コリントの町の環境、状況をも考慮して、欲情に燃えて自制できないようなら結婚するべきだと、それぞれにふさわしい生き方を勧めているのです(9節)。「信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされている…」(14節)。パウロのその発言もまた、禁欲主義者たちが懸念する「霊的な汚れ」に対するものだと思われます。そして、彼は同時に、信者である者が、真実な愛、誠実な態度をもって未信者の伴侶と相対することによって、神の国の祝福にともにあずかるようになり、伴侶が救いへと導かれることを願っているのです。だからこそ、相手が一方的に離別しようとする場合を除き、夫婦の関係に留まるようにと命じているのです(12-13節)。そのように、原則をしっかりと抑えつつ、それぞれの導きを認め、その上で神の祝福とたましいの救いを願うパウロのことばを、私たちも、さらに多様化した現代に生きる者として、心に留めたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 6章12-20節◇(7月11日)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」…1コリント6:20

12-20節においてパウロは、自分のからだをきよく保つことの大切さについて語っています。当時のコリンの町は道徳的に堕落し、淫らな行いがはびこっていましたが、聖徒たちもまたその悪い影響を受けていたのです。贖われた聖徒たちにはすべてのことが許されていても、そのすべてが益となるわけではなく、神が喜ばれないことを避け、それに支配されないようにすべきなのです(12節)。さらにパウロは、「あなたがたは知らないのですか」ということばを繰り返し(15,16,19節)、贖われた聖徒たちのからだはキリストのものであって、もはや自分自身のものではないことを知るように、そして、そのことをわきまえた上ですべてのことを行うようにすべきだと、コリント教会の人々に対して強調しているのです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」(19節)。パウロのそのことばが心に留まります。罪と汚れに満ちた私たちが、傷のない神の子羊の血によって罪赦され、きよめられ、なんとその一人ひとりが、聖霊が住まわれる神の宮とされていると言うのです。それは驚くべきことです。キリストのいのちを代価として、罪の奴隷から買い戻された私たちは、もはや自分自身のものではないのだ…。そのように述べたパウロは結論として、「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と命じています。神の栄光を現わすとは、すなわち、聖徒たち一人ひとりの歩み、その存在を通して、主の御名があがめられ、神に栄光が帰され、神の国の祝福が現実のものとしてもたらされていく、ということであり、私たちはそのために神によって生かされているのです。その神の国の拡大のために用いられているのです。自分にとって、益となり主に喜ばれること、主の栄光を現わすことは何か…と尋ね求め、それを忠実に行っていきたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 6章1-11節◇(7月10日)

「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。」…1コリ6:7

5章でコリント教会の人々の不品行を非難したパウロは、6章1-11節で再び教会内の争いのことに触れています。詳しい状況は不明ですが、信者同士が争い合っても、誰もそれを仲裁しようとせず、当人たちも折れようとせず、それを教会の外にまで広げ、訴訟にまで持ち込み、異教徒の裁判官、つまり、未信者の者たちをも巻き込む事態となっていたのです。「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です」。そのことばは、そんなあり方は間違えだ…という意味ですが、パウロには、それはサタンに対する敗北だ…との思いがあったに違いありません。そうなれば、教会は混乱し、人々は傷つき、未信者への証しにはならず、宣教の働きは停滞するのであって、それは、神を悲しませ、サタンを喜ばせることになるからです。「どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか…」。不正をあばき糾弾する、それがこの世の「正義」です。しかし、もし聖徒たちが、その価値観で同じようにしようとするなら、他者を一方的に非難し、律法的にさばこうとするなら、それは、神の国の価値観とは相容れないのです。不正な行いを甘んじて受ける…それは、正しくないとわかっていても、そのことをあえて受け入れ、主権者なる神の介入を求め、すべてを委ね、自ら相手をさばく者にならない、ということなのです。「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ3:13)。神に背いていた私たちを赦してくださった主イエスに倣い、他者を赦すことが神のみこころです。自らの感情やこの世の価値観にではなく、みことばに従うことが、主に贖われた聖徒たちに求められているのです。そのことを覚え、それを実践したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 4章14-21節◇(7月8日)

「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。」…1コリント4:14

「この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです」(15節b)。そのように語るパウロは、自分がコリント教会の人々の霊的な父親であり、彼らが悪しき者から守られ、健やかに成長し、神の栄光を現わす者となってほしいと願い、とりなし続けているのです。だからこそ、時に厳しいことばで叱責し、まだまだ未熟な彼らに対して、「私に倣う者となってください」(16節)と言って、聖徒としてあるべき姿を、自分の生きざまを通して、少しでも彼らに教え、伝え、励ましとチャレンジを与えたいと、願っていたのです。一方パウロは、自分がコリントに行くことができない状況であったため、弟子であるテモテを遣わし、彼を通して、自分の生き方を彼らが思い起こしてほしいと願っていましたが、彼らの中には、パウロはここにいないのだから、自分たちの歩みを干渉されたくない…と考える、高慢で、思い上がっている者たちがいたのです(18節)。しかし、その彼らの思い上がりは、パウロ以上に、主ご自身を悲しませるものであって、そのような彼らが、神の国の霊的祝福を受けられるかどうかは、その実によってすぐにわかることなのです。「神の国は、ことばではなく力にあるのです」(20節)とパウロが言うとおり、神の国の現実は、そこに現わされる力によって、人々が目で見て、実際に体験できるものであって、神の国の祝福として、受け取ることができるものなのです。パウロの生涯、それは徹底的にキリストに倣って生きるというものでした。そして、主は、すべての聖徒たちがそうあってほしいと、願っておられるのです。キリストの教え、神のことばを、私たちが聞くだけ、語るだけでなく、それを自ら実際に行なっていくところに、神の国は現されるのです。そして、その神の国はさらに拡大していくのです。神の国の偉大な力を日々体験し、その祝福を人々と分かち合う者でありたいと願います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 4章1-13節◇(7月7日)

「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。」…1コリント4:4

パウロは、自分に対するさまざまな声を耳にしていました。しかし彼は、人の評価によって一喜一憂しませんでした。また自分で自分をさばくこともしませんでした。なぜなら彼は、審判者は神であって、キリストの再臨のときにそのさばきがなされ、隠されていたこともすべてが明らかにされ、そのとき、それぞれの者に対する称賛や叱責が与えられることを知っていたからです(1-5節)。6-13節においてパウロは、コリント教会の人々を非難していますが、それは彼らが、自分たちのうちにあるさまざまな問題を認めようとせず、現状で満足し、自分たちはすべてを持っている、すぐれていると言って、誇っていたからです。そして、そんな彼らに対してパウロは、「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています…」と、痛烈な皮肉のことばを浴びせているのです。さらにパウロは、使徒である自分たちを含め、キリストのしもべとして主の働きをなしている者たちが、多くの労苦の中にあっても、人々から卑しめられても、主に忠実に仕えていることを、自分たちを卑下するようなことばをもって告げています。しかし、それもまた、彼の逆説的な言い方であって、たとえ表面的にはそのように見えたとしても、実際にはそうではなかったのです。パウロはコリント教会の人々に対して、別の手紙の中でこのように言っています。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」(2コリ6:10)。そのように彼らは、主を愛し、主に拠り頼み、主によって必要を満たされ、誇りをもって、自分たちに与えられたそれぞれの使命を果たし続けたのです。そのような彼らの自覚、気概、覚悟が心に留まります。私たちもまた、キリストに贖われた者として、そのようなスピリットをもって歩み続けたいと思います。

主からの励ましがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 3章10-23節◇(7月6日)

「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」…1コリント3:16-17

あなたがたは、自分が神の御霊が住まわれる宮であるのを知らないのかと、パウロは強い口調でコリントの聖徒たちに語っています。そしてそれは、彼らにその自覚がなかったからです。では、私たちはどうでしょうか…。私たちが神の宮であるということ、それはまず、その宮の所有者は自分ではないということです。かつて罪の奴隷であった私たちは、主イエスのいのちを代価として贖われ、神によって召され、生かされている者なのです。私たちが神の宮であるということはまた、私たちを通して神の臨在が現される、ということであり、私たちのうちに住まわれる御霊がなされるみわざを通して、人々が主を認め、主の御名をあがめるようになるということです。神の宮は主の臨在と栄光が満ちるところなのです。そして、私たちのうちに御霊が住んでくださるということは、その宮は聖なるものであって、その聖さを保ち続けることが私たちに求められている、ということです。そうでないなら御霊は、そこを宮として安住することができないのです。それは御霊を悲しませることなのです。「もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます」。神が所有されるその尊い宮は、それを傷つけ、壊そうとするいっさいの者から、神ご自身が守り、保護してくださるのです。だから私たちは、人を恐れなくて良いのです。それはなんと心強いことでしょうか。その神の宮の土台は、もちろんイエス・キリストです。金、銀、宝石のような、火の試練によっても残る、朽ちることのない神のことばに従って日々歩み、宮を建て上げることが求められているのです(10-15節)。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 3章1-9節◇(7月5日)

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」…1コリ3:6-7

「肉に属する人」、「キリストにある幼子」、「肉の人」、「ただの人」と、パウロは、コリントの聖徒たちのことをそのように呼び(1-3節)、彼らが教会にねたみや争いを持ち込む、その霊的な未熟さを嘆いています。4節以下には、その問題がさらに具体的に示されています。ある者たちが「私はパウロにつく」と言えば、別の者たちは「私はアポロに」と言って、そのように教会内に派閥を作り、自分たちのリーダーとしてパウロやアポロを祭り上げ、対抗心を露わにして互いに批判し合い、その結果、教会内に分裂を生じさせていたのです。そのような彼らのあり方をパウロは非難し、自分もアポロも、神に立てられた一人の奉仕者に過ぎないのであり、主から与えられた働きをこなしているだけなのだ…と告白しています。そして、そのような働き人ももちろん必要ですが、人にとって何よりも大切な存在とは、そのような地上の人間ではなく、神なのだと告げているのです。パウロにとって、そのように教会の中に派閥を作り、自分たちの主張やあり方こそ正しいものとし、ねたみを持って抗争に明け暮れているコリントの者たちは、成熟した大人とはかけ離れた未熟な幼子であって、乳しか飲めないような世話が焼ける存在であったのです。そしてパウロは、それは彼らが肉に属しているからだと言うのです。「肉」とは生まれながらの罪の性質をむき出しにし生きるようなあり方ですが、そうであってはいけない、御霊に属する人となれと、パウロは命じているのです。御霊に属する人とは、御霊に支配され、肉の思いをきよめられ、霊の食物であるみことばが固いものであっても、御霊ご自身からその真理を解き明され、その教えに忠実に従って歩み、神のみこころにかなう者として成熟していく人のことです。そのような者とされることを願って歩んでいるか…自らのあり方を吟味したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 2章◇(7月4日)

「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」…1コリント2:4-5

1節に「神の奥義」とあります。7節には「奥義のうちにある、隠された神の知恵」と書かれています。「奥義」とは、隠されており、神によらなければ人が理解することができない、霊的な真理のことです。そしてその中心は、神が備えられた救い、すなわち、十字架にかかってよみがえられたキリストを信じることによって与えられる救いであり、人には愚かだと思えることなのです。パウロは、コリントに行く前にアテネで宣教しましたが、哲学によって知恵を追求する人々に対して福音を語り、説得しようとしても拒絶されてしまったため、コリントに来たときには、弱く、恐れおののいていました(3節)。しかしその後、彼は、その苦い体験を教訓として、人間的な知恵のことばによって人々を説得することをやめ、ただ、キリストのことばとみわざを語ろうと決意したのです。肉の努力によらず、御霊の働き、神の力によって人々が救われることを、ひたすら待ち望んだのです。神の奥義、隠された神の知恵、キリストの贖いによる救いを伝える福音…。それは、パウロが言うように、説得力のあることばとして、人々の心に届くものではありません。それは、論理的に説明して、なるほど、わかったと、人々が納得して理解するようなものではないのです。しかし、福音を聞いた人々の霊とたましいに御霊が働かれ、そこに神の力が現わされるなら、そこに救いのみわざがなされるのです。そのように、人々が変えられるのは、宣教する者の雄弁さや説得力のある知恵のことばではないのです。知恵と啓示の御霊が、私たちのうちにある闇に光を当て、道であり、真理であり、いのちなるお方、キリストを指し示されるのです。それは神のわざであって人のわざではないのです。私たちもまた、その御霊と御力の現われを、ますます祈り求めたいと思います。

主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 1章18-31節◇(7月3日)

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」…1コリント1:18

十字架のことばは滅びる人々には愚かに思えるのだ…とパウロは言っています。では、なぜ人々は、そのように、そのことばが愚かなものだと考えるのでしょうか…。それは、主イエスが十字架にかかって殺されたからです。イエスがメシアなら、たとえ十字架につけられても、いとも簡単にそこから降りることができるはずだ…。弱々しい姿をさらして殺されたイエスがメシアであるなんてばかげている、そのイエスを救い主として信じるなんて愚かなことだ…と、人々は考えるのです。しかし主は、私たちの身代りとなって十字架にかかり、全人類の罪を一身に背負ってその死の刑罰を受けてくださったのです。そして葬られた墓からよみがえってくださったのです。十字架のことばをなぜ人々は愚かだとするのか…。またそれは、そのことば、使信が、イエスを救い主と信じるだけで救われる…キリストにあって神から義と認められ、永遠のいのちが与えられる、というものだからです。人々はそれを聞くと、一生懸命がんばっているというのに、そんな簡単に救いが与えられるなんてとんでもない、そんな考え方は愚かなものだ…と、思ってしまうのです。しかしそれは、神が計画され実行されたものであって、私たちの救いは、人間の努力によらず、ただ、神の一方的な恵みとあわれみによって与えられるものなのです。十字架のことばは、救われる私たちには神の力だ…。パウロはまた、そのようにも言っています。「救われた私たち」ではないのです。その救いは完了しておらず、今も進行中なのです。その救いが完成するのは主の再臨のときであり、私たちには、キリストにある神の救いが絶えず必要なのです。弱さのうちに働く神の力なしには、私たちは前に進めないのです。そして罪赦された罪人である私たちは、陶器師である神の御手によって取り扱われ、主に似た者へと日々造り変えられているのです。キリストの十字架のことば、福音の恵みを朝ごとに受け取り、主の救いにあずかり続けていきたいと思います。

主の恵みと平安が豊かにありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 1章1-9節◇(7月1日)

「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」…1コリント1:9

パウロは、コリントにある教会に宛てたこの手紙の冒頭で、聖徒たちにまず挨拶を書き送り、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」(2節)と呼び掛けています。「聖なる者とされ」とは、罪を赦され、神に義と認められ、神の子として聖別されている、ということです。そしてそれは、イエス・キリストの十字架と復活による贖いのゆえに、神の愛と恵みとあわれみの中でなされたことであり、神はその一人ひとりを、ご自身の民とし、聖徒として召し、神の国のさらなる拡大のために、尊く用いてくださるのです。「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました」(5節)。そのようにパウロは、コリント教会の人々が福音の知識を豊かに持っていると称賛しています。その一方で、彼は、教会の中にあるさまざまな問題についてこれから述べようとするにあたり、その福音が、一人ひとりの信仰の歩みにおける良き振る舞い、霊的な実へと、必ずしも結びついていないことを示されているのです。そのような思いを持ちながらもパウロは、「主はあなたがたを最後まで堅く保って」(8節)、「神は真実です。その神に召されて…」(9節)と、キリストご自身が、贖われた一人ひとりを聖霊によって取り扱い、造り変え、成熟させ、また、ご自身のみからだである教会の各部分として用いてくださると、信仰をもって告白しているのです。いつの時代においても、聖徒たちには欠けがあり、教会には課題があります。そうでない完全な者、完璧な教会など存在しないのです。しかし、主権者であり創造者である主ご自身が、贖われ、召された一人ひとりの聖徒たちに関わり続け、教会を建て上げ続けてくださるのです。私たちはその主の前にへりくだり、自らを明け渡すべきなのです。教会はキリストのからだであり、そのかしらはキリストであることをあらためて覚えたいと思います。

主との豊かな交わりに入れられますように。