◇聖書箇所:士師記 20章1-16節◇(8月31日)

「『今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ。彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去ろう。』しかしベニヤミン族は、自分たちの同胞イスラエルの子らの言うことを聞こうとしなかった。」…士師20:13

ギブアの住民に側女を殺されたレビ人から、その肢体の一部を送られたイスラエルの各部族は、ベニヤミン族の割り当て地にあるミツパに終結しました。士師記の著者はそのことについて、「主のもとに集まった」(1節)、「神の民の集会に参加した」(2節)と記しています。集まった彼らは、あらためてレビ人に事の次第を尋ねました。すると彼は、ギブアの者たちが私を襲って殺そうとし、彼らは私の側女にも暴行を加えたので死んだのだと答え、それは淫らで恥辱となる行為だと非難しました。自分が彼らの男色の対象になりかけたこと、また、自分の身代わりとして側女を彼らの前に差し出したことは伏せて話し、あくまでも彼らの犯罪行為を訴えたのです。それを聞いたイスラエルの民は、憤って一斉に立ち上がり、そのよこしまな者たちの恥ずべき行いに対して報復しようと言いました。そして一斉にギブアの町に集うと、住民たちに犯人たちを引き渡すよう要求し、彼らを殺してイスラエルから悪を除き去るのだと告げました。しかし彼らは、それを拒否し、部族全体から兵を集め、ギブアの住民からは7百人の左利きの精鋭を召集したのです。なぜベニヤミン族の者たちは、同胞であるイスラエルの他部族からの呼び掛けに素直に応じて、ギブアの住民の中にいた犯人たちを引き渡さなかったのでしょうか…。それは、身内をかばう思いによることではありましたが、そもそも、その行為自体がそれほどの悪事だとは考えていなかったからではないでしょうか。結果的には側女は死んでしまいましたが、彼らにとっては殺すことが目的ではなかったからです。当初の目的はそのレビ人を「知ること」だったからです。ここにも、肉に従って生きる者のうちにある闇の深さが示されています。そのような者にならないように、私たちは、ますます御霊に導かれ、主の光に照らされて歩み続けたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 19章◇(8月30日)

「しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。」…士師19:25

士師記の最後の部分である19-21章には、ギブアの町の住民による性暴力事件、それを非難する全イスラエル、そしてギブアを含むベニヤミン族の反応が記されています。今日の19章も18章と同じように、イスラエルに王がいなかったことを1節に述べていますが、民が自分勝手に、また欲望のままに歩むことがどれほど恐ろしいことかを、私たちはこの記事を通してあらためて知るのです。エフライムの山地の奥に寄留していたひとりのレビ人は、自分を裏切ってユダのベツレヘムの父の元に帰ってしまった側女を連れ戻すために、その実家を訪れました。そして彼が、しつこく引き留める義父を振り切って帰宅する途中、日が暮れたのでギブアの町に泊まることにし、ある老人の家に迎えられて飲み食いしていたところ、男たちが、その旅人を知りたいから渡せ、と求めたため、自分の代わりに側女を彼らに引き渡したところ、彼女は性的な暴行を一晩中受けて息絶えてしまいました。するとそのレビ人は、彼女をろばに乗せて自宅に戻り、肢体を12の部分に切り分け、そのおぞましい出来事を広く知らせるべく、イスラエル全土に送ったのです。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(17:6,21:25)。今日の記事での登場人物一人ひとりも、まさにそうです。そしてそれは、自分だけ良ければそれで良い…という、罪の本質とも言える、自己中心、神不在のあり方なのです。老人は自分の娘と旅人の側女を出そうとしたのです。レビ人は側女を犠牲にして自分は結局助かったのです。彼女を助けようとせず朝まで眠っていたのです(27節)。ここに描かれている無法、無秩序、霊的な堕落と暗闇…それは現代でも私たちの周りで日々見られるものです。その中にあって私たちは、主のあわれみを祈り求めつつ、地の塩、世の光として主に用いられたいと願うのです。

主にとりなし続けることができますように。

◇聖書箇所:士師記 18章◇(8月29日)

「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」…士師18:31

「ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた…その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかった…」と1節にありますが、実際にはヨシュアによって割り当てられていました(ヨシ19:41-46)。しかし、先住民である先住のアモリ人からその地を奪い取れなかったので(士1:34)、割当地を自分たちのものにはできなかったのです。そこで彼らは新たな相続地を自分たちで探し求めました。彼らが目をつけたのは、イスラエルの領土の北端にあるライシュという町です。仲間のところに戻った偵察隊は、その町と周辺の地域を占領すべきだと提案し、武装した6百人が氏族の中から選ばれ出発しました。そして、偵察時に立ち寄ったミカの家を再び訪れ、そこで専属の祭司となっていた若者にダン族の祭司となるよう持ちかけ、エポデとテラフィムと偶像とともに連れ出したのです。彼らはライシュに着くと、剣の刃でそこの住民を討ち、町を焼いて一掃し、新たに自分たちの町を建てました。そしてミカから奪い取った彫像を立てて、偶像の神を礼拝したのです。当時、イスラエルの神の宮はシロにありましたが、彼らはそのように、「自分たちのための」神の宮、偶像の神を拝むための宮を独自に建てたのです。ミカ家の雇われ祭司の若者は、ダン族の偵察隊に対し、「あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています」と告げました。また、その偵察隊はライシュの地について、「神はそれをあなたがたの手に渡してくださった…」と身内の者たちに報告しました。しかし主が実際にそのような語られたとは記されていません。それは、彼らが持っていた人間的な思いに過ぎないのです。彼らは勝手に神の名を出し、自分たちの行うことを正当化したのです。それはある意味恐ろしいことです。しかし、行動の動機と目的が「自分たちのために」であるなら、それは、いつの時代であっても、今を生きる私たちにも起こり得ることなのです。すべてのことを、自分のためにではなく、主のためになす者でありたいと思います。

主の御声を聴いて歩むことができますように。

◇聖書箇所:士師記 17章◇(8月28日)

「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」…士師17:6

士師記の17章以降は「付録」とされています。それは、16章までに12人の士師がすでに登場し、その後は士師の活動の記録はなく、それまでにあった異邦人との戦いもなく、部族内部の問題が記されているだけだからです。今日の箇所の17章には、ミカというエフライム出身の人物とその家族、ユダ族の一人の若者が登場しますが、淡々と書かれている一つ一つは首をかしげさせる内容です。ミカは母親から銀千百枚を盗んで持っていましたが、あるときそのことを告白しました。すると母親は、のろいの誓いをしていたにもかかわらず「主が私の息子を祝福されますように」と言い、その銀貨は息子のために彫像と鋳像を造ろうしていたものだと明かし、返された中から銀2百枚を銀細工人に与えて偶像を造らせ、家に置いたのです。しかし、十戒には「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」と定められており(出20:4)、母親の行為は明らかに律法に違反していたのです。一方ミカは、シロに聖所があるにもかかわらず、自宅に私的な神の宮を設けていました(5節)。そしてレビ人でない自分の息子を祭司として任命し、祭司が着用する胸当てのエポデと偶像の一種のテラフィムを作り、「礼拝」を行なわせていたのです。しかし、そのような行為もまた、十戒で明確に禁じられていました(出20:5)。さらに彼は、旅をする一人の若者がレビ人であることを知ると、祭司となるよう頼み込み、自宅に寄留させたのです。ここに見られるのは、神が定められた秩序の崩壊、霊的な暗黒です。そしてそれは、それぞれが自分の目に(考えで)良いと見える(思える)ことを行なったことにより生じた結果なのです。そのようなことは、現代社会でも見られます。また、ともすれば私たち信仰者も陥ってしまう罠なのです。「イスラエルには王がなく…」とありますが、王は主ご自身であり、民に律法(みことば)を与えられたのです。何が良いこと、主のみこころなのかをみことばから知り、それを守り行う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 16章1-22節◇(8月26日)

「彼女が『サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます』と言ったとき、彼は眠りから覚めて、『今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう』と言った。彼は、主が自分から離れられたことを知らなかった。」…士師16:20

ペリシテ人の領主たちは、並外れた力を持つサムソンを打ち負かすべく、彼が愛している女性デリラに近づきました。サムソンの力の秘密を探り、どうすれば捕らえられるのかを聞き出して教えてくれれば、その見返りとして銀貨をあげようと言って彼女と取り引きしたのです。そこでデリラはサムソンに、彼らから依頼されたことを尋ねましたが、彼は本当のことを明かそうとせず、嘘をついてデリラに答えました。そのため、彼女が聞いたとおりに新しい弓の弦や新しい綱でサムソンを縛っても、彼は難なくそれらを糸のように断ち切ったのです。そのようにしてサムソンに3度もだまされたデリラでしたが、なおも本当のことを聞き出すべく、私のことを愛していないのか…と言って毎日彼に迫り、せがみ、責め立て続けました。すると、そのことが死ぬほど辛くなったサムソンはついに、自分はナジル人であり、髪の毛が剃り落とされれば力が去って弱くなると、彼女に明かしてしまったのです。そのことを聞いたペリシテ人たちは、早速サムソンの髪の毛7房を剃り落とさせ、彼を捕らえて両目をえぐり出し、ガザに引き立てて行きました。サムソンの髪の毛は剃り落とされ、彼の力は彼を離れましたが、士師記の著者は、主が彼を離れたと記しています。それまでの「主の霊が激しく彼の上に下った」のとは真逆です。サムソンは、デリラが自分を陥れようとしているのに気づいていたはずです。しかし彼は、自分の力を誇っていたので、何をされても逃れられる自信があったのです。けれども、その力は自分のものではありませんでした。結局彼は、デボラの好意を得るために真相を話し、力を失ってしまったのです。私たちは、そのような肉なる思いで行動せず、また自らの力を誇らず、日々主の霊に満たされ、新たな力を受けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:士師記 15章◇(8月25日)

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主を呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えてくださいました。しかし今、私は喉が渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』」…士師15:18

粗暴で身勝手な言動が目につくサムソン…。ともすれば私たちは、そんな彼に眉をひそめたくなります。1節にも、一匹の子やぎを持ってもって他人のものとなった妻を訪ね、部屋に入らせてくれと言ったと書かれています。その要求は彼女の父に拒否されますが、サムソンはそのことでペリシテ人全体に対して恨みを抱き、3百匹のジャッカルの尾にたいまつをくくり付けて火をつけ、ペリシテ人の畑を燃やすという行動に出たのです。怒ったペリシテ人たちは、問題の原因となった妻とその父を火で焼き、さらにユダに向かって陣を敷き、岩の裂け目に住んでいたサムソンを引き渡すよう求めました。そこでユダの人々がサムソンを2本の新しい綱で縛り、ペリシテ人たちの手に渡そうとしましたが、またもや主の霊が激しくサムソンの上に下り、彼の縄は簡単に解け、ろばのあご骨によって彼は彼らを千人打ち殺したのです。その後、サムソンはひどく喉の渇きを覚えました。そして、水を与えてほしいと主を呼び求めたのです。彼が主ときちんと向き合っていることを記す初めての場面です。「死にそうだ…」と感じるほどのひどい渇きを通して、主は、力と欲望に身を任せていた彼の心を砕いて、イスラエルの士師としての召命を与えられたのです。国を守るために神が自分を用いられるという自覚が、その取扱いによってサムソンにもたらされたのです。「こうして」彼は、20年間イスラエルを治める者となりました(20節)。主は私たちに対しても、しばしば同じようにして、主を呼び求めざるを得ない状況へと追い込まれます。その中で、私たちの霊の目を開き、頑なな心を砕き、主に生かされている意義と目的を示されるのです。私たちを用いてご自身のご計画を進められるのです。すべてが主の御手の中にあることを覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 14章◇(8月24日)

「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのころ、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。」…士師14:4

サムソンは大きくなり、ペリシテ人の娘をみそめ、彼女を妻にしたいと両親に願いましたが、二人は、無割礼の異邦人を妻に迎えることに反対しました。しかし彼女に執着していたサムソンは、その結婚を押し通そうと考えていました。そしてそれは、主のご計画によることであり、主は、ペリシテ人がイスラエルを支配している状況を打破すべく、事が起こるように仕向けられたのです。サムソンがティムナのぶどう畑にやって来たとき、獅子が吼えたけりながら向かって来ましたが、彼は、いともたやすく、素手でその獅子を引き裂きました。そして、しばらく経ってその獅子の死骸を見ると、なぜかそのからだに蜜蜂の群れがおり、甘い蜜が作られていたのです。その後サムソンが、みそめた娘との結婚を強引に成立させて自ら祝宴を催すと、人々は客を30人招待しました。するとその席でサムソンは出席者に謎かけをしました。それは獅子のからだにあった蜜のことでした。もし答えられるなら晴れ着を与えようと言われて、招待客たちはサムソンの妻に、夫から答えを聞くよう迫り、妻から泣いてせがまれたサムソンそれを教えてしまい、結局、近くの町の住民を殺して晴れ着を奪うはめになったのです。その後、彼は実家に帰り、妻は招待客の妻となりました。サムソンの執着心、気性の激しさ…一見すると、それらが、さまざまな問題を引き起こしているように思えます。しかしそれらは、間接的なことであって、事を起こされたのは、主ご自身なのです。主がサムソンを用いられたのです。「主の霊が激しく彼の上に下った」(6,19節)ということばに心に留まります。私たちもサムソンの両親のように、事の背後にある主の御手を知ることができず、問題の中で戸惑うことがありますが、主がすべてを統べ治められ、最善のご計画をもって導いておられることを信じ、ますます主に信頼して歩み続けたいと思います。

確信と平安が与えられますように。

◇聖書箇所:士師記 13章◇(8月23日)

「『見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。』」…士師13:5

イスラエルの民はまたもや主の前に悪を重ねたので、主は彼らを40年間ペリシテ人の手に渡されました。しかし主は同時に、イスラエルのために新たに士師を立て、彼らを苦難の中から救い出そうと計画しておられたのです。ダン族であるマノアの妻は不妊の女性でしたが、主の使いが彼女に現れ、身ごもって男の子を産むと告げました。そしてさらに、その子の頭にかみそりを当てずにナジル人として育てよ、強い酒を飲ませるな、汚れた物を食べさせるな、と命じたのです。その後、主の使いは再び彼女のところに来て、今度はマノアにも現れ、妻に命じたことを繰り返しました。そして、マノアが全焼のささげ物を岩の上で主に献げると、祭壇から燃え上がるその炎の中を、主の使いは、マノアと妻が見ている前で天に上って行きました。マノアは、神を見た自分と妻の死を覚悟しましたが、妻は、もしそうなら、主はささげ物を受けられなかったし、一連のことを告げられなかったはずだと夫に言ったのです。結局、妻が言ったとおり、二人のいのちが取られることはありませんでした。なぜなら、彼らには、生まれてくる男の子サムソンを養育するという、大切な使命があったからです。マノアは、近視眼的な見方しかできず、そのことを理解していませんでしたが、彼の妻は、自分たち夫婦と生まれてくる男の子サムソンが、神のご計画の中で用いられるのだというビジョンを、しっかりと受け取っていました。そしてイスラエルの救いは、主の使いが「彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」と告げたとおり、すぐに実現することではなかったのです。私たちも、目の前のことだけにとらわれず、将来を見通す目を持ち、その中で、いま自分ができること、なすべきことを主のために忠実に行い、その働きを次の世代へと繋ぐ者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 12章(8月22日)

「…彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。』」…士師12:2
アンモン人と戦って勝利を収めた士師エフタのことを、エフライム族の人々は非難しました。アンモン人との戦いの際、一緒に行ってほしいと、なぜ自分たちに声を掛けなかったのか…と。するとエフタは彼らに反論しました。アンモン人との争いは前にもあり、そのとき私は、あなたがたに助けを求めた。しかし、あなたがたは私を救おうとはしなかった。だから今回、あなたがたの助けをあてにせず、いのちをかけてアモン人と戦ったのだ、なぜ今になってそのように私のことを責めるのか…と。エフライム族の人々は、以前、ギデオンに対しても、まったく同じ理由で彼を責めました(士8:1)。そんな彼らは、ともに戦う気は必ずしも持っておらず、何よりも、自分たちに声が掛からなかったことに対して、腹を立てていたのです。エフライム族の割当地は、カナンの地の中心であり、そこには聖所シロもあります。ヨルダン川の東側に位置するギルアデ出身のエフタが勝利し、イスラエルの多くの人々が彼を称賛したことで、彼らの自尊心が傷つけられ、エフタに嫉妬したのです。私たちにも、「エフライム人の思い」がしばしば起こります。教会の中でなされた事柄に対して、自分は声を掛けてもらえなかった…自分には知らされていなかった…と。そして周囲に不満を漏らし、それが引き金となって、不要ないざこざ、無益な争いが起こるのです。それによって、共同体である教会の一致が乱されてしまうのです。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」(エペソ4:2-3)。自己主張するのではなく、謙遜と寛容の心を持て、愛をもって互いに忍び合え、御霊による一致を保ち続けよと、私たちは主から命じられているのです。そのような共同体、一人ひとりとされるようにと、ともに主に祈り求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 11章26-40節◇(8月21日)

「すると、娘は父に言った。『お父様、あなたは主に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。』」…士師11:36

痛ましく悲しい出来事が起こりました。エフタは、アンモン人との戦いに臨み、アンモン人を私の手に与えてくださるなら、無事に家に帰ることができるなら、そのとき家の戸口から私を迎えに出てくる者を、全焼のささげ物として献げますと主に誓願を立てて言いました。しかし、なんと、迎えに出て来たのは彼の娘だったのです。エフタは驚き、自分の衣を引き裂いて嘆きましたが、彼も娘も、主に向かって口を開いたのだから…と、主に誓ったことを守ったのです。それは、主を畏れていなければできないことです。それは信仰の行為です。実際、そのようにして主に従い通したエフタと娘のことは、後世まで人々によって語り継がれました(40節、ヘブ11:32)。誓願自体は決して間違ったことではありません。しかし、主の前に誓うという行為は、主との間に契約を結ぶという意味であり、主が人に対して要求された場合に応答するということが、本来のあり方なのです。そうでなくて、人間の側から一方的に誓願を立てるなら、それは、神との間で取引をしようとすることになってしまうのです。エフタは誰が迎えに出てくると考えていたのでしょう。おそらく、しもべやはしためだと考えていたでしょう。自分の娘ということは、全く想定していなかったに違いありません。そこには「決めつけ」があります。ましてや人身御供の慣習は異教のものであり、モーセの律法で禁じられていたのです(レビ18:21)。しかしエフタは、アンモン人との戦いでの勝利を確実にしたいがために、ついそのような人間的な思いで行動してしまったのです。私たちも「願いを叶えてくれるなら、何々します…」と主に祈り求めるなら、それは、神と取引をし、神を支配しているのです。人と神の立場が逆転しているのです。そのような過ちに陥らないよう注意したいと思います。

健全な信仰を持つことができますように。

◇聖書箇所:士師記 10章◇(8月19日)

「彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。」…士師10:16

アビメレクの死後、イッサカル人トラが23年間、その後ギルアデ人ヤイルが22年間、それぞれさばきつかさとしてイスラエルをさばきました。しかしその二人が死ぬと、イスラエルの民は再び主の目に悪であることを行い、異国の民が慕っていたバアルやアシュタロテの偶像の神々に仕えるようになってしまいました。すると主は、そのことで怒りを燃やされ、イスラエルの民をペリシテ人とアンモン人の手に渡されたので、ヨルダンの川向こうにいたすべてのイスラエル人は、18年間それらの者たちによって虐げられ、その後さらに、ヨルダン川の西側に住むイスラエルのいくつかの氏族も、アンモン人によって大いに苦しめられることとなりました。苦境に立たされたイスラエルの民は、助けを求めて主に叫び、偶像の神々に仕えた自らの罪を告白して悔い改めました。しかし主は、これまでもあなたがたが諸国民に虐げられて叫んだとき、わたしは救ったではないか…それなのにあなたがたはわたしを捨てたのだ…だからこれ以上わたしは救わない…と、民を突き放されたのです。それを聞いたイスラエルの民は、なおも自らの背信の罪を認め、救いを願うとともに、自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えました。すると主は、民のその態度を見、また彼らの苦痛を見て、忍びなくなられたのです。それはつまり、民を見放すことに耐えられなくなったということです。神はそのように、民がご自身に立ち返ったことによって、それまでの思いを変えられたのです。それは驚くべきことであり、神がいかに愛とあわれみに満ちたお方であるか、また私たちの真実な悔い改めがどれほど神に喜ばれることであるかを、あらためて教えられるのです。私たちもまた、主に従い切れない、弱く罪深い者ですが、神のみ前に砕かれた悔いた心をもって進み行き、赦しと好意を受ける者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:士師記 9章41-57節◇(8月18日)

「こうして神は、アビメレクが兄弟70人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に返された。神はまた、シェケムの人々のすべての悪の報いを彼らの頭上に返された。エルバアルの子ヨタムののろいが彼らに臨んだ。」…士師9:56-57

アビメレクがギデオンの70人の息子たちを虐殺した悪と、彼に加担したシェケムの住民の悪のゆえに、神からその報いが両者に与えられたとすでに書かれていましたが(9:24)、今日の箇所において、その具体的な状況が、悲惨な結末として描かれています。アビメレクの兵たちは3隊に分かれ、1隊は町を襲い、残りの2隊は野にいる者たちを襲い、それぞれそこにいたすべての民を打ち殺しました。さらにアビメレクは、シェケムのやぐらの住民たち全員が、彼らが慕う偶像の神、エル・ベリテ(バアル・ベリテ)の神殿の地下室に逃げ込んだことを知ると、兵士たち全員に木の枝を切って運ぶように命じ、それをその地下室の上に置いて火を放ち、焼き討ちによって男女約千人を皆殺しにしたのです。さらにアビメレクは、テベツの町を攻撃してそこを占領しました。すると住民たちは全員、堅固なやぐらに逃げて立てこもったため、アビメレクはそこを火で焼こうとして近づきました。ところがそのとき、一人の女性が投げつけたひき臼の上石が、彼の頭を直撃したのです。瀕死の重傷を負ったアビメレクは、不名誉な死を避けるため、部下の若者に命じ、剣によって自分を殺させました。そのように、アビメレクのいのちを奪ったのは、敵の兵士の矢や剣ではなく、住民の一人の女性が投げた石でした。彼の頭の骨は、それによって砕かれたのです。そしてそれは、神が仕組まれたことであったのです。神は、悪をそのままにはされないのです。ご自身のみこころを必ず成し遂げられるのです。「主があなたがたを治められます」(8:23)ということばの意味は、主が民に正しいさばき、ふさわしい報いを与えられるということなのです。その主を畏れ、御前にへりくだり、悪に対する神ご自身のさばきを祈り求める者でありたいと思います。

主権者なる神に委ねることができますように。

◇聖書箇所:士師記 9章22-40節◇(8月17日)

「神は、わざわいの霊をアビメレクとシェケムの住民の間に送られたので、シェケムの住民たちはアビメレクを裏切った。」…士師9:23

シェケムの王となったアビメレクの支配は3年間続きました。「イスラエルを支配した」とあることから(22節)、シェケムの町だけでなく、周辺の町々へとその支配を拡げようとしていたのかもしれません。しかし、そんな彼の野心は砕かれました。神が彼とシェケムの住民との間にわざわいの霊を送られたため、彼らがアビメレクを裏切ったからです。そのようにして、神ご自身がイスラエルの歩みの中に介入され、みこころをなされたのです。そしてそれはまさに、「主があなたがたを治められます」とギデオンが民に告げたとおりなのです(8:23)。さばきつかさとも呼ばれる士師が立たされた時代…。それは、イスラエルに王が与えられる前の時代です。そこでは主ご自身が王として国や民を治めるのであり、それが神のみこころであったのです。他の諸国とは異なり、王という権力者、人間ではなく、目に見えない主に拠り頼んで従うということを、神は望んでおられたのです。それにもかかわらず、「私が王として治める」と権力を持つ者、またそれに反対して「別の者に仕えよう」と言い出す者が出てくるのです。また偶像の神を慕って淫行を行う民が生まれのです。それは、アダム以来、すべての人の中に存在する罪の性質のゆえですが、神はそのような罪深く、多くの欠点を抱えた者たちを用いられ、ご自身のご計画を推し進められたのです。それが、士師記に登場する多くの人物を通して教えられることです。シェケムの住民は、相変わらず自分たちの偶像の神を拝み、それに仕えていました(27節)。神がわざわいの霊をアビメレクと彼らの間に送られたのは、アビメレクの暴虐とそれに加担した彼らに対する報いですが(24節)、同時に、そのように、忌み嫌うことを行い続けていることへの神の怒りが、そこにはあったに違いありません。そのことを教訓とし、私たちは、神の主権を認め、目に見えない神にひたすら拠り頼んで歩み続けたいと思います。

すべてを主に明け渡すことができますように。

◇聖書箇所:士師記 9章1-21節◇(8月16日)

「今、あなたがたは誠意と真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族に良くして、彼の手柄に報いたのか。」…士師9:16

生前、ギデオン(エルバアル)は多くの妻を持ち、彼には70人もの息子たちがいました(8:30)。また、彼には側女もおり、シェケムにいた側女が産んだアビメレク(8:31)は、シェケムの王となるため町の住民に働きかけました。彼は、町を治めるのは、ギデオンの息子70人全員か、それともシェケム出身の自分か、どちらがよいのか…と、母親の身内の者たちを通して尋ねたのです。そのように告げられた住民たちの心は、アビメレクに傾きました。けれども、そのように行動したアビメレクは、神からの召命を受けたわけではありませんでした。単に権力を握りたいという人間的な野心から、シェケムの王の座に着くことを望んでいたのです。彼は、シェケムの住民から得たお金で雇った粗暴なならず者たちを使い、ギデオンの息子たち70人を、隠れていた末子ヨタムを除いて皆殺しにしたのです。逃げたヨタムは、町の人々に対して木々のたとえで語って訴えました。オリーブ、いちじく、ぶどうの木は王への就任要請を断るが、王にふさわしくない茨が王になり、それから火が出て住民と町を焼き尽くすことになる…と。「主があなたがたを治められます」とギデオンが告げたとおり(8:23)、他の諸国とは異なり、イスラエルの国と町を統べ治める王は、主ご自身であるべきだったのです。アビメレクは、自分はシェケム出身だ、あなたがたの骨肉だと訴え、身内びいきをする人々をうまく利用して、王としての権力を手に入れました。一方、シェケムの住民は、偶像の神バアル・ベリテに頼るだけでは物足らず、目に見える形としての王の就任を歓迎しました。しかしそこにイスラエルの神は不在であり、ヨタムが指摘したとおり、「誠意と真心をもって行動して」はいなかったのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。誠意と真心をもって主イエスを王とし、王に忠実に仕える、王を喜ばせる、そのような者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 8章18-35節◇(8月15日)

「しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。主があなたがたを治められます。』」…士師8:23

捕らえたミディアン人の二人の王を殺害したギデオンは、彼らのらくだの首に掛けられていた三日月形の飾りを取りました。また、イスラエルの民に対し、分捕り物の金の耳輪を供出するように依頼しました。では、それらは単なる飾りだったのでしょうか…。おそらくそれらは、彼らが信じる偶像の神につながる、お守りのようなものであったに違いありません。そして主は、そのようなものを嫌って除かれるお方なのです(イザ3:18-23)。戦いにおけるギデオンの功績を認め、民は彼のその求めに応じ、分捕り物の耳輪を素直に差し出しました。するとギデオンは、それらを含めた分捕り物を材料として、祭司が身に着ける衣であるエポデを一つ作ったのです。なぜギデオンがそのエポデを作ったのか…その意図や目的は不明ですが、そのエポデを置いた場所は、かつて偶像を壊して主のために祭壇を築いたオフラの町であり(6:24)、彼はそれを、ミデヤン人との戦いに勝利した記念にしようと考えたのかもしれません。しかし、敵からの分捕り物であり、主が嫌われる異教の飾り物を聖絶せず、しかも祭司ではないギデオンがそれでエポデを作ったことは、主のみこころではありませんでした。「それはギデオンとその一族にとって罠となった」とあるとおり(27節)、イスラエルの民はそれを慕って淫行、つまり偶像礼拝を行い、さらにギデオンが死ぬと、バアル・ペリテを自分たちの神としたのです(33節)。ギデオンが犯した過ち、それは、聖絶すべきものを残したことです。また、自らの分を越えて事をなしたことです。さらに彼は、主のみこころを尋ね求めず、勝手にそれらのことを進めたのです。しかし、「主があなたがたを治められます」というギデオンの主張は正しいのであり、彼は、すべてを主の前に明け渡し、主のみこころがなされることを願って行動すべきだったのです。ギデオンの過ちを教訓とし、そのように歩みたいと思います。

主の御旨に従うことができますように。

◇聖書箇所:士師記 8章1-17節◇(8月14日)

「すると、スコテの首長たちは言った。『おまえは今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。われわれがおまえの部隊にパンを与えなければならないとは。』」…士師8:6

ミディアン人たちとの戦いに後から召集された(7:24)エフライムの人々は、なぜ最初から声掛けしてくれなかったのかとギデオンを激しく責めました(1節)。彼らのプライドが傷つけられたからです。しかしギデオンが、神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されたではないか…と言うと、彼らの怒りは和らぎました。そのことばで彼らが神に目を転じたからです。また、ミディアン人の二人の王ゼバフとツァルムナを追ったギデオンが、戦いで疲れている3百人の兵士たちにパンを下さいとスコテやペヌエルの人々に頼み込んでも、そんな必要はないと彼らは拒否しました(6,8節)。するとギデオンは、彼らを強く非難したのです(7,9節)。ギデオンを非難した人々の口からは、「神」や「主」ということばは出て来ませんでした。それは、彼らが人間的な思いで事をとらえていたからです。スコテやペヌエルの人々のうちにあった問題の本質は、ギデオンの申し出に非協力的だったということではなく、神への信仰に立って受け留めて行動しなかったということなのです。3百人の兵士たちは、イスラエル全体のために選ばれて戦っている者たちであり、ずっと敵を追っていたのです。その彼らのために、共同体の一員として支援するのは当然であり、主ご自身が願っていたことであったのです。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ11:1)。スコテの首長たちは、ギデオンの部隊の勝利を信じていませんでした。たった3百人で戦っても勝てるはずがない…と思っていたのかもしれません。何よりも彼らは、目に見えないこと、まだ起こっていないことを、主にあって先取りして受け取る者ではなかったのです。しかし私たちは、そのような人間的な見方によらず、すべてのことを霊の目をもって見て歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所:士師記 6章19-40節◇(8月12日)

「こうして、その日、父は『バアルは自分で彼と争えばよい。なぜなら彼はバアルの祭壇を打ち壊したのだから』と言って、ギデオンをエルバアルと呼んだ。」…士師6:32

「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ…」と、御使いをとおして主から告げられたギデオンは、御使いを見たことにより自分は死ぬのではないか…と恐れました。しかし主は「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない」と言って彼を励ましたのです。そこでギデオンは主に祭壇を築き、「アドナイ・シャロム」(「主は平安」)と名付けました。その夜、主はギデオンに、バアルの祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒し、その偶像の木で燃やして全焼のささげ物を献げるよう命じられました。そこでギデオンがそれを実行すると、町の人々はそのことを咎め、彼を殺すようにと彼の父ヨアシュに迫ったのです。しかしヨアシュは、彼らの要求を退け、バアルは自分で彼と争えばよいのだと言って、何もできない偶像を揶揄したのです。ミディアン人たちは連合を組んでヨルダン川を渡り、陣を敷きました。一方、主の霊に満たされたギデオンは、角笛を吹き鳴らして戦いのための勇士を募りました。ところが彼は、戦いが始まろうとする状況においてもなお、主が自分を用いてイスラエルを救われることの確信を得るべく、主にしるしを求めたのです(37節)。そして、主がその願いを聞き入れ、しるしを現してくださったにもかかわらず、ギデオンは、「もう一度だけ」と言って、再度しるしを主に求めたのです(39節)。そのような疑い深いギデオンを、主は非難されませんでした。そして彼のその願いにも応えて、しるしを現してくださったのです。主がいかに忍耐深くあわれみ深い方であるかを教えられます。また、主イエスの復活を信じなかったトマスに、あなたの手をわたしの脇腹に入れなさい、と言われた主のことばを思い出します(ヨハ20:27)。私たちもまた、主に委ねきれない弱さを持つ者ですが、主がその一人ひとりを主の霊で満たし、用いて、勝利をもたらしてくださることを覚えたいと思います。

主の促しに従うことができますように。

◇聖書箇所:士師記 6章1-18節◇(8月11日)

「すると、主は彼の方を向いて言われた。『行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」…士師6:14

カナンの王ヤビンが滅びてから40年の間、イスラエルの国は平和で穏やかでした。ところが、またもや民が主の目の前に悪を行ったため、主は今度は彼らをミデヤン人の手に渡されました。そして以前と同様に民が主に叫び求めると、主は一人の預言者を遣わして彼らの背信を責め、さらにユアシュの子ギデオンを遣わされたのです。現れた主の使いから、「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」と告げられたギデオンは、そのことばに反発するようにこう言いました。「もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか…主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです」(13節)。民が敵の手に渡されたのは確かに主によることでした。しかしそれは主が民を捨てたからではなく、逆に民が主に背いて悪を行ったからです。またギデオンはこう言いました。「先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか」(13節)。主は民をエジプトの奴隷から連れ出されたお方であり、真実と忍耐をもって導き続けてくださったのです(8,9節)。また40年前にも、鉄の戦車を持つカナンの軍との戦いにおいて、主は圧倒的な勝利を民にもたらしてくださっていたのです(5章)。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか」(15節)。ギデオンは、「あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ」と主から言われたとき、自分の若さ、自分の氏族の弱さという人間的なことにとらわれて恐れました。しかし主は、「行け、あなたのその力で」、「わたしがあなたを遣わす」、「わたしはあなたとともにいる」と言われたのです(14,16節)。勝利をもたらされるのは主であって、主はただご自身に従い、信頼し、行動するよう求められたのです。私たちもまた、今のそのままで主に応答し、自らを献げたいと思います。

恐れずに前進することができますように。

◇聖書箇所:士師記 5章◇(8月10日)

「私の心はイスラエルの指導者たちに、 民のうちの進んで身を献げる者たちに向かう。 主をほめたたえよ。」…士師5:9

1節にあるとおり、士師記5章はデボラとバラクによる歌であり、カナンの王ヤビンと軍の長シセラを倒し、先住民との戦いに勝利したのを受け、そのことを導き、奇しいみわざをなしてくださった主をほめたたえ、主に栄光を帰す賛美です。そして、そのイスラエルの神だけが唯一まことの神であり、主権をもって統べ治めておられることを、諸国の王たちに向かって宣言しているのです。カナンの王ヤビンによる圧迫は20年間に及びました(4:3)。それによりイスラエル人全体が苦しんでいましたが、バラクが兵を集め、シセラ率いる敵と戦おうとしていたとき、彼に協力し、その戦いにいっしょに参加したのは、ナフタリ、ゼブルン、イッサカル、エフライム、ベニヤミン、マナセ(マキル)の部族であり(14,15,18節)、ヨルダン川東側に住むルベン、その北のギルアデの地に住むガドと半マナセの部族、さらに、海沿いに住むアシェル、ダンの部族は参加しなかったのです(16,17節)。ヨシュアの時代とは異なり、新しい世代の者たちには、他の部族のことは関係ない…という内向きな心があって、自分たちもまた神の民イスラエルという共同体の一員である…という意識を、積極的に持とうとはしなかったのです。その戦いでの勝利は、いわば、主が編成されたチームによるものでした。デボラ、バラク、6部族の中の進んで身を献げる者たち、ケニ人へベルの妻ヤエル、そして何よりもチームを導かれる主ご自身のみわざ…。キション川の氾濫によってシセラの陣営はかき乱され、彼らの誇る戦車の大軍はまったく役に立たなかったのです(21節)。「私の心は…民のうちの進んで身を献げる者たちに向かう」。そのことばは、預言者デボラを通して語られた主ご自身のものです。その主は今も、進んで身を献げる者たちを尊く用いられ、ご自身が導く共同体に勝利をもたらされるのです。そのことを覚え、私たちもまた、喜んで主に身を献げる者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所:士師記 4章◇(8月9日)

「そこでデボラは言った。『私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。』」…士師4:9

エフデが死ぬと、イスラエルの民はまた主の目の前に悪を行いました。そこで主が民をカナンの王ヤビンの手に渡されると、鉄の戦車9百台を持つヤビンから20年にわたって圧迫された民は苦しみ、主に助けを叫び求めました。すると主は、女預言者であり士師であるデボラを通し、ケデシュにいたバラクという人物に対し、1万人の兵を集めてタボル山に進軍し、ヤビンの軍の長シセラを倒すよう命じられました。しかしバラクは、デボラが一緒に行かないなら自分もいかないと言い張ったので、彼女は承諾し、彼と一緒に戦いの地へと上って行ったのです。デボラがバラクに「立ち上がりなさい。立ち上がりなさい。今日、主があなたの手にシセラを渡される…」(14節)と告げると、彼はシセラの軍と戦い、勝利を収めました。しかし、逃げたシセラを倒したのはバラクではなく、ケニ人へベルの妻ヤエルでした。ヤビンとヘベルの家は友好関係にあったので、シセラが保護を期待してヤエルがいた天幕へと逃げ込むと、ヤエルは世話をすると見せかけ、疲れて熟睡していたシセラのこめかみに杭を打ち込み、一撃で彼を殺害したのです。結局バラクは、自ら手を下さずにシセラを倒し、その後イスラエルの勢力はさらに強くなり、ヤビンを滅ぼすことができたのです。一緒に行ってほしいとデボラに懇願したバラク…。そこには何か人間的な思いがあったように思えます。それが「あなたが行こうとしている道」とデボラが言ったことなのかもしれません。しかし彼女の預言のとおり、シセラはヤエルの手によって倒されたのであり、それを計画され導かれたのは主ご自身なのです。それは奇しい主の配剤であり、人の思いを越えた偉大な主のみわざなのです。私たちもまた、窮地に立たされると、あれこれと考えて心騒がせてしまいますが、主に拠り頼み、主の導きに従い、主がなされるみわざを待ち望みたいと思います。

主の山の上には備えがあります。祝福がありますように。

◇聖書箇所:士師記 3章◇(8月8日)

「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。」…士師3:9

1-6節には、カナンの先住民である異邦人たちが残された理由が記されています。それは、主が、戦いを知らない世代の者たちに、戦いを教え知らせるためであり(2節)、また、民が主に立ち返り、神にのみ拠り頼む者となるか、父祖たちに与えた命令に聞き従う者となるかどうかを試みるためであり(4節)、そして何よりも、民自身が異邦人を追い払わず、彼らの子どもと自分たちの子どもを結婚させて親戚となり、彼らの神に仕えたからです(6節)。そのような民に対して主は怒りを燃やし、アラム・ナハライムの王にイスラエルを支配させました(8節)。しかし民が苦しんで主に叫び求めると、主はそれに答え、ケナズの子オテニエルにより、その支配を解いてくださいました。それなのに、彼が死ぬと民はまた悪を行ったのです(12節)。士師記はそのように、愚かな民の罪と主のあわれみの繰り返しを記している書なのです。モアブの王エグロンによる支配に苦しみ、またもや主に向かって叫び求めた民に対して主は、今度は救助者としてエフデを起こされました。左利きであった彼は、両刃の剣を作り、それを衣の下の右ももの上に帯で締め、王と二人きりになる状況を作ると、すっかり油断していた王をその剣で殺害したのです(21節)。そのようにして主は、民の叫びに答え、介入してくださったのです。私たちの日々の生活においても、主の御手は動かされています。何気ないことの中に、主の守りと配慮があり、私たちはその中で主にあって生かされているのです。そして主は、私たちが苦しみ、叫び求めるとき、確かにそれに答え、救助者なる聖霊さまを通して介入してくださるのです。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」イスラエルの民を反面教師とし、常に神に拠り頼み、主の教えに聞き従い、主だけを愛して仕える者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所:士師記 2章◇(8月7日)

「しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。」…士師2:19

イスラエルの民が先住民であるカナン人と親しくなり、彼らが信じる異教の神々に心を奪われるということは、ヨシュアが生きていたときにすでに起こっていました。そこで主の使いは民に、「彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。…彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる」と警告したのです(2-3節)。すると民は声をあげて泣き、悔い改め、主にいけにえを献げて礼拝し(4-5節)、割り当てられたそれぞれの相続地を占領するために出て行きました(6節)。ところが、ヨシュアの後の世代の者たちは、主を知らず、主が民のために行われたわざも知らず、カナン人たちが拝む偶像神バアルに彼らも仕え、父祖の神、主を捨てたのです。主は怒り、彼らにわざわいをもたらされました。しかし、それによって民がうめき苦しむのを見られた主は、さばきつかさと呼ばれる士師、リーダーを起こされ、その者の導きによって略奪者の手から救われたのです。それは一方的な主のあわれみによることでした(18節)。にもかかわらず、そのさばきつかさが死ぬと、民はたちまち元に戻り、前よりもさらに堕落してしまいました。身勝手で頑なな生き方を捨てなかったのです。主の怒りは再びイスラエルに向かって燃え上がりました。そのように、民の罪→神の怒り→神のあわれみ→民の救い→民の罪…と同じことを繰り返すのは民の罪深さのゆえです。一方、「主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代」ということばが示唆するように(10節)、エジプトでの奴隷から救い出してくださった神、アブラハムとの契約を破らない神を(1節)、親たちは子どもたちにきちんと伝えていなかったのです。そしてそれは、安息日ごとに全世代が集う礼拝の中で、共同体が繰り返し覚え、聞くべきことなのです(申命5:15)。そのように、主の救いのみわざを、子どもたち、次世代にきちんと伝え、その主をともに礼拝する群れでありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所:士師記 1章1-15節◇(8月5日)

「ユダが上って行くと、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を討ち取った。」…士師1:4

士師記は、ヨシュアを通して神との契約を結んだイスラエルの民が、彼の死後、士師(さばきつかさ)によって導かれたことが記されている書です。士師とは、神のあわれみと助けを民に与える神の代理人であり、彼らは、イスラエルを敵の手から救い出し、信仰を正し、正しいさばきを行うために、神に立てられた者だったのです。ヨシュアの死後、後継者がまだ決まっていなかったため、民は「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか」と主に尋ねました(1節)。すると、「ユダが上って行くべきである」(2節)と主から告げられたユダは、シメオンに対して、一緒に割り当てられた地に行き戦ってほしい、と頼み込んだのです。「見よ、わたしはその地を彼の手に渡した」(2節後半)。その主のことばが心に留まります。実際、ユダとシメオンの部族が上って行くと、主がカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らは1万人を討ち取ることができたのです。すでになされたこととして主が言われたとおり、彼らは、先住民との戦いにおいて勝利したのです。なぜ主は、ユダが上っていくべきだと言われたのか…それについては不明です。後にそのユダ族出身のダビデが王としてイスラエルを治めることと、繋がりがあるのかもしれません。いずれにしても、イスラエルの民が、主が与えると約束されたカナンの地を、実際に自分たちのものにし、そこでの定住生活を始めるためには、恐れずに上って行って、敵との戦いを交えなければならなかったのです。しかしその戦いは、主がそこに介入し、敵を渡してくれる戦いであって、民に必要なのは、強い戦士たちを揃えることではなく、強力な兵器を備えることでもなく、勝利をもたらされる主への信仰であったのです。私たちもまた、出て行くことが求められていますが、恐れずに、「その地を渡した」と言われる主に信頼し、雄々しく戦い、勝利を得る者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所:詩篇 21篇◇(8月4日)

「主よ あなたの御力のゆえに あなたがあがめられますように。 大いなる御力を 私たちは歌い ほめ歌います。」…詩篇21:13

昨日の20篇に続き、詩人は王の歩みについて語っています。王は神の御力を喜び、神がもたらされる救いを楽しみ喜んでいるのです(1節)。そしてそのことを神ご自身も喜ばれ、王の心の望みをかなえ、口に出す祈り、願いを聞き入れてくださるのです(2節)。3-6節における「彼」とは王のことです。「あなたは 幸いに至る祝福をもって彼を迎え 頭に純金の冠を置かれます」(3節)。王は自分のいのちが敵によって奪われないよう、生き延びることができるようにと願い、神はそれに答えていのちを与えてくださるのです(4節)。そして、そのように、神の救いによって王の栄光は大いなるものとされ、威厳と威光が与えられるのです(5節)。王は祝福のうちに歩み、主の御前で喜び楽しむ者とされるのです。「王は 主に信頼しているので いと高き方の恵みにあって揺るぎません」(7節)。王に与えられる神の祝福…それは王がどのような状況にあっても主に信頼し、いと高き方である神が、天から恵みとして注いでくださっているものにほかなりません。王には当然ながら部下がおり、兵士がおり、戦いのための装備もあります。しかしながら王は、自らの力やそれらに信頼するのではなく、何よりも神に信頼しているのです。20章7節の詩人のことばが思い起こされます。そして、そのような王のあり方のゆえに、神は王の敵を退け、滅ぼされるのです。敵が立てていた計略が実現に至ることはないのです(11節)。王の神に対する絶大なる信頼…それは神が創造主であり、主権者であり、その御力は何にもまさって大いなるもの、偉大なものであると知っているからです。そしてそのことは聖書に示されており、またその御力は、主を待ち望む者の歩みに確かに現わされるのです。私たちも、そのことをあらためて覚え、主にある勝利を先取りし、主の御力、救いを、喜び楽しむ者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所:詩篇 20篇(8月3日)

「ある者は戦車を ある者は馬を求める。 しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。」…詩篇20:7

1-5節の「あなた」とは誰のことでしょうか。詩人は9節で「主よ 王をお救いください」と言っています。「あなた」とは王のことであり、この詩は戦いに向かう王を送り出すときのもの、王のためのとりなしのことばだと考えられます。詩人は、主が王を助け、救い、勝利へと導いてくださるようにと、主の介入を求めているのです。「私たちは あなたの勝利を喜び歌い 私たちの神の御名により 旗を高く掲げます」(5節前半)。それまで「~ますように」ととりなしていた詩人は、主が与えられる勝利を信じて先取りし、喜びの歌をもって、また旗を掲げて、主に感謝と賛美をささげようとしています。そして、さらに6節では、「今 私は知る。主が 主に油注がれた者を救ってくださることを」と告白しているのです。その戦いの勝利は、戦車や軍馬の兵力によってもたらされるものではありません。それは、主が天から救いの御手を伸ばされ、油注がれた者を強め、救ってくださるゆえの勝利なのです。7節で「求める」、「呼び求める」と訳されていることばは、前の3版では「誇る」となっています。目に見える戦車や軍馬を求め、それに頼って誇る者は、それらが助けにならずに倒れてしまうのです。しかし、主の御名を呼び求め、主に拠り頼む者は、まっすぐに立つことができるのです。戦いに勝利するのです。戦車、軍馬…それらは戦いに特化した兵器、装備です。それらが多く備わっているのを見れば、これさえあれば敵なし…と、人は安心し、それらを誇り、頼みとするのです。しかし、戦いにおいて私たちが誇るべき、拠り頼むべきは、そのような目に見えるもの、人間的なものではありません。それはこの世界を造られ、今もすべてを統べ治めておられる主ご自身であり、その主の御名によって私たちは戦い、主が与えてくださる勝利にあずかるのです。そのように、苦難にあっても神に拠り頼み、主の御名によって立ち向かう者でありたいと思います。

主の助けと救いがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 16章13-24節◇(8月2日)

「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」…1コリント16:13-14

パウロは、この手紙を閉じるにあたって、コリント教会の人々に対して、やや唐突ながら、念を押すかのようにして、いくつかのことを命じています。「目を覚ましていなさい」。油を用意しないでうとうとしてしまい、花婿が来て慌てた愚かな娘のたとえが思い起こされます(マタ25:1-13)。主イエスが再び来られる日はいつかはわからない…けれども油断せずに目を覚まし、誤った異端の教えに惑わされないよう、常に自らの心を見張っているようにせよ、とパウロは言っているのです。「堅く信仰に立ちなさい」。信仰とはすなわち、神への揺るがない信頼です。そしてその土台は、パウロや弟子たちが宣べ伝えた神の国の福音であり、罪人の贖いを成し遂げられたイエス・キリストご自身なのです。そこにしっかりと立ち続け、主に繋がり続けるならば、私たちの歩みは、揺るがされない確かなものとされるのです。「雄々しく、強くありなさい」。すべての聖徒たちが、自らの弱さに目を留めるのではなく、主にあって強くされ、教会を混乱させ、人々を神から引き離そうとする悪魔に対し、恐れずに立ち向かえと、命じているのです。「一切のことを、愛をもって行いなさい」。「愛がなければ、何の役にも立ちません」というパウロのことばが思い起こされます(13:3)。聖徒たちが主にあって真実に愛し合い、助け合い、とりなし合い、キリストのからだを建て上げるようにと、主は願っておられるのです。「主よ、来てください」(22節)。そのように自らの手で手紙の最後に書き記したパウロ…。彼は、御国の王なるキリストが再び来られ、神の国を完成してくださるのを切望していたのです。私たちも、キリストに贖われた者、神の民として、主の再臨を待ち望みつつ、委ねられた働きを忠実になし続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所:コリント人への手紙 第一 16章1-12節◇(8月1日)

「私は今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」…1コリント16:7

この手紙を書いたパウロは、コリント教会においてさまざまな問題が起こっていることを聞き、心を痛めていました。そして、コリント教会を訪れ、信徒たちと会って話しをし、助言と励ましを与えたいと切望していたのです。それは、言いたいことを手紙で書き送っても、その内容を十分に理解してもらうのには限界がある、顔と顔を合わせて伝えるのが何よりだと思っていたからです。そのようにパウロは、すぐにでもコリントに行きたいと願っていました。しかし、だからといって、宣教の旅の計画を、人間的な思いによって変更することはしませんでした。9節にあるように、エペソでは、実り多い働きをもたらす門が広く開かれており、一方、それを妨害する反対者も大勢おり、そのような中、パウロは、コリントに行くべきかを主に祈り求めた結果、今いるところにとどまることが主のみこころだ…と判断したのです。私たちもまた、前に進むべきか、とどまるべきか…と、悩むことがあります。その際、自分の思いや感情にとらわることなく、直面している問題、周りの状況を踏まえ、祈り深く慎重に検討し、「これが道だ、これに歩め」と言われる主の御声を聴き、確信をもって進む、あるいはとどまることが求められるのです。自分は前に進みたいと願っていても、主が願われるならば、とどまるべきところにしっかりとどまらねばならないのです。自分の願いと計画を主に委ねることが大切なのです。主がお許しになるなら、コリント教会を訪れて滞在したい…。対応を迫られる状況の中で、パウロがそのように主の前にへりくだり、みこころを求め、それを優先させたあり方に心が留まります。こうしたい、こうあるべきだ…と、自分の思いで突き進みがちな私たちですが、主の前にそれを手放し、最善をなされる主の御手に委ね、確かな主の導きに従っていく者でありたいと思います。

進むべき道を主が示されますように。