◇聖書箇所: 詩篇 67篇◇(12月31日)

「あなたの道が地の上で 御救いが すべての国々の間で知られるために。」…詩篇67:2

詩人は神に願い、祈り求めています。「どうか 神が私たちをあわれみ 祝福し 御顔を私たちの上に 照り輝かせてくださいますように」と(1節)。そしてそれは、続く2節にあるとおり、単に自分たちが神の祝福にあずかって繁栄し、その豊かさを味わい、楽しみ喜ぶことではないのです。神が、自分たちを通して、すべての国々の人々にもご自身を現わし、歩むべき道を示し、罪と死とさまざまな恐れから解放し、救い出してくださるようにと、詩人は切望しているのです。「あなたが公平に諸国の民をさばき 地の国民を導かれる…」(4節)。詩人はまた、神がそのように祝福をもたらす方であると同時に、公正なさばきをなされる方であること、すなわち、神に背を向けて身勝手に歩んでいる者たちが神に退けられてしまうことを、諸国の民が知るようにと願っているのです。そして、罪と悪に満ちた彼らに虐げられながらも、ひたすら神に拠り頼んで歩んでいる者たちが、自分たちを顧みてくださる神をほめたたえ、喜び歌うことができるようにと願っているのです。「大地はその実りを産み出しました」(6節)。地の産物、実りは、まさしく神の祝福であって、それは神が、ご自身のみこころにかなう被造物すべての上に与えられるものです。そしてその神が、自分たちをもみこころにかなう者とし、祝福してくださるように、そのことを通し、地の果てに及ぶすべての人々が、祝福とさばきをもたらす神を知り、畏れ、求め、ともにその祝福にあずかる者となるようにと、詩人は願っているのです。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」。ヤベツもまたそのように祈りました(1歴4:10)。私たちも、自分たちが神の祝福の基とされ、多くの人々が自分たちを通して神を知り、求め、救いを受けることができるように、ともに神の国の豊かな祝福にあずかる者とされるようにと、とりなし祈りたいと思います。

諸国の民が主をほめたたえますように。

◇聖書箇所: 詩篇 66篇◇(12月30日)

「もしも不義を 私が心のうちに見出すなら 主は聞き入れてくださらない。しかし 確かに神は聞き入れ 私の祈りの声に耳を傾けてくださった。」…詩篇66:18-19

「不義」とは何でしょうか…。不義とは神の前に正しくないことです。それは私たちのうちに生まれつき宿っている罪と同じではありません。私たちが、心の中にある悪い考え、神のみこころとは異なるものを持ち続けるなら、それはやがて不義のことばや行いとなって外に現れ、神を悲しませ、また怒らせることになってしまうのです。詩人は自分が罪深い者であることを自覚していました。その上で、神のみこころから外れた道を歩むことがないように、不義を心に抱き続けることがないように、そのことを神に切に願い求めていたのです。そして、主があわれんでくださり、弱い自分を助けてくれると信じ、その神に感謝と賛美をささげ、あがめていたのです(17節)。主はそのような詩人に目を留めてくださいました。その態度、あり方を良しとされ、喜ばれ、彼の心に不義はないと、認めてくださったのです。だからこそ、詩人のその願いを聞き入れ、詩人のさまざまな祈りに、耳を傾けくださったのです。恵みを注いでくださったのです。主イエスが話されたたとえの中で、パリサイ人は、「この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し…十分の一を献げております」と心の中で祈り、自分が不義でないことを主張しました。しかし取税人は、「神様、罪人の私をあわれんでください」と、胸をたたいて自らの罪深さを認め、あわれみと助けを神に求めました。そして主イエスは、「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です」と言われました(ルカ18:9-14)。そのように、自分は正しいと言い張るのではなく、自分の罪深さを認め、神のあわれみをひたすら求める者を主は受け入れ、不義はないと言ってくださるのです。キリストにあって罪赦され、義とされていることを感謝しつつ、ますます自分を低くして、日々、主のあわれみを待ち望む者でありたいと思います。

主の恵みを覚えることができますように。

◇聖書箇所: ユダの手紙 1章1-16節◇(12月28日)

「あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。」…ユダ1:5

この手紙の著者であるユダは、1節にあるようにヤコブの兄弟であり、そのヤコブもユダも、主イエスの弟であったとされています(マタ13:55)。手紙の内容は、ペテロの手紙第二のそれに近く、神の恵みを放縦に変えて歩み、イエス・キリストを否定さえする不敬虔な者ども、異端者たちが人々を惑わしていることに危機感を持ったユダが、聖徒たちに対し、「伝えられた信仰のために戦うよう」(3節)にと、この短い手紙を書き送ったのです。その中でユダは、「思い起こしてほしい…」と、奴隷として苦しんでいたエジプトから脱出したものの、荒野での試練に不平を漏らし、約束の地カナンに結局入れなかった先祖たちのことを忘れるな…と訴えています。この手紙が書かれた当時にも、迫害や困窮や間違った教えなどの試練がありましたが、そのような状況において、聖徒たちがキリストへの信仰を捨て、滅びる者となってしまうことがないようにと、彼は強く願っていたのです。6-7節には、暗闇の下に閉じ込められた御使いたちや、永遠の火の刑罰を受けたソドムとゴモラのことが書かれていますが、両者とも「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた」(6節)のだと、ユダは指摘しています。人のうちに生じるさまざまな欲求は、それ自体悪いものではありません。しかし、私たちが神のみこころに反し、定められた領分を守らずにその境界線を越えるなら、それは神に喜ばれない「不自然な肉欲」となるのです。「風に吹き流される雨無し雲、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木…」と、不敬虔な者どもをユダは厳しく批判しています(12-13節)。そして読者に対し、そんな彼らに惑わされるなと警告しているのです。いつの時代にあっても、私たちが従うべきは、闇を照らし、真理を示す、神のみことばです。ますます主から教えられ、主の道を歩み続ける者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: テトスへの手紙 3章◇(12月27日)

「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」…テトス3:5

パウロはさらにテモテに対し、人々に注意を与えて、彼らが支配者や権威者たちに服従し、また、人と争わず、柔和で、礼儀正しい者となるように指導せよ、と命じています。それらのことを「良いわざ」として、聖徒たちが進んで行なう者となることが神のみこころなのです。「良いわざ」…。しかしそれは、この世の倫理感に基づくものでも、ヒューマニズムに根差すものでもありません。そのような意味での正しさや他者への善意も大切ですが、それらは時に神のみこころとずれたものになってしまいます。つまりそれらが、みことばに根ざし、主に従う思いから出て来るものでないなら、単なる私たちの「自己満足」で終わってしまうことがあるのです。「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり…人から憎まれ、…互いに憎み合う者でした」(3節)。そう書いたパウロはおそらく、自分が聖徒たちを迫害し、それが神に喜ばれることだと思い込んでいた過去を思い返していたことでしょう。彼は、確かにそのときは、それが神のための「良いわざ」だと信じていたのです。しかしそれは、主の御声に従ったことではなかったのです。5-6節のことばが心に留まります。どんな「良いわざ」であれ、それは私たちの救いのための鍵ではありません。私たちが罪赦され、義なる者として認められるのは、あくまでも神のあわれみのゆえであるからです。そしてその救いは、キリストにあって私たちに注がれた聖霊による、再生と刷新の洗いをもってなされたことなのです。そのようにして私たちは、キリストの贖いによって、古い自分に死んで新しく生まれました。しかしその救いはまだ完成していません。私たちはなお、主の似姿へと日々造り変えられ、この世にあって、良いわざに励む者、主の御旨を行なう者、御国の祝福の相続人(7節)として用いられていくのです。そのことを覚えたいと思います。

主にすべてを委ねることができますように。

◇聖書箇所: テトスへの手紙 2章◇(12月26日)

「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」…テトス2:14

「しかし」という1節のことばは、1章の最後の、汚れた不信仰な者たちが神の教えに従順に従おうとせず、どんな良いわざにも不適格だとあるのを受けています。「しかし」、テモテよ、あなたは忍耐をもって、健全な教え、すなわち神のことばを語り続け、教会の信徒たちが神の前に正しくあるよう導き続けよ、委ねられた牧会の働きを全うせよ、とパウロはテトスを励ましているのです。ここでテトスは、年配の男性、年配の女性、若い人々と、それぞれに対する教えとして、具体的な内容を挙げて指導するようにと求められています。そしてそれは、彼らが社会や家庭や教会において、聖徒としてふさわしく、人々に良い影響を与える者となるため、何よりも神があがめられ、神の国が拡げられるためであって、そうではない歩みの中にある者たちを戒める必要があったのです。さらにパウロは、奴隷の立場にある聖徒たちに対しても、教え、指導するように促しています。彼らの中には、主人に口答えして従おうとしなかったり、盗んだりする者もいました。しかし彼らもまた、自分たちの主人の上におられるキリストのしもべであって、何よりもその主を畏れ、主に忠実に仕え、神の教えを実践することにより、それを「飾る」、つまり体現する者とされるのです。「また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち」(7節)。パウロはそのようにテトスに命じています。また14節にも「良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとして」とあります。聖徒たちがそれぞれ遣わされたところで、神のことばに従って良いわざに励むなら、宣教の働きは前進し、神の国は拡がっていくのです。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがの父をあがめるようになるためです」と主イエスも言われました(マタ5:16)。そのような者でありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 2章13-23節◇(12月25日)

「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。」…マタイ2:14-15

「これは、主が預言者を通して…語られた事が成就するためであった」(15節)と、マタイは繰り返し記しています(17,23節)。起こった事柄一つ一つだけを見れば、脈絡のない独立したことのようにも思えますが、そうではないのです。実はそれらは、主の御手の中でなされた繋がりのある一連の出来事であり、主権者なる主ご自身が計画し、事を進められ、時至って成就したことなのです。またマタイは、ヨセフが夢の中で、主の使いを通して神から語られ、取るべき行動を具体的に指示されたことを、繰り返し伝えています(13,19-20,22節)。そして、指示を受けたヨセフは、疑ったり、自分の考えを優先させたりすることなく、その命令に従ったのです。「そこで」(21節)ということばが、ヨセフの従順さを示唆しています。そのように、いつの時代においても、神の国の働きは主ご自身により計画され、実現に至りますが、その一方で、主が人に語り、命じ、それに従順に従う者を通して、主の計画が具現化していくという側面もあることを、あらためて教えられます。聖書には、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とある一方で、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタ24:21)と、主人から預かった財産を殖やす努力をしたしもべが称賛されるという、主イエスによるたとえもあるのです。夢、幻、みことば、御霊の語りかけ…。主はさまざまな方法をもって、私たちに御旨を示してくださいます。そして主は、それに従順に従う者たちを用いて、ご自身の御国を拡げられるのです。主から委ねらた自らの働きを全うすることが求められている、そのことを主が喜んでくださる、ということを覚えたいと思います。

従順で忠実な良いしもべとされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 2章1-12節◇(12月24日)

「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」…マタイ2:11

当時、ユダヤの国を支配していたローマ帝国は、そこを治める王としてヘロデを任命していましたが、彼の晩年にイエスが生まれました。すると、星が昇るのを見てそのことを知った東方の博士たちは、幼子イエスを礼拝するために、はるばるユダヤの国へやって来たのです。エルサレムに着いた博士たちは、その幼子がいる場所を人々に尋ねましたが、誰も答えられませんでした。それを知ったヘロデは、学者たちに尋ね、ベツレヘムという小さな村だと預言されている、ということを聞き出すと、博士たちにそれを伝え、行ってその詳しい場所を教えてほしい、自分も行って拝むから…と言ったのです。しかしそれは真っ赤な嘘でした。ヘロデは「ユダヤ人の王」となる者が生まれたと聞き、王位が奪われることを恐れ、その幼子を殺そうと企んでいたのです。そしてそんな彼とは対照的に、東方の博士たちは、時間とお金を費やして長い道のりを旅し、メシア、油注がれた王、全世界の救い主として生まれたイエス・キリストに会い、礼拝するために、ユダヤの国までやって来たのです。その道中は決して安全ではありません。山賊に襲われる恐れがあったのです。しかし彼らはそのことを承知の上で、危険を顧みず、自分たちが持てるものを献げ、幼子イエスの元にやって来て、ひれ伏して礼拝したのです。その博士たちの身は守られ、また王にささげるために彼らがたずさえてきた、黄金、乳香、没薬といった高価な贈り物も、強盗に奪われることはなかったのです。そしてそれは、主の守りと導きがあったからなのです。自らの保身を求めて、まことの王として生まれた幼子を殺そうとした身勝手なヘロデ…。危険が自分たちの身に及ぶことを知った上で、長い道のりを旅し、王の前にひれ伏して贈り物を献げ、礼拝した博士たち…。私たちもその彼らのように、王なる主を求めたいと思います。

キリストを礼拝する民が増し加えられますように。

◇聖書箇所: テトスへの手紙 1章◇(12月21日)

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」…テトス1:9

パウロは、この手紙を、地中海の島クレタにいる同労者テトスに宛てて書き送りました。そのテトスは、パウロによってクレタに残され、そこにいる信者たちの指導を託され、特に、教会を本来あるべきものとするために、それにふさわしい長老や監督を立てるという、重要な役割を担っていたのです。当時、クレタの信者の中には、指導者に反抗的な者や、無益な話をして徳を下げる者や、儀式や割礼といったユダヤ教的なものを聖徒たちに強要する者がおり、そのような者たちから悪い影響を受けた人々には分裂が生じ、家庭が崩壊する事態にさえなっていたのです(10-11節)。そのような中にあって、パウロがテモテに対して求めていたこと、それは何よりも、信頼すべき聖書のみことば、歩むべき神のみこころの道をしっかりと信者たちに伝え、その健全な教えをもって励まし、また反対者たちに対抗し、彼らを厳しく戒めるということであったのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」(ヘブ4:12)。いつの時代においても、神の教えとは相容れない、人間的、この世的な考えややり方が、教会の中に、聖徒たちの思いの中に入り込んで来ようとします。サタンはそれがあたかも正しいことであるように思わせ、人々を巧妙に神から離れさせようとするのです。そのような中、私たちは、そのことに対応するために、神のことばを剣としてしっかりと握り、それらのものが神からのものであるのかを吟味し、見分ける必要があるのです。教会の歩みが、私たちの信仰が健全なものとされるよう、そのことをますます追い求めていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 7章◇(12月20日)

「私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。」…ミカ7:8

1-6節には、民の間に蔓延する悪と不正が明らかにされています。神を畏れ、正しく歩もうとする敬虔な者はおらず、役人たちは賄賂を人々に強要し、有力者は事をねじ曲げ、友人や家族も互いに裏切り、侮り、逆らい合い、友好や信頼はすっかり失われているのです。公正を行い、誠実を愛する(6:8)者たちは、そこにはいないのです。そのような中にあってミカは、世の流れに逆らって孤軍奮闘するかのように、「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる」(7節)と告白しています。彼は「私の神」と、偉大な神を個人的な近しい存在として呼んでいますが、それは彼が、その神との深い交わりの中に、いつも身を置いていたということを示唆しているのです。しかしそれは、ミカが他の人のようにではなく、常に正しく歩み、それが神に認められ、喜ばれていたということではありません。彼は、「私は主の激しい怒りを身に受けている。私が主の前に罪ある者だからだ」(9節)とも告白しているのです(9節)。そのようにミカは、自分もまた罪人であり、さばかれて当然だと思いつつもなお、主があわれみ、救ってくださるのを待ち望んでいるのです。「…主は私を光に連れ出してくださる。私は、その義を見る」(9節)。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハ1:4-5)。ミカのことばにヨハネのことばが重なります。神は愛とあわれみに満ちたお方であって、御自身に背く罪人への怒りを収められ、罪の奴隷から解放して救い出してくださるのです(18節)。その主は光に満ちたお方であって、神を求める者たちを、闇から光へ、滅びからいのちへと、召し出してくださるのです(1ペテ2:9)。「主が私の光だ」。私たちもまたその告白をもって、主の光の中を歩み続けたいと思います。

主を待ち望むことができますように。

◇聖書箇所: ミカ書 6章◇(12月19日)

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」…ミカ6:8

8節のみことばはミカ書の中で良く知られていますが、その前後の流れを踏まえて読むと、あらためて見えてくるものがあります。何が良いことなのか…主は何を求めておられるのか…。6-7節には、全焼のいけにえを主にささげるだけでなく、自らの罪のために子どもをささげることが言及されており、当時、イスラエルの民が、他国の異教的な教えに影響されていたことがわかります。そのような儀式的なことを、形式的ないけにえを、神は決して求めておられない…。そうではなくて、公正を行い、誠実を愛することが求められている…。10節以下には「升目不足の升、不正な秤、欺きの重り石の袋…」と、そのようなものを使って人々からだまし取る悪者について記されていますが、神を畏れ、悪から離れ、神の目に良いこと、神に喜ばれることを追い求める者こそ、神のみこころにかなう者、神に喜ばれる者なのです。公正を行い、誠実を愛する…。それは、人との関わりにおいて求められるあり方ですが、そのためには、何よりもまず、主との関係において求められていること、すなわち、へりくだって、主とともに歩む者となるべきなのです。そしてそれは、自らの罪深さ、弱さ、足りなさを主の前に素直に認め、その弱さのうちに御力を現してくださる主を求めて御前に進みゆき、主を心の王座にお迎えする、主権を完全に明け渡すということなのです。イエス・キリストは、インマヌエル、私たちとともにおられる方として預言のとおりに来られ(イザ7:14,マタ1:23)、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいると、約束されました(マタ28:20)。私たちは、そのことを感謝しつつ、主の御前に進んで身を置くことが必要なのです。神とともに歩むことの幸いを覚えたいと思います。

主との親しい交わりの時が与えられますように。

◇聖書箇所: ミカ書 5章◇(12月18日)

「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために イスラエルを治める者が出る。…」…ミカ5:2

主がベツレヘムの町に向かって語られた2節のことばは、ユダの国の中で決して大きくはないその町から、イスラエルを支配し治める者、すなわち王が生まれ出るという預言です。キリストが生まれたとき、東方の博士たちはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねましたが(マタ2:2)、それは、王が誕生する場所は、王宮のあるエルサレムに違いないと、彼らが考えたからです。しかし、実際にはそうではありませんでした。ミカを通して語られた預言のとおり、まことの王であるキリストはベツレヘムで生まれ、その預言は学者たちによってヘロデ王に伝えられました(マタ2:5-6)。エルサレムの王宮の中の寝台ではなく、小さな町の家畜小屋の飼葉桶こそ、貧しい者、虐げられた者、罪に縛られた者たちを解放する、救い主にふさわしい誕生の場所であったのです。ミカのその預言、主の約束は、主イエスの誕生によって現実のものとなりました。しかしその完全な成就はまだなされていません。なぜなら、神が選ばれたユダヤの民が、メシアであるイエス・キリストを、イスラエルを治めるまことの王として信じて救われるのは、キリストが再びこの地に来られるときだからです。2千年前、主イエスは多くの人々を罪や病や悪霊から解放されましたが、地上的な王をあくまで求めたユダヤの民衆は、宗教指導者にそそのかされ、イエスを十字架につけました。しかしそれは神のご計画であって、ユダヤの王は世界の王となられ、ユダヤ人から始まった神の救いと祝福は、地の果てのすべての国民まで及び、イスラエルの残りの者たちも、それを自分たちのものとして受け取るのです。それはもう始まっており、終わりの日に完成するのです。私たちがすでに神の民とされていることを感謝しつつ、そのためにとりなしたいと思います。

キリストが王としてあがめられますように。

◇聖書箇所: ミカ書 4章◇(12月17日)

「まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む。」…ミカ4:5

4章から5章にかけては、メシアによって建てられる神の王国の祝福が語られています。それは、やがて来る終わりの日において完成するものですが、同時に、メシアがイエスとなってこの地に来られ、その主の贖いのみわざによってもたらされた神の国において、すでに実現していることです。そしてそれは、そこに招き入れられるすべての民が、今の時代にあっても受け取ることができる、霊的な祝福であるのです。「すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む」。自分たちの祖先たちが信じて来た神…その神に手を合わせ、願をかける…。宗教心の薄いこの日本にあっても、正月になれば多くの人が、あたりまえのように初詣でに出かけて行きます。また世界の国々には無数の「神々」が存在し、人々はそれぞれ、自分たちの神に頼って歩んでいるのです。「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩む」。「主」と太文字で書かれているのは、原典のへブル語の聖書における「ヤーウェ」、つまりイスラエル、ヤコブ、イサクの神、ユダヤ人たちが信じている、唯一まことの神を指しています。その神である主が、バビロンによってエルサレムの町が破壊され、御自身の民が捕らえ移されてしまっても、敵の手から贖い出してくださるのだと、ミカは、後に実際に起こることを告げているのです。そしてそこには、主の聖徒たちに与えられる救いの完成と、サタンに対する神の最終的な勝利が暗示されているのです。「多くの国々が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう」」(2節)。そのように多くの異邦人も主を求めてやって来るのです。歩むべき道を教えられ、そこを進もうと言うのです。そしてその道は天の御国へと至る道なのです。そのことを覚えたいと思います。

神の国がさらに拡がっていきますように。

◇聖書箇所: ミカ書 3章◇(12月16日)

「しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げる。」…ミカ3:8

3章では、南ユダ国の指導者たちに対する神のさばきのメッセージが語られています。指導者とは、政治的な指導者である王などの権力者であり、また、霊的な指導者である預言者や先見者たちのことです。彼らは、本来、神のことばを聴き、それによって民を正しく指導し、導き、国に繁栄と安寧をもたらす責任を負っているにもかかわらず、むしろ自分たちが繁栄するために、立場の弱い者たちから搾取していたのです。「彼らはわたしの民を惑わし、かむ物が歯にあれば『平和があるように』と叫ぶが、口に何も与えない者には聖戦を布告する」(5節)。その意味は、預言者たちが、自分たちに食事を提供してくれる者には耳障りのいいことばを語るのに、そうでない者たちには冷淡な態度を取り、罵るようなことばを浴びせるということです。神のことばを民に語るはずの預言者たちが、いかに欲深く、自己中心であるかがわかります。そして、そのように神のみこころに反した彼らは、闇に覆われてしまうのです(6節)。そのような中でミカが、「しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている」と語っていることに心が留まります。彼は、偽預言者たちのようにえこひいきしたり、迎合したりせず、神に背いている民の罪を、断固非難するのだと告白しているのです。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使1:8)。主の証人となるということは、主が自分になしてくださった救いのみわざの事実を、人々に喜びと確信をもって語り告げることであり、そのために、主の霊に満たされ、力と勇気が与えられ、恐れずに出て行く者とされるのです。それは、すべての聖徒たちに対する主の約束なのです。そのことを覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 2章◇(12月14日)

「ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。」…ミカ2:12

2章においてミカは、金持ちが貧しい者を食い物にしていることや、多くの者が主に背いていることを糾弾し、そのような悪と罪のゆえに神はさばかれる、神に立ち返れ、そうしないと滅びる…と民に警告しています。そしてその流れの中で、やや唐突に、神の民の解放についての預言が、12-13節で語られているのです。「…わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める…」。主がそのようにされる理由、それは彼らを守るためです。「囲いの中の羊のように」とありますが、羊を狙う悪しき者、悪魔は、「イスラエルの残りの者」たち、すなわち周りに影響されず、神を畏れ、主の御旨に従って歩んでいる人々に、他の者たちと同じように、不法や偶像礼拝をさせようと、さまざまな形で誘惑してくるからです。またそのもう一つの理由、それは彼らを養うためです。悪と罪に満ちた環境の中で、残りの者たちのたましいの飢え渇きが満たされ、霊的に養われるために、良き羊飼いである主は、ご自身のみことばを霊の糧として与え、いのちの水を飲ませて渇きをいやしてくださるのです。「打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。…主が彼らの先頭を進む」(13節)。「打ち破る者」…それは、残りの者たち、主に立ち返る者たちを敵の手から解放し、ご自身の元へ、エルサレムへと帰還させてくれる存在です。またそれは、全人類を罪の奴隷から解放してくれるメシア、イエス・キリストを示唆しているのです。私たちはそのキリストに贖われ、凱旋の行列に加えられ、多くの聖徒たちとともに、天の御国に向かって行進しているのです。そしてその先頭を進まれるのは、王であられるキリストなのです。そのことを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ミカ書 1章◇(12月13日)

「このゆえに、私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。私はジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣く。」…ミカ1:8

ミカは、1節にあるとおり、南ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世の時代における預言者であり、預言者イザヤと同時代に生きた人物です。彼は、ペリシテとの国境に近い、ユダ南西部の町モレシェテ・ガテ(14節)の出身で、イスラエルの首都サマリア、またユダの首都エルサレムへの主のさばきと回復について、主から見せられた幻を語り、王や民に対して警告を与えているのです。まず、イスラエルへのさばきが語られています(5-7節)。またそれは、ユダへの警告ともなっています。サマリアは野にある瓦礫の山、ぶどう畑とされるのです。そしてそれは、「刻んだ像」、人の手による偶像を、民が慕い求めた罪がもたらす悲惨な結果なのです。天地万物を創造され、世界を統べ治めておられる主権者である神に背を向け、強大な帝国からの圧力に対して、偶像の神に頼り、またエジプトなどとの同盟関係に活路を見いだそうとする国のあり方は、神が忌み嫌うものなのです。8節以降にはユダへのさばきが語られています。10-16節は主ご自身のことばです。ここでの「侵略者」(15節)とはアッシリアを指しています。アッシリアはのちにユダにも侵入し、国はなんとか滅亡を免れましたが、多くの町が攻略され、ユダの若者たち、喜びとする子らは、捕囚として取り去られてしまうのです。そして、そのことを主から示されたミカは「私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く…」と語ったのです。ミカが、国の運命を自らのことのように深刻に受けとめ、民の痛みと悲しみを先取りし、なんとかそれを、ことばだけでなく、自らの姿で表そうとしていることに心が留まります。そしてそれは、主に贖われ、キリストの弟子とされた聖徒たちが、「預言する」者、すなわち神のことばを預かって人々に伝える者として、求められているあり方なのです。そのことを覚えたいと思います。

委ねられている働きが祝福されますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 66章15-24節◇(12月12日)

「わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、-主のことば- あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。」…イザヤ66:22

「エルサレムとともに喜べ。…彼女とともに楽しめ…喜び喜べ」とイザヤは、主を畏れ、主のことばにおののき、それに聞き従う者たちに対して語っています(10節)。それは、主の愛する聖なる都エルサレムが、他国により蹂躙され、廃墟とされても、主ご自身がその都の繁栄を回復してくださる時が必ず来るからです。12節以降はそれについての主のことばで、その時になされるさばきが、イザヤによる描写として15-16節に挿入されています。その主のみこころは、エルサレムの回復、イスラエルの救いだけでなく、すべての国民が贖われることです。主はそのためにメシアを遣わし、彼を信じて贖われた者は主の栄光を見るのです。またその者たちを通して主は、偉大なご自身のみわざを現わされるのです。さらにその者たちを、異邦人であっても祭司、レビ人、すなわち神と人との間に立って祈りとりなす者、また、主への礼拝の奉仕にあたる者として用いられるのです(18-21節)。「わたしが造る新しい天と新しい地」…。65章17節にも同様の主のことばがありますが、それは、ヨハネも幻として見ていた、終わりの日にもたらされるものです。そしてそれは、アダムが罪を犯したことによって、主がこの世界に対する救いを計画され、やがて今の天地を再創造されるということであり、その前に、ご自身の民をすべての国民の中から起こすために、神は、メシアとして御子を遣わし、十字架につけ、死からよみがえらせて、罪を持ったすべての人の贖いを成し遂げられたのです。そのキリストは、王の王、主の主として世を完全に統べ治め、悪しき勢力に勝利し、新天新地をもたらすために、再びこの地に来られます。「マラナタ」、主よ来てください…。主の約束のことばを心に留め、忍耐と希望を持ち、主を待ち望んで歩み続けて行きたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 66章1-14節◇(12月11日)

「…わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」…イザヤ66:2

「あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか」(1節)。主はそのように問いただしておられます。それは、バビロン捕囚からの期間後に建てられようとしていた第二神殿のことかもしれません。あるいはまた、終末において反キリストが建てようとする、第三神殿のことを示唆しているのかもしれません。いずれにしても、「いったいどこにあるのか」という主のことばから、その主の宮、神殿は、主が喜ばれるものではないことが明らかです。2節後半から4節には2種類の人々が出てきます。はじめの人々は、主が目を留められる者であり、自分の罪深さ、弱さを認め、霊が砕かれており、主を畏れて、みことばに聞き従う者たちです。一方、あとに書かれている人々は、主にいけにえやささげ物を献げて敬虔そうに見えても、実は人を打ち殺し、偶像をたたえる者であり、神を畏れず、自分の道を歩み、罪に満ちた忌まわしいことを行っている者たちであって、そのような者たちが建てようとする神殿であるからこそ、主は、わたしの家はどこか…と追及しておられるのです。いつの時代にあっても主は、ご自身が臨在を現し、住まわれるのにふさわしい主の宮を求めておられます。主が問われるのは、目に見えるその建物の立派さではありません。何よりもそれを建てる者の心、あり方であり、また、それをどのような土台の上に、何によって建てるかであるのです。パウロは「…その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります…あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」と言っています(1コリ3:11-16)。そのことを覚え、ますます主を畏れ、主のことばにおののき、自分自身をキリストにあって建て上げていく者でありたいと思います。

主の道を選び続けることができますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 65章16-25節◇(12月10日)

「だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」…イザヤ65:18

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない」(17節)。そのように主は告げられました。その新しい天と地とは、のちに使徒ヨハネが主から幻として見せられたものに違いありません。また彼は、そこでは、神が人々の目から涙をぬぐい取ってくださり、「悲しみも、叫び声も、苦しみもない」と言っていますが(黙21:4)、確かに主は、「そこではもう、鳴き声も叫び声も聞かれない」と、ご自身の約束のことばとして語っておられたのです(19節)。「見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし…」。「創造」とありますが、主は新しいエルサレムをもたらされるのです。ヨハネもこう言っています。「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが…神のみもとから、天から降ってくるのを見た」(黙21:2)。そしてそこに住む人々は、主に贖われた聖徒たちであり、主はその民を楽しみとされるのです。その一人ひとりと親しく交わることは、主にとって大きな楽しみ、喜びであるのです。そこでは狼と子羊、獅子と牛がともに草や藁をはみ、食事をするとありますが(25節)、そのあり得ないような光景を、イザヤも主から幻として見せられ、すでに語っていました(11:6-8)。そこには弱肉強食の関係はなく、傷つけ合う争いもなく、すべての被造物は主の全きご支配のうちに生かされて共存、共生し、平和が満ちているのです。主のみこころだけがなされているのです。罪と悪に満ち、闇に覆われたこの世にあって、ともすれば、私たちの心は押しつぶされそうになります。しかし、主が語られたそのような世界が約束されていること、それがキリストによってもたらされた神の国の完成であり、そこに向かって私たちが導かれていることを覚えるなら、私たちは感謝と喜びと希望が与えられるのです。さらに主を待ち望みつつアドベントを過ごしたいと思います。

主がくださる平安が心にありますように。

※聖書日課表の箇所がイザヤ書65章16-20節となっていますが、25節までの誤りです。お詫びして訂正いたします。

◇聖書箇所: イザヤ書 65章1-15節◇(12月9日)

「見よ、わたしのしもべたちは 心の底から喜び歌う。しかし、おまえたちは心の痛みによって叫び、霊に傷を受けて泣き叫ぶ。」…イザヤ65:14

65章は、64章12節に書かれている、民の代表としてのイザヤのことば、「主よ。それでも、あなたはじっとこらえ、黙っていて、私たちをこんなに苦しめるのですか」という訴えに対する答えとして、主ご自身が語られている章です。そしてそこでは、神の祝福が約束されている者たちと、そうでない者たちが示されているのです。1節の「わたしを尋ねなかった…探さなかった者たち、わたしの名を呼び求めなかった国民」とは、異邦人のことです。そして異邦人は、2節以降に書かれているイスラエルと対比されています。神の民である彼らは、主から手を差し伸べられたにもかかわらず、自分の考えに従って良くない道を歩み、主の怒りを引き起こしたのです。その両者の対比は、さらに13-14節において、「わたしのしもべたち」と「おまえたち」という表現でなされています。そして、主のしもべたち、すなわち主のことばに従順に聞き従う者たちは、主が養ってくださるので、十分に食べて飲むことができるのです。しかし、おまえたちと呼ばれる、主に逆らう者たちは、そうすることができず、飢え渇いてしまうのです。また両者の違いは内面にまで及び、主のしもべたちは心の底から喜び歌うのに対し、主に逆らう者たちは、心の痛みとたましいの傷のゆえに、泣き叫ぶこととなるのです。主に逆らい「おまえたち」と呼ばれる者たち…。それは、自分の考えを正しいとし、神以外のものに拠り頼んで歩んでいるすべての人々を意味しています。かつては私たちもそうでした。満たされず、飢え渇き、痛みと傷を負い、そのような中でキリストと出会い、救われたのです。主がご自身のことばとして語られた異邦人の救いは、実現したのです。主のしもべ、神の民として加えられたことをあらためて感謝しつつ、先に救われた者として、その喜びを、人々に伝えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 64章◇(12月7日)

「あなたは会ってくださいます。喜び、正義を行う者たちに。彼らは、あなたの道であなたを心に留めます。…」…イザヤ64:5

64章は63章からの続きであり、そこには引き続き、主に向かってのイザヤの懇願の祈りが記されています。「あなたが天を裂いて降りて来られると、山々はあなたの御前で揺れ動きます」(1節)と、彼は、主がご自身の義をもって諸国の民にさばきをなされるとき、人々は震えおののいて揺れ動かされるのだと言っているのです。しかし、そのような中で、主に覚えられる者たちがいることをイザヤは確信しています。主は、ご自分を待ち望む者たちに会って(「迎えて」:3版)くださるお方であって、少数のその者たちは、たとえ周りがそうでなくても、神の教えを喜びとし、神のみこころ、正義を行い(5節)、神がご自身の民をあわれみ、顧みてくださることを切望している者たちなのです。そして神は、確かに彼らの期待に応えてくださるお方なのです。けれども、残りの多くの者が罪を犯し続けており、人々の義が不潔な衣のようだと感じているイザヤは、不安になり、「それでも私たちは救われるでしょうか」と、神のあわれみにすがる思いで尋ねています(5-6節)。揺れ動いているイザヤの心が伝わってきます。そして彼は、否定的な思いを振り切るようにして、「しかし、今、主よ」と、創造主である主を見上げて、こう告白したのです。「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです」(8節)。陶器師である主は、罪深い私たちをも造り変えることができるのです(エレ18:4)。それは、人の努力ではなし得ない、創造主なる神のわざなのです。「私たちは救われるでしょうか」とイザヤは尋ねましたが、主の一方的な愛とあわれみによって、私たちは救われるのです。だれでも自らの罪を認め、陶器師である主の元に立ち返るなら、罪赦され、みこころにかなう者へと造り変えられるのです。そのことを覚え、感謝したいと思います。

主を待ち望んで歩む者とされますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 63章◇(12月6日)

「主よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。」…イザヤ63:16

1-6節は対話となっています。「エドムから来るこの方はだれだろう」と思い巡らすイザヤに対して主は、「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者」と答えられ、さらに、「なぜ、あなたの装いは赤く…」とイザヤが尋ねると、「わたしは怒って彼らを踏み…彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり…装いをすっかり汚してしまった」と、主は語られたのです。その「彼ら」とはだれのことでしょうか…。「エドム」とは神の民に敵対する存在の象徴であり、イスラエルを助けず支えようとしない(5節)諸国の民のことです。またそれは、メシアなるイエス・キリストの救いを人々に告げ知らせるという、異邦人を含む聖徒たちによる宣教の働きを妨害する、反キリスト者たちのことです。キリストは、終わりの日に再びこの地に来られ、その者たちに対して、「ぶどう踏み」、さばきをなされるのです。イザヤはそのことを、主のことばとして別のところでも記しています。「まことに、天でわたしの剣は血に浸されている。見よ。これがエドムの上に、わたしが聖絶すると定めた民の上に下る」(イザ34:5)。また、使徒ヨハネも彼の書いた黙示録の中でこう語っています。「この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。…全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である」(黙19:15)。7-9節においてイザヤは、主の豊かな愛と恵みとあわれみ、また、主が神の民のためになされた奇しいみわざを覚えて、感謝と賛美をささげています。主は、ご自身の民が苦しむときにはともに苦しまれ、疲れ果てたときには背負ってくださるお方です(9節)。おりにかなう助けを与えてくださるのです。そのように主は、ちっぽけな私たち一人ひとりにも真実に関わってくださり、日常の事柄の中にも介入して導いてくださるお方なのです。その主にますます信頼して歩んでいきたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 62章◇(12月5日)

「若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」…イザヤ62:5

聖なる神の都エルサレム、シオンの町に向かって、イザヤは繰り返し「あなた…」と呼んで語っています。それは擬人法による表現だとも言えますが、イザヤはエルサレムの町を、物理的な場所としてだけでなく、神の民の共同体として見ていたに違いありません。だからこそ彼は、「あなたは、追い求められる者、見捨てられることのない都と呼ばれる」(12節)と告げたのです。「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」(5節)。花婿は神、花嫁はエルサレム、神の民の共同体を意味しています。神はご自身の都と民を喜ばれるのです。エルサレムは、バビロンやローマの手によって滅ぼされ、人々は捕囚となり、あるいは各地に離散しましたが、神はそのシオンの娘を見捨てることなく救い出し、彼らは聖なる民、主に贖われた者と呼ばれるのです。それは、すでに起こり、今も起こり、やがて完全になされることであって、メシアの贖いのわざにほかならないのです。そのメシア、イエス・キリストによって、私たちは救われ、キリストのからだなる教会に加えられました。教会もまた、単なる建物ではなく、キリストに贖われ、召し集められた聖徒たち、神の民の共同体を意味するのです。また教会はキリストの花嫁とされているのです(エペ5:25-32)。エルサレムの救いと回復を見ていたイザヤは、麗しい花嫁の姿である教会をも見ていたに違いありません。「あなたの神はあなたを喜ぶ」…。そのことばから「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と、父なる神が御子に告げられたことが思い起こされます(マタ3:17)。そしてそれは、キリストに贖われ、神の子とされ、キリストのからだなる教会に加えらている聖徒たち一人ひとり、その共同体である教会へのことばでもあるのです。そのように、神に喜ばれる者とされていることを覚え、それを喜びとして歩みたいと思います。

主にある喜びが満ちあふれますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 61章◇(12月4日)

「しかし、あなたがたは主の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる。」…イザヤ61:6a

「神である主の霊がわたしの上にある」。そのことばで本篇は始まっていますが、「わたし」とはだれのことでしょうか…。イザヤ自身のことばは10-11節にあるように「私」として記されており、1-7節での「わたし」は、神から油注がれたメシアとしてのことばであり、「あなたがた」は、神の民、イスラエルのことだと考えられます。そのメシアは、神の神子イエス・キリストとして父なる神から遣わされ、この世に来られました。ルカの福音書4章16-21節には、主イエスが安息日に入り、イザヤ書の61章1-2節を朗読し、「今日、この聖書のことばが実現しました」と、人々に告げられたことが書かれています。実際に主イエスは、救いをもたらす良い知らせを心の貧しい者に宣べ伝え、罪に捕らわれている者を赦し、嘆き悲しむ者を慰めて、人々に喜びをもたらされたのです。8-9節は神のことばとして括弧で綴じられています。「まことに、わたしは主、…わたしは真実をもって彼らのわざに報い、永遠の契約を彼らと結ぶ」。神がアブラハムと結ばれた契約は、彼と彼の子孫が祝福され、大いなる国民とされ、地のすべての部族に神の祝福を押し流す者たちとされるという約束であり、そのイスラエルの民を見るものは、確かに彼らが主に祝福されたアブラハムの子孫であるということを、認めるようになるのです。キリストによって贖われた聖徒たちもまた、信仰によるアブラハムの子孫、霊的なイスラエルとされ、神の民に加えられています。イザヤはその神の民が、「義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる」、また、「主の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる」と告げています。そしてそのことは、ペテロのことばとしても彼の手紙に記されているのです(2:9-10)。そこに私たちも加えられていることを覚え、ますます、祭司としてとりなし祈る者、神のしもべとして忠実に仕える者、主の栄光を現す者とされたいと願います。

主にあって楽しみ喜ぶことができますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 60章◇(12月3日)

「あなたの太陽はもう沈むことがなく、あなたの月は陰ることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」…イザヤ60:20

「起きよ。輝け」という主の命令をもって始まるこの章はさらに「主の栄光があなたの上に輝く」と続きます。「光」と「栄光」が「あなた」の上に輝き、闇に覆われた諸国の民も、その光に照らされて歩むようになると、イザヤは告げているのです(1-3節)。「あなた」とは誰のことでしょうか。イザヤは霊の目をもって、エルサレム、イスラエル全体、さらには、世にあるすべての国々とその民をも見、あなたの上に光が来て輝く…と、後に起こること、そして最終的に終わりの日において完成することを預言しているのです。その光とは、神によって起こされるメシアにほかなりません。そしてその預言は、2千年前に世に来られたイエス・キリストによって、確かに成就したのです。「主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなる」。19節後半のそのことばは、20節の後半のことばと対になっています。また19節全体は、ヨハネの黙示録21章23節ともつながっており、そこにはこうあります。「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである」。メシアが到来するとき、地をおおっている闇、諸国の民に恐れと戸惑いを与えている暗黒は打ち破られます(ヨハ1:5)。人々は嘆き、悲しみ、絶望の中で苦しんでいますが、その心は平安と喜びと希望へと変えられるのです。それが完全に成就するのは、主が再びこの地に来られる再臨のときですが、キリストが神の国をこの世にもたらしてくださったゆえに、それはすでに始まっているのです。その中で、聖徒とされた私たちは、「起きよ。輝け」というその呼び掛けに応答し、主にあって輝く者、世の光とされ、置かれたところで用いられたいと願います。

主の光がますますこの地に拡がりますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 59章(12月2日)

「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。-主のことば。」…イザヤ59:20

主の耳が遠くて聞こえないのではない…あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ…。そのように語ったイザヤは(1-2節)、その罪と咎についてさらに語り、民は暗闇の中を歩んでいるのだと告げています(9-10節)。3節以降に出てくる、偽り、不正、嘘、不正、不義、暴虐、暴行などはみな、闇のものなのです。「主はこれを見て、公正がないことに心を痛められた」。それは、主が本来意図された状態ではなかったからです。またそのことのためにとりなす者がいなかったからです。それは主が「唖然とされた」ほどの嘆かわしいことなのです。そこで主は、救いをもたらすべく、義と救いを身に着けられ、同時に、復讐とねたみもまとわれました(17節)。そしてそれは、主が、救いとさばき、祝福とのろい、どちらももたらすお方であることを意味しているのです。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに」。主はそのようにイザヤを通して告げました。そのことばを新改訳3版では、「そむきの罪を悔い改める者のところに来る」と訳していますが、自らの罪を認め、それを悔い、それを改める思いに至ったとしても、それでは不十分なのです。罪を犯したことが神への背きであり、神の心を痛め、悲しませてしまったことを覚え、神に背を向けていた姿勢から180度向きを変えて、赦しと回復と祝福を与えてくださる神の元に立ち返ることが求められているのです。神は愛とあわれみに満ちたお方です。真実で正しい方であって、私たちの罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます(1ヨハ1:9)。贖い主として来られたイエス・キリストによって救われた私たちは、罪赦された罪人であって、内にある神に喜ばれないものを、日々きよめていただく必要があるのです。このアドベントのとき、主の光によって照らされて、闇がないか、主を悲しませていないか、自分自身のあり方を顧みたいと思います。

主を仰ぎ見て生きる者とされますように。