◇聖書箇所: 出エジプト記 37章◇(5月30日)

「アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、これに金をかぶせた。また、机の上の備品、すなわち、注ぎのささげを注ぐための皿、ひしゃく、水差し、瓶を純金で作った。」…出エジプト37:15-16

37章には、聖所と至聖所がある会見の天幕(本幕屋)の中の備品を、ベツァルエルが作ったことが記されています。彼は主によって名指して召され、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて神の霊に満たされた者であり(31:2)、優れた技術を用いてそれを行なったのです。彼が作製したものには、すべて金が使われていました。1-9節に書かれている契約の箱では、その外側だけでなく内側にも純金がかぶせられ、16節の机の上の備品では、ひしゃく、水差し、瓶までもが純金で作られました。また、二つのケルビムや燭台ももちろん金ですが、それらは、純金のかたまりを槌で打って作られたのです。そして、38章24節によれば、聖所の設営で使用された金の総量は、なんと1トン近くに及んだのです。会見の天幕、そこは主の臨在と栄光が満ちるところです。高価で貴重な金が、その場所におけるあらゆる備品に使われたのは、神こそが、最高の賛美と誉れを受けるべき唯一の存在であり、金という最上のものがそれにふさわしいからです。その偉大な神に対して最上のものを献げる…それが神を礼拝し、神に仕える者に求められるあり方です。アベルが、自分の羊の初子の中から肥えたものを主に献げ、主がアベルとそのささげ物に目を留められたことが思い起こされます(創4:4)。一方、主イエスは、神殿においてレプタ銅貨2枚を献げた貧しいやもめに目を留め、そのことを称賛されました(ルカ21:2-4)。彼女にとって生活費のすべてであったそのお金は最上のささげ物であり、それを惜しみなく献げた彼女の心は、主にとって「金」に値するものであったのです。そして主は、ご自身に献げる者、仕える者たちに対して、そのようなあり方、心を求めておられるのです。最上のもの、最善のもの、最高のもの、「金」を主の前に献げているか…と、自分自身を省みたいと思います。

献げる喜びが与えられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 36章◇(5月29日)

「それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。」…出エジプト36:6

モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、また、主に促され、自ら奉仕を志願して進み出た者たちを呼び寄せて、いよいよ幕屋の建設作業を始めさせました。そして彼らは、そのために必要なさまざまな材料を、民が献げた奉納物を分配するモーセから受け取ったのです。そのようにして実際に幕屋が建てられていくのを目にして、民は興奮し、宿営の中は活気づいたことでしょう。そして、その作業に従事しない者たちは、自分たちも協力したい、建設のために献げたいという思いを持ち、なおも朝ごとに奉納物を持って来たのです。それは、感謝なことでしたが、作業に必要な材料はあり余っていたため、結果として働き人たちの仕事を増やし、彼らに負担を与えることになりました(5節)。そこでモーセは、奉納物をもう持って来ないようにと、民に命じたのです。考えようによっては、せっかく民が自発的に献げてくれたのだから、その好意を無駄にせず、それを使ってもっと大きな幕屋を建てよう、補修のために取っておこう…とすることもできました。しかし実際にはそのようにはなりませんでした。なぜなら、幕屋の建設は、モーセが指示したとおり、「すべて主が命じられたとおりに仕事をしなければならない」ものであったからです(1節)。もしもそのように、主の命令に従わずに幕屋が建てられたとしたら、それはもはや、主が住まわれる聖所ではなく、単なる建造物に過ぎません。神を喜ばせるものでなく、奉仕者や民の自己満足のためのものとなってしまうのです。ひるがえって私たちの信仰生活、また、主の働きにおける奉仕はどうでしょうか…。この奉仕のあり方は主のみこころにかない、主が喜ばれるものとなっているだろうか…と自己吟味しつつ、主が命じられているとおりに仕える者、聖所としての自らをさらに建て上げていく者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 35章20-35節◇(5月28日)

「イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。」…出エジプト35:29

幕屋の建設の命令と具体的な作業の指示をモーセから受けたイスラエルの民は、早速それに取りかかるべく自分のところに戻り、それぞれ求められているものを主に献げるため、モーセのところに持って来てそれを差し出しました。今日の20-35節においては、彼らのうちに見られた特筆すべきことが記されています。その第1は、民の一人ひとりが心を動かされ、霊に促しを受けたということです(21,26節)。彼らに対して実際に命令を下し、指示を与えたのはモーセでしたが、そのとき、民の心、霊に、見えない神の霊が働いていたのです。そして彼らは、その命令と指示を主ご自身からのものだとしっかりと受けとめ、それを果たすべく行動したのです。特筆すべきことの第2、それは彼らが、さまざまなものを進んで献げたということです。それはつまり、モーセから聞いた命令と指示を義務、強制ととらえて、しぶしぶ従ったのではなく、肯定的に受けとめ、感謝と喜びをもって、積極的に行動したということです。ささげ物についてはパウロも、「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい…」と言って教えています(2コリ9:7)。私たちもそのようにして、主の前にささげ物を献げていきたいと思います。特筆すべきことの第3、それは彼らが、求められた作業を実行し、その仕事を成し遂げるために、必要な知恵が主から与えられた、ということです(25,26,31,35節)。30-35節には、ベツァルエルとオホリアブが神の知恵に満たされ、それぞれの仕事において、意匠を凝らし、巧みな設計をするため、また人々を教えるための力が与えられたとありますが、それは新約の光で見るなら聖霊の賜物にほかなりません。そして主は、私たちにも、ご自身の働きをなすための知恵と力、賜物を与えられるのです。それをさらに求めつつ、主に献げ、仕えたいと思います。

御霊の油注ぎが豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 35章1-19節◇(5月27日)

「六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。」…出エジプト35:2

モーセは、シナイ山の頂での2回目となる主との会見において、40日40夜断食をし、主から語られたことばを、用意していった2枚の石の板に自ら書き記しました(34:28)。そしてそれを持って山から下り、民にその内容をあらためて伝え、その後、幕屋に使う材料を持って来るよう指示を出し、幕屋の建設に取りかからせたのです。34:29-32には、山から下りて来たモーセの顔の肌が、輝きを放っていたと書かれていますが、そのようになったのは、モーセが主と出会って主のことばを受け取ったときに、主の栄光がモーセを照らし、彼の顔がその輝きを反映させたからです。そして民は、主からのことばを告げるモーセの顔の輝きを目にして、そのことばが主からのものだということを確信したに違いありません。また民は、幕屋建設のための具体的な指示をモーセから聞いて、いよいよか…と興奮し、はやる気持ちを抑えきれない者もいたことでしょう。しかし、民を冷静にならせ、思いを主にしっかりと向けさせるかのように、六日間はその作業に充てるが、七日目は主が定めた安息の日であることを覚えて、仕事をやめるようにせよと、モーセは、建設指示を出す前に命じたのです。36章以降には、実際に民が行なった作業の様子が記されていますが、それは、25-31章に書かれている、主がモーセに命じられた、幕屋のさまざまな部分とそこで使われる器具などの作成指示と内容は同じです。それを読む者にとっては、同じことの繰り返しであるため、冗長に感じられるかもしれません。しかしそこには、モーセを通して与えられた主の命令を、民が忠実に実行したということを伝える意図があるのです。「彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行なっていた」(39:43)と、そのことは繰り返し記され、強調されています。私たちもまた、主のみことばに忠実に聞き従う者でありたいと思います。

忠実なしもべとされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 34章1-17節(5月25日)

「あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。」…出エジプト34:12

主はモーセに、2枚の石の板を切り取り、それを持ってシナイ山に登り、その頂でご自身の前に立つよう命じられました。主はすでに、ご自身の教えと戒めを、2枚の石の板に書き記してモーセに授けていましたが、彼がそれを持って山から下りて来たとき、民が金の子牛の前でどんちゃん騒ぎをしているのを見て、怒りのあまり、その石の板を砕いてしまっていたからです(32:19)。モーセが主の命令に従うと、主は降りて来られ、モーセの前を通り過ぎ、ご自分がどのような神であるかを宣言されました(6-7節)。すると、それを聞いたモーセは地にひれ伏し、そこでも、主がイスラエルの民のただ中にいて、約束の地へ一緒に進んでくださるよう願ったのです。それに対して主は、今ここでわたしは契約を結ぼうと言われ、あなたの民がみないるところで、どこにおいても、かつてなかったような奇しく恐るべきみわざを現わす、と約束されました。さらに、これから導き入れようとしている地に住む異邦人をわたしが追い払うので、その地の住民と契約を結ばないようにせよ、彼らの偶像の神の祭壇を打ち壊すようにせよ、と命じられたのです。主は、そのとき、それらの住民を聖絶して皆殺しにせよ、と言われたわけではありません。12-16節からは、主が彼らを追い払っても、そこに残っていた者たちとの「関係」が生じることが示唆されています。そしてそれは、必ずしも緊張を強いる敵対関係ではなく、友好的な場合もあったはずです。しかし主は、そのような中にあっても、「一線を越えた」関係にならないように注意せよ、と言われたのです。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」(ロマ12:2)。パウロもそのように言っています。キリストによって贖われた私たちは、主の民として、この世から影響を受けるのではなく、この世に対して影響を与える、すなわち、神の国の価値観を体現し、神の国の祝福を押し流す者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 33章◇(5月24日)

「主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」…出エジプト33:17

主はモーセに、エジプトから連れ上った民とともに、ご自身が族長たちに誓って与えると約束したカナンの地に行けと、あらためて命じられました。またそのために一人の使いを遣わし、その地に住む異邦の民を追い払い、乳と蜜の流れるそこへ入らせると言われました。しかし、ご自身は民と一緒には上らない、なぜなら彼らがうなじを固くする強情な民であり、その彼らを途中で立ち滅ぼしてしまわないようにするためだ、と告げられたのです。モーセを通してそれを知った民は嘆き悲しみました。なぜなら、主の臨在はいつも彼らのうちにあり、実際、主に守り導かれて、海の中の乾いた道を渡り、岩から湧き出た水を飲み、天からのマナに養われていたからです。その主が一緒に行ってくださらないのなら、それは主に見放されたと同然だ…と彼らは思ったことでしょう。事を深刻に受けとめた彼らは、ようやく主に立ち返り始め、それぞれが身に着けていた飾り物を外したのです。一方、モーセはまたも、主の前に必死にとりなしました。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」(15節)。「…民がみこころにかなっていることは、あなたが私たちと一緒に行き…特別に扱われることによるのではないでしょうか」(16節)と。彼にとって、自分のことよりも(14節)民のことが心配で、いてもたってもいられなかったのです。主は、モーセのそのとりなしの祈りに答えられました(17節)。そしてそれは、明らかに、モーセに対する選びと信任のゆえであったのです(17節後半)。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」(ヨハ15:16a)。私たちもまた、主イエスによって選ばれ、任命された者です。あらためてそのことを覚え、感謝と使命感をもって、主のために、人々のために、労する者、とりなす者でありたいと思います。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 32章15-35節◇(5月23日)

「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら-。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」…出エジプト32:32

山の下で起こっていることを主から知らされたモーセが、授かった2枚のさとしの板を手に持って山を下って行くと、彼の耳に聞えて来たのは民が歌って騒ぐ声であり、さらに宿営に近づくと、目に飛び込んで来たのは金の子牛と、その前で踊っている民の姿でした。そのとき、モーセは怒りに燃え、持っていたさとしの板を砕き、また、金の子牛も粉々に砕いて、水の上にまき散らしたのです。なぜ民にこのような大きな罪を犯させたのか…と、モーセはアロンを問い詰めました。すると、彼は、自分の責任を免れようとし、やったことを棚に上げて、「あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはず…」(22節)、「私がこれ(金)を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来た…」と偽って言い逃れをしたのです。その後、モーセは、主につく者としてレビ族を集め、偶像礼拝をした者を、近しい関係であっても容赦なく剣で打ち、そのいのちを奪うように命じました。すると、彼らはモーセのことばに従って忠実に行なったため、その日、民のうちの約3千人が倒れることとなったのです。その翌日、モーセは民に向って、「あなたがたは大きな罪を犯した」と告げ、自分はその罪の宥めをするために再び主のところに上っていく、と言いました。しかし、32章を見る限り、それに対して民やアロンが悔い改め、主に立ち返ろうとした様子はありません。おそらく彼らは、自分たちの犯した罪の重大さを理解していなかったのです。一方、主のところに戻ったモーセは、民の罪が赦されるように主にとりなし、それがかなわないから、神が記した書物から自分の名を消し去るよう願ったのです。ここにもモーセと民・アロンの間の霊的な温度差があります。ご自身を罵った者たちへの主イエスのとりなし(ルカ23:34)、全人類のための罪の贖いのゆえに、私たちが救われたことを覚え、感謝をささげたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 32章1-14節◇(5月22日)

「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」…出エジプト32:14

モーセが主から呼ばれてシナイ山に上り、イスラエルに対するおしえと命令を受け取るためにそこにとどまっていた期間は40日40夜でしたが(24:18)、山麓に残っていた民は、そのように長い間待ってもモーセが山から下りて来ないので、しびれを切らしました。そして、なんとアロンに、「神々」を造ってほしいと頼み込んだのです。するとアロンはそれを拒絶せず、民が身に着けていた金の耳輪を外して持って来させ、それを溶かして鋳型に流し入れて金の子牛を造り、民に渡しました。それを見た民は喜び、アロンはさらに、その「神々」の前に祭壇を築き、祭りを行なうよう民に呼び掛け、彼らは翌朝早くからその「神々」を拝み、飲み食いして戯れたのです。主はモーセに、山の下で起こっているとんでもない事態を知らせ、わたしの怒りを民に向って燃え上がらせ、彼らを絶ち滅ぼす、と告げられました。するとモーセは、「エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか」と問いただし、「燃える怒りを収め…わざわいを思い直してください」と食い下がり、イスラエルの族長たちへの契約を思い起こしてほしい…と訴えました。その結果、主は、彼のそのとりなしのゆえに、わざわいを思い直されたのです。「われわれに先立っていく神」、「われわれのために造って」と、自分たちのことを第一に考えて、偶像の神を造るようアロンに求めた自己中心の民…。その要求をきっぱりと断り、忍耐してモーセが戻るのを待つよう説得すべきであったのにそうせず、民の言いなりになって金の子牛を造り、その偶像の前に祭壇を築き、祭りを行なうよう促しさえしたアロン…。一方、「どうして…どうして…どうか…」と必死になって主に食い下がり、とりなしたモーセ…。その3者の行動がここに対比して描かれています。主権者なる神がご自身の計画の実行を中止されたのは、驚くべきことです。とりなしの働きの大切さを覚え、私たちもモーセに倣いたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 31章◇(5月21日)

「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。」…出エジプト31:2-3

主はモーセに対し、幕屋を建て上げるためのさまざまなものを準備するようにと命じてこられましたが、それを実際に作業して作り上げるのはモーセ自身ではありませんでした。主は、レビ族以外から、ユダ部族に属するベツァルエルを名指して召し、さらに彼を補佐する者として、ダン部族に属するオホリアブを立てられたのです。主はベツァルエルに、その務めを全うするための知恵と英知と知識を与え、神の霊で満たされました。また、オホリアブに対しても、心に知恵を授けられました(6節)。そして、モーセは神からのことばを聞いて受け取り、それを二人に伝え、二人はさらにそれを具現化すべく、与えられた賜物を用いて、モーセを通して受けた神の指示通りにその作業を行なうという役割分担をしたのです。新約における幕屋、神殿とは、キリストのからだである教会です。また主に贖われて聖徒とされた私たち自身です。それを建て上げるために、主は一人ひとりに聖霊の賜物を与え、それぞれにふさわしい務めを与えておられるのです。そして11節に「彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない」とあって、ベツァルエルたちがそうしたように、私たちも、神の指示通りに、みことばに従ってそれを行なうのです。奉仕をする者たちに求められたのは、芸術性や創作性ではありません。主がモーセに命じたとおりに作る忠実さであり謙遜さです。またモーセにとっても、自分が主から語られたことをきちんと奉仕者に伝えることが必要であったのです。さらにその奉仕がどんなに重要であっても、安息日を聖なる日とすること、すなわち、主を礼拝することがその奉仕にまさって、何よりも求められたのです(13-17節)。主のみこころにかなったあり方をもって主の宮を建て上げていく…そのことの大切さをしっかりと覚え、ともにそれを推し進めていきたいと思います。

へりくだって神と人とに仕える者とされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 30章22-38節◇(5月20日)

「あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。」…出エジプト30:30

23-33節には「聖なる注ぎの油」の規定が書かれています。それは、250シェケル(2.85kg)の分量を1として、高価な最上の香料である、液体の没薬、シナモン(肉桂)、菖蒲、桂枝を2:1:1:2の割合で調合し、そこにオリーブ油を1ヒン(3.8リットル)入れて作るよう指示されていました。その聖なる注ぎの油は、会見の天幕、あかしの箱、机とその備品、燭台とその器具、香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇、洗盤とその台に注がれ、さらに大祭司アロンと祭司であるその子らにも注がれました。そしてそれは、それらのものが主によって聖別されていること、すなわち主のために用いられる特別な存在として、区別され、取り分けられているということを意味していたのです。イエスもまた、一人の女性から、非常に高価な香油を頭に注がれました(マタ26:7)。その後、主は十字架に向われましたが、その香油は、すべての民を罪から贖うために、自らがいけにえとなって祭壇に身をささげられた、大祭司キリストに対して注がれたものであり、それは、聖なる注ぎの油にほかならなかったのです。旧約の時代においては、レビ族であるアロンとその子孫だけが祭司の家系として油注がれ、主から求められていた務めを果たしました。そして今や、キリストの血による新しい契約によって贖われたすべての聖徒たちも祭司とされ、聖なる油の注ぎ、すなわち聖霊の満たしを受けて聖別され、神が所有する特別な存在とされているのです。世から取り分けられ、神と人とに仕え、民の救いのためにとりなす働きを担っているのです。「…主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」(イザ61:1)。それはイザヤが預言したメシア自身のことばですが、同時にそれは、主の聖徒たちが告白すべきものでもあるのです。キリストに贖われた者、約束の聖霊を受け、主に油注がれた者として、自らの職務をしっかり果たしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 30章1-21節◇(5月18日)

「アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。」…出エジプト30:7

会見の天幕(本幕屋)の中に置く祭壇については、すでに規定が記されていますが(27:1-8)、それはささげ物を献げるためのものであり、30章1-10節に書かれているのは、香をたくための祭壇です。それはアカシヤ材で作られ、一辺が約44cmの正方形で、高さは約88cmあり、祭壇と同じように、その四隅に角が出るようになっていました。その香の壇は、聖所とさらに奥の至聖所とを隔てる垂れ幕の手前に置かれ、大祭司アロンが、毎日、朝と夕に、「常供の香のささげ物」を献げるように定められていました。その香のささげ物とは祈りの象徴であり(詩141:2,默5:8等)、そのことから、私たちもまた祭司として、常に主の前に香のささげ物、祈りを、主に献げることが求められているということを、あらためて教えられます。17-21節には、洗いのための洗盤の規定が書かれています。それはその台を含めて青銅で作られ、会見の天幕と祭壇との間に置かれました。アロンとその子らは、会見の天幕に入るときは必ずその洗盤の水で手足を洗いましたが、それは、からだの外的きよめとたましいの内的きよめを表わすものであったのです。もし彼らがそれを怠るなら、ただちにいのちが取られてしまいました。そしてそれは、祭司を含めてすべての者が罪を持ち、汚れており、そのままでは御前に出られないことを示唆しているのです。キリストは、人類のその罪が赦されるために来られ、ご自身の血潮によってその罪を洗いきよめてくださいました。そのことを信じて聖徒とされた私たちにとって、もはや、洗盤の水も、罪のきよめのささげ物も必要ではないのです。キリストの贖いに感謝し、賛美のいけにえをたずさえて、御前に大胆に近づくことができるのです。「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブ10:22)。そのような者でありたいと心から願います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 29章19-46節◇(5月17日)

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」…出エジプト29:46

19-28節に書かれているのは、「交わりのいけにえ(和解のいけにえ)」として主の前に献げる雄羊についてです。屠られたその雄羊の血は、アロンとその子らの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られ、さらに祭壇の側面に振りかけられました。またその肉は、三種類のパンとともに祭壇の上で焼かれ、彼らが食するために供されました。そしてそれは、きよめられた祭司が神とともに食卓につくという、親しい交わりを意味していたのです。さらに39-42節には、祭壇の上に献げるべき物である、一歳の雄の子羊2匹のことが書かれています。それは毎日、朝と夕に1匹ずつ、穀物のささげ物としての小麦粉、注ぎのささげ物としてのぶどう酒を添えて、主への食物のささげ物として、欠かすことなく献げる必要がありました。「これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る」(42節)。幕屋は「会見の天幕」とも呼ばれますが、それは、そこで主がイスラエルの民と会われるからです。一方、イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と弟子たちに約束されました。モーセの時代には、民が主と会える場所は幕屋だけでしたが、キリストは、ご自身が成し遂げた贖いにより、主を信じる者たちがいつでも、どこでも、ご自身と親しく交わることができるようにしてくださったのです。「わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる」と言われた神が、異邦人である私たちの神となられ、霊的なイスラエルの民として内に住んでくださるようになったのです。その私たちもまた、罪の奴隷であったエジプトから救い出され、約束の地である天の御国へと導かれています。ますます主に拠り頼みつつ、この地上の荒野の旅路を進んで行きたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 29章1-18節◇(5月16日)

「また、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。その雄羊を屠り、その血を取り、これを祭壇の側面に振りかける。」…出エジプト29:15-16

29章には、アロンを大祭司、その子らを祭司としての職に就かせるため、主がモーセに命じられた「祭司職任命式」のことが書かれています。1-9節はその序文です。7節には「注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする」とありますが、油は神の霊の象徴です。アロンがその職を全うするためには、神の霊に満たされることが必要であったのです。この油注ぎは王や預言者に対してもなされましたが、メシア(=キリスト:油注がれた者の意)である主イエスは、父なる神から油注がれ、大祭司、王、預言者の3つの職務を全うされたお方なのです。10-14節は、罪のきよめのささげ物(罪のためのいけにえ)としての雄牛を、どのようにささげるかということの規定です。アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置きましたが(10節)、それは、罪のゆえにさばかれるべきイスラエルの民の代わりに、その雄牛に民の罪をすべて負わせるという意味がありました。後にキリストは、全人類の身代りとして十字架にかかり、死からよみがえり、その贖いによって罪の赦しをもたらしてくださったのです。また15節からは、全焼のささげ物(いけにえ)としての雄羊を献げるための規定が書かれています。罪のきよめのささげ物である雄牛の血は、祭壇の四隅の角に塗られ、残りは祭壇の土台に注がれましたが、雄羊の血は祭壇の側面に振りかけられました。またその雄羊のからだの各部分は、祭壇の上ですべて焼かれ、その煙は、神の御前に芳ばしい香りとなって立ち上ったのです。アブラハムは神から、ひとり子であるイサクを全焼のささげ物として献げるように命じられましたが(創22:2)、神は異邦人を含むすべての者のために、ご自身の大切なひとり子、イエスを世に遣わして十字架につけ、全焼のいけにえの雄羊としてくださいました。そしてそれは、私たちを罪から解放し、永遠のいのちに生かすためであったのです。その愛とあわれみに感謝したいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 28章15-43節◇(5月15日)

「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」…出エジプト28:29

15-30節には、エポデと呼ばれるチョッキのような衣服の上に付ける、「さばきの胸当て」についての記述があります。その最も特徴的なことは、そこに、ダイヤモンド、トパーズ、サファイアなどの高価な12個の宝石が、3個ずつ4列にはめ込まれて正方形に配置され、その一つ一つには、ヤコブの息子たち、すなわち、イスラエル12部族の父祖となる者の名が彫られていたことです。その胸当てを大祭司であるアロンはエポデの上に付け、聖所に入って奉仕しましたが、それは、その12人の名を胸に担い、その名が主に覚えられるようにするという意味がありました。すなわち、アロンはそのようにして、イスラエル民族の代表者として神の御前に出て、人との間に立ち、神のさばきに対してのとりなしをしたのです。31-35節には、エポデの下に着る青服について書かれていますが、特に心に留まるのは、その服の裾周りにつけられる、金の鈴とざくろです。それは鈴、ざくろ、鈴…と、交互に結びつけられており、大祭司が聖所の中を歩くたびに、それらがぶつかり合って鈴の音が聖所の外にまで聞えたのです。そして外で待っている人々は、その音によって、大祭司が無事であるかどうか、つまり、神に打たれて中で絶命していないかを判断していたのです。もし、聖所の中で死んでしまったら、人々は中に入ることができないため、そのからだを引きずり出すためのロープが大祭司の足に結びつけられていました。しかし、大祭司なるキリストにはそのような必要はなく、また動物の血をたずさえることもありませんでした。キリストは罪を犯すことがない聖いお方であり、仲保者として神と人との間に立ってとりなし、ご自分の血によって永遠の贖いを成し遂げられたからです(ヘブ9:11-12)。その贖いによって私たちは、大胆に主の前に出て親しく交わることができるのです。そのことを感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 28章1-14節◇(5月14日)

「また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」…出エジプト28:2

モーセの兄アロンと、彼の息子であるナダブとアビフ、エルアザルとイタマルは、祭司として主に仕えるようにと、主から命じられました。28章では、彼らがその奉仕において身に着けるべき聖なる装束について、実際にどのようにして作るべきかが記されています。「祭司としてわたしに仕えさせよ」(1節)、「祭司としてわたしに仕えさせるため…」(3節)。「祭司としてわたしに仕えるために…」(4節)。主がそのように繰り返して語っておられることに心が留まります。アロンとその子らが身に着けるその聖なる装束は、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯でしたが、それらは彼らが祭司として主に仕えるためのものであると同時に、主の栄光と美を表わすという目的もあったのです(2節)。彼らがその装束を身に着けて幕屋において奉仕をするとき、いつも主への畏れを感じていたことでしょう。また、民は彼らの姿を見て、主の偉大さと麗しさを思い、主の御名をあがめたに違いありません。実際、祭司の役目は、幕屋において、民の代表として主の前に動物のいけにえをささげ、また主と民との間に立って、イスラエルの罪の赦しをとりなすことであったのです。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。いつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブ7:24-25)。キリストは大祭司として、自らをいけにえとして神に献げ、イスラエルの民だけでなく全人類の代表として、神と人との間の仲保者となられました。そして主に贖われた私たちもまた、祭司として、主に倣うことが求められているのです(1ペテ2:9)。そのことをしっかりと覚え、聖なる装束を身に着けるべき者として、主を畏れ、この世の汚れから離れ、主の栄光とすばらしさを表わすために、また、とりなしの働きをするために、主に仕えていきたいと思います。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 27章◇(5月13日)

「その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。」…出エジプト27:2

幕屋に設置される祭壇は、長さと幅が5キュビト(約2.2m)、高さが3キュビト(約1.3m)あるかなり大きなもので、その四隅には「角」がつけられていました。また、その祭壇は、幕屋の東の入口から入ってすぐの正面の場所にあり、幕屋に入り聖所に進む者はみな、必ずそこに最初に導かれようになっていました。実際に祭司が幕屋で礼拝をささげるときには、動物がほふられ、そのからだから流れ出した血が祭壇の四隅の角に塗られました。さらにその血は、祭壇の土台にも注がれたのです(出エジ29:12)。祭司は民の罪が赦されるために、毎日欠かさずそのようにして主に礼拝をささげてとりなしていたので、祭壇の角と土台にはいけにえの血がべったりとつき、焼かれた内臓の臭いも染み付いていたに違いありません。「また、雄やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(ヘブ9:12)。イスラエルの民は、自分たちの身代りとなるいけにえの血が流され、祭壇に注がれることによって、その罪が赦され贖われることができました。しかし、キリストは、すべての人が罪赦されるために身代りとなられ、傷のないご自身をいけにえとして十字架にささげられ、その祭壇にて血を流し、贖いを成し遂げてくださったのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ロマ12:1)。「生きたささげ物」とは、死んでいない生きたままのいけにえということです。キリストの犠牲の死により人類の贖いが完成したので、いけにえのいのちを奪う必要がなくなったからです。しかし、なおも神に献げることが求められているのです。それは、私たちがすべてを主に明け渡し、主に聞き従うことでもあります。そのような者でありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 26章1-14節◇(5月11日)

「天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」…出エジプト26:14

今日の箇所では、幕屋本体、つまり、幕屋の中心部に位置する、聖所と至聖所からなる「本幕屋」の上部を覆う幕について、それをどのように作ってかぶせるかという規定が書かれています。その指示が具体的で、かつ、そこに明確な意図があることにあらためて驚かされます。その覆いは、材質が異なる4枚の幕を重ねてかぶせるように求められました。第一の幕、すなわち、4枚の幕の一番下にあり、本幕屋に入った祭司が上を見上げると見える幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸で作られ、ケルビム(25:20)の姿が織り出されていました。それは10枚の小さい幕を繋いで作った一つの大きな幕でしたが、その小さい幕の長さは28キュビト(約12m)、幅は4キュビト(約1.8m)で、それを5枚つなぎ合わせた2つのものを、さらに50個の輪と金の留め金により連結させ、40キュビトの長さと幅28キュビトの大きな幕としたのです。留め金を使用したのは、荒野での移動のたびに、容易に組み立て・取り外しができるようにするためでした。第二の幕、つまり、第一の幕の上にかぶせるのは、やぎの毛の幕であり、それも小さな幕を繋いで一つの大きな幕としました。小さな幕の長さは第一の幕の場合よりも2キュビト(約90cm)長く、幅は同じ4キュビトでしたが、1枚多い11枚をつなぎ合わせたため、全体の幕の長さは第一の幕より4キュビト長くなっていました。そのようにして、第二の幕は確実に第一の幕を覆っていたのです。第三の幕は赤くなめした雄羊の皮で、第四の幕はじゅごんの皮で作られました。じゅごんの皮は耐水性に優れるものの黒色か灰色で、まったく見栄えのしないものでした。幕屋の美しさは外側からではなく、中に入らないとわからないのです。そしてそれは「見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」(イザ53:2)と預言されたキリストを表わしているのです。日々、主と親しく交わり、その素晴らしさを仰ぎ見たいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 25章23-40節◇(5月10日)

「その芯切りばさみも芯取り皿も純金である。純金一タラントで、燭台とこれらのすべての器具を作る。」…出エジプト25:38-39

幕屋の中で用いられる用具についての記述が続きます。23節以降には、「臨在のパン(供えのパン)」を置くための机について(23-30節)、また燭台について(31-39節)の説明がなされています。臨在のパンとはドーナツのような輪型のもので、12部族を象徴する12個のパンを、1列に6つずつ2列に並べて机の上に置いたのです(レビ24:5-6)。また燭台とはヘブル語で「メノーラー」と呼ばれるもので、中心の支柱の左右に3本ずつ、6つの枝が上に向って伸びている形となっており、その支柱と枝の先端に合わせて7つのともしび皿が取り付けられ、そこにオリーブの油を入れて「芯」に火を点すようになっているのです。聖所の中に置かれていたそれらのものは、新約の光で見るなら象徴的な意味を持っています。幕屋自体がキリストを表わしていますが、臨在のパンもまた、「わたしはいのちのパンです」(ヨハ6:48)と言われたキリストであり、完全数である7つのともしび皿からなり、光が遮られた真っ暗な幕屋の中を照らす燭台もまた、闇を照らす光となられた(ヨハ1:5)キリストを示しているのです。それにしても、それらの用具のすべてが、高価で貴重な純金によって作られていたことは驚きです。臨在のパンを並べる机や、光を点す燭台はともかくとして、それに付随する用具である、机を担ぐ棒やそれを通す環、注ぎのささげ物であるぶどう酒を入れる瓶や水差し、さらに、燭台のともしび皿の芯を切るはさみや芯取り皿までもが、すべて純金で作るように主から指示されていたのです。そしてそれは、別に純金でなくても…そこまでこだわらなくても…と私たちがつい考えてしまうものも、主にとってはそうではない、ということです。そして、キリストのからだのすべての器官もまた、高価でかけがえのない存在であるということなのです。主がその一人ひとりを尊く用いてくださるということを覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 25章1-22節◇(5月9日)

「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」…出エジプト25:8

32-34章を除く25-40章には、幕屋を造ることと、その幕屋で行なわれるべき礼拝の規定が、主が命じられたこととして記されています。今日の箇所の2-7節では、主の前に携えて来る奉納物が挙げられていますが、それらは、民がエジプトから脱出したときにエジプトからはぎ取ったものでした(12:35-36)。そのように主は、民が献げるべき奉納物を、あらかじめ備えてくださっていたのです。8節には、民がわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らのただ中に住むようにする…という、主のことばが記されています。主は、聖所、すなわち幕屋を、ご自身の臨在を現わすところ、民が礼拝をささげるところとして造るように求められましたが、もちろん主はそこにだけ留まっておられるお方ではなく、驚くべきことに、民の「ただ中に住む」と言われたのです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」(1コリ6:19)。パウロのそのことばが重なります。神の民、聖徒たち自身が神の住まわれる幕屋、宮とされることが、モーセの時代にすでに主から語られていたのです。主は、「わたしのための聖所」と言われました。幕屋においても、宮とされる聖徒たち一人ひとりにおいても、それは、主のためのものであり、主の臨在と栄光が現わされるためのものであって、それは「自分自身のものではない」のです。そしてそれをどう「造る」かは、主が示しておられるのです。「幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない」(9節)という主のことばを新約の光で読むなら、それは、聖徒たちがキリストに倣い、キリストの足跡に従って歩むことが求められているということなのです。そして私たちは、御霊の働きによって主の似姿へと変えられるのです(2コリ3:18)。主に贖われ、主のものとされた自らを、さらに主に明け渡していきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 24章◇(5月8日)

「モーセはその血を取って、民に振りかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」」…出エジプト24:8

神は、イスラエルの民が守るべき、十戒を初めとする律法を、モーセを通して与えられました(20~23章)。それは神が、民との間にご自身の契約を結ぶためにまず必要なことでした。モーセは、語られた主のことばをことごとく書き記し、その後、若者たちに全焼と交わりのいけにえを主に献げさせ、流された血の半分を祭壇に注ぎ、さらにその書き記したものを契約の書として民の前で読み上げ、「主の言われたことはすべて行います」と告白して応答した民に対し、血の残りを振りかけたのです。そのようにして、神と民と間に契約が締結されました。その後、主からの命令に従い、モーセとアロン、ナダブとアビフ、そして70人の長老たちはシナイ山に登って行きましたが、驚くべきことに、彼らはそこでイスラエルの神をはっきりと見て、食べたり飲んだりしたのです(10-11節)。当時、神を見るということは死を意味しました(出33:20)が、彼らは確かに神の御足を見たのです。それは、神が人と同じ姿をしておられたということです。モーセは、動物のいけにえの血を民に振りかける際に、「これは…主があなたがたと結ばれる契約の血である」と告げました。そのことばから、主イエスが、過越の食事の席において、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタ26:28)と弟子たちに告げられたことが思い起こされます。そのときも主は、弟子たちと食べたり飲んだりされたのです。そのように神が契約を結んでくださったのに、イスラエルの民は「主の言われたことはすべて行ないます」と告白したその約束を破り、偶像礼拝などの罪を犯しました。そして、私たち異邦人を含む全人類のその罪を赦すため、イエス・キリストは自らいけにえとなられ、血を流され、私たちとの間に新しい契約を結んでくださったのです。その主の愛と恵みとあわれみを深く覚えたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 23章14-33節◇(5月7日)

「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。」…出エジプト23:20

神は、モーセを通し、イスラエルの民に対して、あなたの前に「使い」を遣わすと告げられました。その使いは、ご自身が民に備えられた約束の地、カナンの地へと導いて行くのです。そして神は、その使いに心を留めるように、先に立って民を導くその使いの声に従順に聞き従うようにと、命じられたのです(21節)。その使いが具体的にどのような存在を指しているのかは不明です。神が立てられた指導者であるモーセのことなのか、御使いのような存在を意味しているのか…。21節には「わたしの名がその者のうちにある」、「彼はあなたがたの背きを赦さない」とあることから、そのことばは、三位一体なる神ご自身の霊がモーセのうちに働かれる…ということを意味しているのかもしれません。いずれにしても、21-22節で強調されていることは、「その声に聞き従う」、「告げることをみな行なう」ということです。それは主がモーセを通して与えられた律法を意味していることは明らかです。「ことばは神」であって(ヨハ1:1)、神は、ご自身のことばを擬人法的に、「使い」と表現された…そのことばを、モーセの口を通して民に告げられたのだ…と理解することができます。そして、主が約束されたことは、民がその声に聞き従うならば、神が求められることをすべて行なうならば、神ご自身がカナンの地の先住民に敵対し、彼らをそこから追い払ってくださるということです。そのようにして、イスラエルの民は、自らの力ではなく、主にあって、敵を敗走させ、その地を勝ち取ることができるのです。私たちもまた、天の御国という約束の地に向かい、地上の荒野を進み続けている主の民です。そして神は、イエス・キリストをご自身の使者、私たちの導き手として遣わしてくださったのです。良い牧者であるその方の声に聞き従い、その教えを行なう者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 23章1-13節◇(5月6日)

「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。」…出エジプト23:9

主は、モーセを通してご自身の民に、「あなたは寄留者を虐げてはならない」と言われました。そのことはすでに語られていましたが(22:21)、主はそれを繰り返して告げて強調されたのです。寄留者とは、ある場所に一時的に留まってそこで暮らす者のことです。イスラエルの民自身、そのようにしてエジプトに寄留していました。そのとき彼らは、奴隷として自由を奪われ、重い苦役を課せられ、虐げられていたのです。そして自分たちがそのような目に遭い、その辛さが身に染みてわかっているのだから、あなたがたは寄留者を虐げることをせず、愛とあわれみをもって接し、彼らを支援するようにせよと、主は命じられたのです。ではその寄留者とは、どの者たちのことなのでしょうか。寄留者ということばを、3版では「在留異国人」と訳しています。そのときイスラエルの民はすでにエジプトを脱出し、約束の地カナンに向って荒野の旅を続けており、定住生活をしていたわけではありませんでした。その中での寄留者とは、おそらく、荒野に住む他国の貧しい少数民族が、イスラエルの民から食事のおこぼれをもらって生き延びていた、そんな者たちのことだったのです。主はそのような者たちのことを心に留めておられました。主は愛に満ち、情け深く(22:27)、あわれみ深いお方なのです。その主が、ご自身の民に対して、自分たちもかつては同じ立場にあったのだから、彼らを顧みるようにと命じられたのです。私たちもまた、霊的な意味において、エジプトで虐げられていた者です。罪の奴隷とされて、悩み苦しんでいた者です。そしてキリストに出会って救われた者です。その私たちは、「ああ良かった…」と、それで満足することなく、心の飢えと渇きに苦しむ人々を顧みるべきなのです。虐げるとは必ずしも暴力的な意味ではなく、無関心、無視ということでもあるのです。そのことを覚え、人々と積極的に関わりたいと思います。

主が人々との出会いを導かれますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 20章◇(5月2日)

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」…出エジプト20:2-3

神はシナイ山でモーセに律法を授けられました。「十戒」と呼ばれる、民が守るべき大切な戒めです。主は、それをモーセに告げた際、最初に「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」と言われ(2節)、さらに「あなたは自分のために偶像を造ってはならない…それらを拝んではならない、それらに仕えてはならない…」と告げられたのです(4,5節)。神を神としてあがめ、神でないものを神とはしない…。当たり前のように思えるそのことを主は真っ先に語り、何よりもそれを心に留めて行なうよう命じられたのです。十戒の後半に出てくる、人との関わりについての戒め…殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない…というそれらのことも、もちろん大切です。しかし、世界を創造し、イスラエルの民を奴隷から解放し、エジプトから導き出された偉大な神のみを神とする…そのことを最優先するよう、主は民に求められたのです。そしてそれは、人はすぐに、神でないものを神としてしまうからです。実際、イスラエルの民は、山から一向に下りて来ないモーセを見限り、自分たちを導く神々を造るようアロンに頼み、その偶像の前に祭壇を築いたのです。その後も彼らは偶像礼拝を繰り返しました。目に見えるものに頼ろうとする誘惑は大きいのです。だからこそ、神との関係を確かなものとし、どんなときにも神を畏れ、神を愛し、その教えに聞き従う者とするために、主は民に、エジプトから脱出したときのみわざを思い起こさせ、ご自分にのみ心を向けよと命じられたのです。神を神とし、神以外のものを神としない…。それは、今を生きる私たちにとっても、最優先すべき戒め、教えです。お金、仕事、趣味、家族や友人とのつながり…。それらが自分の中でどのような位置を占めているのか、神を神とし、神の国と神の義を第一に求めているかどうか(マタ6:33)、自らに問いかけて吟味したいと思います。

主とのつながりがますます強くされますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 19章◇(5月1日)

「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」…出エジプト19:5-6a

モーセはイスラエルの民に、主から語られたことばを告げました。それは、主の声に聞き従い、主の契約を守るなら、すなわち、主から与えられたことばを心に留め、主の教えを守り通すならば、イスラエルの民は主にとって宝となり、祭司の王国となり、特別な存在として選び分かたれた聖なる国民とされる、という約束でした。主はアブラハムと契約を結ばれ、あなたの子孫をおびただしく増やして祝福すると言われましたが、その契約は後の世代にも引き継がれて行き、モーセの時代においても、そのように明確に語られました。その選ばれた民への主の特別な守りと祝福は、今のイスラエルにも確かに与えられているのです。さらにそれは、キリストの贖いによって異邦人へと拡げられ、キリストに選ばれて聖徒とされた私たちも、王である祭司、聖なる国民、神の所有の民とされているのです(1ペテ2:9)。しかしそれは、機械的になされるわけではありません。主は、「あなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」と、はっきり語っておられるのです。しかし、イスラエルの民はしばしば主の教えを破り、他の神々や偶像を拝みました。人間は神の教えを守り通せないのです。だからこそ、神と人との間に立ち、その罪の赦しをとりなす祭司の存在が不可欠であり、彼らはまず自分自身を聖く保つよう求められたのです(22節)。大祭司キリストは、ご自身をいけにえとしてささげられ、罪ある人間が神に赦されるようにしてくださいました。そしてそのキリストに贖われた私たちもまた祭司とされ、神と人との間に立ってとりなす使命を受けているのです。そのために、まず自分が主の御声に聞き従う者、この世と調子を合わせず主のみこころを行なう者となり、求められているその働きを果たしていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。