◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 6章◇(6月15日)

「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」…ガラテヤ6:2

パウロは、偽教師たちの教えに惑わされて混乱しているガラテヤ教会の信徒たちに対し、彼らに宛てて書いた手紙を閉じるにあたって、共同体における交わりのあるべき姿について述べ、互いに励まし合い、戒め合い、重荷を負い合うことの大切さについて教えています。そしてそれは、パウロが新しいことを語り始めるのではなく、彼が彼らにこの手紙の中で教えてきたこと、すなわち「愛をもって互いに仕え合いなさい」(5:13)、「御霊によって進もうではありませんか」(5:25)というあり方に基づくものです。パウロは、教会の中でだれかが過ちに陥っているならその人を正してあげなさい、ただし柔和という御霊の実を結んでいるあなたがたは、その柔和な心でそうすべきであって、その人を厳しく非難してさばくべきではない、と言っているのです(1節)。さらにパウロは、その際に自分は正しいとうぬぼれてはならない、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言っています。聖徒たちを、神の恵み、信仰の道から引き離そうとする悪しき者の誘惑は巧妙であり、弱く罪深い私たちが、同じように過ちに陥ってしまう可能性があることを思い、パウロは、へりくだること、自己吟味することの大切さを教えているのです(3-4節)。「互いの重荷を負い合いなさい」。パウロがここで想定している重荷とは、1-5節の文脈を考えるなら、教会の中でそれぞれが担っている責任や具体的な奉仕というよりもむしろ、一人ひとりの罪の性質のゆえに、肉に死にきれない弱さのために、教会の中で生じるさまざまな否定的な事柄や人々の思いであると言えます。そしてそれを主にあって赦し合うなら、「重荷を負い合う」ことになるのです。「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ3:13)。そのようにして、キリストの律法の成就、主のみこころの実現を願い求めたいと思います。

主の道をまっすぐに歩むことができますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 5章13-26節◇(6月14日)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」…ガラテヤ5:24-25

キリストにある聖徒たちにもたらされた、罪からの、また律法ののろいからの解放と自由を強調してきたパウロは、5章の後半において、その与えられている自由を肉の働く機会としないようにと注意を促し(13節)、「御霊によって歩みなさい」(16節)とガラテヤの聖徒たちに命じています。そこでは肉と御霊が対立的に示され、御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいないのだと、パウロは断言しているのです(17-18節)。さらにパウロは、その肉の働きとして、神に喜ばれないふるまいについて、15以上におよぶ具体的なことを挙げています(19-21節)。そしてそこには、汚れたこと、神以外のものに心寄せること、自己中心的なこと、他者に対する誤った態度などが書かれており、そのような者たちは神の国を相続できないと、パウロは告げているのです。一方、御霊が結ばせてくださる実として、パウロは、神に喜ばれるあり方について、9つの具体的なことを挙げています。それらは、神によって私たちの内に満たされる良きものであり、他者に対するあるべき態度であり、キリストご自身のうちに見られるご性質であって、そのように御霊は、聖徒たち一人ひとりを、栄光から栄光へと、主の似姿に変えてくださるお方なのです(2コリ3:18)。キリストに贖われた私たちは、この地上にいる限り、肉体をもって歩み続けることになります。しかし、パウロが言うように、私たちの罪ある汚れた肉は、情欲とともにキリストの十字架につけられたのであって、私たちはもはや、肉を喜ばせる歩みではなく、御霊の支配の下に置かれ、御霊の導きに従って進む者とされているのです。肉によってではなく御霊によって生きる者なのです。古い契約、律法という文字に仕える者ではなく、新しい契約、御霊に仕える者とされているのです(2コリ3:6)。自分がそのような者であることを覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 5章1-12節◇(6月13日)

「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」…ガラテヤ5:1

4章の後半においてパウロは、アブラハムの妻サラの子イサクと女奴隷ハガルの子イシュマエルとを対立的に示し、それが律法による古い契約とキリストによる新しい契約の比喩であることを述べましたが、続く5章においては、さらにそこから話を展開し、キリストが私たちにもたらされた、奴隷からの解放と自由について語っています。パウロは言います。キリストは罪の奴隷、律法の奴隷から私たちを解放して自由を得させてくださったのに、救いのためには割礼も受けなければならないという、偽教師たちの誤った教えに従うなら、それは再び奴隷のくびきを負うことなのだ、キリストがもたらしてくださった恵みを台無にし、益を無意味なものにすることなのだと。さらに彼は続けます。そのようにして、あなたがたが律法によって神から義と認められようとするのなら、割礼を受けるだけでは不十分であって、すべての律法を一つも漏らさず守り通さなければならないのだ。そしてそのようにして後戻りしようとするなら、それは、そうすることが不可能な罪深い私たちのために神から遣わされ、代わりに律法を成就してくださったキリストからあなたがたが離れ、その恵みから落ちてしまっているのだと。そのようにパウロは、ガラテヤの聖徒たちを叱責するような強い口調で語る一方、「あなたがたはよく走っていたのに」(7節)、「あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています」(10節)と言って、彼らを励ましています。そして、「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです」(6節)と、信仰の大切さをあらためて強調しています。「愛によって働く」とは、神の無償の愛、無条件の愛、永遠の愛への感謝と喜びから生まれるもの、その愛への応答ということです。その愛を絶えずしっかりと受けとめたいと思います。

主の愛が豊かに注がれますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 4章21-31節◇(6月12日)

「こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。」…ガラテヤ4:31

パウロは、21-31節において、アブラハムの2人の息子、イサクとイシュマエル、またそれぞれの母である、正妻サラと彼女の女奴隷ハガルのことを語っています。そして彼は、その両者の関係が、福音の正しい理解による信仰のあり方と、誤った理解による律法主義的な生き方の対立的な関係の比喩だとして、論を進めているのです。「今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっている…」(25節)。「肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています」(29節)。エルサレム教会には、ユダヤ主義的、律法主義的なキリスト者が多くいました。彼らにとって、安息日の規定、割礼、食材、異邦人に関することなどの教えは、守らなければならない絶対的な命令でした。ゆえに、キリストへの信仰のみによる救いを強調するパウロは、彼らの目には異端者であり、その教えを信じる群れである異邦人教会は、非難すべき対象であったのです。そしてそれは、イシュマエルがイサクをばかにし(創21:9)、ハガルがサラを軽蔑した(創15:4)のと同じことである、それが比喩的な意味を持っているのだ…というのが、パウロの主張なのです。「この女たちは二つの契約を表わしています」(24節)。その2つの契約とは、ハガルが表わしている、動物の血による贖いが必要とされる律法による古い契約であり、その契約を成就するために神が遣わされた救い主、キリストの血による贖いに基づく、恵みによる新しい契約です。「しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です」(26節)。パウロは、地上の今のエルサレムを、律法主義的キリスト者を意味するところとして、また「上にあるエルサレム」を、天の御座、そしてやがて「新しいエルサレム」(默21:2)としてキリスト者が迎え入れられるところとして対照的に示しています。彼が伝えようとした真理をしっかりと受け取り、約束によって生まれた自由の子として歩み続けたいと思います。

主からの平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 4章1-20節◇(6月11日)

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」…ガラテヤ4:7

「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(3:29)と述べたパウロは、「つまりこういうことです」と言って、さらに、「奴隷」、「子」という身分と関連付けながら、その相続人の立場について説明を加えています。「奴隷」とはつまり、主人の命令に従う者、主人に常に仕える者であって、そこには自由がありません。パウロは、この世の相続人が子どものうちはまだ相続権を有していないのと同様に、私たちも、霊的に未熟なときには、この世のもろもろの霊の奴隷であり、自由を奪われた者、相続権を持つ者ではなかったと言っています(3節)。しかし神は、そんな私たちのために、ご自分の御子を遣わし、御子の十字架と復活による贖いによって律法の下にある私たちを贖い出し、神の子どもとしての特権を与えてくださったのです(4-5節)。それゆえに私たちは、もはや奴隷ではなく神の子とされ、神を「アバ、父よ」と親しく呼び求める者(6節)、アブラハムの霊的な子孫として、神の豊かな祝福を相続する者とされたのです。「どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか」(9節)。偽教師たちの律法主義的な誤った教えに心奪われてしまったガラテヤの聖徒たちを、パウロはそのように言って嘆いています。「弱くて貧弱な、もろもろの霊」という部分を、前の3版では、「無力、無価値の幼稚な教え」と訳していますが、それは、人の作り出した愚かな考え、あるいは宗教的な教えであり、そこには真理はなく、いのちがないのです。それらに拠り頼んで歩もうとするなら、その者は困惑し、混乱し、失望するだけなのです。そしてそれは、「本来神ではない神々」(8節)であって、今も多くの人々がその奴隷となっているのです。律法主義、人間中心主義に捕われ、自由を奪われているのです。私たちもそのような過ちに陥らないように、自らの身分をしっかり覚え、みことばに立ち続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 3章15-29節◇(6月10日)

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」…ガラテヤ3:24

「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」(3:9)と述べたパウロはさらに、神が、アブラハムとの間で結ばれた契約と、その後430年経ってモーセを通してイスラエルの民に与えられた律法と、ご自身の御子であるイエスを地上に遣わされ、そのキリストの十字架と復活の贖いによってもたらされた救いの関係について、人々の間で結ばれる一般的な契約のことにも触れつつ、手紙の読者に対してなるべくわかりやすい説明をしようとしています。神のアブラハムとの契約は、律法によって無効にされることはない、彼に相続の恵みを約束された神が、その約束を反故にされることなどない、とパウロは強調しています(17-18節)。そして、アブラハムへの祝福がキリストによって異邦人にも及ぶならば、神がご自身の民に与えられた律法はいったい何のためにあるのか…。パウロはそのように議論を進め、その役割を明らかにするのです。「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」。「養育係」ということばが心に留まります。それは、文字どおり、親とは別に、子どもを預かって養い育てるように委託されている者であり、その働きは、子どもが成長するまでの一時的なものなのです。養育する必要がなくなればその者は、当然ながらお役御免となるのです。パウロは「律法ののろい」(3:9)、「律法の下で監視され」(23)とも言っていますが、彼は律法を否定しているのではなく、罪ある人間が律法を守り抜くことはできない、律法は人にいのちを与えられず、神から義と認められるためにあるのではない…。律法を守り通そうとしてもできない自分、うちにある罪を人が思い知らされ、その罪から救われたいともがき苦しむ中で、キリストへと導かれるために、神が与えられたものだと言うのです。私たちがキリストへの信仰によってアブラハムの祝福に預かり、神の子どもとされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 2章11-21節◇(6月8日)

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」…ガラテヤ2:19

「ところが…」(11節)と書き出すパウロは、エルサレムにおける、最初の使徒たちを含む主要なメンバーたちとの話し合いにより、異邦人が救われるために、キリストへの信仰に加えて割礼を求められることはない、とはっきり決まったのにもかかわらず、ケファ、つまりペテロが、その決議に反するような行動をしたため、彼がアンティオキアに来た際に抗議したことを記しています。そのペテロの行動とは、それまでは異邦人と一緒に食事をしていた彼が、「ある人たち」-それはおそらく<異邦人は汚れているのだからその彼らと交わることは律法にかなっていない>と考える保守派の者たち-彼らがヤコブのところから来ると、その者たちや、さらに異邦人の割礼を主張する者たちからも非難されることを恐れ、異邦人との接触を避けるようにしてしまった、そのことを指しています。そしてその彼の対応は、他のユダヤ人の聖徒たちにも悪影響を及ぼしたのです。だからこそ、パウロは憤ってペテロを公然と非難し、責めたのです。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」とパウロは告白しています(16節)。さらに彼は、「肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです」と言っています。それはもちろん、ユダヤ人にも異邦人にもすべての人にあてはまることなのです。すべての人は罪人であって、律法を全うされたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされるのです。そして、「信仰によって義とされる」という意味は、信じるという「行い」を自分の努力、肉によって頑張ることではないのです。神が私たちを義と認めてくださる根拠は、あくまでキリストにあるのです。律法に死んだ私たちがキリストにあって生きる者とされた…。神のその一方的な恵み、愛とあわれみを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 2章1-10節(6月7日)

「私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。」…ガラテヤ2:5

パウロは、ペテロ(ケファ)を訪ねてエルサレムに上り、主が自分を、福音を異邦人に宣べ伝える使徒として召し出してくださったことを証ししましたが(1:18)、その14年後に、彼らはバルナバとテトスと一緒に再びエルサレムに上り、「おもだった人たち」、すなわち、キリストから最初に選ばれた使徒たちを含むメンバーと会う機会を得ました。そこで彼は、自分が行なってきた福音宣教と、その中で直面することになった偽教師たちによる誤った教えについて、彼らに報告したのです。そのことを手紙に記す中でパウロが強調していること、それは、自分が宣べ伝えてきた福音はまぎれもなくキリストが人々に語られた教えであって、そのことをおもだった人たちが認めたということです。そして、それはつまり、救われるためには福音を信じるだけでは不十分で、割礼をも受けなければならないという偽教師たちの主張は、明らかに間違っているということなのです(3,7節)。「…私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました…」(2節)。「走って」とパウロが繰り返していることが心に留まります。「走る」という行為は、早く前に進むためのものですが、自分にまとわりついたり、害を加えようとする敵、悪者を振り切る、という意味でもある、ということを教えられます。パウロはそのようにして、偽教師たちによって主の働きが妨げられ、福音宣教の前進が滞ることがないようにするために、自分は日々奮闘している…と告白しているのです。そのような強い意志と堅い決意をもって、福音がまだ届けられていない地に出て行き、そこにいる一人でも多くの人々が福音を信じて救いにあずかるために、限られた時間の中で、それが少しでも進むようにと願い、「走って」いるのです。私たちもパウロに倣い、召されている主の働きを全うする者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章11-24節◇(6月6日)

「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」…ガラテヤ1:11b-12

パウロは、かつて自分が熱心なユダヤ教徒として、当時は異端だと思っていたキリストの教え、福音を信じる人々と、その群れが集う教会を激しく迫害していたことを告白しています。そして、そんな自分が、神の選びとご計画の中でキリストにとらえられ、啓示を受け、180度変えられ、今度はキリストの福音を異邦人に伝える者とされたのだと語っています。パウロがここで、そのことをあらためて明らかにしている理由、それは、自らの使徒性が確かなものであるという自己弁護の意味合いがあります。しかしそれ以上に、ガラテヤの人々に宣べ伝えた福音が、主イエスご自身から直接与えられた使信であって、それをだれかから受けたのでも、教えられたのでもないということを強調し、人の考えによる教えを伝えている偽教師たちとの違いを際立たせたいという思いがあったからなのです。「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされた…」とパウロは語っています。彼は、ダマスコへの途上で突然光に照らされて倒れ、キリストの十字架と復活による罪の贖いという、驚くべき神の恵みが啓示されたときのことを、思い出していたに違いありません。「生まれる前から、私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」。詩篇の作者もそのように主に告白しています(詩篇22:10)。そして私たち一人ひとりもまた、母の胎にあるときから神に愛され、選ばれ、主にあって生きる者となるように定められていたのです。それは人知を越えた奇しい神のご計画であって、私たちの人生は決して、自分が計画したように歩むものではないのです。神の御手の中で導かれ、主に用いられる者でありたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章1-10節◇(6月5日)

「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」…ガラテヤ1:10

パウロは、アジアのガラテヤ地方にある諸教会に宛てた手紙の最初の挨拶において、自分が使徒とされたのは人によることではなく、父なる神とキリストによることなのだと強調しています(1節)。そしてそれは、当時、教会の中に入り込み、福音とは異なる律法主義的な教えを人々に教えて惑わしていた偽教師たちが、パウロの使徒性を疑問視し、それを人々にも語っていたからです。「私は驚いています」と、パウロは挨拶を終えると、いきなりそのような書き出しで本論に入っています。なぜなら、ガラテヤの聖徒たちが「ほかの福音」、すなわち偽教師たちの誤った教えに心動かされ、パウロが伝えた福音を捨て、そちらに乗り換えるような態度を取っていたからです。パウロはそれを看過できなかったのです。パウロはそのように、聖徒たちが偽教師たちに惑わされ、いとも簡単にキリストの福音を捨てることを嘆き、暗に彼らを責めています。そしてそれ以上に、福音を勝手に変えている偽教師たちを強く非難し、「そのような者はのろわれるべきです」と繰り返しているのです(8,9節)。偽教師たちは、人々が自分たちの教えに従うことに優越感を覚え、自己満足していましたが、それはまさに、パウロが言う「人々に取り入ろうと」するあり方でした。しかしパウロには、そのようなことは一切なく、彼は人々を喜ばせようとはしませんでした。なぜなら、人の歓心を買おうとするなら、人に認められようとするなら、それはもはやキリストのしもべのあり方ではないからです。人々に認められ、ほめられることを求めるのか、それとも神のみこころに従い、神からの称賛を得ることを願うのか、それは、私たちの主への奉仕の働きにおいても問われていることなのです。そのことを覚え、神に喜ばれることを追い求める者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 40章16-38節◇(6月4日)

「イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。」…出エジプト40:36-37

モーセは、主から命じられたとおり、何一つその命令と異なることがないように、細部に至るまで忠実に幕屋の設営を行ないました。そしてそれは、ついに完成したのです。「命じられたとおり」ということばが繰り返され、そのことが強調されていることが心に留まります。幕屋が完成するとただちに、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。そして、その主の臨在は圧倒的なものであったため、そのときモーセは、会見の天幕に入ることができなかったと記されています(35節)。彼は主を畏れ、その場で地にひれ伏したかもしれません。そのようにして主は、モーセとイスラエルの民の前に、ご自身の臨在を雲として現されました。そして主は、常に彼らとともにあり、荒野の旅路を導かれたのです。民は留まっているところからいつ旅立つか、天候や周辺国の民の動きを見て、自分たちが判断したわけではありませんでした。彼らは、雲が幕屋から上ったときに出発し、そうでなければそこに留まり続けたのです。雲が上らないのに勝手に旅立つことはしなかったのです。民は、モーセが40日間シナイ山に留まっていたとき、しびれを切らしてアロンに偶像の神を造らせました。しかしその後、主に立ち返り、すべての「時」は神が定めておられるということを、信仰をもって受けとめたのです。そしてそれは、雲が上るまで待つという「忍耐」と、雲が上ったら、たとえ真夜中であってもただちに出発するという「迅速さ」の両方を、彼らが主から求められていたということを意味しているのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。私たちもまた、時を定めておられる主にすべてを明け渡し、絶えず主を見上げ、忍耐と迅速さをもって、主の確かな導きに応答し従っていく者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 40章1-15節◇(6月3日)

「彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」…出エジプト40:15

40章2-8節には、幕屋全体の配置と設営について、主がモーセに命じられたことが記されています。これは、著者がこの書の最後に、まとめとしてあらためて載せたものだと考えられますが、その記述の最初に出てくるのは、会見の天幕の一番奥にある至聖所に置かれるあかしの箱(契約の箱)です。その中には十戒の石の板2枚、マナの入った壺、アロンの杖が入っており、ケルビムが両端についた「宥めの蓋」で覆われていました(ヘブ9:4-5)。それは主の臨在の象徴ですが、その至聖所に入ることができるのは大祭司のみであり、しかも年に1回の「贖いの日」においてだけであったのです。9-15節には、オリーブの実を搾って得る注ぎの油を取り、幕屋の中のすべてのものにその油を注ぐよう、主がモーセに命じられたことが書かれていますが、その油注ぎは「聖別」を意味していました。すなわち、神の働きに用いられる尊い特別なものとして区別し、取り分け、汚れからきよめるという意味を持っていたのです。「油注ぎ」と「聖別」という2つのことばが、切り離せない「対」のようになって使われていることに心が留まります。そして、その油注ぎがなされたのは、幕屋の中の用具だけではありませんでした。それは大祭司アロンとその子らである祭司に対してもなされたのです(12-15節)。金の子牛を造って祭りを民に促したアロンが、そのように油注がれて大祭司とされる…それは驚くべきことですが、そこには人の理解を越えた神の選びがあったのです。新約の時代においては、キリストに贖われた聖徒たちが祭司とされています(1ペテ2:9)。使徒ヨハネは「あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっている…」と言っています。私たちは、霊的な油注ぎ、聖霊の満たしにより聖別され、主の働きに用いられる尊い者とされているのです。そのことを覚えたいと思います。

感謝と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 39章1-21節◇(6月1日)

「エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。主がモーセに命じられたとおりである。」…出エジプト39:5

39章の前半には、幕屋建設の最後の作業として、ベツァルエルとオホリアブが、大祭司アロンの聖なる装束を作ったことが記されています。それをどのように作るかについては、主はすでにモーセを通して詳細に命じており(28章)、彼らは、「主がモーセに命じられたとおり」に(1,5,7,21節)、その奉仕を忠実に果たしたのです。主はまた、イスラエルの民に対して、その装束を作るための材料を各自進んで持って来て献げるようにと、モーセを通して命じていましたが(35:5-9)、彼らもまた、その指示に従いました。青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布は、女性たちの手によって紡がれたものが献げられ、エポデと胸当てにはめ込む縞めのうや他の宝石は、12部族の長によって持って来られ、献げられたのです(35:25,27)。そのようにして、主は民の指導者であるモーセを立てて彼に命じ、それを聞いたモーセはすべてを民に伝え、民は求められた材料を持って来て献げ、ベツァルエルとオホリアブはそれを使って指示どおりに一つ一つを作り、アロンはその聖なる装束を身にまとい、大祭司として神と民との間に立ってとりなしの務めを果たしました。そしてそのどれか一つでも欠ければ、それを担うだれかが一人でも主からの指示に従わないなら、幕屋建設という主のための働きは、完成に至ることがなかったのです。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」(エペ4:16)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちもまた、教会という幕屋、神殿が建て上げられるために、主が尊く用いてくださいます。一人ひとりが、求められているそれぞれの務めを忠実に果たし、互いに受け入れ合い、主によってつなぎ合わされ、愛のうちに建て上げられたいと願います。

忠実に奉仕する者とされますように。