◇聖書箇所: サムエル記 第一 13章◇(6月29日)

「しかし、今や、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。主があなたに命じられたことを、あなたが守らなかったからだ。」…1サムエル13:14

サウルが王となって国を治める中、彼の息子ヨナタンが敵であるペリシテ人の守備隊長を殺害すると、そのことへの報復として、ペリシテ人は、イスラエルと戦うために、圧倒的な戦力をもってミクマスに陣を敷きました。すると、追いつめられたイスラエルの兵たちは、洞穴、地下室、水溜めなどの中に身を隠し、民の中のある者たちは、ヨルダン川を渡ってギルアデに逃げました。一方、サウルはギルガルにとどまりましたが、兵たちはみな恐れて震え、かろうじて彼に従っていたのです(5-7節)。サウルは、サムエルが来て全焼のささげ物を主に献げ、介入を求める嘆願をしてほしいと願っていましたが、7日間待っても彼は来ませんでした。そのような中、兵たちが耐えられずに自分から離れて行こうとしたため、その状況を打破するために、私が着くまで待っていなさい、とサムエルから命じられていたにもかかわらず(10:8)、サウルは勝手に全焼のささげ物を献げたのです。それを知ったサムエルは彼を厳しく非難しました(13-14節)。サウルは「まだ私は主に嘆願をしていないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです」と弁明しました。しかしそれは正しい判断ではなかったのです。たとえサムエルの到着が遅れても、敵が迫って来ても、サウルは主から命じられたとおり、待つべきだったのです。主からの命令、主のみことば、み教えをそのまま受けとめ、それに聞き従う者となる…。そのことが私たちにも求められています。たとえ状況がどうであっても、みことばを割り引いたり、勝手に例外を設けたりしない…。主の命令への不服従により王権が失われてしまうという、サウルの失敗がもたらした厳しい結果をとおして、主に従順に聞き従うことの大切さをあらためて教えられます。どんなときにも自分の考え、判断に頼ることなく、ただ主に拠り頼み、主の介入を待ち望みたいと思います。

信仰と忍耐をもって歩む者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 12章◇(6月28日)

「主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。」…1サムエル12:22

サウルに導かれ、アンモン人との戦いに勝利したイスラエルの民とともに、ギルガルの町に行き、そこであらためて主の前にサウルを王としたサムエルは、自分の身の潔白を民に訴えました(1-6節)。それは、彼の2人の息子が、さばきつかさとして任命されたのにもかかわらず、主を畏れず、利得を追い求めて賄賂を受け取り、正しいさばきを曲げるような者たちであったからです(8:3)。年老いたサムエルにとって、そのことは心の傷となり、また民に対しての負い目となっていたことでしょう。そしてそのことがきっかけとなって、イスラエルの民が王を求めたことを知っていた彼は、イスラエルに王政が樹立された今、その王を立てられた主を民が畏れ、主の御声に聞き従う者となるようにと命じているのです。サムエルは、それまでのイスラエルの歩みを振り返り、主が民の上になされた偉大なみわざについて語りました(7-12節)。主は、奴隷となっていたエジプトから民を導き出し、カナンの地へ住まわせてくださり、そこでの周囲の敵との争いにおいても、助け手を遣わして救い出してくださったのです。ところが民は、その主を捨てて異教の神々に仕えるような、身勝手な者であったのです。それにもかかわらず、愛とあわれみに満ちた主は、ご自身の民を顧み、他国と同じように自分たちにも王が必要だ…と、人間的な思いで王を求めた民に対し、サウルを王として立ててくださったのです(12-13節)。そのことを民が覚え、自らの罪深さ、身勝手さを悔い改め、主の前にへりくだり、主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えるようにとサムエルは民に命じているのです。そしてそれは、キリストに贖われ、神の民として加えられた私たちに対する戒めでもあるのです。「主は…ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされた…」。そのことを感謝しつつ、ますます主の御声に聞き従う者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 11章◇(6月27日)

「サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」」…1サムエル11:13

ヨルダン川の東側に住むアンモン人のナハシュは、兵を率いて、同じく川の東にありガド族の割り当て地の町であるヤベシュ・ギルアデに攻め上りました。ヤベシュの町の人々が契約締結による和平を希望すると、ナハシュは全員の右目をえぐり取ることを条件としたため、町の長老たちはサウルのいるギブアに使者たちを遣わし、自分たちの苦境を訴えて、助けを求めるようにしたのです。その使者たちのことばを聞いたサウルに神の霊が激しく下り、彼のうちに怒りが激しく燃え上がりました。そして、イスラエルの国中から戦士を集めたサウルは、翌日、兵を3組に分け、夜明けにアンモン人の陣営を襲い、昼まで彼らを討って、その戦いに勝利したのです(11節)。サムエルがサウルを王とすべく、「主がお選びになったこの人を見なさい」と民に告げたとき、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑する者たちがいましたが(10:27)、勝利の結果を受けて民は、その者たちを殺すので引き渡してほしいと、サムエルに願い出ました。しかし、それを知ったサウルは彼らを制止し、今日の勝利は主がもたらされたものだと告げて、栄光を主に帰したのです。彼は、人々のことばで誇りを感じたり、軽蔑した者の殺害を容認したりはしなかったのです。激しく燃え上がったサウルの怒り、それは主ご自身の怒りでした。だからこそ、神の霊が彼の上に激しく下り、霊に満たされたサウルは、神の力と知恵と導きを受け、主にあって勝利したのです。それに対して民の怒りは、サウルを軽蔑した者など自分たちの仲間ではない、そんな奴らは殺してしまえ…という感情的、人間的な思いからのものであり、それは主に喜ばれるものではなかったのです。「人の怒りは神の義を実現しないのです」(ヤコ1:20)。ともすれば私たちも、憤って感情的になり、人間的な思いで行動しようとしますが、絶えず主の霊に満たされ、御霊のご支配と導きのうちに歩みたいと思います。

主のみこころをなす者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 10章◇(6月26日)

「これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。」…1サムエル10:7

サムエルは、主から命じられたとおり、サウルの頭に油を注ぎ、彼をイスラエルの王として任命しました。また、父キシュのことを話す2人の人に会い、パンをくれる3人の人に会い、さらに預言者の一団にも出会って、そこで主の霊が激しく下り、彼らと一緒に預言して新しい人に変えられる、と彼に告げました。そして確かに、それらのことはすべて、その日のうちに起こったのです。サムエルはまた、そのときサウルに、それらのしるしが起こったなら、神がともにおられるのだから、自分の力でできることをしなさい、と命じました。そのことが書かれた7節の別訳として、3版では「手当たりしだいに何でもしなさい」とあり、聖書協会共同訳では「ふさわしいと思うことは何でも行ないなさい」とあります。しかしそれは、何でも自分の思いどおりにせよ、という意味ではありません。ともにおられる神が「これをせよ」と示されるなら、ためらわず、恐れず、主から与えられている力によって、積極的に行動せよ、と言うことです。同時に、サムエルはサウルにこのようにも言いました。「私より先にギルガルに下って行きなさい。…私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます」(8節)。主から示され、教えられていないならば、それがなされるまで待たなければならないのです。行なうことと待つことの両方を、サウルは求められたのです。私たちもまた、主の弟子として、躊躇せず、尻込みせず、主のために積極的に行動することが求められています。一方で、私たちの肉の思いにとらわれないようにするという慎重さも必要なのです。そしてそのために、ともにおられる主との親しい交わりを持ち、主の御声を聴くようにするのです。主から「行け」と言われたら速やかに出て行き、「待て」と言われたら忍耐して待つ、そのような、常に従順に主に従うしもべでありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 9章◇(6月25日)

「サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」」…1サムエル9:21

ベニヤミン人キシュの息子サウルは、父から依頼され、いなくなった雌ろばを捜しに、しもべとともに出かけました。彼らは山地を巡り、ベニヤミン中を歩き回りましたが、どうしても見つけることができず、ツフの地においてサウルはあきらめて帰ろうとしました。しかし彼のしもべは、その町にいる神の人サムエルに尋ねるよう進言し、彼らが町に入りかかったとき、ちょうど町から出て来たサムエルと出会うこととなったのです。その前日に、サムエルは、ベニヤミンから来る人に油を注いでイスラエルの君主とせよと、主から告げられていました。そこで、彼がサウルに、「全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか」と言うと、サウルは、自分はイスラエル(ヤコブ)の末っ子を祖とするベニヤミン部族の者であり、自分の家族は、その中のどの家族よりも取るに足りないものだ…と答えたのです。サウルの父キシュは有力者であり、サウル自身、容姿端麗かつ立派な体格の持ち主でしたが、何よりもそのようなへりくだった心こそ、王としてふさわしいものであったのです。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)。へりくだるとは、人からの評価を気にして、自分を必要以上に卑下することではありません。へりくだるとは、そのような表面的なことではなく、何よりも主の前に自らの弱さ、足りなさ、罪深さを認め、心が砕かれることであり、主の主権を認めて、みこころに従順に従う者となることなのです。そして、そのような者を主は喜ばれ、ともにおられ、ご自身の働きのために尊く用いてくださるのです。取るに足りない者に心を留めてくださる主に感謝しつつ、ますますへりくだって歩みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 8章◇(6月24日)

「そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」…1サムエル8:20

サムエルはさばきつかさ(士師)であり、彼の2人の息子もそうでしたが、彼らは、賄賂を受け取ってさばきを曲げ、父のように正しい道に歩んではいませんでした。そこでイスラエルの民はサムエルに対し、他の国と同じように、自分たちをさばく王を立ててほしいと願い出ました。しかし、サムエルにはそれが良いこととは思えなかったため、彼は主に祈り、みこころを尋ね求めました。すると主は、民の言うことを聞き入れよ、ただし、彼らを治める王が有する権利を、はっきりと民に宣言せよと、サムエルに命じられたのです。そこでサムエルは民に対して、王の権利について具体的に明らかにしました。すると民は、それが自分たちにとって大きな負担となることを知り、そのような王の権利は認められないとして拒みましたが、一方で、とにかく王を与えてほしい、どうしても自分たちの上には王が必要なのだと、あくまでも王を立てるよう要求したのです。彼らがそのように固執したのは、他国のように自分たちの上に王がいないのでは、見劣りする、引け目を感じる、という人間的な思いがあったからです。そして彼らは、王の権利は認めたくない、自分たちの負担は増やしたくないと考え、戦いにおいても、王は自分たちの先に立って出陣して戦ってくれるだろうと期待していたのであり、そのように、自分たちはなるべく楽をして、王の力をあてにするという、身勝手な態度であったのです。そしてそれは、目に見えない神に信頼するよりも、目に見える王がいれば安心できる、他国と対等な立場になれるという発想であり、それは、神ご自身が王として民を治めるという(7節)、神が願っていたあり方、みこころではなかったのです。神がご自身の民に求めておられるのは、見えないご自身に目を留め、信仰によって歩むことであるということを、しっかりと心に留めたいと思います。

ただ主に拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 6章◇(6月22日)

「ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところに上って行くのだろうか。」」…1サムエル6:20

ペリシテ人によって奪われた神の箱が、彼らの領主たちがいるアシュドデ、ガテ、エクロンと運び移されるたびに、主はそれらの町の住民を腫物で打たれました(5章)。そこでエクロンの人々は神の箱をイスラエルに戻したいと考え、災いを恐れた人々がその適切なやり方を祭司と占い師たちに尋ねると、彼らは、2頭の雌牛が引く車に神の箱を載せ、腫物を表す5つの金のねずみの像を作り、償いのための貢ぎとして箱に添えるよう指示しました。人々がそのとおりにして神の箱を送り出すと、車を引いた雌牛は、イスラエルの領土内にあるベテ・シェメシュの町への道をまっすぐに進み続け、国境を越えて、畑に入ったところで止まりました。神の箱が戻って来たことを知ったその町の人々は喜び、さっそく神の箱と金の品物の入った鞍袋を降ろし、引いて来た2頭の雌牛を全焼のいけにえとして主に献げました。ところが主は、その町の人々を激しく打たれたのです。彼らが神の箱を開けてその中を見たからです。そこで人々は、近くの町キルヤテ・エアリムの住民に使者を遣わし、返された神の箱をそちらに運び上げてほしいと要請しました(21節)。ベテ・シェメシュの住民は、神の箱の中身を見たいという人間的な思いから、主を畏れることなく、興味本位で、主の臨在の象徴である神の箱を開けてしまいました。しかし、主に打たれて喪に服した彼らが告白したとおり(20節)、神は聖なるお方であって、人はその主の前に、絶えず畏れをもって歩まなければならないのです。彼らの行動と態度は、主の前に軽率で不遜なものだったのです。主を畏れるとは、「恐がる」ことではありません。主の主権を認め、その主の前に自らを低くし、主のことばに従順に聞き従うことなのです。「隔ての幕」を取り除かれたキリストの贖いを感謝しつつ、どんなときにも主を畏れ、御霊の導きのうちに歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 5章◇(6月21日)

「それがガテに移された後、主の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。」…1サムエル5:9

ペリシテ人との戦いで大敗したイスラエル人は、大切な主の契約の箱を敵に奪われてしまいました。そしてそれは、本来、神殿に置かれるべき神の箱を、イスラエルの民が人間的な考えで安易に戦場に運び込んだことがきっかけであり、また、エリと二人の息子が主の前に犯した罪と咎のゆえに、主がなされたことであったのです。ペリシテ人はその箱を、地中海沿岸の町アシュドデに移し、彼らが信じる異教の神ダゴンの神殿の中に運び入れ、ダゴンの像の傍らに置きました。そして、人々が朝早く起きて見ると、なんとダゴンが神の箱の前にうつぶせになって倒れ、それを元に戻しても、翌朝にも同じようになり、しかも今度はその頭と両手が切り離されていたのです。その上、その町と地域の人々がみな腫物で苦しむようになったため、人々はその原因がイスラエルの神の箱にあると考え、それを内陸にある町ガテに送りました。その後、ガテにおいても、主の手はその町のすべての人々を打ったため、彼らは腫物に苦しみ、神の箱を厄介もの扱いして、近くの町エクロンに送りました。そしてそこでもまたもや同じことが起こったため、町の人々は領主たちを集めて協議し、それ以上災いが起こらないようにすべく、神の箱をイスラエルに戻すこととしたのです。「主の手」(6,9節)、「その手」(7節)、「神の手」(11節)と繰り返されていることに心が留まります。その神の手、主の御手は、神を畏れ、主に拠り頼む者にとっては、何ものにもまさる助け、力となりますが、そうでない者にとっては、自らの上に重くのしかかり、恐れと苦しみをもたらすものとさえなるのです。そしてそのことを通して主は、すべての者がご自身の存在を信じて、主に立ち返るようにと願っておられるのです。主にすべてを明け渡し、その力強い御手の中で守られ、支えられ、導かれ、主の栄光を拝しつつ歩む者でありたいと思います。

主の御力がますます現わされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 4章◇(6月20日)

「知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」」…1サムエル4:17

イスラエルとペリシテ人との間に戦いが起こりました。それぞれ、エベン・エゼルとアフェクに陣を敷いて対峙し、最初の戦いではイスラエルがペリシテ人に打ち負かされ、4千人が打ち殺されました。するとイスラエルの長老たちは、主の契約の箱を自陣内に置けば、それが敵の手から自分たちを守ってくれるに違いないと考え、シロに兵を送ってその神の箱を持って来させました。主の契約の箱が到着すると、全イスラエルは神の臨在と力が自分たちの中にもたらされたことを喜び、大歓声をあげ、それはペリシテ人の陣営にも届くほどでした。ペリシテ人はその大歓声が起きた理由を知ると恐れを抱き、「ああ、困ったことだ」と言いましたが、危機感を持ったペリシテ人は奮い立ち、勇敢にイスラエルと戦い、彼らは結局、大勝利を収め、その戦いでは3万人もの多くのイスラエルの兵士が打ち殺されることとなったのです。神の箱は奪われました。祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスも戦死しました。神の人がエリに告げたとおり(2:34)、神が二人をさばかれたのです。そして、生き残った一人の者が戦場からシロに来て起こったことを知らせると、イスラエルの民は悲しんで泣き叫び、またエリは、その者から報告を直接聞いたとたん、あおむけに倒れ、首を折って死んだのです(18節)。主の契約の箱はイスラエルにとって特別な存在でした。しかしその箱自体が特別なのではなく、それが象徴している主が、その箱が置かれるところでご自身の臨在と御力と栄光をもたらされたのです。民もエリもピネハスの妻も、目に見える箱そのものにとらわれていましたが、彼らには、見えない主を畏れ、主に期待し、主のみこころに従う「心」がなかったのです。私たちも目に見えるものにとらわれていないか、自己吟味したいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 3章◇(6月19日)

「エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」」…1サムエル3:17

祭司エリに仕えて主の宮で寝泊まりしていた少年サムエルに対し、主は「サムエル、サムエル」と呼び掛けられました。すると彼は、それが主の声だとはわからずエリの声だと思ったので、すぐに寝床から出てエリのもとに駆けつけました。そしてそのことが3度繰り返されるとエリは、サムエルを呼んだのはほかでもない主なのだ、と悟ったのです。エリはサムエルに、「主よ、お話ください。しもべは聞いております」と言うよう命じました。そう言われて自分のところに戻ったサムエルは、またもや名前を呼ばれたのでエリに言われたとおりに答えました。すると主は彼に、エリのふたりの息子たちの罪深い行いのゆえに、またそれを知っていながら看過したエリの咎のために、彼らの家への永遠のさばきを実行すると告げられたのです。それを聞いたサムエルは、その主のことばをエリに告げることを恐れました。エリがそれを知ってショックを受けるのでは…と思ったからです。しかしエリは、自分と息子たちへのさばきについて、神の人を通して主からすでに聞いていました(2:27-36)。彼のうちには、サムエルから何を聞いても、それを受けとめる覚悟ができていたに違いありません。だからこそ、「私に隠さないでくれ」とサムエルに言い、主のことばを知ったとき、「主が御目にかなうことをなさるように」と告白したのです。「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった」(19節)。それは、預言者として立ったサムエルのことばが、一つもたがわずそのとおり実現したということであり、彼が主のことばをすべて民に伝えたということです。そしてそれは私たちにも求められていることであり、また、自分自身も聖書のみことばを選り好みせずに受け取るべきだと言うことなのです。そのような者でありたいと思います。

主の語りかけを聴くことができますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 2章18-36節◇(6月18日)

「なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」…1サムエル2:29

祭司エリのふたりの息子であるホフニとピネハスは、よこしまな者たちであり、主を畏れて歩んではいませんでした。こともあろうに人々が主にささげるいけにえの肉を取り上げて、自分たちのものにしていました(12-17)。また女性たちと性的な関係を持っていたのです(22節)。ではそれに対し、父親であるエリはどうしたでしょうか。23-25節は彼の息子たちへのことばですが、そこには危機感が感じられません。「主の民が言いふらしているそのうわさを聞くが」と他人事のように言っていますが、エリは自分の息子たちの行動を把握していなかったのです。また「だれがその人のために仲裁に立つだろうか」とも言っていますが、彼は息子たちに対して、主の前に悔い改めるように求めず、自らが仲裁に立とうともしていません。祭司は神の前に出てとりなす者であり、たとえ自分の息子であっても、本来そうすべきなのです。そして主は、神の人をエリのところに遣わし、息子たちの行為について、エリをも含めて「なぜあなたがたは…わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか」と非難し、さらに「わたしよりも自分の息子たちを重んじて…」と、エリ自身のあり方を責められたのです(29節)。「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した」(26節)。この短い文章が、エリと彼の息子たちが非難されている文脈の中で、やみに輝く光のように際立っています。ハンナはサムエルの一生を主にささげました。それに対し、祭司であるエリは自分と息子たちに甘く、彼らは主へのささげもので自分たちを肥やしたため、「わたしを蔑む者」と主に言われたのです(30節)。主にささげるべきものを自分のものにしていないか…自分や身内に甘い態度を取っていないか…。彼らを反面教師として、自らを省みたいと思います。

主の前に真実に歩む者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 2章1-17節◇(6月17日)

「おごり高ぶって、 多くのことを語ってはなりません。 横柄なことばを口にしてはなりません。 まことに主は、すべてを知る神。 そのみわざは測り知れません。」…1サムエル2:3

ずっと子が与えられず、夫エルカナのもう一人の妻ペニンナからそのことで苛立たせられ、怒りをかき立てさせられていた妻ハンナは、男の子を求めて主に祈り、それが聞かれると、その子を主の家に連れて行きました。そして祭司エリの前で、「この子を主におゆだねいたします」(1:28)と告白し、その子を主に献げたのです。2章1-10節には、賛歌のような彼女の祈りが書かれています。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです」(1節)。ペニンナにいじめられるハンナの心は、苦しみ、傷ついていました。彼女は泣き、怒り、自らの窮状を訴え、男の子を求めて主に叫びました。すると、すべてを知っておられる主はその祈りを聞き、彼女の胎を開いてくださったのです。「勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます」(4-5節)。そのように主は、どのような逆境にあってもご自身に拠り頼む者をかえりみて、逆転勝利を与えてくださいます。たとえ今がそうでなくても、そのように変わる兆しが見えなくても、主はこの世界を創造され、すべてを統べ治めておられる主権者であって、そのお方が、私たちの考えを越えた、奇しいみわざを現わしてくださるのです。神による逆転勝利…その頂点は主の復活です。神は御子を死者の中から引き上げ、栄光の位につかせ、その御子は、御国の王として、今もすべてを統治しておられます。そして神は、いつの時代でも同じように、ご自身に信頼する者たちに逆転勝利をもたらしてくださるのです。そのことを信じ、主を待ち望み続けたいと思います。

主にあって勝利することができますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 6章◇(6月15日)

「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」…ガラテヤ6:2

パウロは、偽教師たちの教えに惑わされて混乱しているガラテヤ教会の信徒たちに対し、彼らに宛てて書いた手紙を閉じるにあたって、共同体における交わりのあるべき姿について述べ、互いに励まし合い、戒め合い、重荷を負い合うことの大切さについて教えています。そしてそれは、パウロが新しいことを語り始めるのではなく、彼が彼らにこの手紙の中で教えてきたこと、すなわち「愛をもって互いに仕え合いなさい」(5:13)、「御霊によって進もうではありませんか」(5:25)というあり方に基づくものです。パウロは、教会の中でだれかが過ちに陥っているならその人を正してあげなさい、ただし柔和という御霊の実を結んでいるあなたがたは、その柔和な心でそうすべきであって、その人を厳しく非難してさばくべきではない、と言っているのです(1節)。さらにパウロは、その際に自分は正しいとうぬぼれてはならない、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言っています。聖徒たちを、神の恵み、信仰の道から引き離そうとする悪しき者の誘惑は巧妙であり、弱く罪深い私たちが、同じように過ちに陥ってしまう可能性があることを思い、パウロは、へりくだること、自己吟味することの大切さを教えているのです(3-4節)。「互いの重荷を負い合いなさい」。パウロがここで想定している重荷とは、1-5節の文脈を考えるなら、教会の中でそれぞれが担っている責任や具体的な奉仕というよりもむしろ、一人ひとりの罪の性質のゆえに、肉に死にきれない弱さのために、教会の中で生じるさまざまな否定的な事柄や人々の思いであると言えます。そしてそれを主にあって赦し合うなら、「重荷を負い合う」ことになるのです。「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ3:13)。そのようにして、キリストの律法の成就、主のみこころの実現を願い求めたいと思います。

主の道をまっすぐに歩むことができますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 5章13-26節◇(6月14日)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」…ガラテヤ5:24-25

キリストにある聖徒たちにもたらされた、罪からの、また律法ののろいからの解放と自由を強調してきたパウロは、5章の後半において、その与えられている自由を肉の働く機会としないようにと注意を促し(13節)、「御霊によって歩みなさい」(16節)とガラテヤの聖徒たちに命じています。そこでは肉と御霊が対立的に示され、御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいないのだと、パウロは断言しているのです(17-18節)。さらにパウロは、その肉の働きとして、神に喜ばれないふるまいについて、15以上におよぶ具体的なことを挙げています(19-21節)。そしてそこには、汚れたこと、神以外のものに心寄せること、自己中心的なこと、他者に対する誤った態度などが書かれており、そのような者たちは神の国を相続できないと、パウロは告げているのです。一方、御霊が結ばせてくださる実として、パウロは、神に喜ばれるあり方について、9つの具体的なことを挙げています。それらは、神によって私たちの内に満たされる良きものであり、他者に対するあるべき態度であり、キリストご自身のうちに見られるご性質であって、そのように御霊は、聖徒たち一人ひとりを、栄光から栄光へと、主の似姿に変えてくださるお方なのです(2コリ3:18)。キリストに贖われた私たちは、この地上にいる限り、肉体をもって歩み続けることになります。しかし、パウロが言うように、私たちの罪ある汚れた肉は、情欲とともにキリストの十字架につけられたのであって、私たちはもはや、肉を喜ばせる歩みではなく、御霊の支配の下に置かれ、御霊の導きに従って進む者とされているのです。肉によってではなく御霊によって生きる者なのです。古い契約、律法という文字に仕える者ではなく、新しい契約、御霊に仕える者とされているのです(2コリ3:6)。自分がそのような者であることを覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 5章1-12節◇(6月13日)

「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」…ガラテヤ5:1

4章の後半においてパウロは、アブラハムの妻サラの子イサクと女奴隷ハガルの子イシュマエルとを対立的に示し、それが律法による古い契約とキリストによる新しい契約の比喩であることを述べましたが、続く5章においては、さらにそこから話を展開し、キリストが私たちにもたらされた、奴隷からの解放と自由について語っています。パウロは言います。キリストは罪の奴隷、律法の奴隷から私たちを解放して自由を得させてくださったのに、救いのためには割礼も受けなければならないという、偽教師たちの誤った教えに従うなら、それは再び奴隷のくびきを負うことなのだ、キリストがもたらしてくださった恵みを台無にし、益を無意味なものにすることなのだと。さらに彼は続けます。そのようにして、あなたがたが律法によって神から義と認められようとするのなら、割礼を受けるだけでは不十分であって、すべての律法を一つも漏らさず守り通さなければならないのだ。そしてそのようにして後戻りしようとするなら、それは、そうすることが不可能な罪深い私たちのために神から遣わされ、代わりに律法を成就してくださったキリストからあなたがたが離れ、その恵みから落ちてしまっているのだと。そのようにパウロは、ガラテヤの聖徒たちを叱責するような強い口調で語る一方、「あなたがたはよく走っていたのに」(7節)、「あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています」(10節)と言って、彼らを励ましています。そして、「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです」(6節)と、信仰の大切さをあらためて強調しています。「愛によって働く」とは、神の無償の愛、無条件の愛、永遠の愛への感謝と喜びから生まれるもの、その愛への応答ということです。その愛を絶えずしっかりと受けとめたいと思います。

主の愛が豊かに注がれますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 4章21-31節◇(6月12日)

「こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。」…ガラテヤ4:31

パウロは、21-31節において、アブラハムの2人の息子、イサクとイシュマエル、またそれぞれの母である、正妻サラと彼女の女奴隷ハガルのことを語っています。そして彼は、その両者の関係が、福音の正しい理解による信仰のあり方と、誤った理解による律法主義的な生き方の対立的な関係の比喩だとして、論を進めているのです。「今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっている…」(25節)。「肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています」(29節)。エルサレム教会には、ユダヤ主義的、律法主義的なキリスト者が多くいました。彼らにとって、安息日の規定、割礼、食材、異邦人に関することなどの教えは、守らなければならない絶対的な命令でした。ゆえに、キリストへの信仰のみによる救いを強調するパウロは、彼らの目には異端者であり、その教えを信じる群れである異邦人教会は、非難すべき対象であったのです。そしてそれは、イシュマエルがイサクをばかにし(創21:9)、ハガルがサラを軽蔑した(創15:4)のと同じことである、それが比喩的な意味を持っているのだ…というのが、パウロの主張なのです。「この女たちは二つの契約を表わしています」(24節)。その2つの契約とは、ハガルが表わしている、動物の血による贖いが必要とされる律法による古い契約であり、その契約を成就するために神が遣わされた救い主、キリストの血による贖いに基づく、恵みによる新しい契約です。「しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です」(26節)。パウロは、地上の今のエルサレムを、律法主義的キリスト者を意味するところとして、また「上にあるエルサレム」を、天の御座、そしてやがて「新しいエルサレム」(默21:2)としてキリスト者が迎え入れられるところとして対照的に示しています。彼が伝えようとした真理をしっかりと受け取り、約束によって生まれた自由の子として歩み続けたいと思います。

主からの平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 4章1-20節◇(6月11日)

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」…ガラテヤ4:7

「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(3:29)と述べたパウロは、「つまりこういうことです」と言って、さらに、「奴隷」、「子」という身分と関連付けながら、その相続人の立場について説明を加えています。「奴隷」とはつまり、主人の命令に従う者、主人に常に仕える者であって、そこには自由がありません。パウロは、この世の相続人が子どものうちはまだ相続権を有していないのと同様に、私たちも、霊的に未熟なときには、この世のもろもろの霊の奴隷であり、自由を奪われた者、相続権を持つ者ではなかったと言っています(3節)。しかし神は、そんな私たちのために、ご自分の御子を遣わし、御子の十字架と復活による贖いによって律法の下にある私たちを贖い出し、神の子どもとしての特権を与えてくださったのです(4-5節)。それゆえに私たちは、もはや奴隷ではなく神の子とされ、神を「アバ、父よ」と親しく呼び求める者(6節)、アブラハムの霊的な子孫として、神の豊かな祝福を相続する者とされたのです。「どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか」(9節)。偽教師たちの律法主義的な誤った教えに心奪われてしまったガラテヤの聖徒たちを、パウロはそのように言って嘆いています。「弱くて貧弱な、もろもろの霊」という部分を、前の3版では、「無力、無価値の幼稚な教え」と訳していますが、それは、人の作り出した愚かな考え、あるいは宗教的な教えであり、そこには真理はなく、いのちがないのです。それらに拠り頼んで歩もうとするなら、その者は困惑し、混乱し、失望するだけなのです。そしてそれは、「本来神ではない神々」(8節)であって、今も多くの人々がその奴隷となっているのです。律法主義、人間中心主義に捕われ、自由を奪われているのです。私たちもそのような過ちに陥らないように、自らの身分をしっかり覚え、みことばに立ち続けたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 3章15-29節◇(6月10日)

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」…ガラテヤ3:24

「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」(3:9)と述べたパウロはさらに、神が、アブラハムとの間で結ばれた契約と、その後430年経ってモーセを通してイスラエルの民に与えられた律法と、ご自身の御子であるイエスを地上に遣わされ、そのキリストの十字架と復活の贖いによってもたらされた救いの関係について、人々の間で結ばれる一般的な契約のことにも触れつつ、手紙の読者に対してなるべくわかりやすい説明をしようとしています。神のアブラハムとの契約は、律法によって無効にされることはない、彼に相続の恵みを約束された神が、その約束を反故にされることなどない、とパウロは強調しています(17-18節)。そして、アブラハムへの祝福がキリストによって異邦人にも及ぶならば、神がご自身の民に与えられた律法はいったい何のためにあるのか…。パウロはそのように議論を進め、その役割を明らかにするのです。「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」。「養育係」ということばが心に留まります。それは、文字どおり、親とは別に、子どもを預かって養い育てるように委託されている者であり、その働きは、子どもが成長するまでの一時的なものなのです。養育する必要がなくなればその者は、当然ながらお役御免となるのです。パウロは「律法ののろい」(3:9)、「律法の下で監視され」(23)とも言っていますが、彼は律法を否定しているのではなく、罪ある人間が律法を守り抜くことはできない、律法は人にいのちを与えられず、神から義と認められるためにあるのではない…。律法を守り通そうとしてもできない自分、うちにある罪を人が思い知らされ、その罪から救われたいともがき苦しむ中で、キリストへと導かれるために、神が与えられたものだと言うのです。私たちがキリストへの信仰によってアブラハムの祝福に預かり、神の子どもとされていることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 2章11-21節◇(6月8日)

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。」…ガラテヤ2:19

「ところが…」(11節)と書き出すパウロは、エルサレムにおける、最初の使徒たちを含む主要なメンバーたちとの話し合いにより、異邦人が救われるために、キリストへの信仰に加えて割礼を求められることはない、とはっきり決まったのにもかかわらず、ケファ、つまりペテロが、その決議に反するような行動をしたため、彼がアンティオキアに来た際に抗議したことを記しています。そのペテロの行動とは、それまでは異邦人と一緒に食事をしていた彼が、「ある人たち」-それはおそらく<異邦人は汚れているのだからその彼らと交わることは律法にかなっていない>と考える保守派の者たち-彼らがヤコブのところから来ると、その者たちや、さらに異邦人の割礼を主張する者たちからも非難されることを恐れ、異邦人との接触を避けるようにしてしまった、そのことを指しています。そしてその彼の対応は、他のユダヤ人の聖徒たちにも悪影響を及ぼしたのです。だからこそ、パウロは憤ってペテロを公然と非難し、責めたのです。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」とパウロは告白しています(16節)。さらに彼は、「肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです」と言っています。それはもちろん、ユダヤ人にも異邦人にもすべての人にあてはまることなのです。すべての人は罪人であって、律法を全うされたイエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされるのです。そして、「信仰によって義とされる」という意味は、信じるという「行い」を自分の努力、肉によって頑張ることではないのです。神が私たちを義と認めてくださる根拠は、あくまでキリストにあるのです。律法に死んだ私たちがキリストにあって生きる者とされた…。神のその一方的な恵み、愛とあわれみを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 2章1-10節(6月7日)

「私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。」…ガラテヤ2:5

パウロは、ペテロ(ケファ)を訪ねてエルサレムに上り、主が自分を、福音を異邦人に宣べ伝える使徒として召し出してくださったことを証ししましたが(1:18)、その14年後に、彼らはバルナバとテトスと一緒に再びエルサレムに上り、「おもだった人たち」、すなわち、キリストから最初に選ばれた使徒たちを含むメンバーと会う機会を得ました。そこで彼は、自分が行なってきた福音宣教と、その中で直面することになった偽教師たちによる誤った教えについて、彼らに報告したのです。そのことを手紙に記す中でパウロが強調していること、それは、自分が宣べ伝えてきた福音はまぎれもなくキリストが人々に語られた教えであって、そのことをおもだった人たちが認めたということです。そして、それはつまり、救われるためには福音を信じるだけでは不十分で、割礼をも受けなければならないという偽教師たちの主張は、明らかに間違っているということなのです(3,7節)。「…私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました…」(2節)。「走って」とパウロが繰り返していることが心に留まります。「走る」という行為は、早く前に進むためのものですが、自分にまとわりついたり、害を加えようとする敵、悪者を振り切る、という意味でもある、ということを教えられます。パウロはそのようにして、偽教師たちによって主の働きが妨げられ、福音宣教の前進が滞ることがないようにするために、自分は日々奮闘している…と告白しているのです。そのような強い意志と堅い決意をもって、福音がまだ届けられていない地に出て行き、そこにいる一人でも多くの人々が福音を信じて救いにあずかるために、限られた時間の中で、それが少しでも進むようにと願い、「走って」いるのです。私たちもパウロに倣い、召されている主の働きを全うする者でありたいと願います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章11-24節◇(6月6日)

「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」…ガラテヤ1:11b-12

パウロは、かつて自分が熱心なユダヤ教徒として、当時は異端だと思っていたキリストの教え、福音を信じる人々と、その群れが集う教会を激しく迫害していたことを告白しています。そして、そんな自分が、神の選びとご計画の中でキリストにとらえられ、啓示を受け、180度変えられ、今度はキリストの福音を異邦人に伝える者とされたのだと語っています。パウロがここで、そのことをあらためて明らかにしている理由、それは、自らの使徒性が確かなものであるという自己弁護の意味合いがあります。しかしそれ以上に、ガラテヤの人々に宣べ伝えた福音が、主イエスご自身から直接与えられた使信であって、それをだれかから受けたのでも、教えられたのでもないということを強調し、人の考えによる教えを伝えている偽教師たちとの違いを際立たせたいという思いがあったからなのです。「しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされた…」とパウロは語っています。彼は、ダマスコへの途上で突然光に照らされて倒れ、キリストの十字架と復活による罪の贖いという、驚くべき神の恵みが啓示されたときのことを、思い出していたに違いありません。「生まれる前から、私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」。詩篇の作者もそのように主に告白しています(詩篇22:10)。そして私たち一人ひとりもまた、母の胎にあるときから神に愛され、選ばれ、主にあって生きる者となるように定められていたのです。それは人知を越えた奇しい神のご計画であって、私たちの人生は決して、自分が計画したように歩むものではないのです。神の御手の中で導かれ、主に用いられる者でありたいと願います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ガラテヤ人への手紙 1章1-10節◇(6月5日)

「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。」…ガラテヤ1:10

パウロは、アジアのガラテヤ地方にある諸教会に宛てた手紙の最初の挨拶において、自分が使徒とされたのは人によることではなく、父なる神とキリストによることなのだと強調しています(1節)。そしてそれは、当時、教会の中に入り込み、福音とは異なる律法主義的な教えを人々に教えて惑わしていた偽教師たちが、パウロの使徒性を疑問視し、それを人々にも語っていたからです。「私は驚いています」と、パウロは挨拶を終えると、いきなりそのような書き出しで本論に入っています。なぜなら、ガラテヤの聖徒たちが「ほかの福音」、すなわち偽教師たちの誤った教えに心動かされ、パウロが伝えた福音を捨て、そちらに乗り換えるような態度を取っていたからです。パウロはそれを看過できなかったのです。パウロはそのように、聖徒たちが偽教師たちに惑わされ、いとも簡単にキリストの福音を捨てることを嘆き、暗に彼らを責めています。そしてそれ以上に、福音を勝手に変えている偽教師たちを強く非難し、「そのような者はのろわれるべきです」と繰り返しているのです(8,9節)。偽教師たちは、人々が自分たちの教えに従うことに優越感を覚え、自己満足していましたが、それはまさに、パウロが言う「人々に取り入ろうと」するあり方でした。しかしパウロには、そのようなことは一切なく、彼は人々を喜ばせようとはしませんでした。なぜなら、人の歓心を買おうとするなら、人に認められようとするなら、それはもはやキリストのしもべのあり方ではないからです。人々に認められ、ほめられることを求めるのか、それとも神のみこころに従い、神からの称賛を得ることを願うのか、それは、私たちの主への奉仕の働きにおいても問われていることなのです。そのことを覚え、神に喜ばれることを追い求める者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 40章16-38節◇(6月4日)

「イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。」…出エジプト40:36-37

モーセは、主から命じられたとおり、何一つその命令と異なることがないように、細部に至るまで忠実に幕屋の設営を行ないました。そしてそれは、ついに完成したのです。「命じられたとおり」ということばが繰り返され、そのことが強調されていることが心に留まります。幕屋が完成するとただちに、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。そして、その主の臨在は圧倒的なものであったため、そのときモーセは、会見の天幕に入ることができなかったと記されています(35節)。彼は主を畏れ、その場で地にひれ伏したかもしれません。そのようにして主は、モーセとイスラエルの民の前に、ご自身の臨在を雲として現されました。そして主は、常に彼らとともにあり、荒野の旅路を導かれたのです。民は留まっているところからいつ旅立つか、天候や周辺国の民の動きを見て、自分たちが判断したわけではありませんでした。彼らは、雲が幕屋から上ったときに出発し、そうでなければそこに留まり続けたのです。雲が上らないのに勝手に旅立つことはしなかったのです。民は、モーセが40日間シナイ山に留まっていたとき、しびれを切らしてアロンに偶像の神を造らせました。しかしその後、主に立ち返り、すべての「時」は神が定めておられるということを、信仰をもって受けとめたのです。そしてそれは、雲が上るまで待つという「忍耐」と、雲が上ったら、たとえ真夜中であってもただちに出発するという「迅速さ」の両方を、彼らが主から求められていたということを意味しているのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。私たちもまた、時を定めておられる主にすべてを明け渡し、絶えず主を見上げ、忍耐と迅速さをもって、主の確かな導きに応答し従っていく者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 40章1-15節◇(6月3日)

「彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」…出エジプト40:15

40章2-8節には、幕屋全体の配置と設営について、主がモーセに命じられたことが記されています。これは、著者がこの書の最後に、まとめとしてあらためて載せたものだと考えられますが、その記述の最初に出てくるのは、会見の天幕の一番奥にある至聖所に置かれるあかしの箱(契約の箱)です。その中には十戒の石の板2枚、マナの入った壺、アロンの杖が入っており、ケルビムが両端についた「宥めの蓋」で覆われていました(ヘブ9:4-5)。それは主の臨在の象徴ですが、その至聖所に入ることができるのは大祭司のみであり、しかも年に1回の「贖いの日」においてだけであったのです。9-15節には、オリーブの実を搾って得る注ぎの油を取り、幕屋の中のすべてのものにその油を注ぐよう、主がモーセに命じられたことが書かれていますが、その油注ぎは「聖別」を意味していました。すなわち、神の働きに用いられる尊い特別なものとして区別し、取り分け、汚れからきよめるという意味を持っていたのです。「油注ぎ」と「聖別」という2つのことばが、切り離せない「対」のようになって使われていることに心が留まります。そして、その油注ぎがなされたのは、幕屋の中の用具だけではありませんでした。それは大祭司アロンとその子らである祭司に対してもなされたのです(12-15節)。金の子牛を造って祭りを民に促したアロンが、そのように油注がれて大祭司とされる…それは驚くべきことですが、そこには人の理解を越えた神の選びがあったのです。新約の時代においては、キリストに贖われた聖徒たちが祭司とされています(1ペテ2:9)。使徒ヨハネは「あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっている…」と言っています。私たちは、霊的な油注ぎ、聖霊の満たしにより聖別され、主の働きに用いられる尊い者とされているのです。そのことを覚えたいと思います。

感謝と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所: 出エジプト記 39章1-21節◇(6月1日)

「エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。主がモーセに命じられたとおりである。」…出エジプト39:5

39章の前半には、幕屋建設の最後の作業として、ベツァルエルとオホリアブが、大祭司アロンの聖なる装束を作ったことが記されています。それをどのように作るかについては、主はすでにモーセを通して詳細に命じており(28章)、彼らは、「主がモーセに命じられたとおり」に(1,5,7,21節)、その奉仕を忠実に果たしたのです。主はまた、イスラエルの民に対して、その装束を作るための材料を各自進んで持って来て献げるようにと、モーセを通して命じていましたが(35:5-9)、彼らもまた、その指示に従いました。青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布は、女性たちの手によって紡がれたものが献げられ、エポデと胸当てにはめ込む縞めのうや他の宝石は、12部族の長によって持って来られ、献げられたのです(35:25,27)。そのようにして、主は民の指導者であるモーセを立てて彼に命じ、それを聞いたモーセはすべてを民に伝え、民は求められた材料を持って来て献げ、ベツァルエルとオホリアブはそれを使って指示どおりに一つ一つを作り、アロンはその聖なる装束を身にまとい、大祭司として神と民との間に立ってとりなしの務めを果たしました。そしてそのどれか一つでも欠ければ、それを担うだれかが一人でも主からの指示に従わないなら、幕屋建設という主のための働きは、完成に至ることがなかったのです。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」(エペ4:16)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちもまた、教会という幕屋、神殿が建て上げられるために、主が尊く用いてくださいます。一人ひとりが、求められているそれぞれの務めを忠実に果たし、互いに受け入れ合い、主によってつなぎ合わされ、愛のうちに建て上げられたいと願います。

忠実に奉仕する者とされますように。