◇聖書箇所: サムエル記 第一 29章◇(7月22日)

「そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。…」…1サムエル29:6

サウルに追われていたダビデは、部下とともにペリシテの王アキシュのところに行き、表向きは王に仕える姿勢を見せたため、ペリシテ人の地に住むようになりました(27章)。その後、すっかり気を許したアキシュは、ダビデを自分の護衛に任命しましたが(28:2)、ペリシテ人たちがイスラエルと戦うために陣を敷いたので、ダビデたちは同胞と戦わざるを得なくなってしまったのです。いざ出陣、というときになり、ペリシテ人の領主たちは、ダビデたちが自分たちの隊に加わっているのを見て驚きました。そして、なぜ自分たちの敵であるヘブル人がここにいるのか、この男はサウルにまさる戦果を上げたダビデではないかと言い、ダビデたちが戦いの途中で寝返ることを危惧し、帰らせるようアキシュに訴えたのです。領主たちの反発は強く、アキシュはダビデたちを外すことを余儀なくされました。王はダビデに事情を説明して離脱するよう説得しましたが、彼は開口一番、「主は生きておられる」と言ったのです。私はあなたが忠誠を尽くしているのをよく知っている…自分としては行動をともにしてもらいたかったが領主たちが認めないのだ…と彼は言っていますが(6節)、主の名を出せば、ダビデたちも納得するだろうと、アキシュは考えたのでしょう。そう言われたダビデは、なぜ出陣が許されないのか…とアキシュに反論しましたが、内心はほっとし、主に感謝したに違いありません。イスラエル人同士が戦うという事態を免れたからです。「主は生きておられる」とは、主がすべてを統べ治めておられ、ご自身のみこころをなされるという告白にほかなりません。このとき、主ご自身がそれをアキシュに言わしめたのです。それは真実であったのです。「主は生きておられる」…。私たちもそう告白し、その主にますます信頼したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 26章◇(7月19日)

「主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。」…1サムエル26:23

サウルを殺す機会が再びダビデに与えられました。ハキラの丘に陣を敷いたサウルと3千人の兵たちの様子を、夜になってダビデとアビシャイが密かに探りに行くと、彼らは幕営の中で熟睡しており、そこにいたサウルの枕もとの地面には槍が突き刺してあったのです。それを見たアビシャイはただちにサウルを殺そうとしましたが、ダビデはそれを認めようとはしませんでした(9節)。彼は、王が「主に油注がれた方」だと、認めていたからです。「主に油注がれた方」…そのダビデのことばは、26章の中で4回(9,11,16,23節)、24章にも2回(6,10節)出てきます。絶えずいのちをつけ狙われていたダビデにとって、サウルさえいなくなれば…と考えるのは当然のことです。実際に殺害したとしても、非がないダビデのことをだれも咎めないのでしょう。しかし、何よりもダビデが心に留めていたのは、主の御目、主のみ思いであったのです。23-24節の中に「主」(太文字の主:「ヤーウェ」)が4回も出てきますが、そのダビデのことばから、彼がいかに、主の絶対的な主権を認め、へりくだって歩んでいたかがわかります。「主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます」…そのことをダビデが確信していたからこそ、不当な仕打ちを受けても、忍耐と希望を持って、主の介入を待ち望むことができたのです。それに対してサウルは、主を畏れず、肉なる思いにとらわれ、人の目とことばを気にして生きていました。「私が間違っていた」と彼は言いましたが(21節)、それは、主に対する悔い改めのことばではなかったのです。主権者なる主は、いまもすべてを統べ治めておられます。主の目に隠されていることは何もなく、すべてが明らかなのです。私たちがその主の前に正しく真実に歩むならば、主は確かにその者に御目を留めて報いてくださるのです。そのことを絶えず心に留めたいと思います。

重荷を主に委ねることができますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 25章23-44節◇(7月18日)

「ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。…」…1サムエル25:26
ナバルとその家の者すべてを討つべく、彼の家に向かっていたダビデたちは、その途中で彼の妻アビガイルに会いました。彼女はダビデの足もとにひれ伏し、ナバルの非礼の責めは自分にあると言い、さらに、主は生きておられる、主はダビデ自身が手を下して彼に復讐することをみこころとはせず、自分をとおして止められたと信じている…と、自分の思いを率直にダビデに訴えたのです。主の御名によって預言者のように語ったそのアビガイルのことばは、ダビデの心を動かしました。彼女を遣わし、進言させたのは主ご自身であり、それに従うことは主の御旨にかなうことだと確信したのです。ダビデはアビガイルが持参した物を受け取り、あなたの願いを受け入れた、安心して家に帰りなさいと彼女に告げました(35節)。アビガイルが家に帰ると、ナバルは酔って上機嫌であったため、その酔いがさめた翌朝になってから、彼女は一連のことを彼に話しました。するとナバルはその場で気を失って倒れ、10日ほど経って息絶えました。そのことを耳にしたダビデは主をほめたたえ、賢明で美しいアビガイルを、自分の妻として迎え入れたのです(42節)。アビガイルは繰り返し、ダビデを「ご主人様」、また自分のことを「はしため」と呼びました。しかしそれは、彼女がダビデから好印象を得るための、へつらいとしてのものではなく、心底そのように思っていたから出たことばであったのです。そして彼女は、ナバルをかばおうとしたのではなく、愚かなナバルへの復讐において不要な血が流され、そのことがダビデの心にしこりを残さないように、これから王となるダビデの上に主のみこころがなされ、祝福されるようにと、何よりもダビデのことを第一に考え、そのことを強く願っていたのです。ダビデは彼女によって守られました。そのように主が介入し、私たちをも守ってくださることを覚えたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 25章1-22節◇(7月17日)

「ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。…」」…1サムエル25:10

ナバルという一人の裕福な者がいました。彼はマオンの町に住み、羊の毛の刈り取りをする事業家でしたが、頑迷で、行状も良くありませんでした。一方、彼の妻アビガイルは賢明で容姿も美しく、夫を支えていたのです。そのナバルと羊の毛を刈る者たちに対し、ダビデと家来たちはいろいろと気に掛けて良くしてやっていたので、ダビデは、自分と部下たちに食物を分けてもらうべく、若者たちをナバルのところに遣わしました。ところが彼は、どこから来たかわからない者どもにはやらないと、けんもほろろに答えて、彼らを追い返したのです。若者たちは戻って、ダビデに一部始終を報告しました。それを聞いたダビデは憤り、そのように善に代えて悪を返したナバルと、彼に属する者たちを討つこととし、部下たちに剣を帯びよと命じ、自らも剣を手にして、400人ほどの者たちとともにナバルのところに向かいました。しかし、事情を知ったナバルの妻アビガイルは、事の重大さを悟り、急いでパンやぶどう酒などを用意してろばに載せ、ダビデたちが来る前に彼らを迎えようとして、自分の若者たちとともに出て行ったのです。そして、その彼女のとりなしによって、ナバルに属する者がみな討たれるという、最悪の事態を回避することになるのです。ここに描かれているのは、ナバルの傲慢さ、自己中心性と、それと相反するような、アビガイルの誠実さ、献身的なあり方ですが、ナバルの傲慢で頑なな心は、私たちのうちにもあったのです。神の恵みを受け、良くしてもらっていたのに、神とは何者だ…と神を認めず、善に代えて悪を返すような生き方をしていたのです。しかし、キリストがとりなし、ご自身のいのちをもって贖ってくださったゆえに、私たちは滅びを免れたのです。そのことを覚え、愛とあわれみに満ちた主に、感謝をささげたいと思います。

栄光が主にありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 24章◇(7月16日)

「彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」」…1サムエル24:6

ダビデが死海に面したエン・ゲディの荒野にいる、との知らせを受けたサウルは、3千人もの精鋭部隊を率いて、ダビデとその部下たちを捜しに出かけました。そして途中で用を足すために洞穴に入りましたが、なんとその奥にダビデたちは潜んでいたのです。ダビデの部下は今こそサウルを殺すべきだと進言しましたが、彼はそれを拒み、サウルの上着の裾を切り取るだけにとどめました。そのとき部下は、今日こそ主がサウルをダビデの手に渡すと言われたその日ですと、あたかもそれが事実であったかのように語りましたが(4節)、それは部下の思いつきだったことでしょう。なぜなら、ダビデはサウルの上着の裾を切り取った後に心を痛め(5節)、主に油注がれた方に手を下すなど絶対にあり得ないことだと言って部下を説き伏せ、サウルの殺害を制止したからです(6節)。何も知らないサウルが洞穴から出たとき、ダビデは彼を呼び止めて切り取った上着の裾を見せ、自分には王への殺意がないことを伝え、主が正しくさばかれるようにと告げました。それを聞いたサウルは、自分のいのちが主によってダビデの手に渡されていたと認めざるを得ず、ダビデが必ずイスラエルの王となることを知ったと告白した上で、自分の子孫を断たず、名を父の家から消し去らないよう誓ってくれと懇願しました(20-21節)。しかしながら、彼がそれまでのあり方を主の前に悔い改め、ダビデ討伐をやめると告白することはありませんでした。王の心の変化は一時的なものに過ぎなかったからです。ダビデの部下の進言は、常識的にはもっともなことだと言えるでしょう。しかしそれは、人間的な考えによっていたのです。それに対してダビデは、何よりも、サウルに油を注いで王とされた主を畏れ、その主権を認め、主に逆らって主君に手を下すことなどできない、と告白したのです。そのダビデのあり方に倣いたいと思います。

主のみこころがなされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 23章◇(7月15日)

「ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」…1サムエル23:14

ペリシテ人がケイラの町を攻略していることを耳にしたダビデは、行ってペリシテ人を討つべきかどうかを主に尋ねました。すると主は、そのようにせよ、ケイラを救えと言われ、「わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから」と告げられました(4節)。そこでダビデは、部下たちを連れてケイラに行き、ペリシテ人と戦って大損害を与え、町の住民たちを敵の手から救い出したのです。一方、ダビデがケイラに行ったことを知らされたサウルは、そこにある扉とかんぬきを使って町を封鎖できると考え、「神は彼を私の手に渡された」と決めつけ、攻め上るべく兵を招集しました。しかし、ダビデはそのときも、自分たちがどうなるかを主に伺い、不利な状況に置かれることを知らされたため、ただちにケイラを離れ、難を逃れることができたのです。そのようにダビデは、サウルにいのちを狙われるという試練の中でも、慌てることなく、落ち着いて、主に信頼し続けました。絶えず祈り心を持ち、主の御声を聴き、どうあるべきかを主に示されて行動しました。彼は自分の身を守るためにどこかに閉じこもるのではなく、ケイラの住民たちの身を案じ、主からの命令に従って敵と戦ったのです。一方サウルは、ケイラの町にいるダビデを閉じ込められると信じ込み、神の名を口に出しさえし、ペリシテ人の手から町を守ることよりも、王の座を脅かすダビデを討伐することに全力を注いでいたのです。ダビデはサウルに追われ、荒野に宿ったり、要害に隠れたりし続けましたが、何よりも、主ご自身が隠れ場、堅固な砦となって、ダビデを御翼の陰にかくまっていてくださったのです。だからこそ、彼の心はいつも平安であり、落ち着いていることができたのです。「私は あなたの幕屋にいつまでも住み 御翼の陰に身を避けます」(詩61:4)。そのように告白する者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 21章◇(7月13日)

「ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした。」…1サムエル21:13

ダビデの逃亡生活が始まりました。21章にはその最初の出来事が記されています。ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行き、単独行動を不審に思って恐れる彼を安心させるため、自分は今、サウル王に命じられた極秘の任務中であり、若い者たちとは別の場所で落ち合う予定だと偽り、本来は祭司が食す聖別されたパンを受け取りました。さらにダビデは、何か武器はないかと尋ね、ちょうどそこにあったゴリヤテの剣を手に入れたのです。その後ダビデは、ガテの王アキシュのところに行きましたが、王の家来たちに見つかって騒がれたため、身の危険を感じて恐れ、気がおかしくなったふりをしました。彼はなんと、ひげによだれを垂らすようなことまでしたのです。するとその作戦は功を奏し、アキシュはダビデを去らせました。ダビデのいのちは守られたのです。そのダビデの言動をどう評価すべきなのか…。嘘をつき、演技をし、なりふりかまわずそこまでする必要があったのか…と、それを、ダビデの人間的な思いから出たことであったと考えることもできるでしょう。確かに彼は、アヒメレクのところを訪れた際、ドエグというサウルの家来の一人がいることを知り、丸腰では不安だと考えて武器を求めたと考えられます(7-8節)。また、アキシュ王のところに行ったときも、彼の家来たちのことばを気にして、王を非常に恐れたと書かれてあります(12節)。しかしダビデは、サムエルから油注ぎを受けた日以来、自分がやがて王となるのだという思いを持ち続け、主の霊が彼とともにあったのであって、彼の一連の言動もまた、主の導きのうちになされたことであったのです。ダビデは単に助かりたいと願ったのではなく、主のみこころがなされることを願っていたのです。主に召され生かされている私たちも、与えられている使命のために、ときになりふりかまわず行動する者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 20章24-42節◇(7月12日)

「子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。」…1サムエル20:41

新月祭を迎え、食事の席に着いたサウルは、2日目になっても姿を見せないダビデを問題視し、その欠席の理由をヨナタンに尋ねました。そこで彼が、ダビデは自分の氏族の祝宴に参加しているのだと答えると、王は烈火のごとく怒り、ダビデに好意的なヨナタンを口汚くののしり、息子である彼に槍を投げつけて殺そうとしたのです。ダビデに対するサウルの殺意が決定的であると知ったヨナタンは、そのことをダビデに知らせるべく、打合せどおり野に出て行きました。そして、矢を放って子どもに取りに行かせ、矢は向こうにある、早く、急げ、立ち止まるな、と叫び、サウルの手が及ばない遠くへ行って逃げ延びるようにと、ダビデに促したのです。その後、隠れていたところから出て来たダビデは、地にひれ伏して3度礼をし、ヨナタンと抱き合って泣きました。ダビデにとってのその涙は、ヨナタンと別れ、孤独で過酷な逃亡生活に入らなければならないことを思ってのものであり、ヨナタンが王位継承の可能性を自ら捨てて王に逆らい、自分に対して献身的に関わってくれたことへの、感謝の思いからのものであったことでしょう。一方、ヨナタンにとっての涙、それは、父であるサウル王が、正当な理由なく、ただ自身の嫉妬からダビデを殺そうとしていることへの憤りからのものであり、ダビデが一方的に侮辱されていることへの悲しみからのものでした(32-34節)。そしてそのヨナタンの背後に、ダビデに対する神の好意とあわれみを見ることができるのです。私たちもまた、試練や困難の中で、孤独に感じることもあります。しかし、私たちを「友」と呼んでくださり(ヨハ15:15)、ラザロの死で悲嘆に暮れている者とともに泣かれたお方が(ヨハ11:35)、いつもともにいてくださるのです。その神の愛とあわれみを覚え、主からの慰めと励ましをいただき、平安のうちに歩み続けたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 20章1-23節◇(7月11日)

「ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」」…1サムエル20:16

ラマのナヨテまで追ってきたサウルの手から逃れ、ヨナタンのもとに行ったダビデは、翌日からの新月祭においてサウル王と一緒に食事の席に着くことに危険を感じ、3日目の夕方まで野に隠れさせてほしいと彼に申し出ました。そして、王には、年ごとのいけにえを献げるためにダビデはベツレヘムへ行ったと伝え、それに対する王の反応がどうであるかを知らせてほしいと頼んだのです。ヨナタンはその依頼を了承しました。そして王の反応を知らせる具体的な方法として、ダビデが隠れている場所の近くで3本の矢を放ち、それを子どもに取りに行かせる際、王の反応によって子どもへの呼び掛けを変えるようにするので、それを聞いて判断してほしいと言い、その取り決めのことばをあらかじめダビデに伝えたのです。今日の箇所の中で何度も出てくることば、それは、「誓い」と「契約」と「主」です。それらの誓いは、単に二人の間の約束事ではなく、主に対してなされたものであったのです。そこに記されているのはダビデとヨナタンの会話ですが、彼らはそこに主を迎え、主の前で事を決めていったのです。誓いは契約とつながっています。人が主の御名によって誓ったその誓いは、主の元で結ばれた契約であり、その契約は、主が真実で不変のお方であるゆえに、決して破られてはならないのです。もしもそれが破られるようなことになれば、誓った者を主が罰せられるのです(13節)。イエス・キリストは、ご自身の血による新しい契約を人と結び、ご自身を信じるすべての者を神の民としてくださいました。永遠のいのちを与えると約束してくださいました。それは不変であり、破られることはないのです。ダビデもヨナタンも、サウルの反応と自分たちが取るべき行動を主に委ねました。真実なる神に信頼して歩み続けたのです。私たちもそのようでありたいと願います。

主が平安を与えてくださいますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 19章◇(7月10日)

「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」」…1サムエル19:6

サウルは、ダビデに対して殺意を抱いていることを、息子のヨナタンや家来たちにはっきりと告げました。すると、ダビデを非常に愛していたヨナタンは、ダビデを守るべく、隠れ場にとどまって身を隠すようにと、彼に伝えました。さらにヨナタンは、父であるサウル王に対し、なぜ、咎のない者の血を流して罪ある者となろうとするのかと迫り、ダビデの殺害を思いとどまらせたのです。しかしその後、ペリシテとの戦いにおいて、ダビデが彼らを討って大損害を与えると、そのことで嫉妬したサウルにわざわいの霊が臨み、ダビデに対する殺意が再び燃え上がり、彼はまたもや、ダビデを槍で壁に突き刺そうとしました。そして、ダビデが身を避けて逃げ、自宅に籠もると、さらにサウルは使者を遣わして見張らせ、夜明けに殺害せよと命じたのです。しかし、そのことを察知した妻ミカルが、夜のうちにダビデを窓から降ろしたため、彼は逃げて難を逃れることができました。一難去ってまた一難…サウルはダビデのいのちを奪おうと、執拗に迫っていましたが、主は、ダビデを守るべく、サウルの息子であるヨナタン、娘であるミカルを助け手とし、彼らを用いられたのです。また、ダビデがラマのサムエルのところに逃れていることを知ったサウルが、使者たちを遣わしたときには、主は、彼らにご自身の霊を注いで預言をさせ、その後、ラマに来たサウル自身にも同じようにされたので、ダビデの身は守られたのです。サウルは「主は生きておられる。あれは殺されることはない」とヨナタンに告げましたが、そのことばは、主にあって、真実で確かなものとされたのです。私たちも、さまざまな「敵」からの攻撃を受けます。しかし、主は助け手を与え、その者たちを通して働き、守ってくださいます。主は生きておられ、私たちとともにおられるので、私たちは恐れることはないのです。その主にますます拠り頼む者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 18章◇(7月9日)

「サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また知った。サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。」…1サムエル18:28-29

ゴリヤテを倒し、イスラエルに勝利をもたらしたダビデは、戦士たちの長に任じられました。また民も、ダビデを称賛し、彼が凱旋した際には、女性たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と、笑って歌い交わすほどでした。しかしサウルは、そのことばを聞いてダビデに嫉妬し、憤り、その日以来、自分の地位を脅かす存在として、彼に目をつけるようになったのです(9節)。そのサウルから、すでに主の霊は離れ去り、わざわいの霊が彼をおびえさせていましたが、いつものように王のいやしと解放のためにダビデが竪琴を弾いていたとき、サウルは突然、手にしていた槍をダビデに向かって投げつけ、彼を殺そうとしました(11節)。ダビデは身をかわして難を逃れましたが、そのようにして、サウルは、ダビデへの憎しみを、ますます募らせていったのです。サウルにとって、ダビデの存在は、もはや放置できないものでした。そこで王である彼は、そのために自分が直接手を下すのではなく、ペリシテ人の手によりそれを実現させようと考え、家来であるダビデを千人隊の長に昇進させて、ペリシテとの戦いに送り出しました。ところが、ダビデは行くところどこでも勝利を収めたので、結局サウルは、約束どおり(21節)、彼の娘ミカルを、ダビデに妻として与えることとなったのです(27節)。ダビデをねたみ、憎み、また恐れたサウル…それに対して、人々から称賛されても高ぶらず、謙遜であり続けたダビデ…(18節)。また、ヨナタンやミカルや民から愛され、何よりも主に愛され、主がいつもともにおられたダビデ…それに対して主の霊が離れ去り、わざわいの霊に悩まされたサウル…。何と対照的なことでしょうか。私たちもまた、ダビデのように、主に愛され、主がいつもともにいてくださることを感謝しつつ、その主を愛し、主のことばに聞き従って歩む者でありたいと思います。

主の祝福がますます満ちあふれますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 17章41-58◇(7月8日)

「ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」…1サムエル17:47

イスラエルの人々は、ペリシテの代表戦士である巨人ゴリアテが、自分と勝負する者をよこせと再三要求すると、彼を非常に恐れました。だれもが、彼と互角に戦える者などいない…と考えて絶望する中、何と、兄たちの安否を確かめるべく戦場にやって来たダビデは、そのゴリヤテと一対一で戦うことをサウルに志願したのです(32節)。それを聞いたサウルは、ダビデがまだ若く、戦士としての訓練と経験を積んでいないことから、それは無謀だと考え、思いとどまらせようとしました。しかしダビデは、自分は羊飼いとして、羊を襲う獅子や熊を倒して来た、そのことを助け導かれた主が、ゴリヤテに対しても同じようにしてくださると言い、サウルから提供されたよろいかぶとを辞退し、使い慣れた石投げと石と杖を持って、恐れることなくゴリヤテの前に出て行ったのです(40節)。そんな少年ダビデに目を留めたゴリヤテは、自分が侮られていると感じて憤慨し、ダビデを蔑み、自分の信じる神々によって呪いました。するとダビデは、「私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう」(45節)と宣言し、石投げで石を放つと、それは見事にゴリアテの額に命中して食い込み、そのたった一発で彼を倒したのです(49節)。そのとき、ダビデの手には剣はなかったのです(50節)。ともすれば私たちは、よろいかぶとや剣がなければ戦えない…と考えます。また人のやり方や考えが自分に合っていないのに、それを無理やり身につけようとします。しかし、何よりも大切なことは、目に見えるもの、地上的なものに頼ることなく、救いをもたらしてくださる主に信頼し、主の御名によって立ち向かうことなのです。そして、自分に与えられている賜物を活かし、慣れている手段と方法を用いることなのです。ダビデがいかにして勝利を得たかを覚え、彼に倣いたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 17章1-19節◇(7月6日)

「サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。」…1サムエル17:11

ペリシテ人はイスラエルと戦うために陣を敷き、サウルとイスラエルの民は、谷を挟んでそれに対峙しました。するとそこに、ゴリヤテという名のペリシテ人の代表戦士が陣営から出て来ましたが、その身長は6キュビト半(=約2.9m)、つけている胸当ての重さは5千シェケル(=57kg)、持っていた槍の穂先の重さは6百シェケル(=6.8kg)と、彼は、人並み外れた体格の持ち主(巨人)であり、完全武装していて、向かうところ敵なしであったのです。ゴリヤテはイスラエルの代表との一対一の戦いを求め、自分が勝ったらイスラエルはペリシテの奴隷になるのだ…この日、イスラエルの陣を愚弄してやる…とイスラエルの陣列に向って叫びました。すると、そのことばを聞いたサウルと全イスラエルは、気をくじかれて(「意気消沈し」:3版)、非常な恐れを抱いたのです。イスラエルの王であり、国のリーダーであるサウルが、そのように恐れおののいたのであれば、王に従おうとする民もまた、意気消沈してしまうのは当然のことです。本来ならサウルは、そのような絶体絶命の危機にこそ、神に拠り頼んで助けを祈り求め、神がともにおられる、恐れてはならないと、民を励ますべきであったのです。しかし、主の霊が離れ去っていた彼の心は、ゴリヤテの体格、武装品、横柄なことばにとらわれていたのです。目に見えるものに頼る者は、見えるものを恐れます。しかし、目に見えない神に頼る者は、目に映るものを恐れることはないのです。また、人のことばを気にする者は、そのことばによって心が縛られます。しかし、神のことばに拠って立つ者は、自由と解放と勝利を得るのです。サウルやイスラエルの民のように、前に立ちはだかるものに圧倒されて恐れおののいたり、大言壮語のような人のことばにとらわれたりすることなく、主にひたすら拠り頼み、主が戦いに勝利を与えてくださることを信じ、主にあって勇敢に戦う者でありたいと思います。

絶えず主に信頼する者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 16章◇(7月5日)

「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。…」…1サムエル16:13

サウルのことで悲しみ続けていたサムエルに対し、主は、サウルに代わって新しい王となる者を、ベツレヘム人エッサイの息子たちの中に見つけたから、その者に油を注ぐためにあなたを遣わす、と告げられました。そこでサムエルはベツレヘムに行き、エッサイと彼の息子たちを祝宴に招いて彼らと会いましたが、彼は最初、息子のエリアブを見たとき、その容貌と背の高さから、この者が主に油を注がれるのだろうと思いました。しかし主は、それを否定し、「わたしは彼を退けている…人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われたのです(7節)。その後、エッサイの残りの息子たち7人が次々にサムエルの前に進み出ましたが、油注ぎの指示は主から出されませんでした。そこでサムエルが、子どもたちはこれで全部かとエッサイに尋ねると、実はもう一人います…と、家族から無視されていたような末っ子の存在を明らかにし、羊の番をさせられていたダビデを連れて来させました。そして主がサムエルに、この者がそうだ、油を注げと命じ、サムエルがそのようにすると、そのとき、主の霊がダビデの上に激しく下ったのです。一方、主の霊はサウルを離れ去り、わざわいの霊が彼をおびえさせました。そして、その霊が主からのものであるということを(14節)、サウルの家来たちも理解していたのです(15節)。サウルの迷走ぶりを見てきた彼らは、主の御声に従わない者は、たとえ王であってもそのような扱いを受けるのだと、あらためて主を畏れる思いにさせられたことでしょう。主は、サムエルをエッサイのところに遣わす際、彼に、「彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから」と言われましたが(1節)、神が求めておられるのは、「自分のために祈念碑を立てた」サウルのような者ではなく、自らをささげて主のために生きる者なのです。そしてダビデは、何よりも、そのような心を持っていたのです。私たちもまた、主のために生き、主に用いられる者でありたいと思います。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 15章17-35節◇(7月4日)

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、 主の御声に聞き従うことほどに 喜ばれるだろうか。 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」…1サムエル15:22

アマレクを打ち、民も家畜もすべて聖絶せよと、サムエルを通して主から命じられたにもかかわらず、サウルは、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで連れ帰りました。そして、それを非難したサムエルに、あなたの神、主にいけにえをささげるため、兵たちがそのようにしたのです…と、自分の非を転嫁して弁解したのです(21節)。そんなサウロに対してサムエルは主のみ思いを告げました。主は決してそのようないけにえを喜ばれない…主が求めるのは、従順と献身の心が伴わない形式的ないけにえではない…そのようないけにえよりもまさるもの、それは何よりも、主の御声に聞き従うことなのだ…と。そしてさらに、あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けたと、それをすでに決定されたこととして、サウルに通告したのです(22-23節)。それを聞いたサウルは、私は罪を犯しました…と、表面的な悔い改めのことばを並べ立てますが(24-30節)、引き返そうとするサムエルの上着の裾をつかんだり、長老と民の前で面目を立ててほしいと頼む込んだり、未練がましく王の地位にしがみつこうとするそれらの彼の言動は、とても見苦しく、こっけいなほどであったのです。サウルのことでサムエルは悲しみ、主も彼を王としてことを悔やまれました(35節)、しかしそれは、神が人と同じように「後悔」したという意味ではなく、神が扱っている人物の心変わりや背任を受け、その者への取り扱いを変えられたということです。神は、偽ることも、後悔されることもないお方なのです(29節)。その真実な主の前に、私たちもまた、表面的、形式的な信仰ではなく、心から主を愛し、主のことばに従順に聞き従う、そのような、真実な歩みを重ねる者でありたいと思います。

主の恵みとあわれみがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 15章1-16節◇(7月3日)

「サウルとその兵たちは、アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しようとしなかった。…」…1サムエル15:9

主は、サムエルを通してサウルに、行ってアマレク人を討ち、容赦せずにすべてのものを聖絶せよ、と命じられました。そこでサウルは、20万人以上の兵を引き連れ、アマレクの住民たちを剣の刃で殺害しましたが、主の命令に従おうとはせず、彼らの王アガグを生け捕りにし、また、肥えた牛や羊の最も良いものを惜しみ、それらを聖絶せずに戦利品として連れ帰ったのです。主がそのことを知り、サウルを王に任じたことをわたしは悔やむ…とサムエルに告げられると、彼は怒り、夜通し主に向って叫び、翌朝、ギルガルにいたサウルに会いに行きました。一方、サムエルを迎えたサウルは、「私は主のことばを守りました」と、何食わぬ顔で言いましたが、サムエルの耳には、聖絶しなかった牛や羊が鳴く声が届いていました。そこで彼が、あの声はいったい何かとサウルに詰問すると、彼は、「兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです」と、平然として答えたのです。「兵たちは」と、自分のことを棚に上げて兵士のせいにし、「あなたの神」と、イスラエルの王であるにもかかわらず他人事のように言うサウル…。彼にとって神は、自らの「主」、つまり、すべてを明け渡して従うべき主権者ではなく、自分がやろうとすることに干渉してくる口うるさい存在であって、彼のうちには、王である自分がすべてを決めたいという高慢な心があったに違いありません。彼がカルメルで自分のために立てた記念碑は、そのことを示唆しているのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。私を愛し、十字架にかかり、身代りとなって罪を贖い、死とやみの中からいのちと光の中へと移してくださったイエス・キリストは、私のうちで「主」となっているだろうか…心の王座にいるのはいったい誰なのか…主のことばに聞き従っているだろうか…と、自らを吟味したいと思います。

主に喜ばれないものが聖絶されますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 14章36-52節◇(7月2日)

「「…主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。」…1サムエル14:45

サウルの迷走は続きます。イスラエルとの戦いで大打撃を受け、すでに戦力を喪失しているペリシテ人たちに対し、サウルは、夜襲をかけて皆殺しにしようと、兵士たちに呼び掛けました。しかし彼らは戦いを終えて疲れており、実際、そこまでする必要はなかったのです。兵士たちは「あなたが良いと思うように…」と王に答えましたが、それは肯定的なことばではなく、「好きにすればいいでしょう…」という投げやりなものだったのです。しかし、祭司アヒヤは、サウルが自分の考えによって事をなそうとしていることを知り、「ここで、われわれは神の前に出ましょう」と、主に尋ね求めるよう王に進言しました。そしてそのように、サウルがどうすべきかを神に伺っても、主は何も彼に答えられなかったのです。するとサウルは、今度は、自分が出した命令に背いて食事をした違反者を特定し、処罰することが必要だと考え、くじのような方法でそれを行なうと、息子ヨナタンが取り分けられました。そして、蜜を口にしたことを彼が告白すると、サウルは、「おまえは必ず死ななければならない」と言って、その刑を執行しようとしたのです。そのとき民は、王に対して反対の意思表示をしました。ペリシテ人との戦いに勝利するきっかけを作ったヨナタンが死ななければならないなど、絶対にあり得ない…と、恐れずに声を上げたのです。結局サウルはヨナタンを処刑せず、ペリシテ人の追撃もあきらめて引き揚げました。そのように、たとえ上に立つ権威者である王の判断であっても、それに盲目的に従うのではなく、何よりも主のみこころを求め、それがこの地になされるようにする…。それが主が願っておられることなのです。私たちが神の民とされ、「地の塩、世の光」として遣わされているということを覚え、それぞれ置かれているところで、その役割をしっかり果たす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第一 14章16-35節◇(7月1日)

「さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。」…1サムエル14:24

サウルは、見張りの者から、ペリシテ人たちの大軍が震えおののいて右往左往しているとの報告を受けました。そしてそれが、息子ヨナタンと道具持ちの二人の勇敢な行動によるものらしいと知ったサウルは、なぜか神の箱を祭司アヒヤに持って来させましたが、その後、自身も兵とともに戦場に行ってみると、敵はなんと剣をもって同士討ちをし、大混乱になっていたのです。そしてそれは、主がイスラエルに与えられた救いであったのです。そのような勝利がもたらされたにもかかわらず、イスラエルの兵士たちはサウルの不可解な命令により苦しみました。彼らは疲労困憊していたにもかかわらず、「私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言われ、断食を強いられたのです。彼は、断食しないなら「のろわれる」と、それが神からのことのように兵に告げましたが、そのときサウルには、息子ヨナタンへの嫉妬心や、王の対面を保とうとする心があったのです。サウルはさらに、兵士たちに大きな石を転がして来させ、牛か羊を「私のところに連れて来て」、そこで屠って食べよと命じましたが、一連の行動を見ると、彼は主のみこころを求めず、人間的な考えで衝動的に行動しているように思えます。そしてそれは、ギルガルで勝手にいけにえをささげたことに通じているのです(13:12)。ヨナタンはサウルの命令を聞いていなかったため、蜂蜜を口にして元気を回復し、兵士から断食のことを聞くと、「父はこの国を悩ませている」と言いました。彼の目には、サウルの言動が主のみこころではないことが明らかだったからです。サウルは遅ればせながら祭壇を築きましたが(35節)、個人的な霊的祭壇での、主への礼拝と祈りはなされていなかったのです。だから「迷走」したのです。そのようなことがないようにしたいと思います。

主の確かな導きがありますように。