◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 4章10-23節◇(10月18日)

「私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」…ピリピ4:18

パウロがピリピ教会に宛てた手紙の最後の部分です。そこにはピリピの信徒たちに対する感謝のことばがつづられています。パウロの宣教によって生まれたピリピの教会は、紫布商人のリディアとその家族、またパウロとシラスが投獄されたときに救われた看守の家族から始まった教会でした。その後、その教会は大きく成長し、ピリピの人々はあらゆるときにパウロを覚え、祈り、彼を支援するために献金や物資を送っていました。パウロはその感謝のことばをこの手紙で述べているのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(13節)。パウロのそのことばは、神の力と助けが自分に与えられていることを告白するものであると同時に、ピリピ教会の人々を覚えての感謝のことばでもあります。なぜなら彼は、自分に対する教会からの贈り物は、芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物だと言っているからです(18節)。そのように、ピリピ教会の信徒たちが、愛と信仰をもって、福音宣教の働きに奮闘しているパウロに送ったささげ物は、確かに神に届いているのです。神に喜ばれているのです。だからこそ、霊的祝福が天におられる神からもたらされ、ピリピの人々の必要もまたすべて満たされると信じ、パウロはそのことを告白したのです(19節)。あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれた…と、パウロは言っています(14節)。それは、たとえ宣教の現場に実際にいっしょにいなくても、思いを一つにして、ささげ物をもって後方支援しているピリピの教会は、霊的な意味において、ともに労苦し、ともに喜び、ともに主の働きを担っているということです。そしてそれは主に確かに覚えられ、喜ばれていたのです。それはいつの時代にあっても同じです。私たちもそのような群れでありたいと思います。

主の祝福が豊かに満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 4章1-9節◇(10月17日)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」…ピリピ4:4

4-9節においてパウロは、「いつも」、「すべて(の)」、「あらゆる」ということばを繰り返しています。そしてそれは、妥協せず、徹底的に、ということであって、できるだけ多く…ということではないのです。そのようにパウロは、ピリピの聖徒たちに対して、どのような試練や困難に直面していても、そのことを主のみこころとして受けとめ、実際にそうするよう求めているのです。ではそれは具体的にどのようなことなのか…。それは、喜ぶこと(4節)、神に祈り願うこと(6節)、真実で正しく清いことや、尊んで愛し称賛すべき事柄に心を留めること(8節)です。それらをどんなときにも、例外なく、行うようにしなさい、とパウロは命じているのです。「何も思い煩わないで」とパウロは言っています(6節)。もしそれらを肉の力で行おうとするなら、それは決して容易なことではありません。なぜなら、私たちの感情や思いは、「そんなことできるわけない…」、「こんな状況でいまさら祈ってもしょうがない…」、「そこまでする必要なんかない…」と反発するからです。だからこそパウロは、「主にあって」(4節)、「感謝をもって」(6節)、「キリスト・イエスにあって」(7節)と言うのです。そのようにしてパウロが伝えようとしていること、それは、キリストに贖われた聖徒たちは、主の御手の中に生かされており、死からよみがえられた勝利者なるキリストがともにおられ、さまざまな必要を恵みのうちに満たしてくださるのだ、すべてのことを神がともに働かせて益とされるのだ、ということです。そのことをしっかり覚えるならば、私たちはどんなときにも、その主にあって、喜ぶことができるのです。あらゆる場合に感謝をもって、積極的に主に祈り求める者となるのです。人のすべての理解を超えた神の平安が、私たちの心と思いをキリストにあって守ってくれるのです。「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」(9節)。絶えず主とともに平安のうちに歩みたいと思います。

主からの平安と慰めがありますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 1章12-30節◇(10月12日)

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」…ピリピ1:21

ピリピ人への手紙は、喜びの手紙とも言われています。しかし、それを書いたときのパウロは獄中にあり、殉教、つまり死が間近に迫っている状況にありました。それにもかかわらずパウロが喜ぶことができたのは、彼が自分のすべてを主に委ねていたからであり、自分の投獄を知った聖徒たちが、ますます大胆にみことばを宣べ伝え、福音が前進していることを耳にしたからなのです(14節)。当時、パウロが投獄されていることをこれ幸いとし、自分たちの勢力を拡大しようと、党派心からキリストを伝えている者たちがいました(17節)。それはもちろん、正しい動機ではありません。しかしパウロは、それに対して憤ることなく、彼らによってもキリストが宣べ伝えられていることを、むしろ喜んでいたのです(18節)。そのように、すべてを主に委ね、どのような状況でも喜んでいたパウロ…。委ねるということは、持っているものを手放すことです。自分の人生、いのちを、キリストに明け渡すことです。パウロは、神が最善をなされるお方であり、すべてのことを働かせて益とされることを信仰をもって受けとめていたからこそ、殉教が目前に迫る状況にあっても、感謝し、喜ぶことができたのです。すべてを主に委ねて、明け渡して生きる…。それは、私たちがこの地上のものにとらわれるなら難しいことです。しかし、私たちの国籍は天にあり、主が迎えてくださる天の御国に入ることが、私たちの最大の希望であり、何にも代えがたい喜びなのです。そしてキリストは、十字架にかかり、死からよみがえられ、苦難に満ちた歩みを、勝利と栄光に満ちたものとされたお方であり、私たちはその主に贖われ、生かされていることを覚えるべきなのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:19b-20a)。パウロのように、私たちの歩みをとおしてキリストがあがめられることを(20節)、切なる願いとしたいと思います。

主にすべてを委ねることができますように。

◇聖書箇所: ピリピ人への手紙 1章1-11節◇(10月11日)

「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。…」…ピリピ1:9-10a

ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中において、マケドニアの町ピリピにいる聖徒たちに宛てた書簡です。彼は、「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています」と言っていますが(4節)、宣教の働きに聖徒たちが熱心に携わってくれたことを感謝し(5節)、彼らがますます成長して用いられ、神の栄光と誉れが現わされるようにと、パウロは願っているのです(11節)。9-11節には、彼らのためのパウロのとりなしの祈りが具体的に書かれています。「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり…」。その「知識」とは、単に知的な意味での「知る」ことではなく、聖霊の啓示によって霊的な理解が深まることです。すなわち、主はどのようなお方なのか、主によって自分たちがどう変えられたのか、主は何を自分たちに求めておられるのか、そのことを明確に知ることなのです。また、「識別力」とは、何が正しくて何が偽りなのか、善と悪、きよさと汚れ、真実と偽りを見抜き、判別することができる霊的な洞察力のことです。そしてそれは、「知識」も含め、みことばによって与えられるものであり、獄中にあるパウロは、聖徒たちがキリストの教えに聞き従い、また自分が書き送ることばに心を留め、主のみこころのうちを歩み続けてほしいと願っているのです。なぜなら、そのような者こそが、真実な愛、アガペーの愛をもって、神と人々を愛することができるからです。自分がいかに罪深い者なのか、その罪の中から救い出すために、主がどれほどの大きな犠牲を払ってくださったのか、そのことにますます目が開かれ、心に感謝と喜びがあふれていくなら、私たちは、賛美と献身の思いをもって熱く主を礼拝し、キリストの愛をぜひ知ってほしいという強い願いをもって福音を語るようにされるのです。そのような者として主に用いられたいと願います。

主にあってますます成長することができますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 27章◇(10月10日)

「あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。」…イザヤ27:5

1節の「レビヤタン」とは、語源が「曲がったもの」であり、旧約聖書には6回登場するそれは、エジプトを象徴したり(詩74:14)、「わに」を意味しています(ヨブ41:4)。また「海にいる竜」は黙示録12章の竜を思い起こさせ、それらは、アッシリア、バビロン、ローマといった大国を、また同時にサタンを表わしていると理解できます。また2節に「麗しいぶどう畑」とありますが、それは神が愛されるイスラエルのことです。神は、たとえご自身の民が身勝手な歩みをしていても、見捨てることなく、彼らに絶えず水を注いで渇くことがないようにし、常に目を留めて見守ってくださっているのです(3節)。さらに6節には「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす」とありますが、それは「神と和を結ぶ」、すなわち神との平和な結びつき、良好な関係という、本来意図されたあり方によってもたらされる祝福です。そしてそのために民は、偶像…神以外のものに心を寄せ、信頼することをきっぱりとやめ、神に立ち返り、その不義を赦され、神との関係が回復されなければならないのです(9節)。そしてそれは、キリストに贖われて神の民とされた私たちにとっても同じことです。罪深い私たちはしばしば、自分の知恵と力、お金や権力など、人間的、この世のものを誇り、頼みとして歩もうとしますが、それは神以外ものに心寄せ、偶像を慕うということにほかなりません。しかし、聖徒である私たちは、「イエスは主」と告白し、キリストを心から愛し、キリストにひたすら拠り頼み、キリストのことばに聞き従うべきなのです。自らのあり方を常に吟味し、悔い改めて主に立ち返るのです。そのようにして主と「和を結ぶ」者こそが、根を張り、芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶことができるのです。主が、麗しいぶどう畑であるご自身の民を見守り、その豊かな実を期待しておられることを覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 26章◇(10月9日)

「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が私たちを治めました。私たちはただあなただけを、あなたの御名を呼び求めます。」…イザヤ26:13

1-5節には「都」が出てきます。1節の「強い都」とは、ユダの地に住む、忠誠を尽くす正しい民、志の堅固な者たちを「城壁と塁で」救ってくださる神のことです。主は、その者たちがご自身に信頼しているゆえに、とこしえの岩となって彼らを全き平安のうちに守られるのです。一方、神を認めようとせず、自分たちの力に拠り頼み、おごり高ぶって地上の都を築き上げて誇る者たちを、主は引き倒し、投げつけ、ちりにまで下らせるのです。13節に「君主」とあります。北イスラエルや南ユダにおいても、王座についた者が君主として国を支配しました。しかしイザヤは、民が誰よりも信頼し、従うべきなのは、人としての王ではなく、それらの者たちの上におられる主権者なるお方、世界を造られ、すべてを統べ治めておられるまことの王であって、主よ、私たちは、そのあなたの御名だけを呼び求めます、と告白しているのです。「主よ。あなたは私たちのために平和を備えてくださいます」(12節)。イザヤはそのようにも告白しています。彼が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると預言した(9:6)、ひとりの男の子、イエス・キリストこそが、大いなる主権を持ち、ダビデの王座に就き、王の王、主の主としてその王国を治め、さばきと正義によりこの世界を支配しておられるお方なのです。そのお方にひたすら拠り頼む者は、たとえどのような戦いの中に置かれても、その心には全き平安が与えられるのです。平和の君なるキリストが、その者の歩みの上に平和を備えてくださるからです。「私たちには強い都がある」(1節)。「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから」(4節)。「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます」(3節)。この世の支配者を恐れず、まことの王を畏れ、主の御名を呼び求める者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 25章◇(10月8日)

「その日、人は言う。「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」」…イザヤ25:9

25章には主によって与えられる勝利と祝福が預言されています。「主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます」と、冒頭からイザヤは主を賛美しています。真実な神は、遠い昔から人類の救いと回復を計画され、それを成し遂げられるお方なのです(1節)。また、「他国人の宮殿は町から失せ」(2節)、「横暴な国々の都もあなたを恐れます」(3節)とありますが、主が、異教の神々が祀られる町々を廃墟とされるので、人々はイスラエルの神を畏れ、あがめるようになるのです。6-8節には「万民」、「万国」、「すべての顔」、「全地」とあり、神の救いがすべての国民に及ぶことが明示されています。そしてその神は、「永久に死を呑み込まれる」(8節)とあるとおり、アダムの原罪により人類にもたらされた死をも滅ぼし、主を信じる者たちに永遠のいのちを与えてくださるのです。イザヤは終末的な幻を主から見せられ、そのことを確信したのです。そしてそれは、続く次のことばにも表わされています。「神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる」。同じように幻を主から見せられた主の弟子ヨハネも、このように言っています。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」(默21:4)。それは、神が世の初めから計画され、ご自身の御子、イエス・キリストによって成就された、人類の救いと祝福にほかなりません。そのように、愛とあわれみに満ち、神に背いていた私たちを一方的に愛し、罪の中から救い出し、その救いを楽しみ喜ばせてくださる主を覚え(9節)、感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 24章◇(10月7日)

「月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるからである。」…イザヤ24:23

24章から27章には、世の終わりについての預言が書かれており、「イザヤの黙示録」と呼ばれることがあります。24章1節に「主は地を荒れ果てさせ、その面をくつがえして、住民を散らされる」とありますが、以降に書かれているのは、イスラエルの神、主が、この地に対してなされるさばきであり、5節にその理由が書かれています。「地はその住民の下で汚されている。彼らが律法を犯して定めを変え、永遠の契約を破ったからである」。しかし、そのようにして地が荒れ果て、罰を受けて住民の数が激減する中、次のことが起こるのです。「彼らは声をあげて喜び歌い、西の方から主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ、東の国々で主をあがめよ。西の島々で、イスラエルの神、主の御名を。地の果てから、私たちは、「正しい方に誉れあれ」というほめ歌を聞く」(14-16節)。その「彼ら」とは、西から東に至るまでのすべての国々にいる、主に贖われたすべての聖徒たちであり、ユダヤ人と異邦人が一つとされた「神の民」なのです。そして、感謝なことに私たちもそこに加えられているのです。さらに23節には、終わりの日にメシアが再臨し、神の都エルサレムで王となられ、全世界を統べ治めるようになることが預言されています。そのとき、月は辱めを受け、太陽も恥を見、それらの光は失われますが、主の栄光が輝き出て都を照らすので、もはや太陽や月の光は必要なくなるのです。そしてそれは、ヨハネの黙示録に書かれていることなのです(默21:23,22:5)。主イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます」(ヨハ9:4)。救われるべき「残りの者」たちがいることを覚え、この地が闇に覆われる前に、主から委ねられている働きを忠実になし続けていきたいと思います。

光の子どもらしく歩むことができますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 22章◇(10月5日)

「しかし、なんとおまえたちは浮かれ楽しみ、牛を殺し、羊を屠り、肉を食べ、ぶどう酒を飲んで言っている。「飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ」と。」…イザヤ22:13

22章は「幻の谷」についての宣告です。「幻の谷」とは、周りを丘と谷に囲まれたエルサレムの町を指しています。イザヤは、そのエルサレムの町に対して、「喧噪に満ちた騒がしい町、おごった都よ」と言っていますが、町の人々は享楽に明け暮れる日々を送っており、神の前に静まって、みこころを尋ね求めようとはしなかったのです。しかしそのような中、主が恐慌と蹂躙と混乱をもたらされるので(5節)、町は一転して壊滅状態となるのです。敵に囲まれて餓死する者が続出するのです(2節参照)。その預言は、ユダの最後の王ゼデキヤの治世に起こった出来事だと思われます(2列25:1-7)。イザヤ書にはバビロンの名前は出てきませんが、同盟関係にあったエラムの名が記されています(6節)。彼らの戦車と騎兵によって町が攻め立てられてもなお、住民たちは自分たちの考えと努力によって敵に立ち向かい、抗戦しようとしました。しかし人々は、天然の要害であるエルサレムを形造られた主ご自身には、目もくれなかったのです(8-11節)。そのような中、主は「泣いて悲しみ、頭を剃って粗布をまとえ」と民に呼び掛けられました。今からでも遅くはない、罪を悔い改めて立ち返るようにと促されたのです。しかし民は捨て鉢になり、どうせ明日は死ぬのだ…と言って、飼っていた家畜を殺して肉を食べ、ぶどう酒を飲み、残された日々を過ごそうとしたのです。イザヤの時代の後に起こるそのことを、彼は幻で見せられたのです。「どうせ…」と言ってこの世の快楽を求めるのではなく、逆に悲観的になって閉じこもってしまうのでもなく、主を尋ね求め、御旨のうちを歩む…。それこそがすべての人が進むべき道なのです。そこには恐れや混乱ではなく平安と希望が満ち、その道は永遠の世界へと続いているのです。備えられたその道を歩み続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 21章◇(10月4日)

「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。イスラエルの神、万軍の主から聞いたことを、私はあなたがたに告げたのだ。」…イザヤ21:10

21章は、バビロン、またエドム(ドマ)とアラビアに対する主の宣告です。13,14章においても、高ぶる者へのさばきとしてバビロンが言及されていましたが、今日の箇所では、イザヤの心情が書かれています。1節の「海の荒野」とはバビロンを指します。ペルシャ湾、またユーフラテス川に面し、広大な荒野があったからです。またエラムやメディアとは、バビロンを滅ぼするために、主が道具として用いられたペルシャのことです(2節)。そのペルシャの戦力は圧倒的であり、バビロンの滅亡を「厳しい幻」(2節)として見せられたイザヤは、戦慄に襲われました(3,4節)。敵の襲来を知らずに酒宴にふけっていたバビロンは、ペルシャ軍に襲われてあっけなく打ち倒され、勝利を収めた兵士たちは2列に整然と並び、戦車とともに凱旋の行進をして互いに言い合うのです。「倒れた。バビロンは倒れた。その国の神々の、すべての刻んだ像も地に打ち砕かれた」と(9節)。そのように、彼らの偶像の神は、なんの助けにもならないのです。その幻を見せられたイザヤは、「踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ」と言って、同胞に呼び掛けます。ユダの国はバビロンによって滅ぼされることになるのですが、イザヤは、さらにその先に起こること、主がなされることを、預言として民に告げ知らせたのです。預言とは、神からのメッセージであり、約束であり、それは、聖書に書かれているみことばとして、私たちに与えられています。今、目の前に起こっていることに心を奪われることなく、神のことば、確かな約束に心を留め、歩み続けることが、神の民、すべての聖徒たちに求められているのです。そしてそれは、真実な神のことばであるゆえに、必ず成就するのです。現実のものとなるのです。主にあって、ますます霊の目が開かれ、信仰にしっかりと立つ者とされたいと思います。

主の慰めと励ましがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 20章◇(10月3日)

「その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリアの王の前から逃れようと、助けを求めて逃げて来たわれわれの拠り所がこの始末だ。われわれは、どうして助かることができるだろうか』と。」…イザヤ20:6

アッシリアの王から派遣されたタルタン率いる軍は、ペリシテにある地中海沿岸の町アシュドデと戦って攻め取りましたが、主はその前に、エジプトとクシュ(エチオピア)の捕囚の民は、裸と裸足の状態で連れて行かれるようになる、それはイザヤが、しるしとして3年間その格好で歩いていたとおりだ、と語っておられました(3-4節)。2節のことばはアシュドデの占領に先だつ預言であり、かつ、イザヤ自身が従うべき主の命令であったのです。そのアシュドデの住民は、このように言うとあります。「…われわれの拠り所がこの始末だ…」。彼らは、アッシリアから自分たちを守ってくれるのは、エジプトでありクシュであると考えていました。そのように彼らの拠り所は他国の王や軍隊であり、主は、そのような者は、惨めで恥ずかしい姿をさらすエジプトやクシュと同じ運命になると警告するために、イザヤに3年間そのような格好をさせ、アシュドデの住民に預言として告げていたのです。しかしそれに心を留めなかった彼らは、その預言の成就を自らの身をもって知ることとなったのです。その主のことば、警告は、すべての者が心に留め、自問自答すべきものです。自分にとっての拠り所とはどこなのか…。自分は何に拠り頼み、誰に信頼して歩んでいるのか…と。「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(詩篇62篇8節)。イスラエルの神こそが、天と地を造られたお方、今もこの世界のすべてを統べ治めておられるお方であり、その神こそが、私たちをあらゆる敵の手から守ってくださる避け所なのです。私たちの歩みが確かなものされる拠り所なのです。人間的なものに頼らず、地上的なものを誇りとせず、その神に、どんなときにも信頼して歩む者こそ幸いなのです。主にあって、確かな歩みをすることができるのです。そのことをしっかりと覚えたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 19章◇(10月2日)

「その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。」…イザヤ19:24

「エジプトについての宣告」と1節にあります。エジプトは、モーセの時代に、神の民であるイスラエル人たちを奴隷として虐げ、多くの痛みと苦しみをもたらした国です。また霊的な意味におけるエジプトとは、神の民とされた聖徒たちが、かつて罪の奴隷としてとらえられていた、サタンが暗躍する「この世」を象徴しています。イザヤは、そのエジプトに主が雲に乗って来られること、そのとき、エジプトの偽りの神々が主の前にわななき、エジプト人の心も萎え、仲間同士で争うようになることを告げています。しかし頑迷な彼らはそれでも主を認めようとはせず、霊媒や口寄せに伺いを立てて頼ろうとします。そして結局、彼らは神の手に引き渡され、神に従わない罪のゆえに、厳しいさばきを受けることとなるのです(4節)。イザヤが告げたこれらの主のことばは、終わりの日についての預言と考えられます。5,6節は、主がモーセの時代にエジプトになされた偉大なみわざを思い起こさせます。主は、イスラエルの民を追って来たエジプトの軍隊を海に呑み込ませられ(出エ14:21-31)、また、イスラエルの民を出て行かせまいとするパロの頑なな心を変えるために、ナイル川の魚が死に、川が臭くなり、人々がその水を飲めなくなるようにされましたが(出エ7:21)。5-15節はそれらのことを越えた、「エジプト」に他する主の厳しいさばきなのです。16-25節には、一転して、エジプトに起こる悔い改めとイスラエルの祝福が述べられています。エジプトやアッシアッシリアは、モーセやイザヤの時代の大国であり、この世の繁栄を象徴しています。しかし彼らに虐げられてきた小国イスラエルは、「その日」、神からの豊かな祝福にあずかるようになるのです。そしてそれは、キリストに贖われた聖徒たちも受け取ることができる神の国の祝福なのです。小さな存在でも、神を畏れ、拠り頼む者に注がれる、神の大きな祝福を覚えたいと思います。

主を待ち望む者とされますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 18章◇(10月1日)

「世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗が揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。」…イザヤ18:3

18章はクシュ、すなわちエチオピアに対することばです。1節に「羽コオロギの国よ」とありますが、それは「いなご」あるいは「はえ」が国の中に多くいたからだと思われます。主はそのエチオピアに対し、使いを「背が高く肌の滑らかな国民のところ」、「あちこちで恐れられている民のところ」、「国土を多くの川が分けている、力強い、踏みにじる国へ」送れと指示しているのです。その使者は、古くからナイル川を通じて密接な関係にあるエジプトに、アッシリアの脅威に対抗するための同盟関係を結ぶことを申し入れるための者であったと思われます。そのようにして神は、力のない国が大国に呑み込まれずに生き延びるようにと、導きを与えられるのです。3-6節に書かれているのは、アッシリアの滅亡のことだと思われます。山々に揚げられる「旗」は、神がアッシリアをさばかれる合図としてのものであり、世界のすべての国々の民は、そのようにして、神が高慢な者を砕かれ、退けられるそのみわざを、畏れをもって見守るのです。そしてそのとき、エジプトからも、自国が守られたことに対する、イスラエルの神への感謝として、シオンの山へ、贈り物が運ばれるようになるのです(7節)。使徒の働きの8章には、エチオピアの宦官がピリポから福音を聞き、主イエスを救い主として信じて救われ、洗礼を受けたという記事が書かれていますが、それは、イザヤの預言が完全に成就するようになる前の、初穂としての一つの出来事なのかもしれません。いずれにしても、すべての人が救われて真理を知るようになることは、神の強い願い、みこころであって(1テモ2:4)、そのために主は今も、さまざまなみわざをなしておられるのです。また、人々に福音が届くようにと、救われた聖徒たちを用いてくださるのです。主に求められているその役割を、忠実に果たす者でありたい思います。

主の助けと導きがありますように。