◇聖書箇所: イザヤ書 49章◇(11月21日)

「…わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」…イザヤ49:6

49章からは、48章までに記されていた、バビロンからの帰還についての内容ではなく、イスラエルに与えられた役割、すなわち、国々の光となり、主の救いを地の果てにまでもたらす者となる、ということが語られています。また1-6節は「第二のしもべの歌」と呼ばれる部分であり、42章1-9節の「第一のしもべの歌」に続いて、神がご自身のしもべに対して告げられたことばが記されています。ではここでの「しもべ」とは誰なのか…。さまざまな解釈がありますが、それは、3節にあるとおり、アブラハムの子孫であるイスラエル民族であり、彼らを選ばれた主は、彼らのうちにご自身の栄光を確かに現されるのです。一方、6節では、しもべが「ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせる…」とあることから、「しもべ」には多重の意味があり、メシアをも示唆していると理解することができます。ユダヤ人として生まれた主イエスは、同胞の救いのために福音を宣べ伝え、同じくユダヤ人であった使徒たち、そしてパウロや多くの弟子たちは、さらに異邦人への宣教へと導かれ、まさに、地の果てにまで主の救いを伝える者として用いられたのです。そしてその実として救われた異邦人の聖徒たちもまた「しもべ」とされて、「残されている人々」の救いのために用いられるのです。メシアであるイエス・キリストは、闇の中を歩む民、死の陰の地に住む者たちを照らす大きな光(イザ9:2)、すべての人を照らすまことの光として来られた(ヨハ1:9)お方です。そしてそのキリストによって贖われた私たちもまた、「世の光」として、キリストの光を照り輝かす者とされているのです(マタ5:14)。また、聖霊に満たされ、力を受け、地の果てにまで出て行って、主の証人とされるのです(使1:8)。福音を宣べ伝え(マル16:15)、あらゆる国の人々を弟子とするのです(マタ28:19)。その使命を全うする忠実なしもべでありたいと思います。

主からの油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 48章◇(11月20日)

「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。」…イザヤ48:11

「わたし…わたし…」と、主が繰り返されていることに心が留まります(9-12,15-16節)。イスラエルの民は頑なで、首筋が堅く、偶像に頼り、主を裏切りました。しかし主は、そんな彼らへの怒りを抑え、絶ち滅ぼすことをとどめられました。そしてそれは、ご自身の名が汚されないようにするため、栄誉が奪われないようにするためであるのだと、主は彼らに告げられたのです。主は、バビロンによるエルサレム神殿の崩壊、そして捕囚という試練、苦しみの炉に民を入れられましたが、その主が、ペルシャ王キュロスを用いて民をバビロンの手から救い出し、ご自身に立ち返らせるのです。それらはすべて、主が計画され、仕組まれ、成し遂げられることであって、ご自身の名がきよく保たれ、栄光が誰にも与えないようにすることが、その最大の目的なのです。さらに主は「わたし…あなた…」と繰り返し、ご自身と民との関係についても明確に語られています(17-19節)。「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに」。主権者である神、全能者である神、愛とあわれみに満ちておられる神…。そのような神である主は、確かに、私たちに益になることを教え、「これが道だ。これに歩め」(30:21)と、歩むべき道を備え、示し、私たちの前を進んで導いてくださるのです。慌ただしい日々の中にあっても、喧噪に満ちた世に置かれていても、私たちは静まって、主の御声に耳を傾けるべきなのです。「あなたの平安は川のように…あなたの子孫は砂のように…」。主がくださるその祝福をしっかりと受け取りたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 47章◇(11月19日)

「…災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることができない。 破滅は知らないうちに、突然あなたにやって来る。」…イザヤ47:11

「おとめ、娘バビロンよ」と呼びかけられる主は、バビロンの町々が、主ご自身が送られるわざわいによって、瞬く間に破滅に至ることを告げています。そしてそれは、愛する子と夫を同じ日に失うような、悲劇的な状況として見舞われることであって、多くの国々を支配し、「優しい上品な女」と呼ばれるバビロンの娘たち、町々は徹底的に破壊され、あわれな姿をさらすことになるのです。神はバビロンを、ご自分に背いたイスラエルの民を罰するために用いられました。そのようないわば「器」に過ぎない存在であるにもかかわらず、彼らは自分たちの力を誇って高ぶり、捕囚となったイスラエルの民をあわれまず、老いた者たちにも重いくびきを負わせるのです。そして、そのようなバビロンを主はさばかれるのです。「私だけは特別だ」(8,10節)。高慢になったバビロンは、そのように自信たっぷりに語ります。また彼らは、呪文や呪術を駆使し、星占いをする者のことばに信頼し、イスラエルの神の存在を認めず、多くの悪を行う者たちです。しかし、神が与えた災難に襲われると、彼らは何もすることができず、それを避けることはできないのです。「瞬く間にあなたのところにやって来る」、「突然あなたを見舞う」(9節)、「知らないうちに、突然あなたにやって来る」(11節)。バビロンに対する主のことばが心に留まります。救い主イエス・キリストは、再びこの地に来られます。罪と悪に満ちたこの世が神によってさばかれる終わりの日は、必ずやって来るのです。そしてそのときになってあたふたしても遅いのです。そのことを覚え、キリストに贖われ、すでに救いにあずかっている私たちは、自らの救いを感謝するとともに、その救いに入れられるべき人々のために、出て行って福音を宣べ伝え、あらゆる国の人々がキリストの弟子としなさい、との主イエスの命令を、忠実に実行していきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 45章1-8節◇(11月16日)

「それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。」…イザヤ45:6

主は、バビロンに捕らえ移されていたイスラエルの民を解放し、エルサレムに帰還させ、神殿を再建させるために、ペルシアの王キュロスを用いられましたが、今日の箇所には彼への主のことばが書かれています。2節以降の「あなた」とはそのキュロス王のことを指しています。主はそのように、キュロスという、アブラハムの子孫ではない者を用いてご自身のご計画を実行されました。実際にそれが起こったのは、イザヤがこの預言を語った後の時代のことですが、主が彼の前を進み、攻め取るべき町々の城壁にある青銅の扉を打ち砕き、そこにある財宝を戦利品として彼に与えられるという約束は(2-3節)、確かに成就したのです。そしてそれは、そのみわざをなされたのがイスラエルの神だとキュロスが知るためであり、捕囚のイスラエルの民が解放されるためであり、そのことを知った地のすべての国々の民が、主を認め、あがめ、信じるようになるためであったのです(3-6節)「わたしが主である。ほかにはいない」。45章において、主はそのことを何度も繰り返して強調しておられます(5,6,18,21,22節)。イスラエルの神は唯一無二のお方であって、その主こそ、無から有を生み出される創造者であり、いっさいの障害を取りのけてご計画を進められる全能者であり、すべてのことのなかに力強く働いて支配される主権者であられるのです。その主は、光や平和だけでなく、闇やわざわいも創造されました。それは主にあって意味のあるものとして存在しているのであり、神のご計画は人の考えをはるかに越えた奇しいものなのです。そして、私たちがなすべきことは、たとえそれが理解できなくても、私たちを愛し、最善をなしてくださる主に信頼し、すべてを委ね、みことばに従って主の道を歩み続けることなのです。主の前にへりくだり、ますますそうありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 44章◇(11月15日)

「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」…イザヤ44:22

「わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ」と呼び掛けられた主は、その民の一人ひとりを母の胎内で形造って生まれさせたのはこのわたしだと、ご自身が創造主であることをあらためて強調しています(1-2節)。そしてその主は、乾いた地に水を注がれるだけでなく、彼らの子孫にご自身の霊と祝福を注がれるのです(3節)。それにもかかわらず、民は、目に見えるもの、身近に置けるものとして自らの手で偶像を造り、見ることも知ることもないその偶像にひれ伏すという、主が忌み嫌われことを平気で行い、罪を犯し続けてきたのです。「ただ恥を見るだけだ」、「何の役にも立たない」と主は、偶像に頼るのがいかに愚かなことであるのかを、9節以降において繰り返し語って強調しているのです。その中で主は、偶像を造る者が腹が減って力がなくなり、喉が渇いて疲れてしまったり、木材の半分を燃やして肉をあぶって食べ、その残りで偶像を造って神としてひれ伏したりすることが、いかに滑稽なことなのかを指摘しています。冷静に考えれば、そのような偶像が神であり得るはずがないとわかりますが、悪しき者により心が欺かれ、惑わされてしまうと、その誤りに気づかず、自分は間違っていない…と、正当化してしまうのです(20節)。「ヤコブよ…イスラエルよ…あなたはわたしのしもべ、わたしがあなたを形造った」(21節)。再び主はそう告げてそのことを強調しています。主は陶器師であられ、粘土から造る器である私たちを、制作の途中に何度も壊し、ご自身の気に入ったもの、みこころにかなうものとして造り替えてくださいます(エレ18:4)。私たちのうちにあるさまざまな不純物を取り除き、そむきの罪をぬぐい去ってくださるのです。そのことを覚え、絶えず主の前に出て自らを明け渡し、御手によるその取扱いを受ける者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 43章14-28節◇(11月14日)

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。 あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」…イザヤ43:19

主は、かつてエジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を、力強い御腕をもって連れ出し、航海を分けて乾いた道を通らせ、彼らを追うエジプトの軍勢を海に呑み込ませられたお方です。その主がイスラエルの民に対して、「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな」と言われるのです(18節)。わたしはまったく新しいこと、あなたがたが思いもつかないことを行なう主であり、それはもう芽生えているのだ、だからその新しいことに期待せよ、それを行なうわたしを呼び求めよ、待ち望め、と言われているのです。その新しいことがなされるとき、荒野に道ができ、荒れ地に川が流れるようになり、野の獣たちもその水を飲んで神をあがめるようになります。そしてイスラエルの民は、渇きと痛みを癒され、生きる者とされ、主の栄誉を宣べ伝える者とされるのです。すなわち、彼らの上に現される偉大な主のみわざを見て、諸国の民はイスラエルの神をほめたたえるようになるのです。ところがイスラエルの民は、そのような主を呼び求めず、むしろ偶像に心奪われてしまいました。神に背を向け、その罪と咎で神を煩わせ、悲しませたのです。しかし、それにもかかわらず、主はこう言われたのです。「わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と25節)。それは驚くべきことばです。なぜなら罪深いイスラエルの民のうちには、彼らの罪が赦されるべき根拠は何一つないからです。そのように、一方的な神の愛とあわれみによって、イスラエルの民が罪赦され、救いにあずかるという約束…。それは今も変わることがありません。そして彼らを通して神の祝福を受けた私たちもまた、キリストにあってその救いにあずかっているのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 43章1-13節◇(11月13日)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」…イザヤ43:4

1節の後半からのことばは、イスラエルの神がご自身の民に対して語られたものです。神はまず、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ」と言われ、「あなたは、わたしのもの」と告げられ、「わたしは、あなたとともにいる」と約束されたのです(1-2、5節)。「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」(3節)。主は、ご自身が唯一まことの神であり、イスラエルの民の救い主であると、明確に語っておられます。そしてそれは10-13節においても、主が選ばれたご自身の「しもべ」、「証人」へのことばとして繰り返し告げられ、強調されているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。このことばは良く知られていますが、4節の後半には「あなたの(いのちの)代わりに」と書かれており、代わりにされる人、国民とは、前の3節にある、エジプト、クシュ、セバのことです。バビロンに捕らえられたイスラエルの民は、主が立てられたペルシャ王キュロスによって解放されましたが、その際にペルシャがそれらの国々を攻め取ったことを指しているのです。そもそもイスラエルの民は、「主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従わなかった」(42:24)者たちであり、主はそのことを忘れたわけではないのです。その民の代わりに他の国々の者に罪を負わせて「身代金」とし、イスラエルを買い戻して贖われたのです。そのようにして主は、民への怒りを収められたのであり、そこには主の深い愛とあわれみがあるのです。また、メシアがすべての人の身代りとなられ、ご自分への不従順に対する神の怒りを一身に受けられるゆえに、私たちが神の好意と祝福にあずかるようになるという、キリストの十字架の贖いが示されているのです。キリストにあって、神の目に高価で尊い者とされていることを感謝したいと思います。

救われている喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 42章◇(11月12日)

「主はご自分の義のために望まれた。みおしえを広め、これを輝かすことを。しかし、これは、かすめ奪われ略奪された民、彼らはみな穴の中に陥れられ、獄屋に閉じ込められた。…」…イザヤ42:21-22a

1-4節に書かれている、国々にさばきを行い、さばきを確立する「しもべ」、「彼」とは、メシアのことです。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」とありますが、イエス・キリストは、多くの病む者、弱っている者をあわれみ、いやし、救われました。マタイがイザヤのことばを引用して言っているように(12:17-21)、神のしもべとして遣わされたキリストの働きによって、そのイザヤの預言は確かに成就したのです。神はご自身の義をこの地にもたらすために、ご自身が選ばれた民と契約を結ばれ、律法をあたえ、その教えを地に広め、真理の光で諸国の民をも輝かせることを望まれました。しかし、イスラエルの民は、偶像に心奪われ、それに拠り頼んで歩もうとし、神に退けられてしまいました。アッシリアやバビロンによって彼らは捕らえられますが、そのようにされたのは主ご自身なのです(24節)。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、ご自身の民を見捨てることなく、なおも敵の手から奪い返してくださる、贖い出してくださるお方です。そしてそのことを通して民を立ち返らせ、彼らの霊的な目と耳を開き、ご自身の働きのために用いることが主のみこころなのです。19節の「しもべ」、20節の「あなた」とは、その神の民、イスラエルのことです。主は、国々に公義をもたらし、ご自身の統治を確立するために、みおしえ、すなわち、みことばの真理の光を、闇に満ちた世に輝かせることを望まれ、ご自分の民を通してそのことをなされるのです。そして、キリストに贖われた異邦人の聖徒たちもまた、神の民とされ、そのために尊く用いられるのです。「あなたがたは世の光です。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(マタ5:14,16a)。その主イエスのことばを、自分のものとして受けとめたいと思います。

主に聞き従う者とされますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 41章◇(11月11日)

「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、 『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。」…イザヤ41:13

1-7節には、イザヤの時代の大国の支配下にある、諸国の民への問いかけと宣言、それに対する彼らの反応が書かれています。「だれが、最初から代々の人々に呼びかけてこれらをなし、これらを行ったのか。主であるわたしだ。わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」と(4節)。そのように神は、世界を創造され、人を造られ、罪に満ちた人類を贖い、やがて新しい天と地をもたらし、救いと回復のみわざを成し遂げられることが暗示されています。しかし異邦の民は、そのイスラエルの神を認めようとはせず、大国に対して同盟を結んで対抗しようと考え、彼らの偶像の神に拠り頼もうとするのです(6-7節)。8節から20節には、主が選ばれた民、イスラエルへの祝福の約束が書かれています。かつてエジプトにおいて奴隷となっていた民を連れだし、約束の地カナンへと導かれた主は、捕らえ移されたバビロンの地からも、彼らを連れ戻されました。その後も主は、さまざまな苦難、迫害に遭って苦しむ民とともにあり、彼らを見捨てることなく支え続け、失われた国をも再建させられた、愛とあわれみと真実に満ちたお方なのです。さらに主は、ご自身が遣わされた救い主、キリストを信じる者を霊的なアブラハムの子孫とし、ご自身の民として、約束の地、天の御国へと導いてくださいます。その主は、この地上の荒野の患難の中にあっても、インマヌエルなる方として、世の終わりまでも、いつも聖徒たちとともにいてくださるのです(マタ28:20)。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(10節)。ともにいてくださる主は、弱い私たちを助け、強め、導いてくださいます。その主にあって、恐れることなく、主に従い続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 40章1-11節◇(11月9日)

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。」…イザヤ40:10

イザヤ書では40章から慰めのメッセージが語られています。そしてそれは、39章までの悲しみのメッセージ、すなわち、エルサレムがバビロンによって滅ぼされ、民が捕らえ移され、財宝が運び去られるというメッセージと表裏一体の、とらわれからの解放の使信であり、それは、バビロン捕囚からの解放を超えた、メシアによってもたらされる、全人類の罪の救いの預言となっているのです。それはまず、苦役は終わり、咎は償われ、すべての罪に変えて、2倍のものを主の手から受けている、というメッセージです(2節)。3節には、荒野で叫ぶ者の声が記されていますが、これはバプテスマのヨハネ、すなわちメシアの道備えをする者のことを指しています。罪を償い、神からの2倍の祝福を民にもたらすのは、神が遣わされるメシア、イエス・キリストにほかならないのです。また、6-8節に書かれているメッセージは、草はしおれ、花は散るが、神のことばは永遠に立つ、ということです。草とは、血肉をもち、限りある地上のいのちを持つ私たちであり、花とは人が受ける束の間の栄光のことですが、それらは決して永遠に続かないのです。やがて取り去られるときが来るのです。しかし、神のことばは永遠に立つのであって、それを信じ、それに聞き従って歩む者は、主の救いにあずかり、永遠に生きる者とされるのです。10-11節はメシアの預言です。力をもって来られ、御腕で統べ治められるそのお方は、御国の王であられ、同時に、良き羊飼いとして、羊のように弱い私たちを御腕によって引き寄せ、懐に抱き、優しく導いてくださるのです。緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われるので、羊たちは乏しくならず、渇くことがないのです(詩23:1-2)。そのメシアは預言どおりに2千年前に来られ、十字架と復活によって人類の贖いを成就されました。その救いをあ感謝しつつ、慰めの使信を人々に伝えたいと思います。

救いの喜びがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 39章◇(11月8日)

「見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない-主は言われる-。」…イザヤ39:6

病気になって死にかかったヒゼキヤ王は、主によって癒されて元気になりましたが、それを聞いたバビロンの王は使者を遣わし、快気祝いとして手紙と贈り物をヒゼキヤに届けさせました。すると、その訪問に感激した彼は、自分の家や国中のすべての財宝を、得意げにその使者たちに見せたのです。それは明らかに軽率な行為でした。そのことを知ったイザヤは憤慨しました。そんなことをすれば、バビロンの王を誘惑することになり、それらを手に入れようと彼が攻め上って来るようになるからです。何ということをしたのか…という思いを抑えつつ、訪問者はどこから来て何を見たのかと、イザヤがわざと王に尋ねると、ヒゼキヤは、彼らはバビロンから来てくれた、すべての物を彼らに見せたと、平然と答えたのです。するとイザヤは、主からのことばをヒゼキヤに告げました。あなたが自慢げに彼らに見せた財宝は、一つ残らずバビロンに運び去られる、また、あなたの息子たちの中から、バビロンに捕らえ移されて宦官とされ、バビロンの王に仕える者たちが出ることになる…と。ところが、それを聞いてもヒゼキヤは、自分のしたことを悔い改めようとはせず、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」と、奇妙なことを口走りました。そしてそれは、彼が、それらは後の時代に起こることであって、自分が生きている間は平穏だ…と、そのような身勝手な思いでとらえていたからであり、そこに、ヒゼキヤの近視眼的かつ自己中心的なあり方を見るのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか。自分のこと、今のことしか考えようとしない態度は、もちろん主に喜ばれるものではありません。「誇る者は主を誇れ」(1コリ1:31)と主は言われます。ヒゼキヤを反面教師とし、常に主を畏れ、へりくだって歩む者でありたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 38章◇(11月7日)

「あなたの父ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、この都を守る。」…イザヤ38:5-6

病気になって死にかかっていたヒゼキヤ王に対し、イザヤは非情とも思えることばで死の宣告をしました。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない」。それを聞いたヒゼキヤは、顔を壁に向けて大声で泣きながら、自分が真実と全き心をもって歩み、神のみこころを行ってきたことを思い出してほしい…と、主に訴えました。するとすぐ、イザヤを通して主は告げられました。わたしはあなたの寿命を15年延ばすことにした、またアッシリア王の手からあなたとこの都、エルサレムを守る…と。それは、主がご自分のみこころを突如変えられたかのようにも思えますが、決してそうではないのです。ニネベの町に災いを下すというご計画も、ヨナのメッセージを聞いた人々が悔い改めた結果、主は思い直され、結局そうされませんでした(ヨナ3:10)。しかし、神は、そのことも含めてすべてをご存じの上で、確かなご計画をもって事を進めておられたのです。そのように主のなさることは、私たちの思いを越えたものであるのです。主は、ヒゼキヤが死に直面してどのような反応を示すか、テストされました。そして彼は、主の前にそのことを真実に受け止め、主に拠り頼み、救いを祈り求めました。主はその姿勢と信仰を良しとされ、王の寿命を延ばしてくださったのです。また、そのことを通して、エルサレムがアッシリアの手から守られるという強い確信を、ヒゼキヤに与えられたのです。そしてそれらは、主が初めから計画しておられたことであったのです。神は全きお方です。最善のご計画を備えておられます。私たちがその神のご計画に自分を合わせていくときに、豊かな神の祝福と救いにあずかることができるのです。どんなときにも主に信頼する者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 37章21-38節◇(11月6日)

「おまえが座るのも、出て行くのも、 おまえが入るのも、わたしはよく知っている。 わたしに向かっていきり立つのも。」…イザヤ37:28

アッシリアの王から遣わされた使者により、「おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない」と伝えられると、ヒゼキヤは主の宮に行き、そのことが書かれた手紙を主の前に広げ、あなたをそしった者に、あなただけが主であることを知らしめてください、と祈りました。すると、その祈りを聞かれた主は、イザヤを通し、センナケリブに対することばを、ヒゼキヤに告げたのです。「おまえはだれをそしり、だれをののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる者に対してだ」(23節)。「おまえがわたしに向かっていきり立ち、おまえの安逸がわたしの耳に届いたので、わたしはおまえの鼻に鉤輪を、口にくつわをはめ、おまえを、もと来た道に引き戻す」(29節)。一方、主は、ユダの家とエルサレムについて、こう言われました。「ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである」(31-21節)。さらにアッシリアの王についても語り、「彼はこの都に侵入しない…塁を築いてこれを攻めることもない…わたしはこの都を守って、これを救う」(33-35節)と、約束してくださったのです。その後、実際に、アッシリアの陣営では、主の使いによって18万5千人が打ち倒されました。またセンナケリブは、彼の息子たちによって殺されました。主の約束のことばは確かに成就したのです。そのように主は、すべてを知っておられ、見ておられ、聞いておられるお方であって、ご自身の民、愛する者たちを守り、助け、敵の手から救い出してくださるお方なのです。その主は今も生きておられ、私たちとともにいてくださいます。そのことを覚え、人を恐れることなく、ただ主を畏れ、どんなときにも主に信頼し、祈りの声を上げていく者でありたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 37章1-20節◇(11月5日)

「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知るでしょう。」…イザヤ37:20

アッシリアの王の使者としてやって来た将軍ラブ・シャケが告げたことばを、自分に仕える宮廷長官たちから聞いたヒゼキヤ王は、衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、宮廷長官たちを遣わしてイザヤにこう伝えました。「今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です…」(3節)。そのことばには、王の憤りと悲嘆が表わされています。ヒゼキヤにとって、ラブ・シャケが「主がエルサレムを私の手から救い出せるとでもいうのか」(36:20)と主をそしり、エルサレムの滅亡を告げたのは、心が大きく揺さぶられることであったからです。ヒゼキヤはイザヤに「おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう」と伝えましたが(4節)、もちろん主は、すべてを知っておられたのです。するとイザヤは、主のことばを、王から遣わされた者を通してヒゼキヤに告げました。「わたしをののしった、あのことばを恐れるな」、「わたしは…彼を剣で倒す」(6,7節)。主は、ご自身をそしる者を決して放置されず、必ず滅ぼされるのだ…と、力強く語ったのです。その後、アッシリアの王はまた使者を送り、ヒゼキヤにこう伝えさせました。「おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない…」(10節)、「私の先祖は、ゴザン、ハラン…にいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか」(12節)。するとヒゼキヤは、その使者の手紙を主の前に広げ、主に祈ったのです。「万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です…主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください…」(16-17節)と。そのときヒゼキヤにあったのは、恐れや悲しみではなく、主への全き信頼と勝利の確信でした。そして、全知全能なる主の前に出て、心を注ぎ出して祈り求めたのです。私たちもまた、試練の中に置かれますが、そのように、主の前に進み出て、熱心に祈り求めたいと思います。

主への信仰に堅く立つことができますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 36章◇(11月4日)

「人々は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。」…イザヤ36:21

イザヤ書36-37章には、列王記第二18-20章とほぼ同じ内容が記されています。アッシリアの王センナケリブは、ユダのヒゼキヤ王の治世14年にユダの町々を攻め取りましたが、その後、今度は将軍ラブ・シャケを大軍とともに送り、首都エルサレムを攻め取ろうとしたのです。ラブ・シャケは、ヒゼキヤ王に仕える長官や書記たちに対し、アッシリアの王のことばとしてこう言いました。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか…だれに拠り頼んでいるのか。私に反逆しているが」(4-5節)。さらにラブ・シャケは、イスラエルの神の名を出して、「主が私に「この国に攻め上って、これを滅ぼせ」と言われた」と、ありもしないことを口にしたのです。それに対するヒゼキヤ王の反論は、ラブ・シャケのことばの中に間接的に書かれています。「われわれは、われわれの神、主に拠り頼む」(7節)。「主が必ずわれわれを救い出してくださる。この都は決してアッシリアの王の手に渡されることはない」(15節)。そして民の心は、その王の心と全く一つになっていたのです。だからこそ、ラブ・シャケが民に向かって、降参せよとのセンナケリブのことばを告げても、「彼に答えるな」というヒゼキヤ王の命令に従い、民は黙って、一言も答えなかったのです。ヒゼキヤ王は主の目にかなうことを行い、高き所を取り除き、偶像を打ち砕き、「ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」とありますが(2列18:5)、そのように、主と王と民の心は一つになっていたのです。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださるのです」(2歴代16:9a)。「いったい、おまえは何に、だれに拠り頼んでいるのか…」。私たちは敵のその声に、ひるんではならないのです。恐れてはならないのです。静まって、黙して、王である主と心を一つにし、ただ主に信頼して歩む者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 65篇◇(11月2日)

「幸いなことよ あなたが選び 近寄せられた人 あなたの大庭に住む人は。私たちはあなたの家の良いもの あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。」…詩篇65:4

「みもとにすべての肉なる者が参ります」(2節)。神を求めてすべての人が主の御前に集うようになる、と詩人は言っています。なぜなら、続く3節にあるように、人々は自らの罪と咎によって心が責め立てられ、圧倒される思いになり、そこからの解放を切に願い、背きを赦して救いをもたらしてくださる神を、求めて来るからなのです。そして、そのようにして主に義とされ、神の所有の民とされ、主の大庭、臨在の中にとどまる者は、主の家の良いもので満たされ、心が満ち足りるようになるのです。「あなたは 海のとどろきを鎮められます。その大波のとどろき もろもろの国民の騒ぎを」(7節)。神はこの世界のすべてを造られた創造主であり、その偉大な御力によって山々を堅く据えられ(6節)、海のような自然界のみならず、民の騒ぎと争い、一人ひとりの騒いでいる心をも静めるお方なのです。そしてそれは、人の思いや世の常識を越えた、不思議なしるしを伴ってなされることであり、すべての造られた者はその主のみわざを見て畏れ、主をあがめ、ほめたたえるようになるのです(8節)。「牧草地は羊の群れをまとい 広やかな平原は穀物を覆いとしています」(13節)。12節には「荒野の牧場」とありますが、牧場は荒野には作れません。そこには家畜が食べるための草が生えないからです。しかし主は、そのような荒れ果てた地を、草が生い茂る牧草地として祝福し、羊の群れをそこに住まわせるのです。主が天から水を注ぎ、地をうるおして整えられるので、穀物は生長し、人々の必要を満たすために与えられるのです(9-10節)。だからこそ、すべての息あるものは、その主をほめたたえるのです。喜び叫び、賛美を主の御前にささげるのです。私たちもまた、主に選ばれ近寄せられた者、罪と咎を赦された者として、そして良いもので満たしてくださる主を覚えて、感謝と喜びの歌を歌いたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 詩篇 64篇◇(11月1日)

「正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。心の直ぐな人はみな誇ることができます。」…詩篇64:10

悪と不法を行い、敵として詩人のいのちを脅かす者どもは、その舌を鋭い剣のように研ぎ澄まし、苦いことばの矢を放ち、詩人や人々を攻撃していました。それはひそかに仕組まれ、不意にその矢が放たれるため、その悪だくみはだれにも見破られず、彼らは自分たちの策略がうまくいったと、ほくそ笑んでいるのです。そのようにして悪事に凝る彼らの罪は、底知れず深いものなのです。しかし神は、そのような者どもを放置される方ではありません。彼らのやり方を逆手に取って、神は、彼らに矢を射かけられるので、彼らは不意に傷を負うのです(7節)。神からのその鋭い矢とは、みことばだと言えます。神のことばが悪者たちに突き刺さると、彼らの良心が痛み、恥を見ることとなるのです。彼らは、自らの舌、苦いことばにつまずき、罪を認めざるを得なくなるのです。そして、そのことを通してすべての人は、神が悪しき者どもの存在と彼らの悪事を知っておられ、決してそれをそのままにされず、ご自身の義をもって彼らをさばかれるお方であることをあらためて知るのです。その方を畏れ、そのみわざをあがめるようになるのです(9節)。苦いことばの矢…現代においては、誹謗中傷が発信者を特定できないような形で放たれています。陰口のようにして広がることばで人々は心に傷を受けています。それは私たちにとっても無縁ではありません。しかし、神はすべてをご存じであられ、神を畏れる者たちを守ってくださるのです。「敵の脅かしから 私のいのちを守ってください」(1節)。それは世界に満ちている、また自分にささやいてくる悪しき者の苦いことばから、私を遠ざけてくださいという祈りにほかなりません。みことばで心を満たしてくださいという願いです。そして主はそのような者を確かに守り、平安と喜びを与えてくださるのです。その主にますます信頼して歩み続けたいと思います。

主の守りと助けがありますように。