◇聖書箇所: イザヤ書 61章◇(12月4日)

「しかし、あなたがたは主の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる。」…イザヤ61:6a

「神である主の霊がわたしの上にある」。そのことばで本篇は始まっていますが、「わたし」とはだれのことでしょうか…。イザヤ自身のことばは10-11節にあるように「私」として記されており、1-7節での「わたし」は、神から油注がれたメシアとしてのことばであり、「あなたがた」は、神の民、イスラエルのことだと考えられます。そのメシアは、神の神子イエス・キリストとして父なる神から遣わされ、この世に来られました。ルカの福音書4章16-21節には、主イエスが安息日に入り、イザヤ書の61章1-2節を朗読し、「今日、この聖書のことばが実現しました」と、人々に告げられたことが書かれています。実際に主イエスは、救いをもたらす良い知らせを心の貧しい者に宣べ伝え、罪に捕らわれている者を赦し、嘆き悲しむ者を慰めて、人々に喜びをもたらされたのです。8-9節は神のことばとして括弧で綴じられています。「まことに、わたしは主、…わたしは真実をもって彼らのわざに報い、永遠の契約を彼らと結ぶ」。神がアブラハムと結ばれた契約は、彼と彼の子孫が祝福され、大いなる国民とされ、地のすべての部族に神の祝福を押し流す者たちとされるという約束であり、そのイスラエルの民を見るものは、確かに彼らが主に祝福されたアブラハムの子孫であるということを、認めるようになるのです。キリストによって贖われた聖徒たちもまた、信仰によるアブラハムの子孫、霊的なイスラエルとされ、神の民に加えられています。イザヤはその神の民が、「義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる」、また、「主の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる」と告げています。そしてそのことは、ペテロのことばとしても彼の手紙に記されているのです(2:9-10)。そこに私たちも加えられていることを覚え、ますます、祭司としてとりなし祈る者、神のしもべとして忠実に仕える者、主の栄光を現す者とされたいと願います。

主にあって楽しみ喜ぶことができますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 60章◇(12月3日)

「あなたの太陽はもう沈むことがなく、あなたの月は陰ることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」…イザヤ60:20

「起きよ。輝け」という主の命令をもって始まるこの章はさらに「主の栄光があなたの上に輝く」と続きます。「光」と「栄光」が「あなた」の上に輝き、闇に覆われた諸国の民も、その光に照らされて歩むようになると、イザヤは告げているのです(1-3節)。「あなた」とは誰のことでしょうか。イザヤは霊の目をもって、エルサレム、イスラエル全体、さらには、世にあるすべての国々とその民をも見、あなたの上に光が来て輝く…と、後に起こること、そして最終的に終わりの日において完成することを預言しているのです。その光とは、神によって起こされるメシアにほかなりません。そしてその預言は、2千年前に世に来られたイエス・キリストによって、確かに成就したのです。「主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなる」。19節後半のそのことばは、20節の後半のことばと対になっています。また19節全体は、ヨハネの黙示録21章23節ともつながっており、そこにはこうあります。「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである」。メシアが到来するとき、地をおおっている闇、諸国の民に恐れと戸惑いを与えている暗黒は打ち破られます(ヨハ1:5)。人々は嘆き、悲しみ、絶望の中で苦しんでいますが、その心は平安と喜びと希望へと変えられるのです。それが完全に成就するのは、主が再びこの地に来られる再臨のときですが、キリストが神の国をこの世にもたらしてくださったゆえに、それはすでに始まっているのです。その中で、聖徒とされた私たちは、「起きよ。輝け」というその呼び掛けに応答し、主にあって輝く者、世の光とされ、置かれたところで用いられたいと願います。

主の光がますますこの地に拡がりますように。

◇聖書箇所: イザヤ書 59章(12月2日)

「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに。-主のことば。」…イザヤ59:20

主の耳が遠くて聞こえないのではない…あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ…。そのように語ったイザヤは(1-2節)、その罪と咎についてさらに語り、民は暗闇の中を歩んでいるのだと告げています(9-10節)。3節以降に出てくる、偽り、不正、嘘、不正、不義、暴虐、暴行などはみな、闇のものなのです。「主はこれを見て、公正がないことに心を痛められた」。それは、主が本来意図された状態ではなかったからです。またそのことのためにとりなす者がいなかったからです。それは主が「唖然とされた」ほどの嘆かわしいことなのです。そこで主は、救いをもたらすべく、義と救いを身に着けられ、同時に、復讐とねたみもまとわれました(17節)。そしてそれは、主が、救いとさばき、祝福とのろい、どちらももたらすお方であることを意味しているのです。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、背きから立ち返る者のところに」。主はそのようにイザヤを通して告げました。そのことばを新改訳3版では、「そむきの罪を悔い改める者のところに来る」と訳していますが、自らの罪を認め、それを悔い、それを改める思いに至ったとしても、それでは不十分なのです。罪を犯したことが神への背きであり、神の心を痛め、悲しませてしまったことを覚え、神に背を向けていた姿勢から180度向きを変えて、赦しと回復と祝福を与えてくださる神の元に立ち返ることが求められているのです。神は愛とあわれみに満ちたお方です。真実で正しい方であって、私たちの罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます(1ヨハ1:9)。贖い主として来られたイエス・キリストによって救われた私たちは、罪赦された罪人であって、内にある神に喜ばれないものを、日々きよめていただく必要があるのです。このアドベントのとき、主の光によって照らされて、闇がないか、主を悲しませていないか、自分自身のあり方を顧みたいと思います。

主を仰ぎ見て生きる者とされますように。