◇聖書箇所: 詩篇 58篇◇(8月31日)

「こうして人は言う。「まことに 正しい人には報いがある。まことに さばく神が地におられる。」」…詩篇58:11

詩人は、この世の力ある者たちに対して、義を語り、人々を公正にさばくことができるのか、と問うていますが(1節)、詩人は知っていたのです。彼らがさまざまな悪と不正を企み、それを闇の中で実行し、この地に暴虐をはびこらせているということを(2節)。それらの悪しき者は、偽りを言って人々をだます者たちであり、生まれたときから神に背を向け、神が備えられている道を歩まず、神のことば、教えに一切耳を貸さず、ただ自らの肉の思い、欲求を満たすべく、罪に満ちたさまざまなことを平気で行なっていたのです(3-5節)。しかし詩人は、そのことで彼らをただ非難することなく、また自分の力で彼らを社会から取り除こうとはしませんでした。詩人は、「彼らの歯をその口の中で折ってください。…若獅子たちの牙を打ち砕いてください」(6節)と、主権者である神、義なるお方に祈り、訴え、その主の介入、さばきを待ち望んだのです。「まことに 正しい人には報いがある。まことに さばく神が地におられる」。私たちは知っています。聖書に書かれているそのことばが真実であることを。だからこそ、悪しき者がこの世にのさばっていても、偽りと不正がなくならない状況であっても、自分が他者から不当な扱いを受けるようなときも、怒ったり、憎んだり、報復しようとしたりはしないのです。詩人と同じように、神に祈って訴え、主の介入を待ち望むのです。自らの力でなんとかしようとせず、主権者なる神に委ねるのです。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです」(1ペテ2:20)。「キリストは…ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」(1ペテ2:22-23)。キリストに贖われた聖徒として、キリストのそのあり方に倣う者でありたいと思います。

主が平安で満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 24章◇(8月30日)

「ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じた。ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」」…2サムエル24:10

24章は読者を混乱させます。前半にはイスラエルとユダの人口調査の記事がありますが、1節によれば、ダビデに働きかけてそれを行なわせたのは主ご自身でした。「そそのかして」という訳は、そのことが悪いこと、主のみこころに反したことであることを示唆しており、実際、ダビデはその調査の報告を受け、良心のとがめを感じたのです。では、なぜ主はそのようにさせたのでしょうか。そして、どうしてそれが悪いことなのでしょうか…。そのことのきっかけは「再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上が」ったことでした(1節)。その怒りの原因は不明ですが、「最初の怒り」は、サウルとその一族がギブオン人たちを殺戮した際のものかもしれません(21:1)。そしてその後、ダビデ王と勇士たちによりイスラエルが無敵状態になると、民は、周辺諸国を侵略して領土を拡大したいとの思いを持つに至ったのかもしれません。人口調査の報告は兵の登録人数についてでしたが(9節)、ダビデも民衆と同様に野心を抱いていたと考えられます。そのように、イスラエルの王と民には傲りと高ぶりがありました。そしてそれは、主の前に罪深いことであったのです。人口調査自体が悪いわけではなく、ヨアブが尋ねたように(3節)それを行なう動機が問題だったのです。王は自らの思いが神のみこころにかなっていないことを示され、「大きな罪を犯しました」と主に告白しました。その後、提示された3つのわざわいのうち、3日間の疫病をダビデが選ぶと、7万人もの多くの民のいのちが奪われることとなりました。そしてダビデが悔い改め、祭壇を築き、ささげ物と祈りをささげると、主はそれに心を動かされ、イスラエルに対する罰は終わったのです。私たちもまた、しばしば人間的な誇りを持とうとする愚かな者ですが、絶えず主の御前にへりくだり、主を誇りとし、主のみこころだけを行なう者に変えられたいと願います。

人間的な思いが砕かれますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 23章8-39節◇(8月29日)

「…しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、こう言った。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」…」…2サムエル23:16-17

24章8節以降には、王ダビデを支えた戦士たちの名前が挙げられています。それは、多くの兵士たちを束ねた30人のかしらであり、その中でも特筆すべき3人の有能な勇士として、ヨシェブ・バシェベテ、エルアザル、シャンマが紹介され、さらに、その3勇士に次ぐ力ある者として、アビシャイ、ベナヤの名が記されています。彼らは勇敢に戦って敵を討ちましたが、主は彼らを用いてイスラエルに「大勝利をもたらされた」のです(10,12節)。ダビデはそのような部下に恵まれていたからこそ国を守ることができたのであり、それは主のみわざであったのです。14-17節には、3勇士がダビデのためにしたエピソードが紹介されています。3人は、王が、ベツレヘムの門にある井戸の水が飲めたらよいのだが…と言ったことを耳にすると、その願いを叶えるべく、危険を顧みずに敵の陣営を突き破り、その井戸から水を汲んで持ち帰りました。しかしダビデは、そのような彼らの命懸けの行為によって得られた水を飲もうとはせず、それを主の前に注いだのです。そしてそれは、彼らが、ダビデに油注がれた主ご自身に対し、忠実に仕えたことを意味しているのです。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」(1コリ12:27)。教会におけるさまざまな奉仕…それは、たとえ誰かから依頼されたものであっても、人を喜ばせるためではなく、人に認めてもらうためでもなく、何よりも、教会のかしらであるキリストに対してささげる奉仕として、キリストのために、キリストのからだである教会を建て上げるためのものなのです。24節以降には勇士たちの名が列挙されていますが、そこに名が記されていない多くの者たちがともにあり、さまざまなことにおいて熱心かつ忠実に主に仕えていたに違いありません。私たちもまた、それぞれの立場において、そのような者として仕えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 23章1-7節◇(8月28日)

「まことに私の家は、このように神とともにある。神が永遠の契約を私と立てられたからだ。それは、すべてのことにおいて備えられ、また守られる。神は、私の救いと願いを、すべて育んでくださるではないか。」…2サムエル23:5

この書の著者は、ダビデが語った「最後のことば」として、23章の冒頭にそれを記しています。その中で特に3節の後半から次の4節までは、神が自分に対してこのように語られた…とダビデが告げたことばが書かれています。「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者」。それはまさしく、ヤコブの神に油注がれて王とされ、ユダとイスラエルの国を治める者として用いられたダビデのことであり、彼は、確かに主の御旨にかなう王として選ばれ、用いられ、あらゆる敵の手から守られたのです。「義」とはダビデ自身が持っていた考えや規範ではなく、主が示しておられる教えと戒めであり、彼は常に、神を畏れ、主のみこころを尋ね求めつつ、王としての職務を果たすべく、一つ一つのことを忠実になしていたのです。「その者は、太陽が昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らす光のようだ」。朝の光、それは夜の闇を打ち破り、希望と喜びをもたらすものであり、主に油注がれた王は、国民にも歓迎され、喜ばれ、主の祝福を国と民とにもたらす者であったのです。「まことに私の家は、このように神とともにある。神が永遠の契約を私と立てられたからだ」。22章51節にも、「主に油注がれた者ダビデとその裔に、とこしえに恵みを施されます」とありますが、そのとおりにダビデ王家からソロモン、レハブアム、アビヤ…と歴代の王が起こされ、やがてその家系からイエス・キリストが生まれ、世界を統治するようになったのです。そして、キリストの血による新しい契約によって贖われ、聖霊の油を注がれ、光の子どもとされている私たちもまた、朝の光、希望と喜びを闇にもたらされるお方を証しする存在とされているのです。そのことを覚えたいと思います。

主の祝福の基とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 22章26-51節◇(8月27日)

「地のちりのように、私は彼らを打ち砕き、 道の泥のように、粉々に砕いて踏みつけました。」…2サムエル22:43

22章の後半においてまず心に留まるのは、26-27節のことばです。「恵み深い者には恵み深く」と他者に対するあり方を、また「清い者には清く」とご自身に対するあり方を主は知っておられ、主ご自身もまたその者に対して、同じように関わるのだと言うのです。それは、まるでブーメランのように、自分から出たものが戻ってくるということであり、種を蒔けばその刈り取りもするということでもあります(ガラ6:7)。どうせ知られるはずがない…と神を侮るなら、恥をかくことになるのです。38-39節には、ダビデが敵に対して「根絶やしにし」、「断ち滅ぼし」、「打ち砕き」と、容赦せず、徹底的に攻撃したことが書かれていますが、それは決して、彼が肉の思いで感情的に行ったことではないのです。40節以降にあるとおり、ダビデに力を帯びさせ、敵を彼のもとにひれ伏させ、彼に背を見せるようにされたのは、主ご自身であったのです。言うまでもなく、そのようにして敵を滅ぼすのは、主のみこころであるからです。「彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした」(42節)。そのように主の救いがなく、ダビデによって踏みつけられ、粉々に砕かれてしまうここでの「彼ら」とは、サウルやその家来のような目に見える人間ではなく、神に敵対する勢力である悪魔であり、ダビデがキリストの予型として示されている預言的なことばがここで語られていると理解することができます。「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます」(ロマ16:20)。悪魔は今なお人々を闇の中に引き込もうとしていますが、主権者なる主は敵を打ち砕くべく働いておられ、そのために、すでに贖われたご自身の聖徒たちを用いてくださるのです。その私たちは、世にあってさまざまな誘惑や攻撃を受けますが、揺り動かされることなく、ますます主に信頼し、主にあって勝利していきたいと思います。

恐れずに前進することができますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 22章1-25節◇(8月26日)

「主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。」…2サムエル22:21

22章は主へのダビデの賛歌です。詩篇18篇とほぼ同内容となっています。1節には、主がダビデをすべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日の歌だとあります。冒頭から「わが巌、わが砦、わが救い主よ…わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場…」と、主がいかに自分を守ってくれる頼れる存在であるかをダビデは告白し、感謝にあふれて主をほめたたえているのです。21,25節には、主が私の義にしたがって私を顧み、私に報いてくださった、というダビデのことばがありますが、彼は、自分が正しい者、そうされて当然の者だと自負しているわけではありません。「主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした」(23節)とも言っているダビデは、苦難の中で自暴自棄になりかけたとき、主が戒めと掟を与えて歩むべき道を示してくださった、ただそれだけを望みとして進み続けた自分を主は良しとしてくださった、愛とあわれみをもって敵から救い出してくださった…と言っているのです。人が神に義と認められるのに必要なのは、神への信仰のみで行いは不要だ、とするのは聖書的ではありません。信仰と行い、つまり神への信頼と神に喜ばれる言動のどちらも求められているのであって、そもそもそれを切り離してとらえること自体、誤っているのです。「主は私を…助け出されました。主が私を喜びとされたからです」(20節)とダビデが言うように、主は、私たちとの人格的な愛の関係の中で、私たちを義とされ、顧みてくださるお方であり、試練の中でも支え、守ってくださるのです。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」(ヨハ14:21)。主は私たちが歩むべき道を備えてくださっています。主よ、あなたを愛します…と日々告白し、みことばを守り行う者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 20章◇(8月24日)

「この女は知恵を用いて、民全員のところに行った。それで彼らはビクリの子シェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、人々は町から散って行き、それぞれ自分の天幕に帰った。ヨアブはエルサレムの王のところに戻った。」…2サムエル20:22

ベニヤミン人ビクリの子シェバというよこしまな人物がダビデを罵り、イスラエルの民を扇動し、ダビデから離れて自分につき従うようにさせました。彼は同族のサウルが王であったときからずっとサウル側についており、ユダ族出身のダビデに対して反感を抱いていたのです。ダビデはそのことに対処するため、ヨアブの代わりに軍団長に任命しようと考えていたアマサに対し、ユダの人々を召集するようにと命じましたが、彼は指定された日までにそうできませんでした。するとダビデは、ヨアブの兄弟アビシャイに、シェバを追うよう命じたのです。なぜダビデがヨアブを外そうとしたのかは不明ですが、彼の冷酷で残忍なやり方を見て、家来として信用できない、という思いを持っていたのかもしれません。そのヨアブは、ダビデから疎まれていることに不満を持ち、アマサに近づき、剣で腹を一突きして殺しました。そのようにして彼は邪魔者を消し、引き続きダビデ軍の長としての地位を確保したのです。さらに彼は、シェバをイスラエル北方の町アベル・ベテ・マアカに追い詰めましたが、シェバはその町の一人の賢い女性の働きによって町の人々に討ち取られ、反乱は鎮圧されたのです。その女性の名前は明らかにされていませんが、彼女の勇敢さ、大胆さ、思慮深さ、そして町を守ろうとする使命感の強さに心が留まります。当時、女性は蔑視されていましたが、彼女が町の人々にシェバの首をはねるよう依頼すると、彼らはその指示に忠実に従ったのです。その彼女もまた主がダビデの助け手として立てられた存在に違いありません。主がそのように、名も記されない一人の小さな者に目を留め、御手を置き、ご自身のご計画のために大きく用いられたことを覚え、私たちもまた忠実な者として(19節)、主の働きに用いられたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 19章24-43節◇(8月23日)

「こうして、民はみなヨルダン川を渡り、王も渡った。王はバルジライに別れの口づけをして、彼を祝福した。それで、バルジライは自分の町へ帰って行った。」…2サムエル19:39

アブサロムの謀反によってマハナイムに都落ちしていたダビデと家来、そしてユダの民は、一連の騒動が終わったためエルサレムに戻ることになりましたが、その一行を見送るためにギルアデ人バルジライがロゲリムから下って来ました。彼は、ダビデがマハナイムに来たとき、ユダの民が荒野で飢えて渇いているのを知って、多くの食料を持って来て人々に提供した人物です(17:27-29)。その行為は一時的なものではありませんでした。彼は、ダビデのマハナイム滞在中、それをし続けたのです。32節には「王を養っていた」とあります。異邦人である彼は、異国の王であるダビデとユダの民に対して、自分ができることは何かと考えてそのようにしたのです。あるいはそれを白い目で見る同胞もいたかもしれません。ダビデはバルジライから受けたその恩を返すべく、エルサレムで彼を養おうと考えて同行を求めましたが、バルジライは高齢であることを理由とし、その申し出を丁重に辞退しました。彼が、イスラエルの神、油注がれたダビデ、そしてユダとイスラエルの民のことをどこまで理解していたかは不明ですが、彼は何かの報いを期待していたわけではなく、純粋に王と民の必要を満たそうとしたのです。そしてその思いを起こさせたのは神であり、そのようにして彼は助け手として用いられたのです。「飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる」(イザ58:10)。主イエスも、強盗に襲われた人のたとえから、その人にあわれみをかけてやったサマリヤ人のように、良き隣人となるようにしなさい、と教えられました。そのことが神のみこころであること、主がそれを喜ばれること、そのことをとおして神の国がこの地に拡げられていくことを覚え、私たちもそのために主に用いられる者でありたいと思います。

主の祝福を押し流す者とされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 19章1-23節◇(8月22日)

「ヨアブは王の家に来て言った。「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました。」」…2サムエル19:5

イスラエルとの戦いに勝利したにもかかわらず、ダビデ軍の兵士たちは、まるで戦場から逃げ帰る者のように、町にこっそりと帰って来ました。それは、ダビデ王がアブサロムの死をずっと嘆き悲しんでおり、勝利を祝うことがはばかられる空気であったからです。するとヨアブは、それが兵士たちの士気を低下させ、国がばらばらになることを懸念し、立って外に行き、家来たちに対して労をねぎらう言葉がけをするよう、王に要請したのです。それに対してダビデは、「立って、門のところに座った」だけでした。きっとそれが精一杯の対応だったのでしょう。その後ダビデは、アブサロムを失ったイスラエルの民が自分を王として連れ戻そうとしていることを知り、ユダの民もまた王宮に自分を連れ戻すべきだと考え、人を遣わしてそのことをユダの人々に伝えました。アブサロムの死を悲しむばかりであったダビデはようやく、ユダとイスラエルの王としての自覚を取り戻したのです。ヨアブからの指摘は必ずしも事実とは言えません。6節の彼のことばにはとげがあります。あるいはヨアブは、王を見下しており、自分がより大きな権力を持つようになりたいと願っていたのかもしれません。いずれにしても、ダビデは、ヨアブのことばを通して、王でありながら必要以上に私情にとらわれてしまった自らの至らなさを知り、それを主の前に悔い改め、兵士たちや民に対して素直に謝罪すべきであったのです。王もまた一人の人間であり、弱さ、足りなさがありますが、すべての人は、そのような真実な行動を取ることが求められているのです。人は他人から指摘を受けると、自分は間違っていない…と反発しがちです。しかしそれがたとえ誤解を含んでいたり、とげがあるものであっても、その背後におられる主ご自身の御声をへりくだって聞き入れることが大切なのです(ピリ2:3)。そのような者とされたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 18章19-33節◇(8月21日)

「見ると、クシュ人がやって来て言った。「王様にお知らせいたします。主は、今日、あなた様に立ち向かうすべての者の手から、あなた様を救って、あなた様のために正しいさばきをされました。」」…2サムエル18:31

アブサロムの死を受け、ツァドクの子アヒマアツは、自軍の勝利と、王に謀反を起こした者が主の正しいさばきを受けたことを、その日のうちにダビデに報告しようとしましたが、ヨアブはそれを止めました。王が息子の死を嘆き悲しむのを遅らせようとしたのです。その後、一人のクシュ人が伝令としてダビデのもとに向かいましたが、アヒマアツは彼の後を追い、途中で追い越しました。走って来る者がいる、と見張りが王に告げたとき、王は「吉報だろう」と言いましたが、その「吉報」とは何を意味していたのでしょうか…。ダビデにとっては、自軍が敵を打ち破ることよりも、息子のいのちが守られることが最大の関心事だったのです。それは、二人の報告者に対する彼の第一声が「勝ったか」ではなく、「若者アブサロムは無事か」であったことに表われているのです。しかしそのダビデの態度やことばは、いのちがけで戦っている兵士たちや、家族である彼らを送り出している民に対し、否定的な感情を与えたに違いありません。なぜならそれは、王にとって、彼らの身を守り国を保つことは二の次である…ということを意味していたからです。息子の身を案じる一人の父親としての立場…。かたや、一国の王、また軍の最高司令官としての立場…。その間で葛藤するダビデの姿がここにあります。「息子は無事か」と王から問われ、アヒマアツはことばを濁さざるを得ませんでしたが、彼が、主は王様に手向かった者どもを引き渡された、またクシュ人が、主が王を救って正しいさばきをされた、と告げたのは(28,31節)真実であったのです。そのように、主のみこころ、ご計画は、ダビデが抱いていた思いとは異なっていたのです。ダビデのような葛藤は私たちにもありますが、私情に流されることなく、主の御旨が何かを冷静に尋ね求め、信仰によってそれに従う者でありたいと思います。

絶えず謙遜に歩むことができますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 18章1-18節◇(8月20日)

「王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ。」兵はみな、王が隊長たち全員にアブサロムのことについて命じているのを聞いていた。」…2サムエル18:5

アブサロムは、ダビデとの戦いにおいてどうすべきか、アヒトフェルとフシャイの両者から助言を聞いた上で、兵とともに一緒に戦いに出るべし、とのフシャイの案を採用しました(17:14)。一方ダビデは、自軍の兵力を3つに分け、それぞれに指揮官を立てて、自らも出陣すると兵たちに告げました。しかし、町に留まるべきだと説得された王は、その提言に素直に従い、3人の指揮官たちには、「アブサロムをゆるやかに扱ってくれ」、つまり、殺さずに生け捕りにしてほしい、と頼み込んだのです。実際に戦いが始まると、ダビデ軍の優位は明白でした。アブサロム軍の兵は2万人が倒れ、戦いに参加していたアブサロムは、豊かな頭髪が樫の木の枝に引っ掛かって宙づりになりました。すると、それを見た兵士の一人は、ダビデの指揮官たちへのことばを思い出して手を下せないでいましたが、ヨアブは王のそのことばを無視し、容赦なく槍で突き刺して、アブサロムを殺害したのです。ヨアブのその行為は、王の依頼を退けたものであり、彼のあり方は冷酷無情であるようにも思えます。しかし彼は、大将を討ち取れば戦いの勝敗は決まるのであり、兵士たちが殺し合いを続ける必要はないと冷静に判断し、兵たちが深追いするのをやめさせたのです(16節)。王に謀反を起こした者を生け捕りにするのはあり得ない、兵や民が納得するはずがないと、彼は考えていたのです。実際、ダビデが頼み込んだアブサロムの扱いは、自分の息子だから特別に助けてやってほしい、という肉親の情から来ることであり、それは客観的、総合的に考えれば、良くないことだと言えるでしょう。そもそもアブサロムとの関係修復の機会があったのに、ダビデが動かなかったことが悲劇を生み出したとも言えるのです。王のその弱さと足りなさを補うべく、ヨアブを用いてみこころをなされた、主のあわれみと導きを覚えたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 15章19-37節◇(8月17日)

「王はツァドクに言った。「神の箱を都に戻しなさい。もし私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。」」…2サムエル15:25

昨日の箇所、15章の前半とは異なり、今日の箇所では、ダビデの冷静さと、何よりも主に拠り頼む姿勢が目立っています。わが子の謀反という事態を通して、祖国と民を自分が守らなければならないという、王としての自覚がよみがえったのかもしれません。さらに、ダビデの助け手が次々に起こされたことにも心が留まります。王と家来たちがエルサレムから逃げたとき、6百人のガテ人、つまり異邦人であるペリシテ人たちも王の前を進みましたが、彼らは自国から亡命して来たばかりの者たちでした。その彼らの助けにはなれないことを思い、戻るように勧めたダビデに、その中のイタイという者は、イスラエル神の御名を口にして、主は生きておられる…王とともに自分たちも進む…と告白したのです(21節)。また、一行が進む途中、今度はフシャイという者がダビデのもとに来て同行を願ったので、ダビデは、彼にアブサロムの部下となるように命じました。それは、そこで得た情報をエルサレムにいる祭司のツァドクとエブヤタルに伝えさせ、さらに彼らから遣わされる伝令によって、自分にその情報がもたらされるようにするためでした。ダビデにとって、良き助言者であったアヒトフェルが寝返り、アブサロム側についたことは大きな痛手でした。しかし彼は、そのことを嘆き悲しむことで終わらせず、「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と祈り求めたのです(31節)。窮地に陥っても、全知全能であられ、人を変えることができ、最善をなされる主に拠り頼んだダビデの信仰深さを、ここに見ることができます。それはまた、神の箱を運び出したツァドクに対して彼が告げたことばにも表れています(25-26節)。「主が良いと思われることをこの私にしてくださるように」。私たちもそのように、主の主権を認め、自らを完全に主に明け渡す者でありたいと思います。

主のみこころがなされますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 15章1-18節◇(8月16日)

「ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。」」…2サムエル15:14

14章33節には、ダビデとアブサロムが再会した際、アブサロムが王の前でひれ伏して礼をし、王もまた彼に口づけしたとあり、二人の関係は修復されたかのようにも取れます。しかしそれはあくまで外見上のことで、アブサロムは、そのときすでに王の座を狙っていたのです。その後、彼は、戦車と馬、50人の家来を確保し、ダビデに謀反を起こす準備を着々と進めました(1節)。アブサロムの戦略は、民衆を自分になびかせることでした。彼は、さばきを求めて王のところに来る一人ひとりの訴えを丁寧に聞き、彼の前にひれ伏そうとする者を抱いて口づけまでしていたのです。その作戦は功を奏し、人々はアブサロムを支持するようになっていきました。それからさらに4年経ち、アブサロムが王に、主への誓願を果たすためにヘブロンに行かせてほしいと申し出ると、王は何の疑いもなくそれを許可しました。しかしそれは、ヘブロンにおいて、自分が新たなイスラエルの王となったことを宣言し、また、ダビデの助言者アヒトフェルを自分の側に引き込み、いよいよ謀反を起こそうとするための行動であったのです。一方、人々の心がアブサロムになびいていると聞かされたダビデは、彼の家来に逃げようと言い、王宮に10人の側女を残して出て行きました。それにしても、ダビデの危機意識のなさ、ふがいなさには驚かざるを得ません。彼は、アブサロムの行動を把握しておらず、ヘブロンに行くことを許可した際も、不穏な空気を感じ取ることができませんでした。また、民の心がなびいていると告げられると、恐れてすぐに逃げ、王宮を守る者として、部下ではなく側女を残したのです。そのような中、ダビデが主にみこころを尋ね求めた様子はありません。彼を反面教師とし、自らの立場を自覚し、神に拠り頼む大切さを、あらためて覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 14章18-33節◇(8月15日)

「王は言った。「あれは自分の家に行ってもらおう。私の顔を見ることはならぬ。」アブサロムは自分の家に行き、王の顔を見ることはなかった。」」…2サムエル14:24

ダビデは、女性が自分のところに来たのはヨアブの指示であり、彼が自分にアブサロムを戻させようとしていることに気づきました。その後、ダビデはそのことを受け入れたものの、アブサロムと顔を合わせることを避けるため、戻っても自分の家に住むようにと命じたのです。一方、アブサロムは、ヨアブをダビデのところに送ろうとしていました。おそらく彼は、アムノン殺害を首謀したことの謝罪の気持ちと、エルサレムに戻らずゲシュルにとどまっていたかったという思いを、間接的に王に伝えようとしたのです。しかし彼から人を遣わされて要請されても、それは得策ではないと判断したヨアブは、アブサロムの求めに応じようとはしなかったのです。すると、ヨアブに無視され続けたアブサロムは業を煮やし、自分の家来たちに命じてヨアブの畑に火をつけるという強硬手段をとりました。驚いたヨアブは、なぜそんなことをしたのかとアブサロムに問いただし、その意図を知るとそれを王に告げました。そして、ようやく、ダビデとアブサロム、父と子の再会が実現したのです。なぜダビデは、アブサロムと会おうとしなかったのでしょうか…。もちろん許せないという思いがあったでしょう。また、アブサロムは美しく、非の打ちどころがなかったとありますが(25節)、ダビデは、民衆がそんな彼を支持し、自分の王の座が奪われるようになるのでは…と恐れていたのかもしれません。一方、アブサロムはなぜ王と直接会って自分の思いを伝えようとしなかったのでしょうか…。それは、自分の罪は許されておらず、罰せられるのではないか…と恐れていたからでしょう。しかし、そのような疑心暗鬼から、顔と顔を合わせて会うことを避けるならば、両者の関係はより悪化するのです。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる」(箴29:25)。人を恐れず、ますます主に信頼して歩む者でありたいと思います。

平安がありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 14章1-17節◇(8月14日)

「彼女は言った。「どうか王様。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を消し去らないようにしてください。」王は言った。「主は生きておられる。あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない。」」…2サムエル14:11

アムノン殺害を指示したアブサロムに対して、ダビデは許せない思いを当初抱いていましたが、その後、王のその思いが徐々に薄らいできているのを知った側近ヨアブは、さらに両者の関係が良好になることを願いました。彼は、アブサロムがやがて王になったときに、自分が側近として登用されることを願っていたのかもしれません。そこでヨアブは、テコアに住む知恵ある女性を呼び寄せ、王に語ることばを教えて「和解工作」をしたのです。彼女は言われたとおりにダビデに伝えました。自分の二人の息子が喧嘩し、一人が相手を打ち殺してしまった…親族がその者を殺せと迫るが、そのような血の復讐がなされないようにしてほしい…と。するとダビデは、主は生きておられる、息子は守られると告げたのです。すると、彼女はすかさずダビデに指摘しました。王よ、あなた自身はどうなのか、追放された者を戻していないではないか、それは今語ったことと矛盾している…と。そして彼女は、主は生きておられる、と主の御名を語ったダビデに、あなたの神、主があなたとともにおられますように…と同じように主の御名を語ることによって、王のうちに、落ち度を責められた…という否定的な思いではなく、主のみこころに従おう…という信仰的な思いが起こされるよう願い、そのように働きかけたのです。一連のことはヨアブが仕組んだことでした。しかしその思いを彼の中に起こし、王に伝えるべきことばを示し、彼の意図を理解できる知恵ある女性を備え、ダビデの元に遣わされたのは主ご自身であったのです。人は自分のことを客観的に見ることができません。ダビデもまた同じでした。だからこそ、主はそのように働かれたのです。主は、私たちにもそのようにされます。へりくだり、他者の助言や忠告を信仰によって受けとめたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 13章20-39節◇(8月13日)

「アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。」…2サムエル13:39

自分の息子のアムノンが、よりによって、異母姉のタマルを陵辱したということを知り、ダビデは激怒しました(21節)。しかし、その後ダビデが、アムノンを呼び出してそのことを叱責したり、傷ついたタマルのもとを訪れて慰めた様子はありません。そのようにダビデが、その一件で父親として子どもたちに積極的に関わろうとしなかったのは、あるいは自分自身のバテ・シェバとの一件を、後ろめたく感じていたからかもしれません。タマルが辱めを受けてから2年が経ちました。彼女の兄であるアブサロムはその間ずっとアムノンを憎み、彼をいつか殺してやろうと、その思いをずっと胸に抱いていましたが、ついにその機会がやって来ました。彼は、羊の毛の刈り取りの祝いのために、王と王の息子たち全員を祝宴に招き、その席で部下に命じてアムノンを殺害しようとしたのです。ダビデは出席を辞退したのでそこにはいませんでしたが、その計画は実行されたのです。その知らせは、ダビデのもとに届きましたが、最初は息子たち全員が殺されたとの悲報であったため、彼は衣を引き裂き、地に伏して嘆き悲しみました。しかしその後、死んだのはアムノンだけだとの証言を聞き、実際に難を逃れて来た残りの息子たちと会うと、その息子たち、王とその家来たちはみな、感極まって号泣しました(36節)一方、ゲシュルに逃げたアブサロムは、3年間そこに留まっていましたが、そのときも、ダビデが彼と会うことはありませんでした。その理由として「アムノンが死んだことについて慰めを得たから」との説明がありますが、それは自分にとってのことであって、ダビデは父親としてアブサロムと会うべきであったのです。彼がどんな思いでタマルのことを受けとめ、兄として関わろうとしていたのか話を聞いた上で、主の赦しと回復を祈り求めるべきだったのです。親として子に関わり続けるのは容易ではありませんが、その責任を果たしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 13章1-19節◇(8月12日)

「アムノンは、激しい憎しみにかられて、彼女を嫌った。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った。「起きて、出て行け。」」…2サムエル13:15

ダビデの長子であるアムノンは、異母姉であるタマルに恋をしていました。近親者である彼女を自分のものとすることはできないと、良心を持っていた彼は悶々とし、ついに精神的に病んでしまうほどでした。そんな彼に、いとこで仲の良かったヨナダブが、仮病を使ってタマルに料理を食べさせてもらい、そのとき彼女を寝床に引き込めばよいと悪知恵を授けると、アムノンはそれが良いと考え、早速実行に移すべく、自分のために見舞いに来た父ダビデに、タマルを寄こすようにと頼んだのです。タマルはダビデの命令に忠実に従い、アムノンの家で団子を作ってゆで、それを寝室に持って行って彼に食べさせようとしました。するとアムノンは、抵抗する彼女を力ずくで辱め、一方的に自分の欲望を満たして満足したのです。けれどもそれはその一瞬だけのことでした。急速にタマルへの想いが冷め、自分のした行為が明るみに出ることを恐れた彼は、激しい憎しみにかられ、彼女を嫌って、ただちに家の外へと追い出したのです。タマルは頭に灰をかぶり、衣服を引き裂き、泣き叫びました。タマルはアムノンに抵抗した際、「あなたも、イスラエルで愚か者のようになるのです」と告げました(13節)。しかしアムノンは、それを意に介さず、父ダビデが自らの欲望を満たすためにバテ・シェバを奪い取ったのと同じように、神のみこころに背き、肉に従って歩んだのです。そして、そのような者こそまさに愚か者であり、自らが蒔いた種の結果を刈り取ることになるのです。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(ロマ8:13)。肉に従って歩み、いのちを失う愚か者になることがないように、絶えず主のみことばに聞き従う知恵ある者、御霊に満たされ主のいのちに生かされる者でありたいと願います。

さまざまな誘惑から守られますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 11章◇(8月10日)

「喪が明けると、ダビデは人を遣わして、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産んだ。しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。」…2サムエル11:27
神の前に真実に歩み、主に油注がれて全イスラエルの王となり、周辺諸国との戦いに勝利を重ねて来たダビデ…。1節には、彼がアンモン人との戦いをヨアブたちに任せ、エルサレムにとどまっていたとあります。その理由は不明ですが、「しかし」ということばは、何かダビデに気の緩みのようなものがあったことを暗示しています。それは、本来は起きて活動しているはずの夕暮れ時に、彼が床から起き上がったことからも感じ取れます(2節)。そのダビデは、兵士ウリヤの妻であるバテ・シェバがからだを洗っているのを王宮の屋上から見ると、その美しさに心を奪われ、使いを送って彼女を召し入れ、性的な関係を持ちました。そして、彼女が妊娠したのを知ると、ウリヤを戦場から呼び寄せて家に帰らせ、夫婦の営みをさせ、自分が犯した姦淫の事実を隠そうとしたのです。しかし、ダビデのその思惑は外れました。まじめなウリヤは、上司や仲間たちが戦場で野営しているのに、自分だけがそんな特別待遇を受けるべきではない…と固辞し、帰宅しませんでした。するとダビデは、彼を戦いの最前線に出して戦死させよとヨアブに指示する手紙をウリヤに託して戦場に送り返し、そのとおりになったのです。それを知ってほっとするダビデの顔が浮かびます。その後、バテ・シェバはダビデの妻として迎えられました。「しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」。ダビデが犯した罪、それは姦淫罪であり、殺人教唆罪です。しかし、何よりも主のみこころを損なったこととは、自分の一連の行動は誰にも見られていないと考えて、人間的な方法により隠蔽しようとしたことです。しかし、主はすべてを見ておられ、すべてをご存じなのです。人には隠せても、主の前には明らかなのです。主がいつもともにおられ、主のまなざしが絶えず注がれていることを、決して忘れないようにしたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 9章(8月8日)

「ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」」……2サムエル9:7

ダビデとヨナタンはある契約を結んでいました(1サム20:15-16)。それは、ダビデがヨナタンと彼の家に対して、神の恵みを施すということでした。ダビデは、ヨナタン亡き後も、その契約に基づいて、彼の息子で足の不自由なメフィボシェテをわざわざ連れて来させ、実際に恵みを施したのです。主にあって真実を尽くしたのです。その恵みとは、具体的には、ダビデに所有権が移っていたサウルの地所がすべて返されるということであり、また、毎度の食事を常にダビデの食卓でするようにと招かれるということです。そのことをダビデから告げられたメフィボシェテはすっかり恐縮し、「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは」と言いました(8節)。「死んだ犬」とは、価値のない者という意味です。メフィボシェテはサウル家の残りの者であり、ダビデが王となったからには、かつての敵対関係のゆえに、殺されてもおかしくない立場にありましたが、ダビデはそうしませんでした。そしてそれは、彼の足が不自由だったからではなく、ヨナタンとの契約のゆえに彼に恵みが施されたからです。それは、一方的な好意としてダビデが与え、メフィボシェテが受けたものであったのです。この9章の記事が示唆していること、それは、神がキリストのゆえに私たちに施してくださっている一方的な恵みです。神に背いて敵対していた私たちを、神は滅ぼさず、キリストのゆえに、その流された血による新しい契約によって、私たちに恵みを施し、神の子とし、忠実を尽くしてくださっているのです。私たちは日々、主の食卓へと招かれ、豊かな祝福にあずかっているのです。愛される価値のない私たちに対するその神の愛と恵み、キリストの贖いを覚え、主に感謝をささげたいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 8章◇(8月7日)

「彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」…2サムエル8:14

8章には、ダビデが周辺諸国と戦って勝利したことが記されています。その相手とは、西のペリシテ、南のエドム、南東のモアブ、東のアンモン、そして北のツォバ、アラムです。ダビデはイスラエルをぐるっと取り囲むそれらの国々を次々に討って屈服させました。そしてそれは、主が与えられた勝利であったのです(6,14節)。そのようにダビデは、イスラエルの外敵と戦い、主にあって勝利を収めましたが、エドムに対する勝利を記す14節のすぐあとに、「ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った」と書かれていることに心が留まります。それはつまり、民が主のみこころを行う者となるように、主のみことばに聞き従うようにと、ダビデが強調し、促したということであって、ダビデが、自分の考えややり方に従えと民に強制し、それに逆らう者たちを罰して、王としての地位を保った…ということではないのです。私たちが目を向けるべき相手、しっかりと治めなければならないものは、私たちの外側にだけ存在しているわけではありません。ダビデは、主にあって周辺諸国と戦い、勝利を収め、同時に、イスラエル国内をもしっかりと治め、すべての国民が主のみこころにかなった者となるようにと働きかけ、さばきと正義を行いました。私たちもまた、同胞、仲間、そして自分自身において、主のみこころがなされることを願い求め、互いにそのように教え合い、励まし合い、みことばに聞き従うべきなのです。ダビデは、国々から奪った戦利品や、ハマテの王から送られた器を主のために聖別しました(9-12節)。そのように彼の心にはいつも、「主のために」という思いがあったのです。主のために、主の栄光のために、主のみこころがなされるようにと願い求め、行動したいと思います。

主が勝利をもたらしてくださいますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 7章◇(8月6日)

「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」…2サムエル7:16

主は、周囲の敵の手からダビデを守り、杉材でできた立派な王宮に彼を住まわせ、安息を与えておられましたが、そのような中でダビデは、自分がこのようにして家に住んでいるのに、神の箱が天幕の中に置かれたままで良いのか…と思わされました。そして、主のために家を建てる、つまり主が住まわれる立派な神殿を建てることを決意し、そのことを預言者ナタンに告げたのです(1-2節)。それを聞いたナタンは王に同意しましたが、その夜に彼を通して語られた主のことばは、ダビデが予期していなかったものでした。主はダビデに、わたしはあなたにそれを求めてはいない、民にそうせよと言ったことは一度もない、と言われ、一方で主は、ダビデが王として統べ治める王座は堅く立ち、ダビデの家はとこしえに確かにされ、子孫は祝福されると約束されたのです(16節)。それを聞いたダビデは、自分の不遜さを覚えつつ、取るに足りない者を祝福してくださる主をあがめ、感謝し、礼拝と祈りのときを持ちました。そのダビデのことばが18節以降に書かれていますが、そこでの「神、主よ」という呼び掛けが心に留まります。新改訳2017では「神」が太文字になっていますが、その原語であるヘブル語は、他の箇所では「主」(太文字)と訳されている「ヤーウェ」であり、その後に続く「主」は、「アドナイ」(ヘブル人が「ヤーウェ」を読み替えるときに使うことば)が使われています。ダビデは、そのように主の御名を重ねて呼ぶことによって、主の偉大さ、尊厳、主権を認めてそれを告白しているのです。自分の計画ではなく、ただ主のご計画、みこころがなるようにと願っているのです。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する」(箴19:21)。私たちも主に仕える働きにおいて、何かを計画して推し進めようとしますが、それが独りよがりでないか、自己満足、自己実現のためとなっていないか、へりくだって吟味したいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 6章◇(8月5日)

「ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。」…2サムエル6:21

ダビデは、ユダのアビナダブの家にあった神の箱を、ダビデの町、すなわちエルサレムに移そうと計画しました。そのために3万人もの精鋭の兵を集め、神の箱を新しい荷車に載せ、ダビデとイスラエルの全家は、竪琴、タンバリン、シンバルなど、さまざまな楽器を奏で、打ち鳴らし、それに合わせて主の前で喜び踊ったのです。それは、全イスラエルに歓喜をもたらす一大イベントでした。ところが、その神の箱がいよいよダビデの町に入ろうとしていたとき、妻でありサウルの娘であったミカルは、ダビデが主の前で喜び踊り、ぴょんぴょんと跳ねているのを目にすると、王のくせにそんなはしたないことを…と心の中で軽蔑しました。彼女は、夫であり王であるダビデがそのようにすることに対し、否定的だったのです。ミカルから皮肉たっぷりにその行動を揶揄され、批判されたダビデは彼女に言いました。私は主の前で喜び踊るのだ…と。人から何と言われようともかまわない、私は、自分を王とされたお方、敵との戦いに勝利をもたらしてくださるお方、その主の前に、賛美と踊りをもって、感謝と喜びを表しているのだ、と告白したのです。この6章に記されているのは、王であるダビデが主から促され、イスラエルの民を自ら導き、主が喜ばれた礼拝のあり方にほかなりません。かつて日本の教会でも、オルガンのみが「聖なる楽器」とされ、ギターやドラムなどは「悪魔の楽器」と言われたことがありましたが、聖書的な礼拝、神が喜ばれる礼拝とはどのようなものかを、私たちはみことばから知る必要があるのです。そして、ミカルのような冷めた態度、批判的な心ではなく、ダビデや民と同じように、私たちを贖ってくださったお方、私たちとともにいてくださるお方を心から愛し、あらゆる楽器と踊りをもって、感謝と喜びのうちに主を礼拝すべきなのです。そのような者でありたいと思います。

賛美と誉れと栄光が主にありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 4章◇(8月3日)

「ダビデは、ベエロテ人リンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」…2サムエル4:9

サウルの子であり後継の王のイシュ・ボシェテは、側近であった将軍アブネルが殺されたと聞くと、気力を失ってしまいました。一方、イシュ・ボシェテに仕えていた略奪隊長バアナとレカブは、主君を見限り、ダビデに寝返るべく、自宅で昼寝をしていた王を突き殺し、その首をはね、ヘブロンのダビデのもとに持って行きました。「主は今日、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです」(8節)。二人はそのように、主の御名まで持ち出し、自分たちの行動を正当化しようとしました。彼らの魂胆は、イシュ・ボシェテを殺した「手柄」をダビデに認めさせ、彼の家来として高い地位に就かせてもらうという「処遇」を得ることであったのです。しかし、そんな彼らの期待は打ち砕かれました。イシュ・ボシェテの首を目にし、二人の得意げな報告を耳にしたダビデは憤り、彼の血の責任をおまえたちに問うと告げ、家来に二人を殺させ、木につるさせたのです。また、イシュ・ボシェテの首は墓に葬るようにさせたのです。ダビデが二人に語ったことばが心に留まります(9節)。彼は、サウルに追われるという試練を通される中、「あらゆる苦難から贖い出してくださった」、つまり、救い出し、助けてくださった主のみわざを体験していました。その主は確かに生きておられ、敵の手から守り、主権をもってすべてを最善に導いてくださると信じていたのです。そのようにダビデは、目の前に起こるさまざまな問題に心奪われず、絶えず主に信頼し、すべてを主に委ねていたのです。だからこそ、人間的な思いで行動し、褒美を期待し、主に油注がれたサウル王の後継者を殺害した二人の行動に対して厳しく対処したのです。「主は生きておられる」…。そのことばの意味するところをあらためて覚え、主権者なる主、全能者なる主に、すべてを明け渡す者でありたいと思います。

主は生きておられます。守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 3章22-39節◇(8月2日)

「民はみな、そして全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った。」…2サムエル3:37

サウル側の将軍アブネルは、主君イシュ・ボシェテを見限り、ダビデに取り入って自分の将来の地位を確保すべく、ダビデがユダとイスラエル全体の王として治めるようになるための協力を申し出、契約を結ばせました(21節)。すると、そのことを後から知ったダビデ側の将軍ヨアブは憤慨し、ダビデに面と向かって非難しました。ヨアブはダビデに対し、アブネルは、王を惑わし、その動静を探り、我々に不利になるような何かを企んでいるのだと主張しました(25節)。ヨアブは、アブネルが自分の地位を脅かす存在になると知り、ライバル視したのです。そして、何よりも彼は、自分の兄弟アサエルをアブネルに殺されたのであり、その恨みを持ち続けていたのです。ヨアブはダビデが知らないうちにアブネルを呼び戻し、隙を見て刺殺し、かたき討ちを果たしました。思わぬ展開に驚いたのはダビデです。そのことを耳にした彼は、「ネルの子アブネルの血については、私も私の王国も、主の前にとこしえまで潔白である」と弁明しましたが、ダビデは、サウル側の将軍であったアブネルの暗殺に自分が関与したと誤解され、イスラエル・ユダ統一国の王となることに支障が生じるのを恐れたのでしょう。アブネルの葬儀を盛大に行わせ、自ら彼の棺の後について行き、墓の前で声をあげて泣き悲しみました。アブネルのために哀歌を歌い、日中の断食までしました。すると、ダビデのそのような言動により、ユダのみならず全イスラエルの民はみな、アブネルの殺害はダビデから出たものではない、と確信するようになったのです。3章をとおしてあらためて感じること、それは、アブネル、ヨアブ、そしてダビデのそれぞれの思惑です。こうしたい、そうなりたい、という思いを、自らの考えと方法によって実現させようとする不遜さです。しかし何よりも、主のみこころを知り、それに従う謙遜さがなければならないのです。そのような者とされたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: サムエル記 第二 3章1-21節(8月1日)

「アブネルはダビデのところに使者を遣わして言った。「この国はだれのものでしょうか。私と契約を結んでください。ご覧ください。私は全イスラエルをあなたに移すのに協力します。」」…2サムエしル3:12

今日の箇所には、サウル側の将軍アブネルの言動が記されています。サウルは戦死し、その子イシュ・ボシェテが王位を継承していましたが、アブネルはサウル家の中で勢力を増し、さまざまなことを身勝手に行い、サウルの側女とも通じていました。そのことを知ったイシュ・ボシェテは彼を非難しましたが、アブネルは逆上し、私がおまえを王としたのではないか、その私に口出しするのかと憤ったため、イシュ・ボシェテは彼を恐れ、それ以降、彼に対して何も言えなくなってしまったのです。その後アブネルは、イシュ・ボシェテを見限り、ダビデに使者を遣わして、あなたがユダだけでなく全イスラエルの王となるために協力するので、私と契約を結んでほしい、とダビデに話を持ちかけました。するとダビデは、サウルによってむりやり離婚させられた、サウルの娘であり自分の妻であったミカルを取り戻すべく、彼女を連れて来るならその申し出を受けよう…と、その契約を結ぶための条件を定めてアブネルに伝えさせたのです。ダビデはさらに、イシュ・ボシェテに使者を遣わし、ミカルを返してもらいたいと伝えました。すると、イシュ・ボシェテは、人を遣わしてミカルを夫から強引に引き離し、ダビデからの要求に従いました。彼女の夫が泣きながらついて来ると、アブネルは「行け。帰れ」と彼を追い返したと16節にありますが、そのときもイシュ・ボシェテは、アブネルの言いなりになっていたのです。権力を手に入れ、自分の思いどおりに支配しようとするアブネル…。王が多くの妻を持つことは主のみこころではないと知っているはずなのに(申17:17)、6人もの妻をめとり、さらにミカルを取り戻そうとするダビデ…。そこには肉の思いにとらわれて行動する、罪深い者の姿が現されています。そのような肉的な誘惑から守られるよう主に祈り、みことばによって勝利したいと思います。

主の守りと導きがありますように。