◇聖書箇所: イザヤ書 17章◇(9月30日) 「その日、人は自分を造った方に目を留め、その目はイスラエルの聖なる方を見る。自分の手で造った祭壇に目を留めず、自分の指で造った物、アシェラ像や香の台は見ない。」…イザヤ17:7-8 17章はダマスコを首都とするアラム(シリア)に対する宣告です。北イスラエルの隣国として敵対関係になったこともあったそのアラムは、アッシリアという大国に対し、北イスラエルと同盟を結んで立ち向かおうとしました。しかし、その預言のとおり、ダマスコの町はアッシリアに襲撃されて国は失われ、エフライム(北イスラエル)の要塞も破壊されて、国を奪われてしまったのです。4-6節にはさらにイスラエルについての預言があります。かつての栄光は衰え、痩せ細ってしまいます。オリーブの実の収穫のときのように棒で叩き落とされます。しかしその枝には、熟した実がわずかですが落とされずに枝に「残される」のです。それが主のみこころなのです。7-8節には「その日」、すなわち終末のときに起こることが預言されています。人々は自分が誰によって造られ、いのちが与えられているのかを知り、その方に目を留めるのです。そして、それまで心寄せていた人の手による偶像やその祭壇には、目もくれなくなるのです。「その目はイスラエルの聖なる方を見る」とあるように、イスラエルの神、聖書に書かれている神こそが、唯一まことの神であることを認め、あがめるようになるのです。枝に残された実は、そのために用いられる存在なのです。12-14節にはアッシリアが諸国に襲いかかるときの様子が書かれています。「多くの国々の民」とは、アッシリア帝国の軍隊を構成する諸国の兵たちであり、彼らは、海の大波や川の激流のような勢いと、周りにとどろくときの声をあげて侵略を進めるのです。しかしそのアッシリアが主によって叱りつけられると、籾殻やちりのようにあっという間に吹き飛ばされ、いなくなってしまうのです。そのように、イザヤ書には、傲り高ぶる者たちが神に退けられることが繰り返し書かれていますが、それを教訓とし、ますますへりくだって歩みたいと思います。 ただ主に拠り頼む者とされますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 14章◇(9月28日) 「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選んで、彼らを自分たちの土地に憩わせる。寄留者も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。」…イザヤ14:1 14章の冒頭で、神の民の解放と回復が預言として語られています。それは、一方的な主のあわれみに基づくことであり、主がイスラエルをご自身の民として再び選ばれ、彼らの中に寄留している者たちもそこに連なるのです(1節)。またイスラエルの民は諸国の民から迎え入れられ、自分たちを虐げた者を支配するようになるのです(2節)。それは、主が、ご自身の民に対する激しい怒りを収められ、捕囚の地での過酷な労役から彼らを解放し、祖国を追われて虐げられている民の痛みを取り除いて憩わせてくださる、安息の日の到来です(3節)。イスラエルの民は、そのことを通して、主を求めずにもの言わない偶像に拠り頼み、主の教えに聞き従わずに自分たちの思いに従って歩んでいたことを悔い改め、神の恵みとあわれみを覚えて感謝し、喜び、主をあがめるようになるのです。4節以降は、バビロンの王に対する民の嘲りの歌です。「おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(13-14節)。頂が天に届く塔を建て、自分たちの名をあげようとした者たちのことが思い起こされます(創11:4)。しかしそのような傲りと高ぶりを持つ者は、主に退けられ、よみに落とされてしまうのです(15節)。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」(哀歌3:22)。私たちもまた、この世のものに心奪われ、拠り頼み、神に背を向けて歩んでいた罪深い者たちです。しかし、主の一方的な恵みとあわれみによって、主が遣わされた救い主イエスの贖いによって、私たちはさばきと滅びを免れ、主にあって憩うことができたのです。真の安息の中に入れられたのです。その主の恵みとあわれみを覚え、私たちもまた神の民として、感謝と喜びをもって主をあがめ、主のみことばに聞き従って歩み続けたいと思います。 平安と喜びが心にありますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 13章◇(9月27日) 「こうして、諸王国の誉れ、カルデア人の輝かしい誇りであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼしたときのようになる。」…イザヤ13:19 13章は、1節にあるように、主がイザヤを通してバビロンに告げられた宣告です。イスラエルは、異国の偶像の神々に心奪われ、主に対して霊的な姦淫の罪を犯し、主の激しい怒りを引き起こしましたが、彼らを懲らしめるために、主が道具として用いたのがアッシリアでした。しかし彼らが自らの力を誇って高ぶったため、主は、バビロンを用いて彼らを打ち滅ぼされ、そのバビロンもまた同じように傲り高ぶったため、今度はペルシャが、主の道具として用いられることとなったのです(17節)。9節に「主の日…憤りと燃える怒りの、残酷な日」とありますが、ここでもイザヤは、将来のことを多重的に見ています。それは、彼が生きた時代の後に起こる、バビロン滅亡という歴史上実際に起きた出来事であり、同時にそれは、やがて終わりの日に、「大バビロン」すなわち神に敵対する勢力、サタンに対する主のさばきとして、使徒ヨハネが書き記していることなのです(黙18:2)。そのように主は、歴史の中に働かれるお方です、自らの知恵と力を誇って傲り高ぶる者、主のみこころに反する人間的な考えを主張する者、権力をもって社会、国、世界を支配しよとする者を打ち倒されるのです。そして、そのために主は、この世のさまざまなものをも道具として用いられ、ご自身の御国をさらに打ち建てられるのです。それは、私たち人間の思いをはるかに越えた神の偉大なご計画であって、聖徒たちはそのことを覚えつつ、主のみこころがなされるように、御国が来るようにと、とりなし祈り続けるべきなのです。今日の午後には、実質的に日本の新しいリーダー、総理大臣が決まります。また、11月には新しい米国の大統領が決まろうとしています。イスラエルの情勢もますます緊迫してきています。そのような中、私たちは、祭司としての役割を果たすことが求められているのです。主がその中に介入され、ご自身の計画を推し進められるよう祈りたいと思います。 主の御名があがめられますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 12章◇(9月26日) 「主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを全地に知らせよ。」…イザヤ12:5 1節に「その日」とありますが、それは、メシアが再びこの地上に来られ、ご自分の王国を打ち建てられる日、すなわち終わりの日だと考えられます。しかし、同時にそれは、「あなた」が言うように(1節)、主が怒りを収め、愛とあわれみの御手を差し伸べ、嘆きと失意を慰めてくださった、つまり赦しを与えて救い出してくださった「その日」であって(4節)、イザヤはそのように「その日」を多重的にとらえて表現しているのです。またその「あなた」とは個人であり、同時にイスラエルの民であり、さらに救い主を信じて救われ、神の民とされるすべての国民を指しているのであり、3-4節に「あなたがた」とあるように、イザヤは「あなた」についても、多重的な視点でとらえて語っているのです。「見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」(2節)。ここでの救いとは、敵の手から助け出されるということよりむしろ、神の怒りとさばき、滅びに定められていた身分からの解放、罪の贖いのことです。そしてその救いは、神の「みわざ」(4節)、主がなされた「すばらしいこと」(5節)であり、もろもろの民に、全地に告げ知らせるべきこととして、イザヤは語っているのです。「シオンに住む者」(6節)とは、主を慕い求め、主の臨在の中に絶えず身を置く者のことです。イスラエルの聖なる方、唯一まことの神は、その者たちとともにおられるのです。私たちたち一人ひとりの中に住まわれるのです。だからこそ私たちは、そのことを感謝し、喜び、主をほめ歌い、主の救いを証しし、全地に告げ知らせるのです。「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」(3節)。その救いの泉は、尽きることなくこんこんと湧き出ており、主を信じる者たちが喜びをもってその水を汲み、飲み、渇きが癒されるものなのです。主の救いにあずかっていることを、心から感謝したいと思います。 救いの喜びが絶えずありますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 11章◇(9月25日) 「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。」…イザヤ11:6 1-5節はメシアについての預言です。エッサイの根株から出る新芽や若枝はダビデの子孫を意味しており、その中からイエス・キリストが生まれたのです。その方の上には主の霊がとどまり、知恵と悟りと思慮と力に満ちておられ、主を畏れることを喜びとされるのです。そしてそのお方は、正義をもって、弱い者、貧しい者、虐げられている者のために、正しいさばきをなされるのです。6-8節には、狼、豹、獅子、熊のような獰猛な肉食動物が、子羊、子やぎ、子牛のような弱い草食動物と共存し、一緒に草をはむという、あり得ない光景が描写されています。また人間の子どもも毒蛇の近くで遊んでも害を受けないのです。それは真の平和の姿であり、それらの猛獣たちは、多くの国々を支配したアッシリアなどの帝国を暗示しているのかもしれません。そしてそれは、「平和の君」なるメシアによるみわざ、祝福なのです。そのようにメシアは、敵意と戦いの中に、和解と平和をもたらすことができるお方なのです。また9節には、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」と書かれていますが、それは、罪に満ちた人々が、メシアによる救いと解放を受け、主のみこころに従って歩む者となることを示唆しています。そしてそれは、神が創造された本来の人間のあり方を、メシアが回復してくださるということなのです。11節以降は、主がご自分の民の残りの者たちを贖われ、集められるという約束です。それは一方的な主の介入によるみわざであり、イスラエルの民がエジプトを脱出し、海の中の乾いた道を通って約束の地へ向ったようになさるのです。またそれは、メシアにあって、異邦人を含むすべての神の民が、主が備える道を通って御国に迎え入れられるという預言でもあるのです。そこに加えられるべき「残りの者たち」のためにとりなしたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 10章◇(9月24日) 「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げるとき、アッシリアの王の思い上がった心の果実、その高ぶる目の輝きを罰せられる。」…イザヤ10:12 神は、ご自身に従わない北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国にも警告を与えるために、怒りのむち、憤りの杖として、アッシリア帝国を使われました。しかし彼らは、自分たちが神の御手の中で、そのように道具とされているとは思わず、他国を滅ぼし、自国の領土を拡げいくことに、ひたすら突き進んでいたのです。アッシリアの王は思い上がり、自らを誇ってこう言いました。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が諸国の民の境を取り払い、彼らの蓄えを奪い、全能者のように住民をおとしめた」(13節)。「全能者」は神以外にはあり得ません。その神の位置に自分を置いて、自らの力と知恵を誇って高ぶるのは、罪にほかなりません。そしてそれは現代においても、国家や個人の中に確かに存在しているのです。アッシリアという国はその代表として、ここで示されているのです。そのことを戒めるわかりやすいたとえが書かれています。斧やのこぎりはあくまで人が使う道具であって、それらが高ぶって、人に向かって指図することなどないのです。もし人がむちに動かされ、杖に持ち上げられるようなことになれば、それは主客転倒であって、神はそのような罪深い者を、罰せずにはおられないのです(15-16節)。私たちは、自分の力によって「生きている」のではなく、神によって「生かされている」のです。私たちは主によって造られた道具であり、器であり、それを用いて事をなされるのは、主ご自身なのです。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ロマ11:36)。自らの立場をきちんとわきまえ、神のご計画の実現のために用いられることを感謝し、絶えずへりくだって、神と人々とに忠実に仕える者でありたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 6章◇(9月20日) 「彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」」…イザヤ6:7 ウジヤ王が死んだ年、イザヤはある幻を見せられました。それは、高く上げられた御座に着いている主の姿でした。そしてそこには、複数のセラフィムが翼を広げて飛び、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と互いに呼び交わしていたのです。「聖なる」と3回繰り返すのは強調のためですが、三位一体の神が暗示されているとも考えられます。イザヤはそれを見聞きし、自らの罪と汚れを思わされ、また神を見る者は命が取られるとされていたことから、自分が神から退けられると考えたイザヤは絶望して、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者…しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」(5節)と言って嘆きました。するとセラフィムのひとりが飛んで来て、祭壇の上の燃えさかる炭をイザヤの口に触れさせ、「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と告げたのです。その後、イザヤは主ご自身の声を聞きました。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」(7節)という問いかけです。その主の働きかけは、イザヤが自らの汚れを思って絶望しかけ、その彼の口に、セラフィムが燃えさかる炭を触れさせて罪の赦しを宣言した、その直後になされたのです。宣教の働きは、救われたすべての聖徒たちに求められているのだということを、あらためて教えられます。「ここに私がおります。私を遣わしてください」。イザヤはその呼び掛けにただちに応答しました。しかし、民に告げよと主が示されたメッセージは、人々が歓迎する内容ではなく、主のさばきについてであり、その先にあるメシアによる救いであったのです(9-13節)。私たちも、主に立ち返ってキリストを信じる者に与えられる救い、福音を、人々に宣べ伝えたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 5章◇(9月19日) 「わがぶどう畑になすべきことで、 何かわたしがしなかったことがあるか。 なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、 酸いぶどうができたのか。」…イザヤ5:4 新改訳聖書では、5章の1-6節が一つの括弧で括られており、その中の「わたし」、「わが」が誰を指すのかが明確でなく、内容が分かりにくくなっています。一方、他の訳では3-6説を括弧で括っており、それによれば、1-2節の「わたし」、「わが」はイザヤ自身、また「わが愛する者」とは主、そして「ぶどう畑」とは、神の民、イスラエルを指していると理解できます(7節参照)。主は、ご自身の民に良質なぶどうが実るのを心待ちにしていました。しかし実際には「酸いぶどう」ができてしまったのです。「酸い」とは、その実が腐っているため、悪臭を放ち酸っぱい味がする、ということです。そしてそれは一部の実だけでなく全体に及んでいるので、主はそのぶどう畑を荒廃したままにされるのです(5-6節)。そのような期待外れのぶどうの実は、イスラエルの民が主に聞き従わず、罪と悪の道を歩んだ結果であり、イザヤは、「わざわいだ」ということばを6回も繰り返してそのことを嘆き、それに対する主のさばきを告げています。「それゆえ、私の民は…捕らえ移される」(13節)。「主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るようにと合図される…それは急いで速やかに来る」(26節)。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」(ヨハ15:5)。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります」(ヨハ15:8)。ご自身の御子をメシアとして遣わされ、まことのぶどうの木とされた神は、その木につながっている私たちが良い実を結ぶことを心待ちにしています。そして、そのことによってご自身が栄光を受けられるのです。そのために私たちは贖われ、主イエスにとどまる者とされているのです。主にあって良い実を豊かに結びたいと思います。 主にしっかりつながる者とされますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 4章◇(9月18日) 「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖なる者と呼ばれるようになる。みなエルサレムに生きる者として書き記されている。」…イザヤ4:3 4章1節は、前章の16節から続いている文脈の最後です。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小股で歩く」(3:16)。それは、肉の欲望を満たすべく「獲物」を探し求めて街中を歩く、罪深い女性たちの姿です。しかし、主がそのような彼女たちにわざわいをもたらされるので、その容姿は悲惨なものとなり(3:17,24)、そのときようやく彼女たちは、自分たちの恥辱を取り除いてほしいと、一人の男性にすがりついて懇願するようになるのです。2節以降には、終わりの日に「エルサレムの残りの者」に与えられる主のあわれみと祝福が預言されています。義なる主は、高ぶる者をさばいて砕くだけでなく、ご自身の前に立ち返る者たちに、救いと祝福をもたらしてくださるのです。2節に「主の若枝」、「地の果実」とありますが、それは(1節の「一人の男性」も)、神が遣わされるメシアであり、神に従う者たちにとって、その日キリストは、麗しいもの、栄光、誇り、輝きとなるのです。そのようにして神は、エルサレムの残りの者たちを、メシアによる贖いによってご自身の救いの中に導き入れ、罪と汚れを取り除いて、聖なる者としてくださいます。「みなエルサレムに生きる者として書き記されている」という表現が心に留まります。エルサレムとは、主の山、ヤコブの神の家があり、主の臨在が満ちるところです。そしてそこから神のみおしえ、主のみことばが出て、それに聞き従う者たちは主の光の中を歩むのです(2:3,5)。その預言は部分的に成就しています。キリストがすでに神の国をこの地上にもたらされているからです。神があがめられ、礼拝され、主のみことばが語られ、それに聞き従う者たちがいるところ、そこが「エルサレム」であり、神の国なのです。そこにはいのちと光と祝福が満ちています。自らの救いを感謝するとともに、残りの者たちがそこに加えられるよう、とりなしたいと思います。 神の国がさらに拡がりますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 3章◇(9月17日) 「これは、エルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いが主に背き、主の栄光の現れに逆らったからである。」…イザヤ3:8 1節に、「主はエルサレムとユダから、支えと頼みになるものを除かれる」とあり、イスラエルの民が頼りにしていたものが具体的に挙げられています。それは、パンや水のような生活必需品だけでなく、勇士、預言者、長老、隊長、高官、細工人たちだとイザヤは指摘しています。確かにそれらは、国を脅かす敵と戦う者、行政を担う者、人々の生活に関わるものを作る者として、人々の助けになり得るでしょう。しかしそのリストには、主が忌み嫌われる、占い師やまじないをする者もが含まれているのです。そしてそれは、当時そのような者が社会に入り込み、民が、まことの神ではなく、彼らの背後にある悪しき霊に頼っていたことを、示唆しているのです。4-12節は主のことばです。主は、頼みにすべきでないそのような者たちをすべて取り除き、未熟な若い者を民の君主とし、気まぐれな者にあえて民を治めさせます。そしてそこに生じるのは、混乱と争いと無秩序であって、そのような状態に置かれた国家と人々は、愚かで人間的な歩みに陥ってしまうのです(5-7節)。そのことの原因が8節に書かれています。民には預言者を通して神からのことばが与えられ、どのように歩むべきかが教えられていたにもかかわらず、それに従わずに主に背き、みこころにかなわないことを語り、行ったからです。そしてそれは、主の栄光の現れに逆らうことであって、彼らはその悪の報いを受けることになるのです。主が主権をもって統治し、人々は畏れをもって主に従う、それこそが、主が私たちに求めておられるあり方です。そしてそこには、主がもたらす平和と祝福があるのです。何を支えとしているのか…誰を頼みにして歩んでいるのか…。主は、今もそのように、私たちに問いかけておられます。この世のものではなく、人にではなく、ただ主だけに拠り頼む者でありたいと思います。 主の支えと助けがありますように。 |
◇聖書箇所: イザヤ書 2章◇(9月16日) 「人間に頼るな。 鼻で息をする者に。 そんな者に、何の値打ちがあるか。」…イザヤ2:22 イザヤ書は、1章1節にあるとおり、アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて主から見せられた幻を、預言のことばとして当時の人々に語り、また主が、後の時代の人々に、警告のことばとして与えられているものです。2章2節には「終わりの日」、11節、17節には「その日」、12節には「万軍の主の日」とありますが、それらは同じ意味であり、主の再臨の日を指しているのです。その終わりの日に、「主の家の山」、すなわちエルサレムの丘は、他の丘より高くそびえるとありますが(2節)、それは、イスラエルの神が異教の神々にまさっていることを示しています。そしてそこに諸国の民が集まって来て、ヤコブの神の家に上ろう、主は道を教えてくださる、その道を進もう、と口々に言うようになるのです(3節)。その道は、主の義と栄光に輝いている道です。主が王として主権をもって完全に統治しておられるので、もはや人々は互いをさばいて争う必要はなくなり、戦いの武具である剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すのです(4節)。そのようにして、終わりの日には全き平和が実現するのです。12節から16節に繰り返されている「すべての」ということばに心が留まります。その日には、すべてのおごり高ぶる者が低くされ、主だけが高く上げられ、あがめられます。また、偽りの神々である偶像はことごとく打ち砕かれ、消え失せるのです(17-18節)。それは人が自分の手で造ったものです。口がきけず、目が見えず、動くことができないものです。しかし愚かで罪深い人間は、そんな偶像の神に頼り、手を合わせ、願い求めるのです。「御名を知る者は あなたに拠り頼みます。主よ あなたを求める者を あなたはお見捨てになりませんでした」(詩9:10)。偶像に頼らず、人間に頼らず、私たちを造って息を吹き込み、いのちを与えられる主に拠り頼む者こそ幸いなのです。そのことを心に刻みたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 6章10-24節◇(9月14日) 「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」…エペソ6:11 キリストに贖われた光の子どもとして、人との関わりにおいてどうあるべきかを語ってきたパウロは、この手紙の最後の部分で、聖徒たちが、神に敵対する勢力である悪魔と、その手下との戦いの中に置かれていることを示し、その戦いに勝利するために、神が備えてくださるすべての武具を身に着けるようにと命じています。ではその武具とは何でしょうか。パウロは、①真理の帯、②正義の胸当て、③平和の福音の備え(靴)、④信仰の盾、⑤救いのかぶと、そして⑥御霊の剣であると言っています(14-17節)。けれどもそれは、この地上にある、目に見えるものではありません。それは、天におられる神から聖徒たちに与えられる、霊的な武具なのです。パウロが言うように、私たちの格闘は血肉、つまり人と人とのものではありません。それは、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものであって(12節)、その戦いに勝利するためには、敵をあなどることなく、神の武具を身に着けてしっかりと武装しなければならないのです。そうせずに戦うなら、私たちは血肉に対する争いに巻き込まれてしまうのです。しかし、ともすれば私たちは、そのことをきちんと受けとめようとせず、そんなものがなくたって大丈夫…とたかをくくり、自らの力で戦おうとします。そしてそのような愚かな者は、結局手痛い傷を負うことになるのです。主は弟子たちにこう告げられました。「世にあっては患難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハ16:33)。「わたしはすでに世に勝ちました」という主の宣言が心に留まります。その主がともにおられるのです。その主が私たちのために、武具を備えてくださっているのです。そのすべての武具をしっかりと身に着け、勝利の主に拠り頼みつつ、血肉とではなく、その背後にある悪しき者たちと勇敢に戦い、主にあって勝利する者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 6章1-9節◇(9月13日) 「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」…エペソ6:7 夫と妻とのあるべき関係について述べてきたパウロは、さらに子どもと親との関係について触れ、「主にあって自分の両親に従いなさい」と子どもたちに命じています(1節)。そしてその根拠として、「あなたの父と母を敬え」という律法を引用し、それには「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という主の約束が伴っていることを示しています(2-3節)。一方、親に対しては、「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています(4節)。親は子どもが自分の言うことを聞かないと、つい感情的になって怒りをぶつけてしまいますが、冷静になり、主の教育と訓戒、すなわち、みことばによって教え、戒め、それに従うよう訓練すべきなのだと、パウロは教えているのです。さらにパウロは、奴隷たちに対し、「恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい」と命じています(5節)。「真心から」とは、表面的、形だけの仕え方、忠誠さではなく、何よりもキリストのしもべとして、キリストに従うように仕えるということです。地上の主人の上には、キリストが主権者としておられるのであって、たとえ意地悪な主人であっても、主が立てられた者として信仰をもって受けとめ、敬意を込めて従うべきなのです(1ペテ2:18)。また主人にも、奴隷に対して横暴な態度を取ることなく、真実に接するよう求めているのです(9節)。これらの命令をパウロは、キリスト者へのことば、教えとして書き送っています。未信者にとっては、自らの感情に反するゆえにその教えに従うことが困難であっても、主に贖われた聖徒たちにとっては、それらは主にあって(1節)、主によって(4節)、キリストに従うようにして(5節)、主に仕えるようにして(7節)なすべきこと、可能とされることなのです。そしてそれは、神のみこころであって、神に喜ばれることなのです。そのことを覚え、キリストのしもべとして神と人とに仕えたいと思います。 感謝と喜びをもって歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 5章21-33節◇(9月12日) 「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」…エペソ5:32-33 5章21節以降でパウロは、キリストと教会の関係をあらためて示し、夫婦の関係もそのようであるべきだと説き、霊的な真理から実践的な教え、生活への適用へと展開しています。そしてそれは、聖徒たちがそのように歩んでおらず、問題が生じていたことを示唆しているのです。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)。パウロはまず、妻たちに対し、夫に従うようにと命じています。そしてその根拠は、次節にあるとおり、キリストが教会のかしらであるのと同じく、夫が妻のかしらだからであり、単に婚姻関係にあるからというのではないのです。それは、神が定められた秩序に従って、主への従順と信仰をもってそうすべきことなのです。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(25節)。一方、夫に対してパウロはそのように命じていますが、それはキリストが、罪深い私たちを愛し、救い出すために十字架にかかり、ご自身のいのちを献げてくださったからであり、その一人ひとりを召し集め、ご自身のみからだの大切な各部分とし、そのみからだなる教会を、全きものとして立たせてくださるからなのです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」。パウロは、創世記のことば(創2:24)を引用し、キリストと教会を指しているのだと言っています(32節)。夫の妻への愛、それは、いのちをも惜しまずに献げられたキリストに倣い、自らを与え、献げ、仕えるということです。また妻の夫への従順、それは、教会がそのかしらであるキリストに従うように、人間的な思いでは素直にそうできなくても、神が定められた秩序に従って、主ご自身に対するように従うということなのです。結婚が、神の御前でなされる「契約」に基づくことを覚え、主の教えを心に留めたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 5章1-20節◇(9月11日) 「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」…エペソ5:8 5章に入ってパウロは、読者に対し、キリストに贖われた者、神に愛されている神の子どもとして、それにふさわしく歩むように、キリストに倣って生きるようにと命じています。神に従って生きていない未信者の歩みは、自分たちの幸福を第一とし、享楽を追い求めようとするゆえに、この世にまん延している、淫らな行い、汚れ、貪りなども、無批判に受け入れてしまっているのです。そのような彼らの仲間になってはいけない、と警告するパウロはさらに、神に対立しているこの世は闇に満ちており、そこから救い出された聖徒たちは、主のもとへ、闇の中から光の中へと移されているのだから、光の子どもとして歩まなくてはならない、と強調しています。8-14節に書かれているのは、光と闇の対立、対比です。光の子どもたちが行う光のわざは、神を喜ばせ、実を結ぶことができますが、闇においては、罪と悪に満ちたさまざまなことがひそかに行われており、それらが実を結ぶことはないのです。そして、それらのものは明るみへと引きずり出され、光に晒されることになるのです。そのような、闇に満ちたこの世に生きる私たちもまた、さまざまな誘惑を受けます。そして、ともすれば、肉を喜ばせようとするそれらのことに惹かれ、惑わされて、闇の中へと引き込まれそうになるのです。ではそれに対して、どう立ち向かえばよいのでしょうか…。パウロは言っています。「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい」(15節)、「主のみこころが何であるかを悟りなさい」(16節)、「御霊に満たされなさい」と。私たちは、自らの歩みが神のみこころにかなったものとなっているか、みことばに照らして絶えず吟味する必要があるのです。主の臨在とご支配のうちを歩み続け、感謝と賛美を主にささげ、兄弟姉妹と互いに教え合い、励まし合い、祈り合い、ともに進んでいくべきなのです。そのことを深く覚えたいと思います。 あらゆる誘惑から守られますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 4章17-32節◇(9月10日) 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」…エペソ4:30 4章の前半で、聖徒たちの霊的成長の大切さを訴えたパウロは、後半においてさらに、むなしい心と不潔な行いの貪りの中に歩んでいる異邦人に言及し、彼らとは異なる、主に贖われた聖徒としてふさわしい歩みをするようにと促し、その具体的なあり方について語っています。彼はまず、主に救われたときに受けたはずの教えとして、「古い人を…脱ぎ捨て」(22節)、「新しい人を着る」(24節)べきことをあらためて読者に思い起こさせています。そしてそれは、人が救われてもなお「古い人」、すなわち、主によって変えられなければならない部分があり、それが一人ひとりの霊的成長を妨げているのであって、その「古い人」をさらに脱ぎ捨て、「新しい人を着る」、つまり主に自らを明け渡し、キリストの全き支配の中に入れられなければならないのだ…ということなのです。そして、パウロはそのことに関し、「霊と心において新しくされ続ける」こと、継続して主に取り扱われることの必要性を強調しています(23節)。罪に満ちた人間は、古い人を何枚も着込んでいるので、1回脱げば終わりではないのです。私たちは日々、主の前に出て古い人を脱がされ続け、新しい人を着せられ続ける必要があるのです。そのようにして、人生の全領域においてキリストが主導権を持つへと、変えられ続けていくのです。聖徒たちの信仰の歩み、それが主との深い関係性、密接な結びつきに基づいているのはもちろんですが、パウロは「神の聖霊を悲しませてはなりません」と告げ、主との親密で人格的な交わりを保ち、主の御声をしっかりと聴いて歩むことの大切さを訴えています。「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしり」(31節)などのふるまいは、周りの人々に好ましくない影響を与えますが、誰よりも、聖徒たち一人ひとりを聖なる宮として住まわれる御霊は、それらを深く悲しまれるのです。そのことを覚え、常に主を喜ばせる者となるべく歩んでいきたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 4章1-16節◇(9月9日) 「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」…エペソ4:16 パウロは「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」(1節)、「御霊による一致を熱心に保ちなさい」(3節)と命じています。4,5節では、召しの望みが一つであるように、からだも、御霊も、信仰も、バプテスマもみな一つであり、主はただひとりであると述べ、さらにその神は、すべてのものの上にあり、うちにおられ、すべてのものを貫く、すべてのものの父であると言っています。そのように一致や一つであることをパウロが強調していることから、エペソの教会の中に、一致を乱す動きがあったことが示唆されます。2節では、一人ひとりが身に着けるべき謙遜、柔和、寛容、愛が語られていますが、肉に従って歩み、それらの御霊の実を結んでいない者たちが不満を抱き、さまざまなことを批判していたのです。しかし、聖徒たちはみな、主イエスによって贖われ、キリストのからだの各部分として加えられ、そのからだ、教会を建て上げるために、さまざまな異なった役割と賜物を与えられて、尊く用いられる者たちなのです。それぞれの教会に与えられている牧師や伝道師たちも、キリストご自身が立てられた、油注がれた者なのです(11節)。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです」(13節)。パウロの主張する一致とは、人間的な手段によるものではなく、「画一」や「均質」を意味するものでもありません。それは多様性を伴いつつ、主にあって一つとされるということであり、また、未熟で発達不十分な者たちが、主によって組み合わされ、それぞれの分に応じて働き、用いられることによって成長し、キリストのからだが建て上げられていく、ということなのです。そのために生かされていることを感謝しつつ、へりくだって、自らの果たすべき分を忠実になす者でありたいと思います。 それぞれの働きが祝福されますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 3章1-13節◇(9月7日) 「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」…エペソ3:13 3節以降において「奥義」ということばが何度も使われています。神は隠されていた霊的事実、すなわち奥義を、知恵と啓示の御霊によってパウロに、また私たちに明らかにしてくださいました。そしてそれは、2章の後半にあるように、キリストにあって、ユダヤ人だけでなく異邦人も神の民とされており、神から受け継ぐべき豊かなものの共同相続人とされている(6節)ということなのです。6節以降においては「福音」ということばが繰り返されていますが、それは、キリストの十字架と復活によって、罪の中にある人類の贖いが成し遂げられ、キリストを自らの救い主と信じるすべての者は、その救いにあずかり、神の子どもとされ、天に国籍を持つ者とされるという、良き知らせ、キリストによる救いの使信です。「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」(7節)。そう告白するパウロは、かつては熱心なユダヤ教徒として、キリスト者たち迫害することが神の御旨だと考えていましたが、キリストとの劇的な出会いを体験し、回心し、キリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。パウロは自らの使命を主から明確に受け取っていました。それは、異邦人に福音を宣べ伝えることであり(8節)、神の奥義の実現がどのようなものかを明らかにすること(9節)であり、彼は、自分が迫害され、苦難を受けていても、それが神のご計画の中にあると、信仰をもって受けとめていたのです。そしてその努めを担うことにより、人々に神の救いと祝福と栄光が現されると確信し、逆境においてもひるむことなく、その働きの前進のために、キリストの忠実なしもべとして、神と人々とに仕えていたのです。そしてそれは、パウロだけでなく、すべての聖徒たちが同じようにして従うべきあり方なのです。私たちもそこに加えられていることを覚えたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 2章11-22節◇(9月6日) 「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」…エペソ2:19 神は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、イスラエルの民を、ご自分のものとして選ばれました。彼らを愛し、あわれみ、かけがえのない宝とされたのです。そしてそれは、彼らを通して、ご自身に背き、罪に満ちている、この世界に救いをもたらすためであり、その意味でイスラエルは、神にとって特別な存在であるのです。一方、この手紙の宛先であるエペソの聖徒たちは、肉においてはイスラエルではない異邦人であって、ユダヤ人のように割礼を受けておらず、イスラエルの神を知らず、神が遣わされた御子イエス・キリストからも遠く離れていたのです。この世の流れに従って罪と闇の中を歩み、真のいのちも喜びも希望もない者たちであったのです。しかし、そんな彼らに対し、そして私たちにも、神の愛の御手が伸ばされ、恵みが及びました。今から2千年前、キリストはすべての罪人の身代りとなって十字架にかかり、いのちをささげ、その死からよみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。それゆえ、そのキリストを信じる者は、血筋によらずに誰でも救われ、神の民とされ、神の家族の一員として加えられるようになったのです。そのようにして、イスラエルの民と異邦の民、その両者、二つのものを、キリストにあって一つの神の民とし、さらにご自身の救いの計画をさらに推し進めることは、神のみこころであるのです。その中で、異邦人である私たち一人ひとりもまた、神に導かれてキリストと出会い、主を信じて救いにあずかったのです。そして、神の大いなるご計画の実現のために、選ばれ、生かされ、尊く用いられる者とされているのです。「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(22節)。かつては神から遠く離れていた私たちが、キリストにあって神の民に加えられ、そのような者とされているのは何と幸いなことでしょうか。主に感謝と賛美をささげたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 2章1-10節◇(9月5日) 「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」…エペソ2:10 10節において「良い行い」ということばが3回出て来ますが、原文ではその意味のことばは節の中で一度だけ使われ、あとは代名詞や関係代名詞によって表されています。しかし新改訳では、意味を明確にし、また「良い行い」を強調すべく、あえてそのように訳しているのです。では、その「良い行い」とは具体的に何を意味しているのでしょうか。それは本来、この書全体を通して理解すべきことですが、今日の箇所までの文脈において教えられることは、「不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」(2節)いた歩みから救い出された聖徒たちが、今なお「自分の肉の欲のままに生き」(3節)ている人々に対して、そのような背きと罪の報いは死であること(5節)、しかしその罪人を神が愛し、あわれみ、御子キリストを遣わして、信仰による救いを賜物として与えてくださったという事実(8節)を、証しし、伝えるということです。6節には、神がキリストにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださった、ということばがあります。そしてそこから教えられることは、聖徒たちには、御国の王であるキリストとともに世を治める役割があり、それを実行する上で起こるさまざまな霊の戦いにおいて、キリストの御名の権威をもって悪しき者に立ち向かうことが求められている、ということです。なぜなら天上の神の右に着座されているキリストは、すべてのものを足の下に従わせており(1:20-22)、そのキリストと「ともに天上に座らせられた」聖徒たちには、キリストのその大いなる権威が分与されているからです。そのことからすれば、「良い行い」とは、神の国、すなわち主の統治がこの地においてさらに拡大するための、福音宣教を含むすべての働きだと言えます。そしてそれを実際に担うべく、私たちはキリストにあって造られ、生かされているのです。そのことを覚えたいと思います。 主に忠実に仕える者とされますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 1章15-23節◇(9月4日) 「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」…エペソ1:23 17-19節はパウロの祈りです。パウロは、エペソの聖徒たちのために主にとりなし、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられ、霊の目が開かれ、神から与えられる望みがどれほど確かなものか、また聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、さらに、神を信じる者に働く神の力がどれほど偉大なものか、それらの奥義をはっきりと知ることができるよう願っているのです。続く20-21節においてパウロは、そのように聖徒たちに働く神の力とは、栄光の神から与えられる大能の力であり、神はそれを御子イエス・キリストのうちに働かせ、死者の中からよみがえらせ、天上のご自分の右の座に着かせて、すべての名の上に置かれたのだと告白しています。そのようにしてよみがえったキリストは、御国の王であられ、ご自身の十字架と復活によって贖った者たちを聖徒として召し集め、教会を建て上げられました。そしてその教会はキリストのみからだであり、一人ひとりの聖徒たちは、そのみからだの大切な各器官として加えられ、有機的に結び合わされて生かされ、主の働きを担い、主の栄光を現わす者として、尊く用いられているのです。パウロは21-23節において、「すべての」ということばを6回も使い、キリストの卓越性、完全性を強調しています。「すべて」とは100%であって、例外がないということです。「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました」(22節)。もちろん、神に敵対する勢力サタンもそこに含まれています。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」と主イエスが言われたとおりなのです(マタ16:18)。そのように、すべてのものの上に立つかしらなるキリストが、聖徒たち、教会のすべての必要を満たし、あらゆる戦いに勝利させてくださることを覚え、どんなときにもキリストに信頼したいと思います。 キリストにあってますます豊かにされますように。 |
◇聖書箇所: エペソ人への手紙 1章1-14節◇(9月3日) 「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」…エペソ1:7 エペソ人への手紙は、パウロによって書かれたもので、獄中書簡と呼ばれる手紙のうちの一つです。パウロは、エペソの聖徒たちへの挨拶を短く述べると、3節以降で早速本題に入っていますが、そこを読んで気付かされることは、「キリストにあって(よって)」ということばが何度も使われ、それが強調されているということです。「キリストにあって」…。それはつまり、「キリストのゆえに」ということです。救い、祝福といった、私たちが神から受けているすべての良きものの根拠が、ただイエス・キリストにある、ということなのです。またそれは、人間の側にはそれを受ける理由が何一つないということでもあります。それどころか、私たちは、神に対して犯している多くの罪と咎のゆえに、神にさばかれ、滅ぼされて当然の者であったのです。それなのに、神が、愛とあわれみによって、一方的な好意として私たちをキリストにあって救ってくださったのは、ただただ神の恵みによることであったのです。しかしそれは、この世の常識ではあり得ない、驚くべきことであって、人は、それをただ感謝して受け取ろうとはしないのです。逆に自分のがんばりによって功を積み、それを認めてもらおうとするのです。その上、救われた後もなお、ともすれば律法的な歩みをし続けようとするのです。そのような愚かさを人は持っているのです。しかし聖霊は、そんな私たちの霊の目を開き、永遠に続く御国を受け継ぐ者とされているという保証を、私たちに与えてくださるお方なのです。それは「証印」として、目には見えなくても、聖徒たち一人ひとりに押されており、それによって私たちは、確かにキリストにあって贖われた者であることを、日々思い起こすことができるのです。そのようにして、感謝と喜びをもって主をあがめ、すべての栄光を主に帰す者でありたいと思います(14節)。 主の祝福が豊かにありますように。 |