◇聖書箇所: イザヤ書 2章◇(9月16日)

「人間に頼るな。 鼻で息をする者に。 そんな者に、何の値打ちがあるか。」…イザヤ2:22

イザヤ書は、1章1節にあるとおり、アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて主から見せられた幻を、預言のことばとして当時の人々に語り、また主が、後の時代の人々に、警告のことばとして与えられているものです。2章2節には「終わりの日」、11節、17節には「その日」、12節には「万軍の主の日」とありますが、それらは同じ意味であり、主の再臨の日を指しているのです。その終わりの日に、「主の家の山」、すなわちエルサレムの丘は、他の丘より高くそびえるとありますが(2節)、それは、イスラエルの神が異教の神々にまさっていることを示しています。そしてそこに諸国の民が集まって来て、ヤコブの神の家に上ろう、主は道を教えてくださる、その道を進もう、と口々に言うようになるのです(3節)。その道は、主の義と栄光に輝いている道です。主が王として主権をもって完全に統治しておられるので、もはや人々は互いをさばいて争う必要はなくなり、戦いの武具である剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すのです(4節)。そのようにして、終わりの日には全き平和が実現するのです。12節から16節に繰り返されている「すべての」ということばに心が留まります。その日には、すべてのおごり高ぶる者が低くされ、主だけが高く上げられ、あがめられます。また、偽りの神々である偶像はことごとく打ち砕かれ、消え失せるのです(17-18節)。それは人が自分の手で造ったものです。口がきけず、目が見えず、動くことができないものです。しかし愚かで罪深い人間は、そんな偶像の神に頼り、手を合わせ、願い求めるのです。「御名を知る者は あなたに拠り頼みます。主よ あなたを求める者を あなたはお見捨てになりませんでした」(詩9:10)。偶像に頼らず、人間に頼らず、私たちを造って息を吹き込み、いのちを与えられる主に拠り頼む者こそ幸いなのです。そのことを心に刻みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 6章10-24節◇(9月14日)

「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」…エペソ6:11

キリストに贖われた光の子どもとして、人との関わりにおいてどうあるべきかを語ってきたパウロは、この手紙の最後の部分で、聖徒たちが、神に敵対する勢力である悪魔と、その手下との戦いの中に置かれていることを示し、その戦いに勝利するために、神が備えてくださるすべての武具を身に着けるようにと命じています。ではその武具とは何でしょうか。パウロは、①真理の帯、②正義の胸当て、③平和の福音の備え(靴)、④信仰の盾、⑤救いのかぶと、そして⑥御霊の剣であると言っています(14-17節)。けれどもそれは、この地上にある、目に見えるものではありません。それは、天におられる神から聖徒たちに与えられる、霊的な武具なのです。パウロが言うように、私たちの格闘は血肉、つまり人と人とのものではありません。それは、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものであって(12節)、その戦いに勝利するためには、敵をあなどることなく、神の武具を身に着けてしっかりと武装しなければならないのです。そうせずに戦うなら、私たちは血肉に対する争いに巻き込まれてしまうのです。しかし、ともすれば私たちは、そのことをきちんと受けとめようとせず、そんなものがなくたって大丈夫…とたかをくくり、自らの力で戦おうとします。そしてそのような愚かな者は、結局手痛い傷を負うことになるのです。主は弟子たちにこう告げられました。「世にあっては患難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハ16:33)。「わたしはすでに世に勝ちました」という主の宣言が心に留まります。その主がともにおられるのです。その主が私たちのために、武具を備えてくださっているのです。そのすべての武具をしっかりと身に着け、勝利の主に拠り頼みつつ、血肉とではなく、その背後にある悪しき者たちと勇敢に戦い、主にあって勝利する者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 6章1-9節◇(9月13日)

「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」…エペソ6:7

夫と妻とのあるべき関係について述べてきたパウロは、さらに子どもと親との関係について触れ、「主にあって自分の両親に従いなさい」と子どもたちに命じています(1節)。そしてその根拠として、「あなたの父と母を敬え」という律法を引用し、それには「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という主の約束が伴っていることを示しています(2-3節)。一方、親に対しては、「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」と命じています(4節)。親は子どもが自分の言うことを聞かないと、つい感情的になって怒りをぶつけてしまいますが、冷静になり、主の教育と訓戒、すなわち、みことばによって教え、戒め、それに従うよう訓練すべきなのだと、パウロは教えているのです。さらにパウロは、奴隷たちに対し、「恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい」と命じています(5節)。「真心から」とは、表面的、形だけの仕え方、忠誠さではなく、何よりもキリストのしもべとして、キリストに従うように仕えるということです。地上の主人の上には、キリストが主権者としておられるのであって、たとえ意地悪な主人であっても、主が立てられた者として信仰をもって受けとめ、敬意を込めて従うべきなのです(1ペテ2:18)。また主人にも、奴隷に対して横暴な態度を取ることなく、真実に接するよう求めているのです(9節)。これらの命令をパウロは、キリスト者へのことば、教えとして書き送っています。未信者にとっては、自らの感情に反するゆえにその教えに従うことが困難であっても、主に贖われた聖徒たちにとっては、それらは主にあって(1節)、主によって(4節)、キリストに従うようにして(5節)、主に仕えるようにして(7節)なすべきこと、可能とされることなのです。そしてそれは、神のみこころであって、神に喜ばれることなのです。そのことを覚え、キリストのしもべとして神と人とに仕えたいと思います。

感謝と喜びをもって歩むことができますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 5章21-33節◇(9月12日)

「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」…エペソ5:32-33

5章21節以降でパウロは、キリストと教会の関係をあらためて示し、夫婦の関係もそのようであるべきだと説き、霊的な真理から実践的な教え、生活への適用へと展開しています。そしてそれは、聖徒たちがそのように歩んでおらず、問題が生じていたことを示唆しているのです。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)。パウロはまず、妻たちに対し、夫に従うようにと命じています。そしてその根拠は、次節にあるとおり、キリストが教会のかしらであるのと同じく、夫が妻のかしらだからであり、単に婚姻関係にあるからというのではないのです。それは、神が定められた秩序に従って、主への従順と信仰をもってそうすべきことなのです。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(25節)。一方、夫に対してパウロはそのように命じていますが、それはキリストが、罪深い私たちを愛し、救い出すために十字架にかかり、ご自身のいのちを献げてくださったからであり、その一人ひとりを召し集め、ご自身のみからだの大切な各部分とし、そのみからだなる教会を、全きものとして立たせてくださるからなのです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」。パウロは、創世記のことば(創2:24)を引用し、キリストと教会を指しているのだと言っています(32節)。夫の妻への愛、それは、いのちをも惜しまずに献げられたキリストに倣い、自らを与え、献げ、仕えるということです。また妻の夫への従順、それは、教会がそのかしらであるキリストに従うように、人間的な思いでは素直にそうできなくても、神が定められた秩序に従って、主ご自身に対するように従うということなのです。結婚が、神の御前でなされる「契約」に基づくことを覚え、主の教えを心に留めたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 5章1-20節◇(9月11日)

「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」…エペソ5:8

5章に入ってパウロは、読者に対し、キリストに贖われた者、神に愛されている神の子どもとして、それにふさわしく歩むように、キリストに倣って生きるようにと命じています。神に従って生きていない未信者の歩みは、自分たちの幸福を第一とし、享楽を追い求めようとするゆえに、この世にまん延している、淫らな行い、汚れ、貪りなども、無批判に受け入れてしまっているのです。そのような彼らの仲間になってはいけない、と警告するパウロはさらに、神に対立しているこの世は闇に満ちており、そこから救い出された聖徒たちは、主のもとへ、闇の中から光の中へと移されているのだから、光の子どもとして歩まなくてはならない、と強調しています。8-14節に書かれているのは、光と闇の対立、対比です。光の子どもたちが行う光のわざは、神を喜ばせ、実を結ぶことができますが、闇においては、罪と悪に満ちたさまざまなことがひそかに行われており、それらが実を結ぶことはないのです。そして、それらのものは明るみへと引きずり出され、光に晒されることになるのです。そのような、闇に満ちたこの世に生きる私たちもまた、さまざまな誘惑を受けます。そして、ともすれば、肉を喜ばせようとするそれらのことに惹かれ、惑わされて、闇の中へと引き込まれそうになるのです。ではそれに対して、どう立ち向かえばよいのでしょうか…。パウロは言っています。「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい」(15節)、「主のみこころが何であるかを悟りなさい」(16節)、「御霊に満たされなさい」と。私たちは、自らの歩みが神のみこころにかなったものとなっているか、みことばに照らして絶えず吟味する必要があるのです。主の臨在とご支配のうちを歩み続け、感謝と賛美を主にささげ、兄弟姉妹と互いに教え合い、励まし合い、祈り合い、ともに進んでいくべきなのです。そのことを深く覚えたいと思います。

あらゆる誘惑から守られますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 4章17-32節◇(9月10日)

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」…エペソ4:30

4章の前半で、聖徒たちの霊的成長の大切さを訴えたパウロは、後半においてさらに、むなしい心と不潔な行いの貪りの中に歩んでいる異邦人に言及し、彼らとは異なる、主に贖われた聖徒としてふさわしい歩みをするようにと促し、その具体的なあり方について語っています。彼はまず、主に救われたときに受けたはずの教えとして、「古い人を…脱ぎ捨て」(22節)、「新しい人を着る」(24節)べきことをあらためて読者に思い起こさせています。そしてそれは、人が救われてもなお「古い人」、すなわち、主によって変えられなければならない部分があり、それが一人ひとりの霊的成長を妨げているのであって、その「古い人」をさらに脱ぎ捨て、「新しい人を着る」、つまり主に自らを明け渡し、キリストの全き支配の中に入れられなければならないのだ…ということなのです。そして、パウロはそのことに関し、「霊と心において新しくされ続ける」こと、継続して主に取り扱われることの必要性を強調しています(23節)。罪に満ちた人間は、古い人を何枚も着込んでいるので、1回脱げば終わりではないのです。私たちは日々、主の前に出て古い人を脱がされ続け、新しい人を着せられ続ける必要があるのです。そのようにして、人生の全領域においてキリストが主導権を持つへと、変えられ続けていくのです。聖徒たちの信仰の歩み、それが主との深い関係性、密接な結びつきに基づいているのはもちろんですが、パウロは「神の聖霊を悲しませてはなりません」と告げ、主との親密で人格的な交わりを保ち、主の御声をしっかりと聴いて歩むことの大切さを訴えています。「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしり」(31節)などのふるまいは、周りの人々に好ましくない影響を与えますが、誰よりも、聖徒たち一人ひとりを聖なる宮として住まわれる御霊は、それらを深く悲しまれるのです。そのことを覚え、常に主を喜ばせる者となるべく歩んでいきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 4章1-16節◇(9月9日)

「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」…エペソ4:16

パウロは「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」(1節)、「御霊による一致を熱心に保ちなさい」(3節)と命じています。4,5節では、召しの望みが一つであるように、からだも、御霊も、信仰も、バプテスマもみな一つであり、主はただひとりであると述べ、さらにその神は、すべてのものの上にあり、うちにおられ、すべてのものを貫く、すべてのものの父であると言っています。そのように一致や一つであることをパウロが強調していることから、エペソの教会の中に、一致を乱す動きがあったことが示唆されます。2節では、一人ひとりが身に着けるべき謙遜、柔和、寛容、愛が語られていますが、肉に従って歩み、それらの御霊の実を結んでいない者たちが不満を抱き、さまざまなことを批判していたのです。しかし、聖徒たちはみな、主イエスによって贖われ、キリストのからだの各部分として加えられ、そのからだ、教会を建て上げるために、さまざまな異なった役割と賜物を与えられて、尊く用いられる者たちなのです。それぞれの教会に与えられている牧師や伝道師たちも、キリストご自身が立てられた、油注がれた者なのです(11節)。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです」(13節)。パウロの主張する一致とは、人間的な手段によるものではなく、「画一」や「均質」を意味するものでもありません。それは多様性を伴いつつ、主にあって一つとされるということであり、また、未熟で発達不十分な者たちが、主によって組み合わされ、それぞれの分に応じて働き、用いられることによって成長し、キリストのからだが建て上げられていく、ということなのです。そのために生かされていることを感謝しつつ、へりくだって、自らの果たすべき分を忠実になす者でありたいと思います。

それぞれの働きが祝福されますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 3章1-13節◇(9月7日)

「ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」…エペソ3:13

3節以降において「奥義」ということばが何度も使われています。神は隠されていた霊的事実、すなわち奥義を、知恵と啓示の御霊によってパウロに、また私たちに明らかにしてくださいました。そしてそれは、2章の後半にあるように、キリストにあって、ユダヤ人だけでなく異邦人も神の民とされており、神から受け継ぐべき豊かなものの共同相続人とされている(6節)ということなのです。6節以降においては「福音」ということばが繰り返されていますが、それは、キリストの十字架と復活によって、罪の中にある人類の贖いが成し遂げられ、キリストを自らの救い主と信じるすべての者は、その救いにあずかり、神の子どもとされ、天に国籍を持つ者とされるという、良き知らせ、キリストによる救いの使信です。「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」(7節)。そう告白するパウロは、かつては熱心なユダヤ教徒として、キリスト者たち迫害することが神の御旨だと考えていましたが、キリストとの劇的な出会いを体験し、回心し、キリストの福音を宣べ伝える者とされたのです。パウロは自らの使命を主から明確に受け取っていました。それは、異邦人に福音を宣べ伝えることであり(8節)、神の奥義の実現がどのようなものかを明らかにすること(9節)であり、彼は、自分が迫害され、苦難を受けていても、それが神のご計画の中にあると、信仰をもって受けとめていたのです。そしてその努めを担うことにより、人々に神の救いと祝福と栄光が現されると確信し、逆境においてもひるむことなく、その働きの前進のために、キリストの忠実なしもべとして、神と人々とに仕えていたのです。そしてそれは、パウロだけでなく、すべての聖徒たちが同じようにして従うべきあり方なのです。私たちもそこに加えられていることを覚えたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 2章11-22節◇(9月6日)

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」…エペソ2:19

神は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、イスラエルの民を、ご自分のものとして選ばれました。彼らを愛し、あわれみ、かけがえのない宝とされたのです。そしてそれは、彼らを通して、ご自身に背き、罪に満ちている、この世界に救いをもたらすためであり、その意味でイスラエルは、神にとって特別な存在であるのです。一方、この手紙の宛先であるエペソの聖徒たちは、肉においてはイスラエルではない異邦人であって、ユダヤ人のように割礼を受けておらず、イスラエルの神を知らず、神が遣わされた御子イエス・キリストからも遠く離れていたのです。この世の流れに従って罪と闇の中を歩み、真のいのちも喜びも希望もない者たちであったのです。しかし、そんな彼らに対し、そして私たちにも、神の愛の御手が伸ばされ、恵みが及びました。今から2千年前、キリストはすべての罪人の身代りとなって十字架にかかり、いのちをささげ、その死からよみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。それゆえ、そのキリストを信じる者は、血筋によらずに誰でも救われ、神の民とされ、神の家族の一員として加えられるようになったのです。そのようにして、イスラエルの民と異邦の民、その両者、二つのものを、キリストにあって一つの神の民とし、さらにご自身の救いの計画をさらに推し進めることは、神のみこころであるのです。その中で、異邦人である私たち一人ひとりもまた、神に導かれてキリストと出会い、主を信じて救いにあずかったのです。そして、神の大いなるご計画の実現のために、選ばれ、生かされ、尊く用いられる者とされているのです。「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(22節)。かつては神から遠く離れていた私たちが、キリストにあって神の民に加えられ、そのような者とされているのは何と幸いなことでしょうか。主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 2章1-10節◇(9月5日)

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」…エペソ2:10

10節において「良い行い」ということばが3回出て来ますが、原文ではその意味のことばは節の中で一度だけ使われ、あとは代名詞や関係代名詞によって表されています。しかし新改訳では、意味を明確にし、また「良い行い」を強調すべく、あえてそのように訳しているのです。では、その「良い行い」とは具体的に何を意味しているのでしょうか。それは本来、この書全体を通して理解すべきことですが、今日の箇所までの文脈において教えられることは、「不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」(2節)いた歩みから救い出された聖徒たちが、今なお「自分の肉の欲のままに生き」(3節)ている人々に対して、そのような背きと罪の報いは死であること(5節)、しかしその罪人を神が愛し、あわれみ、御子キリストを遣わして、信仰による救いを賜物として与えてくださったという事実(8節)を、証しし、伝えるということです。6節には、神がキリストにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださった、ということばがあります。そしてそこから教えられることは、聖徒たちには、御国の王であるキリストとともに世を治める役割があり、それを実行する上で起こるさまざまな霊の戦いにおいて、キリストの御名の権威をもって悪しき者に立ち向かうことが求められている、ということです。なぜなら天上の神の右に着座されているキリストは、すべてのものを足の下に従わせており(1:20-22)、そのキリストと「ともに天上に座らせられた」聖徒たちには、キリストのその大いなる権威が分与されているからです。そのことからすれば、「良い行い」とは、神の国、すなわち主の統治がこの地においてさらに拡大するための、福音宣教を含むすべての働きだと言えます。そしてそれを実際に担うべく、私たちはキリストにあって造られ、生かされているのです。そのことを覚えたいと思います。

主に忠実に仕える者とされますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 1章15-23節◇(9月4日)

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」…エペソ1:23

17-19節はパウロの祈りです。パウロは、エペソの聖徒たちのために主にとりなし、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられ、霊の目が開かれ、神から与えられる望みがどれほど確かなものか、また聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、さらに、神を信じる者に働く神の力がどれほど偉大なものか、それらの奥義をはっきりと知ることができるよう願っているのです。続く20-21節においてパウロは、そのように聖徒たちに働く神の力とは、栄光の神から与えられる大能の力であり、神はそれを御子イエス・キリストのうちに働かせ、死者の中からよみがえらせ、天上のご自分の右の座に着かせて、すべての名の上に置かれたのだと告白しています。そのようにしてよみがえったキリストは、御国の王であられ、ご自身の十字架と復活によって贖った者たちを聖徒として召し集め、教会を建て上げられました。そしてその教会はキリストのみからだであり、一人ひとりの聖徒たちは、そのみからだの大切な各器官として加えられ、有機的に結び合わされて生かされ、主の働きを担い、主の栄光を現わす者として、尊く用いられているのです。パウロは21-23節において、「すべての」ということばを6回も使い、キリストの卓越性、完全性を強調しています。「すべて」とは100%であって、例外がないということです。「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました」(22節)。もちろん、神に敵対する勢力サタンもそこに含まれています。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」と主イエスが言われたとおりなのです(マタ16:18)。そのように、すべてのものの上に立つかしらなるキリストが、聖徒たち、教会のすべての必要を満たし、あらゆる戦いに勝利させてくださることを覚え、どんなときにもキリストに信頼したいと思います。

キリストにあってますます豊かにされますように。

◇聖書箇所: エペソ人への手紙 1章1-14節◇(9月3日)

「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」…エペソ1:7

エペソ人への手紙は、パウロによって書かれたもので、獄中書簡と呼ばれる手紙のうちの一つです。パウロは、エペソの聖徒たちへの挨拶を短く述べると、3節以降で早速本題に入っていますが、そこを読んで気付かされることは、「キリストにあって(よって)」ということばが何度も使われ、それが強調されているということです。「キリストにあって」…。それはつまり、「キリストのゆえに」ということです。救い、祝福といった、私たちが神から受けているすべての良きものの根拠が、ただイエス・キリストにある、ということなのです。またそれは、人間の側にはそれを受ける理由が何一つないということでもあります。それどころか、私たちは、神に対して犯している多くの罪と咎のゆえに、神にさばかれ、滅ぼされて当然の者であったのです。それなのに、神が、愛とあわれみによって、一方的な好意として私たちをキリストにあって救ってくださったのは、ただただ神の恵みによることであったのです。しかしそれは、この世の常識ではあり得ない、驚くべきことであって、人は、それをただ感謝して受け取ろうとはしないのです。逆に自分のがんばりによって功を積み、それを認めてもらおうとするのです。その上、救われた後もなお、ともすれば律法的な歩みをし続けようとするのです。そのような愚かさを人は持っているのです。しかし聖霊は、そんな私たちの霊の目を開き、永遠に続く御国を受け継ぐ者とされているという保証を、私たちに与えてくださるお方なのです。それは「証印」として、目には見えなくても、聖徒たち一人ひとりに押されており、それによって私たちは、確かにキリストにあって贖われた者であることを、日々思い起こすことができるのです。そのようにして、感謝と喜びをもって主をあがめ、すべての栄光を主に帰す者でありたいと思います(14節)。

主の祝福が豊かにありますように。