◇聖書箇所: マタイの福音書 13章1-9節◇(1月31日)

「耳のある者は聞きなさい。」…マタイ13:9

主イエスは、ご自分のもとに集まって来た群衆に対し、多くのことをたとえで話されました。13章において最初に書かれているのは「種蒔きのたとえ」であり、4つの異なる地に落ちた種がどのようになるかを示し、蒔かれた種が実を結ぶことの大切さを、主は教えられたのです。そのたとえの意味について、主は語った後に弟子たちに明らかにされましたが(18-23節)、それはあくまで、「なぜ彼らにたとえでお話になるのですか」と尋ねた彼らだけにであって、群衆に対しては、神の国の奥義を語るときには、常にたとえを使って話しておられたのです。ではなぜ、主はそのようにされたのでしょうか…。それは、律法学者やパリサイ人たちとの無用な論争を避けるためであったかもしれません。あるいは、弟子たちがたとえの意味を自分たちで悟ることができるよう、彼らを訓練する意図もそこに含まれていたのかもしれません。「耳のある者は聞きなさい」と、主は群衆に向って言われました。主が、神の国についてのたとえをもって彼らに話されたのは、何よりも「耳のある者」、すなわち、神のことばに飢え渇き、主を求め、神の国を求め、義なる者とされることを切望する者たちが、御霊の助けによりそれを理解することができるようにする、そのような意図があったに違いありません。たとえを使わずに、よりわかりやすく、懇切丁寧に人々に教えることもできたはずなのに、主があえてそうされたのは、ご自身に近づく者たちを主が喜ばれ、顧みてくださるからなのです。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコ4:8a)。私たちはそのような者となっているでしょうか…。単に「日課」として定められたみことばを読み、その意味を理解するだけで満足していないでしょうか。みことばによって霊の目が開かれ、心の深いところが探られ、主に喜ばれないものが砕かれ、取り除かれる…そのようにして自分が変えられることを切に願う、そのような者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章38-50節◇(1月30日)

「ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」…マタイ12:41

「あなたは…自分のことばによって不義に定められる」(37節)と、主イエスが人々に厳しいことばを告げると、それを聞いた律法学者たちは、そこまで言うなら、しるしを見せてもらいたい、すなわち、あなたがメシアである証拠としての奇跡を現わしてほしいと言いました。すると主は、「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です」と言って、彼らの要求を拒否されました。主が言われた「姦淫」とは、イスラエルの民が、夫婦のような特別な愛の関係にある神を真実に求めようとせず、宗教指導者たちの誤った教えを鵜呑みにし、形式・儀式主義に陥ってそれに満足していたことであり、さらには、さまざまな外国の支配下に置かれる中で、異教の神々や偶像に心寄せていた、その霊的な背信を意味するのです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(40節)。その主のことばは明らかに、自らの「復活」を示唆しています。それが、ご自分がメシアであることを示すしるしとなる…ヨナの説教によりニネベの人々が悔い改めたように、ヨナにまさる私の教えに心を留めよと主は言われたのです。「ここに宮よりも大いなるものがあります」(12:6)。「ここにヨナ/ソロモンにまさるものがあります」(41,42節)。主イエスはそのように告げられましたが、それは、預言されていたメシアが今ここにいる…というご自身の存在を意味し、また、律法を守り抜くことによってではなく、福音を信じることによって神に義とされることを意味し、さらには、その救いのみわざ、神の国の到来こそが何にもまさる「しるし」なのだというメッセージです。贖われた私たちをそのしるし、証し人として、主が用いてくださるということを覚えたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章22-37節◇(1月29日)

「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」…マタイ12:31

悪霊につかれて目が見えず、口もきけない一人の人が連れて来られ、主イエスがその人を癒されると、そこにいた人々はみな驚き、イエスのことを、もしかするとこの人がダビデの子、すなわちメシアかもしれない…と、うわさし合いました。すると、それを聞いたパリサイ人たちは、この人はダビデの子などではない、悪霊どものかしらベルゼブルによって悪霊を追い出しただけだと、即座に否定しました。彼らは人々が注目しているイエスをねたみ、何とかして消し去ろうと考えていたのです。そんな彼らの思いを知っておられた主イエスは、パリサイ人たちに対し、もしそのとおりだとしたらそれは、サタンがサタンを追い出す仲間割れであり、サタンの国が分裂していることになるではないか…。わたしが悪霊どもを追い出しているのは、神の御霊によることであり、それは、すでに来ている神の国の現れ、祝福なのだと、反論されたのです。主イエスはさらに、「人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」と言われましたが、それはもちろん、人の子、すなわちイエスが、聖霊よりも下位にあるという意味ではありません。父と子と聖霊は三位一体の神であり、主イエスは父から遣わされ、人の姿を取ってこの地上を歩まれたお方であり、その主は、人々から罵られ、十字架につけられて殺されたのです。しかし主は、その人々を救い出すべく復活され、贖いを成し遂げられたのであり、それは、人の子に逆らうことばを口にする者たちを赦すためだったのです。悪霊の追い出しは確かに聖霊の働きによることでしたが、その否定は、聖霊を侮辱し、三位一体の神を否定し、神を冒瀆することであり、それは、神が特に心を痛めることなのです。私たちも、内に住んでおられる御霊を悲しませているようなことがないか、吟味したいと思います。

主への畏れをもって歩む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 12章1-8節◇(1月27日)

「人の子は安息日の主です。」…マタイ12:8

主イエスと弟子たちは、安息日に麦畑を通りましたが、弟子たちは空腹であったので、実が入っている麦の穂を摘み、それを手でしごいて食べ、空腹を満たしました。すると、その様子を目撃したパリサイ人たちは、それは安息日にしてはいけない行為だと言い、非難したのです。それに対して主イエスは、聖書の記事や教えによって反論されました。ダビデと供の者たちは、空腹を覚えたときに祭司アヒメレクのところに行き、聖別されたパンをもらって食べたのであり(1サム21:1-6)、また、安息日に神殿でいけにえを献げる祭司たちは、当然ながらその奉仕によって咎に定められることはないのであり(民28:9)、パリサイ人たちの非難は的外れなものであったのです。さらに主イエスは、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」というみことば(ホセ6:6)を引用し、腹を空かせた弟子たちが麦の穂を積んで口にすることは、彼らが生きるために必要なことであり、それを非難して不義に定めようとするのは、愛のないこと、律法の精神をはき違えたことだと、パリサイ人たちを責めたのです。「人の子は安息日の主です」。人の子、すなわち主イエスは、三位一体の神として、世界を創造されたお方です。そこで神は、7日目にそのわざをやめて、造られたすべてのものを見て「非常に良い」とされたのであり、安息日の起源はそこにあります。そして、神に造られた人間が、その安息日に創造主なる神のわざを覚え、感謝し、神の祝福にあずかることが主のみこころなのです。しかし、パリサイ人たちにとっては、いかに自らが安息日に働くことを完全にやめ、また人々にそのことを守らせられるかが、安息日の目的にすり替わってしまっていたのです。そのようにして主イエスは、パリサイ人とのやり取りを通し、ご自分が創造のわざに参与した神であり、ダビデの子として王となるべき油注がれたメシアであり、また全人類の贖いのためにご自身をいけにえとされる大祭司であると暗示されました。そのことを覚え、感謝し、キリストを王としてあがめ、礼拝をささげたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 11章20-30節◇(1月26日)

「それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。」…マタイ11:20

主イエスは、ガリラヤ地方の町々において、力あるわざ、すなわち、病気の癒し、悪霊の追い出し、とらわれからの解放などを数多く行われました。しかし、それにもかかわらず、そこに住む人々は、イエスをメシアとして信じ、そのことば、教えに従おうとはしなかったのです。自分たちのあり方を悔い改めようとしなかったのです。それゆえ主は、コラジン、ベツサイダ、カペナウムと、それらの町々を名指しし、そのことを嘆き、ツロ、シドン、ソドムの町々の名前まで出して、それらのほうがましだ、神のさばきに耐えやすいのだと言われたのです。ではなぜ、ガリラヤの町々は悔い改めなかったのでしょうか…。それはそこの人々が、自分たちが祝福を受けること、抱えている問題が解決されること、それらのことしか望んでいなかったからです。また、今のときが良ければそれでいいと考えていたからです。だから、イエスがなされたみわざを、メシアがもたらした神の国の現れとして認めようとせず、また、「さばきの日」が実際にやって来る、自分たちがそこでさばかれるということにまで、思いを至らせることがなかったのです。そんな彼らとのやり取りの中で主イエスは、「天地の主であられる父よ…あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と言われました(25節)。人々に対し、主は力ある多くのみわざを行い、それとともにみことばにより教え、彼らの罪を指摘して悔い改めを迫りました。しかし人々は、さまざまな言い訳をして自分を正当化したのです。それは悪知恵を働かせる大人のやり方です。それに対して幼子たちは、主イエスのことばを素直に受けとめて、それに忠実に従おうとする柔らかい心を持っているのです。私たちはどうでしょうか…。問題の解決だけを求め、自分だけ、今が良ければそれでいいと考え、悔い改めることを軽んじていないか…、自己吟味したいと思います。

ますますへりくだって歩む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 11章1-19節◇(1月25日)

「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」…マタイ11:11

牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネは、主イエスがなされた数々のみわざを聞き、預言されていたメシアとはあなたなのかと、自分の弟子たちを通じて主イエスに尋ねました(3節)。すると主は彼らに、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい、目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き…死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられている…それはまさに神の国の祝福であって、それをもたらしたわたしにつまずかない者は幸いだ、と告げたのです(6節)。その後、主イエスは、バプテスマのヨハネについて群衆に話し始められ、女から生まれた者、つまり人間の中で、彼よりも偉大な者は現われなかった、と告げましたが、それは、ヨハネが主イエスに先駆けて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタ3:2)と、人々に宣べ伝えた働きを念頭に置いての発言でした。「偉大な」と主イエスは言われましたが、それは、バプテスマのヨハネの持つ人間的な能力を意味していたのではないのです。さらに主は、その彼よりもっと偉大なのは、天の御国に属する者たちだと言われました。「天の御国」とは、死んだ後の世界のことではなく、主イエスがもたらされた神の国、すなわち神の支配、神の力の現われのことです。「偉大」と訳されている原語は「この上もなく」という意味のことばであり、ここでも主は、その者たちの人間的優劣ではなく、神の国に入ることの幸いを強調されたのです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」との主のことばが思い起こされます(マタ5:3)。その神の国の祝福がこの地上で現わされるようになった…だからそこに入って来なさい…という招きこそ、主イエスが宣べ伝えた福音です。そしてそれを受け入れ、信じるだけで、誰でも御国の民とされ、その祝福にあずかることができるのです。そのことに感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 10章34-42節◇(1月24日)

「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」…マタイ10:38

主イエスは弟子たちに対して、誰が彼らの敵、すなわち迫害する者、福音宣教を妨げる者となるのか、ということについて教えられましたが、その一連の話の最後においては、弟子たちの家族もまた、そのような存在となり得るのだ、ということを語られました。35-36節には「わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです」とありますが、弟子たちが主イエスに従っていくことを、彼らの家族は必ずしも快く思わない、むしろそれに反対する場合が多いのだと主は言われたのです。そして、そのような状況の中で、最も近しい関係である家族との情愛に流されることなく、誰よりもイエスを愛し、従うことを選び取るのか、そのことを主はチャレンジされたのです。主イエスが、ご自分を救い主と信じ、救いにあずかった弟子たち、そして後の世代のすべての聖徒たちに対して願っておられること、それは、家族などの愛する存在よりも、主ご自身を第一に愛し、求め、付き従うということであり、それぞれが自分に与えられている十字架を負って、主につき従って歩むことです。しかしそれは、家族との関係を絶つということではなく、何を第一とするべきなのかという、優先順位の問題なのです。「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです」(39節)。人が自分のいのちは自分のものだと固執するならば、結局そのいのちを失うことになる…。しかしそれを主イエスのために失う、つまり、ささげる、差し出す者は、それを自分のものとすることができる…。主はそう言われました。私たちも主に贖われた聖徒として、新しいいのちに生かされ、世に遣わされている者であることを覚え、弟子たちへの主のことばを自分へのものとして受けとめて、誰よりも主を愛し、求め、主に従うことを選び取っていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 10章16-33節◇(1月23日)

「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」…マタイ10:22

今日の箇所では、主イエスは弟子たちに、遣わされるところにおいて戦いがあり、人々から迫害され、捕らえられ、施政者たちの前に連れて行かれたり、引き渡されてむち打たれたりすることになる…、だからそのことをあらかじめ知って、用心するようにと言われました。16節には、「わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします」との主のことばがあります。しかし主は、そうであっても恐れてはならないと、繰り返し弟子たちに語って強調されました(26,28,31節)。そして主はさらに、なぜ恐れなくてよいのか、その理由をも、弟子たちに対して明らかにしてくださったのです。「…彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです」(26節)。人に知られずになされる、弟子たちへの悪意に満ちた行為なども、すべて主は知っておられ、それらは必ず明らかにされ、そのことで迫害者たちの立場が不利になるのです。そのようにして主は、ご自身の愛する者たちを守ってくださるのです。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」(28節)。たとえ迫害者たちが弟子たちに害を加えて満足し、にもかかわらず生き延びたとしても、それはあくまでこの地上でのことであり、彼らは、その罪と悪の行いのゆえに、やがて来る終わりの日には、たましいもからだもゲヘナで滅ぼされてしまうのです。そして主は、そのようにして審判を正しくなされる一方で、それとは対照的に、ご自身を信じて従う者たちを喜ばれ、天の御国に迎え入れ、主とともに永遠に生きる者としてくださるのです。主イエスの弟子たち、すなわち主に贖われたすべて聖徒たちは、そのように価値ある尊い者とされているのであって、何も恐れる必要はないのです。その主は今も、私たちとともにいてくださいます。恐れずにただ主に拠り頼み、歩み続けたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 10章1-15節(1月22日)

「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。…」…マタイ10:7-8

主イエスは、人々の病気やわずらいを癒し、悪霊に憑かれた者たちからその霊どもを追い出すために、12人の弟子たちを呼び寄せ、汚れた霊を制するための権威を彼らに授けられました(1節)。そして、弟子たちが遣わされる現場において、どのようなことに留意すればよいのか、その具体的な指示を彼らに与えられたのです(5-42節)。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」(5-6節)。主イエスは弟子たちに対し、まずそのように言われましたが、主が異邦人やサマリア人を蔑視し、彼らは救われる必要がない、と考えていたわけではありません。9章36節には、群衆が羊飼いのいない羊たちのように弱り果てて倒れているのを見て、イエスが深くあわれまれたとありますが、アブラハムの子孫であり、自分たちの同胞であるそのユダヤ人たちが、まず救われ、癒され、回復されるということが、神のみこころであったのです。その弱り果てた羊、失われた羊たちのところに行って、何をすべきなのか…。主は、天の御国が近づいたと宣言し、病人を癒し、きよめ、死人を生き返らせ、悪霊を追い出すようにと命じられました。そのように主は、遣わされる弟子たちが、ご自分と同じようにしるしを行い、神が願っておられることを実現するようにされたのです。そしてそれは、弟子たちの力によるのではなく、彼らが授けられた権威によることであったのです。その権威とは、メシアとして来られた主イエスの権威であり、神の国とは、サタンに奪われている領域、捕らえられている人々を奪還し、押し拡げ、増し加えていく、御国の王であるキリストの支配、統治にほかなりません。そしてそのために主は、12弟子たち、また私たちを選ばれ、任命されたのです。そのことを覚えたいと思います。

神の国がさらに拡大しますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 9章14-26節◇(1月20日)

「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」…マタイ9:17

14-17節には、バプテスマのヨハネの弟子たちが主イエスのもとに来て、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのか、と非難したことが記されています。当時、ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちはしばしば断食をしていたので、自らのあり方を誇る思い、また主イエスの弟子たちを見下すような思いで、そのように言ったのです。それを聞いた主は、断食についての彼らの律法的で誤った考えを正すべく、花婿に付き添う友人たちのたとえをもって話されました。そこでの花婿とは主ご自身であり、友人とは弟子たちのことです。花婿とのその食事は、特別な時、喜びの場であり、最優先すべきものなのです。さらに主は、古い衣と新しい布切れ、また古い皮袋と新しいぶどう酒の組み合わせではうまくいかず、両方ともだめになってしまうと、それもたとえで話されました。そこでの古い衣や皮袋とは、パリサイ人たちがしがみついている、律法主義的で硬直した生き方であり、新しい衣やぶどう酒とは、主イエスのもたらされる恵みの福音を受け取るための新しい価値観、考え方のことであり、古い衣や皮袋のままではせっかくの新しくて良いものを受け取ることができず、台無しになってしまうのです。ひるがえって、私たちの考え方、生き方はどうでしょうか。もしも、パリサイ人たちのように、律法主義的で硬直したあり方のままで、主イエスがもたらされた恵みの福音を受け取ろうとするのであれば、それはうまくいかないのです。せっかくの良いものが台無しになってしまうのです。救いにあずかっているはずなのに、平安や喜びがなく、肉によってがんばろうとしたり、人の目が気になってしまったりするのです。新しいぶどう主は新しい皮袋に入れなければならない…。その主イエスのことばをしっかりと受け取って歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 9章1-13節◇(1月19日)

「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」…マタイ9:13

今日の箇所においても、2つの出来事が書かれ、その中でそれぞれ、主イエスを批判する、律法学者とパリサイ人という宗教指導者たちが登場しています。1つ目の出来事は、床に寝たままの中風の人が人々に連れて来られ、「あなたの罪は赦された」と告げたイエスのことばを聞きいた律法学者たちが、「この人は神を冒?している」と心の中でつぶやくと、それを知った主が、「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と中風の人に命じ、ただちにそのとおりになったという驚くべきみわざです。2つ目の出来事は、主イエスや弟子たちとともに大勢の取税人や罪人たちが食事をしているのを見て、パリサイ人たちがそれを咎めると、主が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です…。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言って、彼らに反論されたというものです。その際に主は「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」というみことばを引用されましたが(ホセ6:6)、それを3版では「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と訳しています。中風の人の癒しも、取税人や罪人たちとの食事も、主イエスのうちにあった真実の愛、あわれみといつくしみから出たことであり、人々のからだと心を癒し、罪を赦し、神が造られた本来の姿に戻すために行ったことであったのです。しかし、宗教指導者たちは、自分たちにはその必要はないと高ぶり、主イエスの元に来る者たちを軽蔑していたのです。すべての者は罪人であり、それを取り除き、癒しと解放と自由を与えることのできる唯一の医者、イエス・キリストが必要なのです。取税人マタイはその主に招かれて喜び、仲間たちを誘って主との食卓につきました。私たちもまた、感謝と喜びをもって自らの救いを証しし、人々を主のもとに連れて来る者でありたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 8章18-34節◇(1月18日)

「人々は驚いて言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。』」…マタイ8:27

今日の箇所においては、主イエスの驚くべき力が現わされた2つの出来事が記されています。1つ目は主イエスと弟子たちが、カペナウムの町からガリラヤ湖の対岸に渡るべく、舟に乗って湖を進んで行った途中、強い風が吹いて来て湖が大荒れとなり、波をかぶった舟が沈みそうになったときのことです。そのとき主は眠っていましたが、弟子たちに起こされた主が風と湖を叱りつけられると、とたんに風はやみ、すっかり凪になったのです。2つ目は、湖の向こう岸に主イエスと弟子たちが着き、そこのガダラ人の地にいた、悪霊につかれた2人の人に近づいたときのことです。その2人のうちにいた悪霊は、自分たちが苦しめられることを恐れ、追い出すのなら豚の群れの中に入らせてほしいと懇願し、それを主が認めると、さらに多くの悪霊どもが豚に入り、崖を下って湖になだれ込み、その豚の群れは溺れ死んだのです。その2つの出来事が示しているのは、風や湖が、主イエスに静まるように命じられるとただちにそれに従い、また悪霊どもが、主イエスが近づくと恐れをなし、ただちに取り憑いていた人から出て豚に乗り移ったという、主イエスに対する全き服従です。そしてそれは、主が、それらをご自身に従わせる権威をお持ちだからなのです。その主イエスは今も、王の王、主の主として、この世界のすべてを統べ治めておられます。そして、主に贖われ、イエスを主として告白し、日々その教えに従う私たち一人ひとりの歩みにおいても、その中に介入し、導き、嵐のような状況を静め、また、私たちをさまざまな捕われから解放してくださるお方なのです。私たちの舟も途中で暴風に遭い、水をかぶり、沈みかけるかもしれません。しかし、主がともにおられ、守り支えられるので、主が計画されている目的地へと必ず到達するのです。なんと幸いなことでしょうか。そのことを覚えて感謝しつつ、ますます主イエスに拠り頼んで歩みたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 8章1-17節◇(1月17日)

「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」…マタイ8:10

今日の箇所には、主イエスが人々に次々になされた、癒しと解放のみわざが記されています。主は、ツァラアトに冒された人を癒し、ローマ軍の百人隊長のしもべの中風を癒し、熱があったペテロの姑を癒し、さらに、悪霊につかれた人たちから悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒されたのです。それらの出来事を記したマタイは、その後17節でイザヤ書53章4節を引用し、一連の癒しはすべて、そのみことばの成就なのだ、と結論づけています。そしてそれは、イザヤ書53章全体が示している「苦難のしもべ」、すなわち来たるべきメシアが、主イエスにほかならないことを示唆しているのです。その癒しの記事において、特筆すべきは百人隊長の信仰です。彼は異邦人でしたが、主イエスが権威を持ち、病を癒すことのできるお方であることを知っており、しかも、病気である自分のしもべのもとに直接出向かなくても、権威あることばをもって命じれば、その中風は癒されると堅く信じていたのです。そして彼のその告白を聞いた主イエスは驚き、ユダヤ人の中にもこれほどの信仰を見たことはないと言って、彼を称賛されたのです。その後、主イエスは、多くの人が東西から来て、天の御国でイスラエルの族長たちとともに食卓に着くが、御国の子らは外の暗闇に放り出され、泣いて歯ぎしりするのだ、と告げられました(11-12節)。その「多くの人」とは全世界の異邦人、また「御国の子ら」はユダヤ人たちを意味しています。そしてそれは、選民意識に凝り固まり、異邦人を見下していたユダヤ人、特に宗教指導者たちに対する警告のことばであるのです。血筋によらず、行いによらず、キリストへの信仰によって義とされ、救われ、神の国の祝福にあずかる者とされる…。その神の恵みを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。

主への信仰がますます強められますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 7章15-29節◇(1月16日)

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」…マタイ7:21

主イエスは、人々に対して、偽預言者に注意するようにと警告されました。彼らは、一見ふつうの人々で、何も問題がないように思えますが、その正体は貪欲な狼であって、人々を獲物として食い尽くそうとしているのです。彼らが語っているのは神のことばではありません。それは、自分たちが考え出したことば、また、異教の教えに基づくことばであって、惑わされてはならないのです。ではどうすれば彼らから身を守ることができるのか…。それは、彼らを実によって見分ける、つまり神に立てられ油注がれた預言者として、ふさわしい実が彼らのうちに結ばれているかどうかによって判断するのであり、主イエスが言われたように、悪い木は良い実を結ぶことはできないのです。そしてそのように良い実を結ばない木はみな切り倒され、火に投げ込まれるのです(18-19節)。良い実を結ぶ良い木、それは、天におられる父なる神のみこころを行う者であって、悪霊を追い出したり、病をいやしたり、そのように人々が驚くような不思議を行う者が、必ずしもそうであるのではないのです。神のみこころとは、人が自らの弱さを認め、へりくだり、神にひたすら拠り頼むことであって、良い実を結ぶそのような心を持っているかどうかが、問われているのです。そして、そのような者こそ、天の御国に入れられ、神とともに永遠に生きる者とされるのであり(21節)、そのために、主イエスのことば、教えを聞いて守り行い、一歩一歩、歩みを進めて人生を築いていくのであって、そうするならばその者は、たとえ試練にあったとしても、倒れてしまうことはないのです。なぜならそれは、堅い岩の上に土台を据えて家を建てるように、キリストという揺るがないものに根ざして生きるということだからです。しかし、そのようにせずに砂の上に家を建てるなら、風雨にさらされてその家は倒れてしまうのです(24-27節)。岩の上に家を建てる賢明な者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 7章1-14節◇(1月15日)

「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」…マタイ7:3

5章1節にあるように、5章からの主イエスの教えは弟子たちに対して語られたものですが、7章に入ると、5節には「偽善者よ」とあり、また28節には「群衆はその教えに驚いた」と書かれています。そのことから、弟子たちに語っていた主の元に群衆が後からやって来てその場に加わったため、主は、弟子たちだけでなく、その人々に対して語るようにされたのだ、と考えることができます。その聴衆に向って主は、「自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」と言われましたが、それは、人々の中に混じっていたパリサイ人たちに対することばです。彼らは、「あなたの目からちりを取り除かせてください」、つまり、神に喜ばれない不純物、罪によって目が曇っているので、そのちりを私が取り除いてあげましょう…と言って、人々におせっかいをしていたのです。そんな彼らに治して主イエスは、「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい」と言われました。医者のように偉そうにしている彼らの目には、ちりよりもはるかに大きな「梁」、つまり家の建築材料となる木材があるのだ…と誇張した表現を用い、だからあなたがたの目からまずそれを取り除けと、彼らに命じたのです。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」(1-2節)。その主のことばは、弟子たちを含む、そこにいた群衆、そしてそれを読むすべての人に対する神の教えです。私たちは、自分の目に梁があるのに他者の目のちりを取り除こうとする、愚かで高慢で偽善者であるパリサイ人たちを反面教師として、学ぶべきなのです。自分のことは棚に上げて、律法的になって他者のあり方を批判し、さばいているようであれば、それは彼らと同じなのです。そうなっていないか、まず自分はどうなのか…と、へりくだって自己吟味する者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 6章9-18節◇(1月13日)

「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」…マタイ6:10

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」そう言って主イエスは弟子たちに、神のみこころにかなう祈りがどおようなものかを教えられました。「ですから」とありますが、それは、その前において、異邦人のように、同じことばの羅列により呪文のように祈ってはならない、と戒められ、また、父なる神は必要なものを知っておられる、と教えられた(7-8節)ことを受けてのことばです。「天にいます私たちの父よ」。主が教えられた祈りにおいて、呼びかける相手は、天におられる父なる神です。では、その神の御名が聖なるものとされますようにとは、どういう意味でしょうか…。それはすなわち、イスラエルの神こそが唯一まことの神であり、天地万物を創造され、今も世を統べ治めておられるのであり、その神は畏れられ、あがめられるべきお方である…と、すべての人が認めて告白しますように、との願いなのです。「御国が来ますように」。御国とは神の国であり、王であり主権者であられる神が、この世界を統治しておられる、その支配のことです。その統治、支配が、この世界のすべての領域におよび、神のみこころ、すなわち、神が願われ、喜ばれることが、天でも地でもなされるように祈れと、主は教えられたのです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。御国が来るように、主の御旨がこの地上でなされるようにと願い、祈る…。そしてそこには、祈りをささげる自分自身も含まれているのです。つまりそれは、「主よ、わたしのすべての領域を、あなたのみここのうちに治めてください」という願いであり、そのために、自らを神の前に明け渡すということをも意味しているのです。キリストは神の国をこの地にすでにもたらされ、王として統べ治めておられます。聖徒とされた私たちは、ますますその主のご支配が拡大するようにと願い、主が教えられたように日々祈り続けたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 6章1-8節◇(1月12日)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」…マタイ6:1

主イエスは、人前で善行や祈りや施しをしてはならない、と弟子たちに命じられました。それは、パリサイ人や祭司のような宗教指導者たちが、いかに自分たちが敬虔な者であるかを、人々にアピールするためにそのようにしていたからであり、彼らにとって、人々から尊敬され、称賛されることが、その行為の動機となっていたのです。そしてそれはまさに、偽善者としてのあり方なのです。それに対して主イエスは、「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」と言われました(3節)。それはつまり、施しをするなら誰にも知られないようにひそかに行え、ということです。また主は、祈るときにも、家の奥の部屋で戸を閉めて祈れ、つまり、人に聞かれずに神にだけ聞かれるようにせよとも言われました。そうすれば、天におられる父なる神が、報いてくださるからです(4,6節)。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。パリサイ人のように、偽善者の態度を取ることはないでしょう。しかし、主イエスが非難された誤りの本質とは、外側に現れる彼らの行動やことばが、内側にある純粋な思いから出たものではなく、またそれが、神に応答してのふるまいや神に向ってのことばではなく、人を意識してのものだということであり、ともすればそれは、私たちの歩みにおいても、少なからず起こっていることなのです。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ11:1)。神に対する私たちの信仰は目に見えません。そもそも人は、神を肉の目で見ることはできません。その神が、私たちの行いを見、ことばを聞いておられると信じること、それが信仰であって、その神との直接的な関係の中に、他者を入り込ませるべきではないのです。すべてを知っておられ、見ておられる神の御前に、いかに真実に歩むかが問われているのだということを、しっかりと覚えたいと思います。

主との関係がさらに確かなものとされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章43-48節◇(1月11日)

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」…マタイ5:44

48節に「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」とありますが、「完全でありなさい」というそのことばを、私たちはどう受け取るのでしょうか…。あー、こんな私が完全であることなんか無理だ…と、無力感にとらわれるかもしれません。確かにそれは、自らのがんばり、肉の力では達成不可能です。そして主は、もちろんそのことをご存じなのです。主イエスは「完全でありなさい」と言われましたが、それは「全き者であれ」ということです。申命記18章13節には「あなたは、あなたの神、主のもとで全きものでなければならない」とあり、聖書協会共同訳ではそこを、「あなたは、あなたの神、主と共にあって、全き者でなければならない」と訳しています。つまり主イエスは、あなたがたは、天の父が完全なように、「わたしにあって」完全であれ…わたしがあなたがたを完き者にするのだ…と言われたのです。私たちが主のもとにいなければ、主がともにいてくださらなければ、主によって変えられなければ、私たちは不完全のままなのです。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない…と言われた主のことばが思い起こされます(ヨハ15:5)。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。主は十字架上でそれを実行されました(ルカ23:34)。迫害されて人々から石を投げつけられたステパノもまた、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と叫びつつ、主のもとに召されました(使徒7:60)。彼は、主から離れなかったから、主がともにいてくださったから、主イエスの御霊に満たされていたからこそ、そのように、みことばに従う者、全き者であることができたのです。主にある全き者とは、自分の感情によって歩むことなく、主のみことばに自らを従わせて歩む者であり、その中で、御霊なる主の働きにより、主の似姿へと変えられるのです(2コリ3:18)。そのことを覚え、ますます主にしっかりととどまり、自らを明け渡す者でありたいと思います。

主を待ち望むことができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章33-42節◇(1月10日)

「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」…マタイ5:36

主イエスは、「誓い」について、「偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ」という旧約聖書のみことば(レビ19:12,民30:2)を引用しつつ、当時の人々が行っていた誤ったあり方を指摘し、神のみこころを正しく理解するようにと弟子たちに教えられました。その頃、34-36節の主のことばにあるように、人々は天、地、エルサレム、自分の頭にかけて誓っていましたが、たとえその誓いが果たせなくても、主の前に誓ったのでないから咎められることはない、とする人間的な考え、偽善的な「誓い」が、平気でまかり通っていたのです。もとより、主がみことばによって定められた誓いとは、人が何かを目指すときの自らのがんばりや努力について、「決意表明」をするためのものではありません。もしも誓いがそのように、真剣に取り組む、一生懸命やるという姿勢を、単に人々に対してアピールするものであるなら、それは、神の主権を認めず、自分の考えで物事を決め、人間の持つ力を発揮して事を成し遂げようとする、神不在の誤ったあり方なのです。そしてそれはもちろん、神が喜ばれるあり方、みこころではないのです。「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです」(37節)。世においては「宣誓」することがしばしば好意的に受けとめられますが、そもそもそれは、何にかけての誓いなのか、それをどうやって果たすのか…誓いの本来の意味を正しく理解するなら、私たちは軽々しく誓うことなどできなくなるのです。そして、「主よ、あなたのみこころがこの地に、私のうちになされますように…」と、主の前にへりくだり、主を待ち望む者となるのです。自ら発したことばを、そのとおりに実現するのは、この世界を造られ、今も主権をもってすべてを統べ治めておられる神以外にはないことを覚え、ますますその主に拠り頼んで歩みたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章21-32節◇(1月9日)

「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」…マタイ5:28

21節に「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」とありますが、これは、神がモーセを通してご自身の民に与えられた、十戒にも含まれている律法です。主イエスは、それをよく知っている弟子たちに対し、そのような行為に及ばなくても、兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれ、「愚か者」と言う者はゲヘナに投げ込まれると告げられました(22節)。現代においても、そのようなことばで人を侮辱するなら、ハラスメント行為として訴えられることもあり得ますが、主イエスが問題にしているのはもっと本質的なことです。すなわち、そのようなことを言う者の心の中にあるものを主イエスは指摘し、非難しておられるのです。「ばか者」、「愚か者」と言って兄弟を侮辱する者は、自分は相手よりも賢く、分別があり、優れていると考えて誇っています。相手を見下しています。しかし、そのような高慢な思い、優越心は神に喜ばれるものではないのです。そのような者は、自分には知恵も誇れるものもなく、神の前では無に等しい者であるかがわかっていないのであって、それはまさに「愚か者」の姿なのです。28節のことばは良く知られています。主イエスはそこでも、私たちの心の中に何があるかを問うておられます。この世においては、どんなに情欲を抱いて女性を見ても、犯罪となる行為に発展しなければ、そのこと自体が罪に問われることはありません。しかし主は、そのような者は心の中ですでに姦淫を犯したのだと指摘されたのです。情欲そのものをなくすことはできませんが、それを当然のものとして持ち続け、心が支配されてしまうあり方を主は非難しているのです。そして、自分の弱さをわきまえ知り、ご自身に守りと助けを祈り求める者となるよう、主は願っておられるのです。そのようなへりくだった者、主に喜ばれる者として、歩み続けたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 5章11-20節◇(1月8日)

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」…マタイ5:16

「あなたがたは地の塩です」(13節)、「あなたがたは世の光です」(14節)。主イエスは、天においてあなたがたの報いは大きいのだから、人々から迫害されても大いに喜べ…と語られた後、そのように弟子たちに告げました。塩には殺菌・防腐作用があります。塩が塩けをなくしたら何の役にも立たない…と主イエスは言われましたが(13節)、この世は、その塩の存在によってきよめられ、腐敗が防がれるのです。そして神の国が拡がっていくのです。また、光はやみを照らして明るくすることができます。この世のやみはその光に打ち勝てないのです(ヨハ1:5)。私たち自身は光ではありませんが、キリストの光を、鏡のように照り輝かす存在として用いられるのです。明かりは隠れたところに置くのではなく、燭台の上に置かなければならない…と主は言われましたが(15節)、明かりは全体を照らす場所にきちんと置かれるべきなのです。16節に「良い行い」とありますが、それは、人々が実際に目で見ることができるものであり、それによって、天におられる父があがめられるようになるものです。その「良い行い」とは、聖徒たちが人々の前で輝かせる光であって、神のみこころ、すなわち、主から戒め、律法として与えられている神の教えであり、それは何よりも、律法を成就するために来られたキリストを愛し、キリストに倣い、自らを低くして、神と人々とに忠実に仕える、そのような生き方を意味しているのです。聖徒たちは、天に国籍を持つ者です。天の故郷に憧れ、そこに向って歩んでいる者たちです。そこでの神からの報いを待ち望んでいるのです。私たちは、そのように、地上的なことにとらわれず、常に永遠に思いを馳せることが大切なのです。塩けをなくさず、鏡を曇らせず、良い行いをなし続ける者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 4章12-25節◇(1月6日)

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」…マタイ4:23

主イエスは、バプテスマのヨハネが捕らえられことを知り、ガリラヤに退かれました。しかしそれは、自分の身を守るためではなく、それまで先駆者としての働きをしていたヨハネと交代するようにして、人々の前でいよいよ公に宣教を始めるためでした。その第一声は、ヨハネが語っていたのと同じく、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」ということばであったのです(17節)。そのようにしてガリラヤから始まった主イエスの宣教を、マタイはイザヤの預言の成就だと記し、その預言を引用していますが、そこには「異邦人のガリラヤ」とあります(15節)。その地方は異国のシリアやフェニキアと国境を接しており、かつてアッシリアによって占領され、彼らの一部が移住していたところであり、そのことから、ユダヤの同胞から軽蔑されていた場所です。そしてイザヤは、その地の民について、「闇の中に住んでいた…死の陰の地に住んでいた」と表現しているのです(16節)。しかしイザヤはまた、その民は大きな光を見、その者たちの上に光が昇ると告げました。マタイはそのことを強調すべく、イザヤ書9章2節のみことばを記しているのです。その光とはイエス・キリストです。イザヤ書9章1節には「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。…異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける」とありますが、実際に主イエスがガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、病気の人々に触れると、民の中にあったあらゆる病とわずらいは癒され、彼らは、痛みによる苦しみや悪霊の縛りからも解放されたのです(24節)。軽蔑され、荒廃し、異邦人の影響を受けていた地、ガリラヤ…。そこにはまた、ナザレという、イエスが育った町がありました。そこからガリラヤ湖畔のカペナウムに移り住み、宣教を始め、御国の到来を告げ、その現れとしてのみわざをなされた主イエス…。そのことの背後にある、神の豊かな恵みとあわれみを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 4章1-11節◇(1月5日)

「そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」」…マタイ4:11

ヨハネからバプテスマを受けられた主イエスは、悪魔の試み(別訳「誘惑」)を受けるために、御霊に導かれて荒野に上られました。そしてそれは、予期せぬことでなく、悪魔の挑戦を受けて立つ決意をし、自らの意志で、御霊の促しのうちに、荒野へと進んで行ったことを意味しています。その期間は40日という決して短くない長さでしたが、主イエスは断食をし、父なる神との親密な交わりを持ちつつ、その時を過ごしていたのです。その期間を終えて主イエスが空腹を覚えた時、試みる者、すなわち悪魔がやって来て、あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じよ、と誘惑しました。それは、肉の欲求を満たすために神としての力を発揮せよ、というサタンの促しでしたが、神のみこころは、何よりも、物質的な食物以上に、みことばを糧としてたましいが養われることであり、主イエスはそれを、申命記のことば(8:3)を引用して指摘し、その誘惑を退けたのです。2つ目の試みでは、サタンもみことばを引用しました。しかしそれは、自分の都合に合わせてことばを解釈し、自分の主張の正当化のためにみことばを持ち出す「悪用」です。そしてそれは、現代においても見られることであり、もちろん正しいあり方ではないのです。聖書全体から神の御旨を知ることの大切さを教えられます。3つ目の試みに、サタンの最大の願いが表されています。それは自分が人々から礼拝される存在になることです。「ひれ伏して私を拝むなら」ということばのとおりです。偶像の神を人々が参拝している背後で、サタンがほくそ笑んでいることを忘れてはなりません。そしてそのサタンに主イエスは、神である主を礼拝せよ、主にのみ仕えよとあると、そこでも申命記のことば(6:13)をつきつけて退けたのです。私たちもまた、この世のもの、また自らの力に拠り頼むことなく、主にのみ仕え、主を待ち望み、みことばを剣として悪魔に勝利したいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 3章◇(1月4日)

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」…マタイ3:8

バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で教えを宣べ伝え、人々に悔い改めのバプテスマを授けていましたが、そこに、パリサイ人やサドカイ人が大勢でやって来て、自分たちもバプテスマを受けようとしました。彼らは、自分たちの先祖はアブラハムであって、神の祝福を受けている特別な民であり、しかも、宗教指導者である自分たちはモーセの律法に誰よりも精通し、それを厳格に守っているので、悔い改めのバプテスマなど受ける必要がない…と考えていました。しかし、人々がみな、ヨハネを預言者として認め、彼からバプテスマを受けているのを見て、受けずに批判されるのは避けたいと考えたのです。一方、主イエスも、ヨハネからバプテスマを受けようとして、ガリラヤから彼のところに来られ、イエスがメシアであると悟ったヨハネがバプテスマを授けるのを固辞しようとすると、それは正しいこと、神のみこころであり、ふさわしいことなのだと言って説得し、彼からバプテスを受けられました。ヨハネが言っていたように、主イエスこそ、聖霊と火のバプテスマを授ける方であり、ヨハネはそのメシアの先駆者として道備えをするために、水による悔い改めのバプテスマを授けていたのです。ヨハネは、パリサイ人たちの偽善を見抜き、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと批判しました。特権意識を持ち、悔い改めることは不要と考えつつ、人の目を気にして、形にこだわった彼らの受洗…。一方、神の子であり、悔い改める必要は本来ないにもかかわらず、神のみこころに従った、忠実なしもべであるイエスの受洗…。マタイはその両者を対比させてここで描いているのです。では私たちはどうでしょうか…。洗礼を受けて聖徒となった…毎週の礼拝に欠かさず集い、献金もしている…。そのことを誇るような者であるなら、本質的にパリサイ人たちと同じです。しかし私たちには、日々悔い改め、聖徒としてふさわしい実を結ぶことが求められているのです。そのような者として、歩み続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇37篇23-40節◇(1月3日)

「主を待ち望め。主の道を守れ。主はあなたを高く上げ 地を受け継がせてくださる。あなたは悪しき者どもが断ち切られるのを見る。」…詩篇37:34

後半においても、正しい人と悪しき者が受ける主からの報いが、いかに異なったものであるかが、対比して語られています。特に、悪しき者が「断ち切られる」(28,34,38節)、「彼は過ぎ去った…もういない」(36節)と、前半同様に、彼らの存在そのものの消滅が告げられており、それは終末における神の審判を暗示しているのです。一方、正しい人が受ける主からの報いとは、その歩みが主に喜ばれ確かにされ(23節)、さまざまな苦難の中にあっても支えられ(24節)、乏しくなることなく養われ満たされ(25節)、悪しき者から守られ、救われ、永遠の未来がもたらされるという(37-40節)、豊かな祝福なのです。その正しい人とは、何よりも、神を畏れ、神のみことばを慕い求め、その心に神のみおしえがある人であり(31節)、その歩みはよろけることがなく、地を受け継ぐ者とされるのです。それに対して悪しき者とは、神を侮り、神に背き、そのみおしえに従わない者であって、主に退けられ、ことごとく滅ぼされてしまうのです(38節)。「悪を離れて善を行え」(27節)。「主を待ち望め。主の道を守れ」(34節)。「全き人に目を留め直ぐな人を見よ」(37節)。そのように詩人は読者に命じています。主イエスは弟子たちにこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハ16:33)。私たちの苦難の背後には、しばしば悪しき者が働いていますが、主は、今を生きる私たちにもそのように語っておられるのです。悪しき者たちによって殺され、しかし死からよみがえられ、悪魔に勝利された全き人キリストに目を留め、その主の教えに聞き従って歩む者、悪を離れて善を行う者、神のみこころをなす者でありたいと思います。

日々の歩みが主によって確かにされますように。

◇聖書箇所: 詩篇37篇1-22節◇(1月2日)

「悪を行う者に腹を立てるな。 不正を行う者にねたみを起こすな。 彼らは草のようにたちまちしおれ 青草のように枯れるのだから。」…詩篇37:1-2

詩人はこの詩篇において、悪しき者と正しい者との違いについて取り上げており、前半の1-22節でも、両者のあり方とその結果、すなわち、主の報いがどのようであるかを対比的に描いています。1-8節では、悪を行う者に対して怒ることをやめ、憤りを捨てよ、と命じられていますが、それは、言うまでもなく、正しい者、善を行う者に対してのことばです。1節には「不正を行う者にねたみを起こすな」とありますが、誠実に歩んでいる者は、悪しき者が自分をあざ笑うかのように、悪を行い、のさばり、栄えているのを見て、「正直者がばかを見る」ことになるのに反発し、それまでの正しいあり方を、ともすれば投げ出したくなるのです。しかし詩人は、そのことをいさめるべく、悪しき者の悪も不正も、すべて主によって知られており、主は必ずそれにふさわしい報いをされる、と告げています。2節には主によって彼らの存在がなくなるとあり、そのように彼らが取り去られることは、後の節でも語られています。「もうしばらくで 悪しき者はいなくなる。その居所を調べても そこにはいない」(10節)。「悪しき者は滅びる…彼らは消え失せる。煙となって消え失せる」(20節)。だから、そのことが明らかにされているのだから、悪しき者から主に目を転じて生きよ、と詩人は命じるのです。「主に信頼し 善を行え。地に住み 誠実を養え」(3節)。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(5節)と。「ゆだねる」とは、全面的に任せるということであり、怒りやねたみや焦りなどの感情も含めて、すべてを主に明け渡すということです。悪しき者を自分でさばくのをやめて、必要を満たし、祝福を与えてくださる主にますます信頼し、主のみこころ、善を行い、誠実に歩み続ける者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。