◇聖書箇所: 詩編 40篇◇(2月29日)

「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。 あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。」…詩編40:8

「巻物の書に私のことが書いてあります」(7節)。詩人はそのように言っています。巻物の書とは、律法や預言者の書、つまり旧約聖書の神のことばのことです。では、そこに「私のことが書いてある」とはどういう意味なのでしょうか…。それは、神がご自身の、また預言者のことばをもって、人々のさまざまな罪を指摘し、そこからの救いの道を示し、ご自身に従う者、信頼する者の祝福を約束されており、それが昔の人々に対する、自分とは無関係のことではなくて、ほかでもないこの私のことなんだ…と、詩人がはっきり受けとめたということです。詩人はさらにこう告白しています。「わが神よ 私はあなたのみこころを行うことを喜びとします」。詩人にとっての喜びは、主のみこころ、すなわち、主が願っておられること、主が喜ばれることを行なうことだったのです。詩人の喜びとは、主ご自身の喜びであったのです。「あなたのみおしえは私の心のうちにあります」。神のみおしえは巻物の中だけにではなく、自分の心の中にも移されていて、それによって心が満たされ、占領され、支配されていると言うのです。そしてそれは、詩人の心が主によって開かれて、そのようにされたのです。私たちは心の中にいくつも部屋を持ち、扉を備え、それを容易に開けようとはしません。ともすればその部屋に主さえも入れようとしないのです。そこには人には知られたくないものや、これだけは渡せないという自分の信念やこだわりがしまってあるのです。しかし、それらをすべて主に明け渡し、みことばによってそこが満たされるようにするなら、私たちの思いもまた主に支配され、主のみこころ、主のみおしえに、全き従順をもって従う者とされるのです。そしてその心には感謝と喜びと平安が満ちるのです。心の部屋の扉をすべて開け放ち、主をお迎えし、みことばで満たしていただきたいと願います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: 詩編 39篇◇(2月28日)

「主よ 私の祈りを聞いてください。 助けを求める叫びに 耳を傾けてください。 私の涙に 黙っていないでください…」…詩編39:12

「私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう」(1節)。詩人はそのように言って沈黙を守りました。自らが置かれている苦難の中で、口を開けば、悪者に対するののしりや神への不平不満がつい出てしまう…。そうならないために、動物のように口輪をはめようとしたのです。しかし、人のことばは心の思いの表れであり、そのようにして抑えつけることはできないのです(3節)。口輪をはずした詩人は主に尋ねました。残された自分の地上の歩みはあとどのくらいなのか…。人の一生など実にはかないものではないか…。どんなにがんばって富を築いて財を蓄えたとしても、死んだら結局、それは誰かのものになってしまうのだ…と(4-6節)。「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか」(伝道者1:2-3)。詩人は、まさにそのような思いになっていたのです。しかし、そのように主に訴える中で、詩人の思いは変えられていきました。「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。私の望み それはあなたです」(7節)。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と伝道者の書にあるとおり(伝12:13)、たとえ人生がむなしく、はかないもののように思えたとしても、神が一人ひとりにいのちを与えて生かしてくださっているのです。そして、主を信じ、畏れ、主に拠り頼む聖徒たちにとって、この地上での歩みがすべてではないのです。その歩みは旅人、寄留者としてのものであり(12節)、目指すべき目的地、天の故郷にあこがれて進むのです(ヘブ11:16)。詩人は、口輪をして沈黙することは愚かだと知りました。そして自らの口は、疑問を主にぶつけ、自らの考えを並べ立てるためではなく、主に祈りをささげ、助けを求めるため、また、いつもともにおられ、守り導いてくださる主を、賛美するためのものだと示されたのです。そのことを私たちも覚え、そのようにしたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 詩編 38篇◇(2月27日)

「まことに主よ あなたを私は待ち望んでいます。 わが神 主よ あなたが私に答えてくださいます。」…詩編38:15

「主よ あなたの激しい怒りで私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで私を懲らしめないでください」。詩人は深い嘆きと悲しみの中にいました。それは、自らの罪と咎が大きく、それに押し潰されそうになり、何よりも、主が激しい怒りをもって、自分を懲らしめようとしていると感じていたからです。「あなたの矢が私に突き刺さり 御手が私に激しく下りました」(2節)と語る詩人は、身もたましいも、ぼろぼろであったのです。そのように、深くうなだれて一日中嘆いている詩人を、家族や友人のような近しい者たちは、遠巻きにして見ているだけでした。だれも詩人に寄り添おうとはしないのです。そればかりか、それに追い打ちをかけるかのように、詩人に敵対心を持つ者たちは、その状況に乗じて、詩人のいのちとわざわいを求めて罠を仕掛け、破滅を告げたのです。すなわち、罪人には救いなどないと、事実とは異なる、欺き、偽りのことばを投げつけたのです。「しかし 私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように」(13節)。詩人が、そのように、四面楚歌の状況に置かれてもなお、神への望みを抱いていることに心が留まります。自らの罪を言い表して赦しを求める者を主は拒まず、それに答え、罪を赦してくださる、縄目から解き放ってくださると信じ、告白しているのです(15節)。詩人は、責め立てる者のことばに耳を貸そうとはせず、それに反論して言い争おうともしないのです。ただ善を、主のみこころを、主が求めておられる正しい道を、追い求めているのです(20節)。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(1ヨハ1:8-9)。私たちも、絶えず主に立ち返り、赦しと解放を受け取りたいと思います。

救いの喜びが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 22章15-22節◇(2月26日)

「そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」」…マタイ22:21

パリサイ人たちは、自分たちの弟子をイエスのもとに遣わし、「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と尋ねさせました。彼らは、イエスがかなっていると答えれば、異邦人への納税を是認したとして民衆の批判を浴びるようになることを期待し、かなっていないと答えるなら、ローマ皇帝への反逆者として当局に訴えるつもりでした。つまりそれは、イエスを窮地に陥れるための罠であったのです。ところが、悪意に満ちたその質問に対する主イエスの答えは、彼らの意表を突くものでした。彼らの思いを見抜いておられた主は、カエサルの肖像と銘が入った当時の通貨であるデナリ銀貨を持って来させ、それらがだれを表わしているかと尋ね、「カエサルのです」と彼らが答えると、それならそれはカエサルに返せ、しかし神のものは神に返せ、と言われたのです。つまりそれは、税は国の統治者であるカエサルにきちんと納めるべきであり、一方、神から受けている恵みに対しては、献金として神にささげるべきだ、ということです。それを聞いたパリサイ人たちは、主イエスの見事な答えに驚嘆し、すごすごとその場を立ち去りました。主イエスの答え、それは、絶大な権力を持つローマ皇帝であっても、あくまでも神の主権のもとでその存在が認められ、必要なものとして立てられている、ということを示しています。パウロも「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」と言っていますが(ロマ13:1)、まさにそのとおりなのです。私たちは、神が立てられた権威によって保たれている、社会の秩序や安全の中で暮らすことができていますが、そのことを覚え、感謝しつつ、置かれたところで、上に立つ権威に従い、仕えるべきなのです。それが神のみこころであり、同時に、神に従い、仕えることになるからです。そのような者として歩んでいきたいと思います。

忠実な主のしもべとされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章33-46節◇(2月24日)

「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」…マタイ21:43

主イエスは、祭司長たちやパリサイ人たちに、もう一つのたとえを話されました。それは、ぶどう園の主人が農夫たちを雇い、自分の収穫を受けようとしもべたちを遣わすと、農夫たちがそのしもべたちを殺したり傷を負わせたため、自分の息子なら…と主人が考えて彼を遣わすと、彼らは彼の受け取る相続財産を横取りしようとし、その息子までも殺してしまった…という内容でした。たとえを話した後、祭司長たちやパリサイ人たちに、主人はその農夫たちをどうすると思うか、とイエスが尋ねると、彼らは、その悪者どもを情け容赦なく滅ぼし、ぶどう園を別の農夫たちに貸すでしょう、と答えました。すると主イエスは、彼らのその答えには何も言及せず、さらに詩編118篇22-23節のみことばを語り、その後、神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられる…この石の上に落ちる人は砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶす…と、彼らに告げられたのです。そのように言われて彼らは、2つのたとえや引用されたみことばは、すべて自分たちを指しているのだということに、ようやく気づきました。主イエスが語られたたとえは、預言でもありました。そこでの主人は父なる神、息子は主イエス、しもべたちは預言者、ぶどう園はイスラエル、そして悪い農夫たちは祭司長たちやパリサイ人を表わしていますが、実際に彼らは、神が遣わされた御子であるイエスを十字架にかけて殺すことになるのであり、彼らは神の国の祝福を失い、キリストを救い主と信じてそう告白する者が代わりに、神の国の祝福にあずかり、実を結ぶ者とされるのです。悪い農夫にたとえられたイスラエルの宗教指導者たちは、自分たちが神の国に一番近い者だと考えていましたが、そのようなおごり高ぶった心は、要の石によってぺちゃんこにされるのです。そのことを覚え、ますますへりくだって歩み、実を豊かに結ぶ者でありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章23-32節◇(2月23日)

「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」」…マタイ21:31

今日の箇所の後半にある主イエスが語られたたとえでは、父からぶどう園に行って働いてくれと頼まれた息子のうち、兄のほうが最初は断ったのに後になって行き、弟の方が行くと答えたのに結局行かなかったとありますが、なぜか新改訳3版ではその兄と弟が入れ替わっています。いずれにしても、このたとえで主が強調されているのは、「思い直して向きを変える」ことの大切さです。29節で「思い直し」と訳されている原語の意味は「心を変える」であり、32節でも使われているそのことばを新改訳3版では、「あとになって悔いる」と訳しています。主イエスはたとえを語った後、取税人たちや遊女たちを罪人だとする祭司長たちに対して、兄と弟のどちらが父の願いどおりにしたか…と尋ねると、彼らは兄だと答えました。すると主は、そのように思い直してやり直した者、あなたがたが罪人だとする者たちが、あなたがたより先に神の国に入るのだ、と彼らに言われたのです。「ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じた…あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じ」ようとはしなかったと、主は祭司長たちを非難しました(32節)。バプテスマのヨハネが人々に語ったメッセージ、主が宣教を開始されて最初に語られたメッセージ、それはどちらも、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。ヨハネが来て示した義の道とはすなわち、悔い改めて神に立ち返る道であり、それは、キリストがもたらされた神の国に入る道にほかならないのです。神の国がすでに来ているのに入ろうとしなかった祭司長たち…。神の国から遠い歩みをしていたのに悔い改め、そこに入る恵みにあずかった取税人たちや遊女たち…。ここではその両者が対比されています。そして、どちらの者になるのか…と、私たちも尋ねられているのです。天の父のみこころを歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章12-22節◇(2月22日)

「…『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」…マタイ21:16

主イエスは、エルサレムにある主の宮、すなわち神殿に入られましたが、そこで金儲けのための商売をしている者たちがいるのを見られると憤り、彼らをみなそこから追い出し、彼らが使っていた台や腰掛けを片っ端から倒されました。そして彼らに対し、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書いてあるのに、おまえたちはそこを強盗の巣にしているではないか…と、イザヤ書のみことばを引用して(イザ56:7)強く非難されたのです。一方、祭司長や律法学者たちは、イエスが人々に注目され、子どもたちもが「ダビデの子にホサナ」と、賛美の声を上げていることに腹を立てました。宗教指導者であった彼らは、だれよりも自分たちこそ、人々からの尊敬を受けるべき存在だと自負していたからです。また「ダビデの子」とはメシアを意味することばであり、それを認めることは神への冒瀆である…と考えたからです。彼らは、そのことばを聞いたかと、イエスに詰問しました。すると主は、もちろん聞いている…ところであなたがたは詩編に、「幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました」とあるのを読んだことがないのか、とみことばに精通しているはずの彼らに、皮肉たっぷりに尋ねられたのです。それに対して彼らは、何も反論することができませんでした。主イエスが語られたのは詩篇8篇2節のみことばですが、その後半には、「あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために」と書かれています。主の敵である祭司長たち、その背後で働く悪魔を黙らせるのは、幼子たちの口による神への賛美であり、乳飲み子さえもそこに加えられているのです。エルサレム入城の際に人々の歓声を受けた主は「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」とも言われました(ルカ19:40)。そのように被造物がみな「イエスは主」と告白することが主のみこころなのです。私たちは率先してそうしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 21章1-11節(2月21日)

「「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」」…マタイ21:5

主イエスの一行がエルサレム近郊の町ベテパゲに来たとき、主は弟子たちに、向こうの村にろばと子ろばがつながれているので、それをほどいてわたしのところに連れて来なさい、と命じられました。マタイは、そのことが、預言のことばの成就である、と記しています(4節)。その預言とは、ゼカリヤによるものであり、そこには、エルサレムに対して、喜び叫べ、あなたの王があなたのところに来るからだ、その王は、義なる者、勝利を得る者、柔和な(別訳「へりくだった」)者であり、雌ろばの子のろばに乗って来る…と書かれています(ゼカ9:9)。弟子たちが主に言われたとおりにろばを連れて来て、自分たちの上着をろばの背中に掛けると、主はその上に乗られ、エルサレムの町へと進んで行かれました。すると、非常に多くの群衆が、自分たちの上着や切った木の枝を道に敷き、一緒に行進しながら、「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に…」と言って叫んだのです。「ホサナ」とは元々「救ってください」という意味を持つものですが、それが転じて、神を賛美する叫びとなったことばです。しかしマタイは、人々はイエスをメシアだと認めていたわけではなく、イエスを預言者だとしていたと記しています(11節)。主イエスはエルサレムに入られましたが、立派な馬に乗ってではありませんでした。本来は荷物を載せるろばに、しかも子ろばに乗られたのです。そしてそれは、主イエスが平和の君として来られたお方であり、イスラエルの国をローマから解放する政治的な王ではなく、すべての人を罪の奴隷から解放するために来られたメシア、御国の王であったからなのです。その王は、罪のない義なる者、死と悪魔に勝利する者、へりくだって神の御旨に従い通されたお方なのです。そのことを覚えつつ、ホサナ、われらの王に、ホサナ、いと高き所に…と、主イエスの御前で喜び叫び、賛美を主にささげたいと思います。

感謝と喜びが絶えずありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 20章17-34節(2月20日)

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」…マタイ20:27-28

主イエスは、エルサレムに向かう途中、弟子たちに、ご自分が十字架につけて殺され、葬られ、3日目に死からよみがえということを話されました。するとそこに、すでに弟子となっていた、ゼベダイの息子であるヤコブとヨハネの母が二人とともにイエスの前にひれ伏し、天の御国においてこの息子たちが、あなたの右と左に座れるということばがほしい、すなわち、あなたに次ぐ地位につけることを約束してほしいと願ったのです。それに対して主は、あなたがたは私の飲む杯を飲めるのか…もしできるとしても、だれが私の左右に座るかは、天の父が決めることだ…と言われました。自分の息子たちのためにそのような行動に出た母…それに平気で加わった主の弟子ヤコブとヨハネ…彼らが天の御国も地上と同じであると考え、そこでの地位を確保しようとしたこと…。そこに現わされている人間的な考えや自己中心性に対し、主イエスは、あきれ、情けない思いになったことでしょう。しかもそれは、ご自身の受難を予告された直後のことだったのです。主は、二人に腹を立てた残りの弟子に言われました。偉くなりたいと思う者は皆に仕える者になれ…人の先に立ちたいと願うなら皆のしもべになれ…。そして、自分のいのちを多くの人の贖いの代価とするわたしに倣ってあなたがたも生きよ…と命じられたのです。「…主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」(使徒20:35)。仕えられるよりも仕える者となる…受けるよりも与える者となる…。主イエスのことばをしっかりと受けとめ、私たちもますますそのような者とされたいと願います。

主のみこころのうちを歩むことができますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 20章1-16節◇(2月19日)

「このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」…マタイ20:16

主イエスは弟子たちに、天の御国について、ぶどう園の主人に雇われた者への賃金のたとえによって教えられました。それによれば、主人は、1日1デナリの賃金を約束して早朝から労働者を雇い、さらに9時、12時、午後3時、5時にも同じ条件で働く者を雇い、6時になってその日の仕事が終わると、すべての者に等しく賃金を支払いました。すると最初からの者たちは、なぜ自分たちの賃金が最後の者と同じなのか…と、主人に文句を言ったのです。主人は彼らに答えました。あなたは1デナリの賃金に同意して働いたのであり、約束どおり私はそれを支払ったではないか…自分のものをどうするか決めるのは私自身なのだ…と。そしてさらに、あなたは私が気前がいいので、他の者たちを妬んでいるのではないのか…と、主人は、文句を言った最初の者たちを逆に非難したのです。弟子たちはおそらく、そのたとえを聞いて、もし自分が早朝から働いた者たちであったらどうしたか…と考えたことでしょう。そして、たとえ口に出さなくても、自分も同じように「不公平だ」と不満に思っただろう…と、そのような自らの心のうちを見せられたに違いありません。しかしそれは、多く働いた者が多くの報いを受けるのは当然だとする、因果応報の考え、この世の価値観であって、それは天の御国には相容れないということを、主は弟子たちに教えようとされたのです。神の国の報いは、幼い頃から救いを受けて歩む者にも、死の間際で信仰を告白して救われる者にも等しいのです。また、主のご計画の中で先に救われた異邦人たちにも、そのことを通して後から救われるユダヤ人たちにも等しいのです(ロマ11:11)。主は朝から汗水流して働いた者の労苦を知っておられ、仕事を待ち続けた者の心の痛みをも知っておられるのです。「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」。恵みとあわれみに満ちておられる主のそのこころを覚え、感謝をささげる者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 19章1-15節◇(2月17日)

「あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」…マタイ19:9

主イエスへのパリサイ人たちの質問…それは、何か理由があれば妻を離別することは律法にかなうのかという、申命記24章1-4節にある教えについてでした。そこには、「…妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離婚状を書いて…」と書かれています。律法の専門家である彼らはもちろんそれを知っていましたが、あえて「何か理由があれば」と拡大解釈をしてイエスに質問をぶつけ、それにどう答えるのかを試みたのです。それに対して主イエスは、創世記2章24節のみことばを引用し、神は人を男性と女性に造られた…そのふたりが一体となることは神のみこころであり、神が結び合わせたものを人が引き離してはならない、つまり、不貞を働くようであってはならない…。それなのに、妻が意図的に不倫をして姦淫の罪を犯すなら、離縁状を渡して離縁するという申命記の教えに従うのは、理にかなっていることなのだ、「何か理由があれば」妻を離別できるのではないのだ…と、パリサイ人たちに明確に答えられました。一方、そのやり取りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスのことばから、結婚が神の前に真実であるべきであることをあらためて教えられ、同時に、それを貫くことの困難さを思わされ、だったら最初から結婚しない方がましだ、独身を通したほうがいい…と、人間的な思いを持ち、別な意味で律法を誤って解釈しようとしたのです。すると主は、それが許されている人、神のみこころによりそれがふさわしいとされた者たちだけがそうなるのだ…と、正しく理解するよう彼らに促しました(10-12節)。自分の考えにより、みことばを拡大解釈しようとする…、あるいは、表面的にみことばを読み、「文字」に縛られて真意を正しく理解しようとしない…。もちろんそれらは、正しい聖書の読み方ではありません。主はみことばを通して何を語っておられるのか、主の御思いは何か、主の前に静まり、御霊の啓示を常に求めたいと思います。

主のみこころを行なう者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 18章15-35節◇(2月16日)

「そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』」…マタイ18:32-33

主イエスは弟子たちに、仲間の兄弟が自分に対して罪を犯したとき、どのようにそのことを伝えるべきかを教えられました(15-17節)が、ペテロは、それに関連して、その場合、何回赦すべきなのか、とイエスに尋ねました。すると主は、7回を70倍するまで、つまり、数え切れないほど徹底的に相手を赦しなさいと教えられたのです。さらに主は、天の御国のたとえとして、自分の家来の負債を免除する王について話されました。その王は、清算をするために1万タラント(6千億円)の負債のある者を呼んで返済を求め、それが出来ないと知ると、自分自身や妻子や持ち物すべてを売って返済せよと迫りましたが、猶予をもらえれば返済すると彼が言ったので、かわいそうに思い、その負債を全額免除してやったのです。ところがその家来は、自分が百デナリ(百万円)、つまり王への自分の負債の60万分の1の額を貸している仲間の者の首を絞めて返済を求め、猶予の嘆願を無視して牢に入れました。するとそれを聞いた主君は、逆の立場になったその家来が、自分が王から受けた破格の扱いを忘れ、仲間をあわれもうとしなかったことに腹を立て、負債の免除を撤回し、全額返済するまで彼を牢に入れたのです。百デナリの借りを赦そうとしない、心が頑なな王の家来…それは私たちのことです。些細なことで他者を責め、赦せない、絶対忘れない…と、赦そうとはしないのです。しかし私たちは、返済不可能な負債を免除された者です。たとえの中の王とは、十字架にかかって血を流し、いのちを代価として支払い、私たちの罪の負債を帳消しにされた主イエスなのです。罪深いこの私を、愛とあわれみに満ちた主は一方的に赦してくださった…。その破格の扱い、驚くばかりの恵みを忘れることなく、日々十字架を仰ぎ、あわれみの心を持つ者とされたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 18章1-14節◇(2月15日)

「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」…マタイ18:3

弟子たちは主イエスに、天の御国ではだれが一番偉いのか、と質問しました。おそらく、主が、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて高い山に登ったことに対して、嫉妬したり、不満に思ったりする者たちが起こり、弟子たちの中でそのような議論がなされていたのでしょう。彼らはそのように、天の御国をこの世の延長線上でとらえており、正しく理解していなかったのです。すると主イエスは、近くにいた一人の子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせて、「向きを変えて」(別訳:「悔い改めて」)、子どもたちのようにならなければ決して天の御国に入れない…と告げ、さらに、この子どものように自分を低くする人が天の御国で一番偉いのだ…と言われたのです。弟子たちは、主のその答えを聞いて、意表を突かれたことでしょう。彼らは、能力があり、行動力を持った者こそ、天の御国においても尊い存在だとされるに違いない…と、そのような世的な価値観を持っていました。それなのに主は、無力で未熟な子どもを呼び寄せて、この子のように自分を低くする者こそ一番偉いのだ…と言われたのです。「向きを変えて」ということばは、弟子たちがそうでなかったことを示唆しています。実際、彼らは、自分は他の者よりまさっているとうぬぼれ、それを確認したいがために、愚かな質問を主にぶつけたのです。「子どものように自分を低くする」とはどういう意味でしょうか…。主は「わたしを信じるこの小さい者たち」とも言われました。自分を低くするとは、自分を誇ったり、他者と比較したりすることなく、純粋に主イエスを信じ、慕い求め、主に聞き従う者となることなのです。ともすれば私たちも、この地上の価値観を教会や自分の信仰生活に持ち込もうとしたり、他者と自分を比較してしまいますが、常に自分を低くし、正しい向きに姿勢を変え、へりくだって歩む者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 17章14-27節◇(2月14日)

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」」…マタイ17:20

主イエスと3人の弟子たちが山から下りてくると、群衆の中から一人の人が近寄って来てイエスの御前にひざまずき、ひどいてんかんで苦しむ息子を癒してほしい…頼んでも弟子には治すことができなかった、と訴えました。すると主イエスは、「ああ、不信仰な曲がった時代だ…いつまであなたがたに我慢しなければならないのか…」と嘆き、息子を連れて来させ、その子のうちに働いていた悪霊を叱りつけて追い出し、病気を癒されたのです。その後、父親から無能ぶりを指摘された弟子たちは、ばつが悪そうに主イエスのもとにきて、なぜ自分たちは悪霊を追い出せず、癒せなかったのか…とそっと尋ねました。すると主は、あなたがたの信仰が薄いからだ…あなたがたにできないことは何もない、と告げられたのです。なぜ、山に登った3人以外の残った弟子たちは、主イエスから、病気を治し、悪霊を追い出す権威を与えられていたはずなのに、そうすることができなかったのでしょうか…。それは、いつもとは違う状況に置かれた彼らが、自分たちだけでできるのか…と不安になったからかもしれません。あるいはまた、与えられている天の御国の鍵を用いようとしなかった、すなわち、メシアであるイエスの御名を宣言して祈り、主の権威によって働きを行なう、ということをしなかったからかもしれません。「もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります」。病気を治す力も、悪霊を追い出す力も、弟子たち自身にはありません。しかし彼らが、それをなすことができる主イエスから与えられた権威を用いるなら、天の御国の鍵により解くなら、主ご自身がそのことをなしてくださるのです。そしてそれはからし種ほどの信仰から生まれるのです。どのような状況でもただ主に拠り頼みたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 17章1-13節◇(2月13日)

「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。」…マタイ17:5

主イエスは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちだけを連れて、高い山に登られました。すると、彼らの目の前で主イエスの御姿が突然変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。さらにそこに、なんとモーセとエリヤが現われて、主イエスと3人で何かについて語り合っていたのです。その光景を見たペテロは興奮して主に言いました。私たちがここにいることはすばらしいことです…私が3人のためにそれぞれの幕屋を造ります…。しかし、彼がまだそのことを話し終わらないうちに、余計なお世話だとその提案を退けるかのように、光り輝く雲が彼らをおおい、その雲の中から、「これはわたしの愛する子…彼の言うことを聞け」という神の声がしたのです。その出来事には、いったいどのような意味があったのでしょうか…。モーセは、神から授かった律法を民に伝えた人物です。またエリヤは、多くの預言者たちの代表と言える人物です。ユダヤ人にとって、「律法と預言者」という表現は旧約聖書全体を意味しますが、律法と預言者を象徴するその二人と主イエスが語り合っていたことは、旧約、つまり古い契約が、主イエスがもたらされた新しい契約、すなわち神の国の福音へと集約・統合されるということ、モーセとエリヤの役割が、主イエスに引き継がれるということを示すものであったのです。しかし弟子たちは、その霊的な意義を悟れなかったのです。「彼の言うことを聞け」。主は、ご自分は律法や預言者の廃棄ではなく成就するために来たと言われ(5:17)、心といのちと知性を尽くして主を愛せよという戒めと、隣人を自分自身のように愛せよという2つの戒めに、律法と預言者の全体がかかっていると言われました(22:40)。どのような時にも、神の御旨の完全な表われであるキリストのことばに、聞き従う者でありたいと思います。

霊の目と耳がさらに開かれますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 16章13-28節◇(2月12日)

「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」…マタイ16:19

主イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられると、シモン・ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。すると、主はペテロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と言われ、さらに、「あなたに天の御国の鍵を与えます」と約束されたのです。「この岩」とは何でしょうか。さまざまな解釈がありますが、文脈を素直に読んでいくなら、ペテロがイエスをキリストだとした告白であり、そのキリストご自身であると理解できます。では「天の御国の鍵」とは何でしょうか。それについて主は、ご自身をメシアだと認めて告白したペテロに対して「あなたに…与えます」と言われたのであり、そのことから、主はご自身が持っておられる主権を意味された、と理解することができるのです。主は弟子たちに「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るよう教えられました(6:10)。天と地が連動し、天におられる神の御旨が地上でも実現するようになる…それを可能とするのは、祈りです。私たちが、ペテロが告白したメシアが持つ主権、すなわち、イエス・キリストの御名の権威によって祈り求めるとき、その天の御国の鍵によって、地上で縛られているすべてのものを解くことができるのです。また、神に敵対する悪魔の働きを、封じ込められるようになるのです。それは、あらゆるものを解くことが可能なマスターキーであり、そのような鍵が私たちに与えられているのです。すぐには開かない、さび付いた門扉もあるかもしれません。しかし数回試しただけであきらめてしまうことなく、その鍵を使い続けるなら、祈り続けるなら、その門扉は必ず開かれるのです。縛られている鎖は解けるのです。私たちも「イエスは主、キリストです」と日々告白し、与えられている天の御国の鍵をもっと積極的に用いて、キリストの御名の権威により祈り求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 15章29-39節◇(2月10日)

「そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。」…マタイ15:36-37

ツロとシドンの地方からガリラヤに戻られた主イエスのもとに、またもや大勢の人々が病人を連れて来ました。すると、主がそれらの者たちを癒されたので、人々は驚き、イスラエルの神をあがめました。そのような状況は3日間続きましたが、主は、群衆が食べ物を持っておらず、空腹であることを知ってかわいそうに思われました。そして、弟子たちを呼び、このまま人々を帰らせて途中で動けなくなるといけない…と言われ、弟子たちに食べ物を用意させようとしたのです。ところが、主からそれを聞いた弟子たちは困惑しました。そして彼らは、「この人里離れてところで…たくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう」と言って、その困難さを主に訴えました。しかし彼らは、以前にも同じような状況の中で、主がなされた奇跡を目撃し、体験していたのです。そのことを思えば、心を騒がせることなく、持っていた7つのパンと小さいわずかな魚を、期待をもって主に差し出せばよかったのです。ではなぜ、弟子たちは以前の事を忘れてしまったのでしょうか…。おそらくそれは、大勢の群衆を目の前にして動揺し、また、世の常識や先入観にとらわれてしまったからです。しかし、自分たちの主がメシアであり、みわざをなし、必要を満たされる方であることを信じ切っていれば、そのようにはならなかったのです。その後、主は、パンと魚を祝福して群衆に与え、満腹させましたが、弟子たちはそれを人々に配って歩きながら、自分たちの信仰のなさを恥じ入ったに違いありません。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。どのような状況であっても心騒がせることなく、困難と思える中に介入し、必要を満たしてくださる主に拠り頼み、偉大な力とみわざの現われを待ち望む者でありたいと思います。

主への信仰が強められますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 15章21-28節◇(2月9日)

「しかし、彼女は言った。『主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。』」…マタイ15:27

主イエスと弟子たちは、ガリラヤよりさらに北の、地中海沿岸に位置する、ツロとシドンの地方を訪れました。群衆からしばし離れて、休息を得ようとしたのかもしれません。すると、一行の前に、そこに住むカナン人、つまり異邦人である一人の女性が進み出て、娘が悪霊につかれて苦しんでいるので、助けてほしいと願ったのです。しかし主は、それを無視し、一言も答えませんでした。すると彼女は、なおもあわれみを乞い、叫び続けました。そのようにしつこくつきまとわれることに閉口し、きっぱりと断って去らせてほしいと弟子たちが主に願うと、イエスは、自分はイスラエルの家の失われた羊たち以外には遣わされていない…と告げ、なおも必死になって追いすがる彼女に、子どもたちのパンを小犬にやるのは良くない…と、冷たく突き放して帰らせようとしたのです。ところが、彼女はそう言われてもひるまず、「そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と言い返しました。パン屑でもかまわないからそれにあずからせてくれと、食い下がったのです。その彼女の態度とことばに感心した主イエスは、「あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」と告げ、そのとき、彼女の娘から悪霊は出て行きました。主は、彼女の熱心さ、粘り強さに根負けしたのではありません。異邦人である彼女は、主イエスがイスラエルの家の牧者であり、その失われた羊たちのところに遣わされていることを認め、その上で、ユダヤ人へのパン、すなわち神の祝福は豊かであり、そのパン屑、おこぼれをいただきさえすれば、自分の娘は癒される…と受けとめたのです。そして主は、彼女のその「信仰」を立派だと褒めたのです。神の民、すなわち、主を信じ、求め、待ち望む者たちへの主の祝福が、いかに豊かで大きなものかをあらためて教えられます。そのことを覚え、私たちも、ますます主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 15章1-20節◇(2月8日)

「そこでイエスは彼らに答えられた。『なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。』」…マタイ15:3

エルサレムから主イエスのもとにやって来たパリサイ人や律法学者たちは、主イエスの弟子たちが手を洗わずにパンを食べているのを見ると、それは長老たちの言い伝えに反することだと言って、主イエスを非難しました。すると主は、その言い伝えが律法に基づくものではなく、彼らが勝手に作り出したものであることを知っていたので、彼らがある律法の内容をすり替え、自分たちに都合よく解釈して適用していることを、逆に指摘しました。その律法とは、父と母を敬えという教えです。当時、親にお金を渡すなどの扶養義務がある者であっても、「差し上げるはずのものは神へのささげ物になる」と言うなら、その義務は免除されると彼らは教えていましたが、そんな言い訳で義務を逃れようとするあなたがたは、父母を敬えという律法を結果的に破っているではないか、それは本末転倒なことなのだと、主は非難されたのです。そもそも、何が人を汚すのか…口に入るものではなく、口から出るものではないか…と主は群衆に言われ、さらに弟子たちに向かって、口に入るものは腹に入り、排泄されて外に出される…だから洗わない手で食べても、人を汚さないし律法を破ることにはならない…何よりも人を汚す悪いことばや罪に満ちた悪い行いはすべて、人の悪い心から出て来るのだと言われたのです。主イエスはイザヤのことばを引用しつ(8-9節)、パリサイ人たちの偽善を指摘しました。彼らは外面的なことばかりを考え、自分たちが考え出した言い伝えを伝統とし、それを守り通すこと、また人々をそれに従わせることを何よりも大切なこととし、それに従わない者を裁いていたのです。そしてそれは決して他人事ではなく、私たちの信仰生活においても、教会という共同体においても、起こり得る過ちなのです。そのことにあらためて注意し、律法の本当の意義、主の教えを正しく悟り、良い心から出るよいものをもって、主に従っていきたいと思います。

真理のうちを歩む者とされますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 14章22-36節◇(2月7日)

「イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」…マタイ14:29-30

奇跡をもって群衆を満腹させた主イエスは、弟子たちを舟でガリラヤ湖対岸のゲネサレの地に向わせ、ご自分は一人で山に登り、そこで祈られました。一方、舟を漕ぎ出した弟子たちは、強い向かい風に遭い、波が高くてなかなか前に進むことができず、苦労していました。そのようにして、弟子たちが一晩中舟を漕ぎ続け、夜が明けかかった頃、彼らに合流しようとした主イエスが、湖の上を歩いてその舟に近づかれると、その姿を見た弟子たちは、あり得ない光景に驚き、てっきりそれが幽霊だと思って恐ろしくなり、パニックに陥りました。すると主イエスは「わたしだ。畏れることはない」と話しかけ、それが主イエスだとわかった彼らは安堵しましたが、何を思ったかペテロは、「水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」(28節)と主に願い、「来なさい」と言われていったんは水の上を歩き出しました。ところが、強風を見て怖くなると彼は沈みかけてしまい、主に助けを求め、水の中から引き上げられたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)。主のそのことばは、叱責というよりも、疑うならそうなるのだよ…という教訓です。ペテロは「来なさい」と主から招かれたのであって、そのことばに従って行動したからこそ、水の上を歩くことができたのです。しかし、途中で風や波を見て怖くなり、沈むかもしれないと考えたとたん、そのとおりになってしまったのです。「水の上を歩くなんてあり得ない…」と、自らの経験や世の常識に思いが至ってしまったのでしょう。しかしペテロは、「来なさい」と言われたその主のことばに信頼し、主の姿だけにしっかりと目を留め、一歩一歩、主に近づいていくべきであったのです。私たちもまた、ペテロのような弱さを持っていますが、みことばに信頼し、主から決して目を離さずに(ヘブ12:2)、歩み続けて行きたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 14章13-21節◇(2月6日)

「そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。」…マタイ14:19

バプテスマのヨハネが殺されたことを聞き、一人退かれた主イエスは、ご自分を追って来た群衆をあわれみ、病人たちを癒しておられましたが、そのうちに日が暮れかかったため、人々の食事のことを心配した弟子たちは主に、解散して群衆を帰らせるべきだと進言しました。15節の彼らのそのことばには、このまま夜になったら困ったことになるという焦り、また、時間を気にせずに人々に関わり続けている主を責める思いが感じられます。すると主イエスは、そんな弟子たちをたしなめるように、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と言われました(16節)。そのように主から命じられた弟子たちは困惑し、ここには5つのパンと2匹の魚しかない、と途方に暮れて答えましたが、主はそれらを取り、天におられる父に感謝し、神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちに与えて分配させました。するとなんと、そこにいた人々はみな、受け取ったパンと魚を食べて満腹し、余ったパン切れが12のかごにいっぱいになったのです。群衆の中には、それが主イエスのみわざによるものだと気づかない者もいたことでしょう。しかし、弟子たちは知っていたのです。主がなされた奇跡を体験していたのです。彼らはあらためて、自分たちの主がメシアであり、そのような偉大な力を現わし、また、人々の必要を満たすお方であることを知って驚き、畏れ、その主に信頼せずに焦り、主を責めたことを恥じたに違いありません。私たちも、弟子たちと同じ思いになることがあります。しかし、主は、私たちの必要を満たすために、私たちが持てるわずかなものを、豊かに祝福してくださるのです。そのことを覚え、「これしかない」と失望するのではなく、「こんなにある」と感謝すべきなのです。天を見上げて神をほめたたえた主の姿が心に留まります。私たちも、そのような者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 14章1-12節◇(2月5日)

「王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。」…マタイ14:9-10

今日の箇所に登場するヘロデは、ヘロデ大王の息子の一人であるヘロデ・アンティパスであり、当時、ガリラヤとヨルダン川東側のペレアの地域を統治する領主として、ローマから任命されていました。彼は、自分の異母兄弟ピリポの妻であったへロディアを奪い、自分の妻としていましたが、バプテスマのヨハネからその結婚が不当であると非難されたため、彼を投獄していたのです。ヘロデはヨハネに殺意を抱きつつも、彼を正しい聖なる者と認め、その教えに耳を傾けていました(マル6:20)。しかし、同じくヨハネを憎んでいた妻ヘロディアは、ヘロデの誕生祝いの席で踊りを披露してヘロデを喜ばせた連れ子の娘に、その褒美としてヨハネの首をヘロデに求めるようにそそのかし、それを実現させたのです。ヨハネの首を…と娘から要求されたとき、ヘロデは心を痛めたとマタイは記しています。彼には良心があったのです。ヨハネを殺すことをためらったのです。しかし、願う物は何でもやると娘に言った自分の誓いに縛られ、列席の人の目が気になり、領主としてのプライドや地位を守りたいとの思いもあって、結局は、娘や妻の言いなりになってしまったのです。彼の良心は潰されたのです。いったい誰に従うのか、誰を喜ばせようとするのか…。そのことが私たちにも問われています。ヘロデのように人々の目や評判を気にし、自分のプライドや立場にこだわり、人に嫌われたくないと考えて行動するならば、私たちの歩みはズレてしまうのです。そうではなくて、何よりも神を畏れ、神のみこころを知り、それに従うことが私たちに求められているのです。バプテスマのヨハネは、そのようにして、人を恐れずに行動しました。私たちもまた、主に贖われた聖徒として、地の塩、世の光としての働きを求められている者として、良いこと、正しいこと、神に喜ばれることを追い求め、それを、ことばと行いをもって、人々に伝えていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章36-46節◇(2月3日)

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」…マタイ13:44

主イエスは弟子たちだけに「毒麦のたとえ」の意味を説き明されました。41節には、この世の終わりにおいて、「すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて…」とあります。主エスが話されたように(30節)、それまでは良い麦と毒麦が同居しているのです。そのことを知ると私たちは、ともすれば短絡的に、毒麦を今すぐにでも引き抜いて欲しい、そうすれば世はもっと平和で安心なものとなるのに、なぜ終わりの日までそれを引き延ばすのか…と考えてしまいます。しかしそれは、毒麦、すなわち悪い者の子らに対する、主のあわれみのゆえなのです。主はその者たちをも愛し、悪魔に捕らえられている彼らを奪い返すべく、良い麦、御国の子らを世に遣わし、種を蒔くように世のあらゆるところに分散させ、その者たちを通して働きかけているのです。神の御旨はすべての人が救われることです(1テモ2:4)。「…火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(42-43節)。主の愛とあわれみと忍耐にもかかわらず、心が頑ななままの毒麦と、良い麦の結末の明暗が語られています。火の燃える炉とは、ゲヘナと呼ばれる永遠に苦しむ所です。しかし御国の子らは、新天新地と呼ばれる所に迎え入れられ、主に照らされて輝くのです(ダニ12:3、黙22:5)。44-46節には、天の御国の別な本質が記されています。御国は、隠された宝、高価な真珠のようなものであり、見つけた者が持ち物をすべて売り払ってさえ買おうとする、価値のあるもの、所有すべきものなのです。そしてその宝は傷がついたり盗まれたりすることなく、この地上で所有することのできるものなのです。地上の富や宝ではなく、その神の国を追い求めて行きたいと思います。

蒔かれた地での働きが祝福されますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章24-35節◇(2月2日)

「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」…マタイ13:33

主イエスはさらに、別のたとえによって、天の御国について群衆に教えられました。今日の箇所では、「毒麦のたとえ」、「からし種のたとえ」、「パン種のたとえ」が記されており、そこに登場する共通のものは、その前の「種を蒔く人のたとえ」にも出てきた、「種」です。「毒麦のたとえ」(24-30節)とは、良い麦が蒔かれた畑に敵が来て毒麦を蒔いてしまったため、畑の主人のしもべたちがただちに毒麦を抜こうとしましたが、主人は、そのままにせよ、収穫の時に確実に分けて毒麦を焼き、麦は倉に収めるようにせよと命じた…という内容です。その説き明しは36節以降にありますが、収穫とは終わりの日のさばきであり、神は悪(=毒麦)の存在を許しているのではなく、今はあえてそのままにしておられるのです。また、「からし種のたとえ」(31-32節)と「パン種のたとえ」(33節)は、どちらも、種がどんなに小さなものであっても、それがぐんぐんと成長して大きな存在となり、周りに大きな影響を及ぼすようになるという内容であり、それは天の御国の拡がりを意味しています。からし種やパン種は、吹けば飛んでしまうようなとても小さなものですが、その中には神が与えられた豊かないのちが宿っており、そのいのちがもたらす力は絶大なのです。その(良い)種とは御国の福音、キリストのことばです。また、それを信じて御国のこどもとされた聖徒たちです。日本のキリスト者の数は全体の1%に過ぎない…と言われますが、それを嘆く必要などないのです。なぜなら、そのような小さな存在、からし種、パン種のような者であっても、鳥が巣を作るほどの大木になり、3サトン(約40リットル)ものパン粉全体をふくらませるようになると主は言われているからです。それが神の国の本質であるからです。そのことを覚え、私たちに託されている種蒔きの働きを、忠実に行い続けていきたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: マタイの福音書 13章10-23節◇(2月1日)

「こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。』」…マタイ13:14

主イエスが群衆に語られた「種蒔きのたとえ」を聞いた主の弟子たちが、なぜたとえで話すのですか…とイエスに尋ねると、主は次のように答えられました。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません」(11節)。「許す」と訳されている語の元々の意味は「与える」です。天の御国の奥義を悟るために必要なのは、人の知恵でなく、神がくださる御霊の啓示であることが示唆されています。主イエスは弟子たちに、たとえの意味を説き明されました(19-23節)。種が道端に蒔かれるとは、御国のことばを悟らないため、心に蒔かれたものを悪い者に奪われる人…。種が岩地に蒔かれるとは、根が張らないため、困難や迫害により成長が止まってしまう人…。種が茨の中に蒔かれるとは、思い煩いや誘惑により成長が抑えられてしまう人…。そして、種が良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて悟る人を表すのだ…と。主イエスが弟子たちに強調されたのは、実を結ぶという「結果」だけではありません。むしろ、そこに至るために必要なこととして、「みことばを聞いて悟る」ことの重要性を説いたのです。群衆は主イエスのことばを興味深く聞いてはいましたが、それを自分のこととして受けとめようとはしなかったのです。主は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言って宣教を開始しましたが(4:17)、人々は主イエスの教えを聞いても、悔い改めて神に立ち返ろうとはしていなかったのです。「みことばを悟る」とは、みことばを理解するだけでなく、それが確かに自分に当てはまると御霊に示され、それを認めることです。そのような「砕かれた、悔いた心」(詩51:17,3版)こそが「良い地」であり、そのような心を持つ者こそが実を結ぶのです。そのような者となっているか…と、自らのあり方、心を再確認したいと思います。

主の御声を聴くことができますように。