◇聖書箇所: ルカの福音書 4章31-44節◇(1月16日) 「人々はみな驚いて、互いに言った。「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」」…ルカ4:36 主イエスは、ナザレからガリラヤ湖畔の町カペナウムに移り、そこでも安息日ごとに人々を教えられました。また、悪霊につかれた人の解放、高熱で苦しんでいたシモンの姑や、様々な病で弱っている多くの人々の癒やしなど、一人ひとりと関わり、力あるわざをなされたのです。その際、主イエスは、悪霊や熱を叱りつけられました(35,39節)。叱るとは、他者に対して、強い口調でその人の誤ったあり方をとがめ、それを正そうとすることです。主イエスは、悪霊に支配され、高熱で苦しみ、病で弱っている人々を目の当たりにし、それが本来のあるべき姿、つまり神の御旨である健康な状態ではないことを覚え、それを許さないという思いで、叱責されたのです。ルカは、神のことばを教えるイエスのことばには権威があったと伝えています(32節)。また、イエスが悪霊に対して「この人から出て行け」と命じ、ただちにそのようになったとき、人々は驚き、そのイエスのことばが権威と力に満ちているのを認めた、と記しています(36節)。それは、主イエス自身が父から与えられた権威を持っておられたということにほかなりません。だからこそ、叱られ、命じられた悪霊や熱は、主イエスに従ったのです。神殿にいた足の不自由な人に対し、ペテロとヨハネは、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じて立たせましたが(使3:6)、宗教指導者たちから、何の権威によってそのことをしたのか、と詰問されると、「イエス・キリストの名によることです」と答えました(同4:10)。主イエスの権威、それは、イエスに贖われた聖徒たちにも確かに授けられているのです。そして、権威に満ちたイエスの御名によって私たちが祈り、癒やしと解放を宣言するならば、主イエスご自身がなされるそのみわざが、今も現されるのです。そしてそれは、まさしく神の国の祝福なのです。王なるイエスが今も、すべてを統べ治めておられることを覚えたいと思います。 主のみわざがますますなされますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 4章14-30節◇(1月15日) 「そしてこう言われた。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」」…ルカ4:24 主イエスは、荒野での悪魔の誘惑を受けられた後、ご自分の郷里であるナザレの町に帰られました。そして安息日に会堂に入り、手渡されたイザヤ書の巻物を開き、61章1節からの箇所に目を留めてそこを朗読されました。そのみことばは、メシアが神から油注がれ、御霊に満たされ、捕われている者や虐げられている者に対して解放をもたらすことを告げる、という預言ですが、主イエスは、その預言が今日実現したと語り、まさにご自分がそのメシアであるということを会衆に宣言されたのです。それを聞いた人々は驚きましたが、幼い頃から良く知っているヨセフの息子のイエスが、そのような者であるはずがない…と人間的な思いに捕われ、イエスをメシアとして素直に認めて受け入れようとはしませんでした。すると主イエスは、預言者はだれでも自分の郷里では歓迎されないと告げ、エリヤとエリシャが異邦人の救いといやしに関わったことをその実例として挙げると、人々はそれが自分たちへの当てつけだと感じて憤り、イエスを町の外に追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。福音書記者の中でルカだけが、主イエスがエリヤとエリシャのことを持ち出したことに言及しています。それは彼が、主イエスが異邦人をも含めた全人類の救い主であることを示し、また、ナザレの人々のつまずきはユダヤ人全体のものであり、彼らがイエスを十字架につけて殺すことになる、その予型であることを示しているのです。「人」を見てしまい、先入観に捕われて偏見を持ってしまう…。みことばが語ることをそのまま受け入れようとしない…。そのような不信仰やかたくなさは、私たちのうちにもあります。しかし私たちは、どんなときにも主の前にへりくだり、かたくなな心、肉の目、耳ではなく、御霊によって与えられる柔らかい心、霊の目、耳によって、起こっている事を判断し、与えられているものを受け入れるべきなのです。そのことを覚えたいと思います。 主の御声をはっきり聴くことができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 4章1-13節◇(1月14日) 「そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」」…ルカ4:3 今日の箇所には、荒野において主イエスが、さまざまな悪魔の試みを受けられたことが書かれています。それは40日間におよびましたが、その間イエスが何も食べず、その期間が過ぎて空腹を覚えると、それにつけ込むように、悪魔は取って置きの3つの誘惑を出してきたのです。その試みの際、悪魔は「あなたが神の子なら」と言いました。弱さと限界を持つ人間としてのあり方をやめて、神としての力を発揮したらいいじゃないかと、悪魔はイエスをそそのかしたのです。悪魔はそのことばをのちに、十字架上の主をののしる群衆の口を通しても発しました。「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と(マタ27:40)。しかし主は、どのような状況でも、その誘惑をきっぱりと退けたのです。「もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる」(7節)。悪魔はそのようにも言いました。悪魔の願いは自分が神となることです。人々から拝まれる存在になりたいのです。また悪魔は詩篇のみことばを持ち出して、そのようになるか試してみよと主をそそのかしました(10-11節)。狡猾な悪魔はかつてエバにも、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と、神のことばをねじ曲げて彼女を誘惑しました(創3:1)。しかし主は、その誘惑に対してもみことばをもって反撃し、それを退けられたのです。悪魔は私たちの弱さにつけ込んで来ます。私たちの思いを神以外のものに向けさせ、私たちを神から引き離そうとします。また悪魔はみことばさえも使い、それがあたかも神から出ているかのように惑わします。それが悪魔のやり方なのです。その悪魔を見くびると痛い目にあいます。だからこそ私たちは、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」と命じられているのです(エペ6:11)。その命令を守り、悪魔の試みを退ける者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 3章21-38節◇(1月13日) 「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。」…ルカ3:38 イエス・キリストの系図は、マタイとルカによりそれぞれの福音書に記されていますが、ルカはマタイとは逆の順序でそれを書いています。つまり、主イエスの父親であるヨセフからさかのぼっているのです。また、マタイは系図の始まりをアブラハムからとしていますが、ルカはアブラハムからさらに最初の人アダムにまでさかのぼり、最後には「そして神に至る」と記しているのです。マタイはユダヤ人の読者を強く意識して福音書を書きましたが、使徒の働きの著者でもあり、パウロと行動を共にしたルカは、キリストが、イスラエル民族だけでなく、全人類の救い主として来られたということを強調したかったに違いありません。パウロは、「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです」と言い(1コリ15:22)、さらに「最後のアダムはいのちを与える御霊となりました」と告げていますが(同15:45)、ルカは、イエスが最後のアダムとして、人類を死からいのちへと移す救い主であることを、この系図によって示唆しているのです。「…アダム、そして神に至る」。私たちはアダムのことを、「人類に罪をもたらした存在」だととらえることが多いかもしれません。しかし、アダムは神のかたちとして造られた最初の人であり、神に愛され喜ばれていた存在であるということを忘れるべきではないのです。22節には、主イエスがヨハネからバプテスマを受けられたあと、聖霊がイエスの上に降られ、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という、父の声が天から聞こえたことが記されています。イエス・キリストは、「第一の人」アダムにつながるすべての人の罪を贖なわれた、「第二の人」なのです(1コリ15:47)。そしてその父なる神の声は、キリストに贖われ、神の子どもとされた私たちに対する声、宣言でもあるのです。キリストにあって、神に愛され、喜ばれている者であることを、深く覚えたいと思います。 主の愛の中に留まる者とされますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 2章39-52節◇(1月11日) 「…「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」」…ルカ2:49 「幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった」(40節)。「聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」(47節)。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」(52節)。そのようにルカは、幼子であったイエスが肉体的、精神的、霊的に成長し、知恵に満ちた者となっていったことを繰り返し述べています。イエスが持っていたその知恵…それは、物事の本質を見抜き、神のことばを理解し、真理を明らかにする賜物を意味していますが、それはどのようにして与えられたのでしょうか…。もとよりイエスは神の子であって、そのような特別な能力を最初から持ち合わせていたのだと考えることもできるでしょう。しかしルカは、「神の恵みがその上にあった」、「幼子は成長し」、「神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり」と述べ、イエスが神と人々との関わりの中で知恵が与えられたこと、すなわち、神の子かつ人の子であるイエスを描いているのです。イエスの知恵…それは、両親の元で愛情を受けて育てられつつも、神を「アバ、父」と呼び、その天の父の愛を受け、神との親密な交わりを深く持つ中で与えられたものに違いありません。そしてそれは、両親がイエスを宮で見つけ、勝手に別行動をとって自分たちを心配させたことをとがめたとき、「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」とイエスが言った、そのことばが示唆しているのです。神は、すべての聖徒たちもまた、霊的に成長し、知恵に満ち、神の国の福音、みことばの真理を人々に分かち合う者となるようにと願っておられます。そのために、私たちもますます主との交わりを深め、「神を知るための知恵と啓示の御霊」(エペ1:17)に満たされ、イエスのように、神と人から愛され、神と人とに仕え、ますますその存在が喜ばれ、用いられる者とされたいと願います。 主の恵みと祝福が豊かに注がれますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 2章22-38節◇(1月10日) 「「…あなたが万民の前に備えられた救いを。 異邦人を照らす啓示の光、 御民イスラエルの栄光を。」」…ルカ2:31-32 エルサレムにシメオンという人がいました。彼は正しい、敬虔な人で、聖霊が彼の上におられました。そのシメオンが御霊に導かれて宮に入ると、ヨセフとマリアも、律法に従って幼子イエスを主に献げるために、ちょうどそこに入って来たのです。すると彼は、その幼子が会うことを待ち望み続けていたメシアであると示され、両親に頼んで幼子を抱かせてもらい、神をほめたたえたのです。29-32節はそのシメオンの神への賛歌です。「私の目があなたの御救いを見た…万民の前に備えられた救い…異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光…」と彼は語りましたが、万民とは、世界中のあらゆる国に住むすべての民のことです。すると両親はそのことばを聞いて驚きました。なぜなら、そのように、自分たちの幼子が、異邦人をも含む全人類のための、神が備えられた救い主だと示唆することを、シメオンが告白したからです。そのシメオンの賛歌は、当時のユダヤ人にとって、決して受け入れられるものではありませんでした。なぜなら、彼らは異邦人を汚れた存在だとしており、一緒に食事をすることはせず、神殿も途中までしか入ることを許しておらず、その異邦人を自分たちと同じように神があわれみ、救いをもたらされるなどということは、彼らにとって、到底あり得ないことだったからです。そもそも彼らが待ち望んでいたメシアとは、ローマから自分たちの国を解放してくれる強い政治的なリーダーであったのです。しかし、キリストはそのような存在としてではなく、神に敵対する悪しき勢力に勝利し、主権をもって世界を統べ治める、御国の王として来られました。キリストがもたらされた救いは、シメオンが語ったとおり、万民のためのものであって、異邦人である私たちもまた、キリストにあって、罪の中から贖い出されたのです。そのことを覚えて主をほめたたえ、感謝と賛美を献げたいと思います。 主の救いと祝福が全地におよびますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 2章1-21節(1月9日) 「「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。」」…ルカ2:14 「平和」…御使いと天の軍勢が神を賛美して歌った平和とはどのような平和なのでしょうか…。当時、ローマ帝国の統治による平和が実現していましたが、そのような政治的な意味での平和を意味しているのでしょうか…。国と国との戦い…、国の中での内紛…人々の間に起こる日常的ないざこざ…。もちろん神は、それらの中に介入して平和をもたらすことを願っておられ、実際にそのようにしてくださるお方です。しかし、主イエスのご降誕のときに天に響いた歌の「平和」とは、何よりも、神と人との間の平和にほかならないのです。ご自身に似せて造られた人との親密な関係が、アダムの罪によって壊されてしまったことに、神はずっと心を痛めておられました。そしてそれを自ら修復すべく、神は、ご自身の大切な御子を、仲保者、平和の君、救い主としてこの地に遣わし、そのキリストの十字架と復活によって贖いを成し遂げ、和解を実現させてくださったのです。「地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように」。「みこころにかなう人々」とは、そのキリストを自分の救い主として信じ、受け入れる人々のことです。その聖徒たちのうちには、神との本来の親密な関係が回復することによって、さまざまな試練や困難の中にあっても揺るがされることのない、平安と喜びがもたらされるのです。そしてそれは、自分が神に愛され、神がともにおられ、神がすべてを最善に導いてくださるという、みことばによる確信から生まれてくるものなのです。主はその聖徒たち一人ひとりを、争いが絶えないこの世界にあって、キリストの救い、和解のことばを人々に宣べ伝える者(2コリ5:19)、神の国の祝福としての平和を受け継ぐ者として、尊く用いてくださいます。私たちがそのような和解の務めを委ねられ、平和の使者とされていることを覚えたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 1章67-80節◇(1月8日) 「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」…ルカ1:78-79 口がきけるようになり、神を賛美し、主がなされたことを証しした祭司ザカリヤは、今度は聖霊に満たされて、神からのメッセージを人々に預言として語りました。そのことばは68-79節に記されていますが、そこには、イスラエルの神が、ご自身の民を顧み、アブラハムとの契約を忘れず、救いの角であるメシアをダビデの子孫から立ててくださるということが、明らかにされています。「われらを敵の手から救い出し…」(74節)。その敵とは当時、イスラエルを支配していたローマ帝国、つまり、政治的な意味での特定の国のことではなく、人々を恐れさせ、神に信頼することをやめさせようとする、目に見えない敵、神に反抗する悪しき勢力、悪魔のことです。そして、その敵の手から神の元に取り戻された者たちは、「恐れなく、敬虔に、正しく」(74,75節)、神に仕えるようになるのです。それは「すべての日々」においてであって、聖徒たちはどのような困難な状況に置かれても、主を畏れ、信頼し、主の御旨にかなった歩みをし、主から祝福を豊かに受けるようになるのです。76節以降には、産まれた子ヨハネが先駆者としてメシアの道備えをし、そのメシアが光として暗闇と死の陰に住む人々を照らし、平和の道に導くことが語られています。それはイザヤが「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」と預言した光であり(イザ9:2)、使徒ヨハネが「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と語った(ヨハ1:5)光にほかなりません。そしてそれは、イスラエルを通して世のすべての人を照らすまことの光であって(ヨハ1:9)、異邦人である私たちもまた、主のあわれみを受け、闇の中から光の中へと召し出され、神の民として加えられているのです(1ペテ2:9)。その救いを備えてくださった神をあがめ、賛美をささげたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 1章57-66節◇(1月7日) 「すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」…ルカ1:64 祭司ザカリヤの妻エリサベツは、男の子を産みました。八日目に、慣習に従って、その幼子に割礼を施すためにやって来た人々は、当時、父親の名前を子どもにつけることは一般的であったので、その子に父親と同じザカリヤという名をつけようとしました。しかし、エリサベツはそれを拒み、「名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。それは、夫のザカリヤから、御使いが現われ、エリサベツは男の子を産む、その名をヨハネとせよと命じたということを、すでに聞いていたからです。そのザカリヤは、御使いが語ったことばを信じなかったため、口がきけなくなっていました。しかし自分の身に起こったこと、御使いから告げられたことをすべて、妻であるエリサベツに筆談によって伝え、二人で日々主に祈り、その子の誕生のときを待ち望んでいたのです。そうとは知らない人々は、子どもの名前をどうするつもりかとザカリヤにも尋ねましたが、彼が板に「ヨハネ」と書くと、夫婦から聞いたその名が一致したことに驚きました。そしてその瞬間、ザカリヤは再び話せるようになり、彼の口からは、真っ先に、神をほめたたえることばがあふれたのです。さらに彼は、自分と妻に主がなしてくださったことの一部始終を人々にあかししました。するとそれを聞いた人々はみな神を畏れ、そのあかしはユダヤの地全体へと拡がっていったのです(65節)。ザカリヤは、口がきけない間、不自由さを経験し、人からは好奇な目で見られ、何よりもそれが、自分の不信仰ゆえの神の取り扱いであったことを、忸怩たる思いで受け止めていたに違いありません。そして神に立ち返り、エリサベツとともに主を畏れ、祈り待ち望む中で、真実な神が約束されたとおり、年老いた自分たちに男の子が与えられるという奇跡を体験したのです。私たちもまた、真実な神の御手の中に生かされていることを覚え、どのようなときにも、神をほめたたえたいと思います。 主への賛美が絶えずありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 1章39-56節◇(1月6日) 「主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」…ルカ1:54-55 「あなたは身ごもって、男の子を産みます…その子は…いと高き方の子と呼ばれ…神である主は…ダビデの王位をお与えになります…彼は…ヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」(1:31-33)。処女マリアは、そのように御使いから告げられると、なぜそんなことが自分に…と初めは戸惑いましたが、「神にとって不可能なことは何もありません」と言われた彼女は、「私は主のはしためです…どうぞあなたのおことばどおり、この身になりますように」と御使いに答えました(38節)。その後マリアは、後に主イエスがバプテスマを受けたヨハネを胎に宿す親類エリサベツの家を訪問し、彼女から「あなたは女の中で最も祝福された方…私の主の母が私のところに来られるとは…」と言われると、彼女は、御使いから告げられたことをさらに強く確信したのです。46-55節は「マリアの賛歌」と呼ばれる、彼女の主への祈り、賛美のことばです。そこでもマリアは、卑しいはしためである自分に目を留められた主をたたえ、力ある方が大きなことをしてくださったと主をあがめています。そして彼女は、自分から産まれてくる「いと高き方の子」が、どのようなみわざをなすのかを聖霊によって示され、そのことを祝福の先取りのことばとして歌ったのです。それは、権力をふるう者が引き降ろされ、低い者が高く引き上げられ、富む者が追い返され、飢えた者が良いもので満ち足りる…という「逆転」が起こるとの預言であって、イエス・キリストは、そのことを実現するため、主を畏れる者がその祝福にあずかるようにするために、この地に来られたのです。そしてそれは、何よりも神の民イスラエルの上になされることであり、異邦人も彼らを通してその恵みを受けているのです。その神の救いの中に入れられていることを感謝したいと思います。 真実な主をますますあがめる者とされますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 1章1-25節◇(1月4日) 「御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。…」」…ルカ1:13 祭司であったザカリヤは、神殿で香をたく奉仕にあたっていましたが、そのとき突然、主の使いであるガブリエルが彼の前に現れました。ザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われましたが、その御使いは、恐れなくてよい、不妊の女性であるあなたの妻エリサベツは男の子を産む、その子をヨハネと名付けよと、ザカリヤに命じたのです。ガブリエルはさらに言いました。その子は主の前に大いなる者となり、イスラエルの子らを主に立ち返らせ、主のために整えられた民を備える働きをする…と。ところがザカリヤは、妻が子を産むことが信じられず、そのしるしを求めたのです。すると御使いは、私のことばを信じないあなたは、子が産まれるまで口がきけなくなるとザカリヤに告げ、ただちにそのとおりになりました。「ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」。その御使いのことばは、ザカリヤとエリサベツが、自分たちに子が与えられるようずっと願っていたということを意味しています。エリサベツは身ごもったとき、「主は…私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言いましたが、二人は、自分たちに子が与えられないことで、心に痛みを覚えていたのです。それなのになぜ御使いから妻の懐妊を告げられても、ザカリヤはそれを信じられなかったのでしょうか…。あまりにも長い間願いが聞かれず、自分たちが高齢となったため、子がいないことがみこころなのだ…と、自らに言い聞かせていたのかもしれません。しかし神は、彼らの願いを忘れてはおらず、ご自身の時にそれをかなえられたのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。人の考えを越えた神のご計画と導きがある、ということをあらためて覚え、主にすべてを委ねつつ、願い続け、祈り続け、主の答えを待ち望み続ける者でありたいと思います。 どんなときにも主に信頼することができますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇 70篇◇(1月3日) 「あなたを慕い求める人たちがみな あなたにあって楽しみ 喜びますように。 あなたの救いを愛する人たちが 「神は大いなる方」と いつも言いますように。」…詩篇70:4 「神よ 私を救い出してください。主よ 急いで私を助けに来てください」(1節)。詩人はそのように、自らの救いを主に願い求めています。5節にも「急いでください」、「遅れないでください」とありますが、彼の「いのちを求める者たち」(2節)は間近に迫っており、詩人にとって、主の助けは緊急を要するものだったのです。詩人のその敵は、彼が神を信じ、求めていることを知っていました。そして、神が彼をあたかも見捨てたかのように、救いの手を伸ばそうとしないのを見て、「あはは」と言って詩人をあざ笑い、神の存在自体をも否定するような、不遜な者たちであったのです。詩人はそのような彼らが神によって辱められ、退けられ、卑しめられるよう願っていましたが、状況は変わりませんでした。しかし詩人は知っていました。神は真実なお方であられ、主を待ち望む者、慕い求める者たちに対して、必ずみわざを現してくださるということを。だからこそ、目の前の現実は厳しいものであっても、信仰と忍耐をもって、主にあって楽しみと喜びを受け取ることができる、主の大いなる御力が現され、御名があがめられるようになると疑わず、そのようにしてくださいと祈ったのです。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ11:1)。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(同10:36)。忍耐とはただじっとがまんするということではありません。神が真実な方、大いなる方であることをみことばに立って確信し続け、主がご自身の時と方法をもって御力とみわざを現してくださるよう待ち望み続ける、そのような積極的なあり方なのです。私たちもしばしば苦難の中に置かれますが、ますます主に信頼して歩み続けたいと思います。 信仰がさらに強められますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇 69篇◇(1月2日) 「しかし私は 主よ あなたに祈ります。神よ みこころの時に あなたの豊かな恵みにより 御救いのまことをもって 私に答えてください。」…詩篇69:13 「神よ 私をお救いください。水が喉にまで入って来ました…」と、詩人はのっけから神に訴えています(1節)。4節では、敵が自分を滅ぼそうとしていると言っていることから、このままではいのちが奪われる…と、切羽詰まった状況をそのように描写しているかもしれません。あるいは、自分の罪過が神に知られているとする詩人は(5節)、自分が神から見放され、ずぶずぶと泥沼の底へと沈んでいくように感じていたのかもしれません。そのような中、いてもたってもいられなくなった詩人は、粗布をまとって泣き悲しみ、断食をしつつ主に悔い改め、主の赦しと助けを待ち望みました。しかし彼は、人々から嘲られ、そのことがうわさ話、酔いどれの歌の材料とされ、ますます惨めな状況に置かれたのです(10-12節)。「しかし私は 主よ あなたに祈ります」。そのきっぱりとした詩人のことばに心が留まります。たとえ人からどう思われようとも、だれも自分の味方になってくれなくても、こんな自分を神はかえりみてくれるのか…と疑いが心に湧いてきても、主よ、私はあなたに祈り求めます…と、恵みとあわれみに満ちた主が、祈りに答え、泥沼から、敵の手から救い出してくださる…と信じ、祈りの祭壇の前にとどまり続ける決断をしたのです(14節)。「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ」(32節)。そのように、心の貧しい者、誇れるものは何もないと、自らの乏しさ、罪深さを認める者は、へりくだり、神に拠り頼み、主に祈り求めるのです。そして主は、そのような者の祈り、叫びを確かに聞かれ、捕らわれの中から救い出し、解放し、ご自分の大切な民として守り支えてくださるのです。そのことを覚え、私たちも詩人のように、どんな状況でも主を待ち望み、祈りの声を上げたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |